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  6月27日(土)
午前10時の室内温度は24度C。ほどよいさわやかな風が吹き抜けていきます。ただ直射日光の下では、外はさすがに暑く、早朝に水やりをしたあとはおとなしく部屋にこもって先日の町議会一般質問の模様を聞いておりました。

甕、山本、桂川議員の質問とそれへの町長の答弁を聞いている限りでは、現町長の答弁能力はまったくお粗末としか言いようがない。何と言っても、池田町をどうするかという理念や政策に裏打ちされた体系性、説得力がまるでないということです。一年経ってこれだけというのは何ともみすぼらしい。
絵に描いたものはあるらしいが、具体的な方針や手立て抜きで町長の願望が先行するのでまるで「方針」に現実味がないのです。たぶん思い込みが先に立って政策実行に必要な短期・長期の展望を描けないところから来ていると思われます。

町長は今回の答弁で、池田町を「日本で最も美しい村」連合に加盟させるのだとしきりに口にしていました。また、これにかかわって、伊那食品(「かんてんぱぱ」)の塚越寛会長への強い思い入れが語られ、町の観光やハーブセンター、さらには役場内の改革にまで彼のアドバイザーとしての関与をにおわせていました。
この「日本で最も美しい村」連合に池田町が応募するという問題をどう考えたらいいのか。
私の結論を先に言えば、この町長の構想は必要な手続きを欠き、余りに拙速であるばかりか、池田町の現状を無視した「独りよがり」のプランであると断ぜざるをえません。
実は、以前カナダ人のRくんといっしょに町長と面談し私の観光構想を話したときに、町長から「美しい村連合」の話がありました。そのときは、こんな話があるという程度だったので、まさかいま応募する考えだとは思っていませんでした。たぶん多くの町民にとっても寝耳に水の話でしょう。
町長がリーダーシップを発揮するのは一般的には否定すべきことではありませんが、その際でも、役場内はもとより町民にその意義や実現するための手立てを丁寧に説明し説得し、理解を深めてもらう努力が不可欠です。今回は全くそれが全くないのですから、階段の第一歩を踏み外していませんか。

では、池田町がこの連合に加盟する現実的な基盤、条件が果たしてあるのでしょうか。
このNPO法人「美しい村連合」は、その目的を次のように記しています。

この連合は、素晴らしい地域資源を持ちながら過疎にある美しい町や村が、「日本で最も美しい村」を宣言することで自らの地域に誇りを持ち、将来にわたって美しい地域づくりを行うこと、住民によるまちづくり活動を展開することで地域の活性化を図り、地域の自立を推進すること、また、生活の営みにより作られてきた景観や環境を守り、これらを活用することで観光的付加価値を高め、地域の資源の保護と地域経済の発展に寄与することを目的としています。

これに加えて「加入条件」や現在加盟している18の町村・地域を調べてみると、そのどれもが全国的な高レベルの地域の特徴と地域づくりの実績を持ち条件を満たしていることが納得できます。
ひるがえって池田町はどうか。私の見る限りでは池田町がこれに応募して審査を通るという見通しはまずないでしょう。残念ながら条件をクリアしているとは言い難いからです。しかし町長は「すでに条件はある」「客観的に考えても冷静に考えても絶対池田町の町民益になる」と強弁しています。
一つ一つの条件について書いてみようとは思いませんが、たとえば「北アルプスとその麓の景観がある」「てるてるぼうずの里のとりくみや池田の祭り」「桜」「蛍」・・これを聞いていると町長は他の町に行った経験がないのではないかとさえ思われます。我が町を過大評価をする必要も過小評価する必要もありませんけれど、現在の町づくりの現状をどこをもって格別に「美しい」というのでしょうか。
誤解のないように言い添えますが、私はこの町を美しくないとか将来も「連合」に応募する条件がないなどと言っているわけではありません。むしろ反対に、早くそうした条件ができればいいとさえ思っています。先の私自身の提言もそのような気持ちに裏付けられているのです。

連合の加入条件には景観について、わざわざ「生活の営みにより作られた景観をいう」と但し書きをつけ、さらに、「(1)美しい景観に配慮したまちづくりを行っている(2)住民による工夫した地域活動を行っている」と、そこに住む自治体や住民の地域づくりへの参加をことのほか重視しています。この点でいえば、池田町の地域づくりは緒に就いたばかりであり、「連合」の条件づくりの第一歩を踏み出したという段階です。
従って、町づくりへの豊かで確たる方針がありそれを実行していく過程で「美しい村連合」への参加をめざすというのなら十分理解できますが、「まず間違いなく加盟できるからとりあえず申し込んで」お墨付きをもらいそれをテコに町づくりをすすめるというのでは順序が逆です。しかも池田町外の企業のトップの知恵を借りて役場改革も観光へのアドバイスをもらうというのに至っては、自治の何たるかをまるで理解していないことを示しているだけではないでしょうか。どれほど町長に「池田町」への思い入れがあろうが、それはあくまで個人の問題です。
行政の長としての責任は町民に納得のいく説明を尽くしわかりやすい道順を示し、庁内をまとめ、町がやれることと住民に求めることを明確にし、そのうえで町民のやる気をボランティアとして結集することです。その途中がすっぽり抜けてしまっているし、抜けたところにとんでもないものを入れ込むから手がつけられなくなっているのです。
山本議員の質問への答弁で、町長が町の名前(美瑛町を夕映町、木曽町を南木曽町)を間違えるという一幕がありました。これを次の日に桂川議員に指摘された町長は、こともあろうに「人間である以上町村名を間違えることはある。ただそれだけのことです」と開き直ったのには驚いた。普通なら、まず間違いを指摘されたことに感謝し、間違えた町に対して謝罪し訂正することが常識というものでしょう。感覚がずれていませんか。

町長の答弁では、役場ををまるで民間企業、職員を店員や企業にはたらく労働者のように考える「民間指向」が各所にうかがわれました。自治体を企業と同一視されては職員も町民もたまったものではありません。町長には憲法と地方自治法を最初からひもといてもらった方がいいのではないかとさえ思われますよ。
心の病に苦しむ職員が大勢いることが質問された町長は、やはり伊那食品の会長のことばを引き合いに出して「教育勅語をうんと大事にしている」ということまで紹介。今の若い人たちは順境ではそうでもないが逆境には弱いと一般的な話にすり替えて、役場内がどうなっているのかという分析にはまるで無頓着です。
自治体の職員の基本は「自治の精神と住民奉仕」であって、利益を上げるために顧客サービスをどうするかというレベルで考えてはいけないものでしょう。一般質問の答弁でいえることといえないことはあるにしても、もう少し配慮のある答弁が必要だと思われました。

