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  1月29日(金)
情けない状況下で70歳の誕生日を迎える羽目になってしまいました。食欲なし、何かをする意欲もなし,従っってほとんどの時間をベッドの中かソファの上で横になっているという、最悪の状態がいまだに続いています。
どこかでこの循環を断たなければならないと思い、身体を動かしたり室内の掃除をしたりしてはみても、さほど効果があるわけでもなく、かくなる上はじっくり構えて身体の回復を信じるしかないのでしょう。
病院に緊急入院したのが17日(26日退院)でしたから、それからもう2週間近くになります。入院していた間、結局最初の頃に3日ほど抗生剤を投与されただけで、あとは検査だけ。ずっと熱が下がらなくて、とくに夜には38度近くまでになっていたので、解熱剤を処方してもらっていました。
ところがある夜、解熱剤を飲んだか飲まなかったかはっきり記憶のない時が一度あって、それ以来薬の管理を自分でさせてもらえなくなってしまいまったのでした。「認知障害がある」と判断されたのでしょうか。入院して直後も、3つの者の名前を覚えさせ、他のことを話した後その3つを言わせたり、100から7を次々引かせたり・・・例の認知症診断テストですね、やっちゃいましたよ。
私としては、まあ楽しみながらやっていたからいいようなものの、1人1人を見かけだけで判断するのではなく、その実状を正確に把握するケアのあり方が問われているように思われてなりませんでした。

70代をどう過ごすのか、元気ならばいろいろなことを考えもし書けたかもしれないのですが、このような状況ではなかなか苦しい。明日の見透しも定かでないのですから、これはちょっと後のことになりそうです。
いまは、誕生日祝いをメールや電話で伝えていただいた方々に感謝しつつ、何とかこの苦境を脱出するために努力する覚悟をのべて、ともかく静養に励むことにします。



  1月27日(水)
昨日夕方我が家へ帰ってきたら、妻も一日出かけていたこともあって、室内温度も一桁になってしまって寒い寒い。その昔は、このような寒さも耐えて生きてきたんですよね。

例の町長問題はもういいかげんにやめようと思っていたら、富山に住む妹から電話があってこのニュースが全国ニュースになっていたことを知りました。ビックリポンです。
アホな記者会見をやるもんだから余計に有名になってしまった。「水と氷をたくさん入れて薄めにして飲んだので運転しても大丈夫だと思った」・・・・これを聞いた人ならおそらくのけぞったのでは?この人にとっては5杯も10杯も5,6杯ですから、そんな道理がなりたたないことぐらい下戸である私でもわかる。
ところで記者会見からも分かるとおり、この町長さん、まだ自分が飲酒運転したということを心底認めてはいないらしい。「まてまて、あんなに水と氷を入れて飲んだのだから、それほど心配することでもないのではないか。これは警察の処分が決まるまで待ってから進退を決めてもいいのではないか。まだあと半年やることもあるし・・・」そんな気持ちが見え見えの見苦しい記者会見。号泣会見とどっちもどっちだ。
私思うんですね、こんなのを見ながらあちこちからもっと「直ちに辞任せよ」という声があってもよいはずだと。
町長の税金滞納問題、防災無線のデジタル化にともなう業者選定における不明朗な町長の関与など、この人の町長資質にかかわる問題はあげればきりがない。しかし、そのたびに「池田の恥を天下にさらすのか」「これ以上町長をいじめてどうするのか」という怪しげな町長弁護論がどこからともなく現れて、きっぱりとした解明を妨げてきた。税金滞納や防災無線に関しては詳しく述べる立場にはありませんでしたが、私が関わったことでいえば「サポートセンター」問題についての経過は、その縮図のようなものでした。
さて、そこまでさかのぼって、この町長さんが関わってきたいろいろな問題を根本から批判し尽くすことができるのか。この町が本当の意味で、「美しい村連合」に加盟し続けられるのかどうかの試金石でもあると私は思いますね。

今日の信濃毎日新聞によれば、昨日夕方役場の職員を前に辞職の意向を伝えたとありました。妻の言うには、午前中の役場前は報道陣で大変な状況だったとか。町長は謹慎中だし、副町長もいませんから、総務課長が対応の全てを仕切らなければならないわけで、中山さんの心中いかばかりか。これからは役場内の大掃除にとりかかりましょうよ。



  1月26日(火)
2日前に部屋が替わってしかも窓際になりました。松本駅のちょうど西側ですので、駅前のビルを含めて周辺がよく見えます。
今日は朝から雲ひとつない上天気です。昨夜は冷え込むのかと思ったらそうでもない。松本周辺では寒波の峠は過ぎたのでしょうか。
夕べの体温は37.3度、解熱剤をもらって夜半から比較的ぐっすり寝て、今朝は37.2度。なかなか熱が下がってくれない。寝てばかりいると、いろいろと支障が出てくるので、階段を上り下りしたりして足腰を鍛えるようにしています。食事の量も激減しているので、筋力も持久力も落ちているに違いありません。少しずつ回復できるようにメニューを考えなければいけませんね。

