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  2月28日(水)その2
那覇から名護までノンストップで戻り伊佐川食堂で夕食。その頃にはヤンバルは久しぶりの本降りになり、駐車場は冠水して靴の中も浸水しそうな程でした。

11時半に那覇にある「沖縄サンゴ」の会社に行く予定で、名護を出発したのは10時ちょっと前。那覇でちょっと迷いましたが、予定より10分ほど早く到着しました。ナビ(携帯用)をつけてもらったおかげで、何とかたどり着くことができました。那覇は何度来ても道がわからない。
1年ほど前に以前の場所から新しい事務所に移転、こざっぱりしたオフィスで、みなさん1つの部屋で懸命に仕事をしている最中でした。
この会社の北村社長は山形県米沢市の出身。オフィスには7、8名の社員がいましたが、沖縄以外は社長を含めて3人。社長のリーダーシップのもとで、和やかにしかし情熱をもって仕事に打ち込んでいる様子がよくわかりました。
11時半頃から12時過ぎまで会社の現在の様子やサンゴの持つ力などについていろいろお話を聞かせてもらいました。新しい社員も増えてようやく軌道に乗り始めたこと、これからはもっと多面的な活動にも取り組みたいことなど、結構つっこんだ話題にまで話がおよびました。
下の写真は2016年の「南西地域産業活性化センター」のニュースレターに載った「クローズアップNIAC」の紙面。下は現在のオフィス(2階)の玄関先。




各地でサンゴ砂を使った作物栽培に挑戦していて、オフィスにはメロンの根っこ、稲の束がサンゴを使わないものと対比して飾られていました。それが下の写真、ちょっと分かりづらいですね。右がサンゴ砂を使ったものです。根の張り、稲の茎の太さが全く違う。




このオフィスに招待されたのは昼食時。ここでは社員がみんなで1つのテーブルを囲んでお弁当を食べるのだそうで、賑やかに他の社員のみなさんとの話も弾みました。
だいたい1年半前に一度訪れただけの人間に、普通ならここまでしませんよね。社長以下全社員で歓待するんですから。まいりました。
イチゴを差し入れたところ昼食に出していただいて、こんな写真になってしまいました。これは社長から送っていただいたものです。一番奥の方が北村社長。


この会社を訪れた目的の1つはサンゴ砂(正式名称:風化造礁サンゴ粒、愛称:土壌微生物活性剤「島人ひかり」)を買うことにあったので、とりあえず3袋予約してきました。この会社八ヶ岳山麓にも支社があるので、そこから送ってくれることになったのです。
今年は、これを使ってしっかり対比栽培をして効果を検証しないといけませんね。



  2月28日(水)
他人に自分の意志を伝えるということは、ある意味大変難しいことです。整理していなければ自分でも何を言っているのかわからないようなことになってしまう。整理しているつもりでも、アーとかウーとかが混じって聞きづらくなる。そもそも、何を伝えたいのかがはっきりしているかどうかです。
そのまま文字おこしをしてもちゃんと文章になっているような話を聞くと感動してしまいます。これってやっぱり天性のものなんですかね。

政治家の資質として、政治的信条、政策が明確であるのかどうかはあまりにも当然のことです。しかし、それを支える人間的な魅力があるのかどうかがもっと大事じゃないかなと思います。人情、包容力、正義感・・・といった。
なぜこんなことを書き始めたかというと、京都府知事選に立候補表明した弁護士・福山和人さんの演説(2月21日府民大集会)を聞いて、ああこんな人が府知事だったらどんなに府民のための政治をしてくれるだろうなと本気で思わせてくれたからです。話し方、信条、人柄はもちろん、文字おこしをしてもそのままちゃんと通用するわかりやすい話し方をする。さすがです。
ただし、熱い心は文字だけからは伝わってこない。介護の話をしていて思わず涙ぐむなんて・・・ね。
政治家を志す人が不用意に涙ぐんだりしてはみっともないと古い感覚の私などは思うのですが、この方の介護の話については自分の体験と重なって本当に胸が熱くなりましたよ。

相手は自民・公明それに民新まで相乗りする前復興庁事務次官の西脇隆俊氏。前任者を引き継いで中央とのパイプを強調する候補です。立憲民主さえ「京都では参院議員として共産党と戦い、山田啓二知事を支えてきた。京都の首長選で共産と共闘することはない」(福山哲郎参院議員)というのですから、どうかしていますね。
そうなれば、次の動画を京都府民に広げ、それが大きな共感を呼んだときには、福山和人さん本人の予言通り、新潟と同様地殻変動が起きるかもしれませんね。まずはご視聴あれ。

府民大集会での福山和人さんのお話し(動画)
府民大集会での福山和人さんのお話し(文字おこし)



  2月27日(火) その2
午後から、本部半島を一周し採石場のあたりを見学してきました。相変わらず砂埃で一面真っ白になっており、辺野古の工事の進行にともなって陸上と海上からの砕石の搬出でいっそう荒れているように見えました。
もっとも採石場には近づけなかったし、車で一周しただけなので、詳しい状況はつかめていませんが・・・。


名護への帰り道、これはまた見事なコスモス畑。季節がいつなのか分からなくなるような咲きっぷり。どなたが植えたのか、畑一面のコスモスにしばし癒やされておりました。みなさんには写真で雰囲気だけお裾分け。




家についてからは、午前中辺野古でホコリまみれになった身体と服の汚れを落とそうと、あらゆるものを洗濯。その後入浴して、サッパリ。
こちらは東京よりは1時間ほど日没が遅いので、夕方の時間が実に長い。

洗濯物を干したあとメールチェックしたら、「沖縄サンゴ(株)」から、「明日会社のK代表と一緒に昼食いかがですか」という連絡が。
「お受けします」という返事を出したまではよかったのですが、上着まで洗濯してしまった。慌てて、コインランドリーを探して乾燥に出かけたという次第。
探せばあるもんですねえ。いままで何気なく通過していたすぐ近くにちゃんとしたコインランドリーがあるではありませんか。
20分乾燥して、まだ少し湿り気はあったけれど、あとは自然乾燥に任せることにして・・・これで着ていくものの心配はなし、と。

沖縄サンゴというのは、3年前に池田町でリンゴを育てるのに肥料としてサンゴを使わないかという話があり、プロジェクトがスタートする直前まで行っていて、ポシャってしまったあのサンゴ砂の生産・販売会社です。
一昨年11月末に経営支援NPO理事のUさんとともに会社を訪問し、プロジェクトの推進策を検討するとともに、今帰仁の工場まで見学させてもらったことがありました。当時はメロンでサンゴ砂の肥料を試しているということでしたが、今はどうなっているのでしょうか。
とくにマグネシウムを多く含むミネラル豊富なサンゴですから、作物にはよい肥料になることは間違いありません。ただ、値段が高いのが難点。どう克服するのかを含めて、明日はしっかり聞いてこようと思います。



  2月27日(火)
今朝は晴れていたせいか放射冷却で気温13度くらい。肌寒い。車も”朝つゆ”にぬれてびっしょりになっていました。ただ昼には23度くらいだと天気予報で言っていましたから過ごしやすい日になるのでしょう。
相変わらずいつもの小鳥が目を覚まさせてくれます。意外と鳴き声が鋭く「早く起きよ、起きよ」と言っているようです。

小鳥の鳴き声

今日は最後の辺野古基地前行動。朝8時少し前に出かけて20分ほどで現地に着きました。
米軍基地では、毎朝8時にアメリカ国歌と君が代を流し、そのあと短い進軍ラッパのような音が流れます。それが仕事始めの合図なんでしょうか。(下はキャンプシュワブ・第2ゲート前)


さて、ゲート前での抗議行動。毎日、しかも9時、12時、3時の3回の資材搬入に合わせて座り込むなどというのは容易なことではありません。自ずと平日の朝早くの時間帯には各地から集まる人もほとんどおらず、今朝もせいぜい20人くらい。


人数はうんと少ないので、機動隊もダンプの到着に合わせて排除しようとすればいくらでもできるのですが、やはり今日もやらない。十分渋滞が出来たのを見計らって、機動隊のみなさんが基地の中から出てきて「みなさんの座り込みで渋滞が出来ています。速やかに移動してください」とやる。
でかい工事車両がゲートの両側から何十台も連なって一斉に押し寄せれば渋滞が起こらない方がおかしい。
県警は意識的に渋滞を作って、住民の反感をあおろうとしているのでしょう。これに対して住民の側もドライバーに彼らの意図を知らせるチラシを配布し始めたのだといいます。もっと効果的にやらないといけませんね。







当然、座り込みの皆さんは動きませんから、しばらく警告したあと「ごぼう抜き」が始まる。私は一番端にいたものですから、真っ先に檻に連れて行かれるはめに。持ち上げられて上腕がもの凄く痛かった。
下の運ばれている写真(沖縄タイムス辺野古取材班撮影)の男性、私に似ているなと思ったら違った。ま、似たように運ばれたんですけど。
このくらいの人数では勝負になりませんから、ものの10分くらいであっさりと排除が終わり、門の前に止めてあった警察車両が移動し散水車が水をまいて、次々と工事車両が中に吸い込まれていきます。
その間、檻の中で「違法工事やめろ、○○(建設会社の名前)は工事に荷担するな、ちゅら海を汚すな」などと声をあげつづけます。










朝の搬入時の車両の数が一番多い。毎日100台くらい入り、また出てきます。今日はコンクリートミキサー車とともに、トレーラーダンプが異様に多かったような気がしました。






今日の大浦湾は穏やかで水もきれいに澄んでいました。海岸には小さい瑠璃色の花が(長野でいえばオオイヌフグリのような感じ)一面に。








  2月26日(月)
朝方はまだ重い雲が垂れていましたが、昼前からは晴れ間がでて次第によいお天気になってきました。
今日は休養日。とはいえ、一日部屋に閉じこもっているわけにもいきませんから、午後近くをドライブしてきました。
まず向かったのは先日友人が教えてくれた大浦湾への羽地ダムを通る近道。この前は名護東道路を通るのとほとんど変わらないかなと思ったのですが、今日行ってみると結構近い。
羽地ダム湖は大きなダムで北部の水瓶。ダムの見学場所には祈願所がありダムを見ていると野良猫が3匹近づいてきたのでびっくり。こんなところにネコを捨てていくのかと思いましたね。通りがかりの人たちが「エサをやらないでください」の看板の横でエサをやっているようで、おっとりしていました。
大浦湾には「わんさか」レストランのとなりに道がつながっています。休憩所から工事現場のクレーンが望めるのも何だかへんな気持ちでした。






今日は辺野古には行かずそのままUターンして、今度は屋我地、古宇利島へ。こんな季節なのに、ここは観光客で超満員。車があふれていました。
あんな小さな古宇利島に大型バスやレンタカーが押し寄せるのですから大変。3年間に来たときからみると全く様子が変わって落ち着いた雰囲気がなくなっていました。
例のハート型岩のあたりは大混雑ではないのでしょうか。行く気にもならず今帰仁を回って帰ってきました。


キャンプシュワブ前で機動隊と向かい合っているのも現実なら、すぐとなりで何事もないように観光客が戯れているのも現実。
辺野古の現場を離れれば、よほど米軍機が飛び交っているような場合以外は、基地を意識することはありません。
とくに、私がいま家を借りている場所はのどかな片田舎ですから、すぐ近くに怒号がとびかう辺野古があるなんて全然想像もできない。今日出かけた屋我地や古宇利島に押し寄せる観光客からすれば、それはありえない現実でしょう。
その意味で、沖縄は極端な現実の事象が同居する島。それだけに意識の分断も起こりやすいのではないかと思います。
私が住んでいる場所は羽地といいますが、旧羽地村の田井等地区は大戦直後に米軍によって沖縄住民の収容所が作られたところ。名護のいくつかの収容所をあわせると15万人くらいの住民が集められていたといいます。
田井等地区にはその跡が残っているらしいのですが、分かりづらい場所にあるようで、周りの様子からはそんなことがあったなどは想像もできない町並みになってしまっています。
今起こっていることもそうですが、記憶すべき歴史の一コマも放っておけばいつかは忘れられてしまいます。その跡地はどこにあるのか、近所の人に聞いてみようかな。



  2月25日(日)
朝7時過ぎに、旧暦の何とかという行事があるという放送があって目が覚めた。ちょっと風は強いけれど、暖かい日差しがまぶしい。20度くらいあるかと思われます。とても2月とは思えない。
長野はまだ朝マイナス5度くらい、日中も10度に届かないといいますから、冬はこちらに滞在するに限りますね。
となりの家の桜はもうすっかり葉桜になり、すり切れたバナナの葉、小さなミカンの実をつけた木とくっついて青い空に伸びています。こんな光景はいくら桜の名所でもみられませんね。


今日は、いまから南部に行き、義母と面会したりお土産をみたり、その他所用を済ませてまた夜にこちらに戻る予定。天気がいいので気持ちのよいドライブになるでしょう。

施設に母の面会に行ったら、ちょうどみんなロビーに集まって体操の時間。もちろんウチナーグチ体操です。見ていると身体を動かしているのはごくわずか、反応なしの人も結構いました。それもそのはず、母の言うには「そこの人104才だって、一番年をとっているかな」。似たような人たちがたくさん入所しているんですからね。
職員から、母の目に炎症が見られるので医者に診せた方がいいと相談された。私が連れて行くわけにもいかず長男夫婦にすぐ連絡をとって、明日眼科に連れて行ってもらう手配をしました。ものもらいなのか結膜炎なのか、擦ったりすると余計に悪化するので、早くに診察を受けた方がいいでしょうね。
職員の方に写真をお願いしたら「はい、肩を組んで」などというものだからついその気になって・・・
帰りには窓から手を振っていつまでも見送ってくれていました。
2枚目の写真は施設の窓からの外の景色。南城市の一部が見えます。




今日は暑い一日。朝20度近くで昼には25度。さすがに沖縄でも2月とは思えないという声も出ていたようです。ただ明日には少し気温も下がって、18度〜20度くらいとか。それでも寒い寒いと震えている長野から見れば、別世界です。
午後から、ザーザー降りに。南部を中心に雨雲が発達したようで、北部でもしばらく降ったようでした。沖縄の天気はわからない。

来月3日には、池田ではバラの会の選定作業が予定されています。参加できなかったことはこれまでありませんでしたが、今回は遠くから応援するだけ。妻がそのぶん活躍してくれるでしょう。
現在少しずつ長野モードに切り替えているところです。



  2月24日(土)
カーリングの女子チームが銅メダルの快挙。イギリスの最後の一投で決まるという文字通りのつばぜり合いで見応えありましたね。イギリスチームはさぞ悔しかったことでしょう。
オフィシャルスポンサーの全農が「銅メダルなら米百俵贈呈」というんですから凄いですね。どうやって食べるんでしょうか。人ごとながら心配になります。

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沖縄のヤンバルはいま桜の時期がほぼ終わり、若葉が一斉に出始めて黄緑から深い緑のグラデーションが美しい。各地でツツジも見頃になってすっかり春らしい気候です。


午前中から午後友人と会うまでの間、久しぶりに数学の問題を解いていました。今やっておかないと帰ってから間に合わないというわけ。相当にさび付いているので、サビがなかなか落ちない。

