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  4月30日(木)
バラの会の定例作業日。
バラたちはこの晴天続きですっかり葉を伸ばして、このままいけば6月を待たずに花を咲かせそうな勢いです。
しばらく雨がないのでバラ園もカラカラ。ポンプを駆動させて散水したり、乾いた剪定枝や木材を焼却したりと結構忙しい仕事がつづき、みんな11時頃にはへとへと。いつもより30分ほど早く作業を切り上げました。
作業後の休憩時間は、いままでにない豪華な食べ物が並んで「今日は私の誕生日なの」と叫んでいるメンバーもいました。机には私が沖縄から持ち帰ったスイカとパイナップル。季節のウドやタラの芽、タケノコなどの山菜、おやきやゼリーなどのお菓子、コーヒー、お茶、お漬け物・・・が山積み。いや〜、これだからバラの会はやめられません。
「バラの会で儲けたお金で、いつも豪華なパーティーをやっていると思われたらどうしよう」などと心配する声もなかったわけではありませんが、もちろんこれらは会員がそれぞれの家庭から持ち寄ったものばかりですからご心配なく。
池田町のみなさん!ぜひ会員になって、バラ作りで汗を流し、その後の交流を楽しみましょう!!
下の写真を撮ったのはタイマーではなく私。しかし、私が後ろに写っているのはどうしたことか。いつものことです。


<1週間の沖縄E>
南城市玉城の妻の実家は海抜50メートルほどの高台にあります。段丘のへりに立つと、下は一面のきび畑。その先には太平洋が青く広がっています。
夕方何度か近くを散策しました。気温は20度〜24、5度くらいなので、散歩にはちょうどよいあたたかさ。池田のように極端な温度差はなく、昼夜の温度差はわずかなので、一年中いろんな花が咲いています。散歩中、家々の軒先や野端の花を見るのが1つの楽しみです。
この時期、まず目に入るのが深紅やピンクの大輪の花を咲かせているアマリリス。実家の庭にもあったし、食事で寄った店にも沢山咲いていて印象に残りました。


次に多いのが道ばたのあちこちに茂る月桃。花はちょうど今盛りなのですが、不思議とよく花を伸ばしている株とそうでない株とがあって花がなかなか目にはいらない。この花はとてもきれいで私は大好きです。


その他には、アカバナ(ハイビスカス)があちこちで見られてうれしかった。この花は最近うんと少なくなってしまったので惜しい限りです。沖縄を代表する花ですからね。
沖縄の4月は各地でひまわり祭りが開かれるほどひまわりがたくさん咲いています。また、コスモスもよくみかけます。その他には名前のわからない花がたくさん。
ついでに、昨年我が家でも花をさかせたパッションフルーツの花も近所でいくつかみかけました。フルーツも結構たくさん下がっていましたっけ。ちなみに、もうハウス栽培なのでしょう、実が売りに出されていたので、お土産に持ち帰りおいしく食べています。










ついでに、実家の庭や畑には、たくさんのバナナの木が植えられていて、何本かには房がぶら下がっていました。兄によれば、病気のためにまともに実のならない木があるとのこと。手入れが大事だと言っていました。
今年はシークワーサーの実があまり出来ていません。昨年なりすぎたからではないかと妻。ユリの花がたくさん植えられていて、ようやく一輪咲いていました。妻によれば、昔たくさんのユリが自生したそうで、時期的に沖縄戦当時も同じようにたくさんのユリが咲いていたのでしょう。名前の由来は実際には野に咲く「ユリ」ではありませんが、何となく「ひめゆり学徒隊」の名前が当時も咲いていたであろうこの白百合に寄せてつけられたのではないと思えてきます。










  4月29日(水)
今日はまた最高のお天気。風が気持ちよく吹き抜けていきます。
午前中は地元の公民館主催のバードウオッチングに出かけました。昨年は主催者として準備しなければならない立場でしたが、今年は一般参加者なので気楽です。昨年の経験から鳥は鳴き声だけで姿はほとんど見えないので、ウオーキングのつもりで参加したのです。
田圃の仕事が始まったこともあってか、参加者は昨年より大幅に少なく全部で10数名でしたが、そのぶん、のんびりと森林浴という感じで歩くことができました。案内はいつものEさん。鳥や花、キノコ類は何でも知っているという人です。
参加した子どもたちが言うには、すぐ目の前をイノシシが駆けていったとのこと。そばにいた大人も目撃しているのでびっくりです。怪我がなくてよかった。
昨年よりは2週間ほど早く新芽が出て、山はすでに新緑に覆われていました。花の名前を聞くのですが10秒もすれば忘れてしまうので、今日も写真だけ・・・と思ったのですが、うろ覚えで書いてみますね。上から「ハナイカダ(花筏)」「ヤマブキ(山吹)」「ジュウニヒトエ(十二単)」「ツボスミレ(坪菫)」・・・です。
帰ってから昨日借りている畑の地主さんからもらった野菜の苗をポットに移す仕事に1時間ほど費やして、2時過ぎようやく部屋にもどったところです。









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<1週間の沖縄D>
沖縄南城市には、日本書紀の日本開闢神話によく似た沖縄誕生神話である「阿摩美久(アマミク)またはアマミキヨ」伝承の久高島(異界ニライカナイにつながる聖地)があります。また、この土地は「琉球王国最初の統一王朝、第一尚氏王朝を成立させた『尚巴志』出生の地」(Wikipedia)でもあります。

以前、琉球の創世記について少し触れたことがありましたが、その後の歴史についてすこしひもといてみることにしましょう。
琉球は10〜12世紀の生産経済への移行期をへて、農耕を基盤としたグスク時代(12〜15世紀)に入ります。そのころ各地には「按司(あじ)」と呼ばれる首長が登場。その按司たちの抗争・結合の結果、北山・中山・南山の3つの勢力圏が形成されるのですが、1429年に尚巴志(しょうはし)によって統一した琉球王国が成立(第一尚氏)するのです。
琉球の三山体制のころ、中国ではモンゴル政権の元にかわり漢民族の明朝が成立。明は伝統的な華夷思想(中国は世界のうちでもっとも文化の卓越した中央の地であるとし,周辺の諸国を文化のおくれた低劣の地と蔑視し,夷狄(いてき)と称してこれを差別する立場=「コトバンク」より)に基づいて、近隣諸国に朝貢を促して服従させるようになります。当時の室町幕府は3代将軍足利義満が積極的にこれを受け入れ勘合貿易をはじめたことは日本史にでてきます。
琉球でも1372年に明からの使者が中山を訪問し朝貢を促します。中山はこれを受け入れ、さらに1383年までには三山とも冊封体制に入ります。これによって、琉球は大陸からの多くの文物を取り入れていくのです。
佐敷按司であった尚巴志が中山を征服、その父を中山の王とし、自らは世子(せいし:世継ぎ)となって琉球統一への準備をすすめ、北山についで南山も併合して1429年に琉球最初の統一政権を打ち立てるに至ります。
しかし、第一尚氏王統も、尚巴志の死後は内紛が絶えず、第5代金福が亡くなると世子の志魯と金福の弟・布里の間で武力抗争が起こり2人とも命を落とすことになります。その結果第6代の王になるのが尚巴志の第7男・尚泰久でした。
泰久は先代金福の事業を受け継いで仏教を重んじ寺社を建立したりしますが、その間にも「護佐丸・亜麻和利の乱」などが起こります。
その後を継いだのが、まれにみる暴君として名高い尚徳で、財政・外交責任者の金丸らの忠告も聞かず、みずからに従わない者を処罰したり、苦しめたりしたために国内は大いに乱れ悪人がはびこったと伝えられています。
尚徳の死後、家臣団は非道な政治を反省、1407年金丸を国王にします。金丸は即位して尚円と称し、先の王統と区別して第二尚氏王党と名付けられます。尚円の子尚真はその後50年にわたる長い王位の間に、中央集権的な支配体制を整えるのです。この時代は文化面でも琉球文化の黄金時代と呼ばれてもいます。

さて、以上のことからわかるように、まず尚巴志の出身は南山佐敷(現在南城市佐敷=その南が玉城、東が知念)なので、冒頭の説明になるのです。
玉城當山の実家の近くを散歩しているときに、大きな石灰岩の大岩をみかけました。大岩自体は昔から知っているものだったのですが、どうやら何かの墓らしい。今回好奇心のままにのぼってみました。そこは何と第6代泰久の墓で「尚泰久王之墓」と書かれた碑がはめ込まれているではありませんか。




というわけで、南城市を形成する玉城、知念、佐敷は琉球王朝の成立・発展と極めて深い関係のあることがわかります。もちろん、琉球の歴史を考える際に、国王の統治をもとに歴史を描く「王統史観」的な見方は正しくありません。その点では「目からウロコ!最新・琉球の歴史」は1つの資料となるかもしれません。

こうした沖縄の歴史に少しずつ触れていくにつれて、沖縄はもとよりアイヌ・ウタリなどの歴史を全く無視した「本土」の歴史だけを「日本史」として学校で教えていることに、大きな違和感を覚えるのです。やはり「日本」には沖縄も北海道も含まれてはいないのでしょうか。アメリカの安倍さん、教えて!



