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  8月31日(月)
今日は先日紹介した中山隆之さんへのインタビューの第2回です。今回は中山さんが義勇軍開拓団として白城市郊外で生活した時期から、敗戦を迎え、着の身着のままで奉天まで引き上げ、その後奉天にソ連軍が進駐してくるまでの避難民生活について聞きます。

中山隆之さんの戦争体験
   満蒙開拓民としての生活と敗戦から帰国まで (第2回)

4.白城市での比較的平穏な生活

白城市では、当時多少の手当があっただいね。ほんとの煙草銭。部落長をしていたのはそこへ移ってから終戦までだった。
6部落に別れていたので部落によっては違いましたが・・・私のところでは一緒に住むからには、まして人の土地を耕すわけだから仲良くやっていかなければと思ってやっていた。(満州人の)貧しい人たちが「働かせてくれ」と頼みに来たりすれば手伝ってもらっていくらか賃金を渡したり、そんな関係だもんで近くの集落とはうまくいっていたんです。
関東軍の飛行場は近くにあったが、駐屯地はなかった。ただ、こんなことを言っていいのかどうかわかならないが、脱走兵が私たちのところへかくまってくれと、そんなこともあったですね。私たちとすれば、公にすることもできないし、かくまうこともできない。元へ戻るか、戻らないんだったらソ連へいくしかないと言って、いくらかお金や食糧を渡して気をつけて行きなさいと・・そんなこともあったね。
奥地の方の開拓団は匪賊の襲来とかあったようだが、私たちのことろは南のほうだったもんで、終戦近くまで割と平穏に生活ができたですね。

5.敗戦と引き上げ

終戦の情報は8月15日の翌日くらいにはわかっただが、関東軍憲兵から「終戦になった」という通知だけはあったです。「直ちに引き上げるように」と書いてあった。どうやって引きあげるかという指示は何にもない。近くの飛行場からの連絡もありました。明日にもソ連軍がくるから待ったなしで引き上げろということで。
満州人の集落の人はどっからその情報を得たかねえ、すぐそれを悟って、私の所にきて「どんなことがあっても私たちが守るで、しばらくここで様子を見れ、ここで私たちが何とか面倒見るから」と、すがってでも言ってくれただいね。だけどとてもじゃないが、女・子どももいたからそうはいかない。
年寄りや子どももいたから、夜、1キロ位先の駅まで自分たちの馬車でちょっとした手荷物を持って、着の身着のままでそのままんま貨物列車に飛び乗った。とにかく安全な南へ下がろうということで。
そこからが問題で、私たちばかりではなくて、全満州からそうやって開拓団、居留民団が引き上げるわけだから、無蓋車であろうが何でも乗れるものに我先に飛び乗らざるをえない。だからどこの駅に行ってもそういう人たちで満杯。力のあるものがわれ先に乗り込むから乗れない人もいっぱい。
そんな中で、一番はっきり言いたいだけんどもね、そういう南に下がる列車の脇を軍用列車というのが通るだいね。貨物列車は駅でいつ出るか分からないが、それを待たせておいて軍用列車が通っていく(駅では一旦止まる)。
乗っているのは全部兵隊さん。それに何とか年寄り・子どもを乗せたいと思って、そう言ったら衛兵が昇降口に銃剣を持って(突き付けて)寄せ付けないんですよ。「これは我々軍隊の列車だから、お前たちは乗せられない」という。だから真っ先に引き上げるのは軍隊せ。私たちは銃は持っているが開拓民。軍用列車に乗っているのは関東軍。
奉天に着くまでに幾日くらいかかったか・・3日くらいかかったかな。やっぱ食うや食わずで・・・あるところで、列車が止まって見ると、そこに関東軍も停車していて、こんなバケツでご飯を運んでいるのが見えるだ。こっちは腹減るし、他の居留民もみんな腹を空かせている。軍隊だけが白い飯(まんま)を食べているで、こっちはどうしても食べたい。何とかしてバケツ一杯だけでも欲しいじゃないかい。オレは食わなんでも子どもや年寄りは食べさせてやりたいし。
宵闇で薄暗いもんで、私が着ているものは義勇軍だから軍隊と同じもんだったで、列のなかに紛れ込んでね。盛る方の兵隊は釜からこうやって盛るのにいそがしいもんで、顔なんかいちいち見てねえしね。そんでも命がけだよ、何とかひとバケツ持ってきて、みんなで頬張って食べた覚えがある。
話したいことは、そのときの関東軍なんて全く統制がとれずバラバラせ。
途中はそんな状況だったが、奉天についてからね、あとから来る列車で避難民が着いたのを見かけたが、どのくらいまでそれが続いたかはわからない。
奉天についてから避難民が列車から降りてくるじゃないですか。若い母さんたちは子どもを連れたりおんぶしたりしているが、見たり聞いたりしても、おんぶしている子どもで生きている子どもは一人もいなんだ。生きている子は一人も見かけたことがない。みんな無蓋車で・・・無蓋車以外乗れなかった・・・おなかがすいたりして・・・。それでも親にとっちゃ捨てるわけにはいかない。いずれ奉天まで来てからは捨てたがね。

6.奉天での避難民生活

奉天についてから、私は満鉄関係で鉄道警備が主体だったから、駅に満鉄の官舎があって、住むところだけは力任せに入れてもらうことができた。20名ばかりのグループだったから何とか空いているところに入れてもらった。あとの人は学校とか映画館とかそういうところに入った。
弟や私の知っている人が誰か避難所に帰ってきてるじゃないかと思って、毎日私は探しに行っただいね。ただ、はっきりいえることは、一晩経つと明くる朝、馬車に死人が何十人と出ただ。食べるものはなし病気がはやってね、それを埋葬できるわけがないから川へ持って行ってみんな流して・・・それがどれくらい続いたか・・そういう状況だったですね。目も当てられなかった。
奉天では中国の人は割合反抗しなんだね。ただ私たち日本人は金を持ったり食べ物を持ったりしている者もいたから、毎日毎夜暴動が起きたことがあった。というのは、そこに住んでいる中国人も食糧を断たれて飢餓寸前で暮らしていたから、日本人のところにいけばモノがあるということで、日本人の住んでいるところへ群れをなして押し寄せてきた。私らは官舎の2階にいて、棒を持って押し寄せてくるから、私たちは戦えないし、昼に庭の石から棍棒からみんな拾い上げて、階段を上ってくるのを石や棒で防ぐという、全く笑い話みたいなことをやっていた。暴動はだれも指揮をしているわけではないから、こんどは向こうの方へワーッと行っちまうだいね。そんなことが半月ほど続いたかなあ。
関東軍は奉天に相当いたが、日本人をかばうとかは全くなかった。関東軍自身がバラバラでみんな自分の身の安全を考えて軍隊の用はぜんぜんなさなかっただね。あんときもう少し統制がとれて、ソ連の兵隊が入ってくるまで中継ぎできたらと思ったが・・・そんな気配は全くなかった。反対に迷惑をかけていた。

7.ソ連軍の進駐

そのうち、ソ連の兵士が進駐して奉天を占領するようになったがね、治安の維持には真っ先にあたってくれて、暴動をなくしたりしてくれたね。日本の憲兵隊にあたるゲーペルがソ連の兵隊の中でも権威を持っていてね、このゲーペルが治安にあたってくれて日本人中国人を問わず平穏にいくようにしてくれたね。
ソ連軍は統制はとれていて、ゲーペルがずっとまわっていたが、その隙間を見てね、ソ連の兵隊がちょいちょい私たちのところに隠れて自動小銃を持って来ただいね。何の目的で来たかというと、誰も彼も「これこれ」「これこれ」(手首の腕時計を指す)という。腕時計が欲しいんだね。日本人はほとんどみんな腕時計をもっていたから。それを渡すと喜んで帰って行くだいね。
そういう状況だもんで、何とか食っていかなければならないということで、持っているものを少しずつ別のモノに変えたりして「がらくた市」というのをやったりしていた。そのがらくたの中に扇風機が売りに出てただいね。ソ連の兵隊がその扇風機というのを知らないんだね。クルクルと回っていて涼しい。そのうち一人の兵隊がソーッと扇風機の中に指を入れて「ブルブル」とやった。そしたら驚いて自動小銃でもって扇風機を撃ってバラバラにしてしまった。そういっちゃ悪いがその程度だったいね。
そのときのウワサとして、当時の関東軍の司令官で長野県出身の山田乙三という大将がいただいね。直接目にしたわけじゃないが、逃げて歩いて最終的にソ連につかまっただが、捕まったときには5、6人の兵隊に檜の風呂桶を運ばせて山の中を逃げていたという。日本軍司令官の大将がですよ。もっぱらのうわさだったね。
ソ連が来たのは11月の終わり頃だったかね、当時はもう一日も早く帰りたいじゃないですかね、少しでも南に下がって早く帰れるじゃかないかということで、意を決して朝鮮との境まで下がっることになった。


想像を絶する苦労もあったろうし、死の淵を彷徨うようなこともあったろうと推測できます。関東軍が我先に居留民を尻目に南下していったことはさんざん指摘されてきたことですが、中山さんもその実態をはっきりと証言しています。
ただ、奉天にソ連軍が進駐してきたあとのことについては、おそらくさぞ凄惨な状況になったのではないかとつい想像してしまうのですが、実際にはかなり統制がとれていたということがわかります。
ネット上では、ソ連軍の通る至るところで婦女暴行、虐殺など非人間的な蛮行が横行したように描かれたものを見かけることがありますが、時期、地域の差が大きくあるようで、それぞれの地域で実際はどうであったのか詳しく証言を積み上げることが大事だと思わされます。
無蓋車で着の身着のままで引き上げる過酷な逃避行の挙げ句、幼子は母の背で死に絶え、奉天にたどり着いても飢餓地獄の中で多数の人々が亡くなっていくすさまじさを、控えめな表現のなかからくみ取るべきではないでしょうか。
次回は、朝鮮国境までの逃避行から中国共産党八路軍との遭遇までを聞きます。さらに数奇な運命が中山さんを翻弄します。ご期待ください。



  8月30日(日)
午前7時半に家を出て帰宅したのが午後9時過ぎ。国会前行動に参加して無事帰着しました。ほとんどバスでの移動だったとはいえ、国会周辺では立ったままほとんど動かないすし詰め状態での「行動」のため結構疲れました。

長野県中信地域からのバス2台での参加者は80名。うち8名は池田町から。「迷子」にならないように目印について行くのがやっとで、所定の国会図書館付近に何とかたどりつきました。ただ、そこに着いたらあとはじっと待つだけ。
集会実行委員会のメンバーがマイクの設備だけはしっかりしてくれていたので、国会正門付近の雰囲気がそれとはなく伝わってきて、連帯してたたかいに参加しているという実感が持てました。また、激励に立った多数の弁士もそれぞれにユニークな訴えをしていて飽きることはありませんでした。
集会参加者数は主催者発表で12万人。これが警察発表になると(国会周辺だけで)3万人??警察はどうやって人数を把握したんだろうねというのがもっぱらの参加者の話。国会周辺を隙間なく取り囲んでなおはみ出るくらいの猛烈な人人人、それが霞ヶ関から日比谷まで延々続いていたのですから、政府自民党には相当パンチが効いただろうと思いました。(写真一番下は「赤旗号外」より)








これに呼応して全国各地でさまざまな取り組みが行われ、おそらく東京と合わせて100万人くらいが決起した日になったのではないでしょうか。
中信関係では、松本300人、安曇野100人、松川150人の集会が行われたと報告がありました。池田は国会代表を出すのに力を入れ、5日に軽トラパレード、10日に町民集会を予定しているので、この日は十数人のスタンディングのみ。
参加者はそれぞれに今日の行動に希望を得て地域に戻ります。このあと1ヶ月がいよいよ勝負ということですね。主権者が歴史をつくるたたかいです。頑張りましょう。



  8月29日(土)
午前9時半から、学園祭で人の出入りの多い地元の高校の付近で戦争法案反対のスタンディング・アクションを行いました。
田舎では、何となく場違いな感じもしないでもない。「若者を戦争に送るな」を大書するとか、「教え子を再び戦場に送るな」とか、とか「安倍さん感じ悪いよね」とか、もう少し場の雰囲気にマッチしたものを用意すればよかったと少々反省。移動式看板、大いに役立っているので、まあよしとするか。




