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  8月24日(金)
しばらくご無沙汰をしてしまいました。この間、小一の孫がしばらく一人で我が家に「留学」して勉強や生活の面倒をみ、娘が迎えに来たあと、富山に出かけたりして四九日の法要や相続の手続きの準備などをするうちに日がたってしまいました。
先日の慈雨のおかげで草木や作物ははちょっと蘇り、今日は、日中もそれほど気温が上がらず、夕方からは虫の鳴く音も聞こえて秋の気配さえ感じさせる一日でした。こうして一日一日と日が過ぎていくのでしょう。
ところで今日は友達と時期ハズレの「ブルーベリー狩り」に行き、大粒の玉を約2キロほど採ってきました。たらふく食ってきたし満足満足。帰ってからさっそくジャムを作りました。大粒の果実のせいか、水分たっぷりで上出来。ビンを煮沸消毒し、熱いうちにジャムをいれ、さらに煮沸。これで一年はしっかり持ちます。楽しみです。保存するのがでなく、食べるのが、ですよ、モチロン。



そしてあさっては母が亡くなって七七日、四九日の法要の日です。私の記録でも母の思い出が間遠になってきましたが、毎朝お参りをしながら、あるいは片付けをしながらいろいろ思い出しています。

さて、夜は妻と「私は貝になりたい」を見ておりました。BC級戦犯という目から戦争を見つめた力作。戦争のむなしさ、残酷さ、悲しさとともに、生きる意味をも真正面から問いかけるもので、「はだしのゲン」とならんで制作者の良識、歴史に向かう確かな目を感じさせるドラマになっていたと思います。
極東軍事裁判の持つ限界もしっかりとらえており、歴史的な検証をさらに深めるべきであるというメッセージも込められていたように思われました。
私には、ドラマの前半で描かれた終戦直後の日本の姿が興味深かった。鬼畜米英から一転して占領軍に従属していく精神的な有りようこそ、アメリカが天皇を温存した最大の理由でもあったのだろうから、「こんなにも変わり身が早いものなのか」と父親に言わせた当時の庶民の姿は今日どのように分析されるのでしょうか。興味深いテーマではあります。

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さて、文藝春秋九月号といえば芥川賞の受賞作の発表とつながる人がほとんどでしょうけれど、私自身は芥川賞にはあんまり興味がなくて、これに「”日共のドン”宮本顕治の闇」という立花隆の一文が掲載されているので、思わず買ってしまいました。買ってから後悔した。
一読しての感想は「おそまつ」の一言です。これは「立花隆の心の闇」を問わず語りに告白したものではないんでしょうか。予想はしていたものの、あまりにも粗雑・拙劣で、これほどだとは思わなかった。いくらこのようなモノを売りにしてきた文春とはいえ、こんなものを掲載するのはひどすぎます。これが文春のレベルだといわれれば納得はできますけど。
第一の筋立ては、例の「宮本リンチ殺人事件」。彼はかつて同じ文春誌上の「日本共産党の研究」で特高警察の資料を全面活用しながら、いかに恐ろしいことが起こったかを書き立てたのでしたが、それを蒸し返しているだけ。第二は、宮本死後不破体制になっていかに共産党が変質し「独裁体制」を作り上げたかを「おもしろおかしく」書き並べていること。
先に「立花隆の心の闇」と書きましたが、おそらく彼は彼の中に勝手に作り上げた「共産党像」をもとにそれに合うシナリオを作って、これが真実だと思いこむ一種の自己陶酔・自己催眠に陥っているのではないのかと私には推測されます。札付きの反共右翼くらいしかとりあわない連中をこれでもかと持ち出してくるその書きようには異様な執念すら感じられます。これで原稿料が稼げるんですから、いい気なもんです。
立花隆には共産党のことをまじめに知ろうという気がもともとないのですから、取り合わないのが一番良いのかもしれませんが、「文春」を使って(実は体よく使わされて)一文を書いているとなれば、それなりの影響はもっていますからね。見逃すわけにはいかないでしょう。