午後3時頃から2時間ほど、古い友人のSさんと再会。妻は帰郷するたびに仲間たちといっしょに旧交をあたためているのでしょうが、私自身彼とは名古屋時代以来ですから、40数年ぶりということになります。多分、予備知識なしにすれ違っえば誰だかわからないほどの年月です。実際、昔の面影はみあたらない。
「頭薄くなったねえ」「そりゃお互い様だ」という話から始まって、それぞれの近況を報告し合い、さらに名護市長選や辺野古での座り込みなどの話をいろいろと交わしました。
彼は若い頃から外国に一人で出かけることが多く、これまで20ヶ国くらい回っているといいます。
それも、若い頃は出たとこ勝負でアルバイトをしながら旅行していたというし、あるときには三線を持って行って練習していると興味を示してくれて、それで飯にありついたということもあったとか。アフリカやモンゴルなどに惹かれているようでした。
外から日本・沖縄を見るとよく自分たちのことがわかる。違った目線で物事をみることが大事だと力説していました。
資金はどうなのかと聞くと、年金の枠の中で行くと言うのですから大したもの。長い間安上がりの旅行をしているとコツがわかるのでしょうかね。福岡の地震の際も、テントを担いで船で鹿児島までいき、あとは高速バスで福岡に入ってボランティアをしたと言いますから、根っからのアウトドアの活動、知らない人々との交わりに生きがいを見いだしているんですね。小柄な身体でよくそのエネルギーがでるものだと感心しました。
うるま市に住んでいて、地域では「老人会に入ってゲートボールやらないか」と誘われるのだが、それでは本当の「年寄り」になってしまうから、85才になったら入るよと断っているのだとか。見聞きした話をさせれば、面白い話をいつまででもしているんじゃないかと思わせるユニークな人物です。





  2月23日(金)
昨日の午後遅くから雨が強くなり、今日もまだぐずついて肌寒い空模様。風も強くなって外に出たくない日です。
午前中は、何をすることもなくグズグズと過ごしていました。
晴れた日には、朝早くから小鳥がさえずり、遠くからニワトリの鳴き声が聞こえ、ほんの時たま通りかかる車以外は何の音もない静かな部屋ですから、「独房」に入れられたらこんな感じになるのかなという環境です。

さて、沖縄での生活も残り一週間ちょっと。明日は古い友人と名護で会うことになっており、日曜日は玉城で母に会い、ついでに土産物を買い、月曜日は宜野湾・嘉手納に行き時間があれば、昨日来てくれたSさん宅を訪問しようかと。
最後の数日は帰り支度をしながら、池田に帰ったあとのことを考えておかなければなりません。多分あれあれという間に、帰りの飛行機に乗っているんじゃないでしょうかね。

というわけで、今日は最後の高江訪問。午前中ゆっくりして、昼頃から高江に向かいました。
沖縄南部とちがって、ヤンバルも北の方になると途中ほとんど車は走っていません。ところがテントに近づくと何やら賑やかな太鼓の音が聞こえてくる。
側に行ってみてびっくり。お囃子入りで餅つきをやっているではありませんか。若いお母さんや子どもたちも混じっている。


聞くと、兵庫(?)の民族歌舞団「花こま」の団員4人があちこちをまわって公演しながら、こうした座り込みなどの現場を訪問して激励しているのだとか。3月はじめには伊江島での集会にも参加すると話していました、
そこには地元高江の共産党村議の伊佐さんと息子さん、娘さん、それにオスプレイの低周波から逃れて他所に移住した元村民の方とお子さん3人、それに当番のTさんがいました。大人たちは法被を着て、歌舞団のみなさんと一緒に調子よく餅をついていました。子どもたちも大喜びで、子ども用の杵で懸命にもちつき。何ともなごやかな光景でした。
その後は、つきたての餅をご馳走になりながら交流。Tさんご自慢の映画の話で盛り上がりました。









  2月22日(木)
朝6時に起きて7時半に家を出発。朝早かったためか20分かからずに辺野古に到着しました。
一緒に行動に参加しようと約束したSさんご夫婦は予定より遅れて8時半頃に到着。いっしょに座り込みのゲート前に行きました。
今日も大型バスで来ていたグループがあり、朝から100人ぐらいが座り込んでいました。
朝は最も大型車両が入る時間帯であることもあって、予想通りの大渋滞。トラックもこんなに一気に押し寄せなくてもいいのにと思いますが、そこはゲート前の規制に合わせて搬入するためということなのでしょう。
今日は人数も多かったからか、機動隊の乱暴な扱いに抗議したりしてかなりのもみ合いになりましたが、結局抗議むなしくみんな檻に収監されてしまいました。
琉球新報辺野古取材班によると朝だけで90台の車両が入っていったとのこと。沖縄タイムスと琉球新報の若い記者がゲート前でずっと取材にあたっていました。聞くと記者の全員が交代で通い取材にあたっているのだとか。
名護共同センターの記事によると、最近トレーラーダンプ(6枚目の写真:車のたくさんついた青い長い車両)が増えているそう。最大積載量28トン、10トンダンプ3台分が積めるヤツでいずれも新車だといいます。
今日はゲート前の座り込みに北海道からの一行が何人か参加、しかし現在は圧倒的に県内各地からの参加者で占められています。














兵舎の方でも相当な工事をしているのか、ゲートから出る車両は空ではなく赤土を積んだり表土を削って雑草混じりの土を運んでいる車も多く見られました。
小雨交じりのあいにくの天気でしたが、参加者はすべての車両がでてしまいゲートが閉まるまで、道の両側でシュプレヒコールを叫んだり、トラックに違法工事に荷担しないように呼びかけたりしました。

私たちはそこで車にもどって、辺野古を離れ、Sさんの案内で近くに植えたという「カメジローのガジュマル」を見にいきました。こんな山のなかにという場所に、カメジローが育てていたガジュマルの株分けが植えられており、時々手入れにきているのだと言っていました。大きくなるのは何十年先。気の長い話です。




そのあと、我が家にちょっと寄っていただいてお茶を飲みながら、「こんなところで会えるなんて奇遇だよね」という話からはじまって、名護市長選挙の裏話やらチョロギの話やら1時間ほどおしゃべりをしました。
彼は、一軒家を借りて暮らしている私をみて、しきりに笑うんですねえ。「奥さんと一緒にくればよかったのに」と聞かれたことに「ネコ」を理由にダメなんだという返事をしたことが可笑しかったのか、私の勝手なこうした生活ぶりが彼の想像を超えていたのか、よく分かりませんでした。
一旦お別れしたと思ったら、30分ぐらいしてまた戻ってきて近くで買ってきたからと「刺身」を差し入れてくれました。
この近くに鮮魚屋さんがあって、通りがかるといつも買って帰るのだとか。彼の家は宜野湾なのに、よくこんな場所の地理を知っているなと感心。
ついでに辺野古までの裏道まで教えていただきました。こんなところがあるのか、というすごい場所を通過しました。今度はゆっくり行ってみようと思わされましたよ。
刺身はお昼にいただきましたが、美味しかった。久しぶりに刺身にありつけて嬉しかった。ごちそうさまでした。お別れに記念写真を一枚。



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俳優の大杉漣さんが急逝されたと朝知りました。実は、つい先日見た「カメジロー」の映画のナレーター役をされていて、「ああ大杉漣さん、画面にピッタシの渋いナレーションやっていらっしゃる」と感心したばかりだったのです。残念です。ご冥福をお祈りします。



  2月21日(水)その3
2,3日前のニュースに、翁長知事がサンゴの移植に同意したというのがありました。
新聞報道によると、辺野古の工事海域で見つかった希少な絶滅危惧種「オキナワハマサンゴ」1群体を別の場所に移植する申請が沖縄防衛局から出され、「総合的に判断して同意した」というのです。「辺野古新基地建設に関連するサンゴ移植の採捕許可は今回が初めて。防衛局は3月1日までに移植を行う」(琉球新報)のだとか。
この決定について、専門家や報道機関から厳しい批判の声があがっているのです。それは何故か。

2月20日、ヘリ基地反対協議会が沖縄県に移植許可を撤回するよう求めて申し入れを行いました。その申し入れの席上には東京経済大学の大久保準教授も参加し、「サンゴ移植問題の専門家の立場から抗議の申入書を提出された」(北上田さんのブログより)
要するに、移植しても死滅する危険が極めて高いこと、これが第1です。

第2に、次のような事実が明らかになったと北上田さんは書いています。

行政手続法に基づき、個々の許認可については「審査基準」が定められている。県が作成したサンゴの特別採捕許可の「審査基準」は、「申請者は試験研究、教育実習及び増殖用種苗の供給を目的としていること」とされているのだ。そもそも県漁業調整規則でも、特別採捕許可は「試験研究」の場合に限られている(第41条)。

つまり、県の審査基準をそもそも満たしていないということです。

第3に、翁長知事はこれまで「サンゴ特別採捕許可、岩礁破砕許可、設計概要変更申請許可」を知事権限の3本柱として以前は許可しないとされていたのです。しかし、今度は「関係法令にのっとり、厳正かつ公正に審査した結果、許可することが相当と判断した」というのですから、その整合性が問われます。しかも、県にはサンゴの専門家はおらず、手続きだけの問題で許可したというのですが、その手続きも自らの行政手続法に反しているわけですから、これはもう撤回するしかありません。

沖縄タイムス社も19日の社説で、「結果として翁長知事は、右手で『新基地を造らせない』とこぶしを振り上げ、意思に反して左手で埋め立て工事の進行を後押しするような判断を下したことになる」と手厳しく批判。さらに次のように書いています。

県は工事着手前にサンゴを移植するよう求めてきた。だが、防衛局は昨年11月、サンゴの採捕許可申請中に、「K1」「N5」と呼ばれる2カ所の護岸工事を始めた。
サンゴ発見の報告が遅れたことも問題だし、県の申し入れが無視されたことも問題である。それなのになぜ県は、今回、特別採捕を許可したのだろうか。
日本自然保護協会の安部真理子主任は「サンゴの移植条件や技術も疑問点ばかり。なぜ認めるのか、県民に丁寧な説明が必要だ」と指摘する。


「環境保全に後ろ向き」と批判されることを恐れるなら、新基地そのものの方が環境保全に完全に反するのです。じりじりと攻め立てる政府の既成事実の前に膝を屈していくような不可解な態度はきっぱり改めて、県民にわかりやすく説明しきっぱりとした態度を貫いて支持を広げる努力をすべきでしょう。こんなところから、共闘がどんどん崩されていくのでは支持した県民もたまりません。



  2月21日(水)その2
今日・明日は辺野古の日。もともと今日辺野古に行こうと思っていたのですが、先日長野の友人(沖縄出身)が夫婦で帰省しているといい、木曜日に朝早く辺野古に行くのでいっしょにどうかとさそわれたために、明日もまた朝出かけることにしたのです。

昨日は辺野古基地建設のために300台以上の工事車両が入ったらしい。今朝もすでに100台を超えて入ったということでした。
私は昼の搬入に合わせてでかけ、10時半ぐらいに現地に到着。テントでは朝の抗議活動を終えて集会が行われているところでした。
車を降りたころから、上空ではジェット戦闘機の爆音が途切れることがない。嘉手納から来てこのあたりを旋回してまだ戻っていくのでしょうか。雲の切れ間から小さい機影が見えました。かなりの上空だけれど、音がもの凄い。嘉手納ではどのくらいの騒音になっているのだろうと思ってしまいます。
11時半頃からテント前で座り込み。今日は那覇・大宜味などの島ぐるみ会議のメンバーが来ていて、100名近くが座り込みました。聞くと「怖〜い」と言ってここに来るのをためらう人もいるのだとか。それはそうでしょうね。いかつい機動隊に囲まれて「襲われる」んですから。
例によってトラックが並ぶのを待って、機動隊による排除がはじまります。
けしからんのは違法だと断罪されているのに、映像担当の機動隊員が何人も私たちにビデオカメラを向けていること。抗議するとちょっとはひっこめるのですが、また撮り始める。


私は今日は機動隊に運ばれて檻のなかに入れられるのを選択。まあ、そんなに手荒なことはしませんでしたが、こちらで何を言おうが彼らは事務的に事を運んでいるだけ。若い彼らはロボットのように突っ立って上官の指示通りのことを行うわけですから可哀想といえば可哀想。










まさしく檻の中で、トイレに行きたくても出してもらえない。仕方なく中で抗議しながらトラックが出入りするのを見守る他ありません。昼は数十台のミキサー車、砂利のダンプなどが入ったのではないかと思われます。
驚いたことにちょうどその頃から2機の軍用ヘリが上空を威嚇するかのように何度も旋回、ジェットとヘリの騒音で異様な雰囲気でした。おまけのように「忠仁」と大書した右翼の街宣車が騒音をまき散らして通り過ぎていきました。アメリカの飼い犬のような右翼じゃどうしようもありません。




道路は相変わらずの大渋滞。ダンプが何十台も列をなしてやってくるので、渋滞が起きない方がおかしい。しかも排除が終わるまで待たせているわけですから、それに挟まれた一般車両も40〜50分待たされることになります。ダンプが入り始めてようやく檻の前の機動隊員が引き上げて私たちは解放。




ダンプが入るのを見ながら、一体いくらの金が動いているのだろうかとつい考えてしまいます。

土建会社は大もうけができると踏んでいるのかもしれませんが、工事が終わればそこまで。あとには何にも残りません。
「国防政策が生んだ沖縄基地マフィア」(七つ森書館)には沖縄の建設会社社長(照正組)照屋義実氏へのインタビューも載っており、興味深い発言がありました。

そもそも、沖縄は基地経済だとか言われますが、基地関連収入は「復帰」直後に15.2%だったのが今は5%程度に落ちこんでいる。返還された跡地に新しいまちをつくったほうが経済が好転することは雇用のデータなどを見てもはっきりしている。こう考えますと、いくら建設業がわれわれの生業だからといって基地建設に賛成するわけにはいかない。その代わり、基地撤去の仕事をしたいと考えています。基地は戦争につながる。その基地を撤去することは平和につながる。撤去にはさまざまな工事が派生しますから、建設業者にとっても当分は仕事があるんです。そこに新しいまちをつくるとなればまた仕事が生まれる。どっちが県民の将来の幸せにつながるかは明らかでしょう。

こんな気骨のある社長もいるんですね。いま工事を請け負っている会社の役員に聞かせてやりたい言葉です。



  2月21日(水)
冬は家の中で「ヤモリ」を見ることがありません。いないのかなと思ったら、夜、ガラス越しに家の中を覗いていた!多分、家のなかにいても、冬は全くエサの虫がいないので仕事にならないのでしょう。

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「国防政策が生んだ沖縄基地マフィア」(七つ森書館)の最後に、作家の目取真俊氏へのインタビューが載せられています。目取真さんは、現在も辺野古の海でカヌーを漕いで海保と対峙し基地反対を身体で訴えつづけていらっしゃる。
いつも彼のラディカルで本質的なものの見方に感服させられているのですが、このインタビューでも同様です。
「現場で直接権力と対峙しつづける小説家や評論家はそういない。その意味は?」と問われて、次のように答えます。

メディアのみなさんはよく意味を問うてきますけど、意味がなければ行動しないんですか。・・・ヤマトゥに限らず沖縄の知識人や大学の教員も口ばっかり達者で、現場に来ない人がほとんど。・・・
私は小説家だから辺野古に足を運んでいるわけではありません。ヤンバルで生まれ育ち、名護市に住んでいる一市民として抗議行動に参加しているわけです。肩書きなんてどうでもいい話で・・・。
東京では理念やイデオロギーが先にある・・・沖縄は違います。米軍基地が家の隣にあり、家族がいつ米軍の事件・事故の被害に遭うかわからない。日米安保は生活次元の問題としてある。・・・危険にさらされる中で、反戦・平和は理念ではなく、命や生活を守る切実な要求としてあったわけです。


