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  5月29日(金)
琉球新報によれば、アメリカでは政府高官から「辺野古悲観論」「政治環境の変化論」が出ていると言います。同紙で紹介されている高官コメントは以下の通り。

ジョセフ・ナイ元国防次官補
 「沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれ、米政府はおそらく再検討しなければならないだろう」
リチャード・アーミテージ元国務副長官
 「米国はこの問題では日本に先頭に立ってもらおうと思っている。日本政府が別のアイデアを持ってくれば、私たちは間違いなく耳を傾ける」
ライシャワー東アジア研究所ケント・カルダー所長
 「知事が法的手段で止めようとするのは当然で、権利だ。(移設をめぐる裁判が)最高裁判所までいく。その中で良心的に次の一歩が何なのかを考えるべきだ」
外交問題評議会のシーラ・スミス上級研究員
 「(翁長知事の就任は)沖縄の基地政策の流れを変える出来事だ」


もちろんタカ派のマケイン上院議員などは「辺野古移設は実現可能だし不可欠だ」などと発言し、米政府の軍事戦略をあおっているのですが、実際には米政府内は一枚岩ではない。
問題なのは、米政府に対して何も言えず、むしろ米政府に嫌われまいとその意を汲みまくって遮二無二辺野古への基地移設を推進しようとする日本政府にある。そして、この卑屈な対米従属姿勢が、戦争法案の審議の中でも遺憾なく発揮されているのです。
先に法案を8月までに成立させるという対米公約があるので、法案に含まれる論理矛盾も、たとえどのように言いつくろってもいいから隠蔽して突破する以外にないというわけです。
だから、自衛隊員のリスクがこれまでと変わらないとか、武器使用が武力行使ではないなどという訳の分からない話になる。「存立危機事態」といっても誰がどのように判断するのかと問われて政府が判断するとしか答えられない。つまり誰も責任をとらない仕組みは原発と同じくしっかり温存されている。
「現に戦闘が行われていない地域」なら他国での戦闘の補給支援ができるという説明も、毎日新聞が書いているように「昼間は戦闘になるが夜間はなかったり、あるいは敵対武装勢力が潜伏していたりしても実際に戦闘中でなければ、こうした地域で自衛隊が活動することになる」んです。戦闘が起こればすみやかに撤退すると安倍さんは答弁で力説するけれど、戦争ということがまるで分かっていないから答弁が支離滅裂になってしまう。
「安倍首相は『戦闘が始まればその場から撤退する』と言うが、現実は不可能です。後方支援がなければ、前線の他国軍部隊は崩壊する。その状況で現場の指揮官が退却を命じられるわけがない」(小林節慶応大名誉教授)。それとも戦闘になったからと他国軍を見捨ててさっさと逃げるんでしょうかね。

沖縄では、沖縄防衛局がクレーン付台船を大浦湾に入れて海底ボーリング調査を再開しています。辺野古浜、キャンプシュワブ前では抗議行動が続けられているのですが、この抗議を封殺するために様々な妨害が準備されている。
実際海保の暴力はここ数ヶ月目に余るものになっていて、このままいけば「死者が出る」と公然とささやかれているのです。
海保長官の佐藤雄二氏は海保の現場出身。霞ヶ関で「三度の飯より人事が好き」(官邸筋)と揶揄されている管官房長官に抜擢され、その管から「取り締まりの強化」を指示された佐藤は「恩義を感じて言われるとおりに実行に移している」のではないか・・・作家の目取真俊さんは自身のブログでそのように書き、次のように続けています。

いま暴力をふるわれているのは、海上やキャンプ・シュワブのゲート前で抗議をしている市民かもしれない。しかし、その暴力は安倍政権の強権的な体質、指向に根ざしている。戦争をする国に向けて突っ走っている安倍政権の思惑通りにことが進めば、暴力むき出しの弾圧体制は日本社会全体を覆い尽していく。
辺野古で起こっていることは、すでに日本の各地で起こっているのであり、海保や機動隊の暴力的弾圧を許せば、集会や表現の自由は失われる。反戦・反基地運動が圧殺されたとき、戦争は目の前に来ている。そのときはもう声を上げることもできない。そういう歴史をくり返してはならない。


沖縄の新基地建設が、安倍内閣の戦争法案の先取りである事態がはっきりわかりますね。

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午前中は、池田町議会に対する陳情書を議会事務局に持って行きました。池田町は1988年(昭和63年)に核兵器廃絶・軍備縮小・平和の町宣言を発していて、憲法第9条の精神を自治体としても生かす責務があるといえます。
というわけで、今国会に提出された安全保障関連法案の廃案を議会としても各方面に働きかけてほしいという趣旨の陳情書を書いて持って行ったというわけ。
町の9条の会池田からも請願書が出されるという話は聞いていましたが、たとえ同趣旨であれ各方面からどんどん意見を議会に集中して議論していくことは必要なことだろうと思って提出したのです。
その帰り、ある方と話をしていたら、「うちの若いモンが、今すぐに戦争ということにはならないだろうが、30年後、50年後にはどうなるかわからないと言っていた。若い連中がもっと声をあげなきゃね」とつぶやいていました。全くその通りで、若い者同士おおいに意見をたたかわせ、行動に移していってほしいものですね。

バラ園の看板をつくるために今日も園によりました。昨日よりさらに花が増え、咲き終わった花も少しずつ目立ってきて、花殻摘みがいよいよ必要になってきます。
先日は私の幼少期のことを書き、写真も「恥をしのんで」掲載したのですが、バラを見に来ていたお隣さんに滅多に取ったことのない私の写真をとってもらいました。ふだん誰も撮ってあげるといってもくれないし、自分でも撮られるのは大変苦手なのでこのブログでも紹介するときは「背後霊」のように載せることにしているのです。
今回はあえてこんなに年をとってしまいました、ということを紹介するため、そして、バラ園の主宰者の姿も見せないと行けないと思い載せました。息子、娘よ、「遺影」の候補写真にでもしてくれ。イエーイ!


お口直しに、今日も昨日のつづきで園内のバラたちを紹介しましょうね。


ベルサイユのバラ


ブルーライト


ラビーニア


アンネのバラ


ラバグルート


シャルダン・ドゥ・フランス


花ぼんぼり


ソリドール


ザ・マッカートニー・ローズ


ホワイトクリスマス


きらり


エイプリル・イン・パリ


ゴールドシャッツ

どの花もため息がでるほど素敵ですね。



  5月28日(木)
朝バラ園に行って目を見張りました。この一週間ですっかりバラが満開になっているではありませんか。バラ祭りまでまだ2週間あるというのに、この調子では大変なことになりそう。バラの会の顧問に電話したら、「とにかく早めに花殻摘みをした方がいい」という返事でした。
バラの会の会員たちは、例年の様子からバラが咲き終わるなどということはないことをよく知っているので、いたって楽天的、「今日は一足早くバラの会でバラ祭りをやりましょう」と大興奮、大はしゃぎ。まあ、焦っても仕方がないので、咲き誇ったバラたちを眺めて精一杯楽しむこととしました。香り豊かで彩りにあふれたバラ園、これが楽しみでやってきたようなものですからね。苦労が報われた瞬間です。
今日の作業は、バラ祭り当日の駐車場のための通路作り。数人の男子で汗を流したおかげですっかり立派な車の通路ができてこれで当日の駐車場は心配なくなりました。
飛び入りで、穂高のMさんご夫妻も訪れてくれて、急遽自作童話の「読み聞かせ会」や歌の披露まであり、いつもとは違う「文化的」休憩となりました。
また今日は市民タイムスと大糸タイムスが取材に来てくれて、1週間後くらいに記事を出してくれる予定。来週は信濃毎日、タウン情報、中日新聞も取材に来てくれる予定ですから、例年になくしっかり宣伝できそうです。今年はテレビにも宣伝をお願いしているので、カメラを持って取材に来たらどうしよう・・・。

これをご覧のみなさんはネット上で一足早くバラ園の様子やバラの花ををお楽しみください。
トゲはあるけれど、バラってやはり平和の花なんです。こんな美しい花を育てていると争いをしようという気にもなりませんものね。アンネのバラがLove & Peaceをよびかけてもいますし。










恋心


プリンセス・ド・モナコ


レッド・クイーン


マチルダ


レッド・レオナルド・ダ・ビンチ


ヨハネ・パウロ2世


情熱


カフェ・ラテ


ほのか


サプライズ


ピュア・ポエトリー


パフューム


チャイコフスキー


ハイディクルムローズ


アイスバーグ




  5月27日(水)
今日は何しろ忙しい1日でした。いろいろな人と会い、意見を交換し、書類を準備し・・・。
国会で審議が始まった安全保障関連法案=戦争法案を何としても廃案に追い込むために、地域で何ができるかを真剣に考え行動に移していたのでした。もちろんそうはいっても、一人の力では何にもできません。どうやってか弱い力を束ねるか。そこが思案のしどころです。先日も書いたように、まだその姿は私の構想の域を出ず、準備中としか言えませんが、次第に形をなしてきていることだけははっきりしています。

昨日の信濃毎日新聞に大北(大町・北安曇)地域で「戦争をさせない1000人委員会」が結成されたことが紹介されていました。いうまでもなく「1000人委員会」とは大江健三郎、瀬戸内寂聴、内橋克人、倉本聰などといった著名人が発起人となり、5月1日現在で1900名を超える人々が賛同者に名を連ねている組織です。「戦争への道を突き進む政府の暴走を阻止し、一人ひとりの平和に生きる権利を守りぬくための運動」を展開するとして、最近では毎週木曜日の国会前活動や街頭宣伝活動など多彩な活動を呼びかけています。
全国各地では、これに呼応する地域組織が作られつつあり、その限りでは心強い運動の担い手となっていて、その発展を心から応援するとともに、協力・共同していかなければならないと思うのです。

