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  7月31日(金)
朝から夕方まで夏期講習で結構疲れます。中3の生徒たちは「自分はバカだからいく高校がない」と言いながらも、「勉強しないと,マジやばい」と焦っている様子。どうして自分を勝手に「バカだ、出来ない」と簡単に決めつけてしまうのでしょう。「そうじゃないよ」と言ってほしいからなのか、半分本気でそう思っているのか、どうも定かでありません。

もう一昨日になりますが、久しぶりの通院検査の日でした。手術からの経過を確認して今後の方針を決めるというのがこの日の目的。結果から言えば「経過順調」で、担当医曰く「劇的によくなっていますねえ」ということでした。ようやく一安心です。手術の際に採取した前立腺の組織検査でもガンと思われるものは検出されず、あとは半年くらいごとに検査を受けておけばいいということになりました。
ただ、現在もなお痛みは残っているし当日の尿検査でもまだ膿や血液が大量に検出されましたが、担当医は「まだ傷がのこっているからこんな結果になっているが、このあと徐々に良くなっていく」と太鼓判を押してくれました。というわけで、この日をもって完全に無罪放免。一件落着。

午前中は雲が広がり蒸し暑くなっていましたが、夕方になって俄に集中豪雨のような強い雨。全くこの空模様はひどいものです。
この間、晴れ間を見ては、妻は豆やジャガイモ畑の草取りに、私は庭の草取りやイチゴのプランターの片付け、イチゴのランナーの整理などをぼちぼちとやってきましたが、晴れ間が少ないし晴れれば暑いし、全くはかどりません。去年と比べると能率は3分の1以下でしょうね。そうはいっても体調と相談しながらの畑ですから、焦らずのんびり構えてやっていくことにしましょう。
妻が夕食時に、ようやく採れはじめた「ヘチマ」の実をおいしく煮てくれました。沖縄では常食の野菜ですが、こちらではタワシにしたりヘチマ水にしたりするだけ。しかし、このヘチマの実、トロトロとやわらかくておいしいのです。太いキュウリくらいになったら食べ頃。明日は味噌汁に入れてほしいとリクエストしました。









  7月27日(月)
午後から晴れ間がのぞいたので、ベランダにでてみたら何と、たくさんのトンボが風に泳いでいた。まるで9月か10月頃の赤とんぼの群れと見間違えるほど。いったいどうなっているんでしょうか。

7月も終わりになろうというのに、今年の梅雨明けは遅く、おかげで畑は水浸し。裏の畑ではイチゴやカボチャの一部が水没して枯れ始め、他の作物も大きくなれないで虫のえさになっています。トウモロコシも茎や実に虫が入って倒れるものが続出。とにかく早く日が出てほしいものです。

一昨日から、通常どおり仕事を再開しました。今のところ体調もかなり回復しており、ある程度の時間なら何ともないようになりました。ただ、明日からはお昼をはさんで長時間の夏期講習が始まるのでちょっと心配。しかしまあ、何とかなるでしょう。
仕事を再開して思うのは、時間が決められていてそれに向かっていく働く対象があることは精神衛生上きわめてよろしいということ。しっかり声を出すことで気持ちがシャンとするし、当然頭もそれなりに回転するので、そのほかの生活にも好影響があります。
この間、入院してベッドの上で天井を見ている日が数日、その後も何もしないで寝ている日が一週間ほど。それからあとも軽い農作業程度でぶらぶらする日を過ごしました。
それらの日々を振り返ってみると、まず完全に寝ている日は頭が正常に働きませんね。前2回以上に深刻でした。
当日病院で次のように書き付けていました。

入院というのは非日常的な生活でも本当に特殊な世界。病気を治すという病院側のプログラムに組み込まれ、しかも体もかなりの程度拘束されてしまうので、普段のように空いている時間をこうしようああしようということにはならない。意識的に時間を管理することができずにずるずると時間が過ぎていく。
これもあれもと考えることができるのは、何も支障のない頭。いざベッドの上に転がってしまうと、何ができるかを考える方がむずかしい。もっとも昨日手術をして、今日のことだからあまり無理もいえないけれど。
頭の回転を元にもどすにはどうしたらいいか。病院にいるとこれはかなりむずかしい。机があるわけでも、パソコンがいつものように使えるわけでもないし、長い時間座っていることもかなりむずかしい。本を読もうとしても、仰向けでただ読んでいるだけではすぐに眠くなり頭に入らない。かといって、正座して読むわけにもいかない・・・。
ほとんど頭を動かさないので、もし長期にわたって入院ということになると、本当にぼけてしまうかも。日中はどうしてこんなに眠いのかと思うほど眠くなり、夜は夜でまた寝ているので、脳細胞はかなり休息しているはず。その間にどんどん破壊されてしまうかもしれない。


こうした状況から解放されただけでも現在は幸せというべきでしょう。まして、ガンで苦しんでいる状態ならますます深刻なことになったはず。
家でゴロゴロしているときも、一つのことをやるのにもそれまでに結構充電時間が必要で、しかも「えいやー」と自分でかけ声をかけないと始まらない状態ですから、これは年齢のこともあるんですかね。
仕事ができるうちはしっかりやって、体のリズムを整えていくことがいかに大切か、この間よくわかりましたよ。


  7月24日(金)
高校生・大学生のころの私は「悩みが歩いている」という風情だったと、つい先日書いたように思いますが、その頃よく自分自身で対話していた記憶があります。対話と言うより「葛藤する分裂した自分自身のせめぎ合い」とでも言った方がいいかも。
あるとき、そうした対立する二人の自我というのはどうにも理解しがたくなって、そうした対立を止揚して行動へと移すものは何なのかをはっきりさせたいと思うようになったのでした。というより、そうした二人の自分をひややかに見つめている第3の自分こそが本当の自分ではないのかと思い始めて、何がなんだか分からなくなってしまった。
年を経てそんな分裂状態はいつのまにか無くなってしまいましたけれど、そのときはやはり本当に真剣に思い詰めていたのです。