さて、と私は考えます。目取真さんのような地元の人ならば切実な要求であることは自然に納得できる。では、私のような生粋のヤマト人はどうなのか、何のために辺野古に通うのかと聞かれてどう答えるのでしょう。
私の場合ももちろん理念やイデオロギーが先行しているわけではありません。
直接には、妻の生まれた沖縄を踏みにじられることは許せない、というところにある。そう言ったら妻は感激して抱きしめてくれますかね。
実は、沖縄の基地問題は「本土」の問題なのです。「本土」の「無理解・無関心」(そうでない人がたくさんいることは承知の上で)に支えられ、「本土」の権力がその行使をほしいままにしている。沖縄の苦しみをますます増大させているのです。
なぜ基地を集中させなければならないのか、なぜ辺野古でなければならないのか、まるで呪文のように唱えるだけで、アメリカの高官からさえ、さらには身内からさえ「軍事的には基地はどこにあってもいいのだ、それは政治的な選択なのだ」と言われているような基地建設。建設に際しては私たちの税金が湯水のように注ぎ込まれている。人殺しのために、です。そんなことを許せるのか、です。「本土」の側からそれを撃たなければならない。
沖縄で起こっていることは、明日の「本土」の姿なのだという点も見落としてはなりません。そのための安保法制であり特定秘密保護法、共謀罪法なのですから。
だとすれば沖縄県民とは違った角度から、新基地建設に断固として反対しその意志を示すことは当然のことではないのか。沖縄県民のたたかいを「支援」するのではありません。共同のたたかいとして取り組むのです。
たとえ、地元が賛成だろうが、許せないものは許せない。それは原発と同じです。
一人一人にとって、辺野古新基地はそれぞれ異なる意味を持っている。違って当然なのです。
では、誰でも現場に来るべきなのか。そんなことは不可能です。それは可能ならば是非としか答えられません。もしその意志があるのならば、その機会をつくる努力をすべきでしょう。女川の野さんご夫妻も、めちゃめちゃ忙しい時間を割いて、高江に行き、連帯の挨拶もした。その心意気でしょうね。
そしてもうひとつ、戦後の「本土」の日本国憲法下の生活は沖縄が米軍支配下に置かれ核基地化されたこととセットだったことを忘れるべきではありません。
「運動を長く続けられる人は沖縄の歴史や基地問題についてしっかりと学んでいる」と目取真さんはいいます。「本土」の歴史を沖縄の歴史とを絡ませて学ぶことが大切だと私は思うのです。
もちろん、この日本には沖縄のように亜熱帯で美しく独自の歴史と文化をもったところがあるということを知ることもつけ加えましょうね。



  2月20日(火)
ブログが結構圧迫感を与えていて、何かやっていないといけないみたいな気にさせられてしまう。それじゃ本末転倒で、辺野古・高江にはあまりこだわらず、沖縄生活をある意味で楽しみたいと思っています。
「何しに沖縄に来ているの?」と聞かれると、目的が定かでないと来ちゃいけないのかと返したくなる。義母にも会いたいし、辺野古や高江にも行ってみたいし・・・と言ってみたところで別に毎日そうしたいわけでもできるわけでもない。
強いて言えば、場所を変えれば、つまり視点を変えれば見える景色も異なるだろうし、考え方も変わるだろうということだろうか。ウチナーからヤマトを見る目は厳しい。こちらにいなければそれは感じられない。1年に一度くらいは、その視線に自分をさらしてみるのもいいかもと思うのです。

今日明日は伊江島に行けないかと、フェリーなどを調べてみたが、予約もできるし行こうと思えば実行できたのです。しかし・・・どうしてもお金と天候が気になって結局やめてしまった。またの機会にすることにします。
今日もまた一日車に乗りっぱなし。名護と南城市で買い物をし、それを箱につめて池田町に送り、さらにお肉もたっぷり買って冷凍で送ったのでした。もちろん南城市に行ったのは義母の顔を見るためでしたが、今日は残念なことに食後だったためにお昼寝の最中、起こしてはいけないと思い顔だけ見てきました。
そのあと、一昨年訪問した沖縄サンゴの会社に向かったのはいいのですが、どうやら休み、シャッターが降りていて用を済ますことができず空振り。
名護→南城市→那覇→名護と中南部をかけずり回ったという結果になりました。腰がいたい。
そうそう、途中宜野座のスタジアムではタイガースが、那覇のセルラースタジアムではジャイアンツが練習をしていて、これまた超満員の観客。盛り上がっていますね。写真は宜野座のスタジアム。向こう側のグランドで練習をしていたようでした。


今日はまた25度くらいまで気温があがったんじゃないかなあ。エアコンをかけないと車の中は蒸し風呂、ヤンバルの木々は一斉に若芽を出してつややかな色に見えました。沖縄の冬から春という感じなんですかね。
母のいる施設ではまた桜がしっかり花をつけ、ブーゲンビリアもきれいに花をつけていましたよ。どこだかでヒマワリ祭りが行われているとか。そういえば、那覇ではツバメが飛んでいたなあ。




ついでに那覇に行く途中、「ムー進学スクール」なる看板をみつけ妙に親しみを感じた次第。実は何年も前から知っていたのですが、忘れていた。今日改めて見て、沖縄に来たらここでバイトしようかなと思ったことでした。


疲れたので、早くねよ。



  2月19日(月)
小平奈緒選手の金メダルで、長野はさぞ沸いていることでしょうね。苦しい時期をのりこえての成果ですから大したものです。きのうはちゃんとライブ中継でみていましたよ。

さて、今日は高江から辺野古を短時間訪問しました。
高江では、月曜担当のOさんご夫妻がテントに。午前中に正門ゲート前で集会をひらく予定だったが、米軍が休みで結局取りやめになったといいます。プレジデント・デーという聞き慣れない日なのだそう。アメリカにはそんな日があったんですかねえ。
今日は午後から、この高江のテントの運営を今後どうするのか各曜日の担当者が集まって協議をするのだと話していました。


四方山話をしたあと、東京から送られたというリンゴを辺野古に届けてほしいというので、ひと箱の半分を車に積んで辺野古に向かいました。
辺野古では渋滞になる直前ぎりぎりに到着し、第3ゲート前に車をとめてそこから数百メートル箱を抱えてテントまで歩きました。歩いている最中にコンクリートミキサー車、ダンプカーなどが列をつくり、あのいつもの渋滞に。
ただし、今日はそれほどの車両ではなく、座り込んでごぼう抜きにされ檻に入れられた人も数十分後には解放されていたようです。
その後、約1時間もダラダラとダンプが到着し、出る車と入る車でゲート前は混雑。リーダーの大城さんが、県警によって意図的に渋滞が作られ、さらに一般車両の通行が優先にもかかわらず工事車両を優先させていることをマイクで厳しく批判していました。




いま沖縄県内の各地では各球団がキャンプ入りしてどこでも賑わっています。ところで、下の画像をごらんください。これは2月4日の名護市長選挙で渡具知陣営の応援団体「くらしを豊かにする市民の会」がまいたチラシ。内部資料といいながら全戸に配布しているものです(家に入っていた)。


そこには「名護市営球場の危機」と大見出しで書き、稲嶺市政のために日ハムキャンプができなくなるような印象を植え付けています。
別のチラシでも、「日ハムに見限られた?」と書き、さらに名護市民球場立て替えに際しての国の補助率の低さをあげつらい、「稲嶺市政に予算折衝能力と国との連携がない」と、これまた事実に反することを書き連ねていました。
ところで、18日の琉球新報につぎのような渡具知市長のあいさつ文がのっているのを見つけて、Osprey Fuan Clubさんは「ドン引き」したと書いていました。


それもそのはず、選挙中はさんざん「日ハムに見限られた」と撤退宣伝しまくっていたし、自民党萩生田さんまでテレビで「残念ながら名護では清宮幸太郎は見れないんですよ」とまことしやかに話していた。もちろんその背後には例の極右T氏がいて「市民生活より辺野古基地反対に多くの時間と労力を費やした結果、名護市から日ハムは逃げ桜祭り以外何の魅力もない通り過ぎるだけの町になってしまいました」と拡散していたのでした。
ところが渡具知さん、市長になったとたん、まるで自分が球場をたてて日ハムを招いたかのように書いているのですから、そりゃドン引きですよね。
Osprey Fuan Clubさんが紹介する、あるネトウヨ(自分ではネトウヨじゃないと書いていましたっけ)のお方の記事を見ていたら、辺野古のテントに集う人々について次のような記事がありましたよ。ひどいものです。
それに輪をかけて笑っちゃったのが、日ハムのことについての書き込み(Osprey Fuan Clubさんが引用していた)。ご丁寧に渡具知さんが返事かいているんですね。もはや一蓮托生です、これは。




Osprey Fuan Clubさんは「ネトウヨ脳がつくりだすデマと妄想の世界」と書いていましたけれど、全くその通りです。
辺野古にも高江にも、海外からメディアを含めたくさんの人が訪れています。それらの人に「日本語出来なかったし」というんですかね。頭がどうかしています。
ことほどさように、デマであれなんであれ、自分に都合の良いところは切り貼りし具合悪くなれば無視するか都合良く解釈し直すか、歴史修正主義者よりまだひどい。

自分に都合のよいところだけを取り出して針小棒大に描き出すという手口はネトウヨのみなさんの常套手段ですが、その例をもう一つ。次のチラシの記述をみてみましょう。


公債費残高が増加しているのは事実ですから、これだけ見れば借金がものすごく増えて財政が苦しくなっているように見えます。また、そう見せるためにこのように描いているのですが、地方債を見る場合はその財源は何にどのように使われるのか、返済計画はどうなのか、そのうちの国や県の補助金・交付金はどうなのか、そのためにどれだけ積み立ててきたのかなどを総合的に見なければならなりません。これは財政の常識です。
学校や保育園の改築、増築、公的施設の建て替えなどの際には一時的に地方債を発行しなければならないことは当然あり得ることです。それをするなと言うのは、何もするなと言うことに等しい。渡具知氏は市議会議員だったのだから、そのことを十分すぎるほど知っていて知らんぷりなんでしょう。もしかして財政の基本を知らなかった??
ただ、稲嶺陣営についても、その点をもう少しきちんと説明しないで、「学校の建替え・改修や消防署の移転・新築をすぐやるために実質的な地方債贈は8億円」というだけでは不十分のそしりは免れません。
もう一つ、公債費残高だけではなく、実質公債費比率の推移をみておくことと、積立金残高がどうなっているのかも同時に検討しなければなりません。これも財政を語るなら当然求められることです。
相手陣営は決してこのことは口にしません。知っていながら、都合のよいところだけを針小棒大にあげつらうとはこのことです。
以前に名護の財政を歳出、歳入にわたって調べましたが、ここに借金と積み立て金の推移を載せておきましょう。借金だけを取り出して云々することの愚かしさがよくわかります。

名護市の財政 その3 公債費残高と積立金残高の推移(pdf)

特定の市民個人のツイッターなどの主張はそれぞれの立場での見解ですからそれをどうこう言うのは好きではありませんが、この手のやり方やデマのたぐいは許しておくわけにはいきませんから、あえて紹介した次第。



  2月18日(日)
沖縄滞在もほぼ中間点にさしかかり、今後の予定がなかなか立たないような状態に。
1つの理由は、南部で義母を実家につれてきて多少とも世話をしようと思っていたのが、朝晩の寒さのために連れてこられないために、顔を見に行くだけになっていること。
2つ目には、あちこちの見学と言っても、以前回ったところが多くなっているので、改めて行くこともなくなっていること。
よって、後半の目標は、辺野古・高江のたたかいに参加して状況をよく見てくることにおこうかと思っています。

今日は日曜日なので、那覇で映画をみるチャンスと思い、思い立ってさっそく朝7時半頃家を出ました。会場の那覇の桜坂劇場は3つのホールをもち、通常の商業ルートに乗らないような映画を積極的に上映しているユニークな映画館。


観に来た映画はもちろん「米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名はカメジロー」ですよ。
カメさんの映画は通常上映の「すきま」にやっているという感じで、ここ一週間ほどは朝9時50分からの上映で、さすがに今日は20人ほどしか観客がおらずガラガラ。
本当は「否定と肯定」も観たかったのですが、これがまた夜の最終で21時30分からときている。これじゃ車をどうするのかの問題もあるので、結局カメさんだけ観て出てきました。南部に帰ったときにまたあらためて観に来るつもりです。

さて、映画をまだ観ていない人のために、こんなドキュメンタリーが作られているのを見つけたので紹介しておきましょう。その名も「おしえてよカメジロー」。
制作はTBS。琉球放送の協力のもと映画と同じ佐古さんが制作にあたっています。映画を補足し予告編ともなり、今日の辺野古の状況とかかわらせ、カメジローなら何と言うだろうかという「叶わない」問いを発しながら、改めてカメジローの姿を浮き彫りにした秀作です。映画にも登場するネーネーズの唄が織り込まれています。


妻の友人もカメさんの追っかけをやっていたというし、先日話を聞いた大城さんもそうでしたね。大人はもちろん中・高生も演説があるというと聞きに行ったというのだから、もう想像を超えています。「ネットもテレビもない時代だから」というだけでは理解できないことです。
米軍を前に一歩も引かない毅然とした態度と庶民に向ける限りない優しさ、希代の理論家なのだが、決して難しい言葉はつかわず、人々に勇気をあたえ方向を示すたぐいまれな能力。それが「演説」を通して民衆にしみ通っていくのですから、今日では考えられないことですね。
弁論の能力というのは、悪くすればヒトラーのようになり、マイナスの熱狂を生み出します。しかし、カメジローはその正反対。常に庶民的で人なつっこく世話好き。沖縄の人々から今なお愛され続ける政治家がいたということを知るだけでも価値がありますね。

映画館をでたあとは、一度行ってみたかった「対馬丸記念館」に立ち寄りました。
言うまでもなくこの対馬丸は1944年8月22日米潜水艦によって撃沈された疎開船。乗船者1788名の約8割が海に沈み亡くなりました。学童集団疎開の幼い子どもたちが834名乗っており、うち生存者はわずか59名とされています(2005年現在)。

ここで少しだけ対馬丸事件をはさんだ当時の歴史をふり返っておきましょうか(私自身のためのメモです)。

日本軍の要衝サイパンが陥落したのは1944年7月はじめ。日本守備軍だけではなく一般邦人も「玉砕」することになる。サイパンにいた邦人2万6000人のうち沖縄出身者は約7割だったといいます。
サイパン陥落の報に慌てた大本営は、「次は沖縄」だとして地上戦を想定した全島要塞化の方針をたて、本土の防波堤と位置づけたのです。
サイパン玉砕の衝撃から政府は7月7日南西諸島からの老幼婦女子の疎開を決定、沖縄と鹿児島の両県知事に命令を発します。
しかし、現地沖縄は、老幼婦女子を含めて根こそぎ動員体制で全島要塞化の真っ最中、軍部は「労務提供と食料供出」を頼っている民間人を県外にだしたくなかった(大城将保さん)といいます。
この政府と現地の食い違いの狭間で人々の間では動揺が生まれ、県民の中でも生まれた土地で家族と運命をともにしたいと願う者も多く、疎開勧誘に応じない人も多かったのでした。
その中で強行された学童疎開と対馬丸の沈没。しかし、この事件の情報には軍機として厳重な箝口令が敷かれたことはよく知られています。
大城さんによると、箝口令のために沖縄では知られていなかったと思ったところ、実は村役場の幹部にはひそかに伝達されていたのだそうです。
「対馬丸遭難を知りながら何食わぬ顔で家族疎開を送り出した役場の立場は、封建的な官尊民卑、秘密主義行政の見本のようだ」と大城さんは手厳しく批判していました。
ところが10・10空襲の恐怖から年末頃になって疎開希望者が増えはじめるのだが・・・・時すでに遅し、沖縄近海は「死の海」となってしまっており、疎開計画は滞り、結果40数万人の県民が島に閉じ込められることになったのでした。