文書をつくるために、新聞記事などをあさっていると、この重大法案についていかに整理できていないかを悟らされていまいます。法案の原文を読まなければならないし、解説なども参考にしなければならないし、難解な語句のうらに何が隠されているのかを読み解かなければいけないし、一筋縄ではいきません。
そうした仕事はまだ緒についたばかりだし、その合間に国会中継などを聞いていると、安倍内閣の犯罪性がより鮮明に浮かんできます。海外に出ていけるほどの軍事力を持たないと一人前の国家とならないと本気で思っているのかどうかわかりませんが、アメリカへの忠誠心だけは本物のようですね。
集団的自衛権の発動ではホルムズ海峡での機雷掃海が対象になるなどという答弁を聞いていると、イランが欧米との対立で海峡封鎖・機雷敷設などを仕掛け原油の供給が止まる事態になれば「わが国の存立をおびやかす」事態だとして集団的自衛権行使に踏み切るわけですから、そこにはどうやって平和的にものごとを解決するかという視点はさらさら見えてきません。
今日も安倍首相が力説していましたが、「脅威はいつやってくるかわからない、それに対処するための法整備だ」という論理。一見耳障りよく説得力があるように見えますが、それはアメリカの行動による脅威で、それには唯々諾々として従うだけなので、それ以外の選択肢はない。つまり、いつやってくるかもしれない脅威とは日本がそれを避けるように外交努力をしたり、中東諸国との独自外交をしたりすることとは全く無縁のかなたからやってくる脅威なのです。
「より緊密な日米同盟が抑止力を高める」ろいう論理も全く同じ。頭の中はアメリカで手足だけ日本というちぐはぐさが際立っています。過去の戦争に対する総括も、ドイツ並みにやっていれば中国との関係は全く異なったものになったはず。日米同盟の強化がアジアでの緊張関係を一層高め、それがさらなる「抑止力」(=軍拡)を呼ぶという悪循環にはさらさら考えが及ばない。気がついたらたぶん10年後ぐらいには予算の相当部分を軍事費が占めていることでしょう。
しかし、一方で安倍首相の言辞には大衆受けするような部分がたくさんあります。何しろ中国・北朝鮮の脅威を言い立てれば言い立てるほど、いまのままでいいのかということになりますから。それに目くじら立てて反発したところで、それはかえって相手の思うつぼ。そのときこそ沖縄のたたかいに学ぶことですね。
安倍らが言っていることとやっていることの食い違い、ウソ、暴力、それらの1つひとつをあばくこと、身をもって知ることから反撃のたたかいがはじまるのです。



  5月26日(火)
今日は私のルーツと最も古い記憶というテーマ。
ルーツといっても、家系図があるわけでもなく父母、祖父母くらいまでしかわからないので、勢い私の生まれた頃という話になるのをお許しください。
今の若い人たちの生まれた環境とどれほど違うのか、また似ているのか、どんな関係があるのか、私自身にその当時の記憶や体験がどんな影響を与えているのかなどをさぐる自分自身の1つの材料となればと思って書きます。

私の父母はともに養子養女なので現在の名前は祖父のもの。従って、血のつながりでいうルーツは祖父母では無く、父(根塚姓)と母(藤村姓)の系統からさかのぼることになります。
父は純然たる富山っ子(富山市内のどまんなか)で次男。兄弟のうち二人は戦死し、現在父のすぐ下の妹(私の叔母)が存命です。1月1日生まれのため、いつも誕生祝いをしてもらえないと苦笑いをしていました。
母は、先日も書いたように石川県石川郡柏野村で6女として生まれ、1才ちょっとで祖父母のもとに養女として引き取られます。祖母は柏野からさほど遠くない一木村字村井の生まれであったことから、何らかの縁があったものと思われます。
両親が婚姻届を出したのは昭和19年、敗戦の色濃いさなかのことでした。以前も書いたように父は海軍の通信兵として戦地に赴き、昭和20年になって祖父母と母は上新川郡熊野村に疎開、21年1月に疎開先で私が生まれることになるのです。
目が細く鼻がペッチャンコなのは生まれつきだったのですねえ(まさしく弥生系)。母の遺伝子は全く受け継がれていない!妹にみんな行っちゃったんでしょう。でもよくこんな写真を残しておいてくれたものです。


疎開先には長くいたようで、昭和23年にはその場で弟(故人)も生まれています。

私の記憶の最も古いものは、もちろん疎開先での生活ではありません。富山市内は米軍の空襲で焦土と化しますが、数年の後には再建が始まり、中心部に近い梅沢町に一軒家を得て生活がはじまったそのころからでしょうか。
私が5才のとき、その家で妹が生まれます。座敷についたてをたて、その向こうに母が寝ているらしい。「子どもは近づいてはいけない」と言われて、弟と土間から様子をこっそり見ていたのを覚えています。もちろん遠いので何にもわからなかった。あとで妹が生まれたことを知らされただけでした。
その頃、家のすぐ脇には農地があり、祖母が野菜の手入れをする合間にふと両腕で裾をまくって「立ち○○」しているのを何度も目撃。女もソレができることを初めて知ったのでした。
ただし、祖母の名誉のために言っておきますが、明治生まれの農村の女にとって、そんなことはふつうのこと、あさめし前のことだったのですよ。子どもの私などは男とはみなされず、私がいようがお構いなし。豪快でした。オイ、そこのヤワなネエチャン、恐れ入ったか!
もっとも、夜ともなれば畑の脇を流れる川の畔はホタルでいっぱい。昼の出来事もすっかり忘れてホタル狩りをよくやったものでした。
一方、父はよく実家に私達を連れていくことがあり、従兄弟に連れられて本願寺の境内に行き写真を撮ったのが不思議と記憶に残っています。(写真は私と弟)


小学校に上がる直前ころからの記憶は結構たくさんあって、低学年では知人宅に預けられっぱなしだったこと。保育所には通わせてもらえなかったし、祖父母は子どもの面倒をみないので、私も弟も別々に預けられていたらしい。
何をして母の帰りを待っていたのか全く覚えてはいませんが、食器棚の中にはかならずおやつがおいてあったのだけは鮮明に覚えています。きまって「するめ2本、豆数個」だったからです。
2,3年はそんな生活が続いたのでしょうか。通知表には「消極的で発言の意欲がない」などと書かれていました。体も弱く、あまり運動することもなかったせいか学校の友人との交わりについてはほとんど記憶がありません。
ただ、地域では子どもたちの集団ができていて、陣取りやメンコ、ビー玉といった遊びでガキ大将に連れ回された覚えがあります。

そんな中で、母や祖母に連れられていく石川県の田舎(母の里の柏野、祖母の里の村井、祖母の弟の住む河北潟沿いの村)は見るものすべて新鮮で、好奇心を満たすには最適な場となっていました。
富山から蒸気機関車の引っ張る列車に乗り、倶利伽羅峠のトンネルでは石炭の煙にむせながら、ただプラットホームだけの加賀笠間駅を降り、どこまでも広がる黄金色の田圃の中を一直線に歩いて行く風景は記憶に残る一枚の絵ですね。
祖母の里は大きな屋敷で、コの字になった右手は厩、左手は農機具や収穫物の倉庫、そして奥にはだだっ広い土間を経て天井の高い囲炉裏の切ってのある部屋。祖母の兄の長男が、囲炉裏端でわら人形の作り方を教えてくれました。今でも、どうやって馬の形をつくるか覚えているくらいですから、よほど強烈な印象をうけたのでしょうね。
夜一人で広い部屋にねていると何の鳴き声なのかよく響く声が聞こえる。怖くはないのですが、不思議な気持ちでなかなか寝付かれませんでした。
母の里では、従兄弟・従姉妹がたくさん集まってきました。盆踊りを見たりセミとりをしたりしたことは以前書いたことがありましたね。一年に一度、お盆近くに農業用水の水をせき止めてフナや鯉、ナマズを捕まえるイベントがあったのを昨日のように思い出します。

私の幼少期は、戦後の復興期と重なりますが、その記憶の中には「戦争」の爪痕やそれにつながるものはほとんどありません。強いて挙げれば次のようなことです。
1つは、家の近くでガキ大将などと遊んでいるとき、焼夷弾のカラがよく地面に突き刺さっていたこと。掘り出すわけにもいかず、そのあとどうなったのか。
2つは、近くの日枝神社(山王さんとよんでいた)の祭りに出かけると、生活費の足しにしようというのでしょう、白装束の「傷痍軍人」が何人も箱を持って寄付を募っていた。何だか怖いものを見るように遠巻きに歩いていたことが思い出されます。

小学生時代は祖父母が面倒をみてくれるわけでもなく、父母は共働きだったために、学校から帰ってからどうしていたものか、今から思うと不思議な気がします。母は小学校に勤めていたために、学習に関しては気配りをしてくれてはいましたが、とくにどうしろこうしろという話はほとんどなかった。そうした時期の父母に最も感謝しているのは、本を買っては手作りの本棚に置いておいてくれたこと。
「少年ケニア」が最初の愛読書になりました。そして、少年少女文学全集のいろいろなものがたり。挿絵が想像力をくすぐり、忘れられない場面がいくつも残っています。
また小学1年から習字に通わせたこと。母の宿直の日には学校に連れて行って、私を一人部屋に入れレコードを聴かせ続けたこと。また、母の勤め先の職員旅行には時折私を連れていき、いろんな体験をさせてくれたこと。とくに同行していた絵の先生が私のために自らスケッチを描きながら教えてくれたこと(素晴らしい絵でした。誰かがその現場の写真を撮ってくれていました)。それらも忘れられない思い出となっています。


魚を捕りにいくのが好きだった私は、5,6年になると同じ趣味をもつ仲間と近くの川へいってはフナやナマズ、貝、カニを捕らえるのが日課となりました。当時はまだちょっと足を伸ばせば、農村にはそれに最適な場所が無数にあった。

思い出せば、いろいろ出てくる幼少期ですが、それらを羅列することが今日の目的ではありません。私自身を形成する何かがあったとすれば、何より父母がいろんな体験をさりげなくさせてくれたこと、「おとなしく目立たない」子どもであったけれど、その分一人でも野外に出て自然を相手に遊んでいたこと、親戚づきあいの中でいろいろな人と関係をつくることができたこと、さらに小学校では猛烈教師であった担任がそれこそ寝食を忘れて学力形成に力をいれてくれたことなどが挙げられます。
ただ、それだけでは、そのままでは、現在の私は作られませんでした。中学から高校、大学に至る過程での疾風怒濤の時代が待っていることをその当時は知るよしもなかった。ある一人の女性との出会いと別れ、進路を巡る葛藤と新しい仲間との出会い。挫折・・・など、とくにある女性とのことは奥さんの許可を得ないといけませんから、今後書けるかどうか微妙。

それは別として、妻はこうした私の幼少期をかつてはよく「羨ましい」と言っていた記憶があります。沖縄戦のさなか、そして占領期の沖縄南部で大勢の兄弟姉妹の長女として農作業を手伝い、家計を助ける日々の中では、環境も経験もまるで異なります。
しかし、妻もまたそうした生活をへて、自立した生活を自ら求めて本土にわたり正看護士の資格を得て働くことになるのですから立派なものでしょ?
問題は、両親がいるかどうか、どんな経歴をあゆみ、学歴や職業がどうか、経済的に成り立っているかどうかなどではなく、いろいろな境遇をまるごと受け入れ、一人の自立したまっとうな人間として足を踏み出すことができたかどうかなのです。
貧しいながらもそこに「地域」があり、人々との親密な交流があったおかげで、そうした条件が生まれただろうことも忘れてはなりません。自立したくてもそれが閉ざされ、経済的に苦しい上に地域も死に絶えた人間が人間らしい生活を奪われていく現代では、より多くの困難が待ち構えていますが、やはり同じことだと私には思えます。
挫折しようと、間違えようと、一人で悩まず仲間を大切にしその助けを求めることができるかどうか。「よりよい生き方」へとたたかい続けることができるかどうか。かつて「Conspiracy of decency」で紹介したデンマークの人々のようにナチから逃れる人々を「ふつうのこと」として助けたと同じように、それに類したことを「あたりまえのこと」として行えるかどうか。
その点では、私自身は依然数多くの欠陥をかかえ、その後も挫折を重ね苦しみ続けなければならない羽目になるのですから皮肉なものです。大きなこと、カッコいいことなどサラサラ言えた義理ではないんです。

