今日は先日紹介した中山隆之さんへのインタビューの第2回です。今回は中山さんが義勇軍開拓団として白城市郊外で生活した時期から、敗戦を迎え、着の身着のままで奉天まで引き上げ、その後奉天にソ連軍が進駐してくるまでの避難民生活について聞きます。
中山隆之さんの戦争体験
満蒙開拓民としての生活と敗戦から帰国まで (第2回)
4.白城市での比較的平穏な生活
白城市では、当時多少の手当があっただいね。ほんとの煙草銭。部落長をしていたのはそこへ移ってから終戦までだった。
6部落に別れていたので部落によっては違いましたが・・・私のところでは一緒に住むからには、まして人の土地を耕すわけだから仲良くやっていかなければと思ってやっていた。(満州人の)貧しい人たちが「働かせてくれ」と頼みに来たりすれば手伝ってもらっていくらか賃金を渡したり、そんな関係だもんで近くの集落とはうまくいっていたんです。
関東軍の飛行場は近くにあったが、駐屯地はなかった。ただ、こんなことを言っていいのかどうかわかならないが、脱走兵が私たちのところへかくまってくれと、そんなこともあったですね。私たちとすれば、公にすることもできないし、かくまうこともできない。元へ戻るか、戻らないんだったらソ連へいくしかないと言って、いくらかお金や食糧を渡して気をつけて行きなさいと・・そんなこともあったね。
奥地の方の開拓団は匪賊の襲来とかあったようだが、私たちのことろは南のほうだったもんで、終戦近くまで割と平穏に生活ができたですね。
5.敗戦と引き上げ
終戦の情報は8月15日の翌日くらいにはわかっただが、関東軍憲兵から「終戦になった」という通知だけはあったです。「直ちに引き上げるように」と書いてあった。どうやって引きあげるかという指示は何にもない。近くの飛行場からの連絡もありました。明日にもソ連軍がくるから待ったなしで引き上げろということで。
満州人の集落の人はどっからその情報を得たかねえ、すぐそれを悟って、私の所にきて「どんなことがあっても私たちが守るで、しばらくここで様子を見れ、ここで私たちが何とか面倒見るから」と、すがってでも言ってくれただいね。だけどとてもじゃないが、女・子どももいたからそうはいかない。
年寄りや子どももいたから、夜、1キロ位先の駅まで自分たちの馬車でちょっとした手荷物を持って、着の身着のままでそのままんま貨物列車に飛び乗った。とにかく安全な南へ下がろうということで。
そこからが問題で、私たちばかりではなくて、全満州からそうやって開拓団、居留民団が引き上げるわけだから、無蓋車であろうが何でも乗れるものに我先に飛び乗らざるをえない。だからどこの駅に行ってもそういう人たちで満杯。力のあるものがわれ先に乗り込むから乗れない人もいっぱい。
そんな中で、一番はっきり言いたいだけんどもね、そういう南に下がる列車の脇を軍用列車というのが通るだいね。貨物列車は駅でいつ出るか分からないが、それを待たせておいて軍用列車が通っていく(駅では一旦止まる)。
乗っているのは全部兵隊さん。それに何とか年寄り・子どもを乗せたいと思って、そう言ったら衛兵が昇降口に銃剣を持って(突き付けて)寄せ付けないんですよ。「これは我々軍隊の列車だから、お前たちは乗せられない」という。だから真っ先に引き上げるのは軍隊せ。私たちは銃は持っているが開拓民。軍用列車に乗っているのは関東軍。
奉天に着くまでに幾日くらいかかったか・・3日くらいかかったかな。やっぱ食うや食わずで・・・あるところで、列車が止まって見ると、そこに関東軍も停車していて、こんなバケツでご飯を運んでいるのが見えるだ。こっちは腹減るし、他の居留民もみんな腹を空かせている。軍隊だけが白い飯(まんま)を食べているで、こっちはどうしても食べたい。何とかしてバケツ一杯だけでも欲しいじゃないかい。オレは食わなんでも子どもや年寄りは食べさせてやりたいし。
宵闇で薄暗いもんで、私が着ているものは義勇軍だから軍隊と同じもんだったで、列のなかに紛れ込んでね。盛る方の兵隊は釜からこうやって盛るのにいそがしいもんで、顔なんかいちいち見てねえしね。そんでも命がけだよ、何とかひとバケツ持ってきて、みんなで頬張って食べた覚えがある。
話したいことは、そのときの関東軍なんて全く統制がとれずバラバラせ。
途中はそんな状況だったが、奉天についてからね、あとから来る列車で避難民が着いたのを見かけたが、どのくらいまでそれが続いたかはわからない。
奉天についてから避難民が列車から降りてくるじゃないですか。若い母さんたちは子どもを連れたりおんぶしたりしているが、見たり聞いたりしても、おんぶしている子どもで生きている子どもは一人もいなんだ。生きている子は一人も見かけたことがない。みんな無蓋車で・・・無蓋車以外乗れなかった・・・おなかがすいたりして・・・。それでも親にとっちゃ捨てるわけにはいかない。いずれ奉天まで来てからは捨てたがね。
