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  4月28日(月)
昨日は滝沢自治会公民館分館の行事で終日気ぜわしい一日でした。何しろ右も左も分からないまま分館長になったので、役員のみなさんの助けを借りながら何とか一日を乗り切ることができました。

午前中の行事は、分館行事スタートの「野鳥観察会」。野鳥や野草に詳しい地元のEさんのガイドで、集落東の山に入って野鳥や野草を観察するのです。
私自身は、過去に一度も参加したこともなかったし歩く自信もなく当初は集落センターの留守番のつもりでいたのですが、妻も参加すると言うし、役員も行かなければ事情がわからないということもあって一緒に歩くことにしました。
この日は、午前6時50分集落センター集合。役員を含めて30名弱が三々五々集まってきて、出足はまずまず。何度も参加している人も結構多く、さながら早朝ウオーキングの感じです。
道中、ゆっくりゆっくり歩きながら、ガイドの説明に耳を傾けました。実際に姿が見える鳥はさほど多くはなく、高い木の上からさえずりだけが聞こえてきます。「あれがセンダイムシクイ、あの鳴き声がオオルリ・・・」などと言われても、なかなか区別ができません。終了後に「20数種類の声が聞こえた」と説明されても、私の耳にはみんな「鳥の鳴き声」。Eさんは10代の時から独学で鳥の形から鳴き声、習性に至るまで習得したというのですから、いやはや地域にはすごい人がいるものです。
途中、木にかけた巣箱の掃除も行いました。昨年鳥がつくった巣を取り出して、中にすくっていた毛虫を退治。木にかけ直します。鳥の巣の材料に「イノシシ」の毛が混じっているというので、一同びっくりして見入っていたのが印象的でした。
終着点の「ままこ落とし」下では、地面に座り込んで耳を澄ませて鳥の鳴き声に集中。
10時半頃に集落センターに戻って1時間ほど懇親会を行い午前の部を終了しました。天気にも恵まれ、怪我もなく終えられてホッとしました。
1ヶ月ほど前にも紹介しましたが、この日のためにEさんの監修でミニ図鑑を作って参加者に提供しました。割と好評だったのでよかった。
















当日の資料 「滝沢で観察される野鳥」(PDF 21MB)

夕方からは、池田町の恒例の行事「ナイターソフトボール」の結団式・説明会およびメンバーの懇親会。
事務局を担当する方の話では、今年はこれまでにないほどの戦力が集結して、いい成績が期待できるとのこと。地域で普段見かけることのない若い世代のみなさんが集まって遅くまでワイワイ賑わっていました。



  4月20日(日)
韓国の大型フェリーの海難事故で多数の死者・行方不明者が出ているニュースが連日大きく報道され悲しくつらい思いをさせられます。
若い未経験の3等航海士に船をまかせ船長が操舵室にいなかったこと、急旋回での船の操舵、貨物・人員の過積載、事故後「動かないように」という船内放送をしておいてクルーはいち早く脱出したなど幾重ものの重大過誤・違反行為が明らかにされるにつれ、信じがたい事態に唖然としてしてしまいます。そして、楽しい思い出になるはずだった修学旅行生たちの無念や家族の悲嘆を思うといたたまれない気持ちになります。

船の沈没といえば、1944年8月22日、沖縄から本土に集団疎開しようとしていた貨物船「対馬丸」がアメリカ海軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没多数の犠牲者を出した事件を思い出します。
サイパンが陥落したことで米軍による日本本土爆撃が可能となったことから、軍部は「本土決戦」に備え沖縄での戦闘を想定し兵員や軍需物資の輸送を開始、同時に沖縄から10万人の非戦闘員を本土、台湾に疎開させるよう命令するのです。
しかし、すでに十分な輸送体制もなく、警護もほとんどつけられない状態に陥っていた日本軍は、1476名(「対馬丸」は兵員2,409名と馬匹40頭を搭載)が犠牲になりました。Wikipediaの記事によれば、当時の攻撃前の船内の様子は「まるで修学旅行のようだった」と書かれています。
この対馬丸の悲劇は、当時のアメリカ軍による「日本の輸送体制遮断」の徹底という方針に無知だったこと、沖縄を本土決戦の捨て石にする作戦がとられたこと、軍によって半強制的な無理な疎開計画が押しつけられたこと、米軍に補足されやすい直線コースをとったことなど、さまざまな人為的な要因が重なり起こるべくして起こった事件といえるのではないかと思います。
当時、特攻機などを載せて輸送にあたっていた艦船に乗船していた父やその「戦友」たちもまた、ともに行動していた艦船が次々と撃沈されるなかで、海に沈む恐怖とたたかっていたことを思えば、日本近海の海には韓国や日本の人々の怨念が渦巻いていると思わないわけにはいきません。