さて、今朝の信濃毎日新聞によれば、昨日の町議会全員協議会で町長は飲酒運転の事実関係を認め、「松本市内の飲食店で酎ハイ5、6杯を飲んだ後、自家用車で帰宅しようとした。甘い判断だった」と述べたのだという。
今回の事件で、勝山町長は「公人の町長という立場で非常に申し訳ない」と述べたと言いますが、私に言わせれば8年前の町長就任以来、常にこの問題を抱えてきたのであり、今回たまたま「松本ならバレないだろう」くらいの意識で自家用車を運転して検問に引っかかったということなのです。事実、その後も「注意して水も飲んでいた。酒は強い方でそんなに酔っていないという認識だった。運転しても大丈夫だと思った」と釈明しているほどですからね。日頃からそうなのです、この人は。
よって、「職務に全力集中していた町長が一瞬の気の緩みでたまたまちょっと酒を飲んで車を運転してしまった」ということには絶対にならない。絶対に許すことのできない不祥事だということです。
確かに池田町民にとっては情けない恥ずかしいことでしょう。だが、それを長年許してきたこの町の体質も合わせて批判の土俵に乗せない限り、根本的な解決にはならない。見て見ぬふりをしてきた役場幹部についてもそれなりの責任があるはずです。
私には、この問題が、町長の資質に関わると同時に、この町の体質に関わるほどの重大問題だという意識を持っています。この問題は、深い根をもっているということです。そうした観点で膿を出し尽くさない限りまた同じことを繰り返すように思われてなりません。

町長は直ちに責任をとって辞職することを私は要求します。警察の「正式な処分が明確になることが大事。安易な結論は出さない」などという地位にしがみつく態度は見苦しいだけではなく、問題の深刻さを全く受け止めていないことを天下にさらすものです。池田町にとっては恥の上塗り。
議会は、町長の居座りを許さず、現町長にかかわる過去のこの種の問題を調査し再発を防ぐ根本的な対策を提示する必要があると私は考えます。



  1月25日(月) その2
夕方ベッド脇に来てくれた主治医さん、いきなり「一度退院してみますか」と切り出した。おそらくこのまま何もせずにベッドに横たわっているだけの生活では、いろいろな支障が起こるのではないかと予想されたのでしょう。
「いろいろと検討してみましたが、まだ決定的な診断までにはなっていません。炎症反応なしで微熱が続いているわけですから、家で体温や食事の変化などを記録してもらい、外来で連絡を取り合うということにしましょう。もし何かあれば、その時点で即時対応しますから」
私も少々うんざりしていたので、その提案に乗って、ちょっと生活に変化を求めてみることとしました。よって、おそらく明日遅くにはいったん家に戻ることになりそうです。
ただ今夜もそうですが、夜になると37.3度近い熱が出て外に出て熱冷ましをしなければならないほどなので、家にもどっても無理はできません。安静環境を病院から家に変えるだけ。そのような事情ですので、あとしばらく休ませてくださいませ。

さて、今日夕方のテレビ報道で池田町民には恥ずかしいニュースが流れてしまいましたね。もっとも知る人が聞けば必ず「あっそ」「あのバカ、とうとうやっちまったかい」「ちょっと遅すぎたんじゃない?」というような答えが返ってくるはずです。
現職の池田町町長が松本市内での酒気帯び運転で任意の取り調べを受けているというニュースのことです。NHKの報道はこちら
寝耳に水などとは町民のだ〜れも思わないところが今回のニュースの情けなさ。
議会での問責決議を受けて辞職に追い込まれるのか、それともいさぎよく辞職するのか、いやはや足下でも事態は急展開です。

4年前の私のブログをお読みの方ならすでにおわかりだと思いますが、この方の「政策」「品性」については遙か以前に決着が付いていたはずのことなのです。ただ、前回の町長選挙では酒などに関する個人攻撃のたぐいは、無数の事実をつかみながら公表することはしませんでした。こちらの品性に関わると考えたからです。しかし今となってはその必要もなくなってしまった。
第1期の8年前から酒臭い身体で役場にやってくるというのは役場の職員ならだれでも知っていることだったし、公的会議での居眠りもつとに有名だった。その時点で自浄作用が働くべきだった。
4年前の町長選挙では、多くの町民がそうしたことは口コミで知っていたはずだった(と私は思う)が、酒ぐせより「対立候補の後ろで共産党が糸を引いている」などという低劣なデマに惑わされて現職に投票してしまった多くの町民の方々。町長ともども深く恥じ入るべきです。人身事故を起こした後でなくてよかったことだけは付け加えておきましょう。



  1月25日(月)
昨夜はタブレットで宜野湾市長選挙の様子を琉球新報の特番で見ていました。午後9時から開票がはじまって まもなく出口調査などをもとにして現職佐喜真氏の当確が報道されガックリ。
夕べのメールで妻は「立ち上がれないほどショック」と書いていましたが、まさしく実感でしょう。しかし5800票以上の差となればこれは大差。本当にきちんとした分析が必要ですね。
先の特番で出口調査の結果がかなりくわしく伝えられていましたが、そこでは注目すべき点がいくつか述べられていました。第1は、選挙に臨んだ宜野湾市民の55%が、「普天間基地の辺野古への移設」に反対していること(賛成は35%くらいだったかな)。
何より佐喜真氏自身が普天間の早期移設といいつつ、その移設先を辺野古とは明言していないのですから、自公が応援した候補だからといったところで、辺野古の基地建設を強行する「民意」にはなりえないということです。今後佐喜真氏が優柔不断かつ不誠実な態度で普天間基地問題に対応すれば、ますます米軍へのズルズルべったりの追従になりかねない。事実、琉球新報の指摘する通り、米軍の整備計画では返還は2025年度以降ということになっており、米軍からみれば普天間も辺野古もという構図で進行しているのです。

