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  5月29日(金)
琉球新報によれば、アメリカでは政府高官から「辺野古悲観論」「政治環境の変化論」が出ていると言います。同紙で紹介されている高官コメントは以下の通り。

ジョセフ・ナイ元国防次官補
 「沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれ、米政府はおそらく再検討しなければならないだろう」
リチャード・アーミテージ元国務副長官
 「米国はこの問題では日本に先頭に立ってもらおうと思っている。日本政府が別のアイデアを持ってくれば、私たちは間違いなく耳を傾ける」
ライシャワー東アジア研究所ケント・カルダー所長
 「知事が法的手段で止めようとするのは当然で、権利だ。(移設をめぐる裁判が)最高裁判所までいく。その中で良心的に次の一歩が何なのかを考えるべきだ」
外交問題評議会のシーラ・スミス上級研究員
 「(翁長知事の就任は)沖縄の基地政策の流れを変える出来事だ」


もちろんタカ派のマケイン上院議員などは「辺野古移設は実現可能だし不可欠だ」などと発言し、米政府の軍事戦略をあおっているのですが、実際には米政府内は一枚岩ではない。
問題なのは、米政府に対して何も言えず、むしろ米政府に嫌われまいとその意を汲みまくって遮二無二辺野古への基地移設を推進しようとする日本政府にある。そして、この卑屈な対米従属姿勢が、戦争法案の審議の中でも遺憾なく発揮されているのです。
先に法案を8月までに成立させるという対米公約があるので、法案に含まれる論理矛盾も、たとえどのように言いつくろってもいいから隠蔽して突破する以外にないというわけです。
だから、自衛隊員のリスクがこれまでと変わらないとか、武器使用が武力行使ではないなどという訳の分からない話になる。「存立危機事態」といっても誰がどのように判断するのかと問われて政府が判断するとしか答えられない。つまり誰も責任をとらない仕組みは原発と同じくしっかり温存されている。
「現に戦闘が行われていない地域」なら他国での戦闘の補給支援ができるという説明も、毎日新聞が書いているように「昼間は戦闘になるが夜間はなかったり、あるいは敵対武装勢力が潜伏していたりしても実際に戦闘中でなければ、こうした地域で自衛隊が活動することになる」んです。戦闘が起こればすみやかに撤退すると安倍さんは答弁で力説するけれど、戦争ということがまるで分かっていないから答弁が支離滅裂になってしまう。
「安倍首相は『戦闘が始まればその場から撤退する』と言うが、現実は不可能です。後方支援がなければ、前線の他国軍部隊は崩壊する。その状況で現場の指揮官が退却を命じられるわけがない」(小林節慶応大名誉教授)。それとも戦闘になったからと他国軍を見捨ててさっさと逃げるんでしょうかね。

沖縄では、沖縄防衛局がクレーン付台船を大浦湾に入れて海底ボーリング調査を再開しています。辺野古浜、キャンプシュワブ前では抗議行動が続けられているのですが、この抗議を封殺するために様々な妨害が準備されている。
実際海保の暴力はここ数ヶ月目に余るものになっていて、このままいけば「死者が出る」と公然とささやかれているのです。
海保長官の佐藤雄二氏は海保の現場出身。霞ヶ関で「三度の飯より人事が好き」(官邸筋)と揶揄されている管官房長官に抜擢され、その管から「取り締まりの強化」を指示された佐藤は「恩義を感じて言われるとおりに実行に移している」のではないか・・・作家の目取真俊さんは自身のブログでそのように書き、次のように続けています。

いま暴力をふるわれているのは、海上やキャンプ・シュワブのゲート前で抗議をしている市民かもしれない。しかし、その暴力は安倍政権の強権的な体質、指向に根ざしている。戦争をする国に向けて突っ走っている安倍政権の思惑通りにことが進めば、暴力むき出しの弾圧体制は日本社会全体を覆い尽していく。
辺野古で起こっていることは、すでに日本の各地で起こっているのであり、海保や機動隊の暴力的弾圧を許せば、集会や表現の自由は失われる。反戦・反基地運動が圧殺されたとき、戦争は目の前に来ている。そのときはもう声を上げることもできない。そういう歴史をくり返してはならない。