フランシスコッポラ監督の「胡蝶の夢」の中の分裂した自我のせめぎあいを見ながら、ついかつての自分の姿を重ねてしまいました。しかし、これって「スパイダーマン」に出てくるノーマン・オズボーンの自己分裂と重なっても見えましたけど。鏡を多用する点といい表情がいやらしくなる点といい・・・。
映像の美しさはさすがだし、深紅のバラで象徴される夢の「肯定感」は絶望的になりがちな現実のアンチテーゼとしてそれなりに理解できる部分もあるけれど、だからどうなのだという部分の方が大きい。
ただ、時代にぴったり合うティム・ロスの演技や幻想的・空想的な設定は嫌いではないので、私としてはあんまり寓意を求めず、そのままを受け入れて見た方がいい映画だと思われました。

ところで、昨日から我が家の隣で住宅新築工事がはじまりました。昨日建設会社の社長がやってきて「今日から工事に入る」と突然宣言。そろそろかと思ってはいたのでそれほど驚きはしませんでしたが、植木の処理もしなければならず、あんまりにも唐突でしたよ。
お隣さんは、横浜から越してくる定年退職組。ときどきこちらに来ては建築会社と打ち合わせをされているようですが、先日も我が家を訪問されて「来年で定年なのでそれに間に合うように工事にかかる」と言っていたばかりでした。どんな家が完成するのでしょうか。

昨日読みさしだった「ナチ強制収容所」を読み終えました。最後の方には収容所内での抵抗運動について書かれていました。あれほど苛烈を極めた殺人工場の中でも組織的な抵抗運動が行われていたこと、それらがドイツ共産党やオーストリア共産党、ソ連軍の捕虜などを中心に果敢に行われていたことを知りました。しかし、それらの抵抗ももちろんさほど大きな闘争にはなり得なかったものの、死者の番号を処刑間近の囚人につけて死を逃れるとか、食料を調達して手に入れられない囚人に配るとか、可能なありとあらゆる運動が行われていたのです。
ただ地下抵抗闘争を阻害した要因の一つがドイツ共産党員に根強く残っていた選民意識であったという指摘は気になりました。ナチがばらまいていた「世界に冠たるドイツ」という意識が国際主義を標榜する名だたるドイツ共産党の中にはびこっていたということについて筆者は「驚きという以外に形容のしようがない」と述べているほどです。
筆者はあとがきで、「ただ日本では、ナチ強制収容所そのものと、そこで行われた残虐行為への関心が高いにもかかわらず、『アウシュビッツ』とか『ガス室』とか『ユダヤ人大量虐殺』といった断片的な言葉だけが一人歩きしているありさまで、全体としてのナチ強制収容所の実態は、これまでのところ必ずしもよく知られているとは言い難かった」と書き、この書物はその「空白を埋めよう」とする意図のもとに書かれたことを明らかにしています
ひるがえって、日本の「皇軍」の中国やアジア各国での蛮行をこうしたレベルで明らかにする作業がもっと旺盛に行われていいし、とりわけ南京攻略戦を中心として舞台の具体的な行為を含め全体像を明らかにしてほしいと思いました。
この点では藤原彰氏の仕事を継いで積極的に最近の研究成果をまとめている笠原十九司さんの労作が次々と刊行されているのは心強い。歴史修正主義者のまやかしを完膚無きまでに粉砕してほしいものです。
日本の場合は歴史学上では完全に決着がついているにもかかわらず、何度でも形を変えてこれを持ち出すのは全く特定の「政治的意図」。政治的に決着をつけるためにも、軽視しないで具体的に史実に基づいて粘り強く反論していく以外にありません。



  7月23日(木)
体調は80%位なのでしょうか。まだ下腹部の痛みは残っているし、ときどき真っ赤なおしっこが出てキモを冷やすことがありますが、医者に言わせると「かさぶたがはがれて出血することがあるので心配ない」。体の中にかさぶたってできるものなんでしょうか。「何となく」ですが、よくなってきているような気がしてはいます。あとは時間の経過を待つだけ。
明日からは仕事も再開です。さっそく夏期講習の予定も入ってくるでしょうから、無理しない程度の日程にしてもらいましょう。

さて、本屋に行くと、ウヨク的・歴史修正主義の立場の雑誌や書籍がどっさり。とくに目を引くのが例のタモガミ氏のアジ本です。先日本屋に行ったら何冊も並べられていましたよ。本屋は政治的意図なんてどうでもよく、売りたいからではなく売れるから並べるんでしょうけどね。
先の森巣さんの言い方を借りれば「妄想とお伽噺の世界に住んで」いらっしゃる彼がなぜこれほどもてはやされるのでしょうか。マスメディアの無節操な言論操作のコマにされ、出口のない格差社会のひろがりへの一つの噴火口として利用されているとしか思えませんけれど、ともかく今日の日本の政治・文化の有りよう・危うさをはかる「検針器」の役割を果たしている人物であることはまちがいがありません。
そのタモガミ氏が8月6日で被爆地広島で講演することが予定されており、広島市長が日程変更を要請して話題になっていますね。演題は「ヒロシマの平和を疑う」というもので、共同通信は「各地の講演で核武装の必要性を再三訴えており、今回も持論を述べるとみられる」と書いています。
当然彼にも言論の自由はありますから講演会を開こうが何を主張しようが自由でしょうけれど、問題はそれを許すメディアの対応や国民的な批判の弱さです。講演会を開いても見向きもされず誰も行かないという状況、様々なメディアが徹底して彼の「妄想」的な主張を論破するという状況になってほしい・・・・が、これとは正反対ですもんね。
以前、彼の懸賞論文を読んでの感想を書いて、構成といい論拠といい中高生のできの悪い小論文よりひどい、と中高生には申し訳ない論評をしたことがありました。これだけ彼の跋扈を許している「強いもの・刺激的なもの待望状況」は「論文」発表時よりも深まっていると思われます。