対馬丸記念館ワークブック  子どもたち向けのわかりやすい解説です。



  2月17日(土) その2
北日本では低気圧の発達で吹雪も予想される荒れた天気になっているとか。雪が舞っている富山市内の様子もテレビに映し出されていました。
沖縄は昨日とは打って変わってよく晴れ気持ちのいい一日です。しかし風は強い。まだTシャツ一枚には早いけれど、車はエアコンなしでは暑いくらい。

午後から予定通り、大宜味村のあちこちを探訪してきました。まず向かったのは大宜味村役場前。そこには9条の碑が建てられているのです。以前友人とあちこちの9条の碑をめぐったことがありましたが、大宜味村は来ませんでした。
それもそのはず、この碑は2017年6月23日に建てられたものでまだ湯気があがっていそう。


碑の裏には、「『命どぅ宝』を再確認し不戦への誓いを新たに、未来ある子孫への贈り物として、ここに日本国憲法第九条の碑を建立する。建立実行委員会」とありました。
名護共同センターのFBによれば「大宜味村住民は、戦前戦後、沖縄の政治革新、反戦平和運動の先頭に立ってきた土地柄です。自公に推された宮城村長ですが、『私たち日本人は戦後70年、憲法9条によって守られてきた。憲法9条を変えようとする動きがある中、具体的に行動を起こさなければならない』。昨年、建立計画発表の記者会見で堂々と述べました」と書かれていました。なかなか骨のある村長です。
沖縄だけではなく、全国で9条の碑の建立運動を起こすのも重要な課題だと思わされます。たとえば、長野では地域で教師たちが率先して満蒙開拓移民や少年義勇兵送り出しの旗振りをやったわけですから、そうした痛恨の歴史を繰り返さないためにも、9条を守る決意は必要ですね。
9条の碑の横には、それより先に建てられた「沖縄戦終結50周年記念碑」が目に入ります。平和の誓いとともに、当時一般から募集したのでしょう、「琉歌大賞」も刻まれていました。


これも共同センターの記事によれば次のような内容です。

<碑に刻まれた琉歌>
礎抱ち産し子
ふところに入りら
たんり 元姿
もどてたぼり

<訳>
慰霊碑を抱きしめ
亡き子の魂を懐にいだこう
亡き子よ 
どうか
元の姿で戻ってきておくれ


そのあとは、近くの喜如嘉にある「芭蕉布会館」へ。静かでどこにあるのかわからないくらいの場所にありました。
会館に入っても私だけですし、一人受付の方がいましたが、何とも素っ気ない対応でどうしたらいいのかわからない。「ビデオ観ますか」というので、15分ほどの紹介ビデオを鑑賞しました。このビデオはたいへんよく出来ていて芭蕉布の価値がよくわかりました。
そのあと、2階の作業場へ上がって数人の女性が糸を紡いだり布を織っているところを見せてもらいました。とくに説明があるわけではなく、みなさん黙々と作業しているところを眺めるだけ。いちいち聞くのも気が引けて、ま、そんなもんかと思いつつ、早々に会館を辞しました。




お昼はパン二切れほどしか口にしていなかったので、国道脇の「やんばる横町」に入って「牛肉」を食べることにしました。
1000円で牛肉200グラムとご飯、サラダ、味噌汁などのバイキング。さすがに腹一杯になってしまいました。お肉を腹一杯食べたいときは、ここはおすすめです。(昼餉:11:30〜14:00、夕餉17:30〜22:00 日祝休み)
食事中から、外の海に面した国道を大型ダンプがひっきりなしに地響きをたてて通っていく。国頭の採石場からのトラックで、午後3時の搬入に間に合わせるように辺野古に向かっている車両なのでしょう。
途中の生コン工場からは、ミキサー車も合流するのが見えました。いい加減にしてくれといいたくなります。





  2月17日(土)
今日はMNEMOさんのコンサートの日。体調は万全のようで、きっと会場が一体となって楽しく力のこもったライブとなることでしょう。成功を願っています。

「目を閉じてごらん、聞こえてくる音がある、声がある」・・・それは風の合間にかすかに聞こえてくる、母を呼んで待つ「石になった少女」の声であったり、壕の中でひもじさに黒砂糖をねだる子のつぶやきであったり、それをあやす母の子守歌であったり・・・
場合によっては、艦砲に喰われた日本兵の断末魔の叫びかもしれず、行き場を失った人々が身を投げた断崖の潮間から聞こえる恨みの声かもしれない。
人一倍感覚が鋭く、ほかの人には聞こえない声が聞こえたり見えないものが見えることを沖縄では「タカウマレ(高生まれ)」というのだと、「石になった少女」にありました。
私などは「低生まれ」の方ですから、そんなことは絶えてないのですが、たとえ「低生まれ」だとしても、沖縄では、ガマの暗闇で、摩文仁や玉城の丘で、「聞く」ことのできる音はたくさんあるに違いないのです。そしてそれは、歴史から学ぼうとするものの想像力によるほかはないのでしょう。

今日は、勝手に休息日。というのも、一人暮らしでも、数日もすると部屋はほこりだらけ、隙間が多いので外から入る砂や自分で持ち込んだ埃が結構蓄積するのです。
そこで今日は午前中、大掃除。午後から大宜味村に行って、9条の碑を見たり芭蕉布会館に行ったり、何とかの滝を見たり・・ゆっくり過ごそうと思っています。

風呂、トイレ、床を掃除し、床にはワックスがけして、さっぱりしました。気温が高いので暑い。よい運動になります。


沖縄では、瀬長亀次郎のドキュメンタリー映画のヒットに続いて、カメさん関連の本が売れているのだという。琉球新報には、新刊「『米軍が恐れた不屈の男』瀬長亀次郎の生涯」が平積みにされている様子が写されていました。
米軍支配下の沖縄で、かつて米軍にもっとも恐れられた男と言われたカメさんの生き様は、いまだに県民に強烈な印象と尊敬を与え続けているのですね。
私が借りているこの建物はもともとは現在の持ち主のお父さんが建てて住んでいたところ。布団類や食器類などはそのままで、古い本なども残っている。ふと見ると「沖縄人民党の歴史」があるではありませんか。お父さんが読んでいたのでしょうか。
先日玉城に住む家主に会った際、貸してくれないかと申し出たら「持って行っていいよ」と言ってくれたので、これはラッキー。いま少しずつ目を通しているところです。

巻頭には、瀬長さんの「刊行にあたって」という一文が収録されています。
沖縄人民党が結成されたのは1947年7月20日のこと。それに先立って7月初めには玉城村の民政府会議室で準備会が行われ、さらに現在大城さんが住んでいる玉城村百名の旅館で第3回準備会がひらかれ、人民戦線にちなんで「人民党」という党名がつけられたのでした。玉城はその意味で、人民党ゆかりの土地なんですね。
「歴史」は、「党の綱領、政策、党名は民主的討議を経て決定されたもので、決して特定の人の考えだけのものでなく、・・・集団の叡智で民主的に作り上げられたものであり、だからそこその基本路線は沖縄人民党26年にわたる長い歴史に耐える生命力をもつものとなった」と書いています。
昨日訪問した大城さんも他の人も異口同音に言うのは、カメさんは労働者であろうが農民であろうが、誰にでもわかりやすい言葉で印象深く話しをするということ。この巻頭文にも、それをうかがわせる逸話が書かれています。
1953年に食料会社の労働組合の結成大会が開かれ、その場で組合旗を何色にするのかもめたのだそうです。「赤にするのか、青にするのか、それとも緑か」3つに分かれてなかなか決まらない。そこで労組法の提案者である瀬長の意見を聞いてからにしようとなり、立法院にいた自分のところに使者がきた。そこで、現場にでかけ、カメさんは次のようにいう。

そうですね、赤がいいと思います。それ、万国の労働者団結せよとあるでしょう。皮膚の色は違っても心臓で高鳴る血は赤ですね。もう一つ、色彩学からいっても赤は色の王さまだそうです。最後はお墓の前(亀甲墓の前で大会が開かれていた)だからこじつけではないが坊さんの正装を私はみたことがありますが、最高の坊さんの金らんのケサは赤地です(笑い)。それに白地は白旗で降参旗、黒は弔いの旗でしょう(爆笑)。赤旗は団結と連帯、革新と未来の輝かしい展望をもって労働者階級とともに前進する。・・・アカはキケンだという風潮がありますが、それは労働者を搾取する体制をいつまでも続けようとする階級やその同調者の憎悪にみちた、まあ一種の悲鳴とでもいいましょうか。そのような風潮は労働者の団結と統一戦線の力でいつかは克服することができる。そういう確信をもって胸をはって奮闘することだと思います。・・・・どんな色の旗にするかはみなさんが自主的にきめることでありますので私の意見はこれでやめます

結局、あちこちから赤にしようという声があがり、そのように決まったのだといいます。
労働者の旗は「赤」と大上段に振りかぶるのではなく、みんなの心に寄り添って説得的に話をする瀬長節は、こうして大衆の心をわしづかみにしていくのです。

同時に、アメリカ占領軍のいいなりにはならないということを誰の目にも強烈に印象づけたのが、有名な1952年琉球政府創立式典での「立法院議員宣誓文」の拒否。他の議員が直立不動の宣誓をする中、カメさんだけが着席のまま宣誓を拒否したのです。
その宣誓文は原案では「・・・琉球政府の名誉ある立法院の行使者として選任せらるるにあたり、米民政府ならびに琉球住民の信頼にこたえるべく、誠実かつ公平に、その義務を遂行することを厳粛に誓います」となっており、カメさんに指摘されて朗読のときには「米民政府ならびに」を削ったといういきさつがありました。しかし、カメさんはハーグ陸戦条約の「占領地の人民は、これを強制して、その敵国に対し忠誠の誓いをなさしむることを得ず」という条文を熟知しており、これを論拠として米占領軍の沖縄統治に抵抗し「琉球政府」の欺瞞性を明らかにしたのです。
まだロングランを続けているカメさんの映画の中にも、このシーンは描かれていて、沖縄県民の心を熱くしているのですね。
まだしばらくは桜坂劇場で上映されているので、観る機会をぜひ作りたいと思っています。ただ、那覇で朝9時50分からだからなあ・・・早起きして出かけないといけません。



  2月16日(金)
夕方から雨になり、午後8時過ぎにはかなり強く降っています。ただ明日朝には止みそうなので、久しぶりの慈雨という感じでしょうか。
今日は昨日の安田さんに引き続いて、沖縄戦研究の重鎮の大城将保さんにお話を伺うことができました。
大城さんは作家として多くの作品も書いていらっしゃって、ノンフィクション作品は嶋津与志がペンネームだそうです。知らなかった・・・・。
もっとも、話を聞くといってもかなり出たとこ勝負で、勢いに任せて沖縄戦や現在の沖縄の状況についていろいろ語り合ったという程度にしかなりませんでしたが。
妻と親しくさせていただいている奥さんもかなりの時間同席していただいて、みっちり2時間、大城さんはほとんどしゃべりっぱなしでした。


大城さんは高校生のころ文芸部加入。当時米軍支配下の沖縄では唯一文芸部が自由な言論の場だったといい、高1のときに友人3人で伊江島の阿波根さんに会いにでかけたこと、阿波根さんは3人の高校生に深夜までつきあって歴史や闘いについて説明してくれたこと、わずかばかりの募金を置いてきたが闘争小屋にはちゃんと名前が刻まれていたことなど、当時の沖縄を代表する闘士の人となりについて感慨深そうに話してくれました。
また、子どもの頃、知事選に立った瀬長亀次郎さんが南部にきて、「自分は金もない、出してくれるもののいない」といいながら、「セナカ」と書いた小さな紙切れを渡してくれたこと、その演説が子ども心にも強い印象を残したこと、それ以後も瀬長亀次郎の演説となると、最前列(子どもは一番前に座ることができる)に陣取って話を聞いたことなどを語ってくれました。
カメさんを語るときの大城さんは身を乗り出して本当に生き生きとして顔つきまで変わってくる。尊敬を通り越して「愛している」という感じでしたね。それほど、民衆の中に火をともしてくれた人だったということなのでしょう。米軍支配下の沖縄で弾圧に決して屈することなく闘ったこのような優れた指導者がいたことは、その後のたたかいにどれほど勇気をあたえたことでしょうか。大城さん、カメさんは「あの世から民衆を導いている」と言っていましたよ。
昨日の安田さんにも聞いたことですが、沖縄戦当時、日本軍の沖縄住民に対する残虐行為がなぜ起こったのかという問題については、あらまし次のような話がありました。
何と言っても沖縄に配備された第32軍(沖縄守備軍)の中核は中国大陸で南京攻略をはじめ数々の侵略行為を働いた軍隊でありそこでの経験が持ち込まれたこと、第2に、沖縄県民が歴史的に中国と深い関わりがあり、もともと皇民意識が希薄であることるへの警戒感、差別と偏見が見られたこと、第3に、軍の施設を一般住民も共に建設したことからくる軍の機密を守るためには「スパイ狩り」によって見せしめを行う必要があったこと、これが中国大陸での抗日ゲリラ戦に悩まされたトラウマと結びついて、「方言を使う住民=スパイ」となり住民虐殺に発展していったこと、第4に日本軍の食料事情が貧困であったために、「スパイ狩り」を口実とした食料強奪が頻発したこと・・・

もともと沖縄には本土のような「サムライ」意識はなく、腰には扇子をさし、扇子一本で交渉などを行ってきた。軟弱だとか弱腰といわれるが、それが沖縄の生きる道だったこと、こうした平和愛好の精神は薄れてきているとはいえ、まだ脈々受け継がれていると大城さんは話していました。

帰りがけ、奥さんが「ここにある本、何でも好きなのを持って行ったら?」と軽いのりで言ってくれましたが、そんなわけにはいかない。その気配を察したか、大城さん、ご自身の著作を一冊持ってきてサインしてくださいましたよ。2015年に出版された児童向けの小説「石になった少女」です。感激です。帰ってからさっそく目を通しているところです。



  2月15日(木)
今日から二日間は南部南城市です。朝名護を発ってまず施設の義母のもとへ。
みなさん広間に集まって、休憩しているところでした。施設の方が、「みなさん、今日は大晦日(トゥシヌユルー)です、明日は旧暦のお正月ですね」とやっていました。なるほど。お年寄りの多いところでは、ちゃんと旧暦正月の意味があるんですね。
中国では春節。沖縄もおんなじなんです。もっとも、沖縄でどんな行事があるのかは私にはわかりませんが。
となりに座っていたおばあちゃんが、どこから来たのかと聞き、母が「長女の連れ合いで、長野に住んでいる」と説明してくれていました。




その後は、糸満市の轟の壕へ。ただ、ガイドの方と落ち合う時間までには間があったので、ひめゆりの塔のすぐちかくのカフェレストランへ。ここは、ひめゆりに来たときにはいつも立ち寄る「穴場」で、趣味がよく落ち着いて食事や休憩ができます。お店のまわりには一面花が植えてあり、訪問すればだれでもきっとファンになるようなお店です。
ただ、ひめゆりの筋向かいにあるために「死角」になっており、「あまり知られていないんですよ。来てくれるのは地元の方が多いかな」とはお店の方の話。それならと、「宣伝しておきますからね」と伝えておきました。
この店は、Cafe BreeGarden(ブリーガーデン)といいます。火曜日が定休日、ホームページは、https://cafe-breegarden.net/。こちらに来たときには是非お立ち寄りください・・・と代わりに宣伝。3月から5月ころまで「ヒスイカズラ」が見頃になるのだとか、これを目当てに来る人が多いとも話していました。




