辺見庸さんが、半身不随の身体から渾身の力をふりしぼって紡ぎ出す「言葉」には、これまでにない不思議な「いのち」を感じます。
彼独特の研ぎ澄まされた言の葉の数々は影を潜め、そのかわり人々に寄り添うように平易な言葉で語られる彼の思索には、かえって説得力があります。辺見さんの出身は石巻だったんですね。初めて知りました。
本の題名は「瓦礫の中から言葉を=わたしの<死者>へ=」(NHK出版新書)
彼はこの本を執筆した動機を次のように記します。
私は脳出血の後遺症で右半身がどうしても動きません。ですので、被災地に駆けつけ友人、知人たちを助けに行くことができません。そのかわりに、死ぬまでの間にせいぜいできること、それはこのたびの出来事を深く感じ取り、考え抜き、それから想像し、予感して、それらを言葉としてうちたて、そしてそのうちたてた言葉を未完成であれ、使者たち、それからいま失意のそこに沈んでいる人々に、わたし自身の悼みの念とともにとどけるーーそれが、せめても課された使命なのではないかと思うのです。
まず、辺見さんは、この震災を表現する「言葉」がいまだに見つからないといいます。あの震災がもたらした危機の深さ、位置もわからず、歴史の中での自己の所在もわからない”内面決壊”の様相すら呈するこの惨事を表現する「言葉」を誰も持っていないことに非常な深刻さを感じ取っているのです。
テレビは災害の中から生身の死者(首がもげ、手足がちぎれ、瓦礫に埋もれ、真っ暗闇の波打ち際に打ち上げられた死者たち・・・)を消し去り、ただ数字だけで被害の大きさを表現している。これは非常に深刻で重大なことではないだろうかと。
次に、震災後「この国が変わるべきだ」という論調が盛んに流布されるようになったが、「どの方向へ」が厳しく問われなければならないと指摘しています。
3.11以降、しがない個々人の生活より国家や国防、地域共同体の利益を優先するのが当然という流れが自然にできてきている。
「個人」は「国民」へ、「私」は「われわれ」へと、いつの間にか統合されつつあります。そして、この国は、われわれは、変わらなければならないと言われ、それが見えない強制力、統制力になって、個はますます影が薄くなっている。
重大なことは、上からの統制、大新聞、テレビなどのマスコミや政府関係からそのように促されるだけではないという点。このことは私自身も同様に強く感じ、かつ共感できる部分です。昨日述べた「赤い羽根」募金などはまさにそれだからです。
個を不自由にしているのは、かならずしも国家やその権力ではなく、「われわれ」が無意識に「私」を統制しているという注目すべき側面があります。上からの強制ではなく、下からの統制と服従。大厄災の渦中でも規律正しい行動をする人々、抗わない被災民、それが日本人の「美質」という評価や自賛がありますが、すなおには賛成しかねます。
そして第3に、彼は、この言葉すらみあたらない大災害は宇宙規模から見れば地球のくしゃみにもたとえられる「地球のほんの一刹那の身震い」なのだという見方が要ると強調します。
われわれは、万物万象を人間社会の尺度で考えがちです。宇宙的な時間、宇宙的な時間枠というものは、はかりがたく広大なものであるにもかかわらず、われわれはそれを強引に3.11以前の・・・・時間枠の中にあてはめて考えてきました。・・・・(このような時間は)宇宙にとっては一瞬にさえならない。
だとすれば、この大災害は、「宇宙的な時間と人の時間が3.11に不意に交差してしまったと表現できる」というのです。
このことは何を意味するのか。天然のウランの存在比を人為的に変えることは反宇宙的な所行ではないのか、そうした核を用いる発電が、本当に根源的に安全かどうか、宇宙の摂理に照らせばどうなのかということをもっと謙虚に考えなければならない・・・外界の気配の変化にもっと耳を澄ませ、過去・現在・未来の気配を孕んだ目の前にあるものに、目を見張り耳を澄まさなければならない・・・辺見さんはそのように思索をすすめていきます。
辺見さんの書かれたことがらをすべて紹介することがこの目的ではありません。ただ、私が言いたいのは、個人として独立した思索というのはこのようなものなんだということをいつも彼から受け取ってきたということを、ちょっとだけ吐露したかったんです。