  4月28日(火)
沖縄では、午後6時から雨の中2500名以上を集めて「4.28屈辱の日県民集会」が開かれています。琉球新報の中継で見ているところです。
県庁前で開かれているこの集会は、4月28日という屈辱の日を背負って開かれていると同時に、新基地に反対する県民の総意を示すこと、そして政府と対峙する翁長知事を励ます集会でもあるということです。つぎは琉球新報の号外。画像にはPDFファイルがリンクされています(1面、2面あり)。


そんな沖縄県民の圧倒的な声を無視し、27日にはアメリカで「米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設が『唯一の解決策』」と再確認したことが報じられ県民を逆なでしています。何という政府でしょうかね。
今日の午前には辺野古で抗議活動をしていた抗議船1隻が、海上保安庁のゴムボートから保安官が乗り移った際に転覆し1人が救急搬送されるという事件がありました。海保の抗議封じ込めは異様なほどの熱の入れよう。
安倍がアメリカで日本国憲法を完全否定するのみならず日米安保条約の枠組みさえ超えてしまうガイドラインを合意し、自公で「戦時立法」をすみやかに成立させようとしているこの国の現状は、まさに「戦前」というにふさわしい。
「黙っているのは賛同したことと同じ。たった一言でいい。反対と声を上げよう」・・・かつて組合運動の中で繰り返し強調された教訓です。だが、現在の状況はそれすら悠長に聞こえるほどの危険な状況です。
沖縄にならって、保守系議員や自治体職員、賛同するあらゆる団体などを結集した「戦争立法反対、○○住民会議」をつくって、安倍退陣のうねりをつくるしかないと私には思えます。
さて、沖縄県民を除く「日本国民」の中で、それだけの気骨ある方々はどれだけいるのか。

<1週間の沖縄C>
沖縄南城市玉城に住む妻の母は現在96才。沖縄では長寿を祝う風習としてひろく行われている数え97才の「かじまやー(風車)」の年にあたります。
朝6時頃に起きて、まずすることは縁側でその日の新聞を読むこと。「字が見えるの?」と聞くと「見えるよ」とこともなげに返事を返します。新聞だけでなく、広報誌などにもしっかり目を通しているので、結構な物知りです。スゴすぎ。
ときどき、記憶違いなどで娘(妻のこと)とぶつかり合っていますが、おそらくそれは新しい記憶であって、昔の記憶は健在だと思われます。


耳も比較的しっかりしていて、膝が痛いことを除いては健康状態も良い方。ただ、かつて心臓の血管(?)にステントを入れたというので、毎日沢山の薬を飲んでいました。
なかなかモダンなところもあって、夕方デイサービスから帰って部屋に着くと「グッド・イブニング」とあいさつしたのにはまいった。
テレビもよく見ていて、「相棒」などは好きな番組の1つだということ。女性3閣僚が靖国神社を参拝したニュースを見て、「どうして靖国神社参拝に反対するかねえ。戦争で亡くなった人を祀ってあるのだから」と私に質問するようにひとりごと。ただ戦争犠牲者を追悼する施設という認識のようでした。
デイサービスに行くときには、その前に必ず入浴しお化粧して身なりをしっかり整えて出かけます。妻は「デイサービスでお風呂に入れてもらったらいいのに」と言うのですが、ガンとして聞き入れない。デイサービスでは、リハビリのマッサージをしてもらい、お昼寝などをしてゆっくり過ごしてくる様子です。食事も何でもよく食べます。
デイサービスに行かないときは、庭の掃除をしたり、すぐ隣の畑に出て草取りをしたり、新しい種を植えたり、収穫したりして過ごしています。
このまま元気で過ごすことができれば100才をはるかに超えて生きられるのではないかと思われましたよ。沖縄のおばあ、元気で長生きしてくださいね。












  4月27日(月)
東村の村長選挙は、ヘリパッド容認の現職伊集氏が742票、反対派の當山氏が609票で伊集氏の勝利という残念な結果となりました。
琉球新報では「(伊集氏は)米軍北部訓練場一部返還に伴い、高江地域にヘリコプター着陸帯を移設する計画については『従来通り、日米特別行動委員会合意に基づいて進めていく』と移設容認の立場を貫く考えを示した」と書かれていました。
1999年には地元高江区が、当時の宮城村長が打ち出した「振興策の条件付きでヘリパッド容認」を拒否、反対の決議を全会一致で採択した経緯があります。しかし、村全体としてみれば高江区はもともと北部の山間地で自治体の財政事情は苦しく、人口増・観光人口増をめざす同村ではSACO関連予算は大きな魅力であることは論を待ちません。
そうした意識を下支えしているのが県民1人あたりの所得格差の広がり。たとえば、まず沖縄県全体の所得水準が本土100に対して70前後と低いことがあげられます。さらに、沖縄県内での市町村格差の問題です。1人あたりの市町村民所得は、北大東村、南大東島、嘉手納町とつづき、最下位が今帰仁村。東村は41市町村中24位となっています。(資料は沖縄県統計資料webサイトより)
かつて沖縄県全体でも基地があることによる収入、就業の場としての基地という束縛から、基地撤去という方針をストレートには受け入れられない時期がありました。だが、米軍の治外法権的で県民無視の言動や、日本政府の度重なる沖縄差別の政策のもとで次第に「目覚め」ていくのです。
歴史は一直線に進むわけではありません。むしろ逆風の強いことの方が多いかもしれません。米軍ヘリパッドをかかえる東村も、財政的な自立、住民自治のあり方の模索を通して必ず基地から脱却する時代を迎えるにちがいありません。

<1週間の沖縄B>
4月21日、妻とともに辺野古に向かいました。南城市から辺野古に行くには沖縄自動車道を使って、宜野座もしくは許田まで行き、そこから西回り、東回りのいずれかで大浦湾に行きます。
この日は、まず先日集会が行われた大浦湾・瀬嵩に向かいました。カヌー隊などの抗議行動があるかもしれないと思い、その場を探したのですがどうにも見つからない。どうやらこの日は抗議活動はすべて中止らしく、人影もそれらしい看板なども一切ありませんでした。
大浦湾には遠く海上侵入規制フェンスや作業船などが見られただけで、ちょっと当てはずれでした。
海岸の岩には「アーサ」(アオサ)らしい海藻が沢山へばりついていて、サンプルを採取。あとで母に聞くとやっぱりアーサでした。味噌汁の具になるし、乾燥しておけば保存食にもなるので、今度来たときには沢山採ることにしましょう。結局ここでは何もすることがなく記念撮影して終わり。




いつもの道の駅で昼食休憩をとったあと、キャンプシュワブ前の座り込みテントに向かいました。
座り込みに合流したのは午後2時過ぎ。ここでは毎日数十人から100人くらいが午前中から結集して終日新基地建設反対の抗議活動や監視行動を続けています。
この日は、活動のリーダーの1人山城博治さん(沖縄平和運動センター議長:つい先日重病が発覚して戦線離脱を余儀なくされた)も来るというので激励のために大勢が詰めかけ、私が見たところ200人は超えていたように思えました。
全国から座り込みに参加しているし、沖縄からは各地の「島ぐるみ会議」などのバスが大勢の県民を乗せてやってくるので、その盛り上がりは数年前から見れば隔世の感があります。
いつもは参加者が思い思いにスピーチをしたり、米軍キャンプの入り口周辺で行進をしたりシュプレヒコールをあげて基地建設反対の意思を示します。(上の写真はグーグルによる)










大浦湾沿いには巨大な米軍基地キャンプシュワブがあります。沖縄では、土地のいいところは米軍が占拠しているため、これがなければどれほど農業や商工業の発展に役立つだろうと思わないわけにはいきません。
また、現在計画されている基地は普天間基地の代替であるV字滑走路だけではなく強襲揚陸艦のための軍港機能を持ち、ヘリパッド、燃料桟橋・弾薬庫を備えて、隣のキャンプシュワブと一体化した巨大基地が出来上がる(しかも思いやり予算で!)のですから、アメリカにとってはこれほど有り難いことはありません。
名護漁協が辺野古への移設に賛成したという過去の経緯や、県民の一部にある「過疎の辺野古に移すことに何故名護市が反対するのか」という素朴な疑問(ヤラセ的な質問なども見られる)がまだ残っていますが、現実に進行している基地建設の実態が明らかになるにつれて、新基地反対の声は広がるばかりです。