その後、ちょっと早めに轟の壕の付近に行ったけれど、どこにあるのかがさっぱりわからない。それもそのはず、案内板もなく特別に入り口がつくられているわけではありません(石原さんの本には標識があると書いてあったのですが・・・)。
かなり迷って、近くにいた農家の方に聞いたら、「ついておいで」と自転車で親切に案内してくれました。
入り口付近の駐車場(?)ではガイドの方がすで待っていてくれて、ようやくご対面。
ガイドは沖縄観光ボランティアガイド友の会の安田国重さん。名刺をいただくと、それには沖縄県平和祈念資料館運営協議会会長とある。これはまた偉い人にガイドをしていただくことになったものだと恐れ入りました。
明日会うことになっている大城将保さんとも資料館の仕事でよく知っているというお話。気さくにいろんな話をしてくださいました。


ところで、先日も書いたことのある轟の壕、巨大な陥没があってその中にはうっそうと木が茂っています。そこに壕があるなんてとても想像できない。ところが階段を降りていくと、ポッカリと大きな口をあけたガマが見えてきます。




石原さんの本の通り、このガマには1階、2階、3階があり、まず住民と日本軍が同居していた3階へ。3階といっても、そこは長くつづく下り坂のガタガタの洞窟。
入り口は米軍の攻撃で岩が崩れて人が一人入れるほどのすきましかありません(下の写真の黒いパイプのようなものは農業用水のくみ上げホース)。
中は、鍾乳石や石筍とともに米軍の攻撃の際の振動で崩落したとみられる無数の岩がころがり、足場の悪さはハンパではありません。片手に懐中電灯、片手にカメラをもっていたものですから、さっそく滑って危うく怪我をするところでした。
こんなところに数百人もよく潜んでいられたものだと思わされました。突き当たりには池のような水場があり、避難していた当時はここに遺体が浮かんでいたといいます。そこからの出がけに骨とみられるものも落ちていました。








日本兵がいたところは、川を挟んだ片方のずいぶん平坦で乾燥した場所、そこから住民を追い出して自分たちの住処にしたのです。まったく環境が違います。
普段は見学できないという2階部分も見せてもらいましたが、さすがに上り下りで汗まみれになってしまい、上から見下ろすだけにしました。ここは警察関係がいたところ。上からの米軍のガソリンドラム缶攻撃にも大きな岩が防壁になって、ここに住民がいたらもっと犠牲が少なくなったろうにとガイドの安田さんは話していました。
安田さんとは相当濃い話もできたし、いろいろ考えさせられることもありましたが、長くなるのでまたそれはいつか。

安田さんとお別れして、午後3時頃に當山の妻の実家に向かいました。運転途中で眠気が襲ってきたので、ガンガラー入り口の駐車場に車をとめて、約1時間仮眠。
家につくと白黒のネコが出てきて逃げ回っていました。西日が暑くて、ついにTシャツに。
天気は下り坂ですが、気温は明日も高めらしい。明日は、歴史研究家の大城将保さんのお宅を訪問してお話を聞くことにしています。



  2月14日(水)
今日は辺野古キャンプシュワブ前へ。朝体調を整えるのに時間がかかり基地前に到着したのが10時少し前。すでに9時からダンプ、ミキサー車などが入り、到着したときは出ていく車の方が多い状態で、多くの市民がプラカードなどをかかげてトラックに違法運転をしないように訴えたり、土砂運搬で戦争政策に荷担しないように声をかけているところでした。




名護市長選挙前なら、1時間くらいで搬入が終わるのに、今日は1時間半が経過。数え切れないくらいの工事車両が入っていました。
ゲートが閉まってから、1時間くらいテントで一休み。食事とトークの時間があって、12時少し前に再びゲート前へ。その頃には、那覇やその他の「島ぐるみ会議」のみなさんが集まって総勢150人くらいに膨らんでいました。
閉じられたゲートの前には歩道に警察車両がゲートをふさぐように置かれているので、その前にブロックと長い板で椅子をつくり、100人くらいが座り込み。
そうこうするうちに、生コン車、ダンプなどが延々と並んで入り口が開くまで待機。大渋滞の発生です。




多分警察は、座り込んでいる人たちが渋滞を引き起こしていると演出したいのでしょう。十分渋滞が起こってから(これが重要)、機動隊が座り込みの排除にかかります。
この点ははっきりさせておかなければなりません。渋滞の原因は一気にゲート前に集まる無数の工事用車両と渋滞を意図的につくっている警察のせい。市民の座り込みのために通行車両に迷惑がかかっているというデマを流す余地を与えていることは明白です。
機動隊による排除はあの高江とほぼ同じです。ただ異なっているのは、ごぼう抜きにした人たちをすべて檻に入れてしまうこと。そして、出られないようにすることです。
私ははじめ座り込みに参加していましたが、檻に入れられたらダンプが出るまで檻から出してもらえませんし、写真を撮ることができなくなるので、排除される直前に座り込みから抜けて撮影に専念しました(悪いなと思いつつ)。
機動隊の運び方もかなり乱暴で、毎日のこととはいえ、彼らなりに疲れもでてきているのか、イライラがたまってきているのか、いいかげんな扱いの隊員も見られました。






今日は人数が多いので、そんなに簡単にゲートを開けることができません。座りこんでいる人を引きずり出して檻まで運ぶやり方を見ていると、腹立たしいやら悔しいやら、それこそ腹の底から怒りがわきあがってきます。
こんなことまでして、辺野古新基地をつくらなければならないのか、その基地の意味は何なのか、機動隊員たちやダンプの運転手にすれば、業務としてやっているだけだとなるのでしょうが、後世の歴史家や子どもたちの世代からは、戦争に荷担したと糾弾されても言い逃れはできない。その証拠をここに残しておかなければならないと強く思うのです。
誰が戦争を推進し誰がそれに抗議し反対したのか。過去にはそうした記録が少なすぎた。しかし、現在は克明に記録を残すことができます。、




一方こちらは大浦湾の工事現場。琉球新報取材班は、K4護岸工事がすすめられリーフブロックの設置がすすんでいると報じていました。(写真は琉球新報取材班ツイッターより)


工事現場でのこうしたやりとりは、沖縄以外では(辺野古の現場以外では)臨場感をもっては決して理解されない。だからこそ、賛成・反対にかかわらず、現場で実際に見て、判断してほしいと思うのです。
この膨大な土砂の運搬にどれだけの金が使われているのか、誰が儲かっているのか、埋め立てによって何を犠牲にし、何を失っているのか。そして、新基地によって一体何が行われるのか。
米海兵隊の約半数がグアムに行き、ローテーションによって沖縄の基地が空っぽになって、さてまだ抑止力というのか。それは何の意味があるのか。みなさん、是非是非この辺野古にきて、共に考えましょう。
辺野古からの帰り道、脇をジャーヘッドの筋肉ムキムキの海兵隊員がイヤホンを耳に差し込んでランニングにいそしんでいる姿が目に残りました。



  2月13日(火)その2
今朝2時頃目がさめて、3時間ほどパソコンに向かって記事を書いて5時頃もう一度寝て起きたら9時。ちょっと自堕落な生活になっております。強い日差しで目が覚めた。天気予報でもこれからはおだやかな暖かい日になるだろうということなので期待しています。
この家の給湯は灯油で、風呂の湯を入れるのはいいのですが、ほとんど使っていない家なので灯油がどれくらいあるのかわからない。そこで、今日点検してみたらかなり底をついている。やむなくボイラーに貼り付けてある電話番号に電話をしました。
ところが、出た人の話していることが(訛りのせいなのか)よく聞き取れない。何度も聞き直してようやく話が通じて結局東村から給油に来て貰うことになりました。しかし、来るのが昼過ぎになるかもしれないというので、それまで待機です。なかなか一人暮らしも容易ではありませんね。
こうなったら、ゆっくり過ごすことにしましょう。

話は変わりますが、女川の野さんたちが準備してきた市民共同発電所「大六天発電所」が6日に無事開所式を迎えたとFBに載っていました。いや〜ほんとうによかったですね。おめでとうございます。そして、お疲れ様でした。
市民が協力して出資して発電所をつくり、その収益は「返済の要らない奨学金にあてる」といいます。野さんの言うとおり「原発のある町で、市民の力で自然エネルギーに挑戦」する画期的なとりくみで、この発電所は「復興のシンボル、被災地支援のシンボル」です。
私は全く何にもできませんでしたけれど、第2号機をつくる計画があるといいますから、そのときは出資者にしていただきましょうね。同時に、自らが住む地域でこのような取り組みができないかを考えることも大事です。野さん達の経験が全国に広がり、1つの運動として経験を積み重ねられるとうれしいですね。
写真は野さんのFBより。




日中はよく晴れて暖かかったのですが、日が沈むととたんに冷え冷えとしてきました。夕方の天気予報では、明日の朝も10度ちょっと止まり。ただ昼は20度を上回るかも知れないといい、明日の夜はかなり暖かくなると言っていました。今晩はまだヒーターが必要です。
今日の夕方、近くを歩いてみました。このまえ来たときは羽地湾入り口まで歩けなかったので、今回はどうかと思い歩いてみたのですが、やはり同じような状態。多少前回よりはいいのかもしれませんが、長く立ったり歩いたりすると、左足が言うことを聞かなくなる。
とはいえ、身体を動かさないとブクブク太ってくるので、ストレッチなども織り交ぜながら動かすようにしています。
明日からはまた少し行動範囲が広がる予定。ただ体調次第のところがあるので、無理せず行動しようと思っています。

このところワイファイ電波の受信状況があまりよくなく、更新に支障が出ています。あしからず。
下の写真は、今日裏の桜の木に来て蜜をすっていたメジロ(多分)その下の何枚かは散歩の途中で撮影したものです。















  2月13日(火)
すぐ近くに辺野古があり、毎日激しい抗議行動が陸と海でくりひろげられている・・・机の前に座って考えていると、実に不思議な気がしてきます。長野にいるとあんなに遠いところなのに。
外に出れば、1年少し前にここで過ごした延長のように思えてくるし、時間と空間の感覚というのは、断絶があるようでつながっており、つながっているようで離れているらしい。

ここに「砂上の同盟」という小さな新書版の本があります。著者は出版当時沖縄タイムの記者で論説委員だった屋良朝博さん。
「沖縄の海兵隊8000人がグアムに移転するというが、それは何故か?」という疑問をかかえ、わざわざ社を一年間休職してハワイ大学内の東西センター客員研究員として留学。アメリカのさまざまな人々への取材をもとに、そのなぞを解こうとした本です。

さまざまな状況を見るにつけ、「なぜグアムへ」との疑問は深まる。海兵隊にとっては”楽園”であるはずの沖縄を出て、予算が続くかどうか先々の保障がないグアムへ行こうというのか?
ハワイ取材を通して、見えてきた答えがあった。太平洋戦略とか、21世紀の新しい軍事配備といった仰々しいものではない。真相は拍子抜けするほど単純だった。


今日紹介したかったことは、実はその顛末ではなくて、昨日高江でOさんが渡してくれた(いつも自宅に送ってくれている)通信にあったあるお話なのです。
グアムから3名の女性が沖縄を訪問し、今年1月末に高江にも立ち寄ってくれて交流会が開かれたといいます。そこで話し合われたことをもとにOさんが詳しく報告していました。興味を引かれたので、みなさんにも是非というわけです。

まず、グアムの現状についての女性たちの話から。

(問い)グアムは米軍基地が島の1/3を占めており、その他の場所にも日本企業が進出してホテルなどを建てているが、現地の人はどう思っているのですか。
(答え)実はあそこはチャモロ人の聖地だったところで、外国人のリゾート地にされてしまって、私たちは悲しい思いをしています。
(問い)グアムはアメリカの準自治州にされていますね。
(答え)そう、でも米軍基地がおかれて、国民の多くが米軍基地に依存して暮らさなければならなくて悔しい思いをしています。
(問い)グアムの人口は?
(答え)約17万人で、チャモロ人が4割、フィリピンが2.5割、その他1割が太平洋諸国やアジア人、アメリカ人。産業は今は観光業が多く、生活物資はアメリカ経由で入り、輸入に頼っていてアメリカの補助金がついているので、地場のものが高くなり自由産業が育たなくなっている。


日本人にとってグアムと言えば沖縄同様、観光地くらいにしか思っていないかもしれませんが、私自身もくわしくその実態を見聞きしたわけではありませんでした。Oさんの報告には驚くようなことがたくさん書かれていました。

現在、アンダーセン空軍基地がグアムの北西にありますが、その先端地域に実弾射撃場を建設するといいます。その計画では年間最大273日の訓練を行い、使用する実弾は1年に約700万発。週末や夜間の訓練も行うとされ、住民の不安と怒りを買っています。
その訓練射爆場設置場所は、グアムの先住民族チャモロ人が最も早く定着した地域の1つで、貴重な文化遺産が豊富に残っているところ。チャモロの人々は今でもここで薬草を採ったり周辺の海域で伝統的な業業を行ったりしているといいます。
また、ここには手つかずの自然が残り、蝶、カタツムリ、コウモリなどの固有種、絶滅危惧種を含む多くの動植物が生息しているとのこと。同時にここはグアムの飲料水の主要な水源、そこへの悪影響も懸念されているとのこと。
その地、リテクサンは米軍が接収する以前はチャモロ人が所有していましたが、接収に対する補償はなく、先祖の墓を含め土地へのアクセスも制限され続けているといいます。


Oさんは、こうした話を聞きながら、「聞けば聞くほど、沖縄と同じ、高江と同じ。沖縄にいらないものはグアムに要るはずはない」と思ったと書いています。
「米軍基地はアメリカに持って帰ってほしい」と言ったところ、3人のうちの一人(アメリカ人)は「アメリカにもいらないですよ」と答えたという笑い話のような逸話も紹介されていました。そのためにこそ「連帯運動」が必要なのだと強調されていて、いたく同感させられました。
安保条約は必要だと考える日本人の多くは、おそらく安保によって基地が置かれているという実感はほとんどないはず。だから、基地を本土に移転するとなると安保は賛成でも基地はいらないとなる。沖縄は地勢的に重要な地だから、いまのままお金を渡して基地を置いて貰ったらどうかとなる。日本政府でさえ「『本土』が反対しますから」と言うのですから、物事の本質はまったくスルー状態。
グアムの女性たちの目にはどう映るのでしょうか。沖縄に要らないものはその他の県でも要らない。他県でいらないものは沖縄でもいらないのです。それを金と権力で心を奪い押しつけていく。
こうしたことを考えると、沖縄から『本土』を撃つ、世界を撃つことがいっそう重要になっているとあらためて思わされます。

ちなみに、ですね。沖縄のみなさんは決して「本土」とはいいません。何て言う?「内地」です。それには沖縄は「疎外された外地」という含みがあるのでしょうか。
「本土」という言い方は、実に高慢で無神経ですね。私も平気で使っていましたが、反省させられています。

そうそう、きのうも高江のテントにいったとき、あの小さなコロコロした鳥がテントに入ってきました。写真はなかなか撮らせてくれません。鳥の名前は「アカヒゲ(ホントウアカヒゲ)」というのだそうだ。何とも似つかわしくない名前です。テントでは何故か「ピーちゃん」と呼ばれていました。鳴き声がすばらしくうつくしく「森のオペラ歌手」と呼ばれるとOさんの通信にありました。
写真はwikiより。