さて、妻の幼少期のことはいずれ機会をみて書くつもりです(了解が得られればの話ですが・・・)。実際、私も知らないことがまだたくさんあるはずですから。



  5月25日(月)
さきの党首討論会で共産党の志位委員長から「総理は『ポツダム宣言』のこの認識(先の戦争が間違った戦争であり、侵略戦争であったという認識)をお認めにならないのですか」と問われて「その部分をつまびらかに読んでおりませんので、承知はしておりません」と答えた安倍ピョン。いや〜ネットで大変な反響ですね。
「ひょっとしたら日本国憲法も安保条約も『つまびらかに』読んではいないんじゃないの?」などと皮肉る書き込みも多数。全くそのように勘ぐりたくもなりますね。

ポツダム宣言で思い出すのは、私が高校生だった頃のこと。たぶん高2だったんじゃないかな、英語の参考書を購入して勉強しようとしたら、最初に出てきたのがこの「ポツダム宣言」の英文全文だったのです。「君たち、これからの日本はこの宣言が土台になるのだ。若い君たちがこれを読まずして英語の勉強などするな。日本のことも考えることは出来ないのだよ」と書いてあったかどうか定かではありませんが、趣旨はそういうこと。私は目をパチクリさせたことを昨日のように思い出すのです。
そのときは、何のことやらさっぱり分からず、飛ばし読みしたか、訳文だけを読んだか、それも今となっては思い出せませんが、著者の意気込みだけは鮮明に覚えているのです。

昨夜のNHK討論番組を半分ほど見て、こりゃダメだと思って途中で見るのをやめました。NHKだからなのか、危機感などさらさらない。通常の法案とほとんど変わらない扱いとして、やたらツイッターを出して(どんな選択基準があるのかわかりません)くる。
「これでやっと一人前の国になれる」だとか「国際社会と協力してテロなどから国を守るのは当然」「抑止力が必要」などという意見を次々と出すのですから、見ている方は次第にそんなもんかと思わされるしくみですね。
今度の安全保障関連法案(=戦争法案)は、そんな意見とは次元が異なる大きな問題をはらんだものです。
第1に、民主的な手続きが全く無視されている。条約でも国際協定でも何でもない「ガイドライン」を日米で結び、集団安保の履行をアメリカに誓約した上で、8月までに国会で関連法案を通すと約束する。これって、国会無視、国民無視と同じことでしょう。憲法遵守義務を持つ一内閣が恣意的な判断で憲法解釈を180度変えてその判断を国民に押しつけるというのは、明確に立憲主義に反することでしょう。

第2に、日本国憲法は自前の軍隊を持つことも、もちろん海外で戦争することも明白に禁じている。
自前の軍隊を持ちアメリカの力をかりながら自分の国を守るのを「普通の国」「一人前の国」というなら言ってもいいでしょう。しかし、その際に何故アメリカに追従しアメリカの指揮のもとで軍事行動するのか説明しなければなりません。日本にある米軍基地を全部取り払うのが一人前ではないのか、さらに基地があり、軍備を増強することが抑止力ではなく危険をいっそう増すという沖縄の危惧に答えなければなりません。
軍事より外交交渉に長けた中立の国を目指すことは間違いなのか。それらに何にも答えずただ北朝鮮や中国が危ないから軍備を増強し、世界のどこへでも参戦できるように法改正するのが「普通の国」のあり方だというのでは、ただの戦争ごっこマニアです。
他国の軍隊が攻撃されたから集団的自衛権の発動で参戦(米軍や同盟軍の後方支援)できるするというのですから驚きです。アメリカへの誓約を何より優先しようとするとこうなるという見本ですね。それが当たり前という世論がマスコミによって誘導されようとしている。確かに戦争はこのようにして準備されるのです。
日本国民の多数を巻き込むような戦争がすぐにおこるなどということは考えにくい。しかし、初めは小さな事態(=「事変」)を発端に、どのような変化を生み出すのか分からないのが戦争であり、さらには戦地に行かなくてもミサイルによって攻撃したり受けたりするのが現代の局地戦争なのです。
私は、若い人たちがあの戦争を経験した人たちの声をもっと聞くことから始めなければならないと思います。命からがら戦地から逃げてきたり、飢餓地獄を経験して九死に一生をえたり、空襲で爆撃をかいくぐって逃げたりした人は必ずと言っていいほど、「二度と戦争をしてはいけない」と言います。戦争は突然目の前に現れるのではない。静かな準備期があり、国民を大義名分のもとに誘導し、反対勢力を押しつぶして準備されるものです。「戦争をしたいから法案をつくる」などという政治家は一人もいない。
むしろ、戦争はよくない、そんなことは全く考えていないといいながら、気がついたら抜き差しならない状態になっていたということなのです。そして誰も責任を取らない。おそらく、この戦争法案についてもそうでしょう。これが戦争に結びつくなどと言うことは全く想定していなかった、むしろ、戦争を抑止し国民を守るために立法化したとうそぶくに決まっている。しかし事実はまるで反対というのが歴史の教訓ではないですか。

第3は、戦前と異なり、反対する人々が数多くいること。政党では確かに自民・公明が多数を持っていますが、得票率では多数ではないし、まして民意と大きなねじれがあります。翁長知事の言葉を借りれば「コクミン、ウシェーティナイビランドー」です。いまからでも遅くない、具体的な反撃のたたかいをくんで、巨大なうねりにしていくことが必要です。その力を私達は蓄えているはずです。
そして必ずそれを担う政党を大きくする、または新しく作り出していくことでしょう。民主や維新に変わる政党をです。もちろん共産党にはもっと大きくなってもらわないと困ります。

あらためて伊丹万作「戦争責任者の問題」(1946年8月)を読んでみましょう。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。




  5月24日(日)
5月の風が気持ちよく吹き抜ける1日。我が家の庭では、いろんな作物が順調に育っています。バラ祭りで販売する苗も今のところ間に合いそう。
畑作業も昨日で唐芋の植え付けも終わって、あとは水やりや虫取りなどの作業がつづきます。畑というのは、次から次へと課題が追いかけてきて忙しいことこの上なし。しかも今年は旧の畑と新しい畑の2本立てなのでなおのこと大変です。とはいえ、塾の仕事は松本でのボランティアだけなので、時間はたっぷり。あとは気力と体力勝負です。
上の写真は、昨日新しい畑(ハウスの間)でいもの植え付けをしているところ。下は今朝の我が家の庭。これから右のネットにゴーヤを這わせる予定です。ただゴーヤの芽がなかなかでてこない。




今日は庭に出てびっくり。前の道の脇に垣根代わりに植えてあるラベンダーがもう咲きそうな気配なのです。例年なら今頃カモミールが咲き、そのあと2,3週ほどしてから6月中旬に咲くはずなのです。もっとも早いのはイングリッシュ系でグロッソはまだ穂をつけてもいないので、種類によってずいぶん差があるようです。
軒先ではツバメの巣が数日前に完成しました。両翼を広げた巣はかつてないほどに堅牢で見栄えがよい。しかし、巣が出来てからはあんなに頻繁に来ていたツバメたちがときどき来る程度になってしまいまいした。卵を産んでこれから子育てに入る準備をしているのでしょうか。


私の日記、「安曇野」と名前をつけながら、最近すっかり沖縄づいてしまい、「うちなー日記」とでもした方がいいような感じがしますね。そのうち本当にそうなるかも。

この前、沖縄民謡「汗水節」について紹介しましたが、YouTubeでいろいろ検索しているといろんな歌が芋づる式に出てくるのでつい聞いてしまいます。
沖縄民謡は各地に無数と言っていいほど伝承されているし、近年ではウチナーポップが爆発的に広がって沖縄の魅力を伝える原動力になっているのはよろこばしいことです。これほど沢山の歌や踊りを残している地域は日本広しといえども他にはないでしょう。

民謡・民踊といえば、踊ることも歌うことも私自身にはほとんど縁のないしろものなのですが、見聞きすることについては結構歴史があります。
思い出してみると、幼い頃の石川県松任市(現白山市)柏野の「柏野じょんから踊り」。母の実家は柏野大字下柏野でしたから、小さい頃から何度も連れて行ってもらっていたのでした。ここでの思い出が私のいわば原風景ともなっています。
いとこ(現在眼科医)に連れられて近くの神社で踊られる盆踊りの迫力に鳥肌が立った覚えがあります。
念仏踊りに起源を持つこの歌と踊りはちょっと変わっていて昭和に入って全部で4つのパートが作られ、その中には薙刀と鎖刀で仇討ちをするという「物語」を含んでいて、これ私にが強烈な印象を植え付けてしまったらしいのです。刀や鎖鎌を持って踊る民踊なんてありませんものね。夢に出てきそうです。
続いて学生時代、わらび座が紹介してくれた東北各地の民謡と踊りが私には深い感銘を与えてくれました。一番印象に残っているのは岩手北上の鬼剣舞。岩手・秋田・山形などの踊りが私の歌舞観(それまでは大したものだとは思っていなかった)をひっくり返してしまいました。
富山で仕事をするようになってからは、地元のおわら節と踊り(男踊り・女踊り)におわら風の盆にでかけて直接触れてからは、そのとりこに。どことなく哀調をおびた「越中おわら節」に合わせて優雅に気品高く踊るこの踊りはおよそ賑やかな盆踊りからは遠く隔たっていますからね。八尾では子どもの頃から踊りを仕込まれているので、みんな本当に美しく踊ります。とくに若い男女の踊りが最高。
ついでに「あんな悲しい夜祭りが世界のどこにあるだろう」と歌う菅原洋ちゃんの「風の盆」聞いちゃいましょうか。おまけに石川さゆりの風の盆恋・・・あっ、いかん、いかん、メロドラマになってきた・・・


さて、続いては沖縄。古い沖縄民謡は聴くことはあっても何しろ言葉がわからないので、なかなか身に入ってきません。ウチナーポップスの走りとも言える「ハイサイおじさん」などは何となくおもしろく聞いていた記憶がありますが、覚えるまでには至らなかった。
汗水節と同時期に(つまり初めて沖縄に行ってすぐ)覚えたのは「てぃんさぐぬ花」。これは教訓歌のようなわらべうたで、たとえると沖縄民謡の「バイエル」(ピアノの教則本)。すなおに入ってきた気がします。
ただし、下の古我知さんの歌の6番は彼の創作?彼がこの歌に込めて本当に伝えたかったメッセージのような気がします。