次の写真は、5月12日付けの信濃毎日新聞に載った「連合」の全面広告の一部。




  6月26日(金)
今日は定期の診察日。今回の尿検査でも剥離細胞診の結果は「レベル2」。医師の話では、「レベル5は最初の検査のときだけで、それ以後はほぼ異常が認められないので、最初の診断を疑った方がいいだろう。ガンでないことはほとんど間違いない」ということでした。ようやくガンの疑いから解放です。
話はそのあとの前立腺肥大の手術にうつり、来月7日に入院、8日に手術と決まりました。入院期間は一週間から10日間。退院してもしばらくは違和感があるとのことで、仕事は2週間休むことにしました。手術内容は、尿路から入れた内視鏡付きメスで前立腺の出っ張った部分を切除するTURPというもの。たいした手術ではないので、それ以後はおそらくオシッコもしっかり出るようになるし、これまでの悩みから解放されることになるでしょう。はやくそうなるように願いたいものです。

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今日はまためずらしいお客様。塾で早く来た高2の生徒と話していたときに、ある子が「家でイチゴが今が旬」というので、不思議に思って尋ねると、日陰で生育が遅れていたためということでした。話の勢いで「我が家ではいまがラズベリーがいっぱいできているよ。取りにおいでよ」と言うと、ためらうことなく「行く行く」。結局その友達と二人で今日学校帰りにやってきたのでした。
松川駅まで車で迎えに行くと、定刻に列車から降りてきた二人・・と思ったらいっしょに女の子5,6人が固まってやってくる。「おいおいそんなはずでは・・」と後ろに引いてしまいましたが、一緒の子たちは松川から通学している同じ学校の友達とわかりホッと一安心。「塾の先生のところに行くって言ったらみんなびっくりしていなかったかい」と聞いたら「初めはね」だそうです。中学2年生の終わり頃から面倒を見ている子たちなので気心が知れているし、何でも話ができるという安心感があるのでしょうね。こうやって訪ねて来てくれるのはうれしいことです。
家に着いて、妻も交えてさっそくラズベリー狩り。2日ほど取らないでおいたので、ものすごい量の実がとれました。彼女らは虫がきらいなので「キャーキャー」言いながらも結構たくさん収穫。よいお土産になりました。
その後は、今では定番になった妻の手作りチーズケーキを食べながら音楽や学校生活など、とりとめのないおしゃべりでしばらくを過ごしたことでした。





  6月25日(木)
「地方分権」を旗印にした東国原知事の発言や橋下知事らの行動がセンセーショナルに報道されているのを見ていて、自民党政治の末期症状を上塗りする一つの動きだとは思うものの、それ以上の感慨は全く感じませんでした。
地方自治を奪ってきた歴代の自民党政治の破綻を示す意味では、それなりの「おもしろさ」はあるのかもしれないが、そうした歴史をつくってきた自民・公明・民主のマニフェストを検討して果たして「地方分権」が可能になるのですかね。
無駄を排し、霞ヶ関をぶっ壊して、彼らが作ろうとしている地方分権とは一体どういうものなのでしょうか。彼らの言葉の中に、小泉政権以来の「三位一体改革」を批判する言動はいっさいないし、彼らが当選する基盤となった政党自体が衆議院の比例代表の議員数を削減することを主張しているわけですから、きわめて危うい「地方分権」議論と言わなければならないでしょう。そもそも「地方自治」が憲法上の要請なのであって、「地方分権」という言い方はどうにでもとれる曖昧さがつきまとっています。
従って、この知事たちの動き、主観的にはどうあれ客観的には国民に対する「目くらまし」の役割しか果たし得ない。なぜなら今日の経済的な困難や生活の苦しみの根元にはいっさい手をふれず、それらの実行部隊である官僚や一定の制度(たとえば先にのべた議員定数など)をいじったところで、場合によってはいっそう民主主義を制限し事態を悪くする可能性すらあるのですから。
彼らの主張する「無駄」には政党助成金は入っていないでしょう。グァム協定による屈辱的なアメリカ奉仕の予算措置も、大企業へのさまざまな優遇税制の是正も視野には入っていないはずです。
労働者の働く環境や権利をこれほどむしばみ、医療や年金や福祉の制度を改悪し、教育にいっそうの競争を持ち込んできたことに対して、根本から「世直し」できるかどうかが今度の総選挙の争点なのであって、彼らのいうような流儀での「官僚制度を壊して地方分権を確立する」ことにあるわけではありません。そして選挙になれば、にわかに「革新」の顔をする政党からの呼応もまた気をつけなければなりません。
そうした流れを最大限の賛辞で激励するあの「Fキャスター」の役割もまた問題にしなければならないことは言うまでもありません。

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現在塾での仕事は週4日。そのうち中3が2回、あとは高2と高3です。彼らとのおつきあいは私にとってはある意味私の「活力のもと」です。気持ちの若さを保っていられるという面もあるし、現在の学校教育の実情を少しは知ることもできるし、彼らの生活を知ることもできる。なんと言っても、楽しみながら仕事をできるなんてやっぱり贅沢ですね。
2ヶ月ほど休んだときには、メールをくれたり手紙をくれたりしてずいぶん心配してくれましたから、彼ら彼女らとの関係はなかなか良好なんですよ。しかし私はもうこんな年。おじいちゃんほどの年ですから、みんなはどう思っているんでしょうかね。あんまり違和感ないんでしょうか。一度聞いてみますか。
彼ら、彼女らにとっては、現在の高校数学はやはり大変敷居が高いらしく苦労をしている様子。克服する努力をしようにも、ネックはやはり部活にある様子です。この学校での部活という存在は、ますます生徒の正常な発達を阻害しているものになっていると思えてなりません。
第一、部活といってもほとんど運動部ですから、人間関係でのさまざまな鍛えられ方はあるのかもしれませんが、知的な発達という点では部活の果たしている力はきわめて弱い。弱いだけでなく場合によってはマイナス要因になっている。
本を読む暇も、友達といろんな話をすることもなく、社会的な関心を広げることも阻害されているわけで、まわりじゅうの大人がモラトリアム人間を大量生産している様相を呈しています。
そんな彼ら彼女らも塾の日には遅れてもやってきて、何かをつかみ取ろうとしています。
家庭でのいろんな問題も肩に背負いながら、それでも前を向いて学習しようと努力する生徒たちには、「けなげさ」を感じてしまいます。このあとどれほど続けられるかわからない私に、これまで培ってきたものをすべて投入したいと思わせる生徒たち。私自身にとっては、生徒たちとの距離感は全くありません。それがすれ違いでないことを願うばかり・・・です。