ミヤケンさんは、もちろん直接面識があるわけではありませんけれど、その昔から大会の報告や論文、さらには「一二年の手紙」などで、よく知っていました。立花隆は特高の資料は段ボール数箱まだ持っているし、それを詳細に調べる意欲はもっているようですけれど、ミヤケンさんの書いたものは読んだことがないらしい。
宮本顕治さんの名誉のために私も一言書いておきたいと思うのですが、彼のどの発言、どの文章にも精緻な思考と先見性とが見られます。その説得力は並のものではありません。立花隆など足下にも及ばない。ウソだと思うなら歴史的と言われる第八回大会=綱領決定大会関連の文書(「日本革命への展望」など)にすべて目を通してみるといいでしょう。
彼には日本共産党の内部がよほど気になるらしいが、じつは「日共=独裁であってほしい」という強烈な”願望”以外は何一つ知らないし知ろうとしないのだから、あとは自分の”妄想”でモノを書くしかない。
立花隆は日本共産党の大会が数日かけて開かれ、大会と大会の間に中央委員会やそれに準ずる会議などがどれほどよく準備されさまざまな意見を吸収して行われているのか、見えてはいません。日本にそのようにして厳格に精密に民主主義を徹底して運営している政党がありますかね。
「見てきたようなウソ」に「使用価値」があるうちはいいとして、それも通用しなくなるとなれば、もう用済み。「評論家・立花隆」の消滅する日は意外と早く来てしまうのではないでしょうか。今回の一文はその予兆と私は読みました。


  8月16日(木)
昨日が暑さのピークなのでしょうか、私の予想があまりにも早く当たってしまったことにびっくり。群馬で40.2度だって。各地で最高気温を更新しているというのですから、もう異常ではないんじゃないでしょうか。まあ、もうちょっとするとそれすら忘れてしまうかもしれませんけれど。

昨日の夕方、家の横を軽トラで畑の方から通りがかったおじさんとの会話。

おじさん:「やられなかったかい」
私:「やられた。とうもろこしが全部食われた」
おじさん:「やられたかい。そうかい」
私:「こりゃサルだね。きれいに皮を剥いて食べていったから」
おじさん:「そうだね。タヌキじゃないね。うちはサツマイモをやられた」
私:「あそこの畑で? サツマイモまで食っていくのかい?」
おじさん:「そう。つるが枯れて地面が出ていたから、穴を掘って全部持って行ってしまった。まあ、あんまり沢山はつくっていなかったからよかったけど・・・」
私:「そりゃ、やっぱりサルかいな?」
おじさん: 「ムジナはあんな風にはしないね。やっぱりサルだね」
私:「うちもサツマイモがあるから、今度狙われるかもしれないね。気をつけてみているよ」


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昨日から、孫が一人で我が家で宿泊。小学校一年生の孫に、林間学校よろしく数日我が家で泊まっていろんな体験学習をさせようという試みで娘があずけていったのです。
私は算数から国語、図画工作、DVD鑑賞、果ては入浴までいっしょに行動させられ、えらいことです。
とくに入浴の時など自分で髪を洗っているので、なかなかよろしいと思っていたら「仕上げ洗いをして」といわれて「はあ?なんじゃそれは?」と思ったけれど、意味が理解できたのできれいに洗ってやったことでした。なるほど、娘は美容師らしく「仕上げ」をきちんとやっているのかと思わされたことでした。
こんなふうに外に泊まるのは初めてというので、最初はなかなか健気にいろんなことをやっていましたが、夜に家に電話したあたりからちょっと雲行きがあやしくなり、ついに「寂しい」とベソをかき始めました。「お母さんは、きっと強い子になってほしいと思ってこうしている。あと4日したらまた迎えにきてくれる。そのときに、めそめそして泣いてばかりいましたというの?それともしっかり元気にくらしていたよ。ちょっとは強い子になれたよと言うの?」・・などと説得をして、しばらく添い寝をして今日を迎えたのでありました。孫にとっては、きっと忘れがたく得難い夏休みになることでしょう。