  4月19日(土)
15日付けの記事で紹介した父の軍歴を見たある方が「兵隊って本当にコマみたいなものだったんだね」と述懐していました。全くその通りで、軍命となればそれが2度と帰ることができない旅路であると分かっていても従わざるを得ない。軍隊だからというべきなのか、非情と言うべきなのか。
それにしてもどうしてこうも頻繁に呉港での出入りがあるのか、私には前から不思議に思っていたのでしたが、とくに詳しく調べてみようとは思わなかったのです。
しかし今にして思えば、父が生きているうちに聞いておくべきことが山のようにあったのに、とつくづく思わされます。おそらく言えないこともいろいろあったろうけれど、話せることもたくさんあったはずだと思うからです。それも後の祭り。

父が亡くなってから久しい年月が流れ、私もそれを超えてしまった今になって、母の遺品の中から父の海軍通信学校時代の卒業記念アルバムを引っ張り出して見ました(たぶん前にも見たことがあったのですが、ほとんど忘れてしまっていた・・・!)。
先日来、あの戦争の実相をさぐろうといろいろ本を読みあさっている関連で、父の軍歴とこのアルバム、それに「トンツ会」(戦友会)の記録によって、当時の模様を少しばかり探ってみることにします。

富山県富山市蛯町で生まれた父は、昭和13年22才で徴兵され現役に編入されます。そして呉の海軍兵団に入団、翌昭和14年、第51期普通科電信術練習生として海軍通信学校に入学。1年間の訓練生活を送るのです。
下の写真は、順に入学時、実技授業、宮城および故郷遙拝、攻撃訓練、卒業記念。











さて、短い通信学校の課程を終えて翌昭和15年、舞鶴海軍兵団に配属され、海軍の敷設艦である蒼鷹(あおたか)に「乗り組みを命じ」られます。
それからの3年間は日中戦争(当時軍は「支那事変」と称した)の深化にともなってもっぱら中支、南支方面での勤務に従事。太平洋戦争開始(1941年12月8日〜)とともに、南洋、フィリピンなどの激戦地勤務も次第に増えていきます。
昭和18年には、配属が第23特別根拠地隊となり、乗船する艦船が空母「龍鳳」となります。
それ以来、太平洋方面での「専務中」という軍歴がどんどん追加されていくのです。

ところで、この空母「龍鳳」とはいったいどのような艦船なのか。母が保存していた父の戦友会「トンツー会」の記録によれば、きわめて興味深いことがいくつもわかってきました。これについてはまた後日書くことにして、今日は戦友会の音頭をとり続けられた故Y.S.さんの手になるモールス信号の記憶術「合調音語」および「作者不詳」の「海軍兵須知」(海軍下士官兵エレージ)を紹介しておくことにします。
「合調音語」の表の前文には次のような言葉も添えられていました。

海軍の通信(電信・暗号)に所属した者は、全国の多数の志願者の中から厳選され、その採用率はわずかに3パーセントに過ぎなかったと云われており、海軍のエリートであった訳で、それだけに大きな誇りを持っていました。
思えば私たちは3ヶ月間の海兵団教育を終えて、かつて湘南電車の終点、浦賀駅で下車し浦賀の峠を越えて、栄光に輝く海軍通信学校の校門をくぐりました。連日あの真白い作業服に黒い広敷包みを小脇にかかえ兵舎と講堂を行き通い、特訓につぐ特訓で電信技術の錬磨と心身の鍛練に耐えてきました。
「海軍電報」は平文、暗号、無線、有線の別なくすべて「モールス符号」によって発信されたので、教育は絶対に間違いの許されない厳しいものであったことはお互い身をもって体験してきましたが、年とともになつかしい『合調音語』による『モールス符号』を忘れかけていると思いますので、今一度当時を思い出すため・・・記載しました。