まもなく読み終えるのが長谷川公昭さんの「ナチ強制収容所」(草思社)。
国会議事堂放火事件を境に大量に逮捕された共産党員、支持者を放り込むのに作られた収容所が次第に社会民主主義者、宗教家など広い層におよび、さらにユダヤ人、ジプシーなどの強制収容施設として拡大していく様が克明に描かれています。そこでは身の毛のよだつおぞましい殺人や人体実験だけでなく、主要な企業などを巻き込んだ一大強制労働の場として極限までの収奪が行われ、また収容された人たちの財産がことごとく奪われたことが明らかにされています。
私の関心はもっぱら「ふつーの家庭的な人間がいかにそうしたことがらにかかわるようになるのか」というしくみに向けられているのですが、一たん権力とその暴力組織によって形成された支配構造は一時期ではあれ「自己増殖」をとげるしくみを持たざるをえないことがはっきりわかります。権力の腐敗もまたその腐敗によって「自己増殖」的に腐敗が深まる。そうならないためには、自己増殖過程に入る前に効果的にそれを食い止めるしかない。これが歴史の教訓です。戦前の日本だっておんなじ。
果たしてこの国は、どの方向を向いていくのか、その過程が始まりつつあるのかどうか。検針器タモガミさん、メーターが壊れないようにお願いしますよ。



  7月22日(水)
昨日からニュースのほとんどは解散関連のものばかり。そのあとは集中豪雨と今日の皆既日食。この皆既日食(こちらではもちろん部分日食)は本当に期待していたのに、朝7時現在ではどんよりと厚い雨雲に覆われた天気。しかし、8時を過ぎた頃から急に青空が見え始めて日差しも出てきた。これはもう奇跡のような回復ぶりです。ひょっとしたら11時の最大食のころにはすっきり見えるかも。期待!!

朝新聞をめくっていたら、民主党が言及しているという「沖縄普天間基地の県外または国外移設」という方針に、例のスダレ満月中曽根さんが「どこだかを言わないのはずるい」とかみついたとか。
中曽根さんと言えば、サンデー毎日(7/19)で不破哲三共産党前議長と「世紀の対談」をやっていらっしゃる。

中曽根 次の総選挙で野党政権が成立する可能性もある。そうなった場合、日本の政治・経済・社会において大変化が起こる可能性があります。政党や政治家は今から大変化への処し方、構えを備えた認識力を持たなきゃいかんでしょう。
不破 「政権交代」という4文字だけが表に出て、現政権への対抗軸が明確でない点で、状況は93年とよく似ています。結局、当時の非自民連立政権がやったのは政党助成金と小選挙区制だけで、これが政治を小さくした根源だと中曽根さんも考えておられますよね。「政権交代」だけで選挙をやったら何がおきるのか、今回もまったく分かりません。


話をもどしましょう。沖縄普天間基地の移設については、名護市辺野古のキャンプ・シュワブ地域沿岸・沖合にV字型滑走路をつくることを中心とした移設案が出され、一昨年5月には、海上自衛隊「ぶんご」や、海上保安庁の大小多数の船舶を投入して「現況調査」なるものが強行、いまだに辺野古に固執してアメリカの戦略基地を補完しようという日本政府。
しかし民主党内には前原さんのように日米軍事同盟信奉者もいらっしゃるから、ポーズとしてこれを打ち出しておいてうまくいかなかったと後から釈明するという可能性も大きい。一端口にしたからには是非ともアメリカと交渉してきちんと決着をつけてほしいものです。

日食見ましたよ。時々薄雲がかかってフィルターの役目をしてくれて好都合。子どもの頃にガラスにススをつけて見た記憶がよみがえってきました。なつかしい。上の写真は寝転んでススガラス越しに撮ったもの。下は雲のフィルターでそのままの太陽。その次が11時15分のひまわり画像。薄曇りとはいえかなり強い光の太陽を見上げていたら目がチカチカ。まだ目の中に光が残っています。
26年後の次の皆既日食は北陸でも見えるということです。26年後まで生きていられるかなと妻と二人で話し合い、「北陸で見られるならこれはぜひそれまで生きていよう」ということになりました。皆既日食まで生きるという目標もあっていいのかな。








ふと下をみたら、ちょっと薄暗くなってきたからか一匹の大きな昆虫が玄関にいました。久しぶりに見るカミキリです。子どもの頃は髪の毛や紙を噛み切らせて遊んでいた記憶があります。
カミキリの種類は800種くらいあるということ。これはどこでもよくみかけるおなじみの種類で、「甲虫目、カブトムシ亜目、カミキリムシ科、フトカミキリ亜科、ゴマダラカミキリ」ってやつらしい。









  7月21日(火)
衆議院解散。先日のある番組で解散の議会で見られるいくつかの「不思議」について解説をやっていました。「解散を宣言するときになぜ議長は立ち上がるのか」「なぜ万歳するのか」・・・。あの万歳にはいろいろ説があるようですね。
今回もいつも通りの「万歳」を見ていると、こりゃやっぱり「やけくそ万歳」かなと思ってしまいます。もちろん全員が同様に万歳しているわけじゃないからやけくそでない議員もいるのかな。