昨日は午後から軽トラバレードの勧誘にまわったあと、私が畑を借りている地主の中山隆之さんから戦争体験を聞くためにお宅を訪問しました。
かねてから話を聞きたいと思っていたのですが、なかなかチャンスがつかめず、延び延びになっていたところ、今日の午後から時間を取ってもらうことができたのです。
レコーダー、カメラを持ってお宅に伺うと、なかなか元気がよさそうで安心しました。前にもちょっと書いたように、何人かの前で話を聞かせてほしいと頼んでも、外に出掛けるのは困るということで、結局私との対談形式での聞き取りということになりました。
中山さんは現在92才。頭脳は明晰、世話好きで包容力のあるなかなか魅力的な人物です。私よりちょっと下だがほとんど同年代という息子さんご夫妻と同居していて、ずっと家にいるとかえって足腰が衰えるからと、都合の悪い足をかばいながらときどき畑にでて大きな耕耘機すら運転するほど元気なお方です。

本当はもう少し予備知識を持って臨むべきだったのですが、タイミングを失うと永遠に話を聴けなくなってしまうのではと思われ、思い切って時間を取ることにしたのです。
応接室に通されて、一旦話始めると、またまた話が止まらなくなる。息子さんに聞いても自宅ではこのような話はあまりしないということ。かつては子ども達に話して聞かせたこともあると聞きましたが、まとまって話をするのは今回が初めてなのではないでしょうか。

話の中身は、満蒙開拓青少年義勇軍として「満州」(中国東北部 以下カッコ抜きで満州と記します)に渡ってから帰国するまでの体験です。数奇な体験記からきっといろいろな教訓が引き出せるのではないかと思われました。
当時満州に渡った当時の人たちの数は長野県が全国一。中山さんが満州に渡ったのは1938年(昭和13年)です。

ここで少し満蒙開拓団に関する歴史をおさらいしておきます。
中山さんが満州に渡るころの日本はどんな状態だったのか。中山さんが満州に渡る2年前の1936年に2.26事件が起こり、「満州移民のトーチカ」(満州移民に抵抗していた)といわれる高橋是清蔵相が殺害されます。これによって、「重しがとれた」ように軍の威をかりた移民推進派の力が増大し、国策としての満州移民へと変貌を遂げていきます。
関東軍は、36年5月に20年間で100万戸500万人が入植する計画を策定します。その中で、過去の武装移民に対する現地の批判を避けるために現地中国人への一定の配慮(未利用地優先、既耕地への金銭補償・代替地など)をとりつつ、「平和裏」に入植できる条件を整えようとします。
ところが、37年に現在の北京郊外の盧溝橋付近で演習中の日本軍部隊と近くにいた中国軍との間で小競り合いが起こり、これをきっかけに日本軍は中国全土に事件を拡大、日中間の全面戦争へと発展していきます。
戦争は、農村の青年層を出征要員とし、産業界でも労働力を必要とするので満州移民は大きなマイナス要因となります。そこで考え出された秘策が「満蒙開拓青少年義勇軍」と「分村移民」でした。
1938年1月には「募集要項」が作成され、全国一斉に募集がはじまります。応募資格は16才から19才まで。尋常小学校卒業者であれば資格は問わないというもの。初回は定員5000名に対して2倍近い応募があったと言います。
あとの話の中で出てくる内原訓練所は38年1月に開設され、所長は加藤完治、義勇軍の目標は「日満一体」と「五族協和」でした。義勇軍とはその名の通り少年兵の軍隊であり、広大な畑を耕し大地に生きるなどといううたい文句とは全く正反対でした。

では、実際に中山さんのお話に耳を傾けてみることにしましょう。インタビューしているので実際は対話形式なのですが、かえってわかりにくくなることもあるので、1つのストーリーとしてつながるようにしました。
今回は概論というつもりで全体を通して聞き取りをした関係上、話は相当に長いので、何回かに分けて紹介せざるを得ません。語りはレコーダーで収録し多少編集して話をまとめたことをご了解ください。




                              中山隆之さん(92才)

1.生い立ち

生まれは大正12年8月24日。会染村(現池田町)のこの自宅ですがね、兄と姉、ふたりの弟、それに妹の6人兄弟でした。
私は戦争で兄と弟の二人を亡くしている。兄はボルネオで戦死、弟は満州に少年義勇軍で渡ったあと戦後の混乱の中で死んだようだが、その状況はよくつかめない。探したんですがね、結局わからなかった。
姉はすでに亡くなり、妹は明科に嫁に行き、もう一人の弟はすぐ近くに住んでいる。
私は昭和13年に小学校を卒業して、当時なもんで、卒業はしても仕事はせいぜい小僧ぐらい。女は女工ぐらいで、これといった仕事もなくてね。そのときにちょうど満蒙開拓義勇軍の制度ができて、学校の先生に勧められたりした。またうちの親父も5反百姓で働けど暮らせずという状況で苦労しているので、男だったら満州のような広いところでやれと、親父はそう言っただがね。
お袋と姉は、そんなところに行かなんでも食っていくぐらいならどこにいてもいいと、そう言って反対したんだが。 主に学校の受け持ちの先生が、兄弟を戦争でなくしているもんで、男だったらこんな狭いところにいなんで、おまえたちみたいなバカばっかりは満州にでもどこにでも行けと・・・。

2.満蒙開拓青少年義勇軍の虚実

池田町から15才で満州に行った仲間は5人。それが昭和13年の4月、茨城県にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所に行った。そこでの訓練は3ヶ月で、そこに行ったのは15才から20才くらいの少年だけだった。
弟も学校を卒業してから満州に渡ったわけでね。そんときも親父から私に手紙が来て「お前も行ったところだから弟も行かす」と言ってね。私が行って実際に経験していたもんで「満州はオレ一人でいい」と言ったけれど、来てしまった。
そのときの宣伝では向こうへ行って広いところを耕して地所をくれるとか何とか言ったので、それを信じ込んでいったわけですよ。親も私も。
実際に言ってみたところが、銃は渡されるがクワ1つカマ1つ呉れない。向こうに渡ってからは3年間訓練所に入るんだが・・・これは満州に何カ所もある・・・300人が1個中隊になっていた。
じゃ実際3年間何をやっていたかといったら、結局軍隊代わりに満州の国境地帯に配属されて、ほとんど警備せ。明けても暮れても。
訓練所があった場所は、奉天から北に上がって嫩江(のんこう)という県があるんだがね、そこに3ヶ月。そのあとノモンハン事件のあった近くの大和(やまと)訓練所で3年いた。
その3年というものは、草一本刈るじゃなし、イモ一本作るじゃなし、銃一丁の警備せ。訓練らしい訓練も受けなんで。私たちの中隊は長野県、滋賀県、岩手県の混成中隊だった。
みんな若い人っきりでしょう、3年間やることないもんで、毎日魚釣りに行ったりね、夜は警備には出るんですがね。そのうち仲間の派閥ができて、年とった者が下の者を使うとかがあって、だんだん訓練所内でもめ事が起こって、てんやわんやの無政府状態。
中隊長とか農事指導員とかという幹部もいたんだが、全然手がつけられなくなった。そんときは私も「しまった」と思ったですよ。
そういう年代だったもんで、年取った方から兵隊検査で軍隊に切り替わっていく者がでてきて、はじめ300人だったものが、順に兵隊にとられていった。
昭和14年にノモンハン事件というのが起こる。その事件の起きた一番最前線に私たちの大和の訓練所があっただいね(=ありました)。そのときの状況は全くみじめなもんで、一方的にソ連軍に圧倒されて、ほとんど戦わずして敗退した。一番えらい目にあったのは正規の軍隊でない私たちで、逃げ場もない。一番記憶に残っているのは、こっちでは銃一丁しか持ってないし、日本の軍隊は来てくれないし、沼の中で首まで浸かって二日三晩というもの隠れてしゃがんでいた、そんな状況だった。7月だったからまだよかった。
夜寝ているところを襲われて中隊から二人ばかり犠牲者がでた。でも行軍の手間賃だと思ったのか全員を襲うということはなかった。

3.義勇軍開拓団

3年そこで訓練を終了して、今度は「義勇軍開拓団」としてノモンハンからずっと南へ下がって、チチハルにいく途中の白城市というところがあるだいね。そこの近くのソロンという部落に移ったんだがね。
そこへ行ったら6部落に別れて入植という形を取っただが。そこで集落毎にコーリャン作ったりアワ作ったりしたんだが、開拓者というより、そこにいた住民を追っ払って土地を耕したってことですね。
関東軍が多少の交渉で安い金で買い取ったことはあったろうが、その辺の内容はこっちはわからないが、住民を追い出したことには変わりがない。
そこでコーリャン作ったりアワ作ったりだけでは足りないということで、牛とか羊とか豚とかニワトリとかの家畜(の飼育)が主体になった。馬も飼ったりして、そういう形でようやくいくらか百姓らしい百姓になって共同生活ができた。
開拓団の近くに日本軍の飛行場があった。早く言えば、そこへ食糧補給みたいな形でね、タマゴとか牛乳とか豚肉とかが飛行場でもほしかったから、そういう取引は飛行場とやったわけですがね。
それらしい計画を立ててやっていけるようになったんだが、問題は近くに満州人の集落があったこと。
日本人は地域住民に対して虫けら扱いしたことが多かったが、私で言えば自画自賛みたいになるけれど、私は部落長をずっとやらされていたこともあって、地域住民の立場も考えて見た場合に、この地域の人たちには少なくとも平等に扱うということでやってきた。いざこざのないように共同で生きていこうとやったもんで、村からの対応もあまり悪くはなかったと思うんだが。


青少年義勇軍とは結局少年兵を使った国境警備だったことがわかります。この制度の当初は義勇軍の募集は市町村役場が行うとされ、後に学校の教師を通して募集するようになったと「移民たちの『満州』」(二松啓紀著 平凡社新書)には書かれていましたが、長野では当初から学校が深く関わっていたこともわかります。
次回は、敗戦の色濃くなる情勢の中で満州でどのような生活をし、敗戦の後祖国にどのように帰ろうとしたのか、そのあたりの体験を聞くことにします。



  8月28日(金)
戦争法案反対の活動で、学者と弁護士の活躍がめざましい。26日には元最高裁判事・法律家・学者300人が弁護士会館で記者会見をひらき、違憲の法案の廃案を求めました。会見後には日比谷野音で4000人の集会。
「法曹、憲法学の最高権威が並んだ。こんな場は見たこともない」とは中野晃一・上智大教授(政治学)のコメントです。
同日、100を超える大学の教員たちが東京都内で記者会見、こもごも法案の危険性を訴え、廃案を求めました。これまた前例のない動きです。
内田樹さんによれば、カリフォルニアのUCバークレー校でも6名で「安全保障関連法案に反対するカリフォルニアの学者有志の会」を立ち上げたとか。(下の写真は弁護士会館での記者会見:「しんぶん赤旗」より)


私は、単に戦争に直結する法案だから反対だというにとどまらず、「単なる法の危機、憲法の危機ではなく、知性の危機、大学の危機」(上野千鶴子さん)の指摘に強く共感します。
さらに、この危機感は大学の教員だけではなく、むしろ初等教育から中等教育までの教職員こそ最も敏感に感じ取らなければならないものではないかと私には思えます。なぜなら、これほどの政治的劣化の中身(法案の狙い・本質)とうわべ(言語・行動)とが余りにも隔絶しているために、そのままこれを教育の現場に持ち込めば、当然のように教育の混乱・破壊に直結せざるを得ないからです。
中身は戦争法案なのにそれを「平和安全法制」と呼ぶ。憲法第9条に完全に違反していると圧倒的多数の憲法学者が指摘しているものを、憲法違反ではなく「法的整合性がある」と主張する。確実に軍拡につながる(事実「防衛費」は伸び続け、死の商人が暗躍している)法案の狙いを「抑止力」と呼んで正当化する。アジア太平洋戦争を「自衛戦争」と呼ぶのも同じ。教師たちは学校で、これらをどのように教えるのでしょうか。例の「中立」論で「こういう考えもある、このような見方もある」とやるのか。必ず混乱が生じるだろうし、「いじめ」を「自衛のため」などとうそぶく生徒ができてきたっておかしくない。

安保法案を戦争法案と呼ぶことに安倍首相は「"戦争法案"などという無責任なレッテル貼りは全くの誤り」(5/14)と色をなして叫びました。
ところで彼は本気でそう思っているのでしょうか。本当にこの法案を「平和安全」法案だと思っているのか。彼が合点してわざと欺瞞的にコトバを使い分けているのか、それにしてもどうして国民の側とこんな大きな乖離が起こってしまうのか。
この問題に1つの回答を与えてくれているのが、世界9月号中野晃一論文です。冒頭に紹介したコメントの中野さんです。