沖縄民謡はまずここからですね。ポップスで割とはやく覚えたのが「芭蕉布」。前に紹介したものも含めすべて全国的によく知られていますけれど、歌い手によってずいぶん印象が変わります。この「芭蕉布」も沢山の歌い手が歌っていますが、伸びやかな前里秀美の歌が一番だと思うな。基地のない沖縄が実現すれば、沖縄は本当にこの歌の通りになると思います。いや、本当にそうしなければいけないんです。


沖縄では、踊り手を育てるための取り組みがいろいろと試みられているようで、その1つに「花やから」という少女たちの舞踊集団があります。次はそのメンバー3人が「芭蕉布」に合わせて踊る創作舞踊です。みんな可愛いし踊りは素敵だし歌もなかなかいい。





  5月22日(金)
沖縄在住の妻の友人が、5月18日付けの琉球新報をわざわざ送ってくれました。5.17集会の報道で埋め尽くされた紙面。どのページを開いても集会の詳報が続きます。
インターネット中継では舞台が中心ですから、会場のどよめきや声援などはほとんど聞き取ることができませんでした。しかし、この琉球新報の紙面は、中継や動画でもないのに会場の熱気や気迫をしっかり伝えてくれています。そんな新聞は、この日本でおそらく沖縄の2紙ぐらいでしょう。
まず2面ぶち抜きで、セルラースタジアム那覇を埋め尽くした参加者を素晴らしいアングルで写しだし、他のページでも2面通しで特集を組んでいました。




歴史的な集会の記事ですから、部屋の一番目立つところに張っておきました。
それにくらべるとこの集会についてこちらの新聞の扱いの何とお粗末なこと。ジャーナリズムのあり方を比較的心得ていると思われる信濃毎日にして、トップは「大阪都構想否決」で大見出し、1面下には軽井沢ハーフマラソンの大きな写真と記事なのです。集会の記事はどこかいなとさんざ探してやっとみつけたのが28ページ第2社会面。地元の記事の方がはるかにでかい。
信濃毎日は、東京で何万人も集まって集会をしても、小見出し程度の記事にしかしません。
おそらく社としての何らかの基準があるのでしょうが、私にはよくわかりません。ちなみに、大阪市の住民投票については、2,3面を使って報道しているのですけど。
「自分が思い入れのある集会だからなぜ大きく報道しないのか」とヘソを曲げているわけではありません。実際に信濃毎日の記事をご覧になると分かるとおり、地元の新聞との落差の大きさに唖然とするのです。大阪の場合は住民投票だから記事になり、沖縄の場合は一部の人間の集会だから大した記事にはしなくてもいい、ということなのか・・・・
今回の集会に関する限り信濃毎日の見解を聞きたいものですね。参考までに18日の記事を紹介しておきましょう。こちらです。



  5月21日(木)
定例のバラ園作業日。久しぶりに妻も一緒に9時頃からバラ園にでかけ、午前中一杯暑い日差しの中草取りやチップ敷きに汗を流しました。
今日で整備作業はほぼ終えて、あとはバラ祭りに向けて駐車場の整備や会員への協力依頼、販売物の準備などに力を入れることになります。私の仕事は、駐車場の整備のための手配、報道機関への案内、チラシ類の整備、苗作り・・・といろいろ。そこは代表者としてやらなければならないことばかりなので、ぬかりないようにやるだけです。
観光協会や池田町の案内チラシを見てバラ園を訪れる人がたまにいます。先日は千葉から、今日も岐阜から来たという方がご夫婦で突然やってきました。
小さいバラ園なので、どんなに大きなバラ園かと期待してくる向きには期待外れでしょうが、そこはみんなボランティアでやっていることを説明し、整備の行き届いた園内や咲き始めたバラを見てもらうとたいていは納得してもらえます。
すでにバラはかなり咲き始めていて、おそらく来週あたりには桜でいえば7分咲きくらいにはなっていそう。6月に入ると花がら摘みの作業が必要になりそうです。
咲き始めのバラは本当に美しい。みんな、こうして咲き始めたバラを見るのが楽しみで、一年間せっせと世話をしてきたといってもいいほどです。
今日は、文章を書くのはやめて、あとは写真でバラを愛でていただくことにしましょう。





















  5月20日(水)
朝玄関先を見上げてみると、ツバメの巣がもう半分以上出来上がっている。そりゃ二人で(いや2羽で)力を合わせて休む間もなくせっせとマイホームを建築しているのだから速いわけだ。
となると、糞対策をしないと、上からボットンとやられてしまう。前に書いたことがあるように、上から糞を落とすのは親よりも子どもの方なんですね。
雛が生まれると、その雛たちは必ず巣からお尻を出して外にプイッとやるのです。そして知らん顔をして、親がエサをくわえてやってくるとでっかい口をあけておねだり。こっちはたまったもんじゃない。
お隣さん曰く「あっちへ行けといったらいってしまった。よかった、よかった」。こうなったら仕方がない、しばらく「ツバメの子育て日記」でもつけることにしますか。


さて、今日も良い天気。腰は相変わらず痛いけれど、畑が待っているので耕耘機を軽トラに積んで作業に出かけなければなりません。夕方まで「あしみじゆながち」働いてきます。

沖縄民謡 汗水節

あしみじゆながち はたらちゅるひとぅぬ
汗水ゆ流ち 働ちゅる人ぬ
〈汗水流し働く人の〉

くくるうりしさや ゆすぬしゆみ
心嬉しさや 他所ぬ知ゆみ
〈その心の嬉しさは 働かない者は知ることがない〉

ユイヤサーサー 他所ぬ知ゆみ
(囃子)しゅらーよー しゅらーよー 働かな
    しゅらーよー しゅらーよー 働かな


この歌は、戦前の沖縄で「そてつ地獄」と言われた食糧難の時代、「『島うた紀行』(仲宗根幸市)によると1928年「沖縄県学務部社会課が貯蓄奨励民謡の歌詞を募集した」ことがきっかけで生まれた歌。勤倹貯蓄をすすめる新作民謡」(たるーの島唄まじめな研究)なのだそうです。「たるー」さんは「勤倹貯蓄、富国強兵のスローガンと重なる部分があると見る向きもあるが、歌詞を見る限りそのようなことはない」と述べていますが、その通りで、公募された歌詞には庶民の素朴な労働への感情が歌われていて好感が持てます。いまなお人気が高い歌曲です。
実は、結婚直後の1970年代はじめ、沖縄民謡の中で私が最も早く覚えたもので特別に思い出深い曲なのです。妻は「今までよく覚えていたねえ」と感心していましたけど。

YouTubeですぐに聴けるんですから、何という時代でしょう。
上は三線で歌う正調(?)「汗水節」。下は、女性3人のユニットcoi-naによる素敵な島唄ポップス「汗水節」です(残念ながらcoi-naは2010年解散した)。手に持っているのは「四つ竹」。




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日本時間で5月18日の朝6時過ぎ、MV22オスプレイハワイで訓練中、基地内に墜落・炎上したというニュースが報じられました。
翁長知事も直ちに反応、原因が究明されるまで県内でのオスプレイ飛行停止を求め、さらに「県としてはオスプレイ配備に反対であり、これまで日米両政府に対し配備撤回を求めているところだ。憤りというのを一番に感じる」(琉球新報)と語りました。当然のことです。
これに対して中谷元・防衛相は、アメリカから「オスプレイの設計に根本的な欠陥があると疑う理由はないと説明を受けている」と言うだけ。同型のオスプレイが24機も配備されている普天間で運用を停止することもなく、「日本政府もそれを容認する姿勢だ」(琉球新報)という。
沖縄タイムスは、この事故を米メディアは「墜落」と報道していること、また中谷防衛大臣が「『機体の安全性は政府としてそれを保証している』と述べ、日本政府としても機体に問題はないとの認識を示した」ことを伝えていました。
結局、オスプレイが沖縄で重大事故を起こし人命が損なわれる事態になるまで、アメリカの言うとおり「安全だ」と言い続けるのでしょうか。仮に首都周辺でもし重大事故が起こったならば、政府の対応は全く違ったものになるのではありませんか。だから沖縄県民はこれを「構造的差別」というのです。
琉球新報は社説で次のように書いています。

オスプレイの事故頻度を分析すれば、数年内に沖縄周辺で墜落してもおかしくない。米軍は沖縄の空からオスプレイを撤収すべきだ。われわれは恐怖におののく生活を強いられることを拒否する。

これまた当然と言えばあまりに当然の訴えです。2013年1月にオール沖縄が政府へ提出した「建白書」には冒頭次のように書かれています。

われわれは、2012年9月9日、日米両政府による垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの強行配備に対し、怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるため、10万余の県民が結集して「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」を開催した。
にもかかわらず、日米両政府は、沖縄県民の総意を踏みにじり、県民大会からわずかひと月もたたない10月1日、オスプレイを強行配備した。・・・
この復帰40年目の沖縄で、米軍はいまだ占領地でもあるかのごとく傍若無人に振る舞っている。国民主権国家日本のあり方が問われている。


この悲痛な声を一顧だにしない日本政府。その政府が、集団的自衛権の法制化を柱とする安保関連法案(=戦争法案)を十把一絡げに国会でごり押ししようとしている。
だとすれば、私たちの取るべき方向はもう完全に明らかではないでしょうか。
先日来私は「あること」を計画して友人・知人たちと語らっています。急がなければなりません。「あること」はもう少し準備が必要だし、まだ私だけの構想ですからここに書くことはできませんが、いずれしっかり記載できるように準備するつもりです。

話は変わりますが、またまた先日の集会での話題。
翁長知事が発言の冒頭からウチナーグチ(沖縄語)で挨拶をはじめた。沖縄では、子どもたちに琉球語を教えるとりくみが加速度的にすすんでいると聞きます。
我が家の場合、妻は家でもどこでも全く使わない(母と話すときはときどき話すし会話は完全にできる。あたりまえか・・)ので、私がウチナーグチに接するのはほとんどありません。
そこで、せめて翁長知事の発言のウチナーグチ部分を知りたいと思い、印刷して妻に翻訳を頼みました。よく調べると、琉球新報には対訳であいさつ全文が載っていた。

ここでは妻の翻訳によって、ウチナーグチに接してみることにしましょうね。MNEMOさんも「比嘉老人の言葉」のために相当に勉強なさっているみたいだし、負けるわけにいかない。

翁長知事あいさつ 5・17県民大会  全文はこちらです。

はいさい。
ぐすーよー ちゅううがなびら。     【皆さんこんにちは】
うちなー県知事ぬ、うながぬたけしやいびーん、     【沖縄県知事の翁長雄志です】
ゆたさるぐとぅ うにげーさびら。     【よろしくおねがいします】
新辺野古基地を造らせないということで、ご結集いただいた皆さん、
こちらの方は見えないと思うが、外野席もいっぱいだ。
3万人を超え、4万、5万と多くの県民が集まっていると思っている。
うんぐとぅ あちさるなーか、     【こんなに 暑いなか】
うさきーなー、あちまてぃくぃみそーち、     【おおぜい 集まっていただき】
いっぺー、にふぇーでーびる。     【たいへん ありがとうございます】
まじゅんさーに、ちばらなやーさい。     【いっしょに 頑張りましょう】

蛇足ですが、ウチナーグチでのラジオ体操はこちら。ごいっしょにどうぞ。歌詞が全くわからないので、またまた妻に翻訳してもらわないといけません。



  5月19日(火)
今日は2題の「参った」。
まず一つ目。2,3日前に、お隣さんのところでお茶をしていたとき、ツバメたちがしきりに営巣の下見をしていました。
「去年まで我が家に来ていたけど、今年はその気配ないなあ。ここ(隣家の軒先)につくりたいんじゃないの?お〜いツバメたち、この軒先がいいんじゃないの」と私。
「それは困る。ダメダメ。あっちへ行け」ときれい好きなお隣さんは困惑顔。
そうこうするうち、昨日、こともあろうにそのつがいが我が家の軒先で巣作りを初めていたのを発見した。
ツバメは巣作りをはじめると速いのです。今日見るともう1/3くらいまで進んでいる。田圃からせっせと泥や枯れ草を運んできて壁にくっつけるのだから、壁は汚くなるし、そのうち玄関先が糞まみれになる。かといって、巣を壊すのは可哀想だし・・・参った!