  6月24日(水)
今日クリーニング屋に行った帰り、かつて住んでいた借家の横を通りがかると、ラズベリーが赤い実をたわわにつけているのを見つけました。
おいしそうだから摘んでいこうと思ったわけではありません。明らかに引っ越しのときに取り残したもので、それが今では大きな株になっていたのでした。
その家はその後に住んでいた人も引っ越して今は無人。そこで大家さんに連絡して育った株をもらうことにしました。
さっそく作業にとりかかると、我が家と同じで子株があちこちに芽を出してそのまま放置すれば庭中ラズベリーの株で覆われてしまうくらいになっていたのでした。実を摘んで食べたりジャムにする分にはいいのですが、増えすぎると始末に負えない。大家さんも「家にある木も茂りすぎてどうしようもない。全部こいでいって言い」と言ってくれたほどです。
もともとこのラズベリーは向かいのOさんが実のなるのを楽しみにして大事に育てていたもので、いわば彼の忘れ形見。彼が亡くなった後、我が家に引き取ってきて育てていたものだったのです。生前、彼の庭で「新しい芽がでたら一株ほしいんだけど」「もちろんいいよ」という会話を交わしたことが今もなつかしく思い出されます。

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さて、先日東京の友人から一冊の本が届きました。「北欧 考える旅」(副題 福祉・教育・障害者・人生)という本です。著者は全国障害者問題研究会事務局長の薗部さん。
彼は日本の障害者福祉と権利向上の活動に携わる忙しい毎日を送る傍ら、何度も北欧を訪問し、彼の地の福祉や教育の実態をつぶさに調べ、その都度雑誌やインターネットを通じて発信してきました。この本はそうした北欧訪問活動の現時点でのまとめとしてかかれたものです。
フィンランドは「学力世界一」として数年前からにわかに注目を集めて、書店にいけば「フィンランドもの」ともいえる本がたくさん並んでいます。ただし、教育に関するものが圧倒的で、障害者や高齢者福祉という視点から現場に入り込んで入念に実情を記録したものは薗部さんの本くらいでしょう。(もっとも私にはフィンランドといえば、Linux生みの親リーナスさんの生まれ故郷というのが先にきますけど・・・)

この本は、いろんな施設を訪問してのレポートという形式で簡潔に記されているし、写真も多いのでとても読みやすい。
読んで最初に出るのはやっぱりため息ですね。つまり、ついかの国とこの国のあまりにも違う実態、考え方、生活に、驚くより先にため息がでてしまうというわけ。かの国だからできることであって、日本ではどだい無理なことなのではないか、歴史の違い、風土の違いなど差異が大きすぎて比べることはできないのではないか。そうした敗北的な感情にとらわれなかったといえばウソになります。
そのあとは、気をとりなおして、「考えて」みる。彼が「考える旅」というタイトルにしたのは、自分も考えるが読む人にも考えてほしいというメッセージだろうから、本を送ってもらったお礼に少しは「考える」ことをしないとね。
彼に対するお礼のメールにも書いたことですが、人間の生活する国・社会の中に、私たちがこうあってほしいと願うささやかでふつうの希望をかなえているところが実在するという確かな希望こそ、この本から受け取った第一のメッセージでした。「あたりまえのことがあたりまえとして実行されている」国の姿がここにはあります。
ただ、教育に即して言えば、「競争があるのが当たり前」というこの国の常識はかの国では通用しませんから、「あたりまえのこと」には少し注釈が必要かもしれませんが・・・

私のメールへの返事で彼は「旅すれば旅するほど、民主主義の深さと、個人の思想と倫理と・・・」を痛感すると書いていました。そして、こうした「当たり前のことがあたりまえにできる条件とは何か」という私への問いに「とどのつまりは『教育』(しかし、これが日本では一番困難な課題かも)、そして、民主主義をなす「自治」(これは、身近なところで、つくりあげるしかない)」と書いてくれました。まったく同感です。
フィンランドといえども、昔からこのような国の姿であったわけではないことは福田誠治さんの「競争やめたら世界一」(朝日新聞社)や堀内都喜子さんの「フィンランド 豊かさのメソッド」(集英社新書)に詳しいし、教育力の高さも90年代の不況を乗り越える中で制度改革が進められていったことは前掲書やリッカ・パッカラさんの「フィンランドの教育力」(学研新書)にくわしい。こうしたことを知ることは、現在まるで正反対の方向を向いて「改革」されようとしている日本の実情を批判する大きな力を与えてくれると思われます。
もっともっと北欧のような福祉や教育の実情が日本で紹介され、日本の実態に即して学ぶべきことが学び取られるようになってほしいと思わずにいられません。
「北欧 考える旅」(全障研出版部)はどこの本屋でも買えますので是非ご一読を。


  6月23日(火)
昨日は午後から集中豪雨のような雨。とくに夜に入ってからはものすごい降りようで、ちょうどプレハブの中で授業をしていた私はあまりの雨の音に、ものすごい大きな声を出さないと生徒には聞こえない。もちろん生徒の声も全く聞こえない。生徒は「こんな雨だからもう授業やめよう」とニコニコとして言う。私は「こんな雨だから止むまでしっかり勉強して待っていようね」と返事。平方根の勉強をしていた中3生は、雨のせいか、どことなく集中して一生懸命やって、あげくは「もう頭が破裂しそうだ・・・」。
大町から帰って我が家の近くに来ると、道の真ん中にぽつぽつと黒いものが無数にあります。何だろうと思ったら飛び跳ねている。田んぼからカエルが這い出してきて大移動をしているのでした。家の軒先にも小指の先より小さいヤツがいましたから、一体どれだけ移動してきたのでしょうか。夏は田んぼではなく日陰があってえさのあるところで生活するのでしょう。まわり中アオガエルだらけです。

一転今日はまた朝から強い日差しが照りつけて天気の変わり様はすごいものがあります。ちょっと外に出て道路脇の整理をしていただけで汗が噴き出してきます。早々に家にもどってこれを書いているというわけ。妻は「ひまわり」や「コスモス」の手入れでがんばっています。

庭ではラズベリーが見る間にどんどん赤くなっています。取らないと黒ずんで朽ちてしまうので毎日収穫することが必要。さて、今度はラズベリーの収穫にいらっしゃいませんか。そのまま食べるのはいまいちですが、ジャムにすると香りが強くすばらしい味です。
午後からは日差しがいっそう強くなったので、ラズベリーを収穫、すぐにジャムをつくってしまいました。グラニュー糖を入れて煮ているとものすごいい香り。あとでレモン汁を少々入れてさらに煮つめて、おいしいジャムが一瓶できあがりです。この分だと毎日一瓶ずつできるかも。本当は秋の方がたくさん収穫できるのですが、株が大きくなっているので初夏の実も取りきれないほどです。






雨が上がると、とたんに雑草がものすごい勢いで伸び始めます。この生命力はハンパではない。きのうまでなかったのに今日はすっくと立っているのですから、彼らと根比べ。雨のおかげで夏野菜も生き生きとしています。キュウリは少しずつ収穫できるようになってきましたよ。