  8月15日(水)
靖国神社に群がる自・民の国会議員らを見ていると胸クソが悪くなる。KOIZUMIなどは平然と参拝を重ねているし、高市何とかもまるで生きる証しででもあるかのように参拝の弁を述べる。
私が子どもの頃、父の実家に行った際に壁に掛けられている写真をいつも見せつけられていた。戦死した父の兄弟の写真だ。父も叔父・叔母は詳細は絶えて語らなかったが若いその写真は小さい私にとってとても気になるものであったことは事実だ。
私が聞いても父は戦争の様子を語ろうとはしなかった。父が何故戦争のことを語らなかったのか今となっては知るよしもないが、前線でたたかった多くの兵士同様、語りたくないことばかりだったのだろうと推測する他はない。語らないことで戦争の無意味さと向き合っていたとも受け取れるが、それも定かではない。唯一、戦艦の中でネズミを一匹捕ると休暇が一日もらえるので、父は船室で捕らえた何匹かのネズミを隠れて飼っていたという変なエピソードを聞いただけだった。通信兵だった父は船倉の中でひたすら通信文、アメリカに筒抜けの暗号文と格闘していたのだろうか。ひとたび攻撃を受ければ船とともに沈む他はない。生死をわけるのは、米軍の戦艦や航空機に見つかるかどうか。
生と死の境がはっきりしており、相手の顔がほとんど見えないのが海軍だが、それに対してじわじわと死に直面するのが陸軍だろう。とりわけ、南方の前線にやられてはしごを外された場合。
ドラマ「鬼太郎が見た玉砕」の通り、白骨街道をさまよう兵士達、軍隊内の暴力的抑圧の状況、玉砕を命じられて助かった兵士達を「皇軍の恥」だとして抹殺したいきさつなどは戦争・・いや日本軍の過去を赤裸々に暴き出して身の毛がよだつ。
「お国のために命を捧げた」などと言えば聞こえはいいが、そのように信じて靖国に参拝する議員たちがいるとすれば、思考回路は戦前そのものであり、かれらの政治方向は戦前回帰でしかありえない。そして、高級将校の例のごとく最前線の戦争がいかなるものであるかを全く知らないことを特徴とする。それに無批判な一部のマスコミ、「文化人」らも同類だ。靖国に対する今日の国民の甘い対応ほど戦前との”連続性”を示すものはないと思える。同時にそれが今日の改憲勢力、右翼的潮流に迎合しやすい国内の空気をも醸成している。

今日、終戦記念日。


雑誌「世界」9月号 新藤兼人・蟹江一平対談”より


  8月14日(火)
昨日夜は池田・松川合同の高瀬川花火大会。午後8時に始まって9時過ぎまで夜空を彩る光と音のイベントがありました。そう・・・これを自宅で見るために我が家のウッドデッキを作ったのでしたよ。
ウッドデッキにイスを並べ、妻はビール、私はお茶を用意してスタンバイ、昼過ぎにやって来た娘と子どもたちも果物や飲み物の用意をして並び、今か今かと花火大会の開始を待ちます。
池田・松川は大きなスポンサーもないために、中小零細企業や団体からの寄付金でまかなった花火を打ち上げます。そのためにどうも打ち上げられる間合いが間延びして、しかも途中に長い休憩が入るためにちょっと拍子抜け。それでもスターマイン、尺玉など大輪の花と腹にこたえる音との饗宴で久しぶりに楽しみました。写真は全部手ぶれで幽霊花火になってしまい割愛。

さて、その夜、娘が流星群が見えるのだと言って外に出て行きました。私はまったくその情報に疎く、知っていても家で寝ころんでいたい方でしたが、ふと思い立って娘と二人で外に出てみました。
外に出て空を見上げると、いや〜〜星だらけ。夏にこんなに星をみたことはありませんでしたから、ちょとした感動ものでした。私が知っている星座といえば、北斗七星とカシオペアくらいのものなんですが、子どもの頃に見たあの天の川がくっきりと帯となって流れているのには正直驚いた。見えるなんてハナから思っても見なかったですもんね。その中にはくちょう座。なつかしい光景でした。
さて、問題のペルセウス座流星群。娘は何度か外に出て沢山見つけていたようでしたが、私は30分で3個ぐらい。何しろ首を90度まげて上を見ているものだから、首のいたいこと。今夜見るときは、ゴザをもって寝そべってゆっくり見るに限ります。
池田町でも丘の中腹に家があるため、外は一寸先も見えない闇。家から数メートル上がったところで観測しておりました。星を観測するには絶好の立地なんですね〜〜。
「もう一つ見えたら帰ろうね」といいつつ見ているのですが、なかなか。「帰ろうとすると出るもんだ」と話していたら案の定、大きな赤い流れ星が真横に一つ。満足して家に戻ったのでした。
昔はもっともっと星がみえたな〜。このくらいの星で満足していちゃ話になりませんね。たぶん、子どもたちは、夜空なんてこんなものだと思っているのではないでしょうか。
私としてはぜひ沖縄の空を見せてやりたい。こんなに星があるものかと思います。星の中に空がある。今にも落っこちそうなくらいにすずなりの星。漆黒の中にまばゆく輝く光の洪水。あんまり星が多いので、星座すらわからない。感動を通り越しています。・・・・秋に沖縄に行って夜空を見るのが楽しみです。