  2月12日(月)その2
きのうはちょっと外出しただけでしたから、今日はまた少し遠出。辺野古(海岸)から高江をまわり、辺戸岬に行こうと思い立ったのです。
辺野古のキャンプシュワブ前は、昨日・今日と作業は休みらしく、抗議で集まっているメンバーはほとんどいないし、機動隊もいない。そこで、海岸に回って漁港の脇に昔からずっと守られているテントに行きました。
そこは、他県からひっきりなしに訪れる人で盛況。そこは金網越しに現在工事が進められているK1、K2の護岸がよく見えるところ。沖ではカヌー隊と海保が対峙しているところもかすかに見えました。
ここに来て説明を受けると、この辺野古基地が普天間の代替であるどころか、キャンプシュワブ、キャンプハンセンと一体化した巨大な新基地であることがわかります。そしてまた、巨大な利権の巣窟であることも。






高江では、月曜日当番のOさんご夫妻と友人の3人がテントを守っていました。1年ちょっとぶりの再会で名護市議選のことや、この一年にそれぞれ起こったことなどいろいろと話が弾みました。選挙では、企業、業界ぐるみの猛烈な締め付けと投票行動があったことや、そもそも期日前投票が40%をこえるなんてあり得ないだろう、という話も。
「もう7年間も毎週月曜日に通ったのよ」とOさん。まもなく沖縄を離れて郷里に帰るというので、それぞれの場で元気で活躍しようねと誓い合ってお別れしました。


テントにはわずかしか人がいないのに、N1ゲート入り口にはあいかわらず無表情の警備員が7名棒のようにつったっている。かわいそうといえば可哀想なのだが、昨年末ALSOKから変わったこの帝国警備、ALSOK以上に軍隊的で非人間的。一切口をきくな、表情を変えるな、動くなと徹底して仕込まれているのでしょう。一昨年末にこの高江で向かい合っていたあの機動隊員といっしょです。
30分交代で同人数が入れ替わりますから、合計14人、他の工事車両の入るケート前にもいますから、一体いくら国費を使っているのでしょうか。馬鹿馬鹿しくて話になりません。

さて、そこから沖縄本島最北端の辺戸岬に向かったまではよかったのですが、とにかく遠い。行けども行けども山ばかり。20代のころ一度だけ妻と来たことがありましたから、もう何十年ぶりでしょうか。
ようやくたどり着いたら、今度は強風で吹き飛ばされそう。観光客がもパラパラと来ていましたが、みんな寒そうです。
北西の風なので、潮を巻き上げてたたきつけてくる。断崖絶壁ですから景色はなかなかのものでした。復帰運動盛んな頃は、この岬で大かがり火をたいて、本土からの船と沖縄からの船が県境で出会い復帰闘争の勝利を誓うという祖国復帰海上大会がずっと行われてきたところ。
岬の先端には「祖国復帰闘争碑」が立っていました。これはまさしく、その海上大会を想起しつつ祖国復帰に込めた沖縄県民の叫びを刻み込んだものです。

吹き渡る風の音に耳を傾けよ
権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
・・・・・


強風の中で碑文を読むと、アメリカの軍事植民地支配に抗して復帰闘争に命をかけた多くの人々の血を吐くような思いが伝わってくるようです。本土のどこを探してもこんな碑はありませんものね。・・・あ、あるとすれば水平社宣言くらいか。

しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り大衆が信じ合い
自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり
・・・・・


観光地としてだけではなく、祖国復帰闘争の中で沖縄県民がどんな思いでこの辺戸岬に立ったのか、どんな闘争をしてきたのか、そうしたことを学んだうえでこの岬に足を運ぶべきじゃないでしょうか。今日は改めてそのことを感じさせられました。







  2月12日(月)
きのう外出した帰り、名護城公園に上って(車で・・・)みました。家から展望台まではわずか5分くらいしかかからないんですね。近かった。
緋寒桜はもうほとんど終わりで、すっかり若葉の出そろった木も見られました。ただ、公園の登り口には一本まだ沢山花をつけた木があり、小鳥がしきりに蜜を吸いに来ていました。
ちょっと気が早いけれど、トップの写真にしてしまいました。池田のみなさん、すみません。





今朝は気温がぐんとさがって、13度くらいなのかな。昼も15度くらいにしかならないという肌寒い天気予報。近くの皆さんは家で震えているのかなあ。ほとんど人通りありませんから。
それでも、私にすれば天国のような気温。昨日、大型店イオンで聞いて見たら、このところの寒波で暖房器具はもう在庫がないような状態とのこと。期間も長いので、みなさん堪えていらっしゃるのでしょうね。
ただ、寒さも明日までのようで、あとは穏やかで暖かい日和になるようです。早くカラッと晴れてほしいものです。

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話は変わります。沖縄以外ではおそらくほとんど相手にもされないような連中が、ネット上で沖縄2紙や辺野古で抗議活動を行う人々や辺野古新基地建設に反対する人々を口汚くののしり、デマを流し続ける状況を見ていると、なりふり構わぬ権力の”恐ろしさ”を感じます。そしてその底に横たわるこの国の”貧しさ”も。
もちろん彼らは強いと同時に弱い。彼らはまともな議論をしようとしても、するはずもなく、間違いだと分かっていても何処吹く風、ただ相手を貶め中傷し、世論の分断をはかることが目的ですから、それを理解した上で徹底的にたたかいぬく必要があります。
震源地になっている連中はごく少数、存在価値がある限り「職業的」にやっているわけで、そのことを頭に入れておかないと相手の土俵に巻き込まれてしまう。悲しいかな、そうした一見分かりやすく俗受けする話題にとびつき拡散してしまう連中もまたいることは事実ですから、そのことも考慮して、圧倒的で多様な批判活動をしていくことが求められると私は思います。
彼らの主張は驚くほど似ているんですね。どこを切っても同じパターンしか出てこない。全くの同根と言ってもいい。沖縄2紙については「偏向」と言えばすべて解決するのだし、辺野古新基地反対勢力は「反日・反米」で片が付く。
そのために、「あんなやつらは一握りでいちいち反論するのも馬鹿馬鹿しい」と、軽視する向きもあるかもしれません。しかし、そこが彼らの狙い目。ちょっとでもスキがあれば食らいつき、別の議論にすり替えて彼らの土俵に引きずり込むのは常套手段ですから、決してあなどってはならない。圧倒的に事実をもって粉砕するしかありません。ネット右翼のデマ情報に飛びついてやらかした今回の産経「ドジ誤報」がいい例でしょう。
彼らののさばりがあまりに激しいので我慢も限界に達しているのでしょう、反論・粉砕のサイトがどんどん増えてきているのは頼もしい限りです。もちろん批判・反証・反論はあくまで冷静に理性的に行うべきですけれど。

4年前の名護市長選の直前には仲井真知事が基地受け入れを表明して県民の怒りをかき立て、市長選直前には石破自民党幹事長(当時)が「500億円の名護振興基金をつくる」とぶち上げて、これまた名護市民の怒りを買った・・・こうした出来事が昨日のように思い起こされます。
しかし、今回の市長選挙では、辺野古のへの字も言わず、米軍再編交付金については政府関係者から出てくる話だけで、極力金で動くというそぶりは見せなかった。同時に、今回の市長選挙では早くから候補が決まったこともあって、前回の市長選挙で暗躍した土建業者などの動きは表面化せず、名護の閉塞感だとか、名護市民の収入の低さだとかだけを強調して稲嶺市政を批判する戦術に終始した。
だが実際には、辺野古の工事はすでに進み始めており、土建業者への発注は済んでいるわけですから、あとは速やかに工事が進むのを待つだけ。それで関連業者には巨額の金が降り注いでくるという寸法です。
金は名護市ではなく、ゼネコンや沖縄の大手土建会社、砂利の採取企業の懐に入っていくのです。あたかもそれを名護市の振興のように見せかけているのは税金でまかなわれる「振興予算」です。しかし、その使途を考えればどこに流れていくのかは明白です。

こうした巨大な利権構造の背後に、利権とはみせずにその思いを遂げさせる部隊が政府や企業には必要になります。ネット社会だからこその新しい構造です。
基地建設をめぐる巨大な利権構造とそれに群がる人々たちの暗躍。それがどのように行政をゆがめ、地元を分断してきたかを克明に追求したのが、週刊金曜日の編集長と記者の共著になる「国防政策が生んだ沖縄基地マフィア」(七つ森書館)です。
舞台は名護市。この狭い土地で政府、沖縄県、さらにはアメリカをまたいで繰り広げられる利権の争いは想像を絶するものがあります。足を運び証言をあつめ裏をとりよくここまで調べてくれたと感心します。
先に書いたネット右翼の連中が我が物顔で登場してくるのは、それほど古い話ではありません。上の本は、主に利権構造を追及しているのでネット右翼の連中とのかかわりはほとんど出てきませんが、それでもいくつか注目すべき記述がありました。今後は、彼らとこうした利権構造とのかかわりにどんどんメスを入れてほしいものです。

(4年前の市長選挙で末松候補が公然と「辺野古推進」と打ち出した背景には)応援に幸福実現党や「チャンネル桜」など極右勢力が混じり、候補者調整の段階で一定の影響力を持ちはじめていたことも一因としてあげられたし・・・

(2014年の市長選挙、その後の知事選挙あたりから本格的に)基地マフィアの衰退と裏返しに台頭したのが「ネット右翼」と同じレベルの過激な右翼勢力だ。かつての保守政治家が地盤・鞄・看板をもとに政治を展開したーーこれが沖縄北部で基地マフィアの台頭を許したのだがーーのとは違い、地盤も足場もなく、ひたすら政治的ドグマを声高に主張する勢力である。





  2月11日(日)
夜半から風が強くなり、昨日とは打って変わって肌寒い朝。15度くらいかな。さすがにTシャツというわけにはいかず、セーターを着込みました。夜明けが遅いので、ちょっと調子が狂います。
運動をかねて、生活の中心にしているダイニングキッチンのフローリングのワックスがけ。それから朝食。
今日は名護市内の本屋に寄ったり、共産党の事務所をのぞいたり、ゆっくり本を読んだりして過ごそうと思っています。

沖縄にくる電車や飛行機の中で読んでいた本が「沖縄の旅・アブチラガマと轟の壕ー国内が戦場になったとき」(石原昌家 集英社新書)。すでに読み終えて、ところどころ読み返しているところです。
アブチラガマについては、実家のすぐ近くでもあり何度も訪れて話をきいていたので、このブログでも取り上げたことがありましたが、轟の壕についてはこの本で初めて知ることができました。
轟の壕(カーブヤーガマ)は糸満市にある巨大な洞窟。すり鉢状の大きな穴になっており、その穴から左右にさらに横穴が伸びているという構造だといいます。沖縄戦当時は3層構造になっていて、(地下)1階、2階、3階と呼ばれていたのだとか。
轟の壕の章の冒頭にこんなエピソードが書かれています。
衰弱してほとんど息も絶え絶えになった住民を救出した米軍が、住民に「下に日本兵がいるか」と聞いたところ、「たくさんいる」と答えたので、「それでは、日本兵を生かすか殺すか?」と訪ねたところ、住民たちは口々に「殺せ、殺せ」と叫んだのだというのです。子どもを泣かせまいとして口を押さえつけて窒息死させてしまった母親。その無念・悲痛はいかほどか。あまりの無残さに言葉を失います。
著者は、この章の末尾で、なぜ米軍がそのように聞いたのかという背景説明をするとともに、「クルセー(殺せ)」は沖縄では「痛めつけろ」という軽い意味でも使われており、どちらだったかは断定できないことにも触れています。
住民や県庁職員が大勢避難している壕にあとから入り込んだ日本兵10数名が、最も快適な場を占め、住民をスパイ視して壕から出れば殺すと脅されたり、食料を取り上げたり泣く子を殺したりしたした蛮行への抗議の声だったとすれば、あながち文字取りの意味だとしても不思議ではありません。
壕を占拠していた軍の指揮官に言わせれば「上官からこの壕の死守を命じられている。避難民を壕から出すなら兵に命じて射殺するほかはない」ということになる。
ここには、守るべきは「国家(天皇制国家)」であり、住民ではないという日本軍の典型的な行動パターンが見られます。だからこそ、軍民共生共死のスローガンのもと、日本軍の存在こそが犠牲をさらに多くしたのではなかったのか。日本兵よりも住民の犠牲が多くなってしまったのではないのか。
彼らの行動がどんな犠牲を住民に強いようと、日本軍は上層部の定めた「戦闘守則」に縛られ、沖縄ではさらに住民蔑視と差別が加わったために、信じがたい悲劇に結びついてしまったといえるのではないでしょうか。
米軍上陸のあと首里城を捨てた日本軍は、約3万人の残存兵力で「出血持久作戦」を展開することになります。その基本方針を定めたのが1945(昭和20)年4月20日付け発令の大本営陸軍部「国土決戦教令」です。この本では、その第2章「将兵ノ覚悟及戦闘守則」のうちの第14条を紹介しています。
「皇国を守る戦闘において、敵を全滅させるためには老幼婦女子、一般住民の生命が犠牲になることをためらってはいけない」という趣旨で、日本全土を戦場と想定した大本営が定めたものを沖縄で先導発令したということになると説明していました。事実、そのように事態は進んでしまったのです。
次は、その戦慄の第14条です。

大本営陸軍部「国土決戦教令」、第2章「将兵ノ覚悟及戦闘守則」
【第14条】 敵ハ住民、婦女、老女ヲ先頭ニ立テテ前進シ 我ガ戦意ノ消磨ヲ計ルコトアルベシ 斯カル場合我ガ同胞ハ 己ガ生命ノ長キヲ希(ネガ)ハンヨリハ 皇国ノ戦捷ヲ祈念シアルヲ信ジ 敵兵殲滅ニ躊躇スベカラズ
                        (防衛庁防衛研究所図書館所蔵)

こちらにいる間に、この轟の壕に出かけてみようと思っています。



  2月10日(土) その2
今日は朝から暖かく、車ではエアコンをかけ、家に帰ってからはTシャツ一枚で過ごしています。朝は20度くらい、日中は25度くらいになったのではないでしょうか。それでもこちらの人は寒いという。12日、13日には、またまた朝方10度くらいまで気温が下がるらしいので、風邪を引かないようにしないと。

昨年12月1日に沖縄自動車道路で、6台の車がからむ多重衝突事故がありました。追突して横転した車に気づいて停車した後続の軽自動車に米海兵隊員の乗った車が接触、外に出て道路上にいた海兵隊曹長をさらに後ろの車(米軍所属)がはねて重体になったというものです。
問題は、その事故そのものではなく、海兵隊曹長が横転した車の中にいた人を救助しようとしていたところを事故に巻き込まれてしまったという「美談」が産経新聞ウエブ版で取り上げられ、そのことを「沖縄2紙が黙殺した」として、産経紙は沖縄2紙を「メディア、報道機関を名乗る資格はない。日本人として恥だ」と最大級の侮蔑の言葉で非難。これがまたたくまにネット上で拡散されて、さまざまな波紋を広げたことにありました。
ところが、実際には、産経記者は県警に取材しておらず、救助された男性も日本人に助けられたと話しているなど、裏取りのないまま記事を掲載したことがわかり、産経紙は2月1日になって過去の記事の取り消しと謝罪の記事を掲載したのでした。
琉球新報、沖縄タイムスはともに、海兵隊曹長が救助にあたったという事実を確認できなかったために、事故の事実だけを報じたのであって、産経紙の言うように「『米軍=悪』なる思想に凝り固まる沖縄メディアは冷淡を決め込み、その真実に触れようとはしないようだ」などという性格のものとは全く縁のないもので、取材姿勢としては至極当然のものでした。
しかし、産経と提携している八重山日報がこれに輪を掛けた記事を載せてしまった。「身を挺し県民救助、重体に 米海兵隊員に賞賛広がる」という調子。中身はほとんど伝聞。そして産経同様、取り消しと謝罪に追い込まれたのです。
産経が記事の取り消しと謝罪をしたことについては、2紙とも「評価する」として今後を見守る姿勢を示していますが、問題は産経紙の取材のありかた、それに飛びつくネトウヨ連中の、鬼の首でもとったようなはしゃぎぶり、自衛隊広報誌を含めそれに踊らされた機関や名のある方々・・・ネットの危うさとともに、大変考えさせられる事件でした。
たとえば、事故に遭った人を救おうとしてはねられた海兵隊員を励まそうという運動が起こり、佐喜真宜野湾市長もそれにいち早く賛同したようで、得意げにTシャツを広げている写真が紹介されていました(産経ももちろんこれを報じていた)。
ネトウヨの餌食なのかどうかわかりませんが、安易に飛びつくとどうなるかというよい見本です。確かに佐喜真さんが持っているTシャツには「わしらはいつもあんたらの餌食(prey)あるよ」と書いてある(「うようよ」さんの指摘)。海兵隊も妙に納得したんじゃないだろうか。