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今日は旧安保条約発効の日。そして沖縄戦終結の「慰霊の日」です。この日は、第32軍司令官牛島満中将(当時)を中心とした司令部が自決した日であり、この日を境に組織的戦闘が終結したという史実に基づくわけですが、23日とすることには異論もあるようだし、組織的戦闘が終結したことをもって「慰霊の日」とすることにはやや違和感もないわけでもありませんが、あの日をふりかえって唯一の地上戦の様相を知り死者・被害者を悼むことは大きな意味を持つことです。

昨日はNHKの「沖縄慰霊の日特集“集団自決”戦後64年の告白〜沖縄・渡嘉敷島〜」を見ました。金城さんの告白は、これまで知られていたことを家族を手にかけた自身の口から語られたという意味で衝撃的であり、あの戦争の実相に迫るものでもあったと思います。
たとえば「新しい歴史教科書をつくる会」のホームページを見てみます。あいかわらず「軍命令はなかった」というキャンペーンを張っていることがわかります。彼らは「ある個人に軍命がなかった」ことをすべてであるかのように誇張して、結局「追い詰められた住民が自らの意志で死を選んだ」と言いたいのでしょう。だからどうだというのでしょうかね。彼らにとっては「ある特定の少数の個人に軍命がなかった」ことがすべてです。中にはことの成り行きがよくわからないまま殺された人もいたことでしょうし、追い詰められて狂気に駆り立てられた人がいただろうことは当然考えられることです。そしてその一方で、軍命を証言している人もまたたくさんいることを忘れてはならないのです。
軍の組織的関与は、いわゆる「従軍慰安婦」と全く同じ構造になっている。直接軍が集めた訳ではないから組織的関与はないという論理です。しかし、これまでの地道な証言聞き取りの中で、集団自決にしろ従軍慰安婦にしろ、軍の直接・間接の関与という具体的な実像がすでに明らかになってきているのです。歴史学の中ではすでに決着の付いたことがらを、「つくる会」などがこうして「政治的な問題」としてむしかえすことこそ、彼らの意図の「政治性」を如実に示すものです。

雑誌「世界」で連載されていた「太田昌秀元沖縄県知事と佐藤優さんの対談」が「7月号」で第6回を迎えました。沖縄の歴史や沖縄を巡る現状を知る上で注目すべき対談だと思ってずっと読んできたのですが、今回の対談の中では太田さんのいくつかの発言が注目されました。ちょっとだけ引用してみます。

太田 私は1982年に「総史沖縄戦」という本を岩波書店から出しましたが、当時は県内の53市町村の半分くらいしかそれぞれの市町村史に戦争のことを取り上げていませんでした。それが今ではほとんど全市町村が字誌まで出していて、それらの記録には、びっくりするほど多くの住民の証言が収録されています。「集団自決」の証言だけでもずいぶんたくさんあるし、軍の命令を聞いた、という人の証言なども少なくないのです。・・・『WiLL』とか『正論』といった雑誌には、軍隊が直接民間に命令を下すことは、絶対にあり得ない、などと書いてありますが、事実に反します。私たちは、守備軍司令部からやってきた野戦築城隊隊長の駒場少佐から口頭で命令を受けて戦場に駆りだされたのです。ですからその証拠となる命令書はない。かといって、命令自体がなかった、ということにはなりません。

佐藤 歴史修正主義の問題は位相が少々違うと思います。彼らの論議は、実証的な歴史学から考えると箸にも棒にもかからない話です。ところがその目茶苦茶な議論でかみついてくる。それに反論すると、こちらが土俵に上がったというかたちだけが必要なので、あとは一方的に自分たちの話をして、そこには誠実な対話はまったくない。・・・
いままで沖縄の知識人はあまりにもかれらを軽く見過ぎていたと思います。沖縄の中では問題ないのですが、沖縄の外側から包囲されてしまったのです。沖縄県内においては、集団自決にしても、実証性に基づいた共通感覚でとらえている。ところが、1980年代半ば以降、日本の知識人たちがものすごく弱体化したのです。
ポストモダンといわれる流れの中で、小さな差異こそ重要であって大きな物語は意味がないのだという風潮が強くなった。反戦や平和、戦争という大きな枠組みよりも、均質な集団の小さい暴力の集積こそ重要なのだという話で、国家が犯した犯罪や歴史に対する責任を等閑視してしまった。そこに小林よしのり氏のような、学術的には箸にも棒にも引っかからないような水準の輩が大手を振って歩くようになって、気が付いたら彼らが政治言説をつくってしまっている。その言説がなかなか崩れないという状況です。


佐藤さんの「小さな差異こそ重要であって大きな物語は意味がない」「反戦や平和、戦争という大きな枠組みよりも、均質な集団の小さい暴力の集積こそ重要なのだという話で、国家が犯した犯罪や歴史に対する責任を等閑視してしまった」という指摘は示唆に富んでいます。たとえば、「特攻」という自爆攻撃を大きな歴史的視野で見るのではなく、「愛する者を守るために」などといった小さな枠のなかでその死を見つめさせようとする風潮。

さて、「慰霊の日」の特集にもどれば、NHKの取材は、「戦陣訓」を軍隊だけでなく民間人さえも縛るものとしてとらえ、軍のまき散らしたアメリカ軍の「捕虜虐殺」という虚言に縛られていたことを明らかにしていました。また認知症になった金城さんが渡嘉敷島を見ながら口にした番組最後のことばは番組の大きな到達点。あの戦争への視点を金城さんの痛恨の体験から据えていた点で、優れたドキュメンタリーになっていました。
「戦争で亡くなられた方々の御霊を考えた場合に、どうしてああいうことをしなければならなかったのか、その一点だけは心の中から消えることはないと思います。国のため、国のためといくら言っても人間が死んで何が国のためかと、今さらその思いなんです」


  6月19日(金)
今年はあまり気温が上がらないせいか、夏野菜の生育がいまいち。それでもやることは山のようにあって、少しずつとはいえ時間があれば外に出てせっせと手入れをしています。
今日はちょっと無理をして数時間。ジャガイモの消毒、マメの植え付け、イチゴのランナー取り、ネギの土寄せ・・・・・おいしいものを食べようとすれば、手間暇かかりますね。