さて、話を座り込み現場に戻しましょう。この日姿を見せた山城さんは、しゃべりはじめると止まらないという調子で「翁長知事の登場で県も名護市も(新基地に)反対となった。ベルトコンベアもつくれない。どうやって埋め立ての土を運ぶのか。自衛隊員全員に担がせて運ぶというのか。安倍内閣は基地はもうできないとあきらめたらどうだ」と古くからの活動家らしい迫力のある演説。「病気を克服して必ずここに戻ってくる」と決意を語っていたのが印象的でした。
この日、「大日本忠仁社」という右翼の小さい街宣車がテント前を通り、「おまえ等は、日当をもらって集まっているホームレスだ」などとわけのわからないことを言ってみたり、「帰れ帰れ」とどなってみたり、さまざまな徴発的言辞を浴びせていく一幕もありました。
重機類の搬送口には警備会社ALSOKのメンバーが一列にすきまなく並び無表情に立っていました。基地従業員にしろ警備会社にしろ、日本人同士を対立させる構図は昔から。
時間の関係で、座り込み行動の最後までは参加できませんでしたが、盛り上がりつつある行動の一端に触れて有意義でした。



  4月26日(日)
今朝は素晴らしい上天気。まだ5月ではありませんが、「五月晴れ」とでもいいたいような空の青さです。
我が家の前では、何人かの写真家が水の入った田を前景に北アルプスの写真を撮っています。まだ水も入れ立てなのですっきり感がありません。
静岡から桜と北アルプスを撮りにきたという方は、「池田は桜はもう遅いし白馬はまだだしちょっとタイミングが悪かった」といいながら、1時間以上も田圃の畦の上で粘っていました。
我が家の庭にはチューリップが花盛り。芝桜、サクラソウなども沢山花をつけて、花の季節の到来を告げています。








<1週間の沖縄A>
4月20日昼過ぎ、私と妻、それに妻の友人のKさんとともに沖縄東村高江に出かけました。ヘリパッド阻止座り込みをしているテントに行き状況を実際に目で確かめることが目的です。
そこでは今日の担当のOさんご夫婦が次々と訪問する人たち(県内だけでなく全国各地から)に状況を説明してくれました。また参加したメンバーたちが互いに紹介し合ったりテーブルを囲んで「ゆんたく」したりと和気藹々。
もともとこのヘリパッド問題というのは、22カ所のヘリパッドを持つ米軍北部訓練場について、そのうち半分の面積を返還するとされ、それにともなって返還敷地の7カ所のヘリパッドを高江集落を取り囲むような場所に移設することが日米政府間で合意されたことに端を発します。
これに対して高江区住民はヘリパッド建設反対の区民総決起大会を開き、97年には区民総会で建設反対を決議しました。その後しばらくは表だった動きはなかったのですが、2006年になって、一切を住民に知らせる事なく「ヘリパッド6箇所(1箇所減)の移設計画が決定した」と新聞報道が行われたのでした。
その後現在まで、オスプライも発着できるヘリパッドがすでに2基完成し米軍に引き渡され、残りのヘリパッドの建設も強行されようとしているのです。
Oさんは、現在はノグチゲラなどの鳥の営巣期間で工事は行われていないので「ちょっとひま」だと話しつつ、テントのある敷地の一部を米軍用地にしてテントを撤去させようとしている・・と話してくれました。




ヤンバルの森は南部とはまた違った独特の生態系をもつ緑豊かなところ。大浦湾もまたいのちをはぐくむ貴重な財産なのです。今年3月に「ヘリパッドいらない住民の会」が県議会議長に宛てた陳情書には次のように書かれています。

日本政府は2月にN4地区のヘリパッドを過半の返還の前に米軍に引き渡し、ついにオスプレイの運用が始まってしまいました。また、N1入り口とN4入り口の県道70号線の路側帯を米軍の専用にしようとしています。N4地区は高江の集落にとても近く、ここでオスプレイは年間2100回訓練(超低空飛行での訓練)をするといわれています。そうなれば、私達はここで暮らすことが出来なくなってしまいます。
また、3月から6月いっぱいまでは国の天然記念物にも指定されているノグチゲラの営巣期間ということで、音の出るヘリパッド工事は行われません。それだけノグチゲラやその他ヤンバルの森の貴重な動物たちは繊細だということですが、この期間でも関係なく工事によって発生する騒音よりも遙かに大きい騒音と低周波のオスプレイが超低空で飛び交えば(実際に今現在も飛び交っています)、ノグチゲラの繁殖に大きな影響を及ぼすことは明らかです。
また過半の返還、負担軽減と言われ続けててきましたが、返還もされない状況での引き渡し、運用開始は本来ではあり得ないことです。さらに米軍の占有になろうとしている路側帯は県道の一部であり、私たちがヘリバッド建設に反対の声を伝えるための唯一の手段である「座り込み」をしている場所ですが、それができなくなってしまいます。・・・


雨が時々降って風も強いこの日でしたが、明日東村の村長選挙が告示されるということもあって、あちこちに「ヘリパッド反対」と「容認」の2人の名前を書いた旗があちこちで風にひらひらしていました。
1人は反対派の「當山候補」(旗には「トヤマ」とだけ)、容認派は「伊集候補(現職)」(旗には何故か「イス」と書いてある)。これまでずっと無投票できた東村に久しぶりに複数候補がたち、しかもヘリパッド建設や辺野古での新基地建設をめぐって対立する候補がたたかうのですから、沖縄県中が注目する選挙となっているのです。

そんな村内の状況をながめつつ、帰りに近くでコーヒー園を経営する方のお店に寄って時間を過ごしました。
60代前半で亡くなったお父さんのコーヒー園を嗣いで、コーヒーショップも経営しているその店の女性は、研修生を受け入れつつ、7羽のニワトリと一匹の犬をお供に忙しい毎日を過ごしているのだとか。
「ヒロ」と名付けられたそのお店の由来を聞くと、ヒロシがお父さんの名前で、生まれも私といっしょ。深い縁に感激して、つい長居をしてしまいました。
ニワトリもイヌも人なつっこい。ヤンバルのゆったりとした時間の中で、こんな暮らしをするのも悪くないと思わされたことでした。










  4月25日(土)
昨夜9時頃無事池田町の自宅に戻ってきました。朝9時に沖縄の実家を出て、レンタカーを返し、那覇空港について空路に着いたのは昼過ぎ。実家を出てから延々12時間かかってようやくたどり着いたという感じでした。
飼い猫のハルちゃんが出迎えてくれるのではないかと思っていたらいない。帰ってきたのが夜12時頃でした。たぶん、今日も主がいないと思って外に遊びにいっていたのでしょうか。
帰ってくるなり、「どこに行っていたの?」といわんばかりにいつもと違う声で鳴き通し。1週間も不在にしていると相当に不安が募るようで、精神的に不安定になるようです。今朝も「どこかに行ってしまうのではないか」と思うのか、まだ甘えていてすり寄ってきます。

今日の午前中は室温が18度くらい。沖縄から帰ってみるとちょっと肌寒い感じです。沖縄も天気が悪かったせいかそれほど気温が上がらず、私にしては過ごしやすい環境でした。ほとんどTシャツで、ときどき薄いジャンパーだけ。池田ではさすがにまだそうはいきません。

<1週間の沖縄@>
今回の沖縄行きの目的は2つあって、1つは母の97才のお祝いの打ち合わせ。日程や会場をきめることでした。2つは、高江ヘリパッド反対座り込みや辺野古新基地反対の行動に参加して直に現地の様子を知ることでした。
1つめの目的については、妻の兄夫婦とも相談して、すぐ近くのホテル(ユインチホテル:写真下)で11月1日に行うこととしました。はじめは9月頃と思っていたのですが、台風の季節になるため沖縄以外から行くとなるとどうしても行き帰りに不安がありますから。


このホテルは浴場を持っていて、かつては銭湯代わりに近所の人たちが通うことができたのですが、何年か前に2000メートル掘って温泉が出るようになってからはスパのような温泉施設に変わったとのこと。宿泊客は無料とのことでした。
母に「お祝いをするから元気でいてね」と言ったら、「生き延びているよ」と笑っていました。つい先日の「ひつじの会」(「ひつじ生まれ」の地域住民の集い)では最高齢にもかかわらず琉舞を踊ったというのですから、11月にもひょっとしたら踊りが見られるかもしれません。
今日は午後から「無料塾」に出かける日なので、沖縄での生活については、このあと少しずつ書いていくことにしましょう。