(※原文ではアルファベット、数字もありましたが、今回は仮名文字だけ紹介)。


次の「海軍兵須知」とは、もともと海軍の兵士が周知しておくべき事柄をまとめた文書という意味ですが、おそらく誰かがからかい半分に作ったものと思われます。内容は実におもしろい。





  4月15日(火)
今日届いた「日経ビジネスOnline(Web版)」には「池上彰の「学問のススメ」」というコーナーがあって、今回は上田紀行・東工大教授との対談が載っていました。題して「靖国神社は『宗教』ではない」。
お二人は、全体として至極まともな議論を交わしているのですが、日本がいま世界的にもまれな「単線化」した社会になっているのではないかという池上さんの問題提起から話がはじまり、上田さんが次のように答えます。

上田:非常に社会が危うくなります。いま、ものすごく短絡的なナショナリズムの声が大きくなっていますよね。あれは、単線化したまま、機能不全を起こした日本社会の病状のひとつだと思います。

これに続けて二人の対談は次のように続くのです。

池上:いわゆるネトウヨの台頭や、中国や韓国などに対するメディアから個人までの物言いが常軌を逸していたり。「余所の国に文句を言われる筋合いはない」というような雰囲気は、今、強く感じますね。
上田:2013年12月末、突然行われた安倍晋三総理の靖国参拝も同じ匂いがします。この問題を語るには、「靖国神社は果たして宗教施設なのか」ということをきちんと見ておかないといけません。


「靖国神社」が宗教施設でないなら、おかしなことになる。「靖国神社が宗教施設ではなく、日本のために亡くなった軍人たちを悼む施設だとするならば、トップの命令でお国のために死んでいった軍人たちと、責任を追うべきトップとが、同じ場所に祀られて、そこに現代の政治家が参拝に行くのは、論理的におかしい」・・・これが上田さんの主張です。そして、日本人自身が、「敗戦と日本人自身の死の責任を、我々自身が問うていない」ことへと話が発展していきます。
加害と被害の両面からそれらをしっかりと関連づけてとらえ、自らの手で戦争責任を問う、このことが民間レベルで具体的な姿をなしてきたのはそう古いことではありません。しかも、活動として展開されはしたものの国民的レベルの話題にはなり得なかった。それほどに、自分たちの手で「あの戦争」の責任を問うことはこの国の人々にとっては難しいらしい。というより必要のないことなのかもしれません。

「戦争責任 過去から未来へ」(「アジアに対する日本の戦争責任を問う民衆法廷」準備会編著)は、市民団体の手による包括的な報告集なのですが、「はじめに」では次のようなため息交じりの記述があるのです。

アジア太平洋戦争が日本の敗戦に終わってから、すでに半世紀以上の年月が経つ。しかしながら、日本の戦争責任にかかわる問題の多くは、いまだ曖昧なままに放置され続けている。・・・さらに、問題は未解明の事実の存在ばかりではない。侵略の責任の有無をめぐる思想的な衝突も、この半世紀絶えることがなかった。

畑の草取りをしながら、隣で田んぼの畦の水止めを丁寧にやっている70代の男性と30分ほど立ち話。
「4,5日前からやっていたんですか、丁寧にやっていますね」「去年は、いい加減にやった。一度はちゃんとやっておかないといけないことだから」
「米を作っても、これからは出て行く方が多くなるんじゃないですか」
「ぜんぜんもうからないけれど、結局は健康のためだね」
「でも、あと数年もすればどうなるかわからないですよね」

米を作るのにどれほどのことをしなければならないのか。畑でも野菜や果物をつくるのに、毎日どんな努力がいるのか。実は、これらは「頭」とともに「身体」を通してしか理解できないことです。畑や作物はまさしく「リアルな外部」なのです。失敗もし、しっぺ返しも食らって、ようやく分かることがある。その記憶は容易に消すことができない。

