bottom

azumino.jpg


  5月29日(日)
日が沈んでから雨。作物やバラには本当に待ち望んだ雨になりました。明日まで十分土に染みこむように降ってほしいものです。
今日も1日バラ園で過ごしました。朝は早くから案内掲示の取り付けに会員の1人と車で回り、その後はずっとバラ園に詰めて整備をしたり訪れる人の応対をしたりしていたのです。
ローカル3紙が報道してくれたおかげと、日曜日ということもあって朝から訪問客がひっきりなし。相変わらず池田よりも、大町や松本、遠くは塩尻市、長野市からも来てくれていました。
訪問してくれる人は、結構あちこちを回っている人も多くて、向こうではどのくらい咲いていたかとか、会場の様子はどうだったかという話をしてくれます。
長野市から訪れてくれた方に、私がへっぴり腰で「ご覧になってどうですか。中野などに比べるとずいぶん小さいですから・・・」と聞いたら、何と答えてくれたと思います?
「確かに中野は大きいけれど、何だか人工的だって気がするなあ。中野では人が多くて入り口から出口まで押されているように感じた。それに比べてここは自然を一杯感じられて、手作り感がなんとも言えない。バラ園でこんなにゆっくり休んだりコーヒーまで(注文して)ごちそうになったのは初めてだ。景色も最高だしね」
涙がでるほどの感想を聞かせていただきましたよ。訪れてくれる人たちは、規模よりもバラ園を運営している人たちの普段の手入れや、バラ園にかける心根をちゃんと分かってくれているのですね。
他のバラ園と比べてどうかということより、自分たちのやってきたことに自信を持って、これからも美しい花を見させて下さいというメッセージをそれぞれに伝えてくれたのだと、今日しみじみと実感したことでした。
場所がわかりにくいということについても、ある方は「かえって、あちこち探しながら着いてみたら素敵なバラ園があったという方がかえっていいんじゃないですか」ですって。
そうですよね、後ろの森でウグイスが鳴き、キジが空き地を散歩するのが見え、北アルプスが遠望できるバラ園なんて、全国さがしてもないのですから。私が思い描いた「秘密の花園」っぽいバラ園をという気持ちをよくわかってくれている。
昨日まで来てくれた人たちは約500人。今日だけで約300人くらいでしたから、バラまつり当日とあわせると昨年並みの3000人くらいは来てくれるのではないかと思われます。
もうピークを迎えて花殻を摘まなければならない株が相当多数にのぼっているので、毎日の手入れが大事です。祭りが終わるまで頑張らなくては。





















  5月27日(金)
今日の信濃毎日新聞です。やはり朝から問い合わせが何件か。バラの好きな人は本当にたくさんいるのですね。
今日はあいにくの曇り空ですが、夜半からの雨でバラにはよい贈り物。バラ園ではお昼にかけて女性団体のみなさんが集まることになっているらしい。曇り空もなんのその亭主をダシに話に花がさくことでしょう。ダシも出ない年なんですけどね。
昼過ぎから来訪客への対応を兼ねてバラ園にでかけ、整備作業をしておりました。すでに今日新聞で見たという方々が大勢訪れていました。3時過ぎに帰るまでに100人ほども来ていたでしょうか。土日にはさらに人出があるのではないかと思われます。
「わーすてき」「来てよかったねえ」などと感動されると、こちらも嬉しくなってしまいます。


******************************

沖縄県議選が今日告示になりました。翁長与党が圧倒的に勝利して欲しいと願います。その県議会が26日、米軍属による女性殺害遺棄事件に対する抗議決議とともに、米軍普天間飛行場の県内移設断念に加えて在沖米海兵隊の撤退と基地の大幅な整理縮小を初めて求める意見書を採択しました。どれほどの怒りが沖縄中を覆っているのか、安曇野に住んでいる私には計り知れません。

昨日の沖縄タイムスは、話題の海兵隊の新兵教育で驚くべき内容の「教育」をしていることを暴露しました。今日の「しんぶん赤旗」でも同様の記事が掲載されました。
ニュースソースは、イギリス人のジャーナリスト、ジョン・ミッチェル氏が入手した米軍海兵隊の新兵研修用の発表スライド。これには2種類あって、2014年2月のものと、民主党政権時代とみられる時期のものの2つといいます。

沖縄タイムスとしんぶん赤旗をもとにその内容を列挙すると次のようになります。

・(沖縄の世論は)論理的というより感情的。2重基準、責任転嫁。
・(本土側の)罪の意識を沖縄は最大限に利用する。
・沖縄の政治は基地問題を『てこ』として使う。
・(沖縄の地元2紙は)内向きで狭い視野を持ち、反軍事のプロパガンダを売り込んでいる。(一方で)本土の報道機関は全体的に米軍に対してより友好的だ。
・多くの県民は、軍用地が唯一の収入源で、基地の早期返還を望んでいない。
・(1995年の米兵暴行事件について)その後の日本政府の対応が島中、国中の抗議を引き起こした。
・米軍の1人当たりの犯罪率は非常に低い。メディアと地方政治は半分ほどの事実と不確かな容疑を語り、負担を強調しようとする。
・(兵士に対しては)異性にもてるようになる『外人パワー』を突然得る」(として、我を忘れないよう注意している)。
・(日本)政府は代替地を本土で見つけられないため、兵士と基地を(沖縄に)残したいと考えている。
・(名護市辺野古の新基地建設については)特に滑走路がサンゴ礁の上に建設され、漁業やジュゴンを危機にさらすことから、もはや評判の良い案ではない。
・米軍基地反対の言説は偏っているとしても、うそではない。


内輪の文書であるだけに、言いたい放題とともに、米軍の本音、弱気などが混在しているのが特徴です。それにしても「お友だち」の米軍がどれほど沖縄県民を見下しているか、よくわかるというものです。この文書を入手したミッチェル氏は、「米軍が沖縄を見下してもいいと教育し、何も知らない若い兵士の態度を形作っている。『良き隣人』の神話は崩壊した」(沖縄タイムス)と語り、いずれ自身のウエブサイトで公表するとしています。