次に、この選挙では佐喜真氏への投票者は20代から40代の若い層。志村氏へは50代から70代と比較的年齢の高い層が多かったという点です。これは何を意味するのでしょうか。
私なりにその意味を考えるに、年齢の高い層は沖縄戦とその直後の米軍支配時代への拒否感がストレートに基地問題に出ている。辺野古にしろ普天間にしろどんどん規模や質がエスカレートする基地などいらないという漢学が強い。
それに対して、若い層は目の前の基地被害や人的被害から、ともかく早くこの人口密集地の基地だけはどこかへ持って行ってほしい、その上で、ディズニーランドであれなんであれ、経済的に活力を与える町にしてほしいという気持ちが強いのでしょう。「無条件撤去返還も視野に」という志村氏の普天間基地返還論が現実的ではなく、「理想論」「永久待望論」に聞こえたかもしれません。
県民がさらに団結をかためて撤去を迫ればいいだけの話です。それをいやだというなら、首をすげ替えればいいだけ。これだけの理屈が「カネと権力」でゆがめられ幻想が与えられ、分断される。
しかし、何度も言いますが「宜野湾市民の過半数は辺野古への移設に反対」なのです。政権与党もこれを間違うととんでもないことになると心得るべきです。

「沖縄に雪が降る」という予報がまさに現実のものとなりそうな超大型寒波の襲来。農作物の被害が心配。それにしても中国大陸中南部から日本列島を南から巻き込むように覆い尽くす寒気団は見たことがない。
沖縄のみなさん、さぞたまげているでしょうね。寒中お見舞い申し上げます。
また、昨日から寒波に誘われるように沖縄旅行に出かけた従姉妹のヒロコさんと連れ合いのヒロシさん。道中の無事を願っていますね。昨年7月の私の沖縄生活が参考になっているようでうれしいです。

これだけの(長さの)文を書けるのは、一日でも30分あるかないか。これも二回にわけて書いています。まず熱がある程度下がっていないといけません。熱があるとだるくて頭が痛くて何かをする気力がわかない。さらに起き上がってパソコンに向かうということが一仕事ですから・・・。早く原因をつきとめてくれ〜〜。



  1月23日(土)
現在松本市内の病院に入院しています。17日に発熱や身体の痛みでかかりつけの大きな病院に来て診てもらったところ、検査も大がかりとなって最終的には「化膿性脊椎炎の疑い」という診断でした。
直前には人間ドックも終わっていましたからその結果も含め、新しくCT、血液検査などを加えて、検査を続けてきたのでした。
にもかかわらず、発熱は依然として続いており、身体がだるく一日中ボーッとしている状態が続いています。この熱がどこからきているのか、突き止めるために検査をしているのですが、まだ突き止めるまでには至っていない。

まさか、こんな状態になるなんて直前まで想像もしていませんでしたから、全く困ってしまいました。なにしろ、診察に来ていきなり入院ですから。
毎度のことですが、私よりうろたえたのは妻の方でしょう。数年前の膀胱・腎臓ガン騒ぎに比べればショックは大きくはないとはいえ、連れ合いに何かが起こるというのは生活にポッカリと穴があくようなものです。毎日通っては新聞や着替えなどを運んで来てくれるので感謝感謝です。
飼い猫のハルはこれまでは私ベッタリの暮らしぶりでしたが、私が家にいなくなってしばらくは精神的に不安定だったようですが、ここしばらくは妻にベッタリとなってくっついて歩いている様子。今日も病院に寄ってくれた妻に、「家に戻ったら母ちゃんっ子になってしまって、私には寄りつかなくなっているかもね」と笑いあいました。

一昨日、我が家のメインマシンに残したデータを取りに外出許可をもらって家に戻りました。昔と違い病院内での無線LANも完備して自由に使えるので、病院にいろいろデータを持ち帰ったのですが、身体が言うことをきかない。熱のせいでパソコンに向かう意欲がわかないんです。
鎮痛・解熱剤も服用をしているとはいえ、そう頻繁に使うわけにもいかないし、今日とった非常手段が、病院の玄関に出て外気で身体を冷やすこと。実際やってみると、気持ちはいいのですが寒すぎ。昼過ぎからこの方法を試しつつ、熱とたたかっているというのが私の現状です。
ブログで不調を訴えてからしばらく空白ができたために、心配してくださってメールを何人もの方からいただきました。「強引」に玄関先で私の顔を見ていった方もいらっしゃいました。ありがとうございました。
まだ体調には不安を残し、検査も続けるのでいつまで入院しなければならないのか予測できません。それでも、早く復帰出来るようにがんばります。メールなども普段通りできますので、外の状況をお聞かせください。



  1月16日(土)
朝方に38度まで熱が上昇。その後は薬で何とか抑えたものの、相変わらず調子がよくありません。土日にさしかかっているので、医者にはかかることはできませんので、安静にしているしかないのが実状。

15日未明に起こった軽井沢でのスキーバスの事故で、12人もの大学生と2人の運転手の失われるという大惨事が発生してしまいました。運転手を除いて亡くなった方や重体・重軽傷は全て大学生。深夜、ほとんどが眠りについていたまま事故に巻き込まれただろうことから、防御の態勢すらとれなかったことが事故の大きさにつながったのではないのでしょうか。本当に痛ましい。
その後の調査で、運行経路や運転手の健康状態、バス会社の体質などが分かってくるにつけ、やりきれない思いが募ります。
事故の直前に「ヤバイヤバイ」という声が車内であがったという証言や蛇行運転の証言から、運転手に何らかの問題があったことが推測されます。
なにゆえ、危険なカーブの続く道に勝手に行路を変更し、しかも車が制御不能になるほどのスピードをなぜ出していたのか。営利優先の会社の方針で健康管理がないがしろにされ、結果運転手の重大な健康障害が放置されたのではないのか・・・いろんな疑問がわいてきます。
運転手が二人とも亡くなっているので、原因の解明には困難がつきまといますが、こんなことがもう2度と起こらないように徹底的に調査してほしいものです。



