我が家の庭の隅っこには野菜クズを入れて埋めるための穴が掘ってあります。よくカラスがついばみに来ては散らかしていくのですが、昼頃に何と一匹のタヌキが訪問してくれました。
はじめは野良猫かと思ってみていたらどうも様子が違う。このごろ寒さが厳しくなりエサもなくなったからなのか、毛もささくれ立ち、老いぼれて動作がいかにも緩慢です。
道路の方に出ようとしていたので、あわてて山側に追いやりました。のろのろと歩いて去って行くタヌキの後ろ姿には何だか深い哀愁が・・・。
タヌキってもともと夜行性なのですが、昼日中に里におりてくるなんてよほどお腹をすかせていたのでしょうか。山に帰って元気に過ごしてほしいものですね。ときどきはエサを食べに来てもいいからね。
こんな狭い日本だが、1億人を越える人間が住むとなると、私の想像を超える人たちがたくさんいる。問題意識も行動もさまざま。世の中はそんなものだと言ってしまえばそうなのだが、しかし、容易に外には出られない、出たくとも出られない人たちもいれば、心の闇を抱えたまま、それを吐露するには厚すぎる心の壁をかかえたまま生きている人たちもいる。
かつて私が書いたことがあった(はず)ことなのですが、私が他人を認識する際にいつも座右に置いているコトバがあります。それはマルクスが資本論の第1章「商品」2.「相対的価値形態」の注で書き留めた次の一文です。折に触れて出てきてしまう。
見方によっては、人間も商品と同じである。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を移してみる。人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関連を通してはじめて人間としての自分自身に関連する。だが、それとともにペーターにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種族の現象形態として通用する。ここには一見、「人間の本質」についてどれほどの「深遠」さを感じさせる語句はでてきません。マルクスは「価値関係の媒介によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態となる。言い換えれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる」という説明の注としてこの一文を書き込んだのでした。しかし、それは単に分かりやすくするということを遙かに超えて、ヒトがどのようにして「人間」になるのかについての「あたりまえ」のことをズバリと言い当てています。当たり前が当たり前でない(形而上学的、神学的人間観など)からこそマルクスはこの一文をしたためたのではないかと私には思えるのです。
家族・地域・学校などの具体的で多様な人間たちの中でこそ人間が次第に人間としての認識を育くんでいくわけで、その過程で「鏡となる人間がいかに大事なのか」を指摘しているのではないかと私には思えます。
仮にたった1人で山奥に籠もり自分自身と向き合うとしても、それまでにどれほど豊かな人間関係を結んでいたかが、その際に生まれる認識にとって決定的に重要になるということです。
それは、子どものころにどんな環境で、どんな人間に囲まれて育つかという点で大事であるだけではなく、年齢にかかわりなく、鏡となるべき自分とは異質な多様な人たちと人間関係を結ぶことの大切さも含まれている、そのように私は解釈しています。
さて、前置きが長くなりました。友人の薗部さんが、新年の「雑感」メールで、ある方のメッセージを紹介してくれていました。メールによれば、薗部さんは、「全障研の本務・事務局長として30年」「障害者権利条約の第一回政府報告案に対する障害者団体の連帯したパラレル・レポートづくり」「障害者総合支援法の3年見直し」「若葉マーク付きで日本障害者協議会(JD)副代表」などで超多忙な生活を送っている方です。
私自身は、毎年のように積み重ねられる、彼の「北欧レポート」にいたく触発されてきたし、同時に彼が紹介してくれる本や人物に触れて、心洗われる思いをしたことが何度もありました。そんな彼だから、感性の豊かさとともに問題意識の鋭さが光る文章を書いていて大した人物です。会って話していると、ぜ〜んぜんフツウの親しみやすい「オヤジ」なんですけどね。そこがいいのかも。
さて、その彼が紹介してくれたのが、「国際障害者年を経て日本の障害者運動が連帯へとすすんでいくころの重鎮」「社会福祉法人「青い鳥」名誉顧問/元BC級戦犯」である飯田進さんの一文です。
あの戦争を生き残った私からあなたへ大西さんは、現在92歳。かつて「生存率7%といわれたニューギニア戦線」の極限状態を生き延び、戦後BC級戦犯としてゲリラ処刑の罪に問われて「死刑を求刑されたが、最終的に『重労働20年の刑』を受けた」といいます。
「銃殺刑の恐怖と戦いながら」独房の壁に向かい彼は必死で「本を読み勉強し」たのでした。そのあとの彼の心の軌跡は彼の血を吐くような(こんなコトバ軽々しく使っちゃいけませんけど・・)文章に接してもらうほかありません。