夕方からは、オバマ大統領の広島平和公園訪問の模様を実況で見ていました。米大統領が初めて広島を訪れ、資料館や原爆ドームを見たという意義には歴史的なものがあるし、被爆者と接する態度を見てもこれはオバマ大統領でしかできない誠実な対応だと感じます。核兵器の問題に限ってはオバマ大統領の「核廃絶」への思いはそれなりに伝わっては来ます。
しかし、実際に進行中の米戦略や日本との関係についていえば、、残念ながら手放しで喜べるほどのイニシアチブを発揮しているわけではありません。逆に、日本への有事核持ち込みの問題やドナルド・トランプの大統領に就任した場合の日本核武装容認発言などに見られるように、アメリカの核戦略をめぐる状況は複雑な様相を呈しているのです。もう一期オバマ氏が大統領をやれるのであれば、確かにアメリカの変化を見ることができるのだろうとは思いますが・・・。
安倍首相もまた、党内に核武装論者をかかえ、アメリカの地位協定見直し拒否の姿勢に抗議もせず、ただアメリカの忠実な「同盟者」として軍事大国への道をひた走っているのですから、今回のオバマ広島訪問は単なるパフォーマンスで終わってしまう懸念の方が強い。
オバマ大統領が真剣に核廃絶への大きな一歩を踏み出そうとするのなら、核兵器禁止条約の締結を含む行動で世界のリーダーシップを発揮する以外にありません。
同時に、日米関係でも、日米地位協定の見直しを含む沖縄の基地削減、辺野古新基地建設断念、米海兵隊の撤去など沖縄県民の声に真摯に耳を傾ける必要があります。
琉球新報が、「日米首脳会談 事件防ぐ意思感じられない」とする社説をかかげ、沖縄タイムスも「[日米首脳会談]具体性欠け心に響かず」「[日米共同会見の裏で]『辺野古』確認するとは」とする社説を掲げて抗議している現状に胸が痛まないようなら、やはりパフォーマンスとの評価も甘んじて受けてもらわなければならないでしょう。



  5月26日(木)
極右政党と化した自民党には、それにふさわしい国会議員もいれば、地方議員もいる。地方議員でいうとたとえば自民党小島健一神奈川県議(青葉区)のようなお方だ。
ホームページには「平成25年、同志の議員とともに尖閣諸島を視察。領土意識、歴史認識の大切さと、国民・市民の暮らしを守る政治家の矜恃と決意を新たに」とある。どんな「矜恃と決意」なんですかねえ。
「直言コラム」4月8日号No.114では、ストレートに、集団的自衛権行使については「視野の狭い憲法学者の言説」にとらわれず、「日米同盟の抑止力は強化され、日本の防衛体制はより強固になる」と主張する産経新聞の方を指示すると書いている。とりわけ、シールズなどの学生たちがアベと呼び捨てにし、乱暴な口調で国会前でスピーチをしているのがことの他神経にさわるらしい。彼らのラフな服装もお気に召さないらしい。「警察に守られながら安穏とデモを行っているが、相手を間違えている」といい、軍国主義にひた走る中国にこそ抗議すべきだと主張していらっしゃいます。

さて、24日の沖縄タイムスによれば、このお方、8日に東京であった沖縄県祖国復帰44周年記念靖国集会に出席して、沖縄県内で米軍基地に抗議する県民について「沖縄では基地反対と毎日のように騒いでいる人たちがいる。基地の外にいる方ということで『キチガイ』の方と呼んでいる。これはやはり神奈川も同様で、大変苦慮している」と公言したとか。沖縄の新聞2紙についても「明らかにおかしな新聞」「本当につぶれた方が良い」と述べたと伝えられています。実際のスピーチの模様はしっかりとYouTubeにアップされているので誰でも見られるようになっているのがミソ。
「同志の方々」というのは、おそらくこの靖国集会に参加した諸氏のような人々をさすのでしょう。
ちなみに、この集会に参加されていた方々の100名に満たないデモ行進も警官に守られて安穏と行進していましたよ。

本土にも、もちろん沖縄にも狂信的な右翼信者というのはいるもので、一水会のような民族派右翼からすれば、似非右翼ということになるのでしょうが、自民党本部が言いたくてもいえないようなことを平気で垂れ流すことが彼らの「本分」なのですから、しっかりとその役割を果たしているのでしょう。彼の言動がアベの歓心を買い、その先兵を自認しているだけに余計に恐ろしい。
このような人物が県会議員であることの異常さを有権者はどのように認識しているのか、むしろその方が問われると私などは思ってしまいます。
自らの都合の良い情報だけを鵜呑みにし、適当に切り貼りし拡大して垂れ流す。知性・教養などとはおよそ無縁のこうした人物たちがいかに多いことか。そして右翼的な言動を容認するこの国の精神的土壌に寄生し、あおり利用使用とする黒い勢力。私はそのような現れの一つ一つを地域から道理と言論の力で潰していかなければならないと固く心に決めています。このような議員の「同志」たちが牛耳る国がどんな国になるのかを想像するだけでも背筋が凍りますものね。彼らの策動を絶対に許してはならない。先日元米兵に殺害され遺棄された女性だって浮かばれない。

************************************

今日はバラ祭り前の最終定例作業日。駐車場に予定している空き地の草刈りや園内の整備に汗を流しました。信濃毎日の記者も訪問してくれて、満開直前のバラ園で取材を受けました。この記事は明日掲載されるとのこと。
大糸タイムスは昨日の新聞で報じてくれました。これらの記事がでると途端に訪問客が増えるので、手分けしてバラ園に詰めていなければなりません。何とか天気も持ってくれたらいいのですが。








  5月25日(水)
今朝バラ園の駐車場に予定している空き地の草刈りに出掛けて目を見張りました。バラがもうすっかり咲いているではありませんか。咲きがけのバラの美しいこと例えようもない。
まだ蕾の株もあるので、あと1週間後のバラ祭りにはちょうど満開になっていることでしょう。今年はぴったりのタイミングでのまつりが迎えられそうです。園内ではすでに何組かの訪問客もあり、しきりに写真をとっていました。


沖縄では22日に米軍司令部のあるキャンプズ瑞慶覧のゲート前で抗議の追悼集会が開かれ女性を中心に2000人が参加したと報じられています。
スピーチもシュプレヒコールもない静かな行進で参加者の持つプラカードが基地にむかって掲げられるだけ。そのプラカードの裏には右のような黒い蝶の切り絵が貼り付けられていたといいます。
北上田さんによれば「沖縄では、死者の魂は蝶になって皆のところに現れると言われている」のだそうで、先日無念の死を遂げた女性の魂をかたどっているのでしょう。参加者の悲しみと怒りが伝わってきます(蝶の切り絵の作者は「高江のジョナサンさん」)。
私たちが大町を中心に軽トラパレードを行う予定の6月19日には、沖縄県那覇市奥武山公園で一大抗議集会が開かれます。間違いなく1995年の少女暴行事件抗議集会8万5千人を上回る集会となることでしょう。このような悲劇にどうしても終止符を打たせなければなりませんから。
私たちが計画している100台の軽トラパレードに呼応して全国で連帯の軽トラパレードが計画されているという話があることをネットで知りました。沖縄にも連帯して是非とも成功させたいものです。