中野さんは、丸山真男による日本語の「政治」観念の「古層」に拠りながら論をすすめていきます。そのエッセンスをかいつまんで言えば次のようになります。
日本における「政治」観念は、一方では自分よりも上位にある者に対して奉仕、服従、帰順しつつ(まつろふ)、下位の者に対しては、彼らを上位の者に奉仕、服従、帰順させる(まつろわす)役割を担うという2面性を持っている。
中野さんは、安倍政治の「感じ悪さ」は、その「政治」が、「強い垂直性で規定されており、服従あるいは帰順を核とした上下関係の連鎖で政治世界を構成している」ことによると指摘し、このことから彼の行為が説明できると述べています。
たとえば、靖国神社は海外では「war shrine」だが、アベのロジック(まつろふ側)では「国を安んずる」神社つまり「平和神社」ということになるとのべ、次のように書いています。

皇国日本の戦った戦争すべてを自存自衛のための戦争とみなすのは、「まつろはぬ」者たちを「まつろはす」ための討伐ないし外征は、国を平定し、その安寧を守るために余儀なくされたものと考えられているからである。・・・・
こうして、多くの人びとにとって「戦争法案」でしかないものが、アベたちにとっては「平和安全法制」なのも同じ理屈である。「まつろはぬ」者たちを討伐しに出掛けていくことは、戦争ではなく「自衛措置」にあたるわけだ。


しかし、アベの感じ悪さはこれだけではないというのが次の問題です。それは、アベの歴史観(靖国史観)では、天皇が「まつりごと」の最上位者だが、安保・経済の対米従属構造のもとではアメリカが「まつりごと」の最上位者となるので、そこに重大な矛盾が生じるという点です。それゆえ、アベは2枚舌を使わざるを得なくなるというのです。
言うまでもなくこれは支配者としての自己矛盾であって2枚舌で糊塗しようとすればできないことではありません。だが、根本的な矛盾は「まつろうふ」側と「まつろはされる」側との間の解きがたい「敵対的矛盾」だからそうはいかない。そのためにマスメディア、御用学者などが総動員されることになる。
中野さんは最後に、「では、私たちは、安倍政治にどう立ち向かうのか」と問い、次のように答えています。

難しいが、単純である。「まつろはない」のである。「まつろはぬ」者同士が連帯の輪を広げていくのである。ファシズムにはレジスタンスしかあり得ないように、アベ政治には「まつろわはない」のみである。・・・
まつろはぬ者たちのうねりは、戦後、市民が育んできた平和主義をその強力な推進力とし、今やアベ政治を洗い流そうとしている。


200話を超えたMNEMOさんの「トーホグマン」の基調にもつながる考えですね。200話達成おめでとうございます。



  8月27日(木)
この間、私はちょっとリラックスタイム。世界陸上と借りてきたDVDを見ていたために、めずらしく何日か間が開いてしまいました。

午前中は恒例のバラ園の作業。雨が降ると一週間で草は10センチくらいすぐに伸びるので、この前機械で刈ったかと思ったのにもう茂っているのだから始末に負えません。
それぞれ忙しい人ばかりなので、この頃は10人を超えたことがないものの、それでも今日は8人ぐらい集まって、とにかく草刈り、草取りです。
夏場は午前9時からの作業なので11時を回る頃には汗びっしょり。だいたい申し合わせたように休憩場に集まって「ゆんたく」となります。作業とお話とどちらが長いかと言われてもすぐには答えられないほど。

昨日は、午後から「町民の会」の事務局会議を開いて今後の取り組みの詰めを行いました。
30日の国会行動には今日現在で8名。10名まであとちょっとです。また5日の軽トラバレードには20台を超える軽トラが集結できそう。それぞれ準備が急ピッチですすんでいます。
会議のあと、あと一基残っていた看板を取り付けにいきました。町中央部で良い場所を提供してくれた方がいて、約1時間で設置を完了。県道沿いでもあるし、これは目立ちます。のこりの一台は移動看板にして、あちこちで使うことになりました。
合成しようと、もう一枚の写真から私を切り取ってはり付けたらちょっと小さくなってしまった。ま、いっか。


ところで、看板を運ぶときに軽トラからはみ出してしまうので、しっかりロープで固定しなければなりません。その固定の仕方(ロープの結び方)を前に師匠から教わったのですが、ぜ〜んぜん覚えられない。何度聞いても見ても、家に帰ってやるのですが、うまくいかないのです。よっぽど頭が悪いのだろうとショックでしたが、めげないで今度は写真を撮らせてもらい、家で練習したのでした。
1カ所だけ、コツをつかめばうまくいく、ソコなんですねえ。家でやっても初めはなかなかうまくいかない。何度もやっているうちに、アッというときがあるものですね。
生徒が数学の問題を解くときに、どうしても解けないある部分を克服しようと悪戦苦闘する生徒の気持ちがよ〜〜〜くわかりましたよ。知っている人にはどうということはないのです。目を閉じてもできるんですよね。
自転車の練習といっしょです。みなさんも是非やってみてください。お師匠のTさんありがとうございました。











  8月24日(月)
昨日の午前中は、軽トラバレードの参加者を募るために何カ所かのお宅を訪問して歩きました。10台のパレードだってそんなに甘いもんじゃありません。池田全体で何とか20台〜30台にしようと現在奮闘中。「おもしろそうじゃん」と思う人、是非応募してくださいね。
今朝は、軽トラパレードの宣伝チラシ(ニュース第3号)の新聞折り込みの日。予算の関係で、お店のチラシのように派手にはいきませんが、今日はチラシの少ない月曜日ですから、見る人は見てくれるのでは?少しでも関心が広がるように期待しましょう。

その途中、久しぶりに畑(古い方)に寄ったら地主のNさんが一人で秋野菜の苗を植えていました。90才を超えて足が都合が悪いといいながら、さりとて家の中で寝てばかりいると余計に悪くなるので、時々畑に来ているのだと話して笑っていました。
この方は満蒙開拓団の生き残りだと聞いていたので、畑でそのことを聞こうとしたら彼の話が止まらなくなってしまった。満蒙開拓青少年義勇軍に入れられ、開拓団とは名ばかりで結局ソ連国境の警備が本当の目的だったと話し、「騙されたんだ」といいます。
満州から引き上げるときには、幸い鉄道関係の仕事もしていたので列車に乗ることができたものの、多数の引き揚げ者はトイレもなく天井もない無蓋車で大変な思いをしたこと、その横を関東軍がちゃんとした列車で通り過ぎていったこと、その後八路軍に捕らえられたが、人道的な待遇を受けたこと。日本軍との違いの何と大きかったことか・・思い出すままに30分ほど話しが続きました。
長野県からは多数の若者が開拓団として送り出されておりその記録も残されていますが、直に話を聞く機会はほとんどないのが実情。どこかの会場でみんなの前で話してほしいと頼んでみたら、足が悪いのでとてもじゃないがそれはできないという返事。そこで、日を改めてしっかり記録できる態勢を組んでNさんの自宅で話を聞くことで快諾を得ました。近々必ず実現しますから、お楽しみに。

昨日は全国で若者たちが戦争法案反対のいっせい行動に立ち上がりました。
東京表参道駅周辺では6500人、京都では1800人、沖縄北谷町でも500人、松本の宣伝活動にも60人というように、21都道府県64カ所で集会やデモ、宣伝活動が多彩に行われたと報道されています。
沖縄での街頭行動については、琉球新報が速報を出して報道するほど。






「学者の会」の金子勝さんが、次のようにツイートしていました。

学生団体シールズが「安保法案反対」の集会とデモを行いました。夏休み中にもかかわらず、東京渋谷でも約6500人が参加。しかも全国64カ所と広がりを見せています。若者は元気です。8月30日に10万人国会包囲を実現しなければいけません。

学者・研究者、弁護士のみなさん本当に元気です。危機感が強いというだけではなく、研究に携わる者の社会的責任を果たそうという機運がこんなに深く広く共有されたことはなかったのでは?

・脱原発デモ最盛期の動員数は20万人。60年安保闘争最大時の動員数は30万人。30万人が国会を取り囲めば政治は変わる。(上野千鶴子)
・若者たちが本当に鋭い政治的センスを持っていることをSEALDsの運動が表している。僕が知る限り、外部の権威やイデオロギーに依存せずに作られた運動がこれほどのうねりを見せることは初めてです。(内田樹)
・この国には二つの法体系がある。ひとつは、日本国憲法、もう一つはアメリカとの約束だ。どちらが大切なのか、この国の政府が選択しているのはアメリカとの約束だ。問題は安倍政権を打倒したあと、どんな社会を作っていくのかだ。それを皆さんと考えていきたい。(白井聡)
・戦争の犠牲になるのは、いつも子どもと若者達です。私たちはたった一人の子どもも殺してはならない。これだけ多くの子どもが殺されてきて、まだ、正義の為の戦争などあると言えるのか。この法案が廃案になるまで、闘い続けましょう。(佐藤学)


学者の会でリーダーシップを取っている方々の若者に対する視線は温かく力強い。こんなことも過去なかったですね。願わくば、全国のすみずみでこうした連帯の行動がひろがることを。
かつて若者であった者から、現在の若者に熱い期待と応援のエールを送ります。



  8月22日(土)
8月30日の国会前行動に参加する池田町民の会のメンバーが7人に。こうなったら10人にするかと考えている次第です。活動の先端にいる人たちの中では、相当な危機感というか高揚感があるものの、これが住民全体とすれば、まだまだのんびりムード。
今朝は午前9時半からイベント会場近くの県道沿いでスタンディング・アクションを行いました。女性たちを中心に11名が参加。私は先日作成した大看板を軽トラに積んで移動式看板に。車相手の宣伝ですから、とにかく目立たなきゃダメですからね。
「何やってんの」という感じの人が大半で、手を振ってくれるというのも期待薄です。とにかく、あちこちでこうした街頭での活動が起こっているという事実が大事なので、地道に行動を重ねるしかありません。






先日共産党の小池議員が暴露した自衛隊統幕監部の作成した内部文書について、昨日安倍さんは「中谷氏の指示の範囲内で行われた。実力組織の暴走があってはならない。シビリアンコントロール(文民統制)は完遂されている」と言い放った。
何となく「フクシマについて、お案じの向きには、私から保証をいたします。状況は統御されています」と大見得を切ったアルゼンチンでのオリンピック誘致・プレゼンを思い出すのは私だけではないでしょう。
下は、この発言のあと収録された原発作業員の声。怒りを通り越して「情けない」という気持ちの方が強くでています。

A:全然っすよ。結局こわれているものに蓋をしているだけなんで。その根本のところを直してない。
B:安倍さん、10日くらい原発の中に入ったほうがいいよな、俺たちと一緒に。
C:ホントにこのようにマスクして作業してやんないと、バスでぐるぐる回ったって、結局きれいになったねということしか見てないから、そりゃね、1週間でも10日でも1ヶ月でも中入って一緒に仕事やったら”冗談じゃねえや”となるから。ホントに。
D:制御できてるんだったらいま放射線でていないはずですよね。出てるから自分たちの町の公園にも線量計が全部あるわけじゃないですか。公園という公園に全部線量計がついているわけで、完璧にコントロールできて事故前に戻ったんであれば、ニュースの時間に本日福島県の線量はなんてニュース流れるのがおかしいし・・・ヘリで来て1時間見て帰っても福島の現状は分からないし、タイメックス着て防護ヘルメット着てマスクして3日でも4日でも従業員と同じ作業しなくても現場に出てもらえれば、たぶんいまどれだけ線量が出ているのか分かると思うんですよね。
E:アンダーコントロールと言うんだったら、一緒に防護服着てマスクして入ってくれと、一緒に作業してほしいと、そうすれば本当のことが分かるんじゃないかと。