最近の気になるニュースの1つは、首相官邸の屋上に落ちたというドローンをめぐる報道のあり方です。NHKなどはこれでもかというほどの力の入れようでした。
政府はこれ幸いとばかり無人機の規制に乗り出しているのですが、これまたトップニュース扱い。
実際は、1人のお騒がせな男が「原発再稼働反対」を訴えると称してドローンを官邸前庭に着陸させようとするも、暗闇のためにドローンを見失い操作不能に陥って官邸屋上に落としてしまったというだけの話。馬鹿げた幼稚な発想とオタクっぽいやりかたであって許しがたい行為であることは当然です。ただ、装備の拙劣さから言っても、ブログでの書き方から見ても、普通の犯罪として取り締まればいいだけのものを、まるでロケット砲か何かで官邸が襲撃されたかのように国家の非常事態であるかのように仰々しく扱うこの異常さ。
もともとドローン(無人攻撃機)の本家本元はアメリカで、ヘリ型のものではなく無人偵察・攻撃を可能にする飛行機型のものをドローンと呼んでいるのです。日本政府だって本心を明かせばアメリカ並みの無人攻撃機を持ちたい誘惑に駆られていることは推測するに難くない。実際、米軍三沢基地には1年前から無人機グローバルホーク(写真)が配備されているし、自衛隊も平成27年度予算で同機を購入することを決めている。
だから、民間レベルでのこうした無人機の扱いに厳しい枠をはめ、規制しようとするのは当然の流れといえるでしょう。
問題は、無人偵察・攻撃といった「国家」のご都合での使用については何ら規制なしということです。むしろこの部分には秘密保護法で蓋をしておくというところに政府が規制をいそぐ理由があると見なければなりません。
そうした面に何ら目をむけることなく、他国や国内テロリストのドローン攻撃などという「仮想敵」にだけ目を向けさせようとする今回の政府の思惑をそのまま鵜呑みにするならば、ことの本質を全く見誤ることになります。
当然、この「ドローン規制」とリンクするものとして「テロ対策法」「盗聴法」「スパイ防止法」などの動き(現在ある法律=たとえばテロ特措法、テロ資金に関する3法など=についてはさらにそれを強化するもの)が出てくるでしょう。ネット上ではそれをあおる動きもいくつも見られます。
その動きにマスメディアが全面協力しているという構図が私には不気味でなりません。



  4月18日(土)
昨夜からずいぶん冷え込んで、今朝は草の上や車の窓は真っ白。放射冷却で零度くらいまで気温が下がったようです。もちろん天気は快晴。池田では昼は20度くらいまでになりそう。

ちょっと早起きして出発の準備をしています。朝食、入浴、洗濯、ハルちゃんのエサやり・・・と、いつもはやらないこともあれこれやって8時過ぎすべて準備完了。
おだやかな天気なので問題なく那覇空港に着けるでしょう。ただこちらは零度、沖縄は27度となれば温度差がハンパじゃない。厚着をしていくわけにはいかず悩ましいところです。

ちょっと思い出すことがあったので、「ニライカナイ」のつづきを書いておきますね。数年前に「ニライカナイからの手紙」という映画があったことをふと思い出したのです。思い立って昨夜あらためて観てみました。最近アクションなどを見慣れているので、バックの音楽もなく静かに流れていく時間を追いかける映像には最初ついて行けないほど。しかし映像の美しさは比類ないもので、ストーリーにもどんどん引き込まれていきます。
「沖縄の竹富島を舞台に、離島した母と、母から毎年誕生日に送られてくる手紙を支えに生きる少女との絆、そして少女の成長を、沖縄の美しい風景をバックに綴る」(Wikipedia)という映画です。
哀しみや苦しみを胸に秘めて静かに生きる島の人々。それらの人々に囲まれ、母からの手紙を支えに成長する少女の姿がていねいに描かれます。そして主人公が20才になったときに明かされる母についての真実。・・・沖縄の人々にとってのニライカナイの意味を切ない気持ちとともにしみじみと考えさせる秀作です。沖縄の風景と人々の生活を知る意味でも価値があるんじゃないかな。
Cinema Topics Onlinenには、この映画の舞台となった竹富島について次のような記述がありましたよ。

竹富島にはニライカナイ伝説だけではなく「うつぐみ」の精神が古来より大切に生き続けています。「かしくさや うつぐみどぅ まさる」。つまり、協同一致の精神はひとりひとりの智恵に勝っているという考え方は、竹富島の人々の基本概念であり、今も生活理念の根本をなしています。そんな島の中でこそ紡がれる深い絆の物語が熱い感動を導きます。

八重山の竹富島には一度行ってみたいと思っていましたが、まだ果たせずにいます。今回はちょっと無理。そのうち、ゆっくり訪れてみることにしましょう。
ちなみに竹富町は、町教育委員会が例の教科書採択に関して「育鵬社版公民教科書」の採択に与せず独自の教科書を使うことを貫いた気骨ある町でもあります。

では、そろそろ時間です。行ってまいります。



  4月17日(金)
今朝までゆっくり寝てたっぷり朝食。野菜は畑で花をたくさん咲かせている菜の花(野沢菜、小松菜)のおひたし、ちょっと飽きてきました。夕食はニラの卵とじにするつもりです。とにかく冷蔵庫の中を出来るだけ軽くしないといけませんから。
午前中は、予定通り部屋の大掃除をしてちょうど正午、たいへんすっきりしました。このあとはクリーニング屋へ行ったり、銀行へ行ったり、給油をしたりするため外回り。朝はまだ雨が残っていましたが、昼を過ぎるとさいわい回復してきたので、花見をかねて外に出てきます。

午後4時、準備をすべて終わればあとは何にもすることなし。というわけで、琉球新報、沖縄タイムスを読んでいたら、翁長知事と安倍首相が会談したニュースが出ていて、号外も載せられていた。

琉球新報号外

翁長知事からは、前に管官房長官に話したと同様の確固とした立場で沖縄の民意を伝えたと報道されています。安倍首相の頭には、沖縄が地上戦の後、米軍の占領下で長期にわたって塗炭の苦しみをなめつづけさせられてきたことも、銃剣とブルトーザーで土地が取り上げられ生活が根底から破壊されてきたことも何にもないのでしょう。
翁長知事が辺野古基地反対は圧倒的民意だと伝えたのに対して、安倍首相は「(辺野古移設が)唯一の解決策だ」と従来の政府見解を繰り返しただけというところに、それが如実に表れています。

日本政府が「唯一の解決策」というのは全くのウソで、それが挫折すればアメリカに顔向けできないと思い込んでいるだけの話。事実、リチャード・アーミテージ元国務副長官は先日時事通信のインタビューの中で「日本政府が別のアイデアを持ってくれば、私たちは間違いなく耳を傾ける」と語ったばかりです。政府が本気になって普天間基地の危険性除去に乗り出そうとすれば、アメリカと対立する局面があるのは当然で、むしろアメリカの方がそれを気にしている。これほどアメリカの下僕に成り下がっている国は、世界中で探してもみつからない。
「基地を作ってさしあげますから、米軍のみなさま、どうぞ日本に居続けてください。もし米軍が世界に戦争に出かけるときは、お邪魔でないなら日本もそのしもべとしてどんなことでもいたします。なにとぞ見捨てないでください」と言っちゃったらどうなのよ。腹の中で抱えていると、またおなか壊しますよ。
物事がよくわかっているアメリカの政治家、知識人たちにしてみれば、これほど「不気味で気色悪い」存在はないのかも。アメリカにしてみれば、懐具合も苦しいので使い道のあるうちはせいぜい使い切って、用済みになればあとはポイ。安倍さんアメリカは現実的ですからせいぜい気をつけることですね。

辺野古の海では、新基地建設現場で住民の抗議活動を「監視・排除」することをもっぱらの仕事とする海上保安庁職員が、カヌーやボートで抗議する住民に「犯罪者」とののしったことが16日報じられ、その後謝罪があったと伝えられています。このことは海保の最近の強引な排除活動の動きとともに「チョイさんの沖縄日記」でも詳しく取り上げられています。

辺野古の浜でカヌーも船も解放されたので、再度、体勢を組み直し、カヌー隊のメンバーらを船に乗せ、大浦湾に戻る。しばらく抗議行動を続けたが、再度、全てのカヌーと「平和丸3号」と「勝丸」は海保に拘束されてしまった。
ところがその際、海保の指揮者のとんでもない暴言が飛び出した。抗議船に向かって、「おい! 犯罪者、出て行け!」と怒鳴りつけたのだ。海保の「海猿」たちは、臨時制限区域に入るカヌーや船団はまさに「犯罪者」であり、少々手荒なことをしても問題ないと教育されているのだろう。
4月1日には、別の指揮者が私に向かって「告訴人、黙れ!」と叫んだことがある。とても許せない暴言が続いている。


飼い猫のハルちゃんが、いつもよく食べている「ネコのエサ(カリカリ)」をあまり食べない。一週間も家を空けると精神的に不安定になる可能性がありますが、そこはお隣の方が面倒をみてくれるので何とか大丈夫でしょう。