この総選挙が「政権選択選挙」というのがもはやマスメディアの定番となっていますが、本格的に政権交代したことのない日本では、一度はこの時期を通らなければならないのかもしれません。間違いなくその条件は成熟しているのですから。しかも郵政選挙のような一時の「期待」ではなく、その深刻な反省も踏まえ、相対多数となってほしい民主党がつくる政権が果たして自民党とどれくらい異なった政治に乗り出せるのかを多くの国民は注視している。とにかく今のひどい自公政治を何とかしないといけないという思いが先に来る人が多いのではないでしょうか。
私はまず問題にしたいのは大企業への社会的規制と制所得再分配機能の問題。政権を取って予算いじりをいろいろやっても、最も根本にあるこれらの機能が有効に働かなければ、必ずつけは庶民にまた戻ってくることになります。
一時話題になってすぐどこかに消えてしまった大企業の内部留保も、もとはといえば労働者の作り出したもの。ためこむだけため込み、前年よりも利益が上がらないからと言う理由だけで派遣だけでなく正社員も無慈悲に首を切っていくこの横暴に、どの政党がちゃんとものをいえるのか。経済のルールづくりの問題としてこの点をしっかり見て改革を提起しているのはどの政党かをまず問いたいのです。
NHKの「マネー資本主義」の最終回の結論はまさにそこでしたね。

選挙で思い出すのは、その昔労働組合の役員の一人としてある県の労働組合の大会に出たときのこと。いつも争点になるのは労組員への政党支持の強要の問題でした。私は当然、一人一人に政党支持の自由があり、労働組合が政党支持を義務づけるのは間違いだと主張する。今の社民党の前身である社会党支持のみなさんは、労働組合が国民の多くが支持する社会党支持を決めることは要求前進のために必要なのだと強弁する。自治労あたりはあいかわらず「推薦候補のため」と称して民主党・社民党候補の必勝のためにがんばっているらしいからまだ懲りていないのでしょうかね。答弁に立った相手は社民党現副党首の又市っつあん。あのときあんなにがんばって支持していた社会党はいまはどうなったの?民主党に行かず社民党でまだがんばっていらっしゃるから、まあここは敬意を表しておきましょうか。
選挙になると、こうして企業や労組がまるごとある政党の支持を強要するということがいまだに横行する。政党支持の自由もあったものではありません。日頃庶民受けのする政策を訴えている政党が、やっていることは実際は「ぐるみ選挙」であったり政党支持の押しつけであったりする。また国民の税金を分け取りして選挙に使ったり企業からの献金も平然と受け取るという体質をもった政党が、まるでそうしたこととは無縁であるかのようにふるまう。
「こんなはずではなかった」と言わないために、そこのところの見極めだけはつけておきたいものですね。


  7月20日(月)
横浜に住む伯母(母の姉)が昨日永眠したという知らせがありました。つい先日103歳の誕生日を迎えたばかり。天寿を全うしたというにふさわしい極楽往生ですね。
長い間いとこ夫妻が自宅でそれはそれは言うに言われぬ苦労をしながら手厚い介護を続けていましたから、「もうそろそろ解放してあげましょうね」と伯母さんも願ったのではないでしょうか。
これほどの長生きも「善意の塊で生きてきたバアチャンに宇宙の神様が、長寿のご褒美をくださっているから」と受け止めて介護に尽くしてきたお二人、本当に長い間お疲れ様でした。私たちもそうでしたけれど、大きな喪失感・空白感はしばらく続きますし、朝目を覚ませば、そこに寝ているのではないかという錯覚に陥りますが、あとは時間の女神に任せる他はありません。こころからご冥福をお祈りいたします。
本当はすぐにでも駆けつけてお参りしたい気持ちはやまやまなのですが、残念ながら身体が長旅を許してくれませんので、来月母と弟の法要を終えてから、時間をとってお参りにいくことにしましょう。
下の写真は2004年4月に横浜に母を連れて行ったときのもの。なつかしい一枚です。なお、母の妹が石川県松任市に健在で、母とそっくりさんですからこちらも元気なうちに顔を見に行きたいと思っています。



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あれこれ検討した結果、太陽光発電のシステムを導入することにしました。SANYOのHIT発電パネルを使ったシステムです。単価はメーカーの中で一番高いのですが、発電効率に優れていることと値引き、施工までの一貫性などを考慮した結果これに決めました。
長生きしないと元はとれませんけれど、間違いなく電気の節約に励むことになるでしょうし、率先してクリーンエネルギーの導入を行うのも悪くないと考えて設置に踏み切りました。
今日朝から工事に来て3時間くらいで完了。きれいにパネルが並びました。





これまでは、しばしばブレーカーが落ちたのでアンペア数をあげようとしたら、どうしても電線が太くなるので途中に電柱が必要になるとのこと。しかし、これは景観にかかわるのでそれだけは認められないと、善後策を検討してもらうことにしました。基本料金も高くなるし、結局これまでのままでいくほうがいいのかどうか思案中・・・・。発電の開始はまだ1,2週間先らしい。ともかく早く発電してくれ〜〜〜。

さて、ここ2,3日はまだ体調不良のため、もっぱら読書にいそしんでいます。次々と目移りがするので、あれを読んでよみさし、これを読んで読みさしといういい加減な読み方なので、さっぱり頭にもはいらない。

読みやすい本から、まず「越境者的ニッポン」(森巣博 講談社現代新書)。著者は知る人ぞ知る国際的賭博師で副業が作家の怪人(?)。本人に言わせれば、しごくまっとうな生き方をしていると言うのかも知れませんけど・・・・。
奥様はご自身では決して誰だかは明かしませんけれど、これまた知らない人はいないテッサ・モリス=スズキさん。彼女も国際的にご活躍です。
この本は、これまで著者があちこちの書籍で発言してきたことをまとめたようなもので、特段新味はありません。しかし、久しぶりに彼の頭の中に接すると、やはり目からウロコのことがいくつもあります。歴史修正主義やレイシズム、日本での怪しげな潮流の跋扈を一刀両断で切りまくるので、スカッとさわやか。その爽快感がたまらない。
誤解のないように言い添えますが、一刀両断とは論拠もなく独断的に切り捨てるという意味では決してありません。きわめて深い理論的な考察をもとに発言していますから、いっそうおもしろい。とにかく是非ご一読を。