国会の状況を見ていると、自公政権の最後のあがきというか、多数の横暴の極みの衆議院の醜態。民主党小沢元代表の秘書の裁判の様子もまさに田中派の流れをくむにふさわしいばかばかしさ。これに輪をかけて、民主党の失点を敵失として選挙の時期を探ろうという麻生政権の愚かしさ。
エコポイント制度といい、エコカー減税といい、結局はあとの増税を含みとしたばらまきでしかないことを知らないとでもいうのでしょうか。1m1億円の地下自動車専用道をつくることも、アニメの殿堂も同じこと。この国の政治と経済の骨格をボロボロにした自公政権の罪はきわめて深いものがあると肝に銘じて総選挙に臨まなければならないでしょう。
あの某党の選挙向けポスターの鉄面皮。「生活を守りぬく」とは聞いて呆れて言葉を失ってします。本気でこれを有権者に示すのですからどうしようもありませんね。こんなひどい高齢者医療制度を導入したり、障害者に応益負担を押しつけたり、社会保障費を年々削ったりしていることをどういいわけするんでしょうか。ま、ご本尊の生まれ変わりのおっしゃることには逆らえないのでしょうから、何を言っても馬耳東風かな。
民主党の中には、それなりにまじめに悪政と向き合っている議員もいますが、いかんせん大本のところで言っていることとやっていることが大矛盾。政治が官僚によって牛耳られているとは言っても、財界に牛耳られているとは一言もいえない。また、思いやり予算なども全額削れなどとも主張できない。これからの日本をどう変えるべきなのかというもっとも有権者の関心のある具体的な政策では、自民も民主もほとんど変わりがないのは周知の事実です。それでも「よりまし」といえるのかな。民主は政権の「受け皿」になりうるのか。
仮に今度の衆議院選挙で民主党がそれなりに議席をとり、あるいは政権を取ったとして、どれほどの政治改革ができるのかはもうすでに見えています。
財界やアメリカにとって差し障りのないような政策についてはそれなりに提案することはできるでしょうが、国民の苦しみの根元をなしている大企業の無法やアメリカの世界戦略を変更させる政策を出せるはずもない。むしろ、消費税を上げて国民生活の痛みをさらに広げ、アメリカの戦略にいっそう深く組み込まれる道をとらざるを得ないだろうことはもうはっきりしています。私、今から「大予言」しておきますよ。
世直しには、根本的な改革を必要とする時期がかならず生まれます。もちろん自然発生的にではなく。総選挙でどのような態度をとるか、さらには、毎日の生活でこの時代の流れをどう読み解くか、本当に真剣に自らに問いかける必要があると私には思えます。



  6月18日(木)
庭の深紅のバラのはなびらをベッドがわりにして一昨日から一匹の青ガエルが花の真ん中にじっとしています。いやいやいいところを見つけたもの。全く動く気配がないということはよほど居心地がいいのでしょうね。大空の下、こんな豪華なベッドでのんびりしているカエル君がうらやましい。


先日、池田町に住む小学6年生のMくんのことをNHKが放送していました。彼は蝶の写真家で池田町ではもはや知らない人はいないほどの有名人。優れた蝶の写真を多数撮って、自分のブログで紹介しています。
彼に協力して(教えてもらいながら)山歩きをして蝶の写真を撮っているのは友人Tさん。彼が番組のことを教えてくれました。録画して2度ほど見ましたが、こんな小学生がこの池田町にいること自体すばらしいことです。それだけ池田町にはたくさんの蝶が生息していることの証でもあるわけですから、なんとしてもこの環境は守らなければなりません。私などは庭先に向こうからやってくる蝶をときどき写真におさめるくらいです。それでも、いろんな蝶がやってきてくれますから、これからラベンダーが咲く時期は楽しみです。


NHKの夕方の番組で「10歳の壁・・なぜ衰えた考える力」という番組を放送していました。算数での抽象的な力の獲得に大きな問題があることを例に、小学4年から5年にかけて急に考える力が伸びなくなっている現実を強調していました。
番組では、親や子どもたち同士のコミュニケーションの欠如、単純計算の強要で考えなくなっている子ども・・・そんなことを言う前に、算数のカリキュラムがどうなっているかを見た方がいいでしょうに。
番組では「どうしたら考える力を育てられるか」に焦点をあてて、ある学習塾の取り組みを紹介していましたが、こんなことはすでに1960年代から70年代にかけて「数学教育協議会」が確立し、その後豊かな実践が積み重ねられてきたことです。とりわけ、遠山啓の業績は偉大なものがありました。部分的には「換骨奪胎」したうえで、その形だけは教科書にも取り入れられましたが、精神が無視されたために今日の混乱が生じているとさえいえる。
教育が土台とするところは現実ですから、子どもたちに思考力をつけようとして現実を代表する実物で教えることに傾斜しがちです。それで抽象的な計算を説明しようとするわけです。
しかし、遠山さんの主張は当然現実の量的な関係に注目しながら、それを半具体物(シェーマ)に置き換えていくことを重視します。このことをていねいにやってはじめて、自立的な思考と同時に抽象的な思考へ扉をひらく。
今日の算数・数学教育のもっとも欠けていることは、すでに確立された教育法にすら戻れない教育現場の「教える力」。文部行政の場当たり的、差別・選別教育政策によって混乱にいっそう拍車がかけられていると私には思えます。



  6月15日(月)
まだ朝夕になると寒くなって、Tシャツ一枚では過ごせないほど。
さきほど、観光協会から電話があってNHKの松本支局の方が池田町の観光についていろいろ取材しており、私からも話を聞きたいという趣旨の依頼がありました。ホームページを作るくらいしかやっていないので、どんなことを聞かれるのかわかりませんが、お役に立てるのであればと受諾しました。話の中心は「観光とホスピタリティ」ということのようです。

というわけで、あらためて「池田町の観光とホスピタリティ」ということについて考えてみました。
昨年の名古屋の観光客の反応にしても、これまでのウオーキングのアンケートからも、池田町でのウオーキングの評価は決して悪くありません。むしろ満足度は相当に高い。北アルプスの景観ぐらいしか誇れるもののないこの町を訪れる人になぜ満足してもらえ、またリピーターとなってもらえるのか。その答えはしごく簡単ではないかと思っています。
それはガイドマスターをはじめ、観光の最前線の活動を受け持つ人たちの「もてなしのこころ」に尽きる。とりわけガイドマスターのメンバーの無私の活動が支えているものは猛烈に大きいと私は思っています。
池田町のウオーキングロードを案内してほしいという依頼があれば、喜んでいっしょに歩くメンバーたちは、別に報酬を期待しているわけではありません。むしろ時間を捻出し身銭を切って案内しているのです。そこには「楽しんでほしい、喜んでほしい」という気持ちだけしかない。これは大きなことです。もちろん観光行政がこれに甘えてすべてボランティアでやるのが正しいなどという間違った認識を持ってもらっては困ります。まして、「観光客が落としていくのは糞尿だけ」「どれだけの経済効果があるのか疑問」などと揶揄する輩には言うべき言葉もみつかりません。
池田町のようにさしたる観光資源のない町では、自然に親しもうと訪れる人たち、あるいは自然の中でウオーキングを楽しもうと訪れる人たちに対しては、「もてなしのこころ」だけがその人たちの満足の源泉なのです。経済効果はあとからついてくる。
ちなみに、行政がやるべきことは、こうした善意のボランティアに対して、それなりの条件整備を行うことや、町として観光資源をしっかり保全し、池田町にふさわしい観光に耐える里山づくりに取り組むことでしょう。
池田町で観光の町作りがスタートしてそれほど経たない現在においては、満足度が高くても、これからずっとそうである保証はありませんから、ここいらでこれまでの活動をしっかり総括し、今後の方針を立てる必要があると思われます。
今年に入ってガイドマスターが数名増え、あらたに活動が動きだそうとしています。しかし、その活動には依然として組織的なあいまいさや、活動の不十分さがつきまとっています。新たな発展を求めるのであれば、こうした問題点を直視して早急に改善すべきでしょう。