  4月16日(木)
今日のバラ園の作業には10人ほどが集まって、久しぶりに賑やかでした。例によって草取りをする、土の入れ替えをする、耕耘機で300坪ほどの土地を耕すなど、やることは山のように。昨日の雨模様から一転して今日は朝から晴れ。気温がどんどん上昇してバラたちも勢いよく新芽を伸ばしています。
周りの民家の軒先や山の中腹でソメイヨシノや山桜が満開。色とりどりの花が一斉に咲き始めています。木々の新芽も例年よりは2週間ほども早く出始めた様子。4月下旬にもなれば山々はすっかり若葉色に染まってくるのではないでしょうか。

私は今週の土曜日から沖縄へ。今日は外仕事を中心にいろいろとやっていたので、明日は沖縄行きの準備です。1週間ほどだから、それほど荷物もないので、準備といっても持ち物ではなく家の後片付けが中心。幸い天気もよさそうなので、軽装で行ってこられそうです。

ところで、MNEMOさんの「トーホグマン」を読んでいたら第164回に「ニライカナイ」の話が出てきて「おおー」とびっくり。いろいろなことに造詣の深いMNEMOさんだから驚くことでもないのですが、実は不甲斐ないことに私の方がこの「ニライカナイ」についてはほとんど知識がなかったんです。あまり関心がなかったというべきか。
とはいえ、それなりに「変」な関わりは多少あったので、今日はその紹介を少しばかりさせていただきましょう。

私が妻と知り合ったのは1960年代末から70年代はじめの沖縄返還闘争の頃になります。当時名古屋では沖縄返還同盟という組織があって、私の住んでいた昭和区御器所(ごきそ)のアパートがその1つの拠点でした。その長屋に沖縄出身者が何人か住んでいたのです(当時妻は南区の診療所で看護士として働いており、たまにこのアパートの沖縄出身者を訪ねて来ていた)。
そのグループの名前が沖縄返還同盟「ニライ班」という名称だったのです。当時沖縄のことについて何にも知らない私には、ニライなんて変な名前だなぐらいにしか思えず、それ以上深く考えることもなく、ただみんなといるのが楽しくてそのグループの一員になったのでした。
結局、それがきっかけで後に妻と知り合うことになり返還同盟の大勢の仲間たちに祝福されて結婚することになります。そして、このグループの皆さんが記念に贈ってくれた記念品が、いま我が家のトイレに掛かっている掛け時計なのです。背面にはちゃんと「結婚記念 ニライ班一同」としっかり書かれていますからね。
何を言いたかったかといえば、私達夫婦の出会いは「ニライカナイ」であったということです。私の家のトイレはニライカナイに通じているらしい。
ところで、沖縄で豊穣や生命の源あるいはあこがれの理想郷を意味するニライカナイの名を記した時計、しかも結婚記念品をトイレに掛けるなど「普通」はまことにもって失礼千万。
しかしながら、生命の源である食物は「食べる」と「出す」の営みで完結する、従ってトイレこそはもっともくつろげかつ安らげる場であるべきだという私の信念に基づく行為ですのでご理解くださいませ。(実は掛ける適当な場所がなかっただけ・・・)

それからほとんど意識することなく過ぎて数年前に沖縄に行ったとき、実家のある玉城のすぐ隣の知念に「ニライカナイ橋」というのが出来たというのを聞きつけました。この橋は玉城から久高島にいくときに通る道にあるのでついでに見てこようということになりました。
実はこの橋は写真でみると素晴らしい景観を為しているのですが、実際に車で走っていると高架になっているためか橋という感じはまるでありません。いつの間にか通り過ぎたというのが実感でした。
なぜこの橋をニライカナイ橋と名付けたかといえば、要するに久高島を遠望できるからということなのでしょう。何しろ、久高島こそ「琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島」(Wikipedeia)であり、「久高島は海の彼方の異界ニライカナイにつながる聖地であり、穀物がニライカナイからもたらされたといわれている」(同)のですから。
というわけで、妻の生まれ故郷、南城市こそニライカナイと深いつながりを持つ土地であるということを言いたかった。手前ミソですが・・・。


情けないことに私とニライカナイとの関わりはそんな程度です。それじゃあんまりですから、手元にある子ども向けの「沖縄の歴史ものがたり」からそれに関係する部分を紹介してお茶を濁すことに。

(古代の琉球で)農業がはじまると、人々は農耕やイネづくりにべんりな水の得やすい川やいずみの近くで、雨や風の害のすくない小高いところに家をたてて住むようになりました。
こうして、琉球各地にムラができ共同生活を送るようになりました。この時代を琉球では村落時代とよんでいます。
はじめのころのムラは、そのムラの守り神がいると信じられている小高いお嶽(ウタキ)といわれる森の近くにできました。
お嶽の神様は天からおりてきたとか、あるいは、はるか海のかなたのあこがれの国といわれる「ニライカナイ」からやってきたものだと信じられていました。
琉球で最初に農業をはじめた集団は「マキョ」とよばれ、マキョが開いた最初の家を「根屋(ニーヤ)」または「元屋(ムートゥヤー)」といいます。根屋の男主人は「根人(ニーチュウ)」といい、ムラのかしらとして、行事や共同作業などのさしずをし、その姉妹または娘が「根神(ニーガミ)」となってムラの年中行事や祭りなどをおこなったと伝えられています。




  4月15日(水)
今日はめずらしく朝5時に起床して6時家を出て富山に向かいました。銀行預金の解約に出かけたのです。
ひょっとして大金?と思われた方には申し訳ないのですが、富山時代の古い古い通帳が出てきて「もしかして」と思って問い合わせてみたら「2万数千円残ってます」という返事。今の私には大金なので、わざわざ解約に行ってきたという次第でした。
9時に銀行について、さっそく手続きを済ませ、約30分で「大金」を手にしてすぐにとんぼ返り。午後2時にはもう池田に戻ることができました。
途中入善の大阪屋で魚を”少しだけ”(何しろ1人だけですから)買って、私の不在中ハルちゃんの面倒を見てもらうお隣さんにもお土産を渡し・・・交通費、魚代を引くと約2万円の収入でした!
そうこうするうち頭がガンガン痛くなって午後7時頃まで薬を飲んで休んでいたら一日が終わってしまいました。
富山の桜はもうほとんど葉桜状態でしたが、糸魚川から池田にかけてはあちこちで満開の桜が楽しめましたよ。行きはカラッと晴れた良いお天気、しかも車もまばらだったから快適だったのに、帰りは雨。大型が多くて、いつもその後ろばかり走らされるので少々うんざりして運転していました。

ところで家に着くと、TSUTAYAからレンタルDVD(無料の1ヶ月お試し版というヤツ)が届いていました。届いた2枚は「刑事物語」と「風の谷のナウシカ」。「刑事物語」(1〜5)は相当入れ込んだことがあって1〜5巻を3倍速でビデオに残してあったのです。DVD化にあたって懐かしく見返していたのですがあまりにも画像が粗すぎ。とても見ちゃいられません。ところがレンタルにはシリーズ最初のものしかないのです。しかたなく第1巻だけツタヤのレンタルで申し込んだという訳でした。
武田鉄矢主演の昭和の色濃いこの映画は、「キネマ旬報社の初製作」というもので、今から見ればとても見ちゃいられないようなシーンや荒唐無稽の場面が一杯あります。だいたい地方警察の刑事が全国の警察署を転勤でたらい回しされるなんてことあり得ませんし、刑事がすぐに中国憲法をふるって相手をなぎ倒すなんてスゴすぎですしね。
それでも、私がこの映画に惚れたのは、まず若き武田鉄矢の胴長短足、ズングリムックリが私の体型とそっくりであること。武田鉄矢はその後の101回目とか金八とかになると「クサさ」がちょっと気になって、この初期の映画にははるかに及ばない。(金八先生は小山内美江子さんの脚本が素晴らしい)
第2に、社会の片隅で生きる人々に寄り添って喜びや悲しみを共有しようという姿勢に共感を覚えること。全部本当に切ない思いになりますから。第3に武田鉄矢の破天荒なハンガーヌンチャクが見ものだということかな。
そして第4に、俳優陣が豪華。第1作が1982年ですから、いまから30年以上も前の作品です。役者たちも若い若い。たとえば、第1作では、西田敏行、高倉健がちょい役で友情出演しているし、仲谷昇、樹木希林、花沢徳衛、草薙幸二郎、室井滋、田中邦衛などの面々が個性的に出演しています。
「寅さんシリーズ」と同じように、必ず若い女性がマドンナとして登場する点、「男目線だ」という評価もネット上には見られますけど、それはそれなりに見せてくれますからいいんです。マドンナたちがそれぞれ実に初々しい(第1〜第3)。
第2作「りんごの詩」がシリーズ最高傑作と言われるのもヒロイン(新人の園みどり)に負うところが大きい。第3作「潮騒の詩」では沢口靖子がこれまた可愛すぎる出演。ただ、あまりにブリッコなので辟易します。
というわけで、ときどき息抜きに気楽に見て楽しむには最高のシリーズ映画だと、我が輩は勝手に評価しているのです。人間「えーかげん」なところ、もっと持ってていいんじゃないかなあ。あこがれます。
下は「刑事物語」の主題歌(エンディング)。吉田拓郎。





