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  7月31日(火)
一昨日から昨日にかけて選挙速報を見ていましたら、その中での中で有権者から寄せられたメールやファックスがテロップで流されていました。その中で気になったのは次の二つです。
「先の衆議院選挙で自民を圧勝させたのは間違いだった」
「民主党が選挙中の約束を実行してくれると信じたい」
確かにこれはこの選挙での有権者の最大公約数的な気持ちだろうし、それに偽りがあるとは決して思いません。けれども、それは誰のどのような「間違い」だったのか、何故間違ったのか問われなければならないし、民主党の政策を信じる根拠を示さなければならないでしょう。
有権者の選択が社民や共産ではなく民主に行くのかは、当選可能で、かつ少しでもましだと思われる政党を選択しているということですから、その点ではある意味常識的な選択ではあります。「都会沙漠」と言われれて久しく、さらに最近では「職場沙漠」まで砂漠化が進んできた今日(もうすぐ「農村沙漠」になる!)、都会ではほとんど隣近所の連帯などは失われ、自分の生活を守るために必至で働くことが常態化している。そうなれば、年金にしろ、税金にしろ、子育てにしろ、即効的で実現可能な方向に引きずられるのはあまりにも当然のことでしょうから。
かつては、地域に密着して一人一人の住民の顔を見ながら世話をやく共産党の議員や活動家が多数いた。その世代が高齢化し、地域が破壊されて行くにつれてそうした機能もしだいに薄れ、一人ひとりは自分で自分の生活を守らなければならなくなっていった。あと10年、20年もすれば「戦後世代」はこの世から去り、完全な世代交代の時代に入ります。
私の予想では、その間は現在のような「2大政党」の時代が続くのではないんでしょうかね。なぜなら生活の状況はますますひどくなるだろうし、選挙制度自体も「2大政党」=「2大保守党」を期待して作られてしまったからです。それを変えるのは容易なことではありません。新しい世代がそれをよしとせず、根本的な変革を求めて行動に移さない限り「革新的な政治」は遠い夢物語というわけです。
それでも、アメリカやイギリスのような2大政党制とはきわめて異なっている点が一つある。それは議席では少なく国政レベルでの影響力はさほどではないけれど、きわめて強力な左派勢力としての共産党が厳然として存在しているという事実です。どんなに2大政党の風が吹き荒れようが、地域に根を張った組織があって(かなり高齢化して疲れているとは言っても)まだまだ健在なこの党に、私は日本の未来を信じさせる力を見ています。それがなぜなのかは、これからおいおい書いていくつもりですが、アメリカのメディアが注目しているいくつかの点が現在の一つの回答といえるかもしれません。

Communism Is Alive and Well and Living in Japan - TIME



  7月30日(月)
自民惨敗、民主圧勝という結果になった今回の参議院選挙。これほどの開きがでるとは自民党も思っていなかったのではないでしょうか。民主もしかりです。前回の衆議院選挙ではKOIZUMI CHILDRENという言葉が生まれるほどキャピキャピした連中が国会に押し寄せた。今回はOZAWA CHILDRENなんでしょうか。
昨夜は大勢が判明するまであちこちのテレビ局をつけたり消したりしていましたが、そこで思ったことは、衆議院では自民圧勝、参議院は民主圧勝というこのブレの大きさは何によるのかということです。自民・公明の受け皿は社民でも共産でもない。格差や貧困、年金問題などの不満・怒りが「当選できそうな」民主への期待として収束するというこの国における政治の力学は、大きな顔をして得意げに評論の采配をふるっていた田原総一郎のいう「2大政党制」として定着したということなんでしょうか。少なくともマスメディアの「期待」=実は財界奥の院の期待はまさにそこにあった。自民の受け皿を民主にするというのは、現象的にはいかに民意であるように見えても、実はアメリカ支配層や日本の大企業を支配する財界の深謀遠慮によるものだということを忘れるわけにはいかないでしょう。
そうはいいながらも、たとえば長野選挙区で当選者民主党候補者が憲法九条を守るといわざるを得なかった今回の参議院選挙では、いかに年金や格差問題、憲法問題、自民閣僚の浮薄な言動と金権体質に強い怒りを持つに至ったかということは紛れもない事実です。問題は、民主によってこうした問題が解決するのかということ。それは早晩明らかになることでしょう。
一方の共産党、社民党はどうか。全国的には大都市部での退潮が著しく、かつては共産党が近畿地区で第一党を誇示していた面影はもはやない。東京でも似たような状況だから、そこには単に民主に流れたという「政治の風」の問題に出来ない有権者深部の政治的な傾向を見て取ることができます。
しかし一方、長野では共産党が前回参院選の12万票をはるかに上回り98年の得票数にほぼ並ぶ20万票弱を得たことは、自民の「受け皿になりえなかった」(信濃毎日)というメディアの論評に反して、有権者の怒りの強さがしっかりと反映されているということを示していると思えます。共産・社民をぶっとばして民主に流れるという全国的な傾向に反して、ここではそれなりに共産党への信頼が示されている事実から何をくみ取るのか。共産党・社民党はそれこそ党の命運をかけて今回の選挙結果を真剣に総括しおないといけないと私は思います。


  7月29日(日)
ブルーベリーがようやく少しまとまって摘み取ることができるようになりました。庭の畑では、鈴なりの真っ赤なミニトマト、インゲン、オクラ、キュウリを収穫・・・こうして、いつものように一日が始まる。
ネコのハルちゃんが朝5時頃私を起こして朝食をねだり、この日に限ってどうやら私と遊びたいらしく、低い姿勢で私を挑発しています。ひとしきり、ネコと遊んだ(追いかけっこをするだけ)あとは、上の畑でトウモロコシがタヌキやカラスにやられていないか見回りです。無事でした。どうやらあと1〜2週間で収穫できそう。もし、このまま無事なら大漁(?)です。どうにも、タヌキよけのネットが必要になっているらしい。
ついでに、カボチャのカブの周りの除草。草に埋もれて10個ほどのカボチャがかなり大きくなってゴロゴロしていました。予想よりは少ないものの、おいしいスープが作れそう。