  5月23日(月)
最近、我が家の飼い猫ハルちゃんは全くの夜型の生活になってしまい、午後3時頃まで寝ていて、一晩中どこかへ遊びに行き、朝方帰ってきて寝るという生活です。
今朝早く3時頃一時帰宅して、私を起こして少し腹ごしらえをして、また出掛けようとしているので外へ出さないようにしようとしたら、外に他のネコでも見つけたのかものすごい鳴き声で威嚇し始めた。制止しようとネコの両脇に手をかけた瞬間、多分私だとは思わず何かに襲われたと勘違いしたのでしょう、ビックリして飛びすさるときに私の指先を引っ掻いてしまった。おかげで、私の左手薬指の先が深くえぐれて、ポタポタ血がしたたり落ちる始末。
叱るわけにもいかず、ともかく止血をと押さえていたのですが、傷が深いためかなかなか止まらない。やむなく妻を起こして傷バンできつく巻いてもらってようやく落ち着きました。ハルちゃんは、シッポを5倍くらいに逆毛立てて、隠れるように寝に行ってしまいました。
今朝、あらためて傷口に薬をつけて、今度は傷用の指サックをはめてもらって、しばらくそのままにしておくことにしました。ま、2,3日で傷口はふさがるでしょう。
ところが、左手とはいえ薬指が不自由なのはなんとも不都合で、パソコンのキーボードが打ちにくくてしようがない。薬指は結構大事な役割をしていますからね。しょっちゅう打ち間違いながら、この一文を書いています。

今日、沖縄県翁長知事が安倍首相と面談し、「米軍人・軍属の綱紀粛正、事件の再発防止、日米地位協定の改定」を強く要請するとともに、オバマ大統領と直接話をする機会を設けてくれるように要請したと伝えられます。
これに対してオバマ大統領との「面会は困難」との認識を示した菅官房長官に対して翁長知事は「在日米軍を支える県民の思いを心の中に押し込めることができないくらい爆発状態だ」と述べたとも。
アベもスガも沖縄県民の苦しみなど時間がたてば通り過ぎるとしか思っていないのでしょう。
沖縄タイムスは、今回事件を起こした軍属の男は「軍属の中でも地位協定適用の“特権”が受けられるSOFAと呼ばれる地位を与えられていた。雇用契約によって同協定の適用を受けない『軍属』がいる中で、SOFAは『法制度上は限りなく軍人に近い保護』(日本人基地従業員)を受ける立場」なのだといいいます。つまり、「日米地位協定17条は第1次裁判権について、米軍人・軍属の公務中に起こした犯罪は米国にあり、公務外の場合は日本にあると定める。だが公務外でも、米側が先に身柄を確保すれば原則起訴まで日本側に引き渡されない」のです。今回は、たまたま公務外だったことに加えて、沖縄県警が先に身柄を押さえたために日本側に裁判権が生じたのですが、「一歩違えば、地位協定を盾に米側が男の身柄を確保し引き渡さない可能性もあった」ということです。これらの背景にある日米地位協定について、安倍政権はアメリカに対し全く思考停止であり、なすすべもありません。
だから翁長知事の言うとおり、安倍政権は口では「県民に寄り添う」などと空々しいことを言うけれど、「実感としてそばにいたことは一度も感じられない」のです。
それに対して、アメリカが要求する基地の維持と新基地建設については、その意図を斟酌し、議会でどのように追求されようが、沖縄県民がどのように要求しようが、何が何でも沖縄県民に押しつけようとする。ま、アベさんは立法府の長であるらしいからさもありなん。
ところで、日本には極右政党「日本のこころを大切にする党」(自民党と同じ穴のむじなです)というのがありますが、これは昨年暮れに「次世代の党」から衣替えしたものの、ほとんど国民からはそっぽを向かれてしまった党です。
所属議員4人のうちのひとり和田政宗参院議員が、わざわざ辺野古キャンプシュワブ前のゲート前で、「移設に反対する市民らのテントが不法占拠だとして撤去を求めた」といいます。座り込んでいる人たちはそりゃ怒りますよね。
要するに自民党の方々ができないようなことを、突出してやって自民党の政策を助けるというのがこの党の役割、実際に沖縄への対応で、辺野古新基地への対応で安倍政権のやっていることを代弁しているだけです。
沖縄の人たちがどれほど悲しみ、怒っているのかを、来月私たちは目の当たりにすることでしょう。



  5月20日(金)
ヤマトはウチナーの怒りと悲しみを共有できるのか。沖縄での凶悪犯罪のニュースを見ながら、この国の政府はまた沖縄を見捨てる気なのだなと思わされたことでした。
何よりも、自公政権にとってオバマの来日に悪影響を及ぼさないか、沖縄県議選や参議院選挙にマイナスにならないかという観点ばかりがメディアから聞こえてきます。外相がすばやい対応をとったのも結局はそれでしょう。訪米から帰ったばかりの翁長知事のコメントがそのことの何よりの証左です。
次は琉球新報の記事の一節です。

米軍属女性死体遺棄事件を受け、翁長雄志知事は19日夜、成田空港で報道陣に対し「この怒りは持って行き場がない。痛恨の極み。沖縄の知事として大変残念だ」などと沈痛な表情で述べた。
翁長知事は事件について「基地あるがゆえに事件が起きてしまった」と強調し、米軍普天間飛行場の移設問題を含めた基地問題に「不退転の決意で取り組みたい」と話した。
翁長知事は「今年の初めごろに那覇市内で婦女暴行事件があり、四軍調整官が県庁におわびに来ていたが、何ら改善されていない」と指摘。その上で事件が起こった際の日本政府の対応について「当事者能力がなく、ただただ米軍に伝えますということだけで今日まできている」と痛烈に批判し「今のままではいかないということにつなげていかなければならない」と述べ、政府の姿勢をこれまでよりも段階を上げて厳しく追及していく考えを示した。