沖縄の新基地建設が、安倍内閣の戦争法案の先取りである事態がはっきりわかりますね。

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午前中は、池田町議会に対する陳情書を議会事務局に持って行きました。池田町は1988年(昭和63年)に核兵器廃絶・軍備縮小・平和の町宣言を発していて、憲法第9条の精神を自治体としても生かす責務があるといえます。
というわけで、今国会に提出された安全保障関連法案の廃案を議会としても各方面に働きかけてほしいという趣旨の陳情書を書いて持って行ったというわけ。
町の9条の会池田からも請願書が出されるという話は聞いていましたが、たとえ同趣旨であれ各方面からどんどん意見を議会に集中して議論していくことは必要なことだろうと思って提出したのです。
その帰り、ある方と話をしていたら、「うちの若いモンが、今すぐに戦争ということにはならないだろうが、30年後、50年後にはどうなるかわからないと言っていた。若い連中がもっと声をあげなきゃね」とつぶやいていました。全くその通りで、若い者同士おおいに意見をたたかわせ、行動に移していってほしいものですね。

バラ園の看板をつくるために今日も園によりました。昨日よりさらに花が増え、咲き終わった花も少しずつ目立ってきて、花殻摘みがいよいよ必要になってきます。
先日は私の幼少期のことを書き、写真も「恥をしのんで」掲載したのですが、バラを見に来ていたお隣さんに滅多に取ったことのない私の写真をとってもらいました。ふだん誰も撮ってあげるといってもくれないし、自分でも撮られるのは大変苦手なのでこのブログでも紹介するときは「背後霊」のように載せることにしているのです。
今回はあえてこんなに年をとってしまいました、ということを紹介するため、そして、バラ園の主宰者の姿も見せないと行けないと思い載せました。息子、娘よ、「遺影」の候補写真にでもしてくれ。イエーイ!


お口直しに、今日も昨日のつづきで園内のバラたちを紹介しましょうね。


ベルサイユのバラ


ブルーライト


ラビーニア


アンネのバラ


ラバグルート


シャルダン・ドゥ・フランス


花ぼんぼり


ソリドール


ザ・マッカートニー・ローズ


ホワイトクリスマス


きらり


エイプリル・イン・パリ


ゴールドシャッツ

どの花もため息がでるほど素敵ですね。



  5月28日(木)
朝バラ園に行って目を見張りました。この一週間ですっかりバラが満開になっているではありませんか。バラ祭りまでまだ2週間あるというのに、この調子では大変なことになりそう。バラの会の顧問に電話したら、「とにかく早めに花殻摘みをした方がいい」という返事でした。
バラの会の会員たちは、例年の様子からバラが咲き終わるなどということはないことをよく知っているので、いたって楽天的、「今日は一足早くバラの会でバラ祭りをやりましょう」と大興奮、大はしゃぎ。まあ、焦っても仕方がないので、咲き誇ったバラたちを眺めて精一杯楽しむこととしました。香り豊かで彩りにあふれたバラ園、これが楽しみでやってきたようなものですからね。苦労が報われた瞬間です。
今日の作業は、バラ祭り当日の駐車場のための通路作り。数人の男子で汗を流したおかげですっかり立派な車の通路ができてこれで当日の駐車場は心配なくなりました。
飛び入りで、穂高のMさんご夫妻も訪れてくれて、急遽自作童話の「読み聞かせ会」や歌の披露まであり、いつもとは違う「文化的」休憩となりました。
また今日は市民タイムスと大糸タイムスが取材に来てくれて、1週間後くらいに記事を出してくれる予定。来週は信濃毎日、タウン情報、中日新聞も取材に来てくれる予定ですから、例年になくしっかり宣伝できそうです。今年はテレビにも宣伝をお願いしているので、カメラを持って取材に来たらどうしよう・・・。