  1月15日(金)
先日、極楽極楽と書いたしばらくあとで、急転直下また地獄の近くまで墜ちてしまいました。夕方からの発熱、身体の痛みで、なかなか苦しい一夜となってしまったのでした。
昨日、ふと思いついたのは、何故「痛み止め」を服用しなかったのだろうということ。妻からロキソニンをもらって飲んだところ、数時間はウソのように症状がおさまりました。
もちろん薬が切れればまた同じ症状。夜は37.6度くらいまで熱がでるので、困り果て、今日また別の医院にでかけてくわしく見てもらいました。

「インフルエンザの心配もあるのですが。前にも熱は出なかったけれどインフルという結果だったし」
「じゃ、検査してみましょうか」
「先生、夜になると熱がでるというのはどういうことなのでしょう。夜だけ悪さするウイルスが出回っているということでしょうか」
「・・・それは考えにくいことですね。原因はよくわからないのですが、人間の身体の仕組みから来ていると考えられますね」
「検査の結果はマイナスですから、インフルエンザではなくて、一般的にカゼといわれているウイルスによる症状でしょうね。ただ、内部の炎症がないかどうか、血液検査もしてみましょう」
 <検査室での看護師さんとの会話>
「じゃ、採血しますね、腕をここに載せて下さい」
「こっちの腕でお願いします。採血しやすいはずです。練習用の血管と言われていますから」
「ありがたいです」
「まあ、ケッカン人間と自覚していますから」
「そんなこと・・・」
 <5分ほどで結果が>
「これで見る限り、白血球の数も正常値の上限だし、とくに何か大きな要因があるとは考えられませんね。このままもう少し様子をみてください」
「わかりました。3日ほどで症状が改善しなければまた診察をお願いします」

・・・・という調子で、家にもどり、鎮痛剤を飲んでまた寝ました。夜間熱が出ないといいのですが。



  1月13日(水)
身体の節々の痛みは、どうやら軽い「カゼ」が原因だったようで、昨日人間ドックから帰ってきたら、少しずつ熱っぽさが加わって寒気がする。早めに寝たのですが、寒気が収まらず熱をはかると37.5度。インフルエンザではないようなので、とにかく暖かくして寝るに限ると、夕べから12時間ほども布団に入っていました。
朝方は熱も下がったようでしたが、下肢の痛みは相変わらず。そこで、大町の協立病院診療所まででかけて診察してもらいました。
のど、リンパ、その他とくに異常はみられないので、大丈夫だろうという見立て。「カゼはウイルスによるものだから、とにかくちゃんと食べてよく休むに限る。症状を和らげる漢方を処方するので、食前にどうぞ」と言われて、「ま、そんなもんか」と思いながら帰ってきた次第。
それからも数時間横になって、さきほどお風呂に入ったら、これが何と気持ちのいいこと。大腿部の痛みなど無かったようにス〜〜ッと消えていくような感覚。暖まって、栄養をとって、寝られるだけ寝る。いや〜極楽極楽。おやすみなさい。



  1月12日(火)
今日は朝から人間ドックの日。この検診項目に胃カメラがあり、前回大変な思いをしたので、今回は麻酔で眠っているうちにカメラを入れてもらうということにしました。
実は、2011年12月にも検診を受け、その際に胃カメラを飲むことになった浜ちゃん(「釣りバカ日誌」19)のドタバタぶりについて書いたことがありましたが、胃カメラ検査をやるたびに私の脳裏には浜ちゃんの恐怖がよみがえってくるのです。人ごととはとても思えない。
喉麻酔も改善され、鼻からカメラを入れる方法もあるらしいのですが、私にとっては前回、前々回の体験での苦痛は大変なトラウマ。というわけで、麻酔をお願いしたら、これが天国。
麻酔薬を入れてものの10秒くらいでお休み。すやすや寝て起きたら終わっていた、しかも気分はすこぶるいい。「ああ〜〜もっとこのままの状態で寝ていたいなあ〜」と思いました。麻酔が完全にさめるまで約1時間ほど寝かせてくれますので、最高。これからは絶対この方法に限ります。
まだ検査結果は当然わかりませんが、途中にいくつか聞いたところ、体重が多い、前立腺が肥大・・・ということ。
ここ数日、足腰の痛みがひどくなり、腰というより大腿部の筋肉痛のような感じの鈍痛が治まらず、診察の際にも聞いてみましたが、ちょっと要領を得ず。もしMRIなどをやるなら、そのような施設をもった病院で検査したらどうでしょうと言われて終わり。
この原因が腰から来るのか、別の要因なのか、まだよくわからないので、あとしばらく様子をみて、改善しなければ本当に精密検査を受けなければと思っているところ。何しろ歩行にも支障があるので、これじゃ寝たきりの生活も近くなってしまいますもんね。