これは歴史の見方でも全く同様だと私は思うのです。次は「私たちはどのような時代に生きているのか」(辺見庸×高橋哲哉)の中での辺見さんのコトバです。

「リアルな外部」というのがある。野蛮で違和感があるといっても、そうした態度こそが、私の知っている限り、リアルな外部、特にアジア世界の実相とまともに照応し合うわけですよ。彼らと話したら、記憶の鮮度が僕らと半世紀ぐらい違っていたりする。50数年前のことをまるで今日の午前中のようにディテールまで語れる。それこそが、この国の外の、否定しようもなく、圧倒的な現実です。それがリアルなんです。仮にそれがどんなに誇大に数字が膨らんでいたり、プロットがどれほど脚色されているにせよ、「現物語」としては動かしがたいのです。何年も何年もアジア世界を歩いていたらわかります。・・・

子どもたちが寄ってやることといえば、個々人バラバラにゲーム機に向かいバーチャルな世界に浸る。遊びにリアルな関係性がなくなり、人間の関わりからリアルさが失せ、いざやむなく関係性を持たなければならないときに、いったい我々はどんな「関係」を持つのでしょうか。
想像力を枯渇させ、リアルな外部を認識できなくなった私たちに、歴史の記憶としてのあの戦争をどのように分析し、批判し、明日に生かすことができるのか・・いやいやその日その日の生活を生き生きとしたものにできるのかというレベルでよいのです・・・いままさにそうしたことが問われているのだろうと私には思えてなりません。



  4月14日(月)
「たまに見ようと思ったら全然更新されていないじゃないか」と、ホームページ更新の怠慢について先日友人からお叱りを受けました。特別の事情で更新できなかったわけではなく、外での作業が多くなったのと、最近ずっと読んでいる本が多くなりすぎたのとで、ついついパソコンに向かうのが億劫になっただけのことでした。
外での作業とは、バラ園の手入れと我が畑の農作業のこと。バラ園は定例の木曜日だけでは間に合わず、平日に一人で作業せざるを得ません。また畑は、ようやく暖かくなったので植え付けの準備。広いのでこれまた一筋縄ではいかない。一日外にいると、体力が乏しくなっているので、あとぐったりです。

ここ10日間くらい、ひたすら読んでいたのは千田夏光さんの著作でした。日中戦争、太平洋戦争に関するもの、とくに「従軍慰安婦」に関するものが中心です。いくつか列挙すれば次のようになります。

千田夏光 あの戦争は終わったか 体験伝承の視点(汐文社 同時代叢書 1978年)
千田夏光 償われざる女八万人の慟哭 従軍慰安婦(双葉社 1973年)
千田夏光 (続)償われざる女八万人の慟哭 従軍慰安婦(双葉社 1974年)
千田夏光 従軍慰安婦・慶子(クラブハウス 2005年復刻版 初版1981年 カッパノベルス)
千田夏光 甕の中の兵隊(新日本出版社 1992年)
千田夏光 皇后の股肱(晩聲社 1977年)
平櫛孝 大本営報道部(光人社NF文庫)
藤原彰 飢死(うえじに)した英霊たち(青木書店 2001年)
秦郁彦 慰安婦と戦場の性(新潮社 1999年)

読みかけのものがまだ数冊、参考文献もいろいろなので、何のまとまりもなくただ読みまくっているという感じでしかありません。

私にとっての「あの戦争」を真剣に考えるきっかけを作ったのは、千田氏の「あの戦争は終わったか」でした。その中には、自らの著作「従軍慰安婦」をもとに書いた朝鮮人「慰安婦」についての記述がありました。
ただこの時点での私の関心は、「侵略した側の戦争認識=加害と被害の構図」という千田氏の問題意識を共有するもので、従軍慰安婦だけの問題に絞られていたわけではありません。
今から10年以上も前になりますが、書籍の末尾にあげた秦氏の「慰安婦と戦場の性」を読み、「学問的」記述(実は思想のないデータ主義)がどこへ陥るかを見せてくれたような気がしました。結局行き着く先は「強制連行はなかった、当時の慰安婦は公娼制度の枠内であった」というところであって、そうした「学問的態度」にきわめて強い違和感を持ったことがありました。
「足で取材することには自身がある」として多数の元「慰安婦」や軍医、兵士から聞き取りを重ねた千田さんに対して、元「憲兵からのヒアリングに重点を置」き、「一切の情緒論や政策論を排し」して「慰安婦と戦場の性」を書いた秦氏の相違は、情緒論や政策論の有無の問題なのか、学問的なアプローチの問題なのか、それとも思想の問題なのか、これを明確にしておきたいという思いがずっと残っていたのでした。
そして、第2次安倍内閣になって「河野談話」の「見直し」への言及が始まり、アメリカ・アジア各国など海外からの強い批判の中で表向き「継承」といいつつ、根本的な見直し=河野談話の否定を狙う動きが強まるにつけ、あらためて「従軍慰安婦問題」を考え、今日の問題としないわけにはいかないと考え始めたのでした。

