今日も朝から夕方までバラ園で作業をしていました。数日の作業で、メインの花壇はようやく形が出来上がったものの、敷地そのものは大変広いので、これは大勢で一斉に手入れをしないとどうにもなりません。私の仕事はその下準備。
バラたちは、かなり早くから蕾を持ち始めて、例年よりも相当に早く花が咲きそうな気配です。6月に入るとすぐにバラ祭りですが、それまでにかなり咲いてしまいそう。
しばらく雨がなかったので心配していましたが、久しぶりに夜に入って本格的な雨になっています。しっかり降って土に水分を補給してくれるといいですね。
NHKを初めとしてテレビでは北朝鮮の党大会の関連ニュースを仕切りに流しています。その意図はどこにあるのでしょうか。アメリカやフィリピンの大統領選挙も同様ですけれど、だからどうなのよというニュースが多すぎます。
朝鮮労働党が36年ぶりに党大会を開いたということ自体、いかにこの党が民主主義とは対極にあるのかを示していると私には思えて仕方がありません。日本においても、あまたある政党の中で政党の最高決議機関である党大会をどのように開いているのかは、その党の民主主義の体現度をはかる物差しでしょう。
党大会と次の大会までの間に大会に準ずる決議機関がどのように行われているのかもまた同様です。
国家機関よりも党を上位に置くこと自体、すでに破綻済みの政治体制なのですが、それを家父長的強権政治、恐怖政治で正当化しようとするこの国は、早晩矛盾を広げ大きな破局を迎えることになるでしょう。
金正恩に心酔しきっているように映し出される人々の心の闇がいかほどのものか、大多数の国民にとってはただただ忍従の日々ということになるのでしょうか。
それにしても、この国の恐怖政治、瀬戸際「外交」を日本の軍拡や改憲への奇貨として最大限に利用しようとしているのが安倍政権。それゆえ、メディアもまた多面的にこの国の問題点を掘り下げるのではなく、いかに異常で恐ろしい国かを強調することに全力を注いでいるように見えます。
そうなれば、私に言わせれば北朝鮮も現在の自公政権もどっちもどっち。なぜなら、自民党の改憲草案の狙っているのは、ほとんど戦前的秩序です。その戦前の政治体制に近似しているのが現在の北朝鮮であり、現在の某政党の母体もほとんど北朝鮮とかわらない専制的な性格を持っているのですから。
ここ2,3日の間に藤原彰さんの著書「南京の日本軍」(大月書店、1997年)を読み返してみて、日中戦争時の南京大虐殺事件について完全に決着をつけたものだとういう印象を改めて持ちました。単に、どのような経過でこの事件が引き起こされたのかを実証的に辿るだけではなく、それが何故に引き起こされたのか事件の背景と原因にまでさかのぼって詳述していることが特徴です。小冊子ながら、右派勢力の南京大虐殺のウソとかまぼろし、虚構などという「歴史修正主義」にはもうつけいる隙も与えない説得力のある論述は小気味よい。
しかし、それでも「南京での殺害は少数であったから虐殺などなかった」というたぐいの虐殺否定論は極右の潮流からは一向に衰えない。たとえば神道政治連盟が今年発行したリーフレット
「日本の名誉を回復するためにー歴史認識四つのポイントー」では、学問的には完全に決着がついてしまっている南京大虐殺完全否定にしがみついています。
「南京事件論争史」(笠原十九司 平凡社新書 2007年)はそうした異常事態に、過去の南京事件を巡る論争を整理しながら、何故にこの国でこの種の「論争」がいまだに絶えないのかを分析し、90年代から2000年初頭にかけて急速に前進した史料の発掘や最新の研究を踏まえた詳細な考察を行っています。
私自身は、こうした学問的な研究成果に浴しながらも、同時に庶民の生活レベルで南京虐殺を「否定したい」症候群を批判し尽くす必要があると思っています。なぜならこの種の歴史改竄と改憲を狙う勢力とは重なっており、「美しい日本の憲法をつくる国民の会 」がすすめる憲法改正を実現する1000万人署名は日本全国の神社=氏子を一つの縦糸として集められているからです。
農村部では五穀豊穣を願う素朴な人々の感情と意識に巧みに神社本庁(全国約8万社の神社を統括)=神道政治連盟の思惑が刷り込まれていく構造が出来上がっているのです。改憲署名はすでに
700万筆集めたというのですから彼らの鼻息は荒い。「生活レベルで」というのは、そのように知らない間に絡め取られ、集団の意識を作りあげられていく構造のことをさします。
笠原さんは、「南京事件論争史」の序章で外国のメディアやジャーナリストから次のような質問を受ける(後者は極端な例としてあげています)、と書いています。
・南京事件という歴史事実がなぜ日本国民の共通認識として定着しないのか。その歴史的、社会的要因あるいは国民心理的ないし集団心理的要因は何なのか。
・歴史事実が国民の歴史認識として定着せず、むしろそれが歪曲され、あるいは抹殺されるような社会は民主主義国家としては未熟か、さもなければ危機的状況にあるのではないか。憲法公布70年の節目にあたり、あらためて自らの歴史認識をより深める作業を行わなければならないと考えているところです。