安倍首相は首相官邸で記者団に「非常に強い憤りを覚える。さぞ無念だったと思う。家族のことを思うと言葉もない」と語ったと伝えられます。しかし、それは言葉の上だけ。沖縄に米軍専用基地の74%がひしめき、米軍関係者の犯罪・基地被害が絶えない,世界にも類のない異常な沖縄の有り様をそのままにしているのですから。地元2紙が容疑者逮捕を臨時号外(琉球新報沖縄タイムス)で県民に知らせたその真意をこの人は到底理解することはできませんね。
アメリカ側も当初は「米兵ではない。民間人だ」と述べたと伝えられますが、事態の重さにケネディ大使は「米国民と米政府を代表してご遺族に思いを寄せ、深い悲しみを表明する」と表明せざるを得なくなっているのですが、「明確な謝罪の言葉はなかった」(琉球新報)。在日米軍のジョン・ドーラン司令官もまた、一方で「非常に心が痛ましく、大変寂しく思う事件だ」といいつつも、「『分かっていることは現役の米軍の軍人ではないということ、国防総省の軍属、職員ではないということ、また米軍に雇用されている人物ではない』などと説明し、自らの責任を回避するような発言もあった」(琉球新報)ということですから、できるだけ事を大きくしたくないという思惑で一貫している。
本土の人間には、米軍属の男の殺人事件も、尼崎での殺人事件もおそらく同列にしか見られません。それはやむを得ないところがあります。私だって、これほど沖縄に関わっていなければ、一時は怒りを覚えてもすぐに過去のことになるのだろうなと思うからです。
しかし、そのことが、「抑止力のために沖縄の基地が必要だ」「日米同盟の強化に沖縄の果たしている役割は大きい」ゆえに、沖縄の基地の現状固定化あるいは辺野古新基地建設の容認へと結びついていくなら話は別です。
メディアも多くの国民も「いろいろ問題はあっても、沖縄の米軍は中国・北朝鮮の脅威から日本を守ってくれている」という「神話」にとりつかれています。「在日米軍は日本を守ることが目的ではない」米軍高官がつい最近もそのように断言しましたね。
遠くは1971年、アレクシス・ジョンソン国務次官が一時的に長官代行としてニクソン大統領に提出したメモには次のように書かれていました。この機密文書を発見したのは春名幹男早稲田大客委員教授。

在日米軍は日本本土を防衛するために日本に駐留しているわけではなく、韓国、台湾、および東南アジアの戦略的防衛のために駐留している。在日および在沖縄米軍基地はほとんどすべてが米軍の兵站の目的のためにあり、戦略的な広い意味においてのみ、日本防衛に努める。

海兵隊が存在するのは他の場所での居場所を失った最後の砦として、なぐりこみ部隊を存続させるためのみ存在するのであって、沖縄を守るなどというのは全くの作り話です。
嘉手納は空軍基地ですから、有事の際には「スタンドオフ&アウトレンジ」の方針に沿って行動することは明白。なぜなら、仮に中国が米軍基地や自衛隊基地を攻撃するならば、人海戦術で海を渡ってくるなどということはありえず、必ずミサイルでの攻撃になるだろうからです。米軍がこれに対応する術はありません。このとき、被害を受けるのは米軍ではなく沖縄県民なのです。
これらのことからいえるのは、いま沖縄県民が口をそろえて訴えているごとく、「米軍は沖縄から出て行け」と主張し実際「出て行かせる」しかないということです。

私たちは、仮に沖縄に行ったことがなくても、現在では様々な方法で沖縄を知ることができます。ネット環境がありさえすれば、「その気になれば」いくらでも基地の実態や米兵の犯罪のこと、沖縄県民のたたかいの様子を知ることができる。基地があることでどれほど本土とは異なるのかを疑似体験することができるのです。
「悲しみを怒りに、怒りをたたかいに」、基地をなくすために、沖縄と連帯した「たたかい」がますます求められているのだとの思いをいっそう強くしています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、昨日は朝からバラ園の定例作業。10人を超える会員が集まり、ローカル紙の取材もあって、にぎやかでした。
園内の整備はほぼ終わって、あとは周辺の片付けや除草が残っているだけ。2週間後からの「バラ祭り」の打ち合わせも行いました。





  5月18日(水)
バラ園ではすでにいくつかの木が花を咲かせ始めました。例年より2週間ほど早まっているのかな。バラ祭りまであと3週間。それまでにはもう満開を迎えているはずです。
一昨日、昨日と報道機関(ローカル紙)の記者の方々と会って、ぜひ事前報道をしてほしいと要請しました。例年、一週間ほど前に報道してくれるので、それからドッと人出が増えるのです。
準備のためにまだまだやるべきことが山ほど。しばらくは腰の痛みとたたかいつつ、バラ園での除草や整備作業に精をださなければなりません。
手入れを続けてきてバラたちが園内いっぱいに美しく咲き誇ってくれている・・・これが会員の皆さんを引きつけて止まないバラ園の魅力で有り、活動の源泉なんですね。そして、訪れた人たちを楽しませ、いっしょに感動を分かち合う。いよいよ長続きする活動のその源泉をこれから目の当たりにするわけです。いい季節になりました。













  5月17日(火)
池田町の「財政白書2016年度版」がようやく完成しました。
印刷も製本(ただジョイントで止めて製本テープでカバーしただけのもの)も個人でやっていたので結構手間ひまがかかってしまいました。冊子での普及を優先するため、ホームページ上での公開は後日ということにします。
できるだけ多くの人に読んでもらえるようにこれから普及に歩くことが仕事になります。

この財政白書はもちろん4年前の「財政白書」をもとに最新のデータを加味して改訂したものですが、今回は2年前から問題となった町の社会資本総合整備計画に関する策定委員会での議論をふまえて、その場で発表したいくつもの資料を収録しました。これからの財政のあり方をうらなう一つの重要な課題の一つだからです。
また、直接には財政には関係しませんが、ある意味では財政の命運を決するともいえる町の人口問題と少子化・高齢化の問題をとりあげました。あくまで資料を提供することが目的ですから、少子化・高齢化の政策的な問題についてはほとんど触れていません。

ところで、この資料を妻に見せたら「エエッ〜〜、見たくないわ」と引いていましたから、多分これが大方の町民の反応でしょうね。自分たちの税金がどう使われているのかを知る資料ではあるにせよ、細かい統計資料がどっさり載ったこんな財政分析など、ふつう見たくもありませんからね。「巻頭に『妻に捧ぐ』と書いたら読んでもらえるかなあ」と冗談を言っておきました。