来月13日に長谷川さんを招いて「学習講演会」をひらくことを昨日も書きました。そのチラシ原案がようやくまとまりました。まだ若干修正部分はあるかもしれませんが、このような要領で学習講演会をひらきます。多数参加されるように私からもお願いいたします。





  1月11日(月)
一週間ぶりになってしまいました。病気だったわけでも、特別な何かがあったわけでもありませんので、ご心配なく。
昨日も妻とともに、例の全国2000万人署名をあつめに知り合いのところを回ってきました。思いがけない人から、安倍政権の暴走ぶりを「どうにかならんもんかねえ、このままいってしまうんかねえ」といきなり切り出され、それから結構会話がはずみました。このままいかせるわけにはいきませんからね。
「町民の会」では、来月の13日(土)に、学習講演会を開くことにしていますが、その講師に私のもと先輩同僚で現在は近現代史研究者として日々研鑽をつんでいらっしゃる富山県憲法9条ファンクラブの長谷川了一さんに来てもらえることになりました。私のたってのお願いに快く引き受けていただいたのです。私自身はこれは注目すべき講演会になると大きな期待を寄せています。たくさんの人に聞きに来てもらえるようにしたいものです。まもなくチラシも完成する予定です。

念頭に、今年70歳を迎えると書きました。やはりこの年は「戦後70年」と同じで一人の人間の一生にとっても1つの節目といえるでしょうね。というわけで、この70年の来し方をいろいろと考え、まとめていたら、あっという間に一週間が過ぎてしまったというわけでした。
歴史のなかでは70年なんてたいした長さではないのに、いざ個人の歴史を振り返ってみればやはり山あり谷ありです。ただ、それを日誌的にまとめてみても意味はないし、感傷的に回顧してもなお意味がありません。
しばらく前に自分史ブームがあって、「生涯学習の一環」などという動きもなかったわけではありませんが、私としてはあまりそうした動向には関心がありません。
この70年は、「戦後」という日本においても特別の意味をもつ長い期間であり、私と同世代から少し下の人々はたとえ括弧つきであっても「戦後民主主義」というかつてない自由な空気が満ちていた時代に育ったのです。そうした社会のなかで、たくさんの失敗もし、挫折もくりかえしながら、今日の生活を築いた「あゆみ」が少しでも反映されたものになれば、普遍性を持つものになるだろうと考えた次第。
個人史といっても、それは私単独の歴史でないのは自明のこと。むしろ家族やまわりの人たちがいてこその歴史ですから、勝手な思いでそれをまとめたりしても、それは単に自己満足のものにしかならない。
まあ、そうした問題意識をもちながら、これからも少しずつ自分の歩みをまとめてみようと思っている次第です。出版するとか、ネットで公開するとかということは今のところは全く考えていません。あくまで自分のためのものですので悪しからず。

寒い日が戻ってきました。沖縄は日中22度くらいとか。全くうらやましい。
とはいえ、辺野古の海では、新年そうそうからカヌー隊が抗議行動を続けており、海保の排除行動も相変わらず。経過は「チョイさんの沖縄日記」にくわしい。
宜野湾市では、いよいよ市長選挙の告示。おそらく沖縄での政治史でもまれな選挙になるはずです。何としても勝利して普天間基地の無条件撤去と辺野古新基地建設反対に弾みをつけたい。
写真は大浦湾での抗議活動を規制する海上保安庁(「チョイさんの沖縄日記」より




  1月4日(月) その2
各政党の新年のメッセージや動画、対談などを見ていて、本気度が伝わってくるのはどの党でしょうか。
自民党 民主党 共産党 公明党 社民党 維新の党

日本共産党には、「主張」の他、2つの対談(志位委員長と中野晃一さん(日刊紙)志位委員長と早野透さん(日曜版))も収録されています。

さて、いかがでしょう。
安倍自民党総裁の年頭所感はどうか。
これまでの政策の進捗状況を自画自賛し「もはやデフレではない。私たちは、3年間で、そういう状況を創ることができました」とのべ、次いで、「『一億総活躍』社会への挑戦」が「次世代への責任」だとして「『戦後最大のGDP600兆円」、「希望出生率1.8」、「介護離職ゼロ」を課題として掲げています。そして、「より良い世界を築くための、国際社会による挑戦に終わりは」ないとして、リーダーシップへの決意をのべて年頭所感を閉じています。