この安保関連法案が憲法違反だという圧倒的な学者研究者の声にも全く耳を傾けず、自衛隊の暴走にも「状況は完全にコントロールされている」と平然と言ってのけるのは、やはり原発と全く同じです。
コトは文民統制という憲法上の最も重要な問題に関わることであって、しかも扱っている法案が憲法違反だとすれば、一体彼らがやっていることは何重にも違憲行為ではないのか。
憲法研究者有志が昨日発表した緊急声明は、上記の点を含め、この自衛隊文書の危険性を明快に指摘しています。
「シビリアンコントロールは完遂されている」とうそぶいたその口で、防衛大臣が自分の指示したことがどう運んでいるのか3ヶ月も知らず、知ろうともしなかったことについても、たぶん「いいじゃん、そんなこと」って言うんでしょうね。
自民党がこうしたことに自浄作用を発揮できず、公明党もそれに引きずられていく現状が続き、それを日本国民として黙っているようなら、これはもう国民自身がファシズムの一翼を担うことになりかねない。コトはそれほど重大なのだと私は思います。
いま検討している法案の一部がわずかに憲法に抵触するというようなレベルの問題ではありませんし、この国の姿が、海外から注がれる目が、根本的に変えられようとしているのですから。
とはいえ、先ほども言ったように、事実が事実として知らされず、メディアもコトの重大さに強い警鐘を鳴らずわけでもないとすれば、それらに引きずられる人々は当然ながら大勢いる。
そんなとき、テレビで流されるのは「北朝の瀬戸際政策」、タイミング良くです。しかし、なぜいきなり高位級会談が持たれるに至ったのか、日本のメディアはあっけにとられているばかりなのでは? 国際情勢の動きにはまるでついて行っていないし、解説する能力もなくなっているように思えてなりません。

辛抱強く、何が起こっているのかを知らせ、ともに学び、共通の理解を広げていけばいいのです。それゆえ、私自身は決して悲観はしていません。
目の前の活動に追われることが確かに多いけれど、長い目でみれば、今日のようなレベルの低い政治をいつまでも許しておくわけがない、と私は思います。政治、経済の仕組みが戦後70年にわたって強固に作りあげられてきましたが、それがことごとくほころびはじめているし、何より安保法制に反対する国民運動が「動員」ではなく自発性のみに基づいて構築されていることがその証しです。
60年安保から以後の10年間に、学生運動や労働運動は有能な人々を多数輩出してきました。時代が人を作ったのです。いま、それとよく似た、それ以上の時代になりつつあると私には思えます。若い人たちはたたかいの中で自らを鍛え、新しい時代を作っていく。そこに希望があります。

このようなときこそ、文学や芸術や科学についての知識を深め、交流し、知的レベルを向上させなくてはならないのだとも。私自身に欠けているのは全くそのような側面です。教養の裏付けのない話題提供はそれだけのものにすぎませんから。そうはいっても付け刃で本を読んでみたところで頭に入る訳もなく、ならば・・・本を枕に寝ることにしますか。



  8月21日(金)
第3号チラシについては会のメンバーが午前中に印刷を終え、24日の新聞に折り込むことで手続き完了。
私は、同じく別のメンバーと出来上がった看板を町内のあちこちに張り出す作業にほぼ1日費やしました。
何しろ看板は縦半間、横2間のバカでかいものですので、最低3人いないとたてることができません。ただ、遠くから見ればこれでも小さいほどなんですが、字が大きいので目立つこと請け合い。
取り付けるには、まず杭を打ち込み、それにさらに棒を継ぎ足して看板をとりつけ、最後に後ろから支えるのです。1つ取り付けるのに小一時間、場所がよければ30分くらいで終わります。今日は6基据え付けて、あと2基はあとにまわすことになりました。
市民タイムスの記者が途中時間を取ってきてくれたし、信濃毎日の記者とも話すことができましたから、何らかの形で紹介してくれるのではないかと思います。
予定通り我が家の前にも設置しましたよ。すごく目立ちます。
とりつけに関わったみなさん、お疲れ様でした。こうしてみると、なかなかのできばえですね。国会開会中の命なので、少々寂しい気もしますが、法案が廃案となって嬉しく取り外せるように願うばかりです。









  8月20日(木)
妻が高校野球の大ファンなので、私もついつられて見る機会が多かった。全国的にレベルがアップしているのかどうなのか、実に見応えのある試合が多かったように思えました。今日の決勝戦も同じでした。
私自身は勤めていた高校の野球部が甲子園に出場した際に、応援の生徒を引率して神戸までバスで出かけたことがありました。そのときは1回戦で負けてすぐに引き返しましたが・・・。
高校の現場にいたときは、部活としての野球部の表と裏、光と影がいろいろ見えてきました。テレビの画面に見える野球チームからは裏・影は一切見えません。また観客は見たくもないでしょう。おそらく選手自体もそうなのではないか。
現場から離れてあまりにも長い時間が経ってしまいましたから、現在どうなっているのかわからないところもあるのですが、おそらく昔とさほど違っていないことでしょう。高校野球という確立した「制度」の中で、部活としての矛盾は隠され、ほとんど議論されることもない。本当にこれでいいのか、忘れていた問いかけがほんの少し戻ってきた決勝戦でした。

お盆をはさんだために、バラの会の作業は久しぶりです。小雨がぱらつく中、集まったのは6名。忙しいメンバーばかりなので、ちょっと人数は少なかったものの、そこは精鋭ばかり。小雨もモノともせず黙々と草取りに精をだしました。
もっとも雨が強くなったり弱くなったりで、作業は早めに切り上げ、あとは木陰で恒例のお茶会。やっぱりこれが楽しみで来ているのかな?過半数は女性たちですから、話が途切れるということがありません。
花殻摘みもしなければならないのですが、除草が大変でなかなか手がまわらない。木曜日以外に出かけることができればいいのですが、このところの多忙でそれもかなわず、一段落したらしっかり手入れをしようと心に誓って帰ってきた次第。

夕方は松本で開いている「子ども塾」に出かけました。中2の英語を見ていたのですが、私の知らないことが出てきてどぎまぎ。「専門じゃないもんで〜〜」と言い訳しなければならないのが辛かった。昔と違って口語中心なので、米英でふつうに交わしている会話がでてくるんですね。もっと勉強しなきゃと思わされたことでした。

昨日はずっとチラシとニュースの最終校正をしていて、目が相当に疲れてしまいました。全戸配布用の第3号チラシが今日の午後ようやく出来上がって、これは明日印刷。軽トラパレード呼びかけチラシ、会員向けのニュース第4号も今日印刷を終えて明日から配布・確認にかかります。

全戸配布チラシA4おもて面
全戸配布チラシA4うら面
軽トラパレード呼びかけ・申込みチラシ
会員向けニュース第4号

明日からは看板の張り出し、軽トラの組織、9月10日の呼び込みチラシの作成などまたまたジタバタしければなりません。10月下旬の沖縄行きの飛行機の予約忘れそう。



  8月18日(火)
16日の戦争法案反対池田町民の会よびかけ人会議、その後の取り組みの準備などでこの日記に向かう暇がありませんでした。現在も何種類ものチラシや書類とにらめっこしながら、あれこれじたばたしております。
昼はまた暑さが戻ってきて、我が家の緑のカーテンのゴーヤはスカスカながらまずまずの実をつけて目と腹を楽しませてくれています。トマトやキュウリは野球で言うと6回の表くらい。これから終盤にかけて実りはどうなるでしょう。


さて、これからの戦争法案反対の大きな取り組みが待っています。16日のよびかけ人会議では、今後のとりくみをめぐって活発な議論が行われ、いくつかの重要な方針を決定しました。


その第1弾は、町内での大看板(ベニヤ2枚分)の設置。現在作成中なので、まだここでは紹介できませんが、あと数日で町内8カ所に設置を終える予定です。
続いて第2弾は9月5日(土)の軽トラパレード。すでに栄村で大がかりなデモを行って話題になっているので、オリジナルの取り組みではありませんが、栄村に学んでいいところはどんどん取り入れようというわけです。池田町らしいパレードにしようと現在参加者を募集しているところです。16日には中川村で村長を先頭に「村民のつどい」と120人のパレードが行われました。阿智村でも、「戦争法案送り火集会ーサヨナラ戦争法案」ー長野県内でもあちこちで、いろんな取り組みが精力的に取り組まれています。連帯して活動を広げたいものですね。
バナーは下のとおりです。要項・申込み書は現在作成中。使用したかったネコの画像が先方の事情で使うことが許可されず、とりあえずの画像でつくった要項をリンクしてあります。


続いて第3弾は全戸配布チラシ。新聞折り込み第3号になります。これも現在作成中で、まだ原稿段階。難産です。
第4弾は、9月10日予定の町民集会。それまでに参議院段階で審議がどうなるのか、情勢は流動的です。
なお、8月30日の国会行動には、私と妻、それに町民の会から何人か参加する予定です。

東京新聞の社員たちが作っているツイッターを見ると、報道部や編集部でいかに市民の声を紙面に届けるのか苦心したり格闘したりしている雰囲気が伝わってきます。
17日の夕刊では、山田洋次監督へのインタビューを載せ、ツイッターでは政治部が「山田洋次監督が、安保法案について口を開きました。『戦わないのが、この国のあり方』 山田洋次監督、安保法案を批判」と書いていました。
おもしろいのは、これに対して「あなたの考えは中国の侵略があっても降伏するということですね?それを言わないのは卑怯者だぞ」という見当違いの書き込みが結構見られること。
インタビュー記事があまりに短いために、山田監督の真意がしっかり伝わっていないのではないかと思うのですが、私自身は『戦わない』=非暴力は抵抗の極めて大きな1つだと信じています。非暴力は決して相手に屈服し隷従することではありません。
かつて何回かに分けて紹介したことのある第2次大戦下のデンマークでの市民の抵抗は、まずデンマーク軍隊がナチスドイツに対して抵抗しなかったことから始まったのでした。
仮に中国が日本を侵略して中国自身が無傷でいられると、そう言いふらす諸氏は思っているのかどうか。また、中国が仮に他国を侵略して支配を維持することができると思い込んでいるのかどうか。もしそうだとすればあまりに馬鹿げた妄想としか言いようがありません。
尖閣のことを言っているのだと言うなら、海保などの警察権の発動をきっちりできるようにしておくことが先でしょう。沖縄辺野古で住民弾圧に明け暮れる海保はその力を注ぐ先を間違っています。山田監督を批判する筆者にはこうした現実は思いも及ばないに違いありません。

自衛隊が違憲の軍事力であるというのは、憲法学者の大半の一致した認識です。政府が合憲だと言っているに過ぎない。対米従属下でいかに自衛隊が米軍を補強しその補完部隊として増強されてきたのかその歴史を無視して、自前の軍事力だと言うならあまりに歴史を無視した議論でしょう。
現在の安保法案=戦争法案の本質はここに根ざしているのです。政府自民党・財界は、さらに米軍に追従しつつ、一方でプチ米国として世界に経済的に進出する際の裏付け(武力)がほしい、他国に武器を輸出し大儲けしたいという衝動に駆られているのですから、単に海外で戦争できる国にしたいわけではありません。
さて、ひるがえって日本はアメリカとの関係では、日米地位協定によって全く不平等な立場に甘んじているのですが、先に紹介した山田監督を批判する方々はこの点もまた考慮の外ではないですか。
他国の軍隊を国内に治外法権的に置いて、そこで起こっているさまざまな被害にもまともに向き合えないでいるというミジメで情けない現状を批判できないで、どうして他国からの侵略に有効にたたかえるのでしょうか。

もっぱら俗受けする議論に依拠して、安倍政権の批判に対して「批判」を投げかける人たちの存在は、ネットが匿名性をその本質の1つとしている以上決してなくなりはしません。政権に抗して何かを訴えようとすれば必ずリアクションを覚悟しなければなりません。
実は、私は自らのホームページにちゃんと返信用のメールアドレスをつけて、いつでも声が反映できるようにしているのですが、読まれていないのが原因なのか、この「メール」から返信または批判、または声をもらったことはこの10年で2,3通しかないのです。
メールを書けば、当然アドレスから個人が特定できますから、下手なことを書けば書いた人に傷がつくでしょう。またネットで公開されてしまいますから、そう簡単には批判できない。
同時に、批判したことが外にはわかりません。だから当人にとっては少しも面白みがないということになります。
ところが、個人をほとんど特定できない場合は、何を書こうがお構いなしですからね。当面はあまり目くじら立てる必要もなく、冷静に彼らの「ねらい」を見定めていくことが大事なのではないでしょうか。