沖縄での5.17大集会で、発言に立った作家・元外務省主任分析官の佐藤優さんがおもしろいことを言い始めた。

この数年間で私のアイデンティティ変化した。もともと外務省の官僚やってたでしょう。国家意識強かったです。ただルーツは沖縄だから、沖縄系日本人と思っていたんだけども、今は違うんです。日本系沖縄人だと思っている。どういうことか。沖縄か日本かどっちかを選べといわれたら文句なしに沖縄を選ぶ。
この集会に何人集まったかということをみんな気にしてるでしょう?僕はあんまり気にならないんです。むしろニライカナイとかオボツカグラとか、あそこから祖霊が沢山来ているからカウントができないんじゃないの。無限の数のウチナーンチュの魂(まぶい)が集まっているんだということ。沖縄は過去も沖縄人のものであり、現在も沖縄人のものであり、そして未来も沖縄は沖縄人のものであります。


沖縄の祖霊に守られた集会、無数の祖霊もいっしょに参加している集会、それゆえ人数をカウントするなんてたいしたことじゃない、と言うのですから、一瞬度肝を抜かれました。確かに。この考え方って割と近い時期までのこの列島に住む人々の心をあまねく占めていた考え方ではなかったのか。
「オボツカグラ」?いや知りませんでした。Wikiを初めとしていろいろ調べてみると、オボツカグラも異界の1つで、横方向(海のかなた・東方にある異界=豊穣と命の根源となる異界)の「ニライカナイ」とは異なって、縦方向(天空=垂直にある権威的な他界=権力と親和性が高い)の異界なのだそうです。ニライカナイの方が有名になってしまい、オボツカグラは「その影に隠れてしまった可哀想な異界」と書いた解説も。南部ではニライカナイが一般的で、オボツカグラは北部ヤンバルの方の信仰らしく、妻に聞いても知らないと言っていましたから、沖縄でもマイナーな異界なんですかね。
それはともかく、2つの異界からの無数の精霊・祖霊がこの集会の守護神として参加し、いっしょにたたかっていると言われると本当にそうなのだと思ってしまう。いいですねえ。感激します。
「魂は神のいる異界ニライカナイより来て、死んでまたそこへ帰り、守護神となって集落へ還ってくると考える」という信仰が今も生きる沖縄では、佐藤さんの発言は集会参加者一人ひとりの胸にグッとくるものがあったのではないでしょうか。

しかし、この考え方は沖縄だけのものではありません。MNEMOさんの長編小説「トーホグマン」の最近のものをe-bookに直していて、そのことを強く感じます。この小説では、過去の数え切れないほどの神や仏、精霊が登場し、次第に根本一彦という「人間」をトーホグマン(超人)に育て、助力し、スーパーパワーを授けるのですが、その根底に流れる思想が、佐藤さんがいう「5.17集会が無数の祖霊に守られ、いっしょにたたかっている」という見方と全く一致しているのですね。MNEMOさんの小説をずっと読んでいたこともあって、佐藤さんの発言からより深い感銘をもらったのでした。

「トーホグマン」の「抵抗と援助の日々=41話」の最後(376ページ)で、主人公は次のように言います。

源氏も平家も藤原も蝦夷も、縄文人も弥生人も、アイヌもウチナンチュも和人も、日本と韓国朝鮮、中国もー究極のところでそんな区別は意味がない。ただ人間同士なんですね!人間、ヒトとして皆がつながっていて当たり前なんですね!

まったくその通りです。しかし、残念ながら「構造的差別」という言葉が沖縄の意識の標準になっているように、正反対の考え方をする社会的な階級、階層もしくはそれに影響された人々がいる。いるからこそ、反対勢力と闘う際に、それを思想として持っているかどうか、人間観としてその見方ができるかどうかなんですね。思想として血肉化しているかどうかは、たたかいの規模、広がり、深さを生み出す上で決定的な意味を持つと私には思えます。
もちろんそのことを「コトバ」として単に発することができるかどうかではありません。私たち(あえて「たち」といいましょう)は「弱さ、だらしなさ、不甲斐なさ」などを沢山かかえた人間です。それゆえ、それらを自覚しつつも自覚することを通して少しでも高みに到達できるようにもがくことができるかどうかが大事になる。また、たった一人で何でもやろうとせず、他人と力を合わせて磨き合うことも人間として大事な能力になってくる。
人間同士の結びつきとは、同じ人間としての尊重、共感、いたわり合いがその土台にあってはじめて豊かになるものです。当然のことながら、それらを壊そうするものには厳しい批判と抵抗を忘れてはならない。黙っていることは認めることと同じなのですから。

「トーホグマン」で描かれる人物、土地、歴史などは多岐にわたり、まさに縦横無尽であって、その幅の広さ、スケールの大きさには驚くばかり。
MNEMOさんはこの小説について友人から「教養小説だ」と言われて少し気になったようで、小説の中で「わざわざ」そのことに言及しているのだから思わず顔がほころんでしまいます。可愛いところがありますね。教養小説、いいじゃないですか。教養・蘊蓄のすべてを注ぎ込んで、壮大な物語(オデュッセイア)に仕上げてほしいと私は心から願いますよ。
ただ、その挙げ句(?)実名が飛び出してくるので、これにはいささか参った。「参った」の二つめです。ま、単行本にならないことを祈ります。



  5月17日(日)
朝から雲ひとつないお天気。我が家の前では車が10台ずらり。長野市内からの絵描きのグループが陣取ってカンバスを広げています。日陰は涼しいのですが、日差しのもとでは絵描きもなかなか大変でしょうね。
昨日に引き続いてウオーキングイベントも行われているので、晴れて本当によかったです。


沖縄での5.17大集会。いま正午ですが、すでにアトラクション(歌、音楽)が行われています。琉球新報がUSTREAMで臨場感あふれるライブ配信をしてくれているので、部屋で会場の模様を見ながらこれを書いているところです。(映像は集会後録画で再配信されています。沖縄タイムスではその前の文化行事も楽しめます)

琉球新報ライブ配信(録画)
沖縄タイムスライブ配信(録画)

12時半現在で会場はすでにほぼ一杯の人々。最後の歌は「でいご娘」のたぶん「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー(米軍の艦砲の食い残し=生き残り=あの艦砲射撃を生き抜いたのだから、どんな苦しいことにも耐えられる)」。会場での雰囲気は伝えようもありませんが、彼女たちの歌声はこちらでどうぞ。歌碑などの解説はこちら。このあと30分間は舞台の準備です。

文字通りオール沖縄を集めて超満員の今日のセルラースタジアム那覇。3万5千人が集結したとアナウンスされるとひときわ大きな歓声があがりました。発言者の一言一言に歓声と指笛がこだまし、熱気と確信にあふれるこんな集会は私自身みたことがありません。
この集会のクライマックスはなんと言っても最後の発言者である翁長知事の登壇でした。翁長知事の当選めざし必死でたたかった1人1人の思いに違わず、辺野古新基地建設反対を貫き通す断固たる発言に、参加者はどれほど熱い思いにさせられたことでしょう。沖縄はその歴史の中で幾多の大集会を経験してきましたが、これまでのどの集会とも異なる勝利への「決意と確信」に満ちたものであったといえるでしょう。その意味では歴史的な集会となったことは間違いありません。




辺野古基金はすでに2億1千万円を突破、さらに伸びる勢いです。これから、翁長知事の訪米、国連への働きかけなど国際的な活動が展開され、安倍政権はいよいよ追い詰められていく。それだけに、戦争法制とあわせて露骨な干渉と強圧的な基地建設に乗り出してくることが予想されます。全国からの支援を、それぞれの地域での活動を!

琉球新報号外
沖縄タイムス号外(その1)
沖縄タイムス号外(その2)

琉球新報社説
沖縄タイムス社説



  5月15日(金)
風はときどき強く吹き付けてやや汗ばむ陽気。ずっと暖かい日が続いているためか、畑ではイチゴがもう色づき始めて今日初採りをすることができました。過去の実績はどうだったか調べてみると、一昨年は6月1日にまとめ取りしたのが初収穫。それからみると2週間も早いことになります。庭のアイリスはほぼ昨年並みですから、全体として早まっているとはいえ、野菜や草花によってかなり違いが出ているようです。






今日は沖縄「祖国復帰」から43年目の日です。
沖縄が「返還」された1972年から何年後のことだったか、たぶんあまり年を経ていないある年の5月15日、現地で開かれていた労働組合や市民団体などによる集会会場にたまたま居合わせたことがありました。そのときは集会にはまだそれほど熱っぽさもなく、「本土」のメーデー集会のような感じだった記憶があります。
それから40年以上も経つのに、アメリカの軍事植民地状態は一向になくならず、さらに「本土政府」からの構造的差別を受け続けてきた沖縄。
しかし幾多の試練を乗り越えていまや独自の歴史・文化に目覚め「独立」すら公然と口にするほどの確固たる自立の歩みを始めている沖縄です。そのことを思えば隔世の感があります。
琉球新報は14日の社説で「もはや『辺野古』は沖縄だけの問題ではない。この国の民主主義の在り方を問う象徴といってもいいだろう」と書き、沖縄タイムスは5月3日の社説で「戦争は時間がたてばたつほど美化される傾向にある。若い世代にも届くような新たな平和運動を起こし、満身創痍(そうい)の憲法9条に魂を吹き込む必要がある」と書いていました。
翁長知事は今日の記者会見で、次のように述べたことが紹介されていました。

私たちが本土の側に近づこうとしても、寄せ付けないのではないかと感じるところがあった。・・・
あらためて本土と沖縄の絆をつくり上げられるか大事なところだ。歴代の知事の言葉と私の今の気持ちを重ねて訴えていきたい。・・・
本土並みを合言葉に、県民の努力で勝ち取った復帰だったが、真の民主主義の実現など県民が強く望んだ形にはなっていない。未来を担う子や孫のために『誇りある豊かさ』をつくり上げ、引き継いでいきたい。