今日もまた猛暑の一日。家の中がついに30度になってしまいました。温水器は76度と記録を更新。こうなっては地球温暖化が加速しているのではとつい思ってしまいます。日本列島のどこかで40度を超える日はそう遠くないのでは・・・。超大型の太平洋高気圧が居座っていることによるものなのでしょうが、これが弱まった後にこれまた超大型の台風や集中豪雨が日本列島を襲うなどというシナリオはごめんですね。
何が起こるか分からないという日本の気象状況。高温による作物の被害、連動する鳥獣による被害など多発するのではないかと心配です。我が家の畑の作物ももはや枯れ枯れ。トウモロコシはケモノに食われ、豆やサツマイモは太陽に食われ、良いことは何にもなし。
さて、内閣支持率最低を更新し続けるABEさん、こんな日本をどうします?

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夕方から高一生の夏期講習。部活などがあるので、とびとびにコマが入っています。毎年繰り返される光景ではありますが、一人一人の生徒にとっては高校生活初の夏休み。県下でもかなりの水準の高校生ばかり(といっても4人)なので、和気藹々と授業がすすみます。
それが終わって、帰宅すると焼き肉パーティ風の食事風景。娘が持ってきてくれたお肉を中心に我が家で採れたピーマンやタマネギ、カボチャ、トウモロコシなどを焼いて美味しく食べました。久しぶりに肉を食べた〜〜。
すると、庭で何か落ちる音が・・・。よくカエルが高いところからペタンと落ちてくるので、またカエルかなと思って出てみると、何とセミ。そういえば、この暑さでセミがわいて出ているのか、日中にはアブラゼミやミンミンゼミがうるさい。落ちる音は、ゴーヤの葉にとまっていたセミが落ちてきたのでした。
見ると、何だか見慣れないセミ。娘が子どもに「昆虫図鑑を持ってきて」と催促、調べてみると「エゾゼミ」??? ホームページで色々調べてみると間違いなくエゾゼミの一種らしい。泣き声も「ギーギー」・・・そんなセミいたっけなあ。まあ、分布は長野・新潟から北に多いらしいので、富山ではもちろん東京でも見かけなかったのかも。こっちではごく普通のセミのようですね。




  8月12日(日)
午前中は中国からの企業研修生Sさんがビジネス日本語を習いに我が家へやってきました。相変わらず難しい商用日本語の練習問題が続出、私にも読み方が分からない漢字が出てくるので大変困りました。
彼女は中国で2年ほど日本語を勉強し、日本ではまだ1年くらいにしかなりませんが、かなり日本語をうまく使っています。ただ「きれいの花」とか「忙しいの仕事」とかと言うので注意すると、「これは中国式の言い方でつい出てしまう」のだと説明していました。中国では「○的△」という言い方をし、「的」は日本語の「の」に相当、○は形容詞でもいいというのです。
「日本で『の』はどんなときに使うのかわかる?」と聞くと「名詞と名詞の間」ときちんと答えます。知ってはいるのですね。
そういえば、映画で中国人の話す日本語に共通しているのはこの「の」ですから、ようやくナゾが解けてすっきり。それにしても、日本語の単語の意味を聞かれてちゃんと答えられないことがたくさんあるので恥ずかしい。
これから私のことを「先生と言っていいですか」と言うので、授業の間はやむを得ないと答えておきました。授業以外では名前で呼んで欲しいということも付け加えて。