朝10時頃に母のところに行き、「さあ、起きましょうか」と声をかけ、手足の運動、前後屈の運動などをして、着替え・朝食というサイクルが続いた日常が、別のサイクルに変わる違和感は大きなものがありましたけれど、めちゃくちゃ忙しい一週間が過ぎ、葬儀の後の祭壇に飾られた母の遺影やお供え物、花束などを見ることが常になってくると、ふと母の亡くなったことが何だか遠い日のようにも思えます。人間は前を向いてしか生きられないらしく、日に日に過ぎた出来事が鮮明さを失っていくのはある意味で自然なこととはいえ、悲しいことです。いつまでも忘れないでいたいのに、身体がそうさせないのでしょうか。

介護とはどんなものか、経験したものでなければわからないと妻は述懐していました。戦争であれ、災害であれ、実体験こそ原点です。だから、体験していない人に事実を事実として情報を発信することが必要にもなる。
私の場合は、母が惚けていく過程に寄り添っていましたし膨大な毎日の介護記録(ヘルパーさんと私が記録していたもの)があるので、その当時のことを追体験することができます。
確かに、惚けていく過程は家族にとっては地獄です。家族にとって一番の問題は、いままであんなに元気でちゃんと自分のことができていたのに、どうしてこんなことができないのか、どうしてしまったのかという戸惑い、苛立ち、不安・・・が前面に出てきます。何とか元に戻って欲しい、まともに会話して欲しい、その気持ちから逃れるのは至難の業と言えるでしょう。何とか面倒をみても、次第にそれが通じなくなる苦しさの中で、いっそう異常な行動が目立ち始めると、こちらまで頭がおかしくなってしまい、時には行動も粗暴になってしまいます。
私の場合は、母が小柄で、穏和な性格であったことや足腰が弱かったために一人で遠くに行くことが出来なかったことが幸いしたし、介護の最初から親身になってくれるケアマネージャーSさんや陽気なヘルパーさん達によって助けられていたために、負担はそれほどではなかったのでした。
それでも仕事をしながら一人で母の世話をするとなると、初めて経験するたくさんの問題が立ちはだかってきました。
当時の日誌からヘルパーさんと私の記録を取りだしてみます。2001年のことです。

6月20日(水)
<私>この頃妄想がひどいようで、朝教育委員会に辞令をもらいにいくといって、自分で靴を履いて外へ出て少し伝い歩きをしていました。それほどは歩いてはいませんが、ちょっと目が離せません。
部屋に入って着替え、食事をしてから落ち着いたようです。
<ヘルパーさん>訪問すると園さんが通路に出て外を向いて立っていたのでびっくりしてしまいました。園さんは「富山の支所に書類をもらいに行かなくてはならない!」と思ったそうです。
いつからここにいたんですか?とうかがうと、前のヘルパーさんが帰ってからずっと(約1時間)ここにいたそうです。手にはハンガーにかかった布巾とタオルを持っていました。通路に立っている間、下を通る車や人に声をかけたが誰も答えてくれなかったそうです。
室内に入るとき、足の動きがだいぶ重そうでしたので、長い間通路にいたように思います。
食事中も何度も「出かけなくちゃいけない」とおっしゃるので、気分を変えてもらおうと一緒に歌をうたいましたが、すぐに疲れたとおっしゃっていました。

6月21日(木)
<私>昨夜から今朝にかけて幻覚・妄想がひどくほとんど寝ていないで興奮状態でした。
まず、昨夜10時半頃私が家に帰ると、「相談がある」といい、「最近ヘルパーさんが自分に対してあきあきしているんじゃないか。食事のときもジッと食べるのを見ていて、いちいちああしろこうしろと言われて息が詰まりそうになる」とグチをこぼしました。
午後1時頃、仕事をしていた私のところに来て「大変なことになった。すぐに何かしなければならない」と言い、何かを訴え始めました。要するに「この近くに学校にも行けない落ちこぼれの子どもたちが10人ほどいて、落ちこぼれの先生(?)も何人かいて集まることになっている。教育委員会か市長に話をしに行かなければならない」という意味のことです。
話はそれなりにスジが通っているので、全く事情の知らない人が聞くとそう思うかもしれません。
適当にいなしていましたが、なかなか納得せず、結局夜中に私の妹に電話をするハメになってしまいました。
何とか「朝になったら考えよう」と寝かせたのですが、今度は朝4時半頃玄関先に靴を履いて「5時にみんな集まることになっている」と、パジャマのまま外にでようとするので、「そんな格好じゃみっともないから着替えなさいよ」と言い、一番良い服を着せて外に出しました。
まだ薄暗いので外の木々の揺らぎがいろんなものに見えるらしく、「A(次男)があの木にぶらさがっている。助けを求めている。ほら、あそこに途中まで降りてきた」などとわめいていました。「弟がそんなところにいるはずがないよ」と言ってもどうしても聞かないので、仕方なく弟に電話をして話をさせましたが、ほとんど分かっていない様子でした。
部屋に入れて熱い茶を飲ませたりしているうちに少し落ち着いたので、寝るのかと思っていたら、今度は「外で集まることになっているのでエレベーターに乗せてくれ」という。もうこうなったら”やりたいようにやらせてみよう”で、エレベーターに乗せて様子をみました。
杖をついてそろそろと自分で外に出て、前のゴミ収集箱の近くまでいき、約30分ほどそこに立って誰か来ないかジッと待っていました。
外を通る人に手を振ってここだよという仕草をしたり、ここに来る人を知らないかと声をかけているようでした。あまり外にいる時間が長いと風邪をひくので、30分ほどして車いすを持って(すぐ近くで待機していた)迎えに行き、「誰もこないと電話があったよ」と言い含めて、すぐ隣のコンビニで朝食を買って帰ってきました。
一連の行動を、とにかく自分なりにしたという満足感があったのでしょうか、シリアル・野菜などの軽い食事のあと、ぐっすり寝てしまいました。
今日はまだ昨日のことがぶりかえすかもしれませんが、疲れてが残っているので思うようにならないかもしれません。基本的には普段通りでいいいのですが、散歩はとりやめ、肩もみとかリラックスできるような話とか、メロンを食べるとかして気を紛らわせてください。