そうなると、アジア・太平洋戦争の全体像にも迫らなければなりません。この点では、瀬島龍三氏の例の「戦争観」が大変よい材料を与えてくれています。
そして、いよいよ安倍内閣が「集団的自衛権」容認へと政治日程を明確にしてきた段階で、「あの戦争が終わっていない」以上、国民の側から「あの戦争」を自分なりに見つめ直すことが必要だとこの年になって痛感させられたというわけです。

折しも、今日は父の命日です。先日来、父母の遺品を整理しているのですが、父のものは写真以外にほとんど残っていない。数少ないものの一つに、かつて紹介したことのある軍の「履歴表」があります。今日はこのようなものがあったということを紹介させていただきます。ただし実名部分は消してあります。
あわせて父母の写真も。この写真の裏書きには父の筆跡で「昭和19年 紀元節の佳き日に 私(27才)、妻(24才)」とありました。「紀元節」とは2月11日ですから、結婚する前、お見合いのあと二人で写真をとったのでしょうかね。軍艦にのって頻繁に呉軍港と太平洋上を往復しているさなか、よくまあ挙式する余裕があったものです。これも祖父母が決めたことで、本人たちが口を挟むことではなかったようなので、さもありなん。その「おかげ」で今の私があるのですねえ。感無量です。

上から、軍歴表(表)、軍歴表(裏)、父母の写真です。









  4月3日(木)
テレビでは、昨日のチリ地震による津波情報がずっと流れています。何事もなければいいのですが。

MNEMOさんのApril Foolの構想が現実のものとなればいいですね。なにしろ「大好評中」連載中ですから。私の頭には最近ほとんど日付と曜日が入っていないので、こうしたことが起こっても不思議ではありません。

今朝もいいお天気になっています。庭で最後まで雪の下にあったフキノトウがようやく出てきました。その他の場所ではすっかり伸びているのですが、ここだけはこれからという風情。
おかげで、消費税アップに対抗、フキノトウ、ノカンゾウの天ぷら、ノビルの酢の物など春の恵みが食卓にのぼっています。


今日がバラの会の仕事始めなのですが、私は午前午後と医者がよいでほとんど出られません。このあと、6月初旬のバラ祭りに照準を合わせてバラ園の整備を行っていくことになります。
小さいバラ園といえど、いざ手入れをしようとすれば仕事は無数。それでも我が庭のように毎回通ってきてはせっせと作業にいそしむ仲間がいるってことは本当に心強いこと。
バラの中には枯れたものや病気の木があって、なかなか思うように大きく育ってくれるわけではありません。かつて桑畑だったり果樹園だったりした土地ですから、根につく病気もあって、素人集団にはなかなか荷が重い。しかし、それもこれもすべて織り込み済みで、楽しく作業をして少しでもきれいに花を咲かせることが楽しみなのですから、今年ものんびりゆったりやっていこうと思っています。ぜひご来園を。


  4月2日(水)
ブログ上で連載中のMNEMOさんの長編物語「トーホグマン」がついに100回を迎えました。それを報告する4月1日の記事には思いがけないサプライズニュースが。何かはこれをお読みの皆様ご自身の目でご確認を。(注:後半はまゆにツバをつけて)
執筆を一旦中断して、東北地方の物語ゆかりの地をしっかり見聞してからあらためて書き続けると書かれていたのはわずか1ヶ月半ほど前、MNEMOさんと3月はじめに松本で短時間お会いした際にも、いつ再開できるかは明言されませんでした。
しかし、程なくして再び筆をとる決断をされ、途中お母様のご逝去という不幸にも見舞われながらも書き続けられて、2013年9月21日以来とうとう100回目を迎えたのでした。
とはいえ、物語はまだ2/3なのか半分なのかとにかく執筆途中。MNEMOさん本人も「筆の赴くままという醍醐味もある」というのですから、何しろものすごい長編です。
それもそのはず、これまでのMNEMOさんの問題意識、知識、知見などをすべて織り込んだ読み応えたっぷりの、ドラマチックな仕立てですから、否応なしに日本の古代史、とくに古代東北の「まつろわぬ者の系譜」(武光誠)に引き込まれていきます。筋立てからその緻密で濃い内容、ヒューマニズムにあふれた筆致に至るまで並の力量ではありません。