昨日は若い世代のインタビューについて触れましたが、若者たちがおしなべて政治に関心が無く日本の行く末に何も感じていないわけではありません。かつての学生運動はもはや想像すべくもありませんが、現代版の運動としては「SASPL」(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)、「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)などが洗練されたデザインの宣伝物や行動形態を模索しながら活発に活動をしているのが注目されます。
今日の「しんぶん赤旗」一面にも、昨日の戦争法案閣議決定に抗議する学生たちの姿が活写されていて頼もしい限り。さらに同世代でお互いに議論し合い、学び合って自分たちの将来を自らの手で作り上げていってほしいものです。


今朝早く、ハルちゃんに「メシくれ」「水くれ」「外に出せ」のニャーニャーに起こされ、外にでたついでに私もコンビニに新聞を買いに出かけました。6時頃、お隣さんさんはもうお二人そろって朝の散歩。
各紙が「閣議決定」にどのような見出しや解説をつけているのかを知りたいと思って、コンビニで買える限りの新聞をゲットしてきたのです(毎日、サンケイは売っていなかったので購入できず)。




この中では、やはり「読売」が全くの政府広報誌・・・というより先導役。読売を除く各紙が、国民や国会よりさきにアメリカに対して法制化を確約したことへの強い批判を打ち出し、地球上のどこにでも自衛隊を派遣できるよう集団的自衛権容認に踏み出すことは立憲主義に反すると主張しているのに対して、読売の見出しはこうです。
「的確で迅速な危機対処が肝要。日米同盟強化へ早期成立を図れ」
読売社説は、中国・北朝鮮の軍事的脅威をことさらに強調、「日本単独では自国の安全を確保することは困難」として、「日米同盟と国際連携を強化するとともに、切れ目のない事態対処が可能な体制を構築し抑止力を高めることが急務である」と述べます。これこそが日本を危険にさらす考え方であるはずなのに。耳障りのよい相変わらずの俗論の押しつけです。
さらに集団的自衛権の議論は8年前の安倍政権からすでに本格化しており「議論が拙速であるかのような一部の主張は的外れ」とまで主張する始末。
後半では、「専守防衛が変質」という意見は的外れであり、「憲法の平和主義や専守防衛の原則は維持されるうえ、従来の憲法解釈の法理とも整合性がとれている」と書いています。あとは「新たな日米防衛協力の指針に基づき、多角的で重層的な協力を追求すべき」として軍拡のすすめばかり。
こうした社説を読んでいると、出てくる言葉は・・・ただひとこと・・・「よみうり」。





  5月14日(木)
街頭インタビューでの「いや、知りません」「初めて聞きます」(報道ステーション)という若い世代のきょとんとした顔を尻目に、今日安保法制関連11法案が閣議決定。閣議後の記者会見で、「不戦の誓いを将来にわたって守り続けていく。そして国民の命と平和な暮らしを守り抜く。この決意のもと、平和安全法制を閣議決定した」と述べ、まるで平和の旗手ででもあるかのような仰々しい物言いの安倍首相。
私にはこの法案の内容もさることながら、安倍の空々しい会見にはただ怒りしかありません。沖縄辺野古での新基地建設の経過が法案の中身の醜悪さを何より雄弁に物語っているではありませんか。どんな白々しい「コトバ」より、彼らが現に何をしているのかを見れば法案の危険性も安倍の会見の虚偽も白日のもとにさらされるというものです。
過去の自民党政権が守ってきた「専守防衛」という枠組みさえいとも簡単に投げ捨て、「時代が変わった」と言い募って世界中のどの紛争地にも自衛隊を派遣しようとするわけですから、彼らの目には日本国憲法の第9条は死文としか写っていませんね。
関連法案の対象となる法律の1つを成立させるのさえ過去には2年も3年もかかったのに、今度は関連11法案を2本の法律案にまとめて8月上旬にも成立させるのだといいます。乱暴を通り越して国民を愚弄するにもほどがある。
この法案が戦争準備法案である点、日本国憲法を踏みにじる違憲の法案である点、そして民主的な手続きを破壊するファッショ的な手法である点、どれをとっても絶対に許すことのできないものです。
先のインタビューではある若者から「国際社会から求められているのであれば日本だけ何もできないというわけにはいかない」という声が、自衛隊員の妻という人からは「戦争はいやだけど、しかたがないのかなとも思う」という声、ある会社員からは「アメリカにただ守ってもらうだけではなく、それなりの力を持たなければならない。そのための法案ではないか」などという意見が聞かれました。彼らの頭の中にある「国際社会」には、おそらく中国も韓国も、その他のアジア・アフリカ諸国も入っていないのでしょう。その先にどんな時代が待っているのにも想像力は及ばない。
過去に戦争がどのようにして準備されたのか、権力者は国民をどのようにして戦争に連れ込むのかを考えたい。ファシズムはどの時代でも「甘いマスク」をかぶり「耳ざわりのいいスローガンと分かりやすい敵」を提示してくるものです。

昨日、「辺野古基金」の設立総会が那覇市内で開かれました。共同代表には宮崎駿氏ら9人が就任、翁長知事も来賓として出席し「知事として揺るぎのない立場で先頭に立つ。私たちの覚悟を皆で見せながら、この道を乗り切っていきたい」と覚悟のほどを披瀝したと報じられています。
基金もすでに1億8千万円を超えて集まったといいます。その7割は県外から。遅まきながら私と妻も15日付けでそれなりの金額を寄付いたしました。さらに輪がひろがり、圧倒的な力となるといいですね。ちなみに、振込先は以下の通りです。皆様もぜひ!

 ◆沖縄銀行 県庁出張所
   店番号012 口座番号1292772
 ◆琉球銀行 県庁出張所
   店番号251 口座番号185920
 ◆沖縄海邦銀行 県庁内出張所
   店番号102 口座番号0082175
 ◆沖縄県労働金庫 県庁出張所
   店番号953 口座番号3406481
 ◆みずほ銀行 那覇支店
   店番号693 口座番号1855733
 ◆ゆうちょ銀行
   店番号708 口座番号1365941
  <問い合わせ>
    基金事務局 098(943)6748


さて、那覇セルラースタジアムで今月17日に開かれる「戦後70年 止めよう辺野古新基地建設!沖縄県民大会」が迫ってきました。この集会が新基地建設を阻止する沖縄でのたたかいの画期となることは間違いありません。
それは、単に集会の規模が3万人以上と大きいだけではありません。沖縄県は知事公室内に「国との対応や建設阻止に向けた手段を集中して検討する特別班」を設置、5人に辞令を交付していますし、「仲井真弘多前知事の埋め立て承認を検証する第三者委員会は6月末に結論をまとめ」7月には翁長知事に報告書を出す予定だといいます。その翁長知事が先頭に立ってこの集会に参加する。
さらに、地域では、島ぐるみ会議の自治体版が続々と結成され、この集会に総結集する動きを強めていることです。県も地域も、市民も地元財界も一体となって新基地建設反対に立ち上がるという状況は沖縄ではおそらく初めてのことです。
そして「座り込みテント」「辺野古基金」が沖縄と他県の人々を結びつける大きな結び目となり、連帯の証しとなっている。こんな状況も史上初めてでしょう。

午後1時からの集会の模様は、おそらく現地の報道機関がインターネット中継してくれることと思います。皆様もぜひ熱い連帯のエールを送ってください。そして、戦争への道を許さない力をどのように生み、どのように大きくしてきたか、彼ら・彼女らの不屈のたたかいに深くかつ謙虚に学びたい。



  5月13日(水)
台風一過、風は心地よく澄み切った青空の安曇野。夕暮れともなれば、田植えの終わった水田に沈む日が映って、あれこれ煩わしい日常を忘れさせてくれます。こんな風景に接すると、都会の雑踏にまみれた人は安曇野に引っ越したいと思うでしょうね。


私は午前中はバラ園の草刈り。刈り払い機を使って園の外側の空き地をきれいにするのが目的です。結構広いので3日ほどかかりそう。あと1ヶ月でバラ祭りなので、手入れも急ピッチで進めなければならなくなっています。
バラ祭りは6月12,13,14日。今年は例年よりも早くバラが開きそうで花の咲き始めの美しさを愛でることはできそうにありません。もちろんバラの最盛期ですから、それなりに満足してもらえるはずですからご安心を。

今朝NHKでネコの特集をやっていました。これまでも何度かペットとしてのネコが話題になる時期がありましたが、この頃はネットでもいろんなネコのポーズがアップされていたり、「癒やしの効果」とやらでかなりのブームになっているとか。なにしろ、ネコのゴロゴロが人間の精神的な安定に役立つという「医学的」な検証まであるという。ここまでくるとウソかホントかわかりませんが。
我が家のハルちゃんといっしょにその番組を見ていましたら、いろんなネコが登場するのでハルちゃんも真剣に画面に見入っていましたよ。何考えているんですかねえ。
我が家のネコは昼は私にベッタリで、いつも後をついて回るのですが、寝るときは妻の布団の中や上で寝ますから、その点ケンカにならないようにと心得ているのでしょうか。
昼はよくソファの上でひっくり返って寝ています。推定11才ですから、かなりの年になるのですが、寝顔はあどけない。








  5月12日(火)
台風接近の影響で午前中はかなり風が強く、夕方からは雨が断続的に降っています。時速100キロ近い高速の台風ということなので明日朝には通過してしまっているのでしょう。
一頃の暑さが去って、ようやく5月らしい気候になったかと思ったら、今度は台風。こんなに早く台風が来るなんてどうかしていますね。
箱根では水蒸気爆発の危険が増しているというり、ネパールではまたまた大地震のニュース。糸静線直下のここでも、東・南海沖でも予断の許さない状況ですから、備えだけはしっかりしておきたいものです。

さて、昨日自公で合意された安保法制=戦争法制についていろいろ調べていて、マスメディアはこんなにも悠長でいいのかと本当に心配になります。各紙のニュースの見出し(Web版)をのぞいてみると次のようになっていました。
「『専守防衛』変質 安保法制11法案、自公合意」(朝日新聞
「安保法案:自衛隊活動、大幅に拡大 平時から戦時まで」(毎日新聞
「安保2法案、自公が正式合意…今国会成立目指す」(読売新聞
「安保法制の全条文 与党合意 戦闘参加 厳格基準示さず」(東京新聞)。
一方、昨年から最大級の言葉で政府、自公の集団的自衛権行使容認や解釈改憲への批判を展開(たとえば昨年6月の社説)してきた沖縄の琉球新報は、10日、11日付けで共同通信の配信をそのまま載せただけだし、沖縄タイムスも同様。
ただ沖縄タイムスは社説で、「[安保法制与党合意]進め方が乱暴過ぎる」として、政府の進め方を厳しく批判、琉球新報も新ガイドラインの日米合意について、4月27日社説で「日米防衛指針改定 戦争加担は国是の変更だ」として、沖縄が戦争に巻き込まれる危険を告発していました。ただ、沖縄タイムスについては実際の紙面をみると(台風の影響で、今日の新聞に限って電子版が紙面の通りすべて無料で読めます)、18面では「国際平和支援法案」の全文を載せていましたし、3面ではそれなりに詳しく報じていました。