先に例でもわかるように、ネット上では、ネットでしか発信できない情報がある。それは新聞として書けば猛烈に長くなるか、大変な説明が必要となるからほぼ間違いなく書くことのできないような情報です。
一面の危うさがあることを承知で、今回の事件の裏側をネット情報からまとめてみることにします。
その1つは、産経沖縄支局長・高木桂一氏の情報源についてです。それは本人がネット上で明らかにしていることですから、知る人ぞ知る事実です。まず次の書き込みを見てください。(情報源は「Osprey Fuan Club うようよ対策課」・・・ちょっと怪しげな名称ですが)



「うようよ対策課」の執筆者は「動かぬ証拠」を突きつけて、産経ニュースの情報源は、米軍海兵隊でも、事故に遭った海兵隊員の妻でもなく「手登根安則」であると断じています。上のやり取りの異様さは一体何なんでしょうか。
普通なら情報源を秘匿することはジャーナリストの初歩でしょうし、メールでやり取りすることすらはばかられる内容です。ところがツイッターで平気でこんなやりとりを支局長と札付き右翼とがやっているのですから、お笑いにもなりません。
ところが、ウソでもネットで拡散されると「付加価値」がつく。そうしたデマ、ウソを垂れ流すことに意義を見いだすこのような人物が、ネット上では重宝されるのですから不気味です。
だいたいこのお方は、辺野古新基地反対の座り込みに参加する「シルバー部隊」に金が払われているという「証拠」をみつけたと「ニュース女子」で証言した人物。ウソ・デマのたぐいは数え切れないほど指摘されていますが、本人は何処吹く風。次々と新しいネタを見つけては、拡散しまくっているのです。
それを情報源としているのが、産経新聞とくれば、その根っこから腐っているのですから、どうしようもありません。記者を更迭するか、取材源そのものを断つかしなければ、再発は防げないと知るべきでしょう。
権力との対決の最前線が沖縄であると同時に、こうした事件の真実をめぐる情報のたたかいの最前線もまた沖縄なのです。



  2月10日(土) その1
今日は予定通り朝からテレビ受信用アンテナの補修から一日が始まりました。近くの電気屋さん(あとでわかったことですが、大家さんの同級生とのこと)二人が来て、アンテナを別の場所に固定し向きを中継所のある今帰仁に向けて設置。電波も強くなり、よく映るようになりました。
別にテレビをしょっちゅう見ているわけではありませんが、これからこの建物を使う人のためにも直しておいた方が良いだろうと大家さんと相談して、工事を行ったものです。


その後は、南部南城市玉城の妻の実家に向かい、義母の入所している施設に。ところが行ったときは風呂上がりで休んでいたために、1時間後に再度訪問。今度はしっかり所内の日常行事に参加していて、しばらく話をすることができました。
話の節々に、なくなった末っ子のことが気になるのか「こんなに年取って生きていて・・・」と言いながら涙ぐんでいました。それでも、こうして施設にいると、何だかんだと気が紛れるとも。
ちょうど施設の男性を中心にグループ・ディスカッションの最中。「今日は何月何日ですか?」「はい、2月10日です」「いまオリンピックが始まっていますが知っていましたか」・・・という調子。
それを見ながらしばらく横で二人で話していたのですが、「ボーッとしている人もいるし、間食のあとの皿洗いも何もしない人もいる。自分がいつもみんなの皿を洗っている」と笑っていました。いつもの日課を中断しては悪いと思って、途中からその会話に入ってもらい、ちょっとだけそれを参観して、施設をあとにしました。
本当は家につれてきて一晩一緒に過ごそうと準備をしていたのですが、あいにくの雨と夜の寒さのこともあって、義兄の忠告で取りやめに。状況をみて昼夜暖かくなった頃に外泊することも考えようということになりました。
義母は2年前からみると、その分だけ年を重ねた感じはあったものの、自分でも「どこも悪くない」という程に大変元気で頭もしっかりしており、テンポ良く会話もできるので安心しました。




実家泊まりの予定がキャンセルとなったので、雨のなか再び名護に向かい6時前に到着しました。
いつもの伊佐川食堂で早めの夕食を済ませ、家についてホッと一休み。

この3日間本当によく車を運転しました。沖縄自動車道が宜野座から許田の間で工事中のため対面通行の箇所があります。それもあって、夕方名護から那覇方面に向かう車が大渋滞。名護に働きに行って帰る人たちなのでしょうか。工事がなくても渋滞が発生しそうなほどの車の量でした。
サービスエリアで沖縄の2紙をみると、一面トップはやはりオスプレイのエンジン・空気取り入れ口のカバーの落下事故のこと。本土ではオリンピックの模様がトップなのでしょうから、もうそのことからして沖縄と本土の違いが歴然です。



  2月9日(金) その2
ギョギョ!今度はオスプレイのあのでかいエンジン・カバーが落下してうるま市伊計島の海岸に打ち上げられたのだとか。琉球新報の号外が出ていました。また、琉球放送琉球朝日放送もくわしく報道していました。
重さは約13キロ。飛行中に落下したとみられると報じられていました。事実ならとんでもないこと。
道理で、今日高江に行っても何にも音沙汰なしでしたから、今日だけはおとなしくしていたのでしょうか。
沖縄タイムスは「沖縄防衛局は同日午後3時45分、『在沖海兵隊が、普天間飛行場所属MV22オスプレイの右側エンジンの空気取り入れ口の部品であることを確認した』と県に通知した」と報道していました。
海兵隊はもはや保守・修理能力が極限まで低下していると思われます。にもかかわらず、どれだけ抗議してもカエルの面に何とか。抗議する方もよくわかっていて形だけ。聞く方の米軍もよくわかってて馬耳東風、牛に経文。馬の耳に念仏か?いやいや、豚に念仏猫に経。これじゃ動物たちはいい迷惑だ・・・「米軍に何とか」という諺をつくるべきです。それはともかく、自民党はまたまた「何人死んだのか」とほざくのでしょうかね。
江崎鉄磨さん、「琉球処分」というべきところを「沖縄処分」って言ったの?これって、合ってんじゃないかなあ。米軍支配の沖縄を見ていると、そう言いたくなるのも頷けるなあ。




  2月9日(金)
夕べは9時頃寝てしまい、朝ぐだぐだしながら起きたのは結局午前6時過ぎ。道を挟んで向かいの人(多分若い)が6時前に車で出かける音が聞こえた。
まだ外は真っ暗。東京・長野とは1時間近くも夜明けが遅いから、明るくなるのは7時頃でしょうか。体感気温は15度くらい。寒くはありません。
これから部屋の掃除をして、朝食、身支度その他。午前10時頃から行動開始。辺野古新基地反対名護共同センターにでかけ、カンパを届けたり情報交換。午後からは名護城公園で桜を見て、あとはいろいろ。
夜は近くのラーメン屋でとんこつを食べよう。前回来たときからこのとんこつの大ファンになって、今回も楽しみです。

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予定が計画より進行したので、朝考えた予定を変更して、今日は高江・辺野古に出かけようと思い立ったまではよかったのですが、テレビのアンテナを修理するために電気屋に連絡したらすぐに来るという。診てもらったら、どうやらアンテナの土台が腐食してアンテナの向きが変わってしまったというので、明日午前中に修理をしてもらうことになりました。
結局なんだかんだと時間が取られ、10時半頃高江に向けて出発しました。この時期ですから道は空いており、1時間もかからずに高江に。
道中、だんだん気温が上がってきて、体感温度23度くらい。さすがにTシャツだけというわけにはいきませんでしたが、結構な暖かさになりました。




N1の入り口のテントには、金曜日の当番のTさんが一人いて対応にあたっていました。一昨年の10月、11月からみると大変な変わりようでしたが、入り口は相変わらず警備会社の社員7人が無表情に並んでいました。会社がALSOKから変更になったらしい。「大変だねえ」と声を掛けても、表情は変わらず何の反応もない。
Tさんは、こっちは一人しかいないのだから向こうも一人でいいのにね、と笑っていましたっけ。
工事の状況を聞いてみると、赤土が露呈したところや路肩ではまだ工事は続いており、オスプレイの離発着で黒焦げになった芝もそのままという。オスプレイは昼飛ぶこともあるけれど、高江の人の話では夜遅く低空飛行訓練を行うこともあるのだとか。ひどい話です。
Tさんがテントの下を指さすので見てみると小鳥が一羽入り込んでエサをねだっている。エサはやらないようにしているというけれど、たいへんなつっこいらしくすぐ近くまでやってきます。鳥の名前は忘れましたが、赤い模様のコロコロしたきれいな小鳥でした。
テントの裏には、小鳥はもちろん、亀やヘビがいるのだとか。今度行ったときに見てみることにしましょう。
訪問者名簿をみると、全国からまだ沢山の人が訪れていることがわかります。今日も午前中、全国民医連から20数名が来てくれたとのことでした。

帰りがけ、東村道の駅でタンカンを妻あてに送りました。ラッキョウも少々。ラッキョウを入れるために何個か取り出したタンカンを食べてみたら、ちょっと日が経っている。送ったものはどうだったか。これも当たり外れがあるので、ちょっと心配です。

そこから東海岸沿いを南下して辺野古へ。駐車場がないので、今日は様子見で通過するだけ。ちょうど20〜30名が工事車両入り口で激しく抗議をしているところでした。
現在駐車場になっているところは、そこからさらに南に4キロほど行ったところ。そこに駐めておくと迎えに来てくれるか、電話すると来てくれるとのこと。大変不便ですが、さまざまな攻撃を考えるとやむを得ません。 今度来るときは、そのようにしてとめてみますか。
辺野古は、名護市長選の結果に強気になったのか、工事用車両の数もハンパではないそうです。陸と海からどんどん土砂を運びこんでいるという。なにしろ結集する人が足りないと高江でTさんが言っていました。




そこから、名護市内にまわり、共同センターへ。預かっていたカンパを届けるとともに、いろいろ資料などを入手してきました。

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帰りがけに、少し買い物をして、早めにお風呂に。以前来たときはすべてシャワーでしたが、さすがにシャワーは寒い。しっかり浴槽に湯を張って、じっくり暖まることができて幸せな気分になりました。このあとは、予定通りラーメン屋に出かけます。



  2月8日(木)
午前7時起床。白と黒の2匹のネコは多分家の中にいたのだろうけれど、私の姿をみると逃げていくのでほとんど遠くからしか見ることができません。
ところが、9時頃義兄がやってくるやいなや、まつわりついてエサをねだっている。金魚のウンコよろしくどこまでもくっついていくので、どこのネコも同じかと苦笑いしながら見ていたことでした。




9時半頃、昨日空港まで迎えに来てくれたIさんが、レンタカー屋さんまで連れて行ってくれて、首尾良く安い軽を借りることができました。
その後は、名護で一軒家を貸してくれる家主のUさん宅に出かけて、選挙の話やら趣味の話やらで盛り上がりました。彼は三線については相当な腕前で唄も同時にやるのだそうで、那覇の芸術ホールで発表したとか、文化祭で忙しかったとかと話してくれ、さらにギターを取り出してきて懐メロを奏でてくれましたよ。ギターで古賀メロディーを弾くところなどはどうも義兄とよく似ている。奥さんは生け花のお師匠をしているというし、いろいろと活躍しているご夫婦です。
彼は名護の出身ですから、名護の市長選の話題も当然。しきりに残念がりながら稲嶺陣営の敗因が油断(辺野古基地反対の声が6割あったこと)にあったと分析しておりました。一方、南城市の勝因については、前市長が保育園の民営化にこだわって市民の意見を聞かなかったことが大きいとも。
エアコンでも足下が寒いので、今日コタツを出しのだとか。奥さんは立ったり座ったりが大変そうだったので、電気カーペットにしたらどうですか、それなら机でも足下はポカポカしますよと我が家の体験を語ってきました。沖縄はこのところの10度台が相当にこたえるようで、みんな寒い寒いの連発。
またまたお昼をご馳走になったのでちょっと遅くなりましたが、一旦荷物を取りに実家に戻り、布団などを積んで午後2時頃に名護へむけて出発しました。
名護では、1ヶ月の滞在のためにリストアップしてあった身の回りの日用品をイオン名護店で買いそろえ、滞在先に到着。家の中をかたづけて明日からの生活に備えました。
こちらでは家々の庭に桜が咲いていて濃いピンクの花があちこちに見えます。Uさんの家にも桜が一本あって、ちょうど満開。しきりにメジロが蜜を吸いに来ていました。




このヒカンザクラはソメイヨシノのようにハラハラと散ることがなく、いつまでもしがみついているのだとか。そういえば、しぼんだ花もところどころに見える。
日が落ちて暗くなると気温も急に落ちて10度台の気配。さすがに私でも寒い。今日はもうこれですることもないので、早く寝るとしましょう。



  2月7日(水)
無事沖縄到着。名古屋は快晴で、分厚い服で出かけたら汗ばむほど。
空港ではいつも乗っているソラシドエアが随分前から駐機場に待機している。予定通り搭乗がはじまって乗ってびっくり、人がいない。飛び立ってからトイレに行くついでに乗客を数えてみたら約20人。こんなことってあるんですねえ。機体が軽かったからか、到着も10分ほど早まってしまいました。
沖縄は曇り、迎えに来てくれたIさんと一緒に、義弟の家で奥さんから夕食をご馳走になり、お参りも済ませて午後9時頃當山の妻の実家に着きました。直後に荷物もついて、ようやく明日から活動開始できます。








  2月6日(火)
夕べから富山ではものすごい雪で、車も埋まっていると娘が写真付きで知らせてきました。遠くから通っている子も多い高校は休みになったのだとか。
北アルプスを隔てた安曇野は、パラパラと降っただけ。ただ、マイナス5度前後で寒さが老身にこたえます。

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キャンプシュワブ前では、5日数え切れないほどのダンプが入り口から入っていったと、琉球新報取材班沖縄タイムス取材班は伝えていました。クレーン車も運び込まれ、機動隊による排除、規制も激しさを増しているよう。以下は取材班の写真をお借りしました。






一方、名護城公園では桜が満開、海を見下ろす高台の様子が共同センターのFBに乗っていました。同じ名護の辺野古と町中の対比。








  2月5日(月) その2
人一倍辺野古で高江の工事現場で権力と対峙し、全国に情報発信を続けてきた北上田さんのブログにあった昨年4月26日の沖縄タイムス紙の記事を紹介しておきましょう。





  2月5日(月) その1
沖縄の義兄に7日から行きますよと連絡したら、「はい、メンソーレ、猫のシロ・クロが歓迎します。名護も荒れておりますよ」と返事が来た。そういえば、猫が出迎えてくれるんだった。名護が「荒れている」ってどんな意味かな??