これをご覧のみなさんはネット上で一足早くバラ園の様子やバラの花ををお楽しみください。
トゲはあるけれど、バラってやはり平和の花なんです。こんな美しい花を育てていると争いをしようという気にもなりませんものね。アンネのバラがLove & Peaceをよびかけてもいますし。










恋心


プリンセス・ド・モナコ


レッド・クイーン


マチルダ


レッド・レオナルド・ダ・ビンチ


ヨハネ・パウロ2世


情熱


カフェ・ラテ


ほのか


サプライズ


ピュア・ポエトリー


パフューム


チャイコフスキー


ハイディクルムローズ


アイスバーグ




  5月27日(水)
今日は何しろ忙しい1日でした。いろいろな人と会い、意見を交換し、書類を準備し・・・。
国会で審議が始まった安全保障関連法案=戦争法案を何としても廃案に追い込むために、地域で何ができるかを真剣に考え行動に移していたのでした。もちろんそうはいっても、一人の力では何にもできません。どうやってか弱い力を束ねるか。そこが思案のしどころです。先日も書いたように、まだその姿は私の構想の域を出ず、準備中としか言えませんが、次第に形をなしてきていることだけははっきりしています。

昨日の信濃毎日新聞に大北(大町・北安曇)地域で「戦争をさせない1000人委員会」が結成されたことが紹介されていました。いうまでもなく「1000人委員会」とは大江健三郎、瀬戸内寂聴、内橋克人、倉本聰などといった著名人が発起人となり、5月1日現在で1900名を超える人々が賛同者に名を連ねている組織です。「戦争への道を突き進む政府の暴走を阻止し、一人ひとりの平和に生きる権利を守りぬくための運動」を展開するとして、最近では毎週木曜日の国会前活動や街頭宣伝活動など多彩な活動を呼びかけています。
全国各地では、これに呼応する地域組織が作られつつあり、その限りでは心強い運動の担い手となっていて、その発展を心から応援するとともに、協力・共同していかなければならないと思うのです。

文書をつくるために、新聞記事などをあさっていると、この重大法案についていかに整理できていないかを悟らされていまいます。法案の原文を読まなければならないし、解説なども参考にしなければならないし、難解な語句のうらに何が隠されているのかを読み解かなければいけないし、一筋縄ではいきません。
そうした仕事はまだ緒についたばかりだし、その合間に国会中継などを聞いていると、安倍内閣の犯罪性がより鮮明に浮かんできます。海外に出ていけるほどの軍事力を持たないと一人前の国家とならないと本気で思っているのかどうかわかりませんが、アメリカへの忠誠心だけは本物のようですね。
集団的自衛権の発動ではホルムズ海峡での機雷掃海が対象になるなどという答弁を聞いていると、イランが欧米との対立で海峡封鎖・機雷敷設などを仕掛け原油の供給が止まる事態になれば「わが国の存立をおびやかす」事態だとして集団的自衛権行使に踏み切るわけですから、そこにはどうやって平和的にものごとを解決するかという視点はさらさら見えてきません。
今日も安倍首相が力説していましたが、「脅威はいつやってくるかわからない、それに対処するための法整備だ」という論理。一見耳障りよく説得力があるように見えますが、それはアメリカの行動による脅威で、それには唯々諾々として従うだけなので、それ以外の選択肢はない。つまり、いつやってくるかもしれない脅威とは日本がそれを避けるように外交努力をしたり、中東諸国との独自外交をしたりすることとは全く無縁のかなたからやってくる脅威なのです。
「より緊密な日米同盟が抑止力を高める」ろいう論理も全く同じ。頭の中はアメリカで手足だけ日本というちぐはぐさが際立っています。過去の戦争に対する総括も、ドイツ並みにやっていれば中国との関係は全く異なったものになったはず。日米同盟の強化がアジアでの緊張関係を一層高め、それがさらなる「抑止力」(=軍拡)を呼ぶという悪循環にはさらさら考えが及ばない。気がついたらたぶん10年後ぐらいには予算の相当部分を軍事費が占めていることでしょう。
しかし、一方で安倍首相の言辞には大衆受けするような部分がたくさんあります。何しろ中国・北朝鮮の脅威を言い立てれば言い立てるほど、いまのままでいいのかということになりますから。それに目くじら立てて反発したところで、それはかえって相手の思うつぼ。そのときこそ沖縄のたたかいに学ぶことですね。
安倍らが言っていることとやっていることの食い違い、ウソ、暴力、それらの1つひとつをあばくこと、身をもって知ることから反撃のたたかいがはじまるのです。