戦争立法が国会に提出もされない段階から、米軍横田基地にはオスプレイ10機の配備が決まり、さらに宮古、石垣への自衛隊配備の動きが加速。既成事実がどんどん積み重ねられていきます。
公明党は「与党協議の中で、様々な歯止め策を打ち出したので、それらがどのように法案に反映されているか、質疑の中で、明確にしていきたい」(山口代表記者会見)と自慢げですが、私に言わせれば「共犯者」の言い訳に過ぎません。今日の信濃毎日新聞の社説「安保をただす 与党正式合意 疑問と懸念残したまま」の中の「公明党は今回もブレーキ役として存在感を示せていない」という批判を、公明党はどう受け止めるのでしょうか。

今朝、信濃毎日新聞やしんぶん赤旗に掲載された自公合意文書全体に目を通していて、安倍内閣の最大のねらいは、戦争できる「普通の国」を実現するための改憲発議の前に、それが当然と思わせるような事態・環境を作り上げたいのだなと感じました。切れ目なく改憲へと国民を「先導」できる条件は、国会でこれだけ多数を持っている今しかないと思っているのでしょう。むしろ海外で「日本の存立に関わる(と政府が判断する)」ような出来事が起こってくれた方が改憲しやすい。北朝鮮や中国を敵視する政策をとり続ければ、それだけ徴発的な言辞を引き出しやすいわけですから。
しかし、この法制化の最大の誤算はアメリカの意図を見抜いていないこと、アメリカに利用されるだけ利用されて、いざ日本に重大な脅威が迫った時のアメリカの行動を予測できていないことです。
しかしその反面、うがった見方をすれば、中国・韓国の徴発的な言動を引き出すことが目的で、本気でアジアでことを構えることは考えず、ただアメリカの行う戦争には無条件で追随するという環境をつくることが狙いともとれます。なぜなら、もし本気でいま北朝鮮、中国との紛争状態を想定しているとすれば、原発を何故これほど無防備にしておくのか、余りに中国に近い沖縄に何故に過度の軍備を集中させるか説明がつかないからです。
読売、サンケイなどはしきりに「抑止力」になるのだという言辞を弄します。抑止力を本気で言うなら「核兵器」を先島諸島に配備せよとでも提言しなければ論理的ではありません。「沖縄の非武装地域化こそ、東アジアの平和のために必要です」と述べる宮崎駿さんとどちらに説得力がありますか?
読売・サンケイなどが露払いをしながら、自民党・財界主導の国づくり(=いつでもアメリカと戦争に加われる国、国民をそのために動員できる国)を1日も早く実現したいというもくろみが、さまざまな分野で急速に具体化しつつあるというのが現在の私の率直な実感です。これほど乱暴で強引、強権的なやりかたは今まで見たことがありません。
今日、教育再生実行本部が、学校の教員免許を「国家資格化」することを柱とする提言を安倍首相に出したというニュースがありました。教育の国家統制をすすめるために教員を統制しようとすることは当然のなりゆきで、教育委員会と行政の一体化の動きとともに、安倍政権の「国づくり」の大きな柱の1つとなることは間違いない。
国民がそれほど関心も持たず、意識しないうちに、じわじわと国家主義の波が押し寄せ、気がつくと抵抗する手段さえ奪われている。そんなことにならないように、何ができるかしっかり考え、1人1人が行動に移すべきときですね。



  5月7日(金)
昨日と今日は朝から夕方まで畑。照りつける日差しはかなり強いものの、湿気がないのでそれほど汗はかかない。
今年から、いままで借りていた畑は作物を収穫し次第順次返して、これまで地主が作付けしていたちょっと離れた畑に移ることになったのです。従って、両方の畑を受け持つことになって4月以降作業量が増えています。
これまでの畑の草取りはほとんど終わったので、今度は新しい畑。地主が粗起しをしてくれたものの、作物を植えるには石灰や肥料をまいた上で土を耕し、畝を作り、さらに肥料をやるという幾重もの仕事があります。
腰の痛みをかばいながら、今日の午前中で畝作りを終えることができたので、午後から妻といっしょに苗の植え付けを行いました。
苗はすべて地主さんが種から育てたもの。「レタス」「白菜」「キャベツ」「ブロッコリー」それぞれ20〜30株あります。「沢山作ったので持って行っていいよ」というのでもらってきて、我が家のポットである程度大きくなるまで育てていたのです。
「妻は沢山できたら友達に持って行く」と今から皮算用。ただ問題は青虫がついて葉を食い荒らされないようにすることなので、せいぜい管理をよろしくお願いします。
もちろん作業はこれで終わりではありません。できるだけ苗を買うのを控え、自前の種から芽出しして植えようと、たくさんの苗を製造中。あと2,3週間もすればいろんな作物の芽が大きくなるでしょうから、そのための畝作りをいまからしておかなければならないのです。

沖縄では今朝重要な動きがありました。
今日の午前2時にキャンプシュワブに資材搬入があるという情報があって、深夜にもかかわらず230名が集まって警戒していたのです。しかし不測の事態を嫌ったのか、防衛局はその時間の搬入を急遽中止。
ところが7時半頃になって、パトカーに先導された10台の作業車がやってきて、抗議する市民を警察機動隊が暴力的に排除。1人の女性が排除中に後頭部を強打し救急車で運ばれるという事態になりました(以上「チョイさんの沖縄日記」より)。
このことは琉球新報(web版)でも報じられ、同記事では依然として海上作業が続けられていると書かれていました。海保、警察権力の威嚇と暴力をフルに使って抗議行動を封じ込めようとするのは、政府・防衛省の焦りの現れでもあるでしょう。アメリカに対して大見得を切った以上は何が何でも実績を作らないといけませんからね。

今日のニュースで宮崎駿監督が辺野古基金の共同代表に就任する意向であると報じられていました。沖縄タイムスには宮崎さんがスタジオジブリを通してメッセージを伝え、「沖縄の人たちがそういう覚悟をするなら、支援するしかないと思いました」と述べたとのこと。
宮崎監督の共同代表就任によって、さらに多くの文化人、知識人が賛同の輪に加わることことは間違いありません。実際、鳥越俊太郎氏も共同代表に就任の意向とのニュースもありましたし。
「辺野古基金」というのは、辺野古新基地の建設阻止のための運動を支えるための基金で、「共同代表にはこれまで、前嘉手納町長の宮城篤実氏、金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬最高経営責任者(CEO)、沖縄ハム総合食品の長浜徳松会長、元外務省主任分析官の佐藤優氏、俳優の故菅原文太さんの妻・文子さんが就任。県出身報道カメラマンの石川文洋氏の就任も決まっている」(琉球新報)とされています。
この基金にはこれまで全国から1億2千万円以上(5/2現在)が集まったといいます(私たち夫婦はこれからです!)。寄付件数4577件のうち県外からが7割を占めているんだそうですね。
琉球新報社説の言うとおりです。

新基地建設を強行する政府と対峙(たいじ)する県民の闘いは決して孤立していない。「辺野古ノー」の声に共鳴する国民の良心が闘いを支えている。そのことが県外からの多額の寄付という形で実を結んだ。

いま沖縄では、今月17日の大集会にむけた準備が大車輪ですすめられているはず。それに呼応するかのように、福島では沖縄と連帯する「郡山の会」が佐藤栄佐久元福島県知事や植田英一元自民党福島県連幹事長なども顧問にして発足したというし、辺野古埋め立ての採石地となる瀬戸内海沿岸の環境団体が採石反対の署名運動を展開中。さらに、西日本各地の7団体・地区代表が、「辺野古埋め立て土砂採取地・全国協議会」(仮称)を発足させる予定で、31日には奄美で結成大会を開くことが決まっているとのこと。
こうして、辺野古新基地建設反対の声は全国でいよいよ広がりをみせ、その活動に加速度がつき始めたと実感できます。



  5月6日(水)
午前中お隣さんに誘われてふたりでお茶をごちそうになっているとき、不意に訪問者。いつも連休最後の日に帰省帰りの途中寄ってくれるSさんご夫婦でした。何も連絡がなかったが・・・と思いつつ、在宅でよかったと出迎えました。
後から指摘されてわかったのですが、彼から連絡があったのを、あまりにも前だったので全く忘れてしまっていたのでした。そういえばそんなメールあったけな。いやはや失礼しました。
このご夫婦のことについては以前にも紹介したことがありました。
この20年で10回以上も北欧を訪問している方で、かつて「北欧 考える旅ー福祉・教育・障害者・人生ーという本を出版された方といえば思い出される方もいるのでは?
今日は、10時頃からお昼直前までのわずかな時間しか滞在時間がなく、いろいろ話したいこともあったのですが、残念でした。
玄関に入るやいなや、最近出版したばかりの彼の著書(写真)を私に手渡してくれたのでした。北欧関係では第二作目となる本です。
午後はどうしても畑仕事をしなければいけなかったので、夜になってようやくその本をひもといた次第。まだ全部よんでしまったわけではありませんが、読んだ限りで少し紹介しておきましょう。

彼は北欧訪問の目的について、北欧の小さな町で生きる障害者や関係者から「誰もが幸せに生きられる”幸せのものさし”を感じたい」とし、今日的な視点で北欧の現状、施策、課題を見つめること、現場の担当者・障害者本人の生の声に接し深く学ぶことだと述べています。「こころの深呼吸」だとも。
自ら編集し、割り付けをしたというだけあって、この書籍は写真も豊富。読む人のこころに入り込むような親しみがあります。
「カラーだったらもっとよかったね」と冗談めかして言ったら、「費用からいって出来るわけがない」と白い眼で一蹴されてしまいました。確かに。あらためて写真を見てみると、白黒だからよけいに人々の表情やたたずまい生き生きと活写し、さらに想像力をかき立てる効果があるのですね。
この本の一部はウエブ上にアップされていて、どんな本なのかその概要を掴むことができるようになっています。また読んだ人の感想も加えられているので、どんな本なのかがよくわかりますよ。
著者一冊目の『北欧 考える旅 ー福祉・教育・障害者・人生ー』でも感じたのですが、彼の文体は極めて魅力的。豊富な知識を的確かつ味わい深い表現を駆使していること、しかも分かりやすい自らの言葉であることがいちばん。
この本では、豊富な実例を通して、デンマークでもスウェーデンでも、充実した障害者政策には、個人の尊重や社会的生活の保障、家庭・家族の尊重などを権利として守りぬく確固とした思想があること。そしてそれを実現するのに、行政だけではなく、福祉にかかわるスタッフや市民たちが絶えず話し合いを行い自覚を高めていることなどが明らかにされます。
日本と北欧との福祉水準の違いだけに目を奪われて、ただため息をついたところで何も生まれない。生まれないどころか、この国のすみずみで日々悪戦苦闘しながらよりよい福祉をめざしたたかい続けている人々の努力を見えなくさせさえする。
どれだけかけ離れているかを確認することが北欧行きの目的であるはずがありません。むしろ、この世界のかたすみに福祉の思想をめぐって試行錯誤を重ね、実践を重ね、すぐれた福祉の体系を作り上げてきた国・地域が存在する確かさを感じとり、そこから無限の学びを引き出すことができるという「しあわせ」こそ北欧行きを繰り返させる源泉なのでしょう。
だとすれば、障害者福祉についての北欧の「考え方」を学ぶことを通じて、この国を変えていくみちすじもまた見えてくるはず。その意味で、直接障害者福祉に関わっていない多くの人にこそ読んでほしい本です。