6月22日(金)
<ヘルパーさん>この2,3日同じことを心配しているようですね。「ちょっと相談に行ってくる」というので、「食事をしてから」と、まず食事を勧めてみました。ハシをつけるまで時間がかかりました。「寝ずに考えているが、なかなか良い方法がみつからず、つい寝てしまった。自殺をしたらよいかとも考える。川に入って自殺できるか」と聞くので、とりあえず”ホウチョウ”冷蔵庫に入れておきます。
「ヘルパーの給料を息子からもらっているか」と何度も聞かれたので「いただいています」と言うと「息子に聞くと返事がしないがどうなっているのか」とも聞かれます。さらに「教員の仲間が仕事がなく失業して生活に困っているので市長に相談する!」とも。
一口食べても同じお話で話を変えてもまた戻ってしまいました。「昨日何度話しても息子が相手にしてくれない」といい、自殺という言葉が何度も口から出てきました。途中からは「どうしても富山に帰る」と言われたので「もう外は夜だから明日」とお話をしました。次々と妄想が出て、なかなかハシがすすみません。着替えもさせず帰ります。また、失礼と思いましたが、ドアのところに車いすを立て出られないようにしました。

6月23日(土)
<ヘルパーさん>杖をついて50メートルくらい歩いてから川沿いをぐるっと車いすで散歩しました。花の名前を聞いたり、出会った人に声をかけて話したりととても楽しそうでした。帰り道、ずっと園さんは「ずいずいずっころばし」を口ずさんでいました。お茶を飲んでからしばらく手遊びをしましたが、とても楽しそうに笑っていました。
夕方2度目に訪問するとベッドで眠っていました。声をかけるとすぐ起きてくださり、イスにすわって夕食ができるまで「炭坑節」をずっと歌っていました。
途中で「こんな踊りでしたっけ」と踊ってみせると「そうだったそうだった」と座って手を動かしていました。食事を始めると途中から軍歌の「戦友」に歌が変わり、後半は外から聞こえてくる選挙カーのまねをして「私も立候補する」と冗談話に花が咲きました。
いつもの様子と変わりなく、妄想らしき言葉はありませんでした。園さんの歌声がひさしぶりに聞けてとても楽しかったです。



  7月28日(土)
コトバの軽さが目立つこの参議院選挙。憲法問題しかり、生活防衛の問題しかり、政権政党とそれに近い政党の党首の話を聞いていると、み〜んな暮らしがよくなり、問題がすべて解決されるように聞こえる。それぞれの政党が何をやってきたのか。それこそが政党選択の基準でしょう。だからスネに傷をもつ政党はそれらに触れず隠し通して、有権者の選択をかすめ取る。
国民の税金から政党の活動資金を受け取る。大企業からの多額の政治献金を受け取る。それによって、行われる政治は、どのように国民の方向を向いているように見えようが、底が知れているではないか。
「職場砂漠」(朝日新書)という本が最近出版されました。筆者は「取材を通じてサラリーマンが沙漠の砂のように軽く扱われている」と書いています。筆者がこの本の冒頭で「一日平均で300人が自殺で亡くなるという現実は、どう考えても異常だ」と恐れる日本の企業が、その体質をいっそう過酷なものにし、利益をむさぼるために政治献金を渡す。だとすれば、それらの政党に投票することは、自分で自分の首を絞めているようなものではないか。政党を見る目はそれほどに厳しくなければならないと私は思います。
果たして投票箱の蓋をあけて、どのような結果が生まれるのか。まさしく「民度」が問われる。

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昨日まで、ずっと母のことについて書いてきました。まだ母の友人や親戚からの手紙が相次いでいます。親戚のある方が、母の遺影に手向けて欲しいと「御文」の書写文を送って下さいました。

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。

我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。

されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


よく知られた蓮如上人の「おふみ」の中の「白骨の御文」と呼ばれる一文です。
私が子どもの頃から慣れ親しんだもので、浄土真宗では葬式や法要で必ずといっていいほど読み上げられます。調子がいいのと葬式や法要にはピッタリはまっているので、知らず知らずに口ずさんでしまいます。
しかし、実際にこの教えの極意はと聞かれれば、何ともあやういことで、全くと言っていい程考えたことがありませんでした。
戦乱の世の中では、こうした無常観が幅をきかせ、この世の無常をあの世での幸せに結びつけるものがどうしても必要だったのでしょう。それは現代にも通じるものが確かにあります。
さはさりながら、母が死をもって教えたことは、蓮如上人の結論ではなく、”確かに人間のいのちははかない。はかないからこそ、来世ではなく現世をよく生きることだ”ということだったのかなあと・・・。あなかしこ、あなかしこ。


  7月26日(木)
東京町田市で母といっしょに暮らし始めたのは今から8年前。その当時はまだ比較的会話もでき、歌も歌ったりしていました。それに先立つ2,3年はときどき弟に東京に連れてきてもらってはしばらくいっしょに過ごしていました。
その折に、何を思ったのか、母が富山に戻るときに私に置き手紙をしていきました。いっしょに暮らすようになってからは字も満足に書けなくなりましたから、これが母が私に書いてくれた最後の手紙です。

(次男が迎えにきたので)いよいよさよならの時間が来ました。
色々の病気や欠点だらけの私を終始ユーモア一杯に精一杯面倒を見て尽くしてくれたあなたに心からのお礼を申し上げます。
一回一回毎にこれが(東京に来られる)最後かな・・・と思うと切ないです。忙しい中から一度も困った様子を見せないで、食事・買い物・散歩までに付き合ってくれて本当に有難う。仕事と両方でしたからさぞかし疲れた事でしょう。いくつもの私の失敗も、いつも水に流して私の気持ちを安らぎに変えてくれて、我が子ながら人間的に立派だと思いました。


母の感謝は、自分自身の行動から見れば当たらないところもかなりありますが、それでもその気持ちを手紙で伝えようとしていた当時の母の内心を思うと私も切なくなります。
手紙のそのあとは、他の人の発言は必ずメモしなさいとか、人前で話すときは原稿を書いて何十ぺんも練習せよとか、授業ではいろいろと変化を工夫しなさいとか、自分の経験をあれこれと書き綴っていました。いかにも母らしいお節介でしたね。