  5月26日(火)
今日は私のルーツと最も古い記憶というテーマ。
ルーツといっても、家系図があるわけでもなく父母、祖父母くらいまでしかわからないので、勢い私の生まれた頃という話になるのをお許しください。
今の若い人たちの生まれた環境とどれほど違うのか、また似ているのか、どんな関係があるのか、私自身にその当時の記憶や体験がどんな影響を与えているのかなどをさぐる自分自身の1つの材料となればと思って書きます。

私の父母はともに養子養女なので現在の名前は祖父のもの。従って、血のつながりでいうルーツは祖父母では無く、父(根塚姓)と母(藤村姓)の系統からさかのぼることになります。
父は純然たる富山っ子(富山市内のどまんなか)で次男。兄弟のうち二人は戦死し、現在父のすぐ下の妹(私の叔母)が存命です。1月1日生まれのため、いつも誕生祝いをしてもらえないと苦笑いをしていました。
母は、先日も書いたように石川県石川郡柏野村で6女として生まれ、1才ちょっとで祖父母のもとに養女として引き取られます。祖母は柏野からさほど遠くない一木村字村井の生まれであったことから、何らかの縁があったものと思われます。
両親が婚姻届を出したのは昭和19年、敗戦の色濃いさなかのことでした。以前も書いたように父は海軍の通信兵として戦地に赴き、昭和20年になって祖父母と母は上新川郡熊野村に疎開、21年1月に疎開先で私が生まれることになるのです。
目が細く鼻がペッチャンコなのは生まれつきだったのですねえ(まさしく弥生系)。母の遺伝子は全く受け継がれていない!妹にみんな行っちゃったんでしょう。でもよくこんな写真を残しておいてくれたものです。


疎開先には長くいたようで、昭和23年にはその場で弟(故人)も生まれています。

私の記憶の最も古いものは、もちろん疎開先での生活ではありません。富山市内は米軍の空襲で焦土と化しますが、数年の後には再建が始まり、中心部に近い梅沢町に一軒家を得て生活がはじまったそのころからでしょうか。
私が5才のとき、その家で妹が生まれます。座敷についたてをたて、その向こうに母が寝ているらしい。「子どもは近づいてはいけない」と言われて、弟と土間から様子をこっそり見ていたのを覚えています。もちろん遠いので何にもわからなかった。あとで妹が生まれたことを知らされただけでした。
その頃、家のすぐ脇には農地があり、祖母が野菜の手入れをする合間にふと両腕で裾をまくって「立ち○○」しているのを何度も目撃。女もソレができることを初めて知ったのでした。
ただし、祖母の名誉のために言っておきますが、明治生まれの農村の女にとって、そんなことはふつうのこと、あさめし前のことだったのですよ。子どもの私などは男とはみなされず、私がいようがお構いなし。豪快でした。オイ、そこのヤワなネエチャン、恐れ入ったか!
もっとも、夜ともなれば畑の脇を流れる川の畔はホタルでいっぱい。昼の出来事もすっかり忘れてホタル狩りをよくやったものでした。
一方、父はよく実家に私達を連れていくことがあり、従兄弟に連れられて本願寺の境内に行き写真を撮ったのが不思議と記憶に残っています。(写真は私と弟)