もう一冊は「黒い手帳・・創価学会『日本占領計画』の全記録」(矢野絢也 講談社)。これは恐ろしい本です。元公明党委員長、書記長の本人が受けた脅迫やとんでもない仕打ちの数々を告発するとともに、創価学会・公明党の政教一致ぶりを克明に綴っているものですから迫力があります。
彼の書きぶりには、昔池田大作から受けた恩や世話になった公明党への愛惜の情がにじみ出ており、中途半端な書き方も数々見受けられるものの、池田カルトと化した今日の創価学会という組織の問題点を十分に語り尽くしており、学会員を含めて詳細に検討すべき重大な発言に満ちています。
日本のマスメディアは北朝鮮の金正日独裁体制の怖さを流すのに懸命ですが、すぐ足もとのこの団体の姿はまさにその体制とうり二つと思うのは私だけではないでしょう。この本はその例証を無数の事実で示しています。
私は、今度の総選挙で自民党がこけたら公明党は民主党になびくのではないかと思っていましたが、もうかなり前からその方向はいろんな幹部から出ていたのですね。その唯一最大の動機が「池田名誉会長を守れ」であるっていうこともすごい。
「『政権与党でありつづけよ』『常に権力の一角に居座れ』は、一つには創価学会の組織防衛本能から出てくるものだろう」「池田名誉会長と創価学会を守るためには、与党という立場を捨てられない。結局自民党は学会・公明党に捨てられる公算が高い」(282〜283ページ)。
公明党・創価学会幹部が立党の精神を投げ捨てて与党にくらいついて甘い汁をすい与党の立場を様々に利用しながら、そのうちその腹をくいやぶって他のものに襲いかかる。これって、映画「エイリアン」の世界に似ていません?
またまた念のために言い添えますが、私はまじめに信仰していらっしゃる個々の学会員の方々に恨みなど一切ありません。ここで書いたことは矢野さんの本の感想であり、学会の組織としての問題を指摘しているだけなのです。それをご承知いただいた上で創価学会のみなさんから何を言われようが私は平気ですけど、何かお書きになるのであればすべてこの場で公表いたしますのであしからず。



  7月18日(土)
昨日は午前中は晴れ間がありましたが、午後からは雨。今日も朝からどんよりと梅雨空です。
現在妻はかつての同僚の集まりで富山に。その留守中に福岡在住の古い同級生から、「大雪山系での遭難者10名の中に同級生がいる」という連絡が。それを聞いたときは、まだ私の耳にはそのニュースが入っていませんでしたので驚いて妻の携帯にかけてくれるようにと伝えました。それにしても誰がどこでどのような災難に遭うかわかりません。

私の病状は、まずまず順調に回復中。まだ排尿時に下腹部に強い痛みがあるので、傷口がまだ癒えていないということだろうと思います。時間が解決してくれるのを待つほかありませんね。
雨が降って何もすることがないので、家の掃除をして、風呂に入って、あとは本を読んだり借りてきたDVDを見たり。
いまはまっているのはアメリカのシリーズもののテレビ番組「ドクターハウス」。ひねくれ者のはみ出し医者が難病を次々と解決していくというただそれだけの話で、気楽に見ている分には薬にも害にもならないけれど、殺伐としたアメリカ映画の中にあってはちょっと異色のドラマということでしょうか。
天才医師がいろんな難問を解決していくという話は、手塚治虫の「ブラックジャック」や「スーパードクターK」という日本のオリジナルがありますから、目新しいものではありませんけれど、現在のアメリカものはほとんど社会性もなく、訴えるものもない、ただ医者のねじ曲がった「個性」と難病のありかを見極める直感を売り物にしているだけ。
まだ第一シリーズの一枚しか見ていないので今後の展開はわかりませんが、あまり期待はできそうにないなあ。
私としてはブラックジャックも好きだけど、超マッチョ(「北斗の拳」のケンシロー並み)な医者があれこれの難問をクリアしていくという奇想天外な設定の真船さんのマンガも結構気に入っていますね。あほらしさがいいし、自分にできないことへのあこがれもあるのかな。

昨日読んだ本が姜尚中さんの「悩む力」。一読しての感想は、「姜尚中さん若いなあ〜〜」ということ。別にオチョクッて要るわけではなく、率直に精神の柔軟さ、襞の細やかさに驚いた。
自分自身のことを考えてみると、もうどれだけになるのか「悩み」という悩みを感じなくなってしまっている(無いのではなく感じる力がなくなっているのかも?)のです。だからよけいに「悩む力」と言われるとあらためて自分の内面を考えて見ざるをえない。
彼の個性でしょうが、全く説教じみたところがなく、漱石とM.ウエーバーの言動を縦横にちりばめて、今日悩むことの意味を問うています。書きぶりは彼のしゃべり方そっくり。
悩みはその人の感受性のありかたの問題なのでしょうね。今は悩みを悩みとして感じられなくなっちゃった私ですが、私の青年時代は全く今とは正反対で、「悩みが歩いている」という風情でしたから不思議なものです。だから「悩みは実に人間的な営みで、それにとことんつきあい自分をみつめ悩み抜いてほしい」という彼のメッセージは私には痛いほどわかります。
悩むべき若い時代に、悩むことが悪いことであるように考えたり、苦しいことを避けるという時代はむしろ不幸です。社会からの圧力や問いかけに答えようとするから悩むわけで、年齢に関係なくそれ相応に悩み抜かれるべきなのです。同時に、そうした悩みを突き抜けるためにも、人と人とのつながりを求め続けてほしい、その中でこそ自分も見えてくるし生きる意味が付与されるという彼のメッセージは、大変重要だと思われました。
しかし、それだけに不満もある。たとえば、雨宮処凜さんの「ロスジェネはこう生きてきた」の中で告白されている彼女自身の壮絶な内面の葛藤や人との関わり方の遍歴を読むと、姜さんの「悩む力」というのはどうしても「一般論」でしかもひ弱なものにしか見えてこないんですね。新自由主義、国家主義が若者に押しつけているさまざまな苦しみ、悩みにどう向き合っていくかという問題は現実のことですから、そうした現実と切り結ぶ「悩む力」を私たちがどう獲得していくのかはいま最も求められていることではないのでしょうか。
そのためにも、いろんな人たちと人間的な結びつきをひろげ、語り合い議論し合い、その中で考えるヒントをもらう。そんな場がたくさん作ることができるといいですね。