町の財政は一般会計、特別会計があり、町の決算書を見ても余りにも膨大なものですから、一般町民はそれを見ただけで目眩を感じるのがオチです。何を隠そう私だってその口なのです。ただ、幸いなことに総務省が「決算カード」という形で県・市町村の財政を大変見やすく一覧にしてくれているので、財政のあらましをつかむことができるというわけです。もしこれがなければ大変な作業をしなければならないことになるでしょう。
これを使って財政分析を住民の立場からやろうと提起してそのやりかたを伝授してくれたのが大和田 一紘さん。私もこの方の「習うより慣れろの市町村財政分析」という本で決算カードの見方を学びました。
ひと頃、全国的に決算カードを使った大和田流の財政分析が活発に行われた時期がありましたが、最近はちょっと下火になっているのでは? 私にはその理由がよくわかります。たった一枚の決算カードでも、それを10年なり20年なりの経年変化を調べ上げ、分かりやすくまとめ上げるには相当な時間と労力、パソコン処理の技能が必要だからです。
まず、こうしたデータを必要とするのは、市民活動をしている方々です。そうした人ほどみんな忙しい。時流に乗って一時期集中して取り組むことがあっても、いままで中心だった人が高齢化したり、他の活動に取られたり、転居したりして不在になればとたんにできなくなってしまうからです。これほど個人に依存する作業、「ひま人」の出番となる作業もありませんからね。
私の場合は、たまたま、4年前に必要に迫られて、一定の作業をしてあったこと、これまでに町の委員会に参加した経験をもつことができたこと、細かい仕事やパソコンの処理が苦痛ではないことなど、有利な条件があったことなどのために、完成にこぎ着けることができただけです。
私の作った冊子は、かなり専門的で、一般向けではないという批判があるかもしれません。しかし、残念ながら財政の現状を一目で誰にでも分かるようにする方法はありません。むしろ、私にはこれくらいの作業をやっておけば、あとは誰かが後を継いで、独自の視点で財政分析をしてくれるその下地をつくるというくらいの気持ちでやっていたのです。きちんとしたものをあえて作成したと言った方がいいかもしれませんね。
それゆえ、問題意識を持ち、財政に関心を寄せ、理解しようと努力する人には大変おもしろいデータを沢山提供しているだろうと確信しているのです。問題はどれだけの町民が、町の財政のあり方に関心を寄せて下さるのかということ。今のところ50冊だけ印刷製本しましたが、大量に余ってしまったというのでは悲しすぎます。
というわけで、今日はさっそく役場に出掛けて、町長・副町長にできたての冊子を届けてきました。課長さんなど何人かの方にも買っていただきました(作成費がバカにならないので実費程度をカンパしてもらったのです)。
これをお読みの方で関心がおありの方はお届けしますので、是非ご連絡ください。



  5月15日(日)
今日5月15日は沖縄が1972年のこの日本土復帰を果たした日です。それから44年も経つのですね。
この年月は、私と妻とが結婚してからの歳月とほぼ重なります。結婚の許しを得るために復帰前、パスポートを持って沖縄に出掛け、真っ昼間煌々とライトをつけて我が物顔に軍用道路を走る米軍車両に驚き、折しも毒ガス漏れがあった余波で基地周辺ではものものしい警備が見えたりと、本土とのあまりの違いにビックリしたことを今思い出します。
おまけに身内での話はほとんど島言葉なので、妻の父母や兄弟姉妹のおしゃべりがまるで理解できず、結婚に賛成なのか反対なのか、ただ小さくなっているだけでした。表情で、しっかり受け入れてもらえたことが分かって一安心。
その何年後かに5月に沖縄に行ったとき、ちょうど広場で5.15集会が開かれていた場所を通りかかりました。「核抜き・本土並み」という自民党政権の復帰理念が実はまるでウソで、実態は以前と少しも変わらない米軍基地の中の沖縄にされていることに、県民は一様に抗議の意思を示していたのでした。
今日の琉球新報は「きょう復帰44年 「自治」県民の手に 沖縄の進路、自ら決める」との社説を掲げ、次のように書いています。

現状を振り返ると、米軍基地の重圧は変わらず、米軍関係者による事件・事故も絶えない。憲法が保障する「平和的生存権」が沖縄では軽んじられている。
 基地問題では、名護市辺野古での新基地建設といった沖縄の主体性を無視した政府の強権的な姿勢も目立つ。
44年間、沖縄への構造的差別を温存しただけとは思いたくない。
44回目の「復帰の日」、改めて沖縄の進路は自ら決める「自立の日」として足元を見詰め直したい。


そして、復帰当時の屋良朝苗主席の沖縄県民は「人間性の回復”を願望している」という言葉を紹介し、これは「当然の願望」なのだと書いています。にもかかわらず政府は「選挙で示された新基地建設に反対する民意を政府は平然と無視し、地方自治を侵害している」「見せ掛けだけの「負担軽減」はもうやめてもらいたい」と厳しく政府の差別的扱いに異議を唱えているのです。
沖縄の民意を代表しているともいえる地元紙の主張に、しっかりと耳を傾けたいと思います。

さて、この週末は結構いそがしい毎日でした。記録的に書き留めておくだけにしますね。
木曜日はバラ園定例の作業日。ちょっと人数は少なかったのですが、それまでに相当作業を進めていたので、割と早く終わることができました。
快晴の気持ちのよい日で北アルプスの眺望が最高。こんな素晴らしい眺めが堪能できるバラ園、全国さがしてもありませんね。最高です。
バラ祭りが間もなく始まるので、その準備もすすめなければなりません。その打ち合わせも兼ねていつものおしゃべりに花が咲きました。ちなみに、今日通りがかったら、ブルガリア・ローズがもう一輪花を付けていました。このままじゃあと一週間もすれば、ボチボチ花が咲き始めるのかも。


金曜日は昼から松本で演劇鑑賞。出し物は青年劇場の「Be My Baby」。喜劇だったのですが、私は眠気に半分気を取られて舞台に集中することができず、ちょっと残念でした。
土曜日は昼前からまず安曇野市にでかけ、統一候補の杉尾ひでやさんの街頭演説の聴衆になりました。これは安曇野の市民団体が計画したもので、民進・共産・社民の代表も並んで演説。70人くらいの市民が真剣に耳を傾けました。こうした場がいろんなところでつくられるといいですね。