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午後から姨捨のTさん夫妻が芋掘りを手伝いにやって来てくれました。田植えを手伝いに言ったあのTさんです。
しばらく休んだ後、昨日を上回るような激しい暑さのなか、みんなで畑へ。私は収穫物のいれものや農具を運ぶために先に車で畑に行きました。どれどれ、沢山収穫できるかな・・・・たくさん収穫して持って行ってもらおう・・と勇んで畑に。・・・・・と、様子がいつもと違っている。
ガ〜〜〜ン! やられた。トウモロコシの実が一本残らずきれいさっぱり取られて、まわりには食べたガラが散乱している。得体の知れないケモノにすべて残らず食べられてしまった後の祭りでした。
”明日取ろうという次の朝には必ずやられる”というとなりのおじさんの忠告はまさに本当でしたね。被害は一昨年に続いてこれで2回目。ついでにカボチャを取ろうとして、見るとこれもまたかじられている。しかもかなりでかい口のケモノです。まさか熊ではないでしょうが、100本近くもあるトウモロコシを全部平らげ、カボチャまでかじっていくとなると、これは大きな集団で来ているらしく、どうもタヌキではなさそうなのです。私の予想では「サル」ではないかと思います。”サルの集団窃盗団”、これに間違いない。なぜならトウモロコシの皮をきれいに剥いて食べているもんね。サルとなるとネットも防護柵も効き目なしでしょうから、来年にむけて赤外線暗視カメラ、落とし穴、竹槍、パチンコ、爆竹、プラスチック爆弾、手榴弾、機関銃・・ありとあらゆる武器を開発することに決心しました。サルたちよ、今度やったら生きて帰れないと思え。
ジャガイモは暑さの中でも大丈夫でしたから、たくさん掘ることができ、何とかメンツを保つことが出来た次第。おそまつ。




  8月11日(土)
今日も暑い一日。東京、神奈川のみなさん、いかがお過ごしですか。残暑お見舞い申し上げます。私は、昼は外に出ないようにしてじっと閉じこもりです。

まもなく母が亡くなって一か月になります。26日には富山で49日の法要を営み、納骨を済ませます。葬儀の時のままの祭壇が残してあって、妻が毎日小さなご飯を供えてくれています。遺骨と位牌、遺影は富山の菩提寺に預けてあるので、こちらではとりあえず「お別れ会」で使った写真と、自分で書いた位牌(名前<俗名というらしい>を書いただけ)が飾ってあります。
一か月もすると、忘れたくなくても次第に記憶が薄れていくのは仕方のないこと。むしろ、父母と私の立場が、今度は私たち夫婦と子どもたちの立場になりつつあることを考えたりしています。何かを子どもたちに残すというより、自分の生き方それ自身を真剣に考えることが大事なのだとあらためて思わされています。とくに昨日、今日のテレビドラマ「はだしのゲン」を見るにつけても。


この「はだしのゲン」(実写版)は想像よりはるかに胸に迫る感動的なドラマでした。時代の流れを的確に織り込んで、今ではあたりまえに主張できる「戦争反対」という立場がどのようなことであったかを描ききっています。
配役も文句なし。とくに子役のすごさ。たいしたものです。作成者、俳優の平和への思いがこれでもかと込められた秀作です。喝采をおくりたいですね。
このような番組が作成されたことは今日の状況下ではたぐいまれなこと。国際的に広めたい映画です。


  8月9日(木)
今日も35度近い気温。妻は休みなので、昼は二人(+1匹)で板の間にゴロンとしてお昼寝を楽しみました。ネコは夏も毛皮を着ているので暑いだろうなと思いますが、どうなんでしょうね。外から帰って来るや冷たい板の間に倒れ込んでいるので、やっぱり暑いのでしょう。家の中は27,8度なのでなんとか暑さをしのげています。
さっぱり雨が降らないので上の畑はカラカラです。またまた水をタンクに入れて3往復しました。夕立でも来ればいいのに、その気配なし。首都圏ではどうなんでしょうか。ヒートアイランド現象で、ひどい暑さになっているのではないかと想像しています。

