八木秀次の憲法観

第2次安倍内閣発足後につくられた「教育再生実行会議」の委員の一人に八木秀次という方がいらっしゃいます。この方をお迎えするなど、いかにも安部総理らしい。敬服の至りです。
その立場はご自身でも「保守主義」と言っていらっしゃるのですが、私には、チョー右翼御用学者としかいいようのないお方に思えます。事実右翼的論壇ではしょっちゅうお顔をお見せになる「若手」学者さんです。

最近、PHP選書の一冊である「明治憲法の思想」というのを読ませていただきました。読みつつ、果たしてこのお方は大学(高崎経済大学)でどんな憲法論を講義なさっているのか心配になってきました。
このお方は、「(現行憲法が)マルクス主義思想と社会契約論を基軸としているとして、日本国憲法のあり方を批判している」(Wikipedia)というのですから、まずタマゲてしまいます。え〜〜っ、GHQ民政局メンバーはマルクス主義者の集まりだったのかあぁぁ〜〜〜。
また、「天皇は女系を排して男系にすべきだ」という強硬な主張を展開していることでも有名で、その根拠に「Y染色体の男系連続性」をあげていることでも知られ、Wikipediaでは「擬似科学あるいはトンデモとの批判がある」と書かれているお方です。
そういえば、誰かが「おいおい、『物語』の世界で『科学』をふりまわすんじゃないぜ」と書いていましたっけ・・・。
いやいや、このお方は何を隠そう、天下の早稲田大学のご出身ですぞ!まいったか!

さて、その「明治憲法の思想」です。少し彼の持論を聞いてみることにしましょう。

まず、第2章の「今なぜ明治憲法か」で八木教授は「(明治憲法が)ヨーロッパの物まねではなく、日本の歴史・伝統・文化をふまえて日本人によって起草されたはじめての憲法である」ことを強調します。ところが、やがてこの明治憲法も「西洋に留学した次代の学者たちによって西欧由来の精緻な中小理論にもとづいて解釈されて」起草時の精神がむしばまれていったと嘆くのです。そして「この時代にして既に明治憲法ではあらたなファッショの時代に対応できないという主張が強力に展開された」と書き、「明治憲法こそが超国家主義や軍国主義を導いたとする今日でも依然流布している認識とは大きく異なる」「明治憲法は外来思想たる『ファッショ』に幻惑された者によって排斥されようとしたのであり、また多くの憲法の理念に反する運用が行われた」と、明治憲法擁護の一大キャンペーンを張るのです。
明治憲法は悪くな〜い。悪用した連中が悪いのだ〜〜。

そして、「なぜ(現行)憲法の見直しが必要なのか」と問い、今世界各国はグローバル化という「アメリカ化」に対応すべく「国家の存立をかけて従前にもまして国家意識・国民意識を明確にしようとしている」「国家としてのアイデンティティを明確にしていかないことには国家として生き残れない」というきわめて特異な現状認識を披瀝します。もちろん、明治憲法がそれにこたえる内実を持っていた、それなのに、GHQが真っ赤っかな憲法を押しつけたと言いたいわけです。
それゆえ、彼はこれに続けて、「第3の開国ともいうべきこの時代に、現行の日本国憲法のもとで日本は果たして生き残れるのか」と問うのです。

彼によれば、現行の憲法は次のようにしてつくられたものと描かれます。

1.現行憲法は、敗戦後の米占領時代に「日本が再びアメリカの脅威となったり世界平和と安全の脅威とならない」ようにすることを究極目的として”占領政策の一環として”GHQによって原案がつくられた。
2.軍隊の解散、戦力の不保持という武装解除、神道を軍国主義・超国家主義のイデオロギーと見なして弾圧するといった精神的武装解除を通して、我が国のアイデンティティを解体した。
3.本来なら、このような憲法は占領が終了し、我が国が主権を回復して国際社会に復帰した時点ですでに見直されてしかるべきだった。


中でも、彼が最も重視しているのは「国家のアイデンティティ」という概念です。今日の憲法論議では、この視点を完全に欠落させていると憤慨するのです。
明治憲法下で、朝鮮、中国など近隣諸国の国家・民族のアイデンティティを根こそぎ奪いさったことをコロッと忘れて、国家のアイデンティティを連発する八木教授。彼の頭の中ってどうなっているのかしら。
そして、「国柄こそ議論すべき」であるとして、次のように述べます。