そのあと、私は松本での「子どもじゅく」へ。新しい子が二人母親に連れられて見学。私はそのうちの一人につきっきりで、中1の数学を基礎から説明しました。続けて来てくれるといいのですが。
そして今日は午後から恒例のスタンディングと事務局の打ち合わせ。軽トラパレードを成功させるために、やるべきことをやりきろうと話し合いました。


もう一つ、その他の時間を利用して週末に私がやっていたのは、例の「財政白書」の修正・加筆と印刷です。総務省のウエブページをみたら、平成26年度の決算カードがアップされていたので、すべてのデータにこれを反映させなければならなくなったのです。大変細かい仕事なので根気が要ります。
ついでにデータの入力ミスや文章の変なところを直して、今日からようやく印刷にかかることができるようになったのでした。あと2,3日で出来上がる予定です。



  5月11日(水)
昨日から今日午前中にかけてまとまった雨。昨日はそれほどでもありませんでしたが、昨夜からは気温が高く朝にかけて久しぶりに農作物の喜ぶような雨になりました。おかげで作物は順調。離れの畑ではもうイチゴが赤い実をつけはじめ、昨日・今日と続けて少しずつですが収穫しました。何と早いこと。
庭ではスナップ・エンドウがサヤを太らせ、早速ゆでて食しました。パリパリとした食感がたまらないですね。植えたかいがありました。レタスもグンと大きくなって玉を巻いておいしそう。


夏野菜では、トマト、キュウリ、その他いろいろ植えました。早くおおきくなあれ、です。種から育てているのはキュウリ、落花生、ミニトマト、ゴーヤ等ですが、落花生の発芽率は6割止まりと今年は落第点。何年目かにしてようやく発芽させるコツを掴んだ気がしました(企業秘密)。ゴーヤも忘れた頃に芽を出すので、半分くらい苗を買ってしまいました。
というわけで、これからは毎日農作業が続きます。おいしい野菜を食べるためにはお金も労力もかかります。できるだけお金をかけずにやりたいのですが・・・。

月刊誌「世界」6月号で、元共同通信記者の春名幹男さんが日米政府間の核密約についての一文を寄せています。丁度昨夜これを読んで何か書こうかと思っていたら、今日の「しんぶん赤旗」が一面で大きく取り上げていました。
春名さんの記事に即しながら、この問題について多少整理しておくことにします。

日米間のこの核密約とは1969年の沖縄返還交渉の際に、佐藤栄作首相とニクソン米大統領 (いずれも当時)の間で交わされた約束事(事実上の条約)で、沖縄返還後に「緊急事態」が発生した場合、米軍が沖縄に核兵器を「再持ち込み」することを認めた取り決めを指します。
これまでは核密約の存在をアメリカ側は公式には一切認めてきませんでした。それが今回、アメリカ側が国防総省の文書で初めて密約の文書としての存在を認めその有効性を公然と主張したことが明らかになったのです。
日本側も、当然のことながらその存在をかたくなに否定し続けてきました。しかし、「後になって想定外の形で表面化した二つの密約文書」がメディアに登場します。一つは沖縄返還交渉で佐藤首相の密使をつとめた若林敬さんが1994年に体験記「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」(文藝春秋)のグラビアで示したもの。しかしこれはドラフトで首相・大統領の署名はありませんでした。
もう一つは民主党政権下で当時の岡田外相の主導で行われた密約調査中の2009年、読売新聞が両首脳の署名入りの密約文書正文をスクープし、明るみにでたものです。ただ、この文書は佐藤首相の在任中は官邸に、佐藤の死後は次男の佐藤信二元通産相が保管していました。佐藤の遺族は密約文書を外務省外交史料館で保管するように申し出るのですが、「公文書ではなく私文書にあたる」として断られたというのです。つまり、外務省は、公式的には「密約は不必要で共同声明第8項でこと足れり」として、「個人の約束事で外交文書としての効力はないとのスタンスを貫いている」という立場をとり続けてきました。
今回明らかにされたアメリカの歴史文書は、「有事核再持ち込み」の密約が現在もなお生きていることをこれ以上無い形で示したことになります。
春名さんは、アメリカがこの時期に歴史文書で明言した理由について、@アメリカにとって同盟国が「有事の核再持ち込みを約束した密約がない」と認定することなど認められず、「密約は生きている」という注意喚起の警告を発したのではないか。A東アジア情勢が緊迫する中で、有事には沖縄にも核兵器を持ちこむとの意思を中国・北朝鮮に対して公然と示したとも言える、と語っています。

では、歴史文書(「国防長官歴史シリーズ第7巻」:昨年公刊)では何が書かれているのか。春名さんは第13章「東アジアの変化」の「沖縄返還」の部分の記述に注目しています。それは次のくだりです。

沖縄返還協定第7条に基づいて、日本が引き継ぐ米国の施設に対する補償および核兵器撤去の費用として、米国に3億2000万ドルを支払うことで合意した。協定では明確に核軍備とは言及していないが、第7条は1969年の佐藤・ニクソン共同声明が示したように日本領土内で核兵器保有を禁止する日本の政策に「背馳しないよう」返還を実施すると明記している。米国は(核)兵器を撤去するが、危機の際にはそれらを再持ち込みする権利を維持した。米政府は沖縄において大半の軍事施設と人員も維持する。多くの基地は閉鎖され、占領した土地は沖縄県民に返還される。しかし、米国防総省にとって最も重要なことは、この協定で米国に、嘉手納空軍基地を含む沖縄の54カ所の主要施設の無期限継続使用が認められたことだった。

改めて佐藤・ニクソン核密約の正文を見てみましょう。

米国大統領
日本を含む極東諸国防衛のため米国が負う国際的義務を効果的に履行するため、重大な緊急事態の際には、米国政府は日本国政府との事前協議の上、沖縄への核兵器再持ち込みと通過の権利を必要とする。米国政府は好意的な回答を期待する。米国政府はまた、既存の沖縄の核貯蔵地である嘉手納、那覇、辺野古、そしてナイキ・ハーキュリーズ基地をいつでも使用できるように維持し(standby retention)、重大な事態の際には活用することが必要となる。

日本の首相
日本国政府は、大統領が重大な事態の際に必要とすることを理解し、そのような事前協議が行われる場合、遅滞なくこれらの必要を満たす。


これらは一体何を意味するか、もうはっきりしていますね。沖縄では具体的な基地名まであげられて、現在も将来も最新の核兵器の貯蔵に備えたあらゆる準備が行われているだろうということです。春名さんは次のように言い切ります。