今日は長崎原爆忌。今から20数年前になりますが、2度ほど原水爆禁止世界大会に出席したことがあります。稲佐山の付近から入り江をはさんで長崎市内や大浦天主堂あたりを見渡すと、ぐるりを山に囲まれた狭い地域がどのように焼かれたのかが想像されて心が痛んだことを覚えています。
原爆投下をどうみるかについて「戦争を終結させるためにやむを得なかった」というアメリカの「公式見解」を支持する国民が確実に減少しているという結果がでているとテレビは報じていました。そうした国民の反応は学校でどのように教えられたかによることが大きいとも。アメリカの国民自身が、情報公開法によって原爆開発から投下にいたる歴史的な文書や背景を知ることができるわけですから、早くその実相についての関心が高まり、国民的合意がつくられることを願わずにはいられません。




  8月6日(月)
池田では最高に暑い日になっています。外は35度近くになっているのではないでしょうか。太陽光の温水器がはじめて70度を超えて73度まで上昇。おかげで灯油は使わなくて済むものの風呂に入る気力もなくなってしまいます。室内はエアコンなしでは28,9度まで上昇。授業の準備をしたりするときは身体を冷やさないと頭が動かないので、やむなくエアコンをつけて快適に過ごしています。
捕らぬタヌキのなんとか・・・といいますが、暑い中、畑にいってトウモロコシを収穫してきました。息子達に送ってやろうと思ってのことなのですが、タヌキに取られぬ先にとってしまおうという魂胆。
次は通りかかった隣の畑のおじさんとの会話。

おじさん:「ケモノにやられないかい」
私:「ああ、いまのところ大丈夫のようだね」
おじさん:「そりゃいい。あした取ろうとしているとやられるから」
私:「だから、取られる前の日にとってしまう」
おじさん:「なるほど」


あちこちで被害がでているので、だいたい出会った農家の人との会話はこのようになります。横のサツマイモをみると、雨がふらないので完全に水切れで息も絶え絶え。また給水活動を開始しないといけなくなりそうです。
庭のイチゴたちは毎日水をやっているので今のところ順調です。ポットからプランターに植え替えを終わり、あとは根をしっかり張るように管理するだけ。来年は今年の2倍くらいなってくれるようにイチゴだらけにしようとたくらんでいます。
ネコの扉を設置するための工事を予定していて、その打ち合わせでM建設のTさんがやってきたのでひとしきりイチゴ談義。プランターをずっと街道沿いにならべて「イチゴ街道」ってのもいいねと夢を膨らませたのでした。いったい幾らかかるのか、M建設で費用をだしてくれれば実現可能ですけど。

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今日は広島の原爆忌。朝の記念式典を見ておりましたが、広島市長、子ども代表の宣言にくらべて安倍さんのあいさつの何と浅薄なこと。何々?「憲法の精神を遵守し、非核三原則を守り」・・???。本心にもないことをたくさんならべてその場をとりつくろうおうとする魂胆が見え見えじゃありませんか。
子ども代表は、憎しみと暴力の連鎖を断ち切ることの大切さに言及していました。その通りだと思います。
しかし、です。たとえば誰かが我が子を理不尽に殺されたら犯人をどうするでしょうね。心情的には死刑を望む・・に違いありません。だが、子ども代表はそれはいけないのだという。苦しんで苦しんでそこに到達することが私たちには出来るのだろうか。しなければならないと子どもたちは言う。
昨日の新聞には、最高水準の学歴の男達によってイラクでの自爆攻撃が行われようとした、そんなことはかつて無かったと書いていました。ここには死には死をという暴力の限りない連鎖が見えます。アラブの人々のあらゆる階層をとらえつつある「抵抗」の一断面なのかもしれませんが、そこには怨念と憎悪の無限の連鎖しかありません。

もう一度原爆忌での発言にもどりますが、安倍さんは核兵器の根絶について国連などで追及してきたという趣旨の発言をしていました。それではなぜ足下の核開発容認論者に厳しい姿勢をとれないのか。アメリカの核の傘に守られているとでも言うのか。
使わない核兵器などは無意味です。使えるように日夜研究しているのが核保有国の現状です。しかし同時に一旦使ったらどんな結果が待っているかは、それを研究している当事者が一番よく知っている。ヒロシマ・ナガサキが崎が使わせないようにしているともいえる。だから使えない。相手のために使わないのではなく、自らの保身のために使えない・使わないだけの話。これが核均衡論の拠って立つところでもあるし、落とし穴でもある。
「核兵器の使用はしょうがなかった」とか、使い古され用済みとなった核均衡論にいまだにしがみついて核武装をねらう国内の勢力に対して、今日の広島市長と子ども代表の宣言は見事な反論をつきつけたのでした。