あれ?沖縄の基地問題も、安保法制も、大震災・原発事故とのたたかいも、TPPも、まして改憲への言及も何にもなし。「国民受け」する項目だけならべて「どうだ」とやるこの手法は、いかにもアベ内閣ですが、今日の「しんぶん赤旗」が報じていた戦慄の事実はどうでしょう。つまりこうしたことの一切を国民の目から隠して自らの政治的野望を実現する・・・。こうしたことからみると、アベ首相の年頭所感なるものは、とりまき連中よる単なる「国民めくらまし」作文にすぎません。
さて、その戦慄の事実とは、自衛隊トップが「統合幕僚長や陸上幕僚長の任免にあたって、天皇による認証が必要とされる「認証官」への格上げを検討」しているという事実です。
「しんぶん赤旗」はこの狙いについて、「集団的自衛権の行使容認や『国防軍』への転換などを見越して、制服組幹部を国家機構の中枢に位置づける」ことだとし、「統幕長や陸幕長がこれ(「認証官」)に加われば、閣僚や官僚トップの内閣官房副長官と形式上は同格になり、自衛隊の政府内での権威・発言力が大幅に強まる」と指摘しています。
纐纈厚山口大学教授は、これが「『新軍部』構築の表面化」だとして、「統幕長を『認証官』として国務大臣と同等とすることは、文民統制の原則である文民優越を否定するもの」であり、「戦前と同様に、軍事と政治とが並列する結果となる恐れがあります」と指摘、国民の意思の外でこうした「新軍部」構築の動きを十分警戒することを訴えていました。
9条改憲(明文改憲)が極めて困難な状況下で安倍内閣が目指すべき道は、実質的なしくずし改憲しかありません。外堀を完全に埋めておいてから本丸に攻め込む。要するに、気がついたら本丸は丸裸だったという状況を作り出すということです。
これこそが今日「戦争したい」勢力が頭を使っていることであり、日々その方向に向かっていることなのです。
すなわち、経済的には、武器・原発の輸出などで暴利をむさぼり、アジア諸外国の中で優位を保つこと。政治・軍事的には、中国に対抗しうる「実力」をつけ、それに批判的な国民世論を封じ込める装置を開発すること。文化・教育的には、「日本の伝統」「自主憲法」をキーワードにして、教化・監視・統制のモノトーン社会を作りだそうとすること。
これが世界の流れといかに逆行しているか、ASEAN共同体の力強い始動と比しても際だっていませんかね。
アベ年頭所感は、東北被災地復興について「公営住宅への入居がすすみ・・復興は、新たなステージに移ろうとしてい」ると人ごとのように述べるだけ。まして、原発災害への言及も、沖縄の苦しみへの共感も、相対的貧困の増大への解決策もありません。これほど庶民を見下した馬鹿にした「所感」もめずらしい。あるのは、初めから折れて飛びもしない「新3本の矢」の自画自賛。ひどいもんですね。

さて、その対極にある日本共産党の主張はどうか。(他党は触れるほどのこともないので省略)
1月1日の「主張」は、昨年が戦後70年の節目であり「戦争と平和をめぐり文字通り激動の1年」であったことをまず振り返っています。そして、最も重大なこととして安倍内閣による憲法否定・立憲主義破壊の暴走をあげ、次のように主張しています。

 憲法で権力をしばる立憲主義がひとたび壊されれば歯止めはなくなります。戦争法だけでなく、沖縄での米軍新基地建設、原発再稼働、環太平洋連携協定(TPP)推進など安倍政権の独裁的手法の暴走は各分野で加速しています。戦争法廃止をはじめ、立憲主義・民主主義の回復は国政の最優先課題であることは明白です。

この主張を豊かに肉付けしているのが、2つの対談です。どちらも志位委員長という共産党の党首が、中野晃一さん(学者)および元朝日新聞コラムニスト・早野透さん(ジャーナリスト)と対談し、昨年の政治闘争の意義について真剣に意見を交換しているのですが、真剣度・本気度が他の党首とは比較にならないくらい高い。
早川さんとの対談では沖縄の苦難の歴史に思いを重ねて話し合っていることが印象的でした。



  1月4日(月)
昨日・今日と春のような暖かさ。日差しの中にいると暖かいというより「暑い」。その暖かさに誘われたのか、我が家に「糸トンボ」が入り込んでくるという正月の椿事。どこでどう生まれ、生息していたものか。昼は春とはいえ、夜は相変わらず凍り付く寒さですから。
中で育てるわけにも行かず、羽根を持って日差しのなかに出してやると元気に飛んでいきました。



年末26日に松本で恒例の「こどもじゅく」があり、信濃毎日新聞が取材に来ていたことはすでに書きましたが、その後2,3日注意深く見ていたつもりなのに結局みつからずじまい。忘れていた頃、事務局のメールで翌日の27日に載ったことを知った次第でした。何を見ていたんでしょうね。
以下はその記事です。私が真ん中に写っていて1人物思いにふけっているのか、何かやっているように見えるのですが、これは一体??実は、その前にいる子のために算数の問題を一生懸命作っているところで、その時間は非常に短かかったのです。その後しっかりその子の横で長い間教えていたのに、記者はそれを撮らずに、とんでもない写真を公開してくれたのでした。よく考えて構図を決めてほしいもんだね、他にもたくさん写真撮っていただろうに、記者さんよ。

ところで、昨夜のNHK「吉原裏同心」および、それに続くフジ系列の「坊っちゃん」はそれぞれに見応えがありました。

「裏同心」の方は、その最初の放映からずっと見ており、さすがに吉原の「ほんとうの姿」は見せないものの、その内情を丁寧に追って、駆け落ちした夫婦の生き方と深くかかわらせて、人間の哀歓を描いているのはさすがです。
ただ、裏同心となった神守幹次郎が比類のない剣士であり、最後にはその「武力」で相手を圧倒するという設定があるので、安心して見ていられるという一面があります。