  7月16日(木)
入院中は暇だろうからとDVDをたくさん持って行ったのですが、結局何本かみただけ。中でも最も印象的でとびきりおもしろかったのは「わが教え子、ヒトラー」。
「善き人のためのソナタ」のウルリッヒ・ミューエが、ヒトラー役のヘルゲ・シュナイダーとともにすばらしい演技を披露。ブラックジョーク、辛辣な皮肉に満ちたお笑いコントの連続といってもいいほどの楽しさです。

「実際に描写不可能なテーマへのアプローチを可能にするためには、史実と関連性がありながらシュールレアルな真実を制作しなくてはならないと感じていた」「喜劇は素晴らしい。笑いの中に潜在的な洞察力が眠っている。確かではないが、喜劇の方が悲劇よりも教育的なのかもしれない」というダニー・レヴィ監督の言葉通り、いやそれ以上にナチスの本質に肉薄するど迫力を持っていると思われました。「真実すぎるから教科書には出てこない」・・・確かに。
たぶんこの映画を見ると誰でもチャップリンの「独裁者」を思い出すかも知れません。最後が度肝をぬくような演説で締めくくられているのも同じ。
ユダヤ人の血を引いているというヒトラー自身の告白を見て手塚マンガ世代の私などは彼の「アドルフに告ぐ」を思い出してしまいましたっけ。

ユダヤ人監督が、歴史の一コマをこのような手法で「解体し再構成する」ことができたのも、ドイツの中での徹底したナチズム批判と学問的な蓄積があったればこそだと思わないわけにはいきません。
映画が公開された年2007年に主演のウルリッヒ・ミューエが胃がんで亡くなっています。これはもう世界的損失です。残念。

いま読んでいる本の一つが長谷川公昭さんの「ナチ強制収容所」。私はナチの収容所というのが結構早くから「ユダヤ人の大量虐殺のための施設」と思い込んでいたのですが、そうではないのですね。共産党弾圧を中心とした反体制派封じ込めのかなり長い前史と不足する労働力の確保という側面を持った時期があったのを初めて知りました。先の映画での冒頭の収容所のシーンが短いながらその片鱗を明かしていますから興味深い。
ドイツの場合、政党自身が突撃隊、親衛隊という武装組織を持つことができたという、およそ日本では考えられない背景があり容易に恐怖政治に移行できる条件があって、ある意味ヒトラーが政権を担っていく過程はわかりやすいのかもしれませんが、その全容を明らかにするにはそれを追及しようとするする側の政治力、洞察力が必要です。いやいやそれ以上に「まとも」な人間的感性が必要??
翻って、日本はどうか。戦前の体制を評価し受け継ぐと明言する鳩山さんのような人物が次期総理大臣候補という国では、国民的レベルで戦前の「暗黒政治」の実像にどれほども迫れそうにありません。ふ〜〜。

そうそう、入院中に読んだ本の一冊に鳩山由起夫さんの「新憲法試案」があります。
「明治22年に制定された『大日本帝国憲法』は、非西欧文明国家として、初めての成文憲法であり、その内容も、当時の西欧諸国家の憲法と比較して劣るものではなかった」とおっしゃる鳩山さん。憲法に政党条件を書き込み、さらに政党助成金も書き込もうという彼の心のよりどころは「大日本帝国憲法」かいなと妙に納得してしまう私でありました。
ついでに言えば、昨日の「非核3原則のうちの『持ち込ませず』の見直し」についても以下の考えを見れば納得納得。
「憲法の条文と政治的現実があまりに乖離していることは、日本の政治から健全なリアリズムを奪い、日本の『政治の言葉』について侮りをかい、外国の信頼を失うもととなる」「私は今こそ、戦後の憲法論議を瞑想させてきた空想的平和主義あるいは国家主義的ノスタルジアなど、左右両翼の感情論のいずれをも排し、確かな平和を構築するために国際協調を推進するという立場で、新たな憲法を創りたいと考える」「現行憲法の最も欺瞞的な部分をなくし、誰が読んでも同じ理解ができるものにすることが重要なのだ」・・・は〜〜。
これじゃ治る病気も余計にひどくなる。


  7月15日(水)
今朝早くに足の付け根が急に痙(つ)って目が覚め、湿布をして寝たかと思ったら今度は猫に起こされ5時頃に起き出してしまいました。
朝はまだ涼しかったのに、日が昇ると熱風が押し寄せてきて池田でも気温はうなぎ登り。とはいえ、各地で記録された37度などという殺人的な暑さとは違い、日陰では結構すずしいからさすがは標高600メートルです。夕方になると、家の中の方が暑いくらいで、外は気持ちの良い涼しさです。

入院中に都議選があり、その後は自民党のどたばた劇が連日お茶の間を「汚して」います。都議選の報道でもそうでしたが、マスメディアは総選挙は結局自民か民主かの「政権政党選択」選挙になるという一点での報道一色で、各党の政策を検証し主張をきちんと報道することには全く関心を示していません。かつて辺見さんが「根腐れ」という表現でメディアの退廃を指弾した以上に、もはや腐るべき根もないほどになってしまっていると私には思えます。