  8月15日(土)
首相の戦後70年談話を聞き、読み、「この首相にしてこの談話」としか言いようがない。
彼の好きそうな単語や言い回しが沢山あふれています。だが、結局「この内閣としてどうなのか」と突っ込まれれば全くあやしい。肝心の侵略戦争に対する認識と謝罪については、主語はすべて「私たちは」です。「私は」に対する主語は「哀悼の誠をささげます」、「断腸の念を禁じ得ません」ぐらいしかないわけで、ほとんどすべて「一般に私たちは・・・」なのです。
中国や韓国から注目されていたあの戦争がアジア諸国に対する「侵略戦争」であったという戦後世界秩序の根幹にかかわる認識について、あくまで一般論として述べるにとどまり、読みようによっては「侵略」かどうかは歴史家に待つという例の言い方にもつながる。また朝鮮併合など日本の植民地政策については何も語られていないのも彼らしい。
アメリカの核の抑止力に依存し、日米軍事一体化の道筋を描く安倍首相にとって、このように述べておきさえすれば、時と場合によっていろいろに使い分けることができるということなのでしょうか。

この日がくるといつも思われるのは、70年前の今日、私は母の胎内でたぶん5ヶ月ぐらいだったこと。父は母と会った直後に空母に乗って呉軍港から出撃していたのですから、帰って来る確率は極めて低い。「この子だけはという思いしかなかった」と母は口癖のように語っていました。
幸い復員できた父の口からは、戦争のことはついに聞くことはできませんでした。おそらく撃沈されていく僚船の報を船底の通信でいち早く知ることができた父にとって、恐怖と隣り合わせの日々ではなかったのではないでしょうか。いや、ひょっとして通信のやりとり、傍受などで追いまくられて、もはや恐怖すら感じられなかったのかもしれません。
私の人生は、疎開先でそのようにして始まり戦後70年とピタリと重なっています。父母によって生かされた命を決して粗末にしてはならない・・・年を経る毎にそう思うようになってきました。その思いはあの沖縄の激戦をかろうじて生き延びることができた妻にとっても同様でしょう。まさに「命どぅ宝」なのです。
私たちふたりとも、ある意味でかろうじて生かされた命ですから、あとは短いけれど「戦争」につながるあらゆる企てに抗いつづけていきたい。ただ抗うだけではなく、平和な人間社会のあり方を模索し作り上げる努力を重ねたい。70年目の今日の思いです。

敗戦記念日の今日、テレビでは様々な番組を放送しています。あの戦争がいかに非人間的なものであったかを掘り下げて放送している意欲的なものが多いと思う反面、やはり加害の側面についての考察・検証は全くといっていいほどありません。
中国大陸で、朝鮮半島でいったい日本軍と日本人は何をしたのか。アジア各地での戦争の実態はどうだったのか、現地の方々はどのように証言しているのか、どのように語り継がれているのか、これこそ戦後70年にあたっての最も重要な観点ではなかったのか。意欲的な作品が製作されることを強く願います。



  8月14日(金)
いよいよというべきか、ようやくというべきか、昨日13日、右翼系人士が「総結集」して「平和安全法制」の早期成立を求めるフォーラムが結成されました。
報道(朝日毎日NHKサンケイ)によれば櫻井よしこ氏ら30人のよびかけで318人が賛同しているといいます。
記者会見、質疑応答などの写真、動画などをすべて見ることができるのはこちらのサイト

全てを視聴しているわけではありませんが、少なくとも桜井氏の冒頭発言と決議、何人かの発言、質疑応答の一部を見た限りで感じるのは、右派勢力の「危機感」と「焦り」です。
主張されていることの中に目新しいことは何もなく、これまで安倍政権によって示されていること以上のものではありません。それを如何に肉付けるかが中心で、今後の行動提起もあるわけでもないので、特別にここで取り上げるほどのことでもないようにも思えます。
しかし、彼らが主張していることは、決して国民の意識からそれほど遊離しているわけではありません。むしろ国民のなかにある不安や見透しのなさに依拠しているのです。
それゆえ法案の必要性に言及する際には、ほとんど情勢の急変化すなわち「中国の急激な軍拡」膨張政策」を強調することになります。
ただ、右派勢力も群れをなしてこのように行動に打って出てきたわけですから、こちらもそれなりの覚悟で対応すべきです。たとえ小数の右派グループだとして切り捨てたり、無視したりすることなく、問題点をきっちりとらえて反論する努力を怠ってはならないと思うのです。

今日はフォーラムで採択された決議を見ておきましょう。その題名は「国会に対し、わが国の安全保障を見据えた審議と、平和安全法制の早期成立を要望する」です。
決議では、まず「最も重要なのはわが国周辺の安全保障環境の変化に着目し、現実的な審議をすること」だと強調します。法案はこのためのものであり、@合憲性、A国際環境の激変の2点をあげて、「日米安保条約を緊密にし抑止力を高める」べきだと主張するのです。
限定的集団的自衛権の合憲性の根拠は、まず国連憲章51条の規定がすべての加盟国の権利であることに求められること、政府の新3要件にもとづく集団的自衛権の限定的行使は憲法の規定にも合致し許容範囲であること。「砂川事件最高裁判決の法理に照らしても、まったく問題はない」というものです。
第2の国際環境の激変については、決議の中でも1/3ほども占める力の入れようで、すべて中国の軍拡と膨張政策に言及しています。注目すべきは、オバマ政権が「内向き志向を強め、軍事費の大幅削減を行っている」とのべて、それゆえに日本独自の「平和安全法制の整備こそ急がれる」と指摘。アメリカと一体化しつつも、独自の軍備をいかに強化するのかという問題意識が強烈に打ち出されています。
それゆえ、「平和安全法案は戦争を抑止するためであり『戦争法案』ではない」とし、戦争法案だとか徴兵制につながるなどと危機を煽るのは無責任だと批判して、「一刻も早く平和安全法制を確立することを強く要望する」と結んでいます。
中国の脅威に対抗するには、従来の「個別的自衛権」だけでは対応しきれないし、フルサイズの集団的自衛権のための憲法改正には時間がかかりすぎる、それでは間に合わないと彼らは口々に主張しています。

さて、では本当にそうなのか。一見して明らかなように、これらはすでに政府によって繰り返し主張されていることばかりであって、ことごとく論破済みのことばかりです。
中国の問題では、第1に南シナ海では関係諸国とりわけASEANが軍事的対決ではなく「紛争の平和的解決」をめざす「行動宣言」を拘束力のある「行動規範」にたかめる努力が続けられており、軍事によらない外交努力で地域の平和の枠組みを構築しようとする世界の動向については全く考慮の外です。これは驚くべき情勢認識ではないでしょうか。
また、尖閣問題でも、今にも軍事的な紛争が生じるような言い方をしていますが、実際には中国は軍を動かしているわけでありません。中国に対して尖閣諸島の帰属をめぐる歴史的経緯を主張し外交的な解決の努力を怠ったままで、軍事的な対決だけを推し進めていけば、その結果は明らかでしょう。
また冷戦期とは異なって、経済的には相互依存の関係が強固に作り上げられており、軍事的な衝突が中国にとっても日本にとっても、さらにはアメリカにとっても破滅的な結果しかもたらさない事実もまた無視されています。
このフォーラムでは参加者から国会前で抗議行動を行う青年たちについて「もう少し勉強した方がいい。未熟な人たちだ」(田久保忠衛杏林大名誉教授)という意見がでたり、「国際情勢に疎い人たちがひく〜い次元で話をしているのではないか」などという意見も聞かれました。さて、本当に国際情勢の本質的な動きに疎かったり、低い次元で話をしているのはどちらの方なのか。

彼らが唱える集団的自衛権合憲論も、国会での参考人質疑などで明快に論破され尽くしています。ところが、この決議や桜井氏の冒頭発言を見ると、同じことのくりかえし。

<もともと自衛権には個別的・集団的の2つの自衛権があり、ともにあらゆる国の固有の権利である。日本にもそれは適用されている。しかし憲法第9条2項の制約により歴代政権によって自制的に解釈されてきた。今日の国際環境からみて、新3要件のもとでは限定的集団的自衛権の行使は憲法の許容範囲にある>

つまるところ、このような論理構成です。
国連憲章はまず第7章で「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」を定めています。国連安保理事会が「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定」(39条)した場合には、暫定措置の要請(40条)、非軍事的方法(41条)、軍事的方法(42条)をとりうることを定め、43条ではどのように兵力などを利用できるようにするか(安保理と加盟国間の特別協定の締結など)について記載しています。
注目したいのはこの際に「この協定(特別協定)は、安全保障理事会と加盟国との間又は安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、且つ、署名国によって各自の憲法上の手続に従って批准されなければならない」としていることです。つまり、国連憲章は、加盟国による憲章の誠実な遵守を求めつつ、軍事行動などについては各国の憲法上の制約を超えるものとしては規定していないことです。
たしかに、51条では「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」としています。その場合でも、上記の規定からわかるように、あくまで各国の憲法上の規定に縛られるのであって、「日本国憲法は国連憲章違反」という図式が機械的に成立するなどというのは為にする議論です。まして、これを改憲の突破口にしようなどという試みは歴史に目を閉ざす行為といえるでしょう(ここでは国連憲章に「集団的自衛権」の文言が何故入れられたかについては触れません)。

最後にあと一言添えるなら、彼らは日米同盟(=日米安保条約、日米地域協定による軍事体制)のもとでいかにアメリカ隷従の体制が出来上がっているかについては全く触れようとしません。従って、辺野古新基地建設に反対できるわけもなく、屈辱的な地位協定についても文句の1つも言えないという面を見ておく必要があるでしょう。沖縄県民の目からは彼らの主張は笑止千万、売国的な主張に他なりません。

私たちのなすべきことは、あらためて憲法第9条が定められた経緯、その意味、果たしてきた現実的な役割などをきっちりととらえ直し、むしろこの方向にこそが国際的に目指すべき方向なのであり、平和への「現実的な道」であることに確信を持つことです。
改憲論の行き着く先は、果てしない軍拡と排外主義、「平和」に名を借りた戦争準備の道です。フォーラムの論理を突き詰めれば、そうならざるを得ません。
砂川判決を持ち出すところなどは、再三にわたって論破されているので割愛。



  8月13日(木)
昨夜遅くにまとまった雨が降り、今日もどんより曇って今にも雨が降り出しそうです。

飼い猫のハルちゃんのケガの状態は、あれから一進一退で、結局今日も動物病院に行ってきました。
右目の上をかまれて穴が開き、その周りが化膿して大きく腫れ怪談の「お岩さん」状態に。化膿が進行していたときには痛さと熱感で食欲もなくじっと引きこもっていたようですが、ようやく化膿の進行が止まり、昨夜は押さえると膿がでてきたので、峠を越えたように思えました。割と元気も戻ってきた様子でしたから。
獣医さんが膿を絞り出すと、出るわ出るわ。それでもハルちゃん我慢していました。その後傷口に薬をつけ抗生剤を打ってもらって治療終了。家に戻る頃にはようやくほぼ元の顔にもどってきました。あとは時間が解決してくれることでしょう。
しばらく暑さが続いて畑に行っていなかったので、精を出して除草、次の植え付けの準備などをしないといけません。

夕方から妻とともにしばらく畑に行って草刈りをしました。
「落花生の殻を捨てた?」と妻が聞くので、何のことかといぶかしく思っていたら、至る所に落花生の殻が散らばっている。どうやらタヌキかハクビシンか、あるいはカラスかがまだ熟してもいない落花生の実を掘り起こして食い散らかしてあったのでした。妻は「被害甚大、動物被害にあった農家の悩みがわかるわ」と深刻な顔をして片付けていました。
少しでも収穫したいので、私は家にあった鳥よけの網を取ってきて、一面に覆っておきました。網が粗いのと細いのであまり効果があるとは思われません。気休めにしかならないかも。くそ!!