2004年3月4日の日記では、池田に引っ越す直前の母と私の会話を載せました。母の言葉のはしはしに記憶の断片が残っています。今となってはなつかしい会話です。

母 「あんたお母さんおるがか」(富山弁 が=の)
私 「ああ、いるよ」
母 「元気ながか」
私 「まあ元気な方かなあ、でもちょっとボケボケだし、自分のことができんようになっとる」
母 「かわいそうにのう、そんでおまえがめんどうみとんがか」
私 「そりゃまあ、しかたないもんね」
母 「いかったのう。で、どこにおんがか(=いるのか)」
私 「近くにいるよ。朝晩パンツ替えたり洗濯したり、お風呂に入れたり、食事作ったりで、めんどう見るのも結構たいへんだよ」
母 「そりゃ、幸せだのう。わしとよう似とる」
私 「でも私が誰だかわからんようになってしまってねえ。どうしたらいい?」
母 「そんなもん、ほっとけばいい」
私 「ほっとけば直るかなあ」
母 「直る、直る」
私 「じゃ、ほっとくか。だけど施設に入れるのはどうかな」
母 「そりゃだめだ。ボスがいる。いじめられる」
私 「私がめんどうみるしかないね」
母 「それが一番」
そのうちまたはじめに話が戻っていって延々つづく。




  7月26日(木)
長野に戻ってからも、母の友人達から何通ものハガキ・手紙が届いています。どれも、昔の思い出を語りながら、「お別れ会」に参加できず申し訳なかった、冥福を祈るというものでした。
退職して30年以上たち、友人達と別れて東京に行ってから8年、これほどの歳月が流れているにも拘わらず、40名ほども駆けつけてくれた「お別れ会」の模様をみて、母の孫の誰かが「ばあちゃんはスゴイ」と目をまるくしていましたっけ。それにしても、これほどの連帯感、人と人との関わりはどのような日常から生まれたものでしょうか。生前、いろいろな交流があることは当然ながら知ってはいましたが、これほどのものだとは実感できなかった。確かにスゴイ。

(友人達に園ちゃんが)亡くなったと電話しますと、皆さん一しょの言葉が返ってくるのです。「アーほんとー。でも長患いせんと息子さんに看取られてよかったんじゃない。よかったよかった。しあわせしあわせ。86年も生きたからいかったいかった」と悲しむより羨ましがってHさんのときと一緒でした。若い方にはちょっとわかりにくいでしょうね。
園ちゃんと私はチビでしたので、小学校6年間一番前列に。私の隣はいつも園ちゃん。一人っ子の園ちゃんが羨ましかった。一度園ちゃんのお母さんからえらい怒られたことがあったっけ・・・・・」
<小学校同級生>

園様は小柄で愛くるしく、誰からでも仲良く親しまれ、怒られた顔も見たことはありません。そのさん、そのさんと人気のある人でした。いつもにこにこと首を少しかしげられ相談に応ずるその子さん。今も目の前に浮かんできます。音楽が好きで、ピアノを弾きながらきれいな声で歌っておられると、一人集まり二人集まり、自然に輪になって歌ったことも度々でした。あの時は楽しかった。
卒業後、何年か後のこと、私が教頭先生から「君が代」(二部合唱)の低音部の曲を頼まれました。音楽の苦手な私は困っていました。でも、その子さんに手紙でお願いしたら、二,三日して「これでよかったかしら」と曲の返事が届きました。嬉しかったです。そして、いかにも私がつくったような顔をして、教頭先生に渡しました。ちゃっかり屋の私です。お笑い下さい。遠く昔の思い出です。
<女子師範学校同級生>

(小学校の)校内研究会で、若い女子教諭が音楽の授業を公開された時のことです。校長が直接授業に関係のないようなことで、大変厳しく感情的な批評をなさいました。気軽に言葉を交わすことができるような校長ではありませんでしたので、一同黙ってしまいました。そのときです。「お言葉ではございますが・・」とおっしゃって、若い教員の援護射撃をなさいました。「将来ある若い者が希望と自信をもって仕事に励んでいけるようなお言葉をいただきたい」とやさしくきちんとおっしゃいました。小柄な身体には想像もつかないような強い力をお持ちなのだと感服いたしました」
<小学校同僚>


私も知らない母の誕生から里子に出されての生活、父との出会い(出会わされ)と結婚、教師生活・・そうした母の生活のありようが、実は様々な形で他人に移し替えられ、その中で生き、そして私や妻に戻ってくる。しかしまた一方で、私もついぞ垣間見ることの出来なかった母の苦闘、苦悶、心の闇を想像するとき、目の前で消えていく一つの人生の重みというものを感じざるをえません。人生とは、人間の一生とは・・・かくも物語にみち、かくも美しく、かつ残酷で、はかないものか。しかして、それが人生。だから尊い一度きりの人生。20年前に逝った父も同様だったと今にして思います。

私が世話をするようになったのは、母の認知症が進行し始めた時ですから、母の昔話にはそれほどつきあうことがありませんでした。断片的には聞いていたこともあるにはあるのですが、若い頃の小学校教師・音楽教師の頃の話は聞いたこともないし、まして幼少の頃は全くヴェールに包まれたまま。今となっては古いお友達から話を聞き出す外はありませんね。母の生い立ちを探る旅にでも出ることにしましょうか。 


  7月23日(月)
人が泣くっていうのはどんな行為なんでしょうね。悲しいときも嬉しいときも悔しいときも涙がこぼれます。それぞれに違った意味があるのでしょうが、涙は胸がいっぱいになって苦しくなる、その気持ちを外に出して楽にしてくれることは間違いありません。
葬儀の最後に母の遺骨をかかえた瞬間にその重さを感じて不覚にも号泣してしまった。ある人から「(いつも冷静なところしか見ていなかったので)違った一面を見てしまったわ」と言われてしまいましたが、そんなこたぁないです。私は結構泣き虫なんです。今もしきりに涙がでてきますから。
母はここ1、2年は私が誰であるかさえわからなくなっていましたが、それでも朝起こしに行くと、本当に嬉しそうな笑顔を見せて手をさしのべてくることがありました。そのときのやさしい笑顔と暖かい手が忘れられない。だから15日に掲げた歌は母への今の気持ちをそのまま表したものなのです。