  4月14日(火)
父の命日。故人は忘却の彼方に遠ざかる一方ですから、今日くらいは多少思い出を辿ってみないと罰があたりますね。
父母が結婚したのは今から71年前。終戦の1年前のことです。父の海軍履歴表によると、1944年(昭和19年)3月5日に「婚姻許可」が降りて、4月17日に戸籍異動届が出され、19日に「養子縁組ニ付改姓」と記されています。
前にも記載したことのある写真ですが、あらためて当時のふたりの姿をここの載せました。軍務の途中の慌ただしい時間を割いて写真屋に出かけたのでしょうか。


父は奇跡的に生還し敗戦後ほどなく郵便局員になるのですが、養父母とくに「がんこ一徹」の養父の影響だったせいか、あとに述べる理由によるものか、私の記憶では父の影は薄くただ黙々と仕事で行き帰りを繰り返す人のようにしか見えませんでした。
父の姿がすこしずつ見えてきたのは私が中学生のころだったでしょうか。クラシック音楽のことと将棋のこと、および山登りについてはやたら詳しいことが判明。しかし父は我が子たちには音楽も将棋も、興味を向けさせようとか強制的にやらせようとかということは皆無。自分が楽しむものだという点では徹底していました。
かつて一度だけ将棋を教えてほしいと父にたのんで何局か指南してもらったことがありました。笑ってただ相手をしているだけで、何かを教えるということがない。結局いくらやっても上達したという実感がないので、それきりになってしまいました。
ただどういうわけか登山だけは弟を差し置いて私だけ連れていってくれたのですが、その理由はいまだに分からない。
戦争当時の経験について何か聞いてもほとんどしゃべらず,戦友会があればいそいそと出かけていく。土曜日になると実の両親のもとを欠かさず訪れて時間を過ごしてくるという不思議な生活をしていたことが思い出されます。
父の学歴は小学校卒なので戦後大学を卒業した局員が入る頃には役職でも賃金でもずいぶんと差が出るようになります。それでも家では不平1つ言わず黙々と規則正しく生活する。ところが郵便局で将棋大会などがあると、優勝したとかと言って商品を持ち帰るので、いつどこでどのように将棋をさしているのか不思議でならなかった記憶があります。
中学3年の頃だったか,高校生になっての頃だったか父と何かのこと(何だったかは全く思い出せない)で大口論(その一度だけ)をしたことがありました。泣きながら父をなじる私に対して、涙をうかべながらも言葉少なく反論するだけの父。決して子どもに手をだすことも激しく怒ることもない父。いったいどうしてそのような性格が形成されたのでしょうかね。いまだに分かりません。
子だくさんの3男坊として生まれ、養子に出され(母も養女)、肩身の狭い思いをしつつ、自分の分を守ってひたすら仕事に専心してきたというまじめで欲のない父・・・ともかく、私の中に形成された父の姿というものはこんなものでした。
幼少期から中学くらいまでの私は全くと言って良いほど母の庇護のもとにあり、その影響は絶大だったと思います。その影で、いきおい父の影響は薄くなってしまったのでしょうか。それでも折に触れて見せてくれる父の知的な片鱗(音楽、絵画、書道など)によって、暗黙の「よい影響」が私に投げかけられ続けたことはまちがいありません。
精神的な意味での私の「自立」を促したものは、当然のことながら父母ではなく別のところにありました。しかし、その過程で遭遇するさまざまな困難、挫折を暖かく見守り、支え、励ましてくれたのはやはり父母であったこと。その意味で、いまだに父も母も私の中で生き続けていると実感するのです。

昨日から今日にかけて雨。寒くなったこともあって、ネコのハルちゃんといっしょに家にずっと閉じこもっています。
パソコンでのビデオDVD化のプログラムが突然不調になり、エラーばかり。あまりDVDドライブを酷使しすぎたためかと思って、ドライブを交換してみたらさらに症状が悪化。
昨日一日そんなこんなで悪戦苦闘していたのですが、結局わかったことはデータを一時保存するフォルダが満タンになり、それが原因でエラーがでたのではないかということ。あちこち開いてゴミを一掃したら症状は全くでなくなりました。時々ちゃんと掃除しろってことですね。
今日も雨なので、しっかり家の掃除をすることにしますか。



  4月10日(金)
昨日は、政府による辺野古移設工事の強行がオール沖縄の強い反対の意思の前に道理のなさをはっきりさせてきているだけではなく、アメリカ国内での批判の高まりによって安倍政権の足下が掘り崩されてきていることを指摘しました。今日はそれを裏付けるいくつかの事例をあげて、辺野古新基地建設を阻止する展望について考えてみたいと思います。
まず第1は、アメリカ国内でのジョセフ・ナイ元国防次官補(現米ハーバード大教授)の発言です。今月4日の琉球新報は、「沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれ、米政府はおそらく再検討しなければならないだろう」と述べたと伝え、「沖縄の民意を無視する形で工事が進むことに米国内でも懸念が広がっていることの表れとみられる」と書いています。
以前にも米政府高官が同様の趣旨の発言をしたことが何度か報じられてきましたが、今回はより踏み込んだ発言となっていることが特徴です。
ナイ氏は昨年、沖縄に固定化された新基地が建設されることは「『長期的には』対中国の軍事戦略上リスクになる」とも述べて、安全保障政策の解決策にはならないことを指摘しているのですが、この点に関する限りはアメリカの合理的な判断を示しているといえるでしょう。もちろん米軍にも冷戦時代を経験してきた「つわもの」がいますから、ストレートにナイ氏の考えが支配的になるなどというのは幻想です。ただ、沖縄に基地を増強することは、中国の軍拡の口実にはなっても、それによってアメリカが利益を得ることにはならないことは明らか。子どもでもわかるこの論理が安倍政権にはわからないんですねえ。わかろうとしないと言った方が正しいか。だから日米でさらに矛盾が広がったとき、安倍政権はどうしたらいいのか考えることすらできず、対応もおそらく支離滅裂になっていくでしょう。

第2は、沖縄県民の辺野古新基地建設反対の態度が、市町村レベルで具体的な行動として盛り上がってきていることです。その重要な動きの1つが、沖縄の全市町村で広がりを見せている「市町村民会議」の結成です。
8日には、北谷村で町民ら160人があつまり「辺野古新基地ストップ!北谷町民会議」を発足させました(写真:しんぶん赤旗より)。
共同代表を見ると、町長、前町長、前町議会議長、県会議員が就任したといいますから、まさに町ぐるみ共闘組織ですね。その目標はただ1つ「建白書の実現」です。
この動きはまた、翁長知事を支えるとともに、辺野古の海岸でキャンプシュワブの前で連日抗議活動を続ける人々を地域から支えるものともなるでしょう。
実は、同様の会議はすでに読谷村で発足しており、北谷村は県内2つ目。村や自治会などのよびかけで会議が発足した読谷村では、バスを出して辺野古での行動に参加しているといいます。沖縄県の各地から「会議」のバスが辺野古へ結集する姿を想像してみるだけで胸が躍ります。
4月中には「建白書を実現する中城村民会議」が発足予定だといいます。沖縄市、宜野湾市、今帰仁村でも「会議」の準備がすすんでいるといいますから、おそらくこれまでの運動とは桁違いに大きなうねりになる可能性を秘めています。「基金」創設で財政的な裏付けもちゃんと実現させているのですから、すごいことです。
そして5月、1万5千人収容の沖縄セルラースタジアム那覇で開かれる予定の「県民集会」に、各市町村の運動が総結集することは間違いないことでしょう。



  4月9日(木)
昨日の朝は予報通り冷え込んで雪がちらほら。後ろの林はかなり白くなっていました。今朝もまた霜が降りるほどの冷え込み。夕べの妻からの連絡では沖縄でも普段より涼しいということでした。
今日の日中は日差しもあってかなり暖か。午前中はバラ園で、午後は畑で時間を費やし、さすがに疲れました。草も相当に根付いて背丈も伸びているので、取るにも力がいります。
畑では、92才(?)になる地主さん(この方から畑を借りている)も出てきて、畝を作ったり草を取ったりしていました。「膝が言うことをきかないのでふらふらする」といいながらも重いクワをふるっているのはさすがですね。足腰を除けば元気そのものです。
ネギやジャガイモはもう植え付けてしまってあり、今はトンネルでキャベツや白菜の苗を育てているのだとか。いろいろ便宜を図ってもらっているので助かっています。
帰りがけに、またまた小松菜の菜の花、ホウレンソウ、ナズナを収穫して近所におすそ分け。このごろ毎日おんなじものを食べているような気もしないではないのですが、ちょっとずつ工夫すればそれなりにおいしいし野菜不足も解消するし良いことずくめ・・・のはず。がんばって食べています。