現在、米海兵隊普天間基地の移転先として、政府と沖縄県が対立する辺野古が、核再持ち込みのため「いつでも使用できるよう」スタンバイしている状況にあることが、今回確認されたと言っても過言ではない。

辺野古ではV字型の滑走路だけではなく、現在の辺野古弾薬庫の強化、強襲揚陸艦のための岸壁が作られようとしているわけですから、この密約を合わせて考えると、政府の言うような「普天間基地の危険性除去のための唯一の解決策」などという生やさしいものではなく、最新の核出撃基地を新規に建設する(アメリカのために建設してやる)ということになります。いつまで日本政府は「核密約などない」とシラを切るつもりなのか。対米従属外交もここに極まれりという印象を持ちます。



  5月9日(月)
今日も朝から夕方までバラ園で作業をしていました。数日の作業で、メインの花壇はようやく形が出来上がったものの、敷地そのものは大変広いので、これは大勢で一斉に手入れをしないとどうにもなりません。私の仕事はその下準備。
バラたちは、かなり早くから蕾を持ち始めて、例年よりも相当に早く花が咲きそうな気配です。6月に入るとすぐにバラ祭りですが、それまでにかなり咲いてしまいそう。
しばらく雨がなかったので心配していましたが、久しぶりに夜に入って本格的な雨になっています。しっかり降って土に水分を補給してくれるといいですね。

NHKを初めとしてテレビでは北朝鮮の党大会の関連ニュースを仕切りに流しています。その意図はどこにあるのでしょうか。アメリカやフィリピンの大統領選挙も同様ですけれど、だからどうなのよというニュースが多すぎます。
朝鮮労働党が36年ぶりに党大会を開いたということ自体、いかにこの党が民主主義とは対極にあるのかを示していると私には思えて仕方がありません。日本においても、あまたある政党の中で政党の最高決議機関である党大会をどのように開いているのかは、その党の民主主義の体現度をはかる物差しでしょう。
党大会と次の大会までの間に大会に準ずる決議機関がどのように行われているのかもまた同様です。
国家機関よりも党を上位に置くこと自体、すでに破綻済みの政治体制なのですが、それを家父長的強権政治、恐怖政治で正当化しようとするこの国は、早晩矛盾を広げ大きな破局を迎えることになるでしょう。
金正恩に心酔しきっているように映し出される人々の心の闇がいかほどのものか、大多数の国民にとってはただただ忍従の日々ということになるのでしょうか。
それにしても、この国の恐怖政治、瀬戸際「外交」を日本の軍拡や改憲への奇貨として最大限に利用しようとしているのが安倍政権。それゆえ、メディアもまた多面的にこの国の問題点を掘り下げるのではなく、いかに異常で恐ろしい国かを強調することに全力を注いでいるように見えます。
そうなれば、私に言わせれば北朝鮮も現在の自公政権もどっちもどっち。なぜなら、自民党の改憲草案の狙っているのは、ほとんど戦前的秩序です。その戦前の政治体制に近似しているのが現在の北朝鮮であり、現在の某政党の母体もほとんど北朝鮮とかわらない専制的な性格を持っているのですから。

ここ2,3日の間に藤原彰さんの著書「南京の日本軍」(大月書店、1997年)を読み返してみて、日中戦争時の南京大虐殺事件について完全に決着をつけたものだとういう印象を改めて持ちました。単に、どのような経過でこの事件が引き起こされたのかを実証的に辿るだけではなく、それが何故に引き起こされたのか事件の背景と原因にまでさかのぼって詳述していることが特徴です。小冊子ながら、右派勢力の南京大虐殺のウソとかまぼろし、虚構などという「歴史修正主義」にはもうつけいる隙も与えない説得力のある論述は小気味よい。
しかし、それでも「南京での殺害は少数であったから虐殺などなかった」というたぐいの虐殺否定論は極右の潮流からは一向に衰えない。たとえば神道政治連盟が今年発行したリーフレット「日本の名誉を回復するためにー歴史認識四つのポイントー」では、学問的には完全に決着がついてしまっている南京大虐殺完全否定にしがみついています。
「南京事件論争史」(笠原十九司 平凡社新書 2007年)はそうした異常事態に、過去の南京事件を巡る論争を整理しながら、何故にこの国でこの種の「論争」がいまだに絶えないのかを分析し、90年代から2000年初頭にかけて急速に前進した史料の発掘や最新の研究を踏まえた詳細な考察を行っています。
私自身は、こうした学問的な研究成果に浴しながらも、同時に庶民の生活レベルで南京虐殺を「否定したい」症候群を批判し尽くす必要があると思っています。なぜならこの種の歴史改竄と改憲を狙う勢力とは重なっており、「美しい日本の憲法をつくる国民の会 」がすすめる憲法改正を実現する1000万人署名は日本全国の神社=氏子を一つの縦糸として集められているからです。
農村部では五穀豊穣を願う素朴な人々の感情と意識に巧みに神社本庁(全国約8万社の神社を統括)=神道政治連盟の思惑が刷り込まれていく構造が出来上がっているのです。改憲署名はすでに700万筆集めたというのですから彼らの鼻息は荒い。「生活レベルで」というのは、そのように知らない間に絡め取られ、集団の意識を作りあげられていく構造のことをさします。
笠原さんは、「南京事件論争史」の序章で外国のメディアやジャーナリストから次のような質問を受ける(後者は極端な例としてあげています)、と書いています。

・南京事件という歴史事実がなぜ日本国民の共通認識として定着しないのか。その歴史的、社会的要因あるいは国民心理的ないし集団心理的要因は何なのか。
・歴史事実が国民の歴史認識として定着せず、むしろそれが歪曲され、あるいは抹殺されるような社会は民主主義国家としては未熟か、さもなければ危機的状況にあるのではないか。


憲法公布70年の節目にあたり、あらためて自らの歴史認識をより深める作業を行わなければならないと考えているところです。



  5月8日(日)
6日には軽トラパレードの実行委員会を開き、その結果をうけて「町民の会」のホームページを更新。昨日から今日の午前中にかけてバラ園での作業に汗を流し、今日の午後は松本で仕事。結構外での作業が多かったこともあって、勢いパソコンに向かう時間がなくなってしまい、このページの更新も滞ってしまいました。