最晩年は、私や妻が介護しているときには、かなり刺々しく厳しい顔をしていることが多くありました。しかし、薄化粧をして孫(私の娘)に髪をきれいに整えてもらった母の死に顔は、妻が「すぐにも目を覚ましそう」と言ったほど穏やかで安らぎにみち、つややかな美しいものでした。これほどに変わるものだろうか。私も信じられない母の最後の顔。誰かが「仏の顔だね」って言ったのが不思議に胸に落ちました。
一生をひたすら生きぬき、いまはうつつのあらゆる苦悩や悲しみから解放され、ただ平穏と安らぎに満ちた人の死に顔というのはかくも慈愛にあふれたものかと、それだけを思っても涙が止まらなくなる。人の一生とはこのようなものだと身をもって示してくれたような気がします。
若い夫婦なら、我が子の誕生の瞬間からカメラに収めておきたいと思うでしょう。それが自然ですね。でも家族の最後の写真を残そうという人はあまりいないんじゃないでしょうか。何だか死者を冒涜するような気がしたり、死がとりつくようで何となく気が引けたり・・・。「天寿を全うした人の死」については、私はそうは思いません。母の死に顔は私にとってひとつの安らぎですらあります。もし、見ていただけるのであれば、次の三角をクリックしてください。・・・

追憶というはすべてを美しく飾ってしまいがちですが、ここ数年を振り返ってみれば、決して平坦なものではありませんでした。東京での5年間のうち、後半の2年ほどは母が幻覚・幻聴に悩まされた時期で一晩中話し続けたり、徘徊したりする日々でしたから、仕事にも支障が出て来くる始末。たいていは茶碗や皿を床にたたきつけてストレスを発散していましたが、つい手をあげて直後に激しく後悔するという思いをしたこともありました。確かに地獄の日々でした。「決して母に手をかけない。仏の心に徹する」と覚悟をきめたのですが、言うことを聞いてくれない母を再び乱暴に扱いはじめた自分が情けなく、必死で自らを制止をしていたことも。しかし、私が間違っていたんですね。私が仏になろうなんておこがましいにも程がある。母こそ仏なのだ。試されているのは私であり、母こそ私の煩悩を解放しようとしてくれているのではないか、そう思えたら楽になりました。
長野に移住してからは、妻の一生懸命な介護も加わって、ようやく落ち着いた母の日々が続くようになりました。しかし、そうなればなるほど、母の身体的介護の重みは増す一方で、ほとんど24時間拘束というかなり厳しい毎日が続くようになります。
食事についてもなかなか口を開けてくれなかったり、見境いなく噛みついたりする母(ネコのハルちゃんもシッポに噛みつかれてぎゃーと逃げたことがあります)に、噛みつかれながらも上手に食事を食べさせてくれていた妻の粘り強さにはただ感心するだけでした。私なら時々は手を抜いて「あ、そう、もうたべたくないのね」と言い出しかねないのですが・・。身の回りの世話の万事にわたって、ショートステイに出かける日の朝までそれを続けてくれました。妻には本当に感謝です。
「所詮は嫁、あなたほどには愛されなかった」とちょっと僻んでいる妻ですが、そんなことはありません。

思えば、弟の死が私たち夫婦の再スタートをとりむすび、母の死が私たち夫婦のありかたを方向付けてくれたのでしょう。そして、妻が述懐したとおり、介護に明け暮れる私たちの姿を見てきっと母は「もう楽していいんだよ」と、私たちを解放してくれたのかもしれませんね。
それでも、それでも、もう少しでいいから長生きしてほしかった。そばにいてほしかった。


  7月22日(日)
昨日富山で午前中に告別式(初七日の法要を兼ねたもの)、午後から教育関係者の「お別れ会・偲ぶ会」を行って、今日夕方、池田町の我が家に戻りました。
目が回るほど準備で忙しい何日かを過ごし、二つの式を終えてようやく一息つくことができました。準備の甲斐があって、どちらにも沢山の人が訪問してくれて、何よりの母の供養になったと思います。とりわけ、午後の「お別れ会」には母と同じ86歳前後の女子師範同級生が遠くは東京から駆けつけ、また富山県下一円から沢山の同僚、教え子のみなさんが集まって、母を偲んでくれました。

明日から、少しずつ母のことについて書いていこうと思っています。



7月15日 池田町での葬儀



7月21日 富山での告別式



7月21日 富山での「お別れの会・偲ぶ会」




  7月15日(日)
突然のことですが、母が他界いたしました。死因は老衰ということでした。
葬儀を本日午後1時より、池田町の池田もえぎホールにて執り行います。
生前、親しくしていただき、気にかけていただいた皆さまにご報告するとともに、厚くお礼申し上げます。


夢の扉


作詞 安田 陽代
作曲編曲 中北利男

あなたのぬくもりが このてのひらに残る
さりげない毎日 やさしさにあふれてた

気づかないうちに 時はただ流れてく
包まれていたこと あたりまえに思えた

何があっても おそれず くじけず
ひとやすみしたら 扉をあけて

ああ、切なくても 明日(あす)へ
涙ふいて あなたらしく かざらずに

I'm always thinking of you
I'm always on your side,

素直な心で あなたの言葉思う
やさしさ 切なさの わかる人になれと

人の心 思い 気づかう人になれと
なぐさめ はげまして 友と共に歩めと

そして 夢を 歌を 忘れず
自分を信じて あきらめないで

あなたのぬくもりが このてのひらに残る
さりげない毎日 やさしさにあふれてた





  7月12日(水)
朝5時頃飼い猫のハルちゃんに起こされてそれから眠れなくなって、縁側で新聞を読んでいました。ふと麓の池田の町並みに目をやると、スッポリ霧に覆われています。多分町の中はあたり一面ガスって数メートル先も見えないような状態なのだろうと、かつて麓に住んでいた頃のことが思い出されました。水蒸気が急速に冷やされて霧が発生、風に流されてゆっくり動いていきます。しかし、それも日がのぼるにつれて急速に雲散霧消。


今朝の「しんぶん赤旗」の一面には「ファッション評論家」のピーコさんが登場していました。
冒頭、自分が生放送ばっかり出ているのは、もし戦争になりそうだったら「戦争はいけない」ってすぐに言えるから、といっていましたが、気に入りましたその心意気。またインタビューに答えて次のようにも言っていましたよ。