  8月3日(金)
雑誌「世界」8月号に、先日亡くなった小田実さんの「民主主義を殺さぬためにーーワイマール体制崩壊の前夜から」というインタビュー記事があります。編集者のコメントによれば、このインタビューは6月13日に行われているわけですから死の2か月前ということになります。
死の床にあってもなお、現在の日本の現状を憂い、日本の民主主義の可能性を信じて熱いメッセージを寄せる彼の気迫に圧倒されてしまいます。
”現在の日本の状況を「戦前への回帰」と見ることはできない。安倍の「美しい国づくり」と比較しなければならないのは、戦前の日本ではなく、ナチが台頭し、少数者に権力が奪取されたワイマール共和国の末期なのではないか”として、その共通するものに最大の関心を持っていると語る小田氏。その志半ばで倒れた彼の遺志を私たちは継がねばなりません。
ここに書かれている彼の言葉は、示唆に富み実に新鮮です。

●安倍は改憲に固執しているけれども、彼の言う「美しい国」になぜ改憲が必要なのか、そのことを彼は論理的に一言半句も言っていない。
●私は、この国は今、ワイマール共和国時代に似てきていると思う。民主的なワイマール憲法のもとの共和制を破壊し、ナチが「第3帝国」を樹立した。その過程を思い起こしてほしい。・・・民主主義のもとで民主主義を殺したんです。
●私たち市民は小さな人間です。小さな人間が戦争に巻き込まれたらどうなるか。・・・小さな存在である市民は、殺される存在であるがゆえに、殺す存在でもありうるんです。
●「戦争は必ず人を殺し、人は殺される。死体がそこに転がる。そして、すぐには片付けられないから、そこに放置され、それは臭いを発します」・・・この臭いを嗅ぎたくないのであれば、世界を変えなければいけない。
●本来この国は、戦争のできない国なのです。兵器は石油がなければ動かない。石油資源を持たない日本は、自前では戦車を走らせることも、戦闘機を飛ばすこともできない。食糧の問題もある。・・・いま、日本の食糧自給率は40%そこいらです。・・・日本は条件的にいっても戦争などできないんです。


安倍首相が藁にもすがりついて政権を維持しようとしているのは、自らの信じる「美しい国づくり」の道(=日本型ファシズム)への衝動しかない。彼らが狙い定めている方向は、エネルギーから食糧まで日本の命運をすべてアメリカに握られ、その運命共同体として「ともに戦争できる国」への道であることは明白ではあっても、その戦略には天皇と戦前の価値観を最大限に利用しようとする「国体イデオロギー」があることも事実です。新自由主義に基づく政治的・経済的な方向とおよそ相容れない国民操作の国体イデオロギーの結合こそ、安倍の「美しい国づくり」なのだと私は考えています。
その醜悪さ、その非科学性、そのもとでの危険性を指弾したのが今回の参院選挙の結果ではなかったのか。
「テロ特措法」をめぐってアメリカから強烈な反応が民主党に押し寄せています。さっそく、選挙の結果がためされる。民主党に期待した国民もまた試されているのですから、今後の動向を注意深く見守らなければなりません。そして、いま一度、小田さんの言葉をかみしめましょう。


  8月1日(水)
月が変わり8月。母がこの世を去って2週間経ちました。このごろの私の胸の内は、生きている間にもっともっと母に優しくしてあげるのだったという激しい悔恨です。こんなに私を頼りにし、これほど私に思いを寄せてくれていたのに、あるときはそれを鬱陶しく思い、ある時は邪険に振り払ってしまった私。たいていの場合は、優しく接してきたつもりではあるものの、ベタベタされたり私の生活が乱されたりするのを嫌って思わず乱暴な態度になってしまった過去の自分と、そのときの母の様子を思うといたたまれなくなってしまいます。
いつまでも元気でいてくれると信じているその場では、そのときの感情に左右されて、どんなに優しくしたいと心では思っても行動ではそう出来ないことってあるんですね。その母がいなくなってみると、いかに自分が未熟な人間だったか、いやほど思い知らされています。
妄想や幻聴にとらわれたり普段とことなる行動をとるというのは、脳が後退していくために母の意志とは関係なく起こることであって、むしろそれをそれをあるがままに受け止めなくてはいけなかったのに、何とか元に戻って欲しいという焦りと願望や、自分の生活が乱されるという苛立ちが先に立って、時としてそうすることができなかった。
もちろん、そんな態度をいつもとり続けていたわけではなく、たいていの場合は穏やかで楽しい日々を過ごしていました。
もともとひょうきんで朗らかな性格の母は、東京でもヘルパーさん達とも愉快に過ごしていたし、私もよく外に連れ出して散歩をしたり、遠くの公園まで日向ぼっこにでかけていました。母と過ごしたいろいろな場面が次から次へとフラッシュバックしてきます。