都議選で共産党が議席を減らしたことは大変残念でした。報道を入院中のベッドの上で見ながら思ったことがありました(ミニPCを持ち込んで、いろいろと書いていたのですが、ここには収録していません)。
当日の私の考えは、共産党はよく持ちこたえたということでした。確かに議席としての後退は痛いし、弱点もいろいろとあったとは思いますが、これだけの「政権選択選挙」という作られた環境の中では8議席は「奇跡に近い」とさえ思えました。あとから共産党の見解もよみましたがそれを裏付けていましたね。
マスメディアの一部では、各党の得票、得票率について分析し、投票率の上がった分がそっくり民主党に流れたことを明らかにしていましたが、この報道は主流ではありません。とくに朝日web版などは「共産党、都議選で埋没『蟹工船ブーム』どこへ」などと皮肉る始末。得票そのものが前回都議選より3万票増えている状況を見ようともしません。見る力もなくしているんでしょうけど。

ところで今日の「しんぶん赤旗」の一面には、ニューヨークタイムズ紙上(Web版)に寄せた三宅一生さんの「被爆体験とオバマ大統領への要望」の記事が載っていました。
ニューヨークタイムズといえば、私のメールアドレス宛に毎日そのウエブ版の記事のヘッドラインが送られてきます。たいていはゴミ箱に行ってしまうのですが、今日はさっそく14日付の記事を検索してみました。あったあった。
いままで「原爆を経験したデザイナー」といったレッテルを張られるのを嫌って話題にするのを避けてきた彼に、オバマ大統領のプラハでの演説がこの一文を書かせる動機付けを与えたというのですから、イチロー選手ならずともやはりオバマ大統領は「タダモノではない」ようですね。

A Flash of Memory by Issey Miyake

英語からずいぶんとまた遠ざかってしまっていたので、練習の意味でまたまた訳出してみました。なかなか難しい表現や言い回しがあって、まだよくわからないところも実はいくつかあります。まあ、大要がわかればいいので、参考までに。

A Flash of Memory

この4月、オバマ大統領は核兵器のない世界に平和と安全を求めることを誓約した。オバマ大統領は単に核兵器を削減するのではなく、廃絶することを訴えた。彼の言葉は私の心の奥深くに埋め込まれて、これまで話題にすることをためらってきた何ものかを覚醒させた。

オバマ大統領が「閃光」と呼んだものを生き延びて来た一人として、私はいま、かつてないほどに個人的にも道義的にも話をすべきだという責任を自覚している。

1945年8月6日、人類最初の原爆が私の故郷である広島に投下された。そこに住んでいた私はまだ7歳だった。
目を閉じれば、誰も2度と体験してはならない光景が浮かんでくる。
それは輝く赤い閃光と、その直後の真っ黒な雲であり、死にものぐるいであらゆる方向に逃げ惑う人々などだ。それらすべてが私の記憶に刻まれている。
3年も立たないうちに母は放射線被曝によって亡くなった。

私はあの日の記憶や考えを決して打ち明けようとは思わなかった。うまくやれなかったかもしれないが、ともかくそうした気持ちを押し隠すように努め、創造されうるものや破壊されないものを考えるようにし、また美とか喜びとかをもたらすものを考えるようにしてきた。私は服飾デザインの分野に強く惹かれたのだが、それは幾分かは現代的で楽天的でもある創造的な形式であるという理由だったからであるように思える。

私は自分の過去によって縛られたくなかった。「原爆を生き延びたデザイナー」という烙印を押されたくなかった。だから、私は広島についての質問を常に避けてきた。そうした質問は私を不愉快にさせた。

しかし、今私は、もし世界から核兵器をなくそうと思うなら、(被爆体験は)議論すべき問題であると考えている。
8月6日の世界平和祈念の日、つまりあの運命の日の記念日に、オバマ大統領を広島に招待しようとする動きがある。私はオバマ大統領が是非この提案を受け入れてくれることを希望する。私の願いは、過去のことあれこれとこだわるためではなく、将来の核戦争をなくすために努力することが米大統領の目指すものだということを示してほしいと切望することに裏付けられている。

先週、ロシアと米国が核兵器削減について合意した。これは重要な一歩だ。しかし、我々はそれほど世間知らずではない。個人や一国だけで核戦争を止められるはずもない。
日本においては、私たちは核武装した隣国北朝鮮の脅威にさらされているし、また核技術を入手したという他国の報告も聞いている。
平和への希望がなお残っていればこそ、全世界の人々はその声をオバマ大統領に届けるべきなのだ。

もしオバマ大統領が広島の平和陸橋を渡るならば、それは核の脅威のない世界を築く現実的でシンボリックなステップとなるだろう。
(ちなみに、その陸橋の欄干は日系米国人の彫刻家イサム・ノグチが、東と西を結ぶ絆として、また人々がお互いの憎悪を乗り越えるための記念ともなるものとしてデザインした)
そして今後のどのようなステップも、世界平和に接近する次のステップともなる。


  7月14日(火)
無事退院してきました。8日に手術してから経過は順調で、今までに比べると信じられないくらい快調におしっこ。しかし、まだ傷口はふさがっているわけではないので、頻繁に尿意があってトイレの近くから離れられません。しばらく家で普通に過ごしながら回復するのを気長に待つしかありません。ともかくガンからも前立腺肥大からも解放され、気持ちのよい夏を迎えられそうです。今から少し庭の手入れをして、また書くことにします。とりあえずの退院報告です。

午後からかなりの時間外にいて、結構汗をかいてしまいました。病院でも暑くて寝ていても汗をかくくらいだったので、汗自体はさほど違和感がなかったのですが、汗をかくとトイレには行かなくなる理屈で、これだけはちょっと病院とは違った展開。いろんなケースを体験しながら、少しずつ以前の状態にもどっていくのでしょう。