日本には(憲法)九条があったから、この60年間曲がりなりにも戦争で誰かを殺したり殺されたりしなかった。・・・改憲派の人たちって必ず「北朝鮮に攻められたらどうするんですか、ピーコさん」って言うんだけど、私にそういう言い方をするのはおかしい。だって戦争を起こさないように、どうやって外国と仲良く考えるのが政治家の仕事でしょう。国民はそのために税金を払っているのに。
安倍さんのいう「美しい国」って、お国のため天皇陛下のために命を捨てる人がたくさんいた戦前のような国のこと。それが美しいというのなら、美しくなくていい。


テレビでは政権を厳しくチェックする人の仕事が少なくなり、大きな声を出しているのは政権を応援する人たち、とも言っていました。
先の町議会では、山崎町長さんも「北朝鮮が攻撃をしかけてくる可能性は否定できない」などとおっしゃっていましたから、ピーコさんの爪のアカでも煎じて飲んでいただきたい。町民を本気で守るなら「国民保護法」などに忠実に従うのではなく、現行憲法の精神を体現して(公務員ってその義務があるんですよね)平和外交で戦争の脅威をなくする方向をとることことこそ必要なのではないですか。

さて今日は参議院選挙の公示日。不用意にこの場で特定の政党の応援をしたりするとパクられる恐れがあるので、それは慎みますけど、マスメディアが「2大政党」待望の立場で今度の選挙は”自民か民主か”などというキャンペーンをやっているのは我慢ならないということだけは言っておきましょう。

今日から3日間、東京・神奈川にでかけます。


  7月6日(金)
外に出てちょっと畑仕事をしただけでもう汗ばむ陽気。梅雨の晴れ間で蒸し暑い。
庭には今年生まれた青ガエルが下の田圃から沢山上がってきて、気がつくと家の中にまで入ってきてピョンピョン跳び回っている始末。ものすごい数です。


昨日久しぶりに我が友MNEMO氏のブログを読んでいました。自然体で日々の思索を綴ったその一文一文が刺激的で、私の書くステレオタイプな文章とは比較にならない。
ご覧になればわかるとおり、写真の上にはいたるところ「Live Well」と書かれています。
そのまま読めば「よく生きよ」です(文脈によってはWellは「豊かに」とか「安穏に」とかとなるらしい)。しかし、これは彼の本意ではないはず。それほど押しつけがましくないよと多分言うでしょうね。
英語の分からない私なりに考えると、写真の被写体の植物なり動物なり(主語はすでにそこにある)を主語として「(They say) live well.」と書いてあるのでしょう。彼の思索の結果として、その思考を対象物に投影し、自らの生き方を示唆し、方向付ける、あるいは励まされる言葉としてそのように書いた。むしろ彼らから学ぶ姿としてそのように書いているのですね。それは次の言葉に凝縮されている。

さっき久しぶりの午前中散歩をしていて、まあ珍しいことでもないのですが蝶と出くわしました。
ほんとうに「Live well」と言っていたなあ。


「言っていたなあ」ですね。私もほんとうにそのような経験がありますから。高3のときのこと、父と登った雲の平で出会った無数の蝶たちはまさに私の心にそう呼びかけてくれました。

この日記でも高校時代の話がときどき出てきますが、確かに高校から大学までの年代というのは本当に「悩める時代」であり、私の人間をつくる一つの画期だったのです。訳の解らない本もよんでいっそう迷路に入っていくこともありました。
その私が受験の最中に必至で考えていたことは、ご多分にもれず「なぜ自分は生きるのか。どう生きるのか」ということでありました。途中は忘れたので省略しますが、受験直前にたどりついた自分なりの結論は「自分は今ここにある。生きている。生きているほど確かなことはない。さらに明日も生きる。だとすれば、なにゆえに自分はここにあるかという質問は無意味となる。生きる方向こそが問題なのだ。今日よりもよりよく生きる。これに尽きる」・・・・。苦しいときには頭もかなり回転するものです。煮詰まってしまうことも多々あったけれど、幸い、肯定的な答えを見いだしてあとはひたすらに前にすすもうとしてもがいていました。もちろん「よりよく生きる」その内容が次に問題になるわけで、さらに悩みは深くなるんですけれど・・・
ちょうどその頃の私の思いをまたこのブログで確認したようでちょっぴり甘酸っぱくもうれしくなったのでした。

実をいえば、彼のブログに2度ほど書き込みをして、その2回目に次のような疑問を投げかけたのでした。それは、やはり私が高3の時に読んでいた木下順二の対談の中のある部分です。そこには「ある女性が偽のダイヤモンドを本物と信じたまま亡くなってしまった。彼女は幸せだったといえるのかどうか」という設問が書かれていました。それを、そのまま書き込んだのです。
私なりの考えを書かないまま。いつか書こうとおもいつつ、結局不義理をしたまま、ついに現在になってしまい申し訳なくてずっとそれがひっかかっていました。
私の設問には間髪をいれず、MNEMOさんは勿論、もうひとりの方が本当にまじめに真正面からこの設問に対しての考えを述べてくださいました。それにも、私は黙ったままでした。今日は少しそのことについて敷衍して書いてみようと思います。とてもお詫びにもなりませんが。

実は(誰かじゃないけど、これ口癖なんです)、この設問を私自身いまだに引きずっているんです。
ブログにも書いてあったとおり、実際粗雑な設問で、これに対する何らかの考えをまとめようとしても困難な側面もあるし、私自身、その本を亡くしてしまっているので、どのような文脈であったのかを調べる手立てがありません。
にもかかわらず、この設問が気になっているのは次のような事情があったからです。ダイヤモンドを「国体」と入れ替えてみる。あるいは「天皇」と入れ替えてみる。きわめて政治的だが、実際過去の(いや現在進行形の)国民支配の主要な教義であった。そしてそれは戦後完全に否定されたことです。
話をダイヤにもどせば、それを持つことが幸せだと思い本物だと信じて(事実を知ることなく)死んでいったその人は、その人の頭の中ではまちがいなく幸せなことだったでしょう。問題は、それからです。つまり、この設問は、彼女自身が幸せだったと思っていたかどうかというのが主な主題ではなく、全くの他人に対して「幸せだったと思うか」と問うているのですね。つまり、そのような生き方(偽物を本物と信じたまま死んでいく)を他人が幸せだと判断するかということです。
繰り返しになりますが、やはりおかしな設問です。なぜなら本来偽物を本物と信じて疑わないほど人間は単純でなく、鑑定してもらうことも、偽物であるかもしれないと疑うこともできるはず。「何でも鑑定団」がいい例。幾度となくそのような場面が出てきて「ガックリ」を楽しませてもらっていますから。
にもかかわらず、やはり、そのような設問が設問として成立する場面は決して少なくはないと私には思えていました。だからよけいにひっかかったのかもしれません。

