「たまに見ようと思ったら全然更新されていないじゃないか」と、ホームページ更新の怠慢について先日友人からお叱りを受けました。特別の事情で更新できなかったわけではなく、外での作業が多くなったのと、最近ずっと読んでいる本が多くなりすぎたのとで、ついついパソコンに向かうのが億劫になっただけのことでした。
外での作業とは、バラ園の手入れと我が畑の農作業のこと。バラ園は定例の木曜日だけでは間に合わず、平日に一人で作業せざるを得ません。また畑は、ようやく暖かくなったので植え付けの準備。広いのでこれまた一筋縄ではいかない。一日外にいると、体力が乏しくなっているので、あとぐったりです。
ここ10日間くらい、ひたすら読んでいたのは千田夏光さんの著作でした。日中戦争、太平洋戦争に関するもの、とくに「従軍慰安婦」に関するものが中心です。いくつか列挙すれば次のようになります。
千田夏光 あの戦争は終わったか 体験伝承の視点(汐文社 同時代叢書 1978年)
千田夏光 償われざる女八万人の慟哭 従軍慰安婦(双葉社 1973年)
千田夏光 (続)償われざる女八万人の慟哭 従軍慰安婦(双葉社 1974年)
千田夏光 従軍慰安婦・慶子(クラブハウス 2005年復刻版 初版1981年 カッパノベルス)
千田夏光 甕の中の兵隊(新日本出版社 1992年)
千田夏光 皇后の股肱(晩聲社 1977年)
平櫛孝 大本営報道部(光人社NF文庫)
藤原彰 飢死(うえじに)した英霊たち(青木書店 2001年)
秦郁彦 慰安婦と戦場の性(新潮社 1999年)
読みかけのものがまだ数冊、参考文献もいろいろなので、何のまとまりもなくただ読みまくっているという感じでしかありません。
私にとっての「あの戦争」を真剣に考えるきっかけを作ったのは、千田氏の「あの戦争は終わったか」でした。その中には、自らの著作「従軍慰安婦」をもとに書いた朝鮮人「慰安婦」についての記述がありました。
ただこの時点での私の関心は、「侵略した側の戦争認識=加害と被害の構図」という千田氏の問題意識を共有するもので、従軍慰安婦だけの問題に絞られていたわけではありません。
今から10年以上も前になりますが、書籍の末尾にあげた秦氏の「慰安婦と戦場の性」を読み、「学問的」記述(実は思想のないデータ主義)がどこへ陥るかを見せてくれたような気がしました。結局行き着く先は「強制連行はなかった、当時の慰安婦は公娼制度の枠内であった」というところであって、そうした「学問的態度」にきわめて強い違和感を持ったことがありました。
「足で取材することには自身がある」として多数の元「慰安婦」や軍医、兵士から聞き取りを重ねた千田さんに対して、元「憲兵からのヒアリングに重点を置」き、「一切の情緒論や政策論を排し」して「慰安婦と戦場の性」を書いた秦氏の相違は、情緒論や政策論の有無の問題なのか、学問的なアプローチの問題なのか、それとも思想の問題なのか、これを明確にしておきたいという思いがずっと残っていたのでした。
そして、第2次安倍内閣になって「河野談話」の「見直し」への言及が始まり、アメリカ・アジア各国など海外からの強い批判の中で表向き「継承」といいつつ、根本的な見直し=河野談話の否定を狙う動きが強まるにつけ、あらためて「従軍慰安婦問題」を考え、今日の問題としないわけにはいかないと考え始めたのでした。
そうなると、アジア・太平洋戦争の全体像にも迫らなければなりません。この点では、瀬島龍三氏の例の「戦争観」が大変よい材料を与えてくれています。
そして、いよいよ安倍内閣が「集団的自衛権」容認へと政治日程を明確にしてきた段階で、「あの戦争が終わっていない」以上、国民の側から「あの戦争」を自分なりに見つめ直すことが必要だとこの年になって痛感させられたというわけです。
折しも、今日は父の命日です。先日来、父母の遺品を整理しているのですが、父のものは写真以外にほとんど残っていない。数少ないものの一つに、かつて紹介したことのある軍の「履歴表」があります。今日はこのようなものがあったということを紹介させていただきます。ただし実名部分は消してあります。
あわせて父母の写真も。この写真の裏書きには父の筆跡で「昭和19年 紀元節の佳き日に 私(27才)、妻(24才)」とありました。「紀元節」とは2月11日ですから、結婚する前、お見合いのあと二人で写真をとったのでしょうかね。軍艦にのって頻繁に呉軍港と太平洋上を往復しているさなか、よくまあ挙式する余裕があったものです。これも祖父母が決めたことで、本人たちが口を挟むことではなかったようなので、さもありなん。その「おかげ」で今の私があるのですねえ。感無量です。
上から、軍歴表(表)、軍歴表(裏)、父母の写真です。