今日は池田町の花火大会。さいわい雨も落ちなかったのでラッキーでした。私は、花火の音を聞きながら、16日に行う「戦争法案反対池田町民の会」呼びかけ人会議に提案するチラシの原稿作り。
いくつかの重要な取り組みを前面に押し出したチラシにしたいのですが、なにぶん予算に制限があるのと、作者の力量不足でなかなかはかどりません。当日までには何とかなるでしょう。
参議院段階は、たとえ政府にどんな問題がでてこようが、「ロボット的答弁」で時間稼ぎをして、時間がきたら強行採決というスケジュールであるのは容易に推測できます。問題は、そうはさせない世論を作ることができるかどうか。
安曇野の片隅のとりくみでも、インパクトのあるものをと思案を巡らせているところです。明日には報道関係にも連絡をとり、少しでも町民のみなさんの注目をあつめ、法案反対の世論作りに貢献できるようにしたいと考えているところ。中身を紹介できないのがちょっと残念ですが、あと少しです。

さて、昨日の「ブラックホーク・ダウン」の続き。今日の報道ステーションでは、このヘリに乗っていた部隊は米軍特殊部隊「デルタフォース」ではないか疑われるし、さらに着艦失敗というのも違うのではないかと伝えていました。自衛官が研修名目で乗っていたとされていますが、特殊部隊との合同訓練がどのようの局面で必要になるのか考えると、すでに戦争法案が通ったことを想定しての訓練と考えざるを得ません。
この事故を追及していけば、いろんな日米軍事一体化の黒い部分が見えてくるのでは?奇しくも今日は沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落炎上事故を起こしてから11年。沖縄国際大学での集会は憤りの集会になったと現地新聞は伝えていました。
さらに、今日のニュースで、キャンプシュワブで米軍射撃演習を引き金とする山火事が発生し現在延焼中とのこと。ヤンバルの資源をさんざん荒らして人殺しの訓練ですから何重にも抗議しなければなりません。



  8月12日(水)
御巣鷹山での日本航空機123便墜落事故から30年の今日、沖縄キャンプシュワブ沖の海上で米軍ヘリUH60墜落のニュース(沖縄タイムス号外琉球新報号外)。
今のところ、県民への被害はないものの、米軍機の事故と隣り合わせの沖縄では、国際大学への墜落事故を想起させて、不安と怒りが渦巻いているのではないでしょうか。
今回はオスプレイではなかったようですが、事故率からすればいつオスプレイが事故を起こしてもおかしくない。
同時にこのUH60ヘリは別名「ブラックホーク」と呼ばれ、Wikiによると「完全武装の歩兵1個分隊約11名の搭乗が可能」「特殊作戦、戦術輸送、電子戦、医療搬、戦傷救難活動、避難救助など多目的な用途に使用することが可能」とあります。

【補足】この記事を書いた後の報道では、着艦に失敗したこの米軍ヘリの機種は「MH60」型であるとされています。上記Wikipediaでは、UH-60の改良型で特殊作戦支援用のヘリとなっていました。別名はUH-60と同じブラックホークです。なお、このMH-60は沖縄東村高江でまだ供用されていないヘリパッドに着陸していることが報道された機種です(琉球新報)。

映画「ブラックホークダウン」では、このタイプのヘリの強襲型が登場し、史実に基づいてソマリアでの紛争に介入した米軍特殊部隊の失敗とその後を描いています。
要はこのタイプのヘリは特殊作戦など殴り込みの実戦ヘリであり、米軍はつねに激しい訓練を行って、いつどこへでも飛び立てるようにしているのです。
民間ヘリが事故を起こして墜落したというレベルではありえず、もし沖縄の市街地に落ちれば、大変な被害をもたらすことは明らかです。アメリカの戦争のためのこんなヘリ部隊はオスプレイとともに沖縄から撤退してもらうべきです。

川内原発が再始動し始めました。共同通信の世論調査で再稼働反対が56.7%(賛成34.4%)、鹿児島県内での調査で反対59。5%(賛成36.8%)を押し切ってです。
この再稼働について、政府の言い分は、
@原子力規制委の新規制基準に適合すると認められた場合は再稼働を進めると閣議決定している、
A(適合すれば)実際に再稼働を行うのは事業者だから、事業者が判断をする、

というもの。
当の原子力規制委員会の委員長は、
「今回の適合審査に合格しているということは、あのようなことは”ほぼ”起こらないレベルの安全確保ができている」(今年3月の記者会見
とのべる一方で、「あくまでも科学的に中立的な立場で淡々とやる」と述べています。
規制委員会はその新基準を自分でつくって、自分で審査するわけですから、「世界一厳しい基準」だと言ってみたところで誰も信じない。
そもそも、新規制基準には、
「新規制基準は原子力施設の設置や運転等の可否を判断するためのものです。しかし、これを満たすことによって絶対的な安全性が確保できるわけではありません 」
と書かれているのです。
これをうけて、田中委員長自身が「単に基準に適合しているのかどうかを審査しただけで、それ以上でも以下でもない。絶対に事故がおこらないことを保証しているわけではない」と責任は自分にはないと煙幕を張る始末。次に政府は「実際に再稼働を行うのは事業者だから、再稼働するかどうかは事業者が決める」と逃げを打ち、九州電力はユーザーからの質問に答えて、
「新規制基準に適合し、安全性を更に向上させた発電所とするため、審査に丁寧かつ真摯に対応」
「当社としましては、電力安定供給のためにも、一日も早く再稼働すべきと考えており、『福島のような事故は絶対に起こさない』という固い決意のもと、安全対策の実施や住民の皆さまへのご説明など、事業者としてできることを最大限おこなっていきます」

とのべて、あくまで新規制基準に適合したから再稼働したとしているのです。
明らかに責任のぐるぐる回り。たらい回し。さてそうすると、再稼働後にもし重大事故を起こした場合、誰がどのように責任をとるのでしょうか。昨夜のニュース10で問題にされたように、結局どこも責任をとらない無責任体制はこれまでと全く変わっていないということになります。

川内原発の問題は多くの専門家によって次のように指摘されています。
@規制基準は世界最高水準どころか、世界標準にも達していない。
国際標準では原発の安全確保には最低でも「5層の防護=『異常の発生防止』『異常の拡大防止』『影響緩和』『過酷事故対策』『防災対策』」(国際原子力機関)が必要とされているが、避難計画は審査の対象には入っていません。
避難計画がどれほど不十分かはテレビ番組などで放送されているとおりで、医療・介護施設などをふくめたまともな住民避難計画(つまり第5の『防災対策』)は作成されていないのです。
A周辺の火山噴火についての評価が非科学的で、しかも噴火の規模を過小評価している。
後半について九州電力は。予想される噴火は破局的噴火より規模が小さく降灰も最大15センチ程度を予想「安全機能は損なわれない」と評価、前半については「モニタリングを行うことで,少なくとも数十年以上前に(破局的噴火の)兆候を検知できると考えている」(火山学者緊急アンケート)とのべ、火山学者の強い批判を受けていることはすでに周知の事実です。火山影響審査には火山学者は招聘されていません(火山影響評価ガイドをつくる段階で一度だけ招聘)。これでも世界最高水準と言うのでしょうか。
B規制委員会の審査そのものに学者から数多くの疑問が提出されている。
たとえば井野博満東大名誉教授(金属材料学)は、九電が炉心溶融が避けられないとなれば格納容器に水を張って溶融燃料を受け止めるとしているが、水蒸気爆発や水素爆発の危険がある。元の設計をそのままに付け足しの対策で済ますのは危険と指摘しています。
C九電の過酷事故対策はさきに再稼働ありきの姿勢が顕著で、住民の声を無視している。
昨年11月以降、鹿児島・熊本・宮崎の3県10市町の議会が「再稼働にあたって九電に公開の住民説明会を求める」決議や陳情を採択しているにもかかわらず、九電はそうした決議を無視したまま、住民説明会を一度も開かずに再稼働に突っ走ってしまいました(東京新聞)。

先に述べた責任の所在といい、核のゴミ処理の問題といい、上記の先に再稼働ありきの住民無視・安全無視の突っ走りといい、結局私たちは「原発マフィアの言うがままにその利益のために国民の命を差し出す」という冷酷・非情・非人間的な政治の姿を突き付けられているのです。あきらめずに闘うしか道はありません。



  8月11日(火)
いやはや国会が大変なことになっております。今日の参議院安保法制特別委員会でのこと、小池晃共産党議員の質問で国会審議が止まってしまった。小池議員が、防衛大臣に次のように迫ったからです。

日米ガイドライン決定後、国会の安保法制の審議が始まる前の5月に、自衛隊・統合幕僚幹部が法案通過を前提とした今後の計画を策定した文書がある。
その文書には、8月に法案成立、1月に法制懇、年明け2月から新法制に基づき、南スーダンで運用とする日程表まで書いてある!こんな検討が許されるのか!


国会答弁(参議院インターネット議会中継、11日、安保特別委をクリック、小池議員の質問は2:19:20)を聞いていると、中谷防衛大臣はもうモタモタ。結局委員長は「休憩」を告げざるをえなくなったというわけです。その後に質問を予定していた山本太郎議員がとばっちりを受けちゃった。こちらは東京新聞の記事。BLOGOSNHKも。

このことについて、共産党辰巳孝太郎議員がツイッターで簡単にその経緯を説明しています。

小池晃さんまたも自衛隊内部文書で追及。
統幕が法案が通過もしていない段階で法案可決を前提とした「今後の方向性」を検討したことが明らかに。
大臣が文書の存在を「知ってた」と言っても大問題だし、「知らない」と言ってもシビリアンコントロールが問題に。
答弁不能で今日は散会!


さらに、学者の会のホームページでもこのことが紹介され、内田樹さんが次のようにツイート。

参院での小池議員と中谷防衛相のやりとり。2:34:15くらいからクライマックスです。防衛相は「提示された文書の真贋を判定できない」と。もし「そんな文書の存在を知らなかった」と言ってしまうと文民統制が機能していないことになります。
「実は知っていました」いうと「じゃあ、なんで真贋を判定できないという嘘を国会で言ったのか」と責められる。法案審議に先立って法案可決を前提に自衛隊の部隊配置を決定していたことを認めると「国権の最高機関」での議論はただの儀礼だと内閣が思っていたことがばれてしまう。防衛相苦しい。


国会中継(録画)を見ていると、小池議員、自衛隊統幕のこの計画について「戦前の軍部の独走と同じだ。これ以上議論できない」と厳しく追及していましたが、全くその通り!!  いかに自衛隊が米軍との共同行動に前のめりになっているかを示すものに他なりません。この一事を見ても、自衛隊幹部は国民の知らない間にどんどん戦争準備をすすめていること、すなわちシビリアンコントロールなど存在しなかったことが明らかになったわけで、その戦慄すべき実態が国民の前に暴露されました。こんなふざけた政府・防衛省・自衛隊統幕をそのまま放置していいのですか。これだけでも内閣総辞職ものです。
この事実は極めて重大、国民の前にどんどん拡散し、安倍内閣をとことん追い込まなければいけませんね。

ところで、次の声明をご存じだろうか。

声明

平和は自由な対話、すなわち人権の尊重からはじまります。
大学正門に掲げられた「創價大學」の文字は、教育と人権の勝利を信じつつ対話を貫き通し、軍部権力の弾圧により獄死した「創価教育の父」牧口常三郎先生の筆によるものです。いかなる圧迫にも屈せず、民衆のために声をあげること。これこそが創価教育の魂だと私たちは信じます。
現在、9割の憲法学者が「違憲」と判断している安全保障関連法案が、安倍政権により採決されようしています。私たちはガンジー、キングの人権闘争の流れに連なる創立者・池田大作先生の人間主義思想を社会に実現すべく学び続けてきました。そこで培った人権意識を持つ者なら、声を上げるべき時は、今です。
私たち関係者有志は、創立者・池田大作先生の理念を我が人生の根幹に据え、安全保障関連法案への「反対」を表明します。
「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」(創立者・池田大作)
この言葉を深く心に刻み、「人類の平和を守るフォートレスたれ」との建学の精神を生涯堅持することを、ここに誓います。


発表の主は「安全保障関連法案に反対する創価大学・創価女子短期大学有志の会」。11人の呼びかけ人と賛同署名が載せられています。

先の内田先生のツイッターでは、「創価大学教員が実名を公開して安保法制に反対したということは、学会内ではすでに安保法制反対の声が『掬(きく)すべき知見』として公式に承認されるようになったということでしょう」とありました。

今日から反対署名活動に入るということですし、ニュースサイト、ツイッター、FB、ブログなどですでにどんどん拡散しまくっていますから、大きな話題を呼ぶことになるでしょう。そして、ついに公明党にも影響は必ず及ぶはず。さて、公明党さん、どうする?