では齢60を越えた私の現在の考えはどうか。結論からいえば、その設問自体が否定されるべきだというのが答えです。質問になっていないということです。幸せだとこたえても不幸せだと答えても、結局人は人、自分は自分となる他はありません。そこから一歩も外には出ない。他人がある人の主観をどう判断するかと問われて、死んだあとにそれは不幸せだと言ったところで、その人はもういないのです。
従って、設問はあくまで「偽物を本物と信じている人がいる、さてそれは幸せなことか」でなければなりません。当人は幸せだと信じていたとしても、その信じるものが私にとっては偽りだと確信できるなら私は決してそうは思わないと断言する。偽物と信じる実証的なデータを持っているからだし、もし当人がそれに気がつけば、よほどの宗教的信者でもない限り、必ず後悔するだろうから。「生きたこの世界において」彼の、彼女の「幸せ」はたちまち「不幸」に転化するのだから。

多くの青年があの戦争で「お国のために死ぬ」ことが至高の生き方と信じて死んでいった。彼らは「幸せ」だったのか。何の疑いもなければ、まちがいなく彼らの主観としては「幸せ」だった。しかし、現在では、私たちはそれは偽物であると知っている。「お国のために」戦ったかれらの前に故郷を焼かれ、身体を切り裂かれ無惨な死を遂げた無数のアジアの人たちがいたことも知っている。「幸せ」があくまで個人のレベルであれば、その感情も「何でも鑑定団」的だけれど、「幸せ」が社会性を、階級性を帯びたときに、それはもはや問いとしては意味をなさない。現在進行形の問題として、ホンモノとニセモノを見分け、見抜く力こそ「幸せ」の中身だし、「Live Well」の内容だと思うからです。
現在社会的に進行している事態は、この「分別」の力を根こそぎ奪い去ろうとし、社会的・政治的な問題をあくまで個人のレベルに落とし込もうとする策略でしょう。幸せの中身は、偽の知識、情報を信じて疑わない人間の思考ではなく、あらゆるものを疑い、自分の頭で考え、方向付け、よりよい生き方を社会的に求めていく、その生き方にこそあると私は思うのです。
実際、矛盾だらけの我と我が身をたたけば、たくさん綻びが見えてきます。それにもかかわらず、これからの私の問題として、生き方の方向を、考え続けなければならないと密かに考えているのです。


  7月5日(木)
昨日、塾の中3の生徒達と久間発言をめぐって話しておりましたら、すかさず一人が「安倍さん、もう終わりだね」。それを聞いて、それぞれ頷いておりましたから、もはや中学生からも見放されてしまいましたね。
昼のテレビでは、恐喝タレントのニュースを根掘り葉掘りやっているアホな番組もありましたけれど、たいていは久間大臣の辞任と後任人事について、それなりに報道しておりました。中には昼の番組らしく、安倍さんの顔色、様子についてコメントしているところも。なるほど、閣議に臨む彼の姿はまさしくヨレヨレ。疲れ切ったつやのない顔で、9か月前には想像もできないような姿になっておりました。

今日の信濃毎日には、今度はアメリカの前国務次官が、ワシントンでの記者会見で原爆投下を正当化する次のような発言をしたことが報じられていました。
文字通り何百万人もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う。
なるほど。アメリカの「正義」はどのような大量虐殺をも正当化できるといいたいのでしょう。アメリカの開国以来そうであったように。ひとりよがりで大国主義むき出しの彼らの論理こそ、世界をわがものにしようとする侵略者のそれに他なりません。残念ながら上記のような歴史の偽造にはほとんどの歴史家は同意しませんよね。
それにしても彼らは「原爆投下が戦争を早く終わらせるためのものであった」という俗論が通るとでも思っているのでしょうか。アメリカがいかに「正義漢」ぶろうが、太平洋戦争末期には「都市部への無差別空爆」と「原子爆弾投下」という国際法を蹂躙する二つの大罪をおかしてきました。アメリカの侵略的野望を遂げるためにはどのような手段も選ばないという本性はいまもイラク戦争で遺憾なく発揮されています。イラク戦争開戦の口実とした「大量破壊兵器」、イラクにはそれはなかったが、実際に過去に使用したのはアメリカであったというこの事実をまだアメリカは受け入れることができません。北朝鮮の非核化に熱心なアメリカが自国の核軍縮には手をつけないこの矛盾もまた彼らの本性でしょう。
このようなアメリカの本性を系統的かつ徹底的に批判してきたのは本田勝一さん。私も藤永先生の「アメリカ・インディアン悲史」から読み始めてみようと思わされて、さっそく注文したのでした。

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日が暮れてあたりが真っ暗になる頃、妻とすぐ近くの「ホタルの里」にのんびりとホタル見物にでかけました。私は一昨年に続いて2度目。妻は初めて。詳しくは妻が日記で書くことでしょうから、簡単に書きますが、なかなかの見応えでしたよ。何しろホタルの数がすごかった。こればかりはデジカメでは無理(一昨年カメラを持って行ったけれど、見事に何もうつっていなかった)で、生々しく紹介できないのが残念です。フラッシュをたいて写真を写している輩がいて失笑を買っていましたっけ。多分、デジカメでフラッシュを切るのを忘れたというだけの話なんでしょうけど・・・。妻とは、昔はこれが普通の姿だったよね、といいながら約30分、夜風に吹かれながら、風流な散歩を楽しむことができました。ホタルを育てている地元(隣の部落)の方々に感謝です。