  5月4日(月)
一昨日の夜遅くから娘と下の孫が、昨日の夕方には息子夫婦と孫がやってきて、とたんに賑やかになっています。
昨日、妻がマレットゴルフに行っている間に、私と娘・孫は畑にいって水まきと除草にしばし汗を流しました。その後の夕食は私がその当番で接待にこれつとめました。





昨夜から次第に天気が下り坂になり、今朝早くにはポツポツと雨が降り始めていたものの、8時頃には青空が見えるまでに回復。昨夜の相談に従って、若者たちと妻は「北アルプスあづみの公園」に出かけました。
そこでボランティアをしているMさんの情報では、昨日は無料開放ということもあって6000人がつめかけ、駐車場も満杯だったとのこと。その忠告に従って、今朝はできるだけ早く出かけたのですが、結構な人数で、人気のイベントはすでに受付終了していたと妻がレポートしてくれました。
私はというと、まだ腰がいたくて長時間立っているのが辛いので、今日はゆっくり静養することにしました。
友人が心配して「腰痛は腹筋と背筋を鍛えることですぐに良くなる」とメールを送ってくれました。返事は出していないので、ここでお礼を。実は若いときから椎間板ヘルニアの傾向があって、ときどき屈んで歩かなければならないほどの炎症を起こすことがあり、腹筋を鍛える腰痛体操を習ってそれなりにやってはいるのですが、何しろキャリアなのでまず炎症を抑えることが大事。無理せず、しばらく静養に努め、それからしっかり腹筋・背筋を鍛えることにします。

昨日は憲法記念日。横浜臨海みなとみらいでひらかれた5.3憲法集会には3万人が集まったと報じられていました。久々の熱気と気迫に満ちた集会になったのではないかと、様々な映像を見ながら思いました。ただ、誰かがコメントで書いていたように、「戦争できる国」にしたい安倍の暴走を止めるには、あまりに少ないんじゃないかなあ。
安倍首相がアメリカ議会での演説で「戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます」と、国会も国民も視野になくアメリカにのみ目を向けて大見得を切った「安保法制の充実」。昨日の集会はこれに対するカウンターパンチとしては、ちょっと弱いが繰り返し繰り出して、そのうち一発強烈なアッパーをお見舞いすることにしましょう。
安倍の「強さ」は、ゆがんだ選挙制度に支えられた自民・公明議席の多さと一定の内閣支持率。しかし裏を返せば、自民党の得票率は小選挙区で48%、比例代表で33%ですから、もろい基盤であることがわかります。高いと言われる内閣支持率も46%〜50%、それも「他の内閣よりよさそう」というわけですから、安倍の本質が知れ渡ればとたんに急落しても不思議ではありません。
彼が依って立つ「基盤」とは、私達が日頃生活している地域に他なりません。どんなにマスメディアが「世論」を作り出そうが、右翼的な人物が安倍を持ち上げようが、地域で安倍のもくろみを見抜く力をつけさえすればいいのですよね。
戦前のように「騙されていた」とか「知らないうちに」とかという言い訳がもはや通用するわけがありません。まだ国民的な反撃ができるうちにたたかわなければならないのだと思います。

本屋をのぞいてみる、ネットで検索してみる、すると目に余る右翼的な言説の数々。いったいこれは何なのでしょう。その異様さは目を覆ってもまだ飛び込んでくるほどです。
自民党が党是としている「自主憲法」。アメリカからの押しつけ憲法を拒否し、戦後レジーム(東京裁判史観、占領史観)から脱却して、自前の軍隊を持ち、天皇を元首とし、家族を基礎とした国家にするのだという。だとすれば、論理的には他国の支配を拒絶し、自らの運命を自らの手でつかむという独立の課題は避けて通ることは出来ないはず。
これほどに国土を蹂躙している米軍基地や原発から抜け出し、食糧自給率を高め、アジア諸国との自主的で公平な関係を築くという方向が倫理的に導かれてこなければなりません。
ところがそうではない。日本国憲法はアメリカから押しつけられたものだから拒否するが、治外法権的な米軍基地を多数日本に置く日米安保条約を拒否するわけではありませんね。
彼らのいう「自主憲法」のもとでの日本の実態とは、国家間の同盟=緊密な日米同盟という名で米軍基地も地位協定も何らの変更なく、自衛隊は米軍と地球の裏側まで一緒に行動し、TPPによって食糧主権も投げ捨て、原発は多数再稼働し新設さえし、医療は自由診療、労働者は派遣労働が常態となりいくら働いても残業代ゼロ。さて、そのどこに「自主」憲法によって守られた国民がいるのか。彼らの「論理」は、まさに支離滅裂です。

私の見立ては、彼らが「自主憲法」と呼ぶ最大の狙いは、立憲主義の否定です。つまり憲法を、国民が権力をしばるものから権力が国民を縛るものに変えたいということ。だから、遠からず明文改憲の挙にでてくるでしょう。その一点を除いて、すでに改憲したも同様の状態にしておけばあとの作業は簡単だと彼らは思っているはずです。

【現行日本国憲法】第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。  【自民党修正案】第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。 2.国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

どの世論調査でも改憲に慎重な意見が改憲を必要とする意見より多い。問題は、これを実効的な目に見える形にすることです。これから問われているのはまさにそうした声と形。沖縄とともに憲法をめぐって声を上げ続けなければならないと、いよいよ強く思わされています。



  5月2日(土)
ほとんどの田に水が入り、早いところでは田植えが行われていました。夜ともなれば土に潜んでいたカエルが出てきて大合唱。外にいると騒音に近い大音響です。

北アルプスには、いつもの大きなダルマ模様の雪形が現れています。何年か前にも紹介したことがありましたっけ。
先日地元で行われた野鳥観察会の後の懇親会でも、窓からこの雪形が見えたために一頻り話題となりました。中には「エッ?どこ?」という人もいて、地元でも知らない人がいたんですねえ。
爺ヶ岳の「種まき爺さん」とか蝶ヶ岳の蝶とかは有名でほとんどの人が知っていますが、このダルマはあまりに大きいので気にも留めずにいるのでしょう。




昨日から、我が家の前の道を挟んだ用水沿いの法面の草刈りを始めています。昨年よりも早く伸びているのでなかなかはかどらない。草刈り機で斜面を刈るのはなかなかの重労働で、すぐに腰がいたくなってしまいます。
道路沿いには、アイリスやヒナゲシが葉を伸ばしているので、刈ってしまうわけにもいかず、それをよけて草刈り機を操作しているとよけいに疲れます。
ここ2,3ヶ月腰が痛くて、先日から妻に指圧をしてもらって、そのときはずいぶん楽になるのですが、草刈り機を使ったり耕耘機を操作したりするととたんに腰にくる。妻は、マッサージに行ってらっしゃいとしきりに勧めるので、今日あたり一度行ってこようかと・・・。








  5月1日(金)
昨年のゴールデンウィークを一週間先取りしたような天気がずっと続いて今日も五月晴れ、メーデー日和です。
午後から大北地区メーデー実行委員会主催のメーデー集会(大町文化会館横の広場)に妻と出かけました。
連合と分裂集会となってからどのくらい経つのか今ではもう分からないほどです。連合中央は様々なイベントを家族で楽しむというのが理由なのかどうかわかりませんが、4月29日(水)に開催するという見方によればかなりご都合主義のやり方です(ただし連合長野は5月1日ですので念のため)。せめてメーデーくらいはかつてと同じく統一したメーデーが行えたらいいのにと思うのは私だけではないでしょうに。
派遣法の改悪や残業代ゼロ法案などの8時間労働制完全否定の動きや、中小零細企業・地場産業での賃上げすら出来ない状態を考えれば統一の条件はいくらでもあるのです。しかも労働組合の組織率はいまや17.7%(2015年厚労省)ですから圧倒的に未組織でメーデーどころではないのが実情ですから。

さて、今日の集会には、病院関係の若い組合員が多数参加していたので活気がありました。やっぱりこうした集会には若者が主人公で参加しないとおもしろくないですね。

いまではほとんど死語ともいえる「労働歌」の1つに「晴れた5月」というメーデー歌があります。今日の締めくくりに地元の合唱団が歌ってくれたのを聞いていたら、さすがに懐かしかった。若者たちにはどう聞こえているのでしょうか。
この歌は2012年頃まで「連合」メーデーのオープニングにも使われていたようなんですが、何だか奇妙な感じがします。
それはともかく、私がこの歌に初めて接したのは、忘れもしない名古屋で教員生活をはじめた1年目。教職員組合員として初めて参加したメーデーで聴いたときでした。
その日も透き通るような青空で、行進していた情景が道ばたの「ハナミズキ」の白い花弁とともに思い出されるのです。
定時制勤務だったために、勤務外の朝の集会には当然出ることができます。年配の組合員は若い組合員に「出るのが当たり前」と誘って沢山参加していました。
私の勤務先である定時制高校に配属された大卒の新規教員は3名。性格も生活も全く異なる3人が、それ故なのかどうか割と気が合って、即組合に加入しました。
直後組合で全国規模のストライキ闘争がありました(当時時間食い込みのストが何度かあった)。分会長は、時間内の職場集会について3人は新採用だから(3ヶ月?の形式的仮採用期間があった)参加を見合わせてほしいという。どうしてもストに参加したい3人はどうしたかというと、職場集会をやっている部屋の隣の部屋に陣取ってそこから顔を出し、事実上参加したことにしたのでした。
2年目以降になると、むしろ執行委員になったりしてすぐに組合活動に積極的に取り組むようになります。もちろんストにも参加。職場放棄をして他の場所での統一集会に参加したことも何度かありました。
夜間定時制の生徒たちは、午前中すでにそれぞれの職場でストライキ闘争に参加しているので、定時制の教師たちが学校を出て行くときに、「がんばって!」と2階、3階の窓から手を振って見送ってくれました。そんな時代もあったのですね、夢のようです。
メーデー歌を聴くと、ついそんな私の20代の思い出がよみがえってくるのです。







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