かつてこのブログ上でもお知らせしたとおり、初回からの物語を氏のブログ上でたどらなくてもいいように小説仕立てのファイルを作成し、私のトップページにリンクしてあります。MNEMOさんの物語の進行に合わせてほぼ収録していますので、一気にすべてに目を通そうというときはたぶん便利であるはずです(最初の方で今日も編集の間違いを見つけ、訂正しました)。
ただ、物語を最初から読めば、歴史上の人物、古事記や日本書紀およびその後の正史などで現れる人名・地名などは数知れず、初めてそうしたものに触れる人(私も含めて)には、かなり敷居が高い。にもかかわらず、ストーリーのおもしろさがそれらを補って余りがあり、かつ読んでいく中で次第に相関図が描かれていくという構成になっているので、ともかく読み進まれることをおすすめします。私自身、もう一度読み直してみると、当初曖昧だったり分からなかったことが理解できるという場面がいくつもありました。歴史に疎いと結構大変ですけど・・・。

「トーホグマン」とは、「、抗い、諦めず、説を曲げず、そして助けるがためにこの世に使わされた者」であり、「中央意識を勝手に持ち、己の豪奢と貪欲の犠牲を周辺、辺縁に求める精神に抗い、物量などで押しつぶそうとする敵に決して降参せず、梵我一如の歌を一貫して歌い、舞踏し、詩を書き、物語りして、賛同者を募り、そして何よりも優先して、苦しむ人を、敵であってすらも、助ける」者(「トーホグマンの誕生」七)のことです。
ストーリーでは、「トーホグマン」に任じられた主人公の一人である修二が一旦はその変身術とスーパー・パワーを身につけるのだが、福島第一の水素爆発によって力を失い、改めて修行によってその力を回復するべく将門の霊、僧徳一、如蔵尼、亜梨沙・シロの化身の加護をうけることになる。もう一人の主人公一彦もまた、守護霊藤原秀郷の命によって「トーホグマン」になるべく、森の妖精たちとともに修行に向かう。しかし、トーホグマンには一人しかなれない。一彦の「秀郷組」と修二の「将門」組との修行が東北を舞台に多彩に濃密に展開していくのです。

MNEMOさん自身が書いているように、これは東北人としての自己の出自、歴史的位置を再確認する自己発見の過程であり、自己変革の試みでもあり、同時にすぐれてあの大震災で無念の死を遂げた人々への鎮魂と祈りの書、東北再生への応援歌でもあるのです。古代神道や仏教に託した人々の願い、怒り、喜びを余さずくみ取り、それを現代に生きる私たちの力に変える糸口をさぐる精神の遍歴でもあります。
それが我と我が身を痛めつけたり、苦行に耐えて悟りを開くというようなたぐいではなく、古代を代表する様々な守護霊、妖精たちとの会話を通してそれを実現していくのは見事と言うほかありません。MNEMOさんが「コトバ」の復権を明確に意識していることが随所にうかがえます。

さて、これがアニメになったら、いったいどのようなものに生まれ変わるのか。シナリオ作家とアニメ制作者の腕にかかっていうべきなのか。いまから楽しみ百倍です。



  4月1日(火)
昨日の新聞の文化欄に服飾デザイナーの森英恵さんがオペラ「夕鶴」の衣装をデザインしたという話題がとりあげられていました。かつて「夕鶴」といえば山本安英のおはこ。劇団「ぶどうの会」の舞台を一度見たことがありました。
オリジナルの舞台であれオペラであれ、全く先入観なしに観るということはおそらく至難の業でしょう。とくに私にとっては、木下順二の戯曲だけしか知らなかった高校3年の頃からもうすでに出来上がった「つう」のイメージと舞台があったのですから、山本安英の舞台ですら違和感を感じてしまったのです。となれば、オペラなど私にとっては論外。私のイメージを壊されまいとする自己防衛といったところですかね。もっともこれは全く個人的な事情によるものですから、実際にはそうした感情をどこかにおいて舞台に接することが必要なのかもしれませんが。