全国2000万人署名が一段落したことをうけて、その後の町民の会のメインイベントとして取り組むのが、戦争法廃止と参議院選挙での統一候補勝利を掲げての軽トラパレードです。
今度は池田町だけではなく、大町市、松川村、白馬村、小谷村で実行委員会を組んで100台以上の軽トラを連ねてのデモ。一度経験しているとはいえ、100台を集めるとなると大変なことです。しかし、同時に成功すれば相当にインパクトがありますから、これは是が非でもやり遂げなければなりません。100台も並べば壮観ですよ、これは。
準備する方は大変ですが、参加する方は軽トラを運転しているだけですから、ある意味気楽に楽しみ半分でやれますね。大北以外からの参加も歓迎しますから、これをお読みの方で参加希望があれば是非ご連絡くださいね。池田以南の方は池田に集合してもらうことになります。

以下、バナーとチラシ(申込付き)を紹介しておきます。チラシにはpdf版がリンクされています。







  5月4日(水)
2日の夜遅くから息子の家族が「里帰り」して、今日午前中はすぐ前の田んぼの法面で「フキ」「セリ」を積みました。いま丁度フキが旬。妻が先日見たときにはヘビが出たというので、棒を持ってトントンやりながら恐る恐る近づいて・・・いざ収穫となると、孫も一生懸命夢中で摘み取りました。
今日は相変わらず風は強いものの、真っ青な青空の広がる「これぞゴールデンウイーク!」という気持ちのいい上天気になりました。風に吹かれながら野摘みをするのは、都会育ちにはちょっと体験できない貴重な時間。さっそく煮浸しにしてお昼に食しました。フキの香りがしてなかなかおいしかった。
息子の嫁に「お持ち帰り」分を渡しましたが、「料理してもらってから持ち帰る」と冗談ともつかない返事が。調理するのは私ですけど。





  5月3日(火)憲法記念日
こともあろうに、我が家の軒先ばかりでなく、裏の出口の直ぐ上の軒下にもつばめが巣を喰っている。昨年は表の方は途中で巣を放棄して裏に回ったようなのに、今年はちゃっかり二つとも利用しているようです。お隣さんが糞受けの箱を置いてくれたので助かっています。
朝早くから彼らは何事かおしゃべりをしているようで、物干しがそのおしゃべりの場になっているのです。雛が巣立つまでしばらく辛抱しないといけませんね。


以下は5月3日の大町での集会の模様です。大北1000人委員会と9条の会おおまちの主催で開かれた「5.3憲法を守ろう!大北市民行動」に妻とともに参加しました。
野党統一候補の杉尾ひでやさんも初めから長時間にわたって参加し、終わってからも市民有志との懇談にも参加してくれて、その人となりもしっかりつかむことができました。ただ、参加人数は200人にちょっと足りないかなというところで、いまいち。もう少し気合いを入れて大町以外からも参加を組織すべきでした。
町民の会からは事務局長が壇上にあがって6月19日予定の「軽トラパレード」について宣伝。100台を目指すと言ったときには「オォ〜」という声があがりましたものね。しっかり準備しなければなりません。







  5月1日(日)
夜8時からの「真田丸」が終わってからの解説で、秀吉の母「なか」が尾張国愛知郡御器所村の生まれだというナレーションが入って、「おやまあ」と思ってしまいました。あまりにも懐かしい地名だったからです。
大学を卒業した私は、「あらゆるしがらみを断とう」として、それまで全く知らない土地である名古屋市を就職先として選んだのでした。教員採用試験では他に北海道、東京もうかっており、とりわけ東京都の教育委員会からは校長を通して是非にとの手紙も受け取っていたのですが、それらも断っての名古屋行きでした。
初めて就職した学校はは名古屋市立菊里高校(定時制)。その学校の総務主任をしていたY先生がご丁寧に住まいを紹介してくれたのです。そのアパートの住所が「昭和区御器所」だったというわけです。
2階建てで片側に10部屋くらいが廊下を挟んで並ぶかなりボロいアパートで、トイレは共用、風呂なし、一部屋は6畳にホンの小さいキッチンがついているだけ。それが私の社会人生活をスタートしたときの住まいでした。
Google Mapで調べてみると、何と!まだあるではありませんか。まさかあのままの状態で今まで存在したわけではないでしょう。多分一度建て替えているのだろうと想像するのですが・・・。もしあのままなら奇跡ですね。
いやいや、どうやらあれから40数年、あのままの状態で残っていたらしい。Google Mapのストリートビューで見るとあの懐かしいぼろアパートがさらにボロくなって見えるではありませんか。涙が出ちゃいます。
アパートの場所は御器所交差点のすぐ近くで昭和区役所の真ん前、御器所交差点側は現在のようにAOKIの大きな建物などない空き地で、部屋からは区役所と消防署がよく見えました。交差点付近にあった山王飯店や東天紅などという中華料理店はもう影も形もありませんし、交差点付近はもう昔の面影は全くありません。その中で、このアパートが残っているのは奇跡としか言いようがありません。こうしてみると交差点付近からちょっと中に入れば、昔の面影はまだ残っているのでしょうか。




なぜこんなことを書き始めたかと言えば、このアパートこそ私のその後の生活と精神生活を決定づける場となったからなのです。教師生活の土台を築いてくれたという意味でも、沖縄を知り妻と出会った場所でもあるという意味でも・・です。
私の住まいは2階の中央部。手前の建物に丁度隠れて見えなくなっているあたり。昭和区役所に面した見晴らしのいい部屋でした。そのころは路面電車が走り、近くには公設市場があって、よく買い物に出掛けていたものです。のどかなゆったりとした生活の舞台でした。
このころの思い出を語れば一冊の本ができてしまいそうです。いずれまとめておきたいとは思っていますが、今は生活の舞台を確認できただけでよしとしなければならないでしょう。「真田丸」に感謝ですね。

さて、月が変わって今日から5月。恒例のメーデー集会に出掛けました。会場ではそうでもなかたのですが、デモ行進にうつってどうも腰から足にかけて痛みが尋常ではありません。ここしばらくの材木運びが原因なのか、しびれがあって途中から車に引き返してしまいました。
もともと妻は最後まで歩いて、私は途中から引き返して車を取ってきて解散地点の大町駅前で妻を拾って帰るという寸法だったとはいえ、しばらくは無理をしないようにしなければなりません。
家に帰ってからは、コルセットをして身体を真っ直ぐにしてパソコンに向かっているという次第。一度整形外科でしっかり見てもらわないといけませんね。









top