ホタルは光を発することによって、ホタルであるわけですが、昼見ればタダの虫。小中学生に見せると多分「何これ?気持ち悪い」って言いますよ。
私がアルバイトをしている大町の塾でのこと、ここに勤めだしてからずっとなんですが、授業中に室内に入ってきた虫を生徒達は「生理的」に嫌悪する、と私には思えて唖然としっぱなし。とにかく小さい小さい虫をみつけても「先生、このムシ早く外に出して」と懇願するんです。私も悪のりして「無視しなさい」などとアホなことを言うもんですから、さらに嫌われています。
何なんだろう、これは。都会の子がそうするのは何となくわかるような気がするけれど、周りが田圃のこんな田舎町の子が、ちいさな何の害もない虫をどうして忌み嫌うのか。女の子がとくに。
田舎では、世の中の”ありとあらゆる”と思うくらいの虫が生きている。夜ともなれば明るいところに寄ってくるのは虫の習い性。とすれば、彼女らは密閉された空間で虫から遮断されて生活することにならされてきたのか、あるいは、女の子のパフォーマンスとしてそう演技しているのか・・私にはわかりません。でも、どうも演技ではなさそう。演技を重ねると、本当にそのような暗示にかかってしまうのかもね。
かく言う私も、家の中ではハエとガをでかい虫取り網を持って追いかけ回している(うるさくて仕方がない)方なので、そんなにでっかい顔もできないけれど、クモなどはそっとつまんで外に出すくらいの気持ちは持っている。私たちは虫から命をわけてもらっているんですもんね。
ああ、でもアブラナ科の野菜やイチゴの根を見事に食いちぎっていくカナブンの幼虫や2.3ミリの得体のしれないムシは憎らしい。これはつぶす。絶対矛盾。


  7月2日(月)
久間防衛相が原爆投下を「しょうがない」と発言したことに対して、被爆者はもちろん与党内からさえ強い批判の声があがっています。たいていの商業新聞は共同通信の配信によって、全く同じ記事。

 久間章生防衛相は30日、千葉県柏市の麗沢大で講演し、先の大戦での米国の原爆投下について「長崎に落とされ悲惨な目に遭ったが、あれで戦争が終わったんだという頭の整理で、しょうがないなと思っている。それに対して米国を恨むつもりはない」と述べた。
 米国が旧ソ連の日本への参戦を食い止めるため原爆を投下した側面があるとの見方を示し「日本が負けると分かっているのにあえて原爆を広島と長崎に落とし、終戦になった。幸い北海道が占領されずに済んだが、間違うと北海道がソ連に取られてしまった」と指摘。
 また「勝ち戦と分かっている時に原爆まで使う必要があったのかどうかという思いは今でもしているが、国際情勢、戦後の占領状態などからすると、そういうことも選択としてはあり得るということも頭に入れながら考えなければいけない」と述べた。


「しんぶん赤旗」は”しゃべりコトバ”のまま、次のように報じています。

千葉の大学で>
日本が負けると分かっているのに、あえて原子爆弾を広島と長崎に落としたわけでありまして、8月9日に、私は長崎ですけど、長崎に落とされました。だから長崎に落とすことによって、ここまでやったら日本も必ず降参するだろう、そしたらソ連の参戦を止めることができるというふうにやったんですが、原爆が落とされて長崎は、本当にそういう点では、まったく無傷の人が悲惨な目に遭いましたけれども、あれで戦争が終わったんだという、そういう頭の整理で、今しょうがないと思っている。
<記者の質問に>
原爆を落とした、落とされたというのは返す返すも残念だし、あんな悲劇が起きたのは取り返しのつかないことになったわけだけども、しかし、そういう歴史を振り返ってみたら、あのときこうしておけばという、そういう後悔をしてみてもしょうがないわけだし、とにかく今思えばアメリカの選択というのは、アメリカから見ればしょうがなかったのだろうと思うし、私は別にアメリカを恨んでおりませんよ、というような、そういう意味でいったわけですよ。その『しょうがない』という言葉がね、どうもね、アメリカの原爆を落とすのをしょうがなかったんだということで是認したように受け取られたというのは非常に残念ですけどね。


書きたくもないことを長々と書いたのは、発言のニュアンスを自分でも確認したかったからなのですが、読めば読むほどふざけた不見識な発言であると、激しい怒りを感じます。「アメリカから見ればしょうがなかったのだろうと思うし、私は別にアメリカを恨んでおりませんよ」という下りについては、「どこの国の大臣なんだ」という批判も当然です。それ以上に「あれで戦争が終わったんだから、原爆投下もしょうがない」という彼の認識は、歴史に全く無知であることを白日の下にさらしましたね。
広島平和記念資料館(原爆資料館)のホームページでは、「なぜ広島に原爆が落とされたのか」として次の3点を指摘しています。

米国が原爆投下を急いだ理由は、次の3点にあると思われます。
・日本をできる限り早く降伏させ、米軍の犠牲を少なくしたかった
原爆資料館ホームページより ・1945(昭和20)年の米、英、ソ連の首脳によるヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3カ月以内に日本に参戦することを極秘に決めていた。米国はソ連の対日参戦より前に原爆を日本に投下し、大戦後世界でソ連より優位に立ちたいと考えていた
・アメリカは原爆という新兵器を実戦で使い、その威力を知りたかったと同時に、膨大な費用を使った原爆開発を国内向けに正当化したかった


日本への原爆投下が、ソ連を牽制しつつ戦争後における対日単独支配に道をつけることと、原爆の実験のための実戦使用であったということはすでに明らかな事実なのであり、同時に一方の国内では、国体護持を最優先とする支配層によって終戦が引き延ばされてきたことも周知の事実。従って久間防衛相の発言はどのようにしても許すべからざる重大発言だといえるでしょう。
久間防衛相といえば、つい先日、陸上自衛隊の情報保全隊が国民への監視活動を系統的に行っていたことが明るみに出て記者会見した際に、「あんなものは、2,3週間もすれば捨ててしまう程度のもので、問題にする方がおかしい」と発言をしていたことがまだ記憶に残っています。何の疑問も痛痒も感じない。むしろ、それが当然の活動であるという感覚。原爆もおそらくそのような感覚で発言したのでしょう。
あまりの批判の高まりに驚いたのか、参院選での影響を考えたのか、昨日になって多少の軌道修正をしてはみたものの、本質は何ら変わっていない。恐ろしい感覚、恐るべき無教養。彼をかばい擁護してきた安倍の水準も推して知るべしですね。
こんな連中が政治の中枢を握っているという、この国の異常さ。アメリカの支配層にすら相手にされないほどになっているのに気がつかないのかしらね。知ってても、「それでもあとについていくよ」と健気に”ラブコール”を送っているのでしょうか。




"yumeno tobira"



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