沖縄では、翁長知事が管官房長官に毅然と沖縄県民の意思を伝えたのに続いて、今日は文化人・地元経済界代表者など幅広い人々によって、辺野古基地の阻止を目的とした「辺野古基金」が創設されたことが報じられています。
琉球新報によれば、「共同代表には、前嘉手納町長の宮城篤実氏と金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬CEO(最高経営責任者)、沖縄ハム総合食品(オキハム)の長浜徳松会長、元外務省主任分析官の佐藤優氏、俳優の故菅原文太さんの妻文子さんの6人が就いた」とのこと。この基金創設の会議には翁長知事も出席し「感激し、決意を新たにした」と述べたと書かれていました。
こちらは基金創設を伝えるテレ朝のニュース。「政府内には、沖縄県内で辺野古移設反対の動きが広がることに懸念と警戒感が出て」いると伝えています。いよいよ安倍政権の方が追い詰められてきているというおもしろい局面になってきていますね。

もう一つの地元紙、沖縄タイムスは4月7日付けで緊急世論調査の結果を発表しています。
それによれば、県民の翁長知事への支持率は83%。辺野古新基地反対は76.1%。政府の姿勢を支持しないが80.3%。圧倒的多数の県民が、辺野古への新基地建設に反対し続け、その意思はさらに強固になっているということは明らか。

アメリカの支配層内部でも辺野古移設に異論がある状況では、アメリカ議会・政府関係者、文化人などへの働きかけを強めれば、アメリカと日本政府との間の矛盾を広げることが可能ですからね。海外からの批判を安倍政権に集中していくことがこれからの活動の重要な柱になるでしょう。沖縄県民のたたかいが、辺野古基地建設阻止の展望を開きはじめた実感がわいてきます。
今日は妻が辺野古へ出かけているので新しい状況を報告してくれることでしょう。



  4月5日(日)
私のDVDのコレクションの中には見ていないものが半分ほども。「これなんだろう」と思うような映画も混じっています。借りた当初はちゃんと分かっていたはずなのに、10年以上も経てば分からなくなるのも道理ですかね。
そのような映画の1つに「アトミック・カフェ」というのがあります。Wikipediaで調べてみると、「アメリカ人の映画監督ケヴィン・ラファティ、ジェーン・ローダー、ピアース・ラファティが1982年に公開した、核兵器に関するドキュメンタリー映画」だそうで、広島・長崎への原爆投下、ビキニ核実験などの実際の映像やアメリカ政府制作の反共プロパガンダ映画、ニュース映画、大統領の演説音声、ラジオ放送、民間防衛のための広報フィルムなど実際に撮影、放送されたものばかり。ポップな音楽や歌も随処に流れ、その限りでは「原爆で戦争を勝利のうちに終わらせ、世界にその力を示したアメリカ」という雰囲気が充満しています。
すべてアメリカ側のマスコミ、政府・軍関係の記録映像ばかりですが、それだからこそいまこの映画を見ると、当時アメリカの支配者が何を考え、核兵器をどのようにとらえていたか、国民にどのように知らせていたが、または知らせていなかったかなどが、映像を通して浮き彫りにされていることに気づかされます。

興味深い記録映像が収録されていますが、とくに注目したい場面をいくつかピックアップしてみました。
まず第一は、広島・長崎への原爆投下「成功」を受けて発表されたトルーマン大統領の声明。

我々は20億ドル以上も費やし史上最大の科学的ギャンブル(the greatest scientific gamble in histry)に挑みそれに勝利しました。
原爆ができたので我々は使ってみました。日本の戦意を叩き潰すまで使います。日本が降伏するまで使います。
大変な責任を我々は引き受けたのです。神に感謝しましょう。それが敵の手に渡らなかったことを。皆さん、神のお導きで神のご趣旨に沿うよう使っていきましょう。


次は朝鮮戦争時に「原爆使用」を真剣に考えていたとするさまざまな証言。反共プロパガンダとともに核軍拡へのめり込んでいく時代を映し出しています。

<トルーマン大統領> 国連が侵略勢力に屈したらすべての国の安全は失われるでしょう。韓国が侵略されたら次はアジアとヨーロッパの全域が侵略されるのです。
韓国での戦いにはわが国の安全と存亡がかかっています。

<テレビ放映>
キャスター:「世界を考える」の時間です。本日のゲストは下院議員のバン・ザント氏です。
バン・ザント:私の考えでは韓国での戦争には勝利しなくてはいけない。相手はソビエトだから交渉による解決はない。
キャスター:それはつまり原爆の使用もありうると?
バン・ザント:もちろんだ。原爆は使えと私は前から言ってきた。北朝鮮だけじゃなくその先の中国にもだ。
キャスター:北朝鮮で原爆を使って効き目はありますか?
バン・ザント:もちろんだ。北朝鮮にはいくつか有効な攻撃目標がある。そこを原爆で攻撃すれば彼らを殲滅できる。その先の中国にも破壊すべき目標はある。

<アメリカ空軍用映画> この強力な爆弾を使わずに済むように神に祈ってきた。しかし必要とあらば、ためらわず勇気を持ち使用するのだ。

<ロイド・ベンツェン下院議員> 大統領に提案したい。北朝鮮軍の司令官に38度線から1週間以内に撤退するか、それとも1週間以内に市民を避難させるか選べと言ってほしい。アメリカ空軍は原爆を投下するからと。

<米軍音楽・歌> 冷たくてひどい戦争ももうじき終わりだ。頑固な共産主義者にたっぷりお見舞いしよう。やつらの悪さをとめるためにマッカーサー将軍に原爆を落としてもらおう。大火事になり大混乱になって放射能で全部が焼け焦げだ。残ったアカも一目散に逃げまどう。マッカーサー将軍に原爆を落としてもらおう。


冷戦下で対ソ核戦争を想定した陸軍の訓練が地上核実験のもとで行われ、多数の被爆兵士(アトミック・ソルジャー)を出したことは有名な事実ですが、この映画ではキノコ雲に向かっていく兵士に担当士官が任務を説明する場面が衝撃的で、さらにそれを聞いた兵士がお互いに語り合うシーン、演習後のインタビューも印象的です。

<演壇で説明する士官>
諸君、デザート・ロック基地にようこそ。最後のブリーフィングを行う。その後前進基地に移動して原爆作戦に参加してもらう。
スモーキー実験の戦略とは次の通りである。謎の敵がカリフォルニアの海岸に上陸して内陸深くまで侵入。武器庫やミサイル発射台があるラスベガスやフーバーダムの近くにやってきた。そこで戦略司令官は原爆で敵を攻撃することにした。
作戦の参加者の使命は速やかに爆撃地域に入り敵を押さえることである。
諸君は原爆作戦でここにき来た。これはいい加減な作戦ではない。何ヶ月も前から周到に練られた計画だ。安全な距離をとってながめるとこの爆発は人類史上最高に美しいものだ。諸君もきっとこう言うだろう。「なんて美しい・・・どこが危険なんだ?」
注意してほしいのは3つだけだ。爆発、熱それに放射能だ。放射能、これが目新しいもので核兵器の使用で生じる。だがじつは3つの中では一番どうでもいいものだ。とくに兵士が地上で動く場合はだ。
放射能は目に見えない。触れないし臭いもないし味もない。放射能測定用のバッジが配られるが(写真23)それは放射能の安全な許容量を測り、どれだけ浴びたかを示す。高い数値が出るかもしれない。しかし命令通りやれば気分が悪くならずに終わる。最後に一言。放射能で不能や重病になることはない。そうなる前に爆発や熱で死んでしまっているからだ。以上だ。心配は無用。本作戦は全く問題ない。

<3人の兵士の会話>
兵士1:どうした心配そうな顔して?
兵士2:心配なんです。すこし。
兵士1:心配は要らん。軍がすべて前もって調べたから、全く安全だ。
兵士3:以前にも参加したことはあります?
兵士2:核実験はいくつも見てきた。従軍牧師だからみんなのそばにいるのが仕事だよ。
兵士1:どんなふうですか?
兵士2:まず最初は光だ。とても明るい。それから振動波が来て爆発音が聞こえる。小さな地震って感じだ。そして見上げると火の玉が天に向かって昇っていく。素晴らしい光景だよ。