ガイドマスター新規募集チラシ(原稿)です。


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夕方、仕事に出かけようとしているところへ、飼い猫のハルちゃんが私を呼びに来ました。何か食べたいのかと思って居間に行くと、何とそこに転がっていたのはモグラ。ハルちゃんは、「何か変なものを取ってきたから見てくれ」と言いにきたのでしょう。ネズミと違って、転がして遊んだり私が触っても怒ったりはしません。ちょっと様子を見てあとは知らん顔。ネズミとよく似ているので取ってはきたものの「こりゃ食えん」とでも言いたげに、あとはもう無視です。
モグラってやつは地面の下にいるので、そう簡単には目にすることができませんから、改めてマジマジと見ると、おもしろい格好をしていますね。やはり目が退化、しっぽは小さく毛がまばらに生えています。手はシャベルのように発達して、あとはずんぐりむっくり。しばらく前に小さいモグラを捕まえたことがありましたが、それ以来です。体はとくに痛んではいなかったので、何枚か写真に納めておきました。いったい何を思ってモグラなど捕まえてきたんですかねえ・・・。









  6月13日(土)
昨日夜の「報道ステーション」を見ていましたら、「政治には金がかかるのか」というテーマでしばらく自民・民主の政治家の実態を追っていました。
例によって民主党の馬淵議員の台所を取材していました。その中で注目した点を二つ。一つは彼が会社を経営していた経験から企業献金というのは「必ず見返りを求めるものである」と指摘していたこと。二つは、彼もまた政党助成金1000万円(2000万円だったかな)を当然の収入として計上していた点。
自民党の議員は「企業献金が一律に悪いわけではない」と開き直り、かつ「企業も市民ですよ」という会社役員の声も取り上げていました。何を言わせているんですかねえ。企業は市民ではありませんよ。企業が選挙権・被選挙権でも与えろといいたいのでしょうか。
最後にある大学の先生が「政党の活動費は本来政党本部が個人の政治資金も含めて一括管理し運営すべきだ」とコメントしていましたが、これだけが多少ともまともな意見でした。

たとえば、我が日本共産党ファンクラブの運営は、本当にささやかな一人一人の拠金・募金によって活動が成り立っています。ほとんどが500円とか1000円とかという募金。一人一人と面談しながら趣旨を説明して集めているのです。そのニュースも政党のものではなく、ファンクラブという後援組織のもの。一年を通して地道に地域に密着して政治活動の裾野を広げ、政党への支持を広げていく。広い意味で政党活動とは本来そんなものでしょう。
自民党にしろ民社党にしろ、こうした活動を地域ですすめているなどという話は絶えて聞いたことがありません。公明党は創価学会と一体ですから地域活動はすべて宗教活動。この範疇には入りません。
全国的な政党活動でも地域的な政党活動でも、企業献金などというひも付きの金にも憲法違反の政党助成金にも拠ることなく、自らの活動の中で広く集めた募金や事業収入だけで政党活動や選挙活動を行うことができる政党がこの日本に厳然と存在している。この事実に注目しているのは海外のメディアくらいで、日本のマスメディアは絶えて語らない。それもそのはず、語れない事情があるのでしょうけどね。



  6月12日(金)
我が家の庭では夏野菜が少しずつ生長。その周りには適当に花たちがまだ咲いています。もう少しまとめてきちんと植えて花壇にでもすればいいのでしょうが、種が飛んでそこいらで生えてきたという風情で、これもまたよし。風に揺られてちょうど見頃です。今日は一挙公開。














鳩山総務相の辞任でマスコミはにぎわっていますが、なぜ鳩山さんがこれほど西川社長の再任にこれほど強い反対をしてきたかについての言及や背景の分析はおどろくほど少ない。
あのKOIZUMIさんが「三顧の礼を尽くして」迎えたという西川氏とは何者ななんでしょうか。彼は日本郵政発足前は三井住友銀行頭取。
赤旗6月10日「まど」欄によれば、そのころ三井住友は二つの問題を抱えていた。一つは、取引先の中小企業の弱みにつけこんで金融商品を押し付け販売したとして独占禁止法違反に問われていたこと。二つ目は、サラ金のプロミスを傘下にとりこんで、そのノウハウを使ってサラ金並みのカードローンに乗り出し、サラ金との癒着・一体化を強めていたこと。
中小・零細企業には貸し渋り・貸しはがし、庶民にはサラ金並みのカードローンという、大銀行の社会的責任の希薄さをまさに体現していたのが西川氏です。
日本郵政となったあとも、かんぽの宿の売却問題やゆうちょ銀行のカード事業委託を三井住友カードが独占している問題が指摘されており、「三井住友出身者が日本郵政を仕切る癒着ぶり」は目に余るものがあります。これらについてマスコミはやはり表面的にしか報じない。
しかし、もっと深い、そもそもの問題の根源は、国民の共有財産だった郵便事業を大企業の利益むさぼりのために差し出した「民営化」そのものにあるわけで、麻生・鳩山の確執などというレベルの問題ではありません。
国にも地方にもまだ「官から民へ」という路線にしがみつく人たちが大勢いますけど、これら「民営化」神話の信奉者はアメリカのGM「国有化」についてどう解説するんですかねえ。一度ききたいものです。

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話は前後しますが、今日の検査の結果です。剥離細胞診の病理結果は今回レベル2。前より一段階下がって、ほぼ異常なしの診断です。まだ余談は許しませんが、自分での判断では膀胱内の傷はほぼ治ってはいるものの、管を入れ替えるときに傷に触れて組織がはがれたり血がにじんだりすることがあり、それが影響しているのではないかと思われます。医者は、もう一度入院して再検査することも考えられるが、と言いますが、果たしてそれでガンの部位を特定できるのか。それより早くオシッコの出をよくするようにして、そのあと定期的に検査を続けた方がいいように思います。とにかく、あとしばらく検査続行です。次回の検査は6月26日。