6.奉天での避難民生活
奉天についてから、私は満鉄関係で鉄道警備が主体だったから、駅に満鉄の官舎があって、住むところだけは力任せに入れてもらうことができた。20名ばかりのグループだったから何とか空いているところに入れてもらった。あとの人は学校とか映画館とかそういうところに入った。
弟や私の知っている人が誰か避難所に帰ってきてるじゃないかと思って、毎日私は探しに行っただいね。ただ、はっきりいえることは、一晩経つと明くる朝、馬車に死人が何十人と出ただ。食べるものはなし病気がはやってね、それを埋葬できるわけがないから川へ持って行ってみんな流して・・・それがどれくらい続いたか・・そういう状況だったですね。目も当てられなかった。
奉天では中国の人は割合反抗しなんだね。ただ私たち日本人は金を持ったり食べ物を持ったりしている者もいたから、毎日毎夜暴動が起きたことがあった。というのは、そこに住んでいる中国人も食糧を断たれて飢餓寸前で暮らしていたから、日本人のところにいけばモノがあるということで、日本人の住んでいるところへ群れをなして押し寄せてきた。私らは官舎の2階にいて、棒を持って押し寄せてくるから、私たちは戦えないし、昼に庭の石から棍棒からみんな拾い上げて、階段を上ってくるのを石や棒で防ぐという、全く笑い話みたいなことをやっていた。暴動はだれも指揮をしているわけではないから、こんどは向こうの方へワーッと行っちまうだいね。そんなことが半月ほど続いたかなあ。
関東軍は奉天に相当いたが、日本人をかばうとかは全くなかった。関東軍自身がバラバラでみんな自分の身の安全を考えて軍隊の用はぜんぜんなさなかっただね。あんときもう少し統制がとれて、ソ連の兵隊が入ってくるまで中継ぎできたらと思ったが・・・そんな気配は全くなかった。反対に迷惑をかけていた。
7.ソ連軍の進駐
そのうち、ソ連の兵士が進駐して奉天を占領するようになったがね、治安の維持には真っ先にあたってくれて、暴動をなくしたりしてくれたね。日本の憲兵隊にあたるゲーペルがソ連の兵隊の中でも権威を持っていてね、このゲーペルが治安にあたってくれて日本人中国人を問わず平穏にいくようにしてくれたね。
ソ連軍は統制はとれていて、ゲーペルがずっとまわっていたが、その隙間を見てね、ソ連の兵隊がちょいちょい私たちのところに隠れて自動小銃を持って来ただいね。何の目的で来たかというと、誰も彼も「これこれ」「これこれ」(手首の腕時計を指す)という。腕時計が欲しいんだね。日本人はほとんどみんな腕時計をもっていたから。それを渡すと喜んで帰って行くだいね。
そういう状況だもんで、何とか食っていかなければならないということで、持っているものを少しずつ別のモノに変えたりして「がらくた市」というのをやったりしていた。そのがらくたの中に扇風機が売りに出てただいね。ソ連の兵隊がその扇風機というのを知らないんだね。クルクルと回っていて涼しい。そのうち一人の兵隊がソーッと扇風機の中に指を入れて「ブルブル」とやった。そしたら驚いて自動小銃でもって扇風機を撃ってバラバラにしてしまった。そういっちゃ悪いがその程度だったいね。
そのときのウワサとして、当時の関東軍の司令官で長野県出身の山田乙三という大将がいただいね。直接目にしたわけじゃないが、逃げて歩いて最終的にソ連につかまっただが、捕まったときには5、6人の兵隊に檜の風呂桶を運ばせて山の中を逃げていたという。日本軍司令官の大将がですよ。もっぱらのうわさだったね。
ソ連が来たのは11月の終わり頃だったかね、当時はもう一日も早く帰りたいじゃないですかね、少しでも南に下がって早く帰れるじゃかないかということで、意を決して朝鮮との境まで下がっることになった。
想像を絶する苦労もあったろうし、死の淵を彷徨うようなこともあったろうと推測できます。関東軍が我先に居留民を尻目に南下していったことはさんざん指摘されてきたことですが、中山さんもその実態をはっきりと証言しています。
ただ、奉天にソ連軍が進駐してきたあとのことについては、おそらくさぞ凄惨な状況になったのではないかとつい想像してしまうのですが、実際にはかなり統制がとれていたということがわかります。
ネット上では、ソ連軍の通る至るところで婦女暴行、虐殺など非人間的な蛮行が横行したように描かれたものを見かけることがありますが、時期、地域の差が大きくあるようで、それぞれの地域で実際はどうであったのか詳しく証言を積み上げることが大事だと思わされます。
無蓋車で着の身着のままで引き上げる過酷な逃避行の挙げ句、幼子は母の背で死に絶え、奉天にたどり着いても飢餓地獄の中で多数の人々が亡くなっていくすさまじさを、控えめな表現のなかからくみ取るべきではないでしょうか。
次回は、朝鮮国境までの逃避行から中国共産党八路軍との遭遇までを聞きます。さらに数奇な運命が中山さんを翻弄します。ご期待ください。