  8月10日(月)
あかりちゃんパロディ第2弾出ました。まず、見てからですね。


ヒゲの隊長、同じことしか言わないものだから、一家に一台の受信用ヒゲロボになってしまった。掃除機のようなロボットならまだましですが、こんなロボットはどこだって要りませんよね。しかし、あかりちゃん、辛抱強く論破し続けているのがいじらしい。
本当にこの電車どこにいくのでしょうね。

池田町のような小さな町でどのように戦争法案はんたいの世論を盛り上げていくのか。これがもっぱらの私の関心事。いま「町民の会」のメンバーと「少しド派手なくらいの目に見える取り組みを」と準備していることがあります。まだ正式の会議できちんと議論し決定しているわけではありませんので、ここでお知らせすることはできません。いずれ新聞にも取り上げてもらえるような活動になるようあちこち駆け回って準備しており、16日の「呼びかけ人会議」で方針を練り上げる予定です。お楽しみに。

麻生さんが「自分の気持ちは法案が通ってから言ってくれ」と言い、高村さんが「頼むからオウンゴールはやめてくれ」と悲鳴をあげるほどの、自民党内のひどい状態。だれがそんな議員を公認し当選させたのでしょうか。自業自得というものです。
そう言っているご本人たちも、結構ひどいことを言ってきたわけですから、若い議員たちはそのお手本を参考に発言しているわけで、私に言わせればどっちもどっち。同じ程度にレベルが低い。

話は変わりますが、朝日新聞(Web版)に、同社写真部員だった(故)宮武甫(はじめ)氏が原爆投下4日後(8/10)に撮った広島の360度パノラマ写真(11枚の写真を合成)がアップされていました。荒涼たる焼け野原にところどころ見える人影を見ると息を呑んでしまいます。この方々の目にどのような光景が映し出され、何を思ったのか。肉親を探す人たちなのだろうか、遺品を求めて歩く人たちなのか。その後の運命はどうだったのか。ゆっくり回っていく画像には放射能はありません。しかし、4日後の広島は高い放射能で汚染されていたはず。爆心地から少し離れたところでは焼け焦げた遺体も無数に横たわっていたはず。
今日のNHKのドラマ「一番電車が走った」は、想像力に具体的なイメージを与えてくれる秀作でした。パノラマ写真に音や臭いその他目に見えないものを想像力で付け加えるのは私たちの仕事ではないのか。そんなことを思いながらドラマを見ておりました。



  8月8日(土)
昼近くになるとまた暑くなりそうな予感。沖縄から帰った日は夜になっても暑さは変わらなかったのに、最近は夜は比較的すずしくようやく長野の夏になってきたという感じがします。
夏野菜も、トマト・キュウリを中心によく実って、毎日食卓を賑わせてくれています。
ただ、ゴーヤだけは昨年から見ると貧相で、肥料をやったりツルを誘引したりして手入れをしているところ。今朝も受粉をしようとしたら、おやおや大変な先客がツルに巻き付いておりました。たぶん、アオガエルを狙って上ってきたのかと思われる細いヘビ。あとから調べたら、側面の赤と黒の斑点から見ておそらく「ヤマカガシ」、毒蛇です。追い払ったら家の縁側の下に逃げ込んでしまった。
先日は2メートルほどのアオダイショウが前の用水の水門にひっかかって溺れていたし、今日はヤマカガシ。マムシにだけは出てきてほしくないなあ。


ところで、昨夜遅く、飼い猫のハルが外から帰ってきたと思ったら、いつもと様子が違ってショボショボと歩いてどこか部屋の隅っこに行ってしまった。おかしいと思ってあとから見に行くと、頭から血を流してうずくまっているではありませんか。しかも体中に草の実をつけて汚い。
幸い大したケガではないようなので、消毒をして薬をつけておきました。どこかでケンカをして負けてショックだったのか、すぐ天井裏に上がっていって、それ以来今朝になってもずっと姿を見せません。よほどこっぴどくやられたのでしょうか。様子を見るしかありませんね。いろんなことが起こります。

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友人宅で安保法制反対の活動をどうすすめるか話をしていたら、その友人が読売新聞を見せてくれた。それには、中曽根元首相が「先の戦争は対アジア侵略戦争であった」とする寄稿文を寄せ、社説でも「首相も『侵略』を明確に認めよ、過去への反省と謝罪が欠かせない」と書かれているではありませんか。
ただし、同紙は直前の社説で、現在審議中の戦争法案について、中国・北朝鮮の脅威から日本を守るには集団的自衛権は必要だとの見解を示しており、過去の戦争への言及と今後の安保法制の立場とでは完全に使い分けをしているわけで、「股裂き状態」になっています。
歴史認識については「日本会議」などの立場とは一線を画したことは評価できる面がありますが、ただ、歴史認識まで安倍首相と同じになってしまえば、もはや読者から見放されてしまうという危機感が働いたともいえます。今後の展開が注目されますね。

今も国会前では連日のように抗議・要請行動が続けられています。賛同署名が13000人を超えた「学者の会」の関連ツイッターでは、内田樹さんが「パリではSEALDs Paris とBerlinの立ち上げをめざす若者たちと会いましたが、今日はSEALDs Californiaを計画中の方からメールを頂きました。安保法制反対の声は世界に拡がっておりますね。ご自分一人からでも始めてください。まず隗より始めよです」と書いていました。
また、7月20日の「学者の会」150人の記者会見の模様を高知新聞が一面トップで扱ったことを知らせていました。


ネット上では、ツイッターやフェイスブックで次々と情報が発信されて、運動の広がりに貢献しています。画像のみいくつか紹介しておきましょう。
次は、先日の高校生たちT-ns Sowlの街頭行動の模様。次は坂本龍一さんが「学者と学生の共同行動」に寄せたメッセージ。




続いては、学生のグループSEALDsが国会包囲行動を呼びかけるチラシ。30万分の1とは、かつて安保闘争で30万人が国会を包囲した歴史に学んでそれを超える盛り上がりをつくろうという思いを込めたキャッチ。30万人以上で国会を包囲しようという意味です。
その下は、日刊ゲンダイが8月30日に予定される大集会を報じた記事。最後の「安倍周辺は、何とか4〜5万人に押さえたいらしいが、こうなったら10万人ではなく、30万人で国会を包囲するしかない」というのがおもしろい。










  8月7日(金)
例の武藤議員の考え方を端的に示す書き込みが「抹消したはずだった『日本精神』」「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」です。
この「若さ」で、戦前の亡霊かと見紛うばかりのこの考え方はいったいどのように形成されたのか、そっちの方に私は興味を持ちますね。あまりにも時代がかっている。
彼は3.11について独特の見方を披露しています。ざっと以下の通り。
<アメリカは「日本国憲法」を日本に与えることで「滅私奉公」などの「日本精神」を消したはずであった。しかし、アメリカ人の日本観は3.11での整然とした「滅私奉公的」日本人を見て変わった。「日本人の『公』を大切にする精神、まさに『滅私奉公』の精神が危機に直面し蘇ったのである」
さしずめ、3.11直後、被災地支援活動に奔走した私たち「池田町民ネット」のメンバーはこの「日本的精神」を最大限に発揮した見本ですかね。人々の助け合う姿は阪神淡路大震災のときだって同じでしたよ。
こんな記事を見ていると馬鹿馬鹿しくて相手にもならない。いったい彼はそのとき何をしたというのでしょうか。まずご自身の滅私奉公ぶりを見せてから書いてほしい。
私はこの憲法のもとで育ち、平和な日本の主人公として成長したと思っています。被災地支援も、そうした土壌を背景に人間として当たり前のこととしてやったにすぎない。全国から駆けつけた人たちも同じ気持ちだったでしょう。ところが彼は次のように言うのです。

アメリカが日本に押し付けた「日本国憲法の精神」は「個人の尊厳」、つまり換言すれば「あなたはあなたの命だけを大切にしなさい。他人の命なんて関係ない。まして地域や国なんてどうだっていい」という精神であった。

日本国憲法のどこをどのように読めばそのような解釈が出てくるのか。それとも、憲法には書いてないが、アメリカの意図はそうであったということなのか。いずれにしても勝手にそう思い込んでいるに過ぎない。どこからこんな考えを「学んだ」のか知りませんが、あまりにひどいと思いません?
次のように書くにいたっては唖然とするだけ。

「日本国憲法の根本原理「基本的人権の尊重」に込められた「個人の尊厳」によって「滅私奉公」の精神構造を破壊しようと試みたのである。・・
むしろ私はこの三つ(日本国憲法の3大原則)とも日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている。


人権の国際的な到達点も理解できず、「滅私奉公」の歴史的意味も知らず、勝手なことを言い散らかす。これって、自己中心的っていうんじゃないのかなあ。
おもしろいのは、「冷静に考えれば、これでは到底他国の侵略に備えることは出来ない。そのことがわかっているからこそ、日本は自衛隊をつくり維持して来たはずである」と書いていること。自衛隊がアメリカによって作られ、育てられ、米軍と一体化していることをご存じないらしい。
ここでも、勝手で都合の良い「知識」(ですらないが・・)の切り貼りが見られます。成績を上げるために知識を詰め込む受験生が陥りがちな誤りのすべてを体現しているかのような彼の姿。
だいたい彼は本を読んでいませんね。読んでいるとすれば、名うての右翼論者の本ばかり。引用はそれらか、ネット上の書き込みしかないんですもんね。
中国・北朝鮮の脅威、自己中心的な行動や身勝手で個人主義的な言動の横行、「日教組・在日」による教育への介入・・・などという彼が受容可能な現象だけを頼りに、不満・怒り・イライラを募らせ、右翼的な「論客」の言動をコピペしつつ、その思いを肥大化させてきた到達点がこれです。
恐るべき時代錯誤。あまりにもミジメで哀れという以外にコトバが見つからない。



  8月6日(木)
ヒロシマ原爆忌。どこかの放送局が紹介してくれていた「ヒロシマ・アーカイブ」を開いて、被爆者の声を聞いています。
このデジタル・アーカイブは首都大学東京のシステムデザイン学部(渡邉英徳准教授および研究室有志)、広島女学院高校の教師・生徒などが中心になって作成されたもの。聞き取りを行ったり過去に蓄積された資料をグーグルアース上に立体的に表示した新しい形式の「被爆の記憶庫」です。
ヒロシマ・アーカイブ以外にも、ナガサキ・アーカイブ、沖縄戦デジタルアーカイブ(戦世からぬ伝言)、沖縄平和学習アーカイブ、東日本大震災アーカイブなどが作成(毎年充実)され公開されています。どれも意欲的ですぐれた労作ばかりで、作成者の方々のご苦労に頭が下がります。
ヒロシマ・アーカイブについては、作成の意図、内容について次のように説明されています。

被爆から70年が経ち、あとわずかのうちに、被爆者のいない未来がやってきます。それは、最も強く平和を願い、核兵器のない世界を切望した人々がいなくなることを意味しています。「ヒロシマ・アーカイブ」は、2010年に公開された「ナガサキ・アーカイブ」のミッションを受け継ぎ、被爆者の体験と想いを未来の地球に遺していくために、66年間にわたって蓄積されてきた大量の資料と、最先端のインターネット技術を融合して、2011年に制作されました。

「ヒロシマ・アーカイブ」は、広島平和記念資料館、広島女学院同窓会、八王子原爆被爆者の会、中国新聞社をはじめとする提供元から得られたすべての資料を、デジタル地球儀上に重層表示した「多元的デジタル・アーカイブズ」です。
1945年当時の体験談、写真、地図、その他の資料を、現在の航空写真、立体地形と重ねあわせ、時空を越えて俯瞰的に閲覧することができます。このことにより、被爆の実相に対する多面的・総合的な理解を促すことを企図しています。


下の画像をクリックすると「ヒロシマ・アーカイブ」が見られます。


悲惨な体験を被爆者から直に(映像を通してを含め)見聞きすることは確かに意味のあることです。若い世代にとって、なおさらそうでしょう。
私自身、高校教師だった頃に担任していたあるクラスの生徒たちとともに、文化祭の展示として「原爆展」にとりくんだことがありました。当時、広島では高校生平和ゼミの生徒たちが原爆ドームの横を流れる元安川で原爆に灼かれた瓦、ガラスなどを採取していました。それを送ってもらって教室で展示したことを思い出します。当時のことを自分たちの手で調べ、くわえて表面がブツブツに焼けただれた瓦を実際に見て、おそらく生徒たちは何かを感じたに違いないと確信しています。

しかし、その一方で次のようにも思うのです。被爆者はもちろん、若い世代の人たちも「戦争はしてはいけない」と必ず口にする。この「戦争はしてはならない」と、現在審議が進められている「戦争法案」(もっと大きく言えば自民党の政策)を拒否することとの間には大きな川が何本も流れている。橋を架けることが果たしてできるのだろうか。かけるとしたらどんな橋なのか。
「戦争をしてはならない」という人が容易に中国脅威論に取り込まれて、軍備の拡大は抑止力になるのだという「神話」が本物だと思い込む。
平和を守るために脅威を取り除くための武力を備えるという考え方は一見当たり前に見えますが、結局は平和のために戦争をするという解きがたい矛盾を内包します。法案の名称そのものがそれを示しています。
「戦争をしてはならない」というのは、戦争につながるどのような企みも拒否するということです。