  6月11日(木)
しばらく更新をサボっていたら、「どうしたの?」と妹から心配の電話がかかってきました。一度書かなくなるとつい怠け癖が出て、別のことに注意が行ってしまって・・・ごめんなさいね。まずまず元気で過ごしています。
明日はまた検査の日です。あと月末にもう一回くらい検査があるかもしれませんが、あまり長く検査ばかりしているわけにもいかないので、適当な時期に次のステップの決断を下さないといけないことになるでしょう。尿の色もとてもきれいだし現在はとくに問題になるようなことは全く見られませんから。

昨日は妻も書いていましたが、あるメーカーの支店長が部下とともに太陽光発電の説明に来ました。是非話を聞いてほしいというので、話だけは聞こうということになっていたのです。
かねてから太陽光発電の設置は視野には入っていましたが、何しろ設置費用が半端ではない。今から何年生きられるかわからない私たちのような年金暮らしにとって、果たして設置するメリットはあるのかどうかは一番の問題点。それがネックになってこの家を建てるときもとりあえず、太陽熱温水器の設置だけにしたのでした。
訪問したのはパネルの値段は高いけれど一番変換効率が高いというS社。政府のエネルギー政策の後押しもあって長野で設置家屋を増やしたいという社の方針で、あちこち適当な家を探して説明しているのだということでした。
設置費用がどれだけなのか、変換効率がどれだけなのか、売電額を計算して何年で償却できるのかなど、さまざまな問題について話を聞きました。もちろん他社の客観的な評価も必要ですからネットで調べたりしたことからいえば、この日の説明は自社の宣伝を交えて売り込みの色合いは濃いものの、比較的まじめに話をしていたように思えました。
売電の価格も国際的な水準に近づけるために政府もテコ入れせざるを得なくなっている事情で、仮に現在の価格の2倍くらいになれば約10年で償却できるという計算。途中で私が死んだりすれば、その後の支払いについては補償するという保険もつけての話ですから、一般家庭でもそれなりに手が届くところに来たかなという感想を持ちました。
しかし、実はここにも落とし穴があって、発電する電気はすべて2倍で買い取るというわけではなく、電力会社との「契約要項」によれば余剰の電気だけが買い取りの対象になるわけなので、我が家のように結構たくさん電気を使っているところではそのメリットも少なくなることが大きな問題。また、設備の中のパワーコンディショナーを取り替える必要が生じることや、ローンで分割払いにした場合の利息分の支払いの問題などもあります。これらをよく分析し正確にシミュレートしないと結論を出すことはできません。
東京、大阪などよりも長野松本地方が一番日照時間や光の効率から行って有利という話。池田も松本とさほど変わらないことは温水器の利用からもよくわかるので、あとは損益分岐点の年月と補償期間、政府や自治体のエコ政策の問題ということになるでしょう。さらに検討を深める必要がありそうです。
<参考>
@「省エネドットコム」
A
「太陽光発電の実際」(基本編、実践編)
B太陽光発電普及拡大センター
C「エコタウン 太陽光発電」




  6月5日(金)
仮に不当な理由で逮捕され尋問されたときに、自分ではどんなに不当な取り調べにも自白したりは絶対にしないと思う。それはごく当たり前のことでしょう。しかし、いくつかの条件が重なったときに自分で思いもしない結果をもたらすことはあり得ることです。
もうずいぶん前のことですが、ぐるぐる回る画面をじっと見つめていて、とんでもない恐ろしい気分(気持ちが悪いだけでなく心理的におかしくなりそうな感覚)になりそうになって、目をそらしたことがありました。直前はたとえそんな画面を見てもそうなるなどとはとても予想していなかったことです。
足利事件で逮捕され、17年もの歳月を経てようやく冤罪が晴らされようとしている菅谷さんの記者会見の模様を見ていて、ふと思い出してしまいました。
自白を強要する際の警察の物理的・心理的な圧迫感はおそらく我々の想定外。なぜ自白したのかなどという問いは彼らプロの前では愚問というべきだし、「失われた17年の歳月をを返してほしい」という菅谷さんの訴えは、警察・検察の捜査方法や裁判のありかたすべてにわたって厳しい批判を突きつけるものです。
これに対して現在の警察の対応は、「すべてのあらゆる捜査をしてできることは尽くした。後悔はしていない」(当時の幹部)というもので、事態の重みを顧みての反省の弁は全くありません。まして、「髪を引っ張ったり蹴飛ばしたり」という物理的な取り調べから、暴力的な警察の体質さえ見え隠れするにもかかわらず、それすら否定するに至ってはその体質を追認するものでしょう。
DNA鑑定などの科学捜査を過信する誤りを犯したのは警察だけでなく裁判所もそうです。またマスコミも同調して有罪が確定する前から「推定有罪」の論調。これは足利事件だけではありません。
こうした冤罪事件を2度とつくらないためにも、今回の事件からくむべき教訓は限りなく多い。菅谷さんに対しては、直ちに再審無罪を確定し、その後直ちに国家賠償と完全な名誉回復を果たさなければならないでしょう。

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昨夜マルチブートにしていたWindowsXPのモニタの設定をいじっていたら、デュアル・モニタの設定をさわってしまったらしく、画面が真っ暗になって何にも映らなくなってしまい、またまた悩みのたねをつくってしまった。
結局カードを外してマザーボードのドライバに切り替え、さらに前のカードのドライバを削除、カードをつけてまたドライバを入れ直すというアホな作業を今朝早くから延々とやっておりました。もうほとんど病気。こっちの方が現在の私の病気の症状より深刻かもしれませんね。
Appleの古いマシンからもう10数年続くこうした私の「のめり込み」はオタク状態ですけど、そこから得られる副産物としての知識や技術が結果として魅力なので続いているんだと自己分析しています。全国には私などよりももっと激しく情熱を燃やし、専門的な知識と技量を身につけている人たちが無数にいるわけで、わたしもちょっぴりその末席を汚しているというわけです。
まだまだ闘いがつづく菅谷さんには、こんなことで時間を浪費しているようでは全く申し訳がたたないですね。

昨日は残りの「サツマイモ」の苗が届いたので、今日は植えるぞ〜〜。

午後からずっとしとしと雨。もう梅雨入りのような天気です。夜に入ってようやく雲を通して月が少し見えるようになってきました。明日は何とか雨が落ちないでほしいもの。
昼過ぎ、雨の切れ目をぬって妻とサツマイモを植えてしまいました。雨模様の方が根付くので、それ以外にもオクラやトウモロコシの一部なども一気に植え替え。さすがにちょっと体の調子が悪くなって夕方からはじっとしていました。じっとしているついでにイチゴジャムを一瓶製造。明日からはもう少しゆっくりやることに・・・・。



  6月4日(木)
夕方になって雨が降ってきました。予想通りとはいえ、土曜日にはファンクラブのマレットゴルフ大会が控えているので、明日いっぱいで晴れてほしいものです。
イチゴも収穫のピークを遙かに超えてしまって、もうそろそろおしまい。今日は畑にしている土地の建設業者の若奥さんが子ども連れでイチゴ摘みにやってきました。畑のイチゴは今日のために取らずに残してあったので何とかカゴにいっぱい摘んでもらうことができたのでよかった。


株ごとの実が少なかったので、葉が茂っている割には収穫が少なく、あっという間にピークが過ぎて、これからはランナーの手入れです。そろそろマルチを外して、ポットをたくさん周りにおいてランナーを受け止める作業。これが延々2ヶ月ほど続きます。おいしい目に会えるには苦労をしなければならないということです。今年の株の目標は1000株。来年は(売れずに残っていれば)畑の半分ほどはイチゴにしましょう。今度こそは失敗しないように!!