母は大正10年石川県松任市の農家の生まれ。大正11年4月4日には、わずか1歳2か月でもう富山の養父母のもとにもらわれてきています。姉が手を引いて富山まで連れてきたのだと、最近聞きました。
母は実の父母がいるのだということをいつ知ったのでしょうか。私が小学校に上がる前から実家に頻繁に連れて行ってくれていましたから、多分女子師範の頃にでも聞いたものか。
父はまた父で三男坊の悲哀で婿養子に出され、昭和19年3月20日に母と結婚します。(3月19日養子縁組届け、20日婚姻届)。父の軍歴表によれば3月5日に「婚姻許可」の記載があります。
当時父はすでに海軍の通信兵として太平洋方面に頻繁に出撃しており、その合間を縫ってのお見合い・結婚ということになります。結婚後すぐに父は出撃、母は養父母とともに呉軍港まで父を見送りに行ったと、いつだったか母から聞いたことがありました。
父の軍歴表の一部(昭和19年分の一部 母の遺品から発見した)を抜粋してみます。18年には8回にわたって「太平洋方面に向け呉発・戦務甲、呉帰着」の記述が見られます。

昭和19年
1月 2日  呉帰着
2月 1日  太平洋方面ニ向ケ呉発 戦務甲  龍鳳
2月 8日  呉帰着
2月28日  太平洋方面ニ向ケ呉発 戦務甲  龍鳳
3月 5日  ○○○○ト婚姻許可
4月17日  戸籍異動届 19/3/19養子縁組ニ付○○と改姓
3月14日  呉帰着
3月19日  呉発 太平洋方面 戦務甲  龍鳳
4月 8日  呉帰着
4月22日  呉発 太平洋方面 戦務甲  龍鳳
4月27日  呉帰着
4月29日  太平洋方面ニ向ケ呉発 戦務甲  龍鳳
6月 1日  給一級俸
7月 3日  呉帰着
8月13日  呉発 太平洋方面 戦務甲  龍鳳
9月11日  呉帰着
9月29日  呉発 太平洋方面 戦務甲  龍鳳
10月 2日  呉帰着
・・・・


出たり入ったりが多いのに驚かされますが、これが敗戦まで続きます。したがって母が私を懐胎したとみられる昭和20年3月頃はまだ軍役中。当然のように、父が生きて帰られるかどうか全くわからないという状況下でした。母は疎開先で教師をしながら「この子だけは」とひたすら思ったと、これだけは何度も聞かされたものでした。第一子を無事もうけたことへの喜びと思い入れは想像を超えたものがあったのではないかと思います。
私と弟が生まれたのは上新川郡熊野村石田。疎開先のことでした。
私を産んだ日のことを、次のように話していたのを覚えています。

産んだのは疎開先、ばあちゃんは産婆のようなことは何一つしてくれず、ただ柱にひもを巻き付けてそれにしがみつき、よいしょ、よいしょと産んだ。口に何かくわえたら大きな声を出さずにすんだものを、村中聞こえる大きな声を出して恥ずかしかった。あとから「小さい身体でよく大きな子を産んだ」と言われてうれしかった。次男の場合は要領がもう分かったからうまくやれた。

おやおや、疎開先の自然分娩。野性的です。ここでも初めての子に対する思い入れの深さの理由がわかるような気がします。私はそんなことにずっと無頓着できたのでした。今にして、母の気持ちが少しは分かったように思えます。遅いのですけれど・・・。




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