小学校に上がる直前ころからの記憶は結構たくさんあって、低学年では知人宅に預けられっぱなしだったこと。保育所には通わせてもらえなかったし、祖父母は子どもの面倒をみないので、私も弟も別々に預けられていたらしい。
何をして母の帰りを待っていたのか全く覚えてはいませんが、食器棚の中にはかならずおやつがおいてあったのだけは鮮明に覚えています。きまって「するめ2本、豆数個」だったからです。
2,3年はそんな生活が続いたのでしょうか。通知表には「消極的で発言の意欲がない」などと書かれていました。体も弱く、あまり運動することもなかったせいか学校の友人との交わりについてはほとんど記憶がありません。
ただ、地域では子どもたちの集団ができていて、陣取りやメンコ、ビー玉といった遊びでガキ大将に連れ回された覚えがあります。

そんな中で、母や祖母に連れられていく石川県の田舎(母の里の柏野、祖母の里の村井、祖母の弟の住む河北潟沿いの村)は見るものすべて新鮮で、好奇心を満たすには最適な場となっていました。
富山から蒸気機関車の引っ張る列車に乗り、倶利伽羅峠のトンネルでは石炭の煙にむせながら、ただプラットホームだけの加賀笠間駅を降り、どこまでも広がる黄金色の田圃の中を一直線に歩いて行く風景は記憶に残る一枚の絵ですね。
祖母の里は大きな屋敷で、コの字になった右手は厩、左手は農機具や収穫物の倉庫、そして奥にはだだっ広い土間を経て天井の高い囲炉裏の切ってのある部屋。祖母の兄の長男が、囲炉裏端でわら人形の作り方を教えてくれました。今でも、どうやって馬の形をつくるか覚えているくらいですから、よほど強烈な印象をうけたのでしょうね。
夜一人で広い部屋にねていると何の鳴き声なのかよく響く声が聞こえる。怖くはないのですが、不思議な気持ちでなかなか寝付かれませんでした。
母の里では、従兄弟・従姉妹がたくさん集まってきました。盆踊りを見たりセミとりをしたりしたことは以前書いたことがありましたね。一年に一度、お盆近くに農業用水の水をせき止めてフナや鯉、ナマズを捕まえるイベントがあったのを昨日のように思い出します。

私の幼少期は、戦後の復興期と重なりますが、その記憶の中には「戦争」の爪痕やそれにつながるものはほとんどありません。強いて挙げれば次のようなことです。
1つは、家の近くでガキ大将などと遊んでいるとき、焼夷弾のカラがよく地面に突き刺さっていたこと。掘り出すわけにもいかず、そのあとどうなったのか。
2つは、近くの日枝神社(山王さんとよんでいた)の祭りに出かけると、生活費の足しにしようというのでしょう、白装束の「傷痍軍人」が何人も箱を持って寄付を募っていた。何だか怖いものを見るように遠巻きに歩いていたことが思い出されます。

小学生時代は祖父母が面倒をみてくれるわけでもなく、父母は共働きだったために、学校から帰ってからどうしていたものか、今から思うと不思議な気がします。母は小学校に勤めていたために、学習に関しては気配りをしてくれてはいましたが、とくにどうしろこうしろという話はほとんどなかった。そうした時期の父母に最も感謝しているのは、本を買っては手作りの本棚に置いておいてくれたこと。
「少年ケニア」が最初の愛読書になりました。そして、少年少女文学全集のいろいろなものがたり。挿絵が想像力をくすぐり、忘れられない場面がいくつも残っています。
また小学1年から習字に通わせたこと。母の宿直の日には学校に連れて行って、私を一人部屋に入れレコードを聴かせ続けたこと。また、母の勤め先の職員旅行には時折私を連れていき、いろんな体験をさせてくれたこと。とくに同行していた絵の先生が私のために自らスケッチを描きながら教えてくれたこと(素晴らしい絵でした。誰かがその現場の写真を撮ってくれていました)。それらも忘れられない思い出となっています。