私が中学から大学生にかけて心を寄せていた一人の女性(すでに故人)のことを以前書いたことがありました(昨年2月「七年後の手紙」)。彼女は演劇大好き少女で、彼女と同級になった中学3年のときに、彼女は有志を誘って演劇部をつくり、何と私まで誘ってしまったのでした。そして第一回目の芝居に選んだ出し物が「鶴の恩返し」。あの「七年後の手紙」の「劇の中」とはこのことであり、「夕鶴」でいえば「つう」役が彼女で、「与ひょう」役が私だったのです。これがそもそもの始まりでした。
私にとってはそれ以来彼女はまさしく「つう」そのものだった・・・というわけです。
大学時代、私は学生運動に揉まれて結構「革命」的な言辞を書いては彼女に送っていました。しかし、彼女には「階級」とか「革命」などという「コトバ」が理解できなかった。すでに違う世界観の中でそれぞれの道を進んでいたからでした。つまり、「お金」と「理論」の違いはあれ「与ひょう」のコトバが聞こえなくなったことには変わりがなかったのです。そのときすでに私の思いは「一人相撲」だったということです。
大学2年のときだったか、彼女が私に見せてくれたものは彼女が大学で演じた「夕鶴」の舞台写真。もちろん主人公の「つう」は彼女自身でした。そのときは何も言わずにただ見せてくれただけ。それを演じることになったいきさつや彼女の心境などは知るよしもありませんでした。
それでも彼女は、あるとき、「与ひょうの実直さを感じれば感じるほど深いジレンマに陥る」と私に書いたことがありました。あの「7年後の手紙」で私が勝手に彼女のこころを「読み解いた」キーワードになった言葉です。
遠い遠い過去のことになった出来事ですが、「夕鶴」と聞くとどうしても浮かび上がる私の青春時代の心の軌跡。彼女が生きていれば今日が68回目の誕生日。故人の冥福を祈りながら久しぶりに昔のことに思いを馳せておりました。

さて、現実に思いを戻せば、「この世」はいよいよ大変なことになってきていると痛感します。昨日のニュースでどうしても取り上げておきたいことは、IPCCの報告書。今回発表されたのは、第5次評価報告書のうち第2部会が担当する「影響、緩和、脆弱性」に関するもの。報告全体は今年の10月27日〜31日にデンマーク コペンハーゲンでひらかれるIPCC総会で承認・公表される予定になっています。
毎日新聞によれば、「地球温暖化の進展による気温上昇で穀物生産量が減少し、世界的な食料危機を招きかねないとの予測を盛り込んだ新しい報告書を公表した。乾燥地域では飲料水や農業用水などに使う水資源の争奪が起こる恐れも明記」とありました。
第2作業部会報告書では、「複数の分野地域に及ぶ主要リスク」として8つのリスクをあげ、「深刻な健康被害や生計崩壊」「食料システムが崩壊」などという最大級の警告の言葉を使っていることが注目されます。
原発再稼働への衝動を強め、依然として「高成長」の夢を捨て切れない安倍政権にとっては、こうした報告も一定のインパクトさえ感じないのかもしれません。しかしこの鈍感さ、いや理解能力の欠如こそ、ヨーロッパ諸国から何周も遅れて、もう取り戻すことができないほどの差をつけられている大もとだといえます。省エネや公害防止について高い技術を培いながら、エネルギー政策の根本でアメリカに従属し、結局は原発依存から抜け出せず、同時に使い捨ての生活スタイルにならざるを得ないように国民を追い込んでいるのです。これが、生活の質的な転換を果たすことをさまたげる根本原因になっていると私には思えます。
気候変動の影響が今年もおそらくさまざまな形で押し寄せることになるでしょう。そのたびに科学者が発する警告を聞きながら、それを聞き流して自分で自分の首を絞めていく、そんなやり方をいつまで続けるのでしょうか。結局は自分の足下に影響が致命的に及んだときに気がつくというのではあまりに情けないではありませんか。
だとすれば、それに気がついた人たちから、生活スタイルの変革を成し遂げていく以外にありません。この報告を読みながら、「プランB」の理念と方法を学ぶことから始めなければとあらためて思わされています。




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