「坊っちゃん」は言わずと知れた夏目漱石の超有名作品。何度も映画化されたものです。ただ、いまはなき井上ひさし氏によれば、「『坊っちゃん』の映像化が、ことごとく失敗に終わっているとする個人的見解を述べ、その理由として、『坊っちゃん』が、徹頭徹尾、文章の面白さにより築かれた物語であると主張している」(Wiki)らしい。
私には、「坊っちゃん」そのものがいかに映画化されたのかという側面よりも、この画面に描かれた学校現場の権威にへつらう事大主義や、大事なことを隠してうわべを取り繕う事なかれ主義などの描き方にいたく共感を受けたのです。
坊っちゃん・山嵐がいかにも無鉄砲に切り込んでいくやり方は、ある意味、出口のない閉鎖的な空気に充たされた今日の社会状況には一服の清涼剤になっているのではないかと思われました。
ただ、坊っちゃんが赤シャツに鉄拳を食らわせるところでは、スカッとはしても、ただ溜飲を下げてそれでよいのかという問題は依然残りましたけど。
ついでに友情出演とやらの夏目漱石自身をうかがわせる謎の作家は邪魔なだけ。
私自身の体験からいえば、あの教育現場のいやな暗い雰囲気は体験済み。一方で、裏表のない本当に気持ちのいい職場もまた体験済み。今日の日本教育に残る管理統制の衝動は、この時代の教育制度の慣習をいろいろな面で継いでいるのではないかと思わされる教育現場の描き方でした。



  1月2日(土) その2
我が家の庭の隅っこには野菜クズを入れて埋めるための穴が掘ってあります。よくカラスがついばみに来ては散らかしていくのですが、昼頃に何と一匹のタヌキが訪問してくれました。
はじめは野良猫かと思ってみていたらどうも様子が違う。このごろ寒さが厳しくなりエサもなくなったからなのか、毛もささくれ立ち、老いぼれて動作がいかにも緩慢です。
道路の方に出ようとしていたので、あわてて山側に追いやりました。のろのろと歩いて去って行くタヌキの後ろ姿には何だか深い哀愁が・・・。
タヌキってもともと夜行性なのですが、昼日中に里におりてくるなんてよほどお腹をすかせていたのでしょうか。山に帰って元気に過ごしてほしいものですね。ときどきはエサを食べに来てもいいからね。


こんな狭い日本だが、1億人を越える人間が住むとなると、私の想像を超える人たちがたくさんいる。問題意識も行動もさまざま。世の中はそんなものだと言ってしまえばそうなのだが、しかし、容易に外には出られない、出たくとも出られない人たちもいれば、心の闇を抱えたまま、それを吐露するには厚すぎる心の壁をかかえたまま生きている人たちもいる。
かつて私が書いたことがあった(はず)ことなのですが、私が他人を認識する際にいつも座右に置いているコトバがあります。それはマルクスが資本論の第1章「商品」2.「相対的価値形態」の注で書き留めた次の一文です。折に触れて出てきてしまう。

見方によっては、人間も商品と同じである。人間は、鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、はじめはまず他の人間に自分自身を移してみる。人間ペーターは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関連を通してはじめて人間としての自分自身に関連する。だが、それとともにペーターにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種族の現象形態として通用する。

ここには一見、「人間の本質」についてどれほどの「深遠」さを感じさせる語句はでてきません。マルクスは「価値関係の媒介によって、商品Bの自然形態が商品Aの価値形態となる。言い換えれば、商品Bの身体が商品Aの価値鏡となる」という説明の注としてこの一文を書き込んだのでした。しかし、それは単に分かりやすくするということを遙かに超えて、ヒトがどのようにして「人間」になるのかについての「あたりまえ」のことをズバリと言い当てています。当たり前が当たり前でない(形而上学的、神学的人間観など)からこそマルクスはこの一文をしたためたのではないかと私には思えるのです。
家族・地域・学校などの具体的で多様な人間たちの中でこそ人間が次第に人間としての認識を育くんでいくわけで、その過程で「鏡となる人間がいかに大事なのか」を指摘しているのではないかと私には思えます。
仮にたった1人で山奥に籠もり自分自身と向き合うとしても、それまでにどれほど豊かな人間関係を結んでいたかが、その際に生まれる認識にとって決定的に重要になるということです。
それは、子どものころにどんな環境で、どんな人間に囲まれて育つかという点で大事であるだけではなく、年齢にかかわりなく、鏡となるべき自分とは異質な多様な人たちと人間関係を結ぶことの大切さも含まれている、そのように私は解釈しています。

さて、前置きが長くなりました。友人の薗部さんが、新年の「雑感」メールで、ある方のメッセージを紹介してくれていました。メールによれば、薗部さんは、「全障研の本務・事務局長として30年」「障害者権利条約の第一回政府報告案に対する障害者団体の連帯したパラレル・レポートづくり」「障害者総合支援法の3年見直し」「若葉マーク付きで日本障害者協議会(JD)副代表」などで超多忙な生活を送っている方です。
私自身は、毎年のように積み重ねられる、彼の「北欧レポート」にいたく触発されてきたし、同時に彼が紹介してくれる本や人物に触れて、心洗われる思いをしたことが何度もありました。そんな彼だから、感性の豊かさとともに問題意識の鋭さが光る文章を書いていて大した人物です。会って話していると、ぜ〜んぜんフツウの親しみやすい「オヤジ」なんですけどね。そこがいいのかも。

さて、その彼が紹介してくれたのが、「国際障害者年を経て日本の障害者運動が連帯へとすすんでいくころの重鎮」「社会福祉法人「青い鳥」名誉顧問/元BC級戦犯」である飯田進さんの一文です。

あの戦争を生き残った私からあなたへ

大西さんは、現在92歳。かつて「生存率7%といわれたニューギニア戦線」の極限状態を生き延び、戦後BC級戦犯としてゲリラ処刑の罪に問われて「死刑を求刑されたが、最終的に『重労働20年の刑』を受けた」といいます。
「銃殺刑の恐怖と戦いながら」独房の壁に向かい彼は必死で「本を読み勉強し」たのでした。そのあとの彼の心の軌跡は彼の血を吐くような(こんなコトバ軽々しく使っちゃいけませんけど・・)文章に接してもらうほかありません。