魚を捕りにいくのが好きだった私は、5,6年になると同じ趣味をもつ仲間と近くの川へいってはフナやナマズ、貝、カニを捕らえるのが日課となりました。当時はまだちょっと足を伸ばせば、農村にはそれに最適な場所が無数にあった。

思い出せば、いろいろ出てくる幼少期ですが、それらを羅列することが今日の目的ではありません。私自身を形成する何かがあったとすれば、何より父母がいろんな体験をさりげなくさせてくれたこと、「おとなしく目立たない」子どもであったけれど、その分一人でも野外に出て自然を相手に遊んでいたこと、親戚づきあいの中でいろいろな人と関係をつくることができたこと、さらに小学校では猛烈教師であった担任がそれこそ寝食を忘れて学力形成に力をいれてくれたことなどが挙げられます。
ただ、それだけでは、そのままでは、現在の私は作られませんでした。中学から高校、大学に至る過程での疾風怒濤の時代が待っていることをその当時は知るよしもなかった。ある一人の女性との出会いと別れ、進路を巡る葛藤と新しい仲間との出会い。挫折・・・など、とくにある女性とのことは奥さんの許可を得ないといけませんから、今後書けるかどうか微妙。

それは別として、妻はこうした私の幼少期をかつてはよく「羨ましい」と言っていた記憶があります。沖縄戦のさなか、そして占領期の沖縄南部で大勢の兄弟姉妹の長女として農作業を手伝い、家計を助ける日々の中では、環境も経験もまるで異なります。
しかし、妻もまたそうした生活をへて、自立した生活を自ら求めて本土にわたり正看護士の資格を得て働くことになるのですから立派なものでしょ?
問題は、両親がいるかどうか、どんな経歴をあゆみ、学歴や職業がどうか、経済的に成り立っているかどうかなどではなく、いろいろな境遇をまるごと受け入れ、一人の自立したまっとうな人間として足を踏み出すことができたかどうかなのです。
貧しいながらもそこに「地域」があり、人々との親密な交流があったおかげで、そうした条件が生まれただろうことも忘れてはなりません。自立したくてもそれが閉ざされ、経済的に苦しい上に地域も死に絶えた人間が人間らしい生活を奪われていく現代では、より多くの困難が待ち構えていますが、やはり同じことだと私には思えます。
挫折しようと、間違えようと、一人で悩まず仲間を大切にしその助けを求めることができるかどうか。「よりよい生き方」へとたたかい続けることができるかどうか。かつて「Conspiracy of decency」で紹介したデンマークの人々のようにナチから逃れる人々を「ふつうのこと」として助けたと同じように、それに類したことを「あたりまえのこと」として行えるかどうか。
その点では、私自身は依然数多くの欠陥をかかえ、その後も挫折を重ね苦しみ続けなければならない羽目になるのですから皮肉なものです。大きなこと、カッコいいことなどサラサラ言えた義理ではないんです。

さて、妻の幼少期のことはいずれ機会をみて書くつもりです(了解が得られればの話ですが・・・)。実際、私も知らないことがまだたくさんあるはずですから。



  5月25日(月)
さきの党首討論会で共産党の志位委員長から「総理は『ポツダム宣言』のこの認識(先の戦争が間違った戦争であり、侵略戦争であったという認識)をお認めにならないのですか」と問われて「その部分をつまびらかに読んでおりませんので、承知はしておりません」と答えた安倍ピョン。いや〜ネットで大変な反響ですね。
「ひょっとしたら日本国憲法も安保条約も『つまびらかに』読んではいないんじゃないの?」などと皮肉る書き込みも多数。全くそのように勘ぐりたくもなりますね。