  7月6日(月)
梅雨空が続いています。近くの花見ホタル祭りも土日で終わってホタルの季節もそろそろ終わりに近づいています。それでも庭にはときどき昼にホタルが舞い込んできて休んでいるようす。
私が子どもの頃には、裏を流れる川のほとりにホタルが乱舞、うちわをもって追っかけた記憶がまだ鮮明に残っています。そうした環境をいま各地で復元しようと努力が続けられているのはうれしいことです。
写真はゴーヤの葉にとまったホタル。庭はまたカエルの天国にもなっています。



私はあしたから再入院です。今度はかねてから懸案だった前立腺の手術で1週間から10日の入院。非常に多い手術だし、それほど難しいものではないのでどうぞご心配なく。ただ、仕事にすぐに復帰できるかどうかはまだ不明です。何とか早く元通りになって、排尿を気にすることなく生活したいものです。

さて、この間私のやっていたことは連日の畑仕事。体調が良かったり悪かったりで外にでている時間はまちまちですが、それでもイチゴの手入れ、草取り、ゴーヤの支柱立て、トマトやキュウリの管理・・・まあやることは無限にあります。
イチゴの苗はかなりミニポットで取っていますが、それでも取り切れず、かなりの部分は直接土に這わせることにしました。這わせる広ささえあればむしろこの方がよい苗が取れるのです。
トウモロコシはもうかなり大きくなっています。退院したら今度はネットをかけて動物による被害防止。カボチャはむちゃくちゃたくさんあちこちに蔓を這わせていったいどれだけ収穫できるのやら。
ただ、オクラだけは全然育たず、大きくなりそうな株はわずか数本だけ。気温不足と植えた場所に水気が多すぎることがたたっているようです。退院したらこれらがどうなっているか、楽しみです。









  7月1日(水)
梅雨前線がどっかりと日本列島のど真ん中を横切って、梅雨らしいじとじとべたべたのお天気です。
考えてみると、ものが黴びたり洗濯物が乾かないこの梅雨はイネをはじめとする作物にとっては実に貴重な恵みの雨です。
我が家の庭でもヘチマが見る間に太く大きくなり、もうすぐ屋根に届きそうな勢い。ゴーヤやモロヘイヤなどの苗を植え替えるにも水分はたっぷりですから、全く問題なくすぐに根がついて大きくなっていきます。トウモロコシもずいぶん大きくなり花穂をのぞかせています。ただ気温がいまいちなので、オクラだけはなかなか大きくなってくれません。
花たちはピークを過ぎてラベンダーが長い穂をのばしている程度。このラベンダーも香りは強いけれど見栄えはさっぱりのグロッソなので、あと2,3年もしたら全部植え替えて、紫の穂がたくさん出るイングリッシュ系とウサギの耳のようなフレンチ系にしようと思っているところ。今年はこれらをうんと増やして苗を育てることにします。
今日も午前中は少し晴れ間があって、妻はせっせと道路脇の手入れをしていました。私は寝坊してほとんど見ていただけ。


午後からはずっと雨でしたので、ひきこもってテレビを見ていました。
政局をめぐって、先日は東国原知事や橋下知事周辺の動きを追っていたテレビも今は自民党の人事を中心とした報道に熱を入れています。自民党内のどたばたぶりを見ていると、どのように閣僚を入れ替えようと、ますます国民生活との矛盾を広げることになるでしょう。メディアの報道もまた問題。東国原知事が「地方分権」特命大臣になるのはほぼ間違いないなどとやっていましたから。
民主党の鳩山党首への個人献金問題もあきれてものがいえないほどのひどいものです。彼の「説明責任を果たした」という記者会見を見ていても、資金管理団体の担当秘書の間違いにすり替えて、4年間で2200万円にものぼるといわれる不明朗な献金をうやむやにしようとする魂胆がみえみえ。自民・公明はこれを最大限にとりあげて追求するというのですから、これまたひどいどたばた劇です。
今日の「しんぶん赤旗」によれば、鳩山さんが著書「新憲法試案」で、憲法第9条第2項を現行憲法の「最も欺瞞的な部分」として、集団的自衛権を認め自衛隊を自衛軍とする憲法条項を書いていることが紹介されていました。ある意味では自民党以上に危険な側面をもっていると思います。これは是非一読してみないといけません。
選挙では民主も、公明でさえも「革新」ポーズをとるのですから、やはりここは何を言っているかだけではなく、これまで何をしてきたかしっかり振り返ってみることが大切ですね。

夜のニュースで、起訴休職中の外務事務官、佐藤優さんの裁判について「控訴棄却」の判決がでて、有罪が確定したことが報じられていました。
彼の著書については手嶋隆一さんとの対談「インテリジェンス 武器なき戦争」にいささか「いかがわしさ」を感じながら読みさしにしていた程度なので、裁判の経過やその背景については一切知識がなく、また彼に対するさほどの先入観もありません。ただ、雑誌「世界」での太田さんとの対談を読んでいる限りでは、沖縄についての造詣(母親が沖縄出身?)はきわめて深いものがあり、その発言は十分くみ取られてよいと思われました。
しかし、彼の主張には尊皇・イスラエル支持・北朝鮮武力制裁など国家主義的な傾向があるという批判もありますし、あの田母神元航空幕僚長が「論文」を出したAPAグループの代表元谷外志雄氏の著書について「異能の実業家、元谷外志雄氏が描くグローバリセージョン後の帝国主義的国家対立の姿に戦慄した」という『絶賛』コメントを書いているので、彼の本性についてはよくわからない。今後雑誌などに登場する機会も増える彼のこと。警戒しつつ、それぞれの主張ごとによくその真意を見極めないといけないでしょう。




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