結局昨夜からほとんど徹夜でUbuntu-Linuxのインストール作業にかかりきり。今日の夕方ようやく元通りの姿に復元することができました。
一体何を何のためにやっていたかは、知る人ぞ知る。まあ、一言でいえば道楽です。インストールしたあと、いろんなソフトを入れてからアップデートをかけるとエラーがたくさん。作業がそれでストップしてしまい、それを解決するのに結局5回ほどOSを入れ直すという馬鹿みたいなことを延々やっていたので、時間がかかりすぎてしまった。前にやったことを結構忘れているので、余計に時間を食ってしまったのでした。
日本語入力のATOK X3 for Linuxをインストールするのにも、躓いてばかり。かつてなじんでいたFedoraもTurboもRedHat系だったのでコマンドが少し違います。
しかし、UbuntuはDebian系だし最近のOSはファイル管理が大変簡単で、WindowsやMacとよく似たインストールができるように改善されていますから、PCFacでもシーズンごとに特集を組むようになって、いまや第3のOS。数年前とは隔世の感ありです。
とはいえ、Windowsとダブルブートにして、さらにLinuxだけを入れ直すとなると、手動でやることがたくさんあって複雑。やはり敷居はまだまだ高い。私の場合は、2,3年前に到達したレベルから一歩も進んでいませんから、一時は完全移行というもくろみも持っていたのに、もう挫折。電気代を食うWindowsマシンに依存している始末です。もう少しがんばって勉強し直すことにします・・・が、ねむたい。



  6月3日(水)
ニュージーランドに行くために何度か国際電話を使ったことがありました。携帯電話から割安でかけられるということでKDDIに登録しておいたのですが、そのKDDIから登録者宛に昨日届いた「国際電話マイルキャンペーン」というメールを見ておったまげた。
ドッヒャ〜〜!!ヘッダ部分に約1000名ものメールアドレスがむき出しに(もちろん私のアドレスも含む)送られてきたのでした。
とにかく他人のメールばっかりで、どれだけスクロールしてもかんじんの本文にたどりつけない。セキュリティも何もあったものじゃありません。これが天下のKDDIのお仕事なんですかねえ。
さすがに今日「KDDI株式会社」名義で「メールアドレスの流出に関するお詫び」が送られてきました。それによると「送信操作の不手際により、送信先すべてのお客さまのメールアドレスを宛先欄に表示したまま送信してしまいました」ということ。
メールに不慣れなときにはときどきやらかす間違いですけど、企業がそれをやらかすのは個人情報漏洩罪、機密保持義務違反etc・・・・。これって、係がCCとBCCの区別すらわからなかったってことでしょ。だとすれば発送した当人の責任もさることながら、KDDIの管理体制が大きく問われる問題ですよ。もうとんでもないことです。
KDDIとしては今日の午前中に報道発表したということですけど、一度流れ出したものはもとにはもどらない。対策としては「受信したメールを削除」することだけを求めていますが、もし迷惑メールの洪水にでもなったらKDDIさんはどうするんですかね。
証拠物件ですから、このメールはしばらくとっておきますよ、わたしゃ。

私が毎号とっているパソコン雑誌のPC Fanには付録で最新LinuOSが付いていました。Ubuntuのバージョンは9.04。つい半年前には8.10でしたからかなり速くアップグレードしたことになります。新しもの好きの私としてはすぐにインストール済みの8.10からネット上でアップグレードの手続きをしました。
ところが、です。前にインストールしたいろんなソフトが全く動いてくれない。ATOKに至っては消えてしまっているではありませんか。これは参った。しかたなく、また前のバージョンのOSにぎゃくもどり。HDDの半分にはWindowsXPを入れているので、パーティーションには細心の注意を払って作業をやらないといけません。つい出来心で無駄な時間を作ってしまった・・・とほほ。



  6月1日(月)
ようやく晴れ間が出てきたので、今日は離れの畑を耕してサツマイモの植え付け、ヒマワリの植え替えをやりました。
私の役目は、耕耘機で耕すことと草刈り機で茂った雑草を刈ること。あまり力を入れる仕事はできないので、畝作りや植え付けなどは妻の役目です。
入手した芋の苗は、ムラサキイモと干し芋用の芋でそれぞれわずか20本ずつ。数日後には今度は紅東や金時などのサツマイモの苗が届くので、今度は本格的に植え付けをしなければなりません。昨年は味がいまいちだったのと収穫が遅かったので、今年はうまくいくように願いましょう。

数日前も書きましたが、今がイチゴのピーク。収穫しないと腐ったり虫に食べられてしまうので、毎日かなりの量をとって朝晩イチゴ三昧です。「贅沢だね」と言いながら贅沢に食べています。ジャムにするほどとれるはずだったのですが、残念なことに例の肥料の失敗で収量が少ないために、ただ食べるだけ。来年はそれこそイチゴ狩りが楽しめてなおかつジャムも作れるようにがんばります。期待していてください。

最近読んだ本の中に平凡社新書の「マルクスは生きている」というのがあります。著者は不破哲三さん。期待に違わぬスケールの大きさで、胸の支えが降りたような感じのする本でした。
もともと昔から不破さんの文章の書き方は大変気に入っていて、よく読んだものでしたが、この本でもその精神は全く変わっていません。どういうことかというと、難しい内容を平易にしかもレベルを落とさずに記述する能力、とでも言ったらいいのか。難しい言い回しは一切使わないで、自然科学から社会科学までのあらゆることがらを正確に的確に記述しています。これができるのは不破さんをおいて他にいないだろうと思うほどです。
物理学出身というだけあって、弁証法的唯物論の説明も自然科学の最新の成果をもとに具体的に説得的に書かれているし、マルクスやレーニンの全著作を研究してきた学識を縦横に駆使して、現代日本の病理や世界の資本主義の危機の深刻さ、さらにはそれらの克服の方向や未来社会への展望をわかりやすく説明しています。
この本は、不破さんがこれまでいろんな機会に発表してきたものを、体系的にまとめたものという色合いを持っていますが、世界でいままた注目されているマルクスの平易な入門書にもなっており、日本の共産党の優れた特質をリードしている著者の面目躍如という印象をうけました。




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