  1月2日(土)
まずハルちゃんからすべてのネコたちに新年のご挨拶。


新年の辺野古濱では、300人の市民が初日の出を向かえ琉舞やカチャーシーで新しい年の決意を固め合ったと琉球新報は伝えていました。
下は北上田さんのご厚意(写真転用を快諾して下さった)に甘えてブログから拝借した新年の辺野古浜の様子です。




「コタツにミカン」「テレビの前で家族団らん」などという正月風景とは対極の沖縄でのお正月。集まった人たちも、新基地建設などということがなければ、遠くから帰った家族とともに楽しい団らんができただろうに。それをも返上して辺野古浜に集結して、これからのたたかいの決意を固める。私たちもその心意気に少しでも思いを重ね、遠い地に想像の翼を広げてみましょう。

さて、1日の毎日新聞一面は、「大規模災害を想定した『緊急事態条項』の追加を憲法改正の出発点にする方針を固めた」と報じました。
この緊急事態条項とは、衆議院・参議院の解散時など国政の政治空白時に大規模災害が起こった場合を想定して、現行の憲法54条の規定(衆院の解散中に緊急の必要があれば、内閣が参院の緊急集会を求めることができる。ただし次の国会開会後10日以内に衆院で同意が必要)よりも強い政府の対応を可能にするというもの。
これを先取りしたものが自民党改憲草案(H12年)です。「お試し改憲」などとというマスメディアの扱いに「いいじゃない」などと軽く受け止めていると大変なことになってしまいます。まず、自民党の改憲草案で、「新設」された条項を見てみることにしましょう。唖然とすることうけあい。

第九十八条
内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。

第九十九条
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。


新聞で見る限り、「自然災害など大規模災害」がその対象であるとされていて、それなら必要なのではないかと思わせられる仕組み。ここがまず最初の落とし穴です。
自民党の狙いはそこにはありません。大規模災害なら現行の規定で何ら問題ないからです。誰かも書いていたように、大規模災害の際の問題は憲法上の規定ではなく、政府の「やる気」なのです。現に3.11の復興がどうなっているのかを見れば分かる通りですから。
別の方も批判しているとおり、自民党には、この草案についてのQ&Aがあって、とんでもない解説(とくにQ41)も書かれていますからぜひお目通しを。
さて、国内で大規模な反政府デモや集会が起こったとしましょう。政権の打倒を目指して各地で交通渋滞などが起こり、経済活動にも一定の支障があったとして、安倍内閣ならばそれを「内乱による社会秩序の混乱」だと判断しても少しもおかしくない。いや、むしろここにこそ自民党の狙いがあるとみていいでしょう。その際に「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定」し「何人も、・・国その他公の機関の指示に従わなければならない」のです。ここに緊急事態条項を設ける眼目があることに注意する必要があります。
自民党は、改憲草案は野党時代につくった、いわば「たたき台」で、正式のものではないのだと言い逃れをしようとしていますが、狙いがなければ作るはずがない。むしろ野党時代だからこそホンネがはっきりと現れているとみるべきです。
「9条」改憲は現政権では無理だから、国民がなじみやすいところから改憲に慣らしていこうというのが自民党の思惑だとマスメディアは書いています。しかし、その先にウルトラ右翼の本音丸出し改憲方針があるのだということを見落とすならば、国民は自らの首を自分で絞めることになってしまうでしょう。



  1月1日(金)
元日の朝は思いがけず雪景色。空はきれいに晴れてすがすがしい空気に満ちています。


みなさま、明けましておめでとうございます。
この年が私たちの健康や私につながる人たちの幸せばかりではなく、人間の尊厳を脅かされているすべての人々の人権を守るとりくみや、平和で民主的な社会を実現するたたかいの前進を心から望まないではいられません。私自身も微力ながらできる限りのことをしたいと考えています。

私は今年、いよいよ「古希」を迎えることになります。妻は一足先に通過してしまったのですが、その際「喜寿」と言い間違えて相当に落ち込んでいたことを思い出します。
このブログを書き始めた頃はまだ50代の終わりだったんですからね、まだ力が相当にみなぎって(?)いました。ところが昨今の私はどうでしょうか。目はショボショボ、腰は言うことを聞かず、足はしびれ・・・
「月日は百代の過客にして、行かふ年もまた旅人なり」と芭蕉はいいました。つとに出不精であった私ではありますが、元来ひと所にいることをあまり好まない私でしたから、多少は分かるような気もします。とはいえ、安曇野に沢山祀られている「道祖神のまねきにあひて」も「漂泊の思ひやまず」とはなかなかならない。いまいちど我が家近くの道祖神の前にでも立って、遠く琉球への思いを新たにすることにいたしましょう。

池田町に居を定めてからほぼ12年が過ぎようとしています。干支でいえば一回り。おそらく私自身の条件を考えれば、あと同じほどの年月を同じような情熱をもって活動できるのかどうか。だとすれば、何ができるのかをやはり真剣に考えないわけにはいきません。
うんと個人的なことをいえば、もう少し運動を取り入れて自堕落な生活習慣を抜本的に改善し、メリハリのきいたものにすることは最優先ですけどね。ともかく、「老い」と精神的にも肉体的にも抗いながら、学ぶことを忘れず日々を充実させたいと密かに思い定めている次第です。今年もどうぞよろしくお願いいたします。




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