<塹壕に入る兵士たち>
30秒前 15秒前 5 4 3 2 1
熱と爆発は体感できるが放射能については感じることはできない。アルファー粒子やベータ粒子は浸透力が弱いのでたいていは表面ではね返される。兵士の皮膚でも同様だ。唯一危険なのはこういう粒子をもった物質が体内に入ること。だから傷口や鼻や口には用心が必要だ。


<インタビュー>
記者:口は閉じました?土は入った?
兵士:口も顔も土だらけだよ。
記者:煙や放射能はどうでした?
兵士:しばらく何も見えなかった。靄みたいになって。
記者:特別な防護服か何かを着ました?
兵士:いや、いつもの作業着だよ。
記者:この白いバッジですが何ですか?
兵士:放射能測定用のバッジだ。浴びた量を測る。
記者:致死量を浴びたかどうかわかるのですか。
兵士:そうだな。そういうことかな。


ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下の実相をそれなりにとらえ、第5福竜丸の被爆の模様もリアルに描いていて引き込まれるところがたくさんあります。
同時に、ビキニ環礁での水爆実験のために島民を追い出すためのウソ、アメリカ国民にソ連をはじめ共産主義の脅威をあおり立て水爆保有を正当化する狂気のようなプロパガンダ、ソ連が水爆を保有したことにともなって国内で進められる避難訓練の茶番なども数多く収録されて、見所はたっぷり。
この映画では、核兵器についての最初のノーテンキな描き方から、1950年代後半にはいると一転して「不安」「いらだち」が映画に反映されていきます。国民に対して一方的な情報を流しながら核軍拡に突き進むアメリカの諸相がこれでもかと思うほど見事に描かれていきます。
下のような「安心への最高の生活には最悪への備えが必要です」という宣伝は、現在の安倍政権のやり方とうり二つではありませんか。
見ようによっては、核兵器廃絶運動への貴重な資料を提供してくれてもいるこの映画。日本国民もアメリカ国民もあらためて見るべき映像だと思わされました。





  4月4日(土)
今日から妻は郷里の沖縄へ。飛行機が遅れて午後6時少し前に那覇空港に到着したという連絡があって一安心。最近航空機のトラブルがいろいろあるので、何となく心配ですから。
那覇は27度で「モワッ」として暑いというのが到着第一声。これからカーレンタルの会社に行って月極の車を借りて家に向かえば7時半か8時頃に母親に会えることになります。
ところで私の方は、今月の18日から遅れて沖縄にでかけ24日に一緒に帰ってくる予定にしています。それまでしばらくはネコのハルと家の守り。もっぱら畑とバラ園、それに庭の手入れでほとんどの時間が過ぎていくはずです。

菅官房長官が今日沖縄入りし明日翁長知事と会見するということになっています。
キャンプシュワブ前での抗議活動を続けている市民に対して、稲嶺名護市長が駆けつけ「菅義偉官房長官が来県し、あす翁長雄志知事と会談するが、東京サイドが沖縄を無視できなくなっているということだ。追い詰められているのはわれわれではなく官邸の方だ」と激励したことが琉球新報に載っていました。
会談の模様はいまからおおよそ推測できるほどですが、問題は政府の強権的な工事の強行を止めさせるかということに尽きます。「防衛は国の専権事項」という安倍政権の立場に対しては、いくつもの自治体から「地方自治体と国との対等の関係を無視した暴論」であるとの異議が意見書として政府に突き付けられていることから、さらにそうした動きを加速させることが1つ。さらに、政府が依拠しているのは仲井眞前知事の「承認」ですが、これは公約に反し多数の県民意思を無視した知事の暴走としかいいようのないものですから、その承認には何らの根拠はありません。県民の立場に立っている翁長知事だけが唯一正当な沖縄県民の立場を代表しているということを国民多数の意思ともしていくべきでしょう。政府が物を言うべきは沖縄県民ではなく、アメリカ政府なのだという当たり前の声をもっと大きくしていきたいものです。

7時半頃南城市の実家に着いたという連絡がありました。無事到着し、母も元気だったということなので、よかったよかった。



  4月3日(金)
昨日は快晴。大気中のゴミがすべて洗い落とされたようなすっきりとした空気のもと、北アルプスの山々がくっきりと眼前に広がっていました。
一転して今日はまた一昨日の曇天に逆戻りです。何とも変化の激しいお天気。とくにこの低気圧の通過で、桜満開の太平洋側では吹雪の予報。もちろん「桜吹雪」のことですよ。ほどほどの風であってほしいものです。

昨日はバラの会の初仕事。10人ほどが集まって、もうかなり伸びた雑草を取ったり、バラを植え替えたりして汗を流しました。
私は接ぎ木したバラを植えたり混んでいるバラを抜いて植え替えたりしていたのですが、スコップを使って土を掘っていただけで息切れが!!畑仕事は少しずつやってきていたのに何という情けないことでしょう。
一見してそれほど広いバラ園ではありませんが、いざ草を取ったり整地をしたりし始めると、相当に広く感じます。それでも人の力は偉大なもの。それぞれ何をすべきか心得ていて手際よく整備を行ってこの日は約1時間半ほどで作業を終了して、お茶の時間にしました。
昨日の天気で認識を新たにさせられるのは、このバラ園の立地のすばらしさ。全国のバラ園でもこれほど雄大な遠景を持ち、空気のいいところって他にはないんじゃないかと・・・手前味噌な優越感にひたっていたことでした。
これからは毎週木曜日が定例の作業日。当面6月12日〜14日のバラ祭りに向けて整備を続けていくことになります。
写真上は、整備作業の様子。下はバラ園に行く途中で見かけたキジのつがい。
その下は、バラ園に隣接する庭の梅の木。桜はまだ先、いまは梅が満開です。この天気なら桃も桜も4月20日頃には満開を迎えるかもしれません。









  4月1日(水)
今日は朝からどんより曇ってときどきポツポツと雨が落ちてきます。家の玄関先ではレンギョウが早くも7分咲き。暖かい日が続けばすぐに満開です。
フキノトウは昨年の記録とくらべると10日くらい成長が早いので、おそらくレンギョウも同じでしょうか。スイセンは昨年並みのような感じです。道を挟んだ向こう側ではオオイヌフグリの群落があちこちで法面を淡い青紫色に染めています。






いつものような春のおだやかな春の訪れ。しかし、日本全国の農村をまきこんでTPPの影が不気味に忍び寄る。
すでに日本の農業とくに米作りをめぐっては、主として政府の米価安定策の放棄によって生産者米価が大暴落。全国生産コスト1万6000円のところ、コシヒカリで概算金が約9000円程度ですからとてもやっていける金額ではありません。
さらに農業委員の公選制の廃止、生産調整を達成した農家への交付金半減(2014〜)、2018年産から国による米の生産調整の廃止などが押しつけられて、このままでは荒廃農地が続出するのではないかと思ってしまいます。米作りをやってみたいというIターンの若い人がときどきいるのですが、農家の人の助言は必ず「やめとけ」ですからね。

ウィキリークスが先日(3月25日)、TPP交渉の投資分野の条文案であると見られる文書を公開しました。これを報じたのは3月29日付け「しんぶん赤旗」。
ウィキリークスが発表した実際の資料はこの団体のホームページで見られますが、なにぶん英文で55ページもあります。
英語の堪能な方に是非訳してみてほしいものですが、ここでは赤旗によってその重要な点を一言で紹介すると、”多国籍企業が投資先の政府によって不利益を被ったと考えた場合、政府を相手取って国際法廷(投資紛争国際解決センター)に裁判を起こす権利を認めた「投資家・国家間紛争(ISD)条項」が盛り込まれている”ということです。
TPP交渉が始まる前からこのことは問題視されていましたが、実際に文書で確認されたのは初めてですかね。この文書の信憑性は、米消費者団体パブリックシチズンが「本物と確認」と発表していることからほぼ間違いないといいます。
アメリカ在住のブロガー小崎壮平さんによれば、次のようなケースが考えられるということ。

たとえば、日本で遺伝子組み換え作物の表示義務を義務化している日本で、農業マフィアであるモンサントが不利益を被ったとして、世界銀行の投資紛争国際解決センターに日本を提訴する。
そうするとどうなるのか? アメリカの手先である世界銀行はモンサント有利な判決を下すことになり、日本の遺伝子組み換え作物の表示義務化が覆されるということです。農業マフィアであるモンサントはTPPによって世界を支配することができるようになるのです。


一面緑色に覆われた山野がよく見ればすべて侵略的外来種「アレチウリ」だったというのと同じように、一見平和に見えるこの安曇野の平野にもTPPのさまざまな影が忍び寄っているとすれば、その影の正体を何としても突き止め、首根っこを押さえなければなりませんね。




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