1.現行の憲法はGHQ民政局によって原案が作成され、日本政府は事実上それを拒否できない状況の中でつくられた。従って、この憲法に付着する”占領色”を一度は払拭して真に主権国家に相応しい憲法のあり方を求めるべきである。
2.前文や9条の見直しだけでは「第3の開国」には対応できない。国家としてのアイデンティティを明確にするためにこそ憲法論議はすべきである。そのためには「憲法」の本来の意味に立ち返ることである。
3.憲法論議はまず「国柄」に関するものでなければならず、国家のグランドデザイン、国家としての哲学をふまえるべきである。
4.
憲法は、「自国の歴史と伝統の上に成り立つ」ものでなければならないとすれば、まさにそのようにして起草された明治憲法の再評価が必要となる。

まだ若いのに、何という「ノスタルジジイ」的懐古趣味でしょうか。ただし、あの戦争の時代を苦しんで生き抜いた高齢者の方々は、絶対主義的な天皇制のもとで「お国のために、天皇のために」死ぬことを強制されたことを忘れてはいません。
そしてまた、戦後憲法制定時に、オーストラリア、ニュージーランドなどの天皇戦犯攻勢に対して、象徴としてであれ天皇制度を守ったのはマッカーサーでした。
伝統輝く皇国日本のアイデンティティ、天皇制はマッカーサー将軍が守ってくれたのですぞ。八木さん、マッカーサーに感謝しないさいっ!

このノーテンキな学者先生の明治憲法に対する評価は、たとえば次のような「人権」問題で最も鮮明になります。

日本国憲法において保障されている自由や権利も決して無制限なものではなく、法律によってしばしば制限されているのであり、その意味では日本国憲法における人権保障と明治憲法におけるそれとの間には、さほどの距離はない

げえぇ〜〜!初めて聞いた。驚いた。たまげた。びっくりした。
こうした認識のもとで、彼は「明治憲法から何を学ぶべきか」としてさらに驚くべき評価を書き連ねます。

1.明治憲法は、当時の欧米の最新の国家理論を取り入れながら起草されたもので、欧米社会以外で制定された事実上最初の近代憲法として、制定当時、国内外ともに高く評価されたものである。
2.昭和初期の動乱や戦争は明治憲法の精神がないがしろにされ、憲法を無視したところに発生したものである。予断を排してこの憲法を眺めてみれば、一般に誤解されているような悪法ではなかったことがわかる
3.起草者たちが憲法を自国の歴史や伝統に基づかなければならないと考え、我が国の伝統的な政治理念と近代国家の統治理念とを何とか融合させようと苦慮した点などの制定の姿勢に学ぶことが必要である。


このあと、明治憲法の成立過程、そこに盛られた内容の検討に入るのですが、次の二つの点だけを確認しておけばじゅうぶんでしょう。

第1は、明治憲法は立憲君主制を原則としており、あくまで立憲主義がその本義であったこと。天皇は平時においては立憲君主であり、非常時においては「民の父母」という役割を担っていた。これは大東亜戦争の開戦と終戦の手続きに典型的に現れている。今日なお続く天皇の戦争責任問題はこの二つの天皇観の相違が理解できていないことに端を発する。
第2は、昭和天皇の"憲法の師"であった清水澄(とおる)の説を援用し、天皇が憲法上の大権行使についてはすべて必ず国務大臣の輔弼を必要とし、輔弼なくして天皇が独断で大権を行使することはできず、敢えてそれを行おうとすれば憲法違反となる。
「兵役の義務」「納税の義務についても、こうした義務があることを定めることに主眼があるのではなく、法律によらなければそれらを課すことができないところに条文の趣旨がある。いくつかの権利についても、自由・権利を制限する規定ではなく、逆に権利保障のプラス面に力点を置いている。
これらを「天皇の権力は無制限である」と曲解・歪曲したのが美濃部天皇機関説後の歴史であった。これは明治憲法の起草者とは大きく異なる。そして明治憲法が特徴としていた「権力の割拠性」が攻撃され、この過剰な「割拠性」がわざわいして「国家機関の一部が独走しても押さえのきかないシステムになっていた」。そして戦時体制によって明治憲法体制は葬られたのである。


そして彼の結論はこうなります。

「戦争責任」は明治憲法そのものが負うべきものではない。問題とすべきは明治憲法の立憲主義の精神を歪曲した解釈や運用である。明治憲法起草の経緯や思想を忘れ、条文に書かれざる”不文の憲法”を顧みなかったことがこのような”昭和の悲劇”をもたらしたものである。
明治憲法は負わなくてもよい”罪”を負っている。その汚名はすすがれなければならない。

まあ、言論は自由ですから、主張なさるのは自由ですが、いやはや「大日本帝国憲法」のどこからこのような「学術的」評価が生まれるのか、頭の悪い私にはさっぱりわからないのです。誰か教えてくださあぁぁ〜〜い。