ポツダム宣言で思い出すのは、私が高校生だった頃のこと。たぶん高2だったんじゃないかな、英語の参考書を購入して勉強しようとしたら、最初に出てきたのがこの「ポツダム宣言」の英文全文だったのです。「君たち、これからの日本はこの宣言が土台になるのだ。若い君たちがこれを読まずして英語の勉強などするな。日本のことも考えることは出来ないのだよ」と書いてあったかどうか定かではありませんが、趣旨はそういうこと。私は目をパチクリさせたことを昨日のように思い出すのです。
そのときは、何のことやらさっぱり分からず、飛ばし読みしたか、訳文だけを読んだか、それも今となっては思い出せませんが、著者の意気込みだけは鮮明に覚えているのです。

昨夜のNHK討論番組を半分ほど見て、こりゃダメだと思って途中で見るのをやめました。NHKだからなのか、危機感などさらさらない。通常の法案とほとんど変わらない扱いとして、やたらツイッターを出して(どんな選択基準があるのかわかりません)くる。
「これでやっと一人前の国になれる」だとか「国際社会と協力してテロなどから国を守るのは当然」「抑止力が必要」などという意見を次々と出すのですから、見ている方は次第にそんなもんかと思わされるしくみですね。
今度の安全保障関連法案(=戦争法案)は、そんな意見とは次元が異なる大きな問題をはらんだものです。
第1に、民主的な手続きが全く無視されている。条約でも国際協定でも何でもない「ガイドライン」を日米で結び、集団安保の履行をアメリカに誓約した上で、8月までに国会で関連法案を通すと約束する。これって、国会無視、国民無視と同じことでしょう。憲法遵守義務を持つ一内閣が恣意的な判断で憲法解釈を180度変えてその判断を国民に押しつけるというのは、明確に立憲主義に反することでしょう。

第2に、日本国憲法は自前の軍隊を持つことも、もちろん海外で戦争することも明白に禁じている。
自前の軍隊を持ちアメリカの力をかりながら自分の国を守るのを「普通の国」「一人前の国」というなら言ってもいいでしょう。しかし、その際に何故アメリカに追従しアメリカの指揮のもとで軍事行動するのか説明しなければなりません。日本にある米軍基地を全部取り払うのが一人前ではないのか、さらに基地があり、軍備を増強することが抑止力ではなく危険をいっそう増すという沖縄の危惧に答えなければなりません。
軍事より外交交渉に長けた中立の国を目指すことは間違いなのか。それらに何にも答えずただ北朝鮮や中国が危ないから軍備を増強し、世界のどこへでも参戦できるように法改正するのが「普通の国」のあり方だというのでは、ただの戦争ごっこマニアです。
他国の軍隊が攻撃されたから集団的自衛権の発動で参戦(米軍や同盟軍の後方支援)できるするというのですから驚きです。アメリカへの誓約を何より優先しようとするとこうなるという見本ですね。それが当たり前という世論がマスコミによって誘導されようとしている。確かに戦争はこのようにして準備されるのです。
日本国民の多数を巻き込むような戦争がすぐにおこるなどということは考えにくい。しかし、初めは小さな事態(=「事変」)を発端に、どのような変化を生み出すのか分からないのが戦争であり、さらには戦地に行かなくてもミサイルによって攻撃したり受けたりするのが現代の局地戦争なのです。
私は、若い人たちがあの戦争を経験した人たちの声をもっと聞くことから始めなければならないと思います。命からがら戦地から逃げてきたり、飢餓地獄を経験して九死に一生をえたり、空襲で爆撃をかいくぐって逃げたりした人は必ずと言っていいほど、「二度と戦争をしてはいけない」と言います。戦争は突然目の前に現れるのではない。静かな準備期があり、国民を大義名分のもとに誘導し、反対勢力を押しつぶして準備されるものです。「戦争をしたいから法案をつくる」などという政治家は一人もいない。
むしろ、戦争はよく