広島被爆者団体協議会との懇談で、団体側は安保法案の撤回を強く求めました。ここに大きな希望を見ます。これに比して、安倍首相の挨拶は際だって空疎。空疎というより一般的なコトバで彼の真の意図を隠しているという意味で危険かもしれません。おそらく70年談話も同じことになるでしょう。

この日、私があらためて思うのは、一見橋がない川に、がっちりとした橋を架ける作業を続けなければならないこと。平和は祈って実現するものではなくではなくたたかい取るべきものであること・・・気負わず、やれることを少しずつ、ですね。



  8月5日(水)
安保法案についての自民党宣伝アニメ「あかりちゃんVSヒゲの隊長」のパロディが100万ヒットに近づく勢い。先月終わりには一斉にメディア(TV,新聞)で取り上げられました。
7月28日には自民党は第2弾を公開していますが、余りにもレベルが低く、パロディ版を待ち望む声の方が多い感じ。
昨日のニュース23では「戦争に行きたくない」と言うシールズの若者に対して「自分中心、極端な利己的考え」とツイッター述べた武藤貴也衆院議員への直撃取材も放映されていました。
このお方については今日の信濃毎日新聞のコラムが次のように書いていましたよ。

どんな思想の持ち主かブログを読んで驚いた。憲法の国民主権、基本的人権の尊重、平和主義を否定。憲法は『滅私奉公』などの日本的精神を破壊したという。

この武藤さんのようなのを「利己的遺伝子」っていうのかな。コラムの最後にも「国を守るためには個人の権利は制限されるという『日本精神』の遺伝子はしぶとい」と書かれていたし。
この国に巣くう戦前の遺伝子はなかなかしぶといのですが、それは何故か?どんな仕組みで?・・・私はずっと考えたり調べたりしているのですが、まだまだ漠然としています。この日本において、単純に復古的なものとしてではなく、本来「合理的」であるはずの新自由主義と極めて親和性のあるものとして登場しているその訳もぜひ解明したいですね。
自民党議員の中で、際だってこのような連中が現れている表層的な理由ははっきりしています。それは多方面から指摘されている通り、選挙制度が小選挙区であるからです。小選挙区制度になってから、自民党は「日本会議派」「靖国派」の牙城になり、アベのおめがねにかなう者だけに「純化」されてきたことは明らか。
今日のテレビで、くだんの武藤さん「ツイッターの記述を削除するつもりはない」と言明していましたから、アベ首相からも大きく評価されているのでは??

武藤議員のブログで「沖縄」の項目が2項あります。それらを読んで驚くのは、やはりというべきか沖縄では見向かれもしない名うての右翼的な「ジャーナリスト」(元自衛官)惠隆之介の著書を引き合いに、ウソとデマのたぐいを述べ立てていることです。
たとえば次のような記述はどうでしょう。

沖縄に多額の補助金を投入し続ける最大の前提となっていた「約26年間の米軍統治」が、その後日本政府が補償をしなければならないような「塗炭の苦しみ」ではなかったという事である。

自分で何事も調べることをせず、特異な一人の人物の書いた事柄を、ただその人物が沖縄出身者であるということだけで無条件に肯定し、あたかも自分の思考であるかのように見做してしまうこの幼稚さ。怒りを通り越してもう開いた口がふさがらない。米軍支配下の伊江島で生死の境をさまよった阿波根昌鴻さんなら何と言うのでしょうね。
さらにこのお方は、地方への交付金のなりたちや沖縄振興予算の推移を真剣に勉強したのかしらと思わせる記述であふれています。これについてはいずれ全面的に明らかにしなければなりませんが、とりあえず、沖縄県自身の予算の説明琉球新報の解説をあげておきます。



  8月4日(火)
予定では、木崎湖近くで開かれている信濃木崎湖夏期大学に行く予定にしていたのですが、ここは机・椅子ではなく床に座って講義を受ける会場。午前午後1日の講義にはとても耐えられないとやむなくあきらめました。
何故行きたかったのかといえば、”ときの人”である憲法学者の長谷部恭男さんが「立憲主義の歴史」の講義をされると友人から聞き、妻からもチラシを受け取っていたからです。残念。
そのかわり、今日本屋で受け取った雑誌「世界」で、長谷部教授へのインターが載っていたので読んでおきました。
インタビューのおわりに編集部が「この安保関連法案が成立してしまったら、この国のかたちはどうなってしまうのでしょうか」と長谷部先生にアホな質問をするんですね。すると、長谷部先生、「そんな、諦めたようなことを言ってちゃだめです(笑)。まだまだ闘わなきゃ」と答える。さすが安保法案を「違憲だ」と言い切ったお方だけあります。

今日妻から「今月30日に東京で10万人集会があるから行かない?」と誘われました。これは是非出かけなければならない集会でしょう。
ただし、この集会は正確には「東京10万、全国100万」を目標に開かれる集会なので、こぞって東京に行ってしまったら、地元で沢山の人を集めて集会を開くことができなくなってしまいます。
「総がかり行動実行委員会」主催で開かれるこの集会のバナーおよび集会チラシを転載しておきます。

8.30集会バナー

8.30集会チラシ

これにシールズや高校生たちが合流すれば壮大な示威行動が実現することになりますね。
人口140万人の沖縄で10万人の集会ができるのなら、1300万人の首都東京でなら100万人の集会・デモが企画されてもおかしくない(課題の違いもあるので機械的にはいきませんけれど)。
当然「町民の会」を結成した私たちとすれば、地元で、あるいは近隣の市町村のみなさんとともに、一大決起の場をつくらなければならないでしょう。どれだけの人が声を上げるかは、情勢の進展にもよるものの、働きかける人たちの熱意、創意工夫が大事です。わずかな期間で何ができるのか、本当に真剣に考えて実行に移していく時期にさしかかっていると思います。

沖縄では、政府から辺野古での工事を一ヶ月中止してその間に話し合いを持つと提案してきたというニュースが飛び込んできました。安保法案やオリンピックのメインスタジアムでこれだけもたついているのに、さらに辺野古新基地建設で足下を掬われたくないという思惑が働いたことは間違いないでしょうが、それを可能にしたのはなんと言っても翁長知事を先頭に絶対に新基地建設を許さない意志を示し続けてきた沖縄県民のたたかいの力です。
政府の思惑は、1ヶ月も中断して沖縄と協議をした、誠意を示して政府の考えを伝えた、しかし沖縄は拒否した・・・という「実績」をつくり、県民分断をはかるつもりなのでしょう。
しかし、沖縄県民の怒りの臨界点はとっくに超えています。翁長知事には、単に埋め立て承認に瑕疵があるというだけではなく、断固として「建白書」の立場すなわち、@オスプレイの配備撤回、A米軍普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設の断念、を最後まで貫いてほしい。現在県レベルだけではなくその地方組織として圧倒的多数の自治体でつくられている「島ぐるみ会議」(FacebookTwitter)こそ、この「建白書」を実現することをめざすものだからです。
日刊ゲンダイが「異次元」に突入したと評したこのたたかいは沖縄県民のアイデンティティに根ざしている以上、決して弱まることはありません。
翁長知事には、工事現場のキャンプシュワブにおいて、海保や県警がどれだけ乱暴な県民弾圧をしてきたかをきっちりと抗議し、辺野古での建設を取りやめることを主張してほしいものです。



  8月3日(月)
昨日は、午後から松本駅前で開かれた「戦争法案を廃案に!8.2長野県民大集会」に参加しました。
午後1時半からの集会には主催者発表で1200人が参加。とにかく暑いので、参加者の多くは日陰を求めて固まっていたために、集会はちょっとバラけた感じでしたが、それもやむを得ない。駅前の温度計は39度を指していたというのですから。
主催者も参加者も気合い十分で、松本城公園までのデモ行進も暑さを吹き飛ばしてしっかり歩きました。
集会で挨拶した元八十二銀行頭取の茅野実さん(御年も82才!)は、「80くらいまで生きればいいかと思っていたが、この状況を見るとそんなわけにはいかなくなった。戦争法案を粉砕するまで頑張ろう」と意気軒昂。
ISから逃れて松本に住むイラク人リカー・アルカザイルさんが「戦争のない日本に住みたい」と平和の尊さを訴える場面もありました。












さて、私のスタイルは沖縄での行動のときといっしょ。当然ながら、辺野古新基地建設反対のプラカードを作って持っていきましたよ。人相が悪いのは相変わらずです。


地元の新聞が、この集会についてどんな報道をしてくれるのかと思って見ていましたら、信濃毎日新聞は28面の目立たないところにわずか2段(写真入り)の扱い。Web版では探したんですがとうとうみつからなかった。市民タイムス、中日新聞もさして変わらない。
住民のこのような政治活動についての各紙の扱いは極めて小さい。これは沖縄での2紙との決定的な違いですね。信濃毎日は社説でこの法案への反対の立場を鮮明にしているのにこの程度ですからね。社としての問題意識の乏しさを感じてしまいます。
沖縄では、台風のために延びて31日に県庁前広場で開かれた「戦争法案反対県民集会」の模様を、琉球新報は中継・録画で公開しているほど。
沖縄タイムスも速報を出し、詳しく報道しています。

東京では高校生T-ns Sowlが呼びかけたデモに5000人が参加した。画期的なことですね。すばらしい。
このニュースを一面で大きく報じたのは「しんぶん赤旗」。asahi.comも大きくとりあげ動画も。毎日もそれなりに報道していました。
信濃毎日はウェブ上では小さく報道していますが、新聞では見当たらない。
市井の人々が何を考え、どのように行動しようとしているのかに鈍感なメディア、あるいは特定の政党や団体だからというフィルターにかけて報道を規制しようとしているメディアは、激動の時代では早晩読者離れを引き起こすきっかけになっていくでしょう。自分は活動に参加できないけれど注目したり、子どもや孫が参加しているという人(高齢者)が増えれば増えるほど、報道への関心度は高まらざるを得ないからです。若い人は新聞よりネットでのSNSの方が手っ取り早い。

午後6時前から、激しい雷雨。久しぶりの雨で作物は喜んでいるのでしょうが、この降り方はまた異常です。雷が苦手なハルちゃんはどこで避難しているのでしょうか。



  8月1日(土)
沖縄から辺野古・高江のたたかいの模様を多面的に発信してくれているチョイさんこと北上田毅さんによると、辺野古の本体埋め立て工事がまだ始まってもいないのに、8件の埋立本体工事契約を本土の大手ゼネコン等と締結し、総額41億円もの巨額の前払金が支払われたことを告発しています。
情報開示を要求して出された資料に基づいて、北上田さんは次のように指摘しています。

@実施設計もまだ出来ておらず、何時、着工できる目処もたっていないのだから、そもそも材料費や労務費が発生する余地はなく、前払金の支払いそのものがおかしい。
A「本体工事の契約を締結した、もう反対しても手遅れだ」と県民が諦めることを狙っている。B国は、知事が埋立承認を取消して工事ができなくなった場合、損害賠償を求めると強調していた。今回の前払金の支払いも、すでにこんなに払っているのだから、中止になれば損害賠償請求をするよという脅しではないか。


沖縄防衛局は、全部のボーリング調査を終わっていないにもかかわらず、工事着工に向けて事前協議書を翁長知事に提出。知事はこれを一旦受け取った後「全体の詳細設計が終了した時点で事前協議を行なうべき」であるとして、防衛局に事前協議書の取り下げを要求しているというのが現時点での辺野古の工事をめぐる動きです。また、知事はまもなく前知事の埋め立て承認を取り消す意向であることはすでに明らかにされているとおりです。
今回の防衛局の業者との契約と前払い金の支払いは、北上田さんの指摘する通り、既成事実の積み重ねと巨額賠償の脅しという狙いがあることは明らか。金を受け取らせることによって業者を政府の側につけて住民と対決させることも狙っているとみられます。

妻は神戸での「母親大会」に参加するために、今朝は3時半起き。私は4時半に起きて、バス乗り場の高速入り口まで送っていきました。
帰ってから庭に水まきをしたあと、もう一度寝て起きると今度は暑すぎ。本当に沖縄よりも暑い。夏は沖縄に避暑に行かなければならないんじゃシャレにもならん。
夕方日が落ちてから道を挟んだ法面の草刈り(草刈り機使用)をし、その後洗濯と家の中の掃除をしていたら1日が終わってしまった。何とも締まりのない1日です。
日暮れ時、東の空に大きな入道雲がわき上がっていました。








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