昼前、沖縄に荷物を発送しがてら、おみやげなどを買いにでかけました。雪もすぐに融けてしまうようなフワッとした雪で道の状態はよろしくない。新車を気にしながら、いつになく丁寧に運転したことでした。
沖縄は朝方には気温11度くらいにまで下がっているというので、荷物はこちらで着ているような冬ものも詰め込んだために結構な量。この時期の沖縄はものすごく寒くなることがあるので、念には念を入れて・・・。とはいえ男ですから荷物はほとんど衣類だけの簡単なもの。あとは手荷物で機内持ち込みです。

午後うたた寝をしていて寒いなと感じたものの、その後はなんともなかったのですが、夕方突然声がおかしい。普通にしゃべっていても声が裏返ってしまう。こりゃ、ちょっとヤバい状態?

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ときどき訪問しているサイト、北林あづみさんのサイト「安曇野賛歌」を見ると、いま”はやり”の「JCPサポーター」についての考察が。いち早くJCPサポーターに登録し「JCPサポーター宣言」をしたのだと書いてありました。
自称里山主義者で真正保守主義者を自認する彼の論考は、この国の政治状況を一つの側面から鋭く穿つもので、私は嫌いではありません。
学生時代「新左翼」の周辺にいた自分がいかにして共産党支持となったか、その真意はどこにあるのか、将来展望はどうなのかを書きながら、「何故に『JCPサポーター宣言』が重要であり、必要不可欠なのか、述べていきたい」と続けていました。

以前の日本共産党なら、分かっていてもこんな大胆な戦略(注:JCPサポーター制度)を表に出さなかっただろう。それほど日本の政治的状況が危機的であり、だからこそ日本共産党はどの政党よりも、日本の諸悪の根源でしかない安倍政権打倒に本気だという証しなのである。志位和夫委員長は安倍政権打倒の大義の旗を雄々しく掲げ続ける旗手なのだ。

共産党員のみなさんが読んだら涙を流して喜びそうな文句が並んでいます。

正真正銘の保守主義者であるわたしが「JCPサポーター宣言」をしている。
わたしは危機的な日本の政治的状況だからこそ、その重みを分かっているつもりだ。
さあ、「JCPサポーター宣言」をしよう!
国会議事堂前の道路を埋め尽くした8・30の光景を凌駕しよう!


さらにこんな一節もありました。「自民党と財界が目の敵にするのは日本共産党だ。何故か。一番恐れているからだ。『JCPサポーター宣言』をする市民が驚くほどの数になれば、自民党と財界に激震が走るだろう」・・・まさにその通りです。
言い過ぎを承知で断定的に書きますが、今日の政治状況を考えれば、現状分析においても、その党の歴史においても、将来展望においてもこの党の他には語るべきものを持っている党はない。
私も北林さんに習って、本日JCPサポーターに登録申請しましたよ。ホントは膝サポーターか腰サポーターの方がよかったんだけど。

話は飛びますが、ファシズムとたたかってレジスタンス運動を展開していた1940年はじめのフランス、イタリアなどでも共産党は権威をもち尊敬を集めていた。

ジャックやコストの手本にひきつづいて、ジュリアンの手本が、おどろくべき人間工場とも思われるこの党に、ぼくをひきよせたのである。(モルガン「人間のしるし」)

彼らが信条とした社会変革の「思想」は当時のソ連のスターリニズムでゆがめられていたとしても、レジスタンスの若者たちの圧政・暴虐とたたかう心意気にはどんな汚点も記してはいない。
私自身、彼らのような気高い志と情熱を持ってはいなかったけれど、やはり和製ジャック、和製ジュリアンのおかげで、一つの党の引き寄せられてきたことは間違いない。
ここに紹介した北林さんの「JCPサポーター宣言」を読むと、志位委員長、小池書記局長らの人間性と精緻な理論、柔軟な戦術が彼を引きつけている強烈な要因であることがわかります。
ますます多くの人が、とりわけ若い世代の人々がこの党に引きつけられるよう、党のみなさんは働きかけを強めてほしい。その真価が”生身の人間を通して”わかるように行動してほしい。

最後に、自分自身の弱さと向き合うためにも、「人間のしるし」の最後の一節をここに記しておきます。

人々が毎日、歌を口ずさみながら、死と刑罰とに立ち向かい、機関銃と戦車とにぶつかって行くのは、愛のためである。人民が、悪を制裁することを要求するのは、愛のためである。そして、おのれの統一を実現し、自己充実の喜びを知る人々にとって、そのとき、死ぬことが何であろう。
<この小説は1941年獄中で書き始められ1943年8月に書き終わった>



  2月4日(日) 
松本で仕事を終えて家に帰る頃から雪が積もり始め、夜が更けるにつれて2,3センチの積雪。明日まで少し積もるのでしょうか。

帰ってからはタブレットで、名護市長選挙の開票速報とにらめっこ。結局開票率90%近くで渡具知候補に当確が出て、勝負ありでした。残念というほかありません。
選挙結果は当然ながら厳粛に受け止めなければいけませんし、このことによって辺野古基地の抗議活動が鈍るわけでもありませんが、これまで新基地建設反対のためにたたかってきた翁長知事をはじめとする沖縄県民のみなさんにとっては、大きな打撃であることは間違いがない。

辺野古の”へ”の字も口にしなかった渡具知候補ですから、当選して辺野古基地について推進の方針を示すことは選挙民を欺くことになるのは当然です。とはいえ、その立場ははじめから明白なわけですから、その候補を選んだ名護市民については、このあと新基地ができて様々な問題が生じたとしても、その分の責任を負わなければならないことも当然でしょう。それだけの意味をもつ選挙だったということは肝に銘じておかなければなりません。
「ここまで基地ができてしまった以上、あとは基地交付金をもらって産業振興や教育に充てた方がいい」という気分は間違いなく拡散されてきたと思われます。だが、それもまた空虚な期待であることは、過去の原発立地自治体などをみても明らか。基地交付金で地元が潤うなどというのは空想にすぎません。

権力とのたたかいは、大抵の場合は負け続ける。しかし、最後まであきらめず戦い抜く。仮に真実が明らかになるのが一世紀後だとしても、そのたたかいをやめるわけにはいきません。抵抗権は基本的人権の重要な一つですから。
このあと、名護市でじっくりと沖縄の変化を見てくることにしましょう。これまで基地反対の先頭にたってたたかってきた稲嶺進さん、本当にお疲れ様でした。基地前の座り込み現場で会えるかもしれませんね。



  2月3日(土) 
沖縄の稲嶺進後援会から、先日の応援カンパに対して礼状と領収書がとどきました。カンパをいただいた方に、この場を借りて報告いたします。
また、横浜市に住むいとこが知人たち4人のカンパだとして送金してくれました。ありがたいことです。ただ、これは選挙に間に合わないので、私が沖縄に出かけたときに届けることにしましょう。


さて、いよいよ明日は名護市長選投票日。期日前投票が4割にものぼるというかつてない選挙。琉球新報は、横一線のまま訴えの最後の日を迎えたと報じていました。1票でも勝てば勝利。最後の最後まで訴え抜いて支持を広げ、名護を平和の砦にしてほしいものです。
名護市辺野古のキャンプシュワブ前では、きのうは人数が少なくてごぼう抜きされていましたが、今日は基地前には200人が集まり、節分ということもあって「基地は外、福は内」と豆をまいたと新聞が伝えていました。(写真は沖縄タイムス基地前からのツイッター)




昨日紹介したフォーラム21の本は、2013年10月の出版。それから4年の歳月を経て、今度は30期生16名が「2050年への人創り・国創り」と題する報告集を出しています。
この著者には官庁の職員は含まれず、すべて大企業の中堅管理職。平均年齢45.6歳、1960年、70年代に生まれた「新人類」「団塊ジュニア」の世代だと書かれています。今日の大企業で管理職になった40,50代がどのように考えているかを知る意味では一つの参考にはなるでしょう。
一読してわかるのは、100年後を見据えたと称する提言すべてが、最終的に「憲法改正」に結びついていること。さらに、数年前の塾生たちのつくった改正試案とはまた異なるまとめ方をしていること、その時々の情勢や年齢層の受け止め方の違いから「自由な」言論活動を行っていること、などが特徴です。
十分にまだ読み込めていないので、評価は別の機会に行うことにしますが、パラパラと読んでいて気がつくのは、彼らはいたって真面目で「変革」の気概にあふれていること。海外を含め、様々な場にでかけたくさんの人と接触して見聞・見識を広める努力をしていることです。この「塾」の並々ならぬ決意を感じ取ることができます。
だがいかんせん、わずか1年の塾生としての活動であって、現状分析も中途半端。現状こうあるというところから出発するので、その分析は皮相かつ非歴史的。たとえば、子どもたちが置かれている教育の現状については、戦後の文教政策(能力主義・国家主義、一部のエリート育成)の流れの中では分析されません。教育の現状について専門家(教師、行政担当者、研究者)が入っているわけではないので、いきおい政府よりの提言が生み出されてしまいます。
改革の視点も「企業」目線ですから、いかに効率よく現場が動き、監督責任も果たせるのかという視点にならざるを得ません。これはある意味大変危険だし、教育をサービス業として競争原理と管理主義で覆い尽くすということにもなりかねません。
議論・研修を行うことを否定するものではありません。しかし、それを憲法改正にまで結びつけて安易に発表することに対しては厳しい目を向ける必要があります。
ただ、彼らが並々ならぬ熱意をもってこのような議論・研修と提言活動をしつつあることに、リベラル・左派はどう対応するのかは一方で問われ続ける。彼らを凌駕するほどの情熱と努力を傾けて、理論構築をすすめることができるのか、極めて重要な時期にさしかかっていると私には思えます。

アメリカ・トランプが大軍拡の方針を明らかにし、その要としての核兵器を新型に更新する「核戦略見直し」を打ち出したことに、日本政府は河野太郎談話で「高く評価する」と述べたらしい。
骨の髄までアメリカ隷属病=不治の病にかかっていることを内外に宣伝しているようなもので、こんな国は他にないのでは?



  2月2日(金) その2 
夕べから2、3センチの積雪。昨日松本の「こどもじゅく」から帰るときには、松本で5センチほどでしたから、やはり南の方がよく降っていたことになります。
それでも今朝はふんわりとした春の雪で、昼近くにはもうすっかりなくなっていました。


さて、今日は妻が長い間乗り回してきたシエンタとお別れをする日。いろいろぶつけたりもした車でしたけれど、富山にも行ったし東北にも被災地支援で出かけたし、たくさんの思い出の詰まった愛着のある車です。
昨日新しい車の手続きをしてあったので、今日は昼前に大町まで行ってその車を引き取ってきました。もちろん運転は妻。最後の運転です。
新しく購入した車は、スズキワゴンRスティングレー。ソフトハイブリッド、フルタイム4WD、ナビ付きという軽にしては結構な装備・性能の車です。
町を走っていると、軽自動車の多くはダイハツ、ホンダ、スズキですね。本当によくすれ違います。
引き取ってくるときに、自分で運転したら?というのに、怖いからと言って結局私が運転して帰ってきた。
この10年ほどで車の進化もめざましく、いろんな機能がついていて、私にはまだ何が何だかわからない。だが、運転しやすくよく走る車ではないかという印象は持ちました。
ときどきは私も使わせてもらいますけれど、いつも乗る妻には事故にだけは遭わないように気をつけて、ずっと大事にしていってほしいものです。
私は相変わらず、スバルの軽トラ!!





  2月2日(金) 
MONEY VOICEのサイトで、活発な言論活動を展開している高島康司というお方がいらっしゃいます。
アメリカ在住経験を生かして英会話セミナーを行ったり、いろんなビジネス書を書いたりしている人らしいのですが、いまいち素性はよくわからない。しかしMONEY VOICEに載った一つのレポートは注目に値する考察だと私には思えました。
それは、今日の日本の政治に影響力をもついくつかの勢力について書いているもので、「日本会議はもう古い? 我が国エリートが集う『梅下村塾』の影響力」と題するもの。
結論から言うと、この国は「日本会議」「日米合同委員会」「フォーラム21」の3つによって支配の底流がつくられつつあるというものです。
3つに分類できるかどうかは別として、「フォーラム21」に注目しているのはアメリカ帰りの彼だけのことはある。それは、「海外シンクタンクの日本に関する報告書において、「日本会議」よりもはるかに重要な集団として紹介されているのがこの『フォーラム21(梅下村塾)』だからだ」というのです。
なぜそういえるのか。それは、この団体がユーエスコーポレーション社長の梅津昇一が「21世紀の日本・世界を担う新しい指導者を育成」することを目標として1987年に設立した研修機関であり、各省庁、日本を代表する大企業の「40代から50代の生え抜きのエリート官僚と、企業の幹部候補生」が集まっているからです。
高島さんは、「参加団体を見ると、これは経営塾どころか、日本の中枢に食い込む集団であることが分かる」と断言しています。ほとんどの省庁を網羅し、企業も「それぞれの産業分野を代表する主要な一社に限定」という徹底ぶりですからね。
この団体、結構たくさんの本を出しています。また、集団での議論を重視し、その結果としてまとめた政策提言もおこなっています。「憲法改正試案」も2013年に出しているのです。

ここにその団体の集団的討議の総集編ともいうべき一冊の本があります。「その手があったか!ニッポンの『たたき台』」(以下「たたき台」)というタイトルの結構分厚い本です。
帯には「今の子ども達が大人になったとき、ニッポンは胸を張って生きていける国になっているだろうか」「官民管理職39人のタスクフォースが考えたニッポンを鍛える55の提言」とある。政策提言集であり、同時に憲法をこう変えたいという「憲法改正試案」の手引き書でもあります。
巻末にはご丁寧にというか、当然というか「憲法改正試案」が巻末に添付されていて、彼らの考えがよくわかるのです。

そこで、このフォーラム21とは何ものかを知るために、まず「憲法改正試案」のポイントを見ておくことにします。重要な部分は、コピーをリンクしてお示しします。

憲法前文は自民党試案のように書き直すのではなく、今日の情勢に即したものを追加するというやり方をとっています。どうするかをめぐってずいぶん激論があったようで、フランスにならって、追加という方法でまとめたと本の中で打ち明けてありました。
ここからわかるように、自民党試案のような露骨な立憲主義否定、個人の尊厳の否定というやり方はとっていません。一見すると、国民の権利および義務はほとんどさわっていませんし、第十章の最高法規もそのままです。
ところが、立憲主義の装いをとりながら、自民党改憲案で示された重要な改憲項目はちゃっかり全部取り入れている。「スマートさ」と「ていねいな物言い」を売りに、自民改憲案にも日本会議にも通ずる方向を打ち出しているというのが特徴です。しかも相当に議論していますから、周到な論理の組み立てを行っていることが特徴です。
真面目に真剣に、かつ相当な問題意識を持って議論を交わしている様子は伝わってくるのでよけい始末が悪い。

@天皇は元首に
現憲法で定めている国事行為だけではなく、地方自治体などの行事にも出席して公的な行為を行うとしています。元首とは何であり、その仕事は何であるのかは一切ふれられていません。
「たたき台」の「コラム」では、海外では天皇は元首として扱われており、「(我々の意識の)中心に、我が国の歴史と伝統、文化に密接につながる天皇制がある」「天皇制を将来にわたり永続させるためにも、今のうちに日本国憲法の中で天皇の存在を明確にしておかなければならない」と書いているのです。自民党、「日本会議」との親和力は相当なものです。

A第9条の2項を削り自衛隊を書き込む この点は安倍改憲案よりさらにストレートで、「日本国は、国の平和と独立を守り、国民の安全を確保するため、及び国際社会の平和と安全の確保に我が国として主体的に貢献するため、自衛隊を保持する」と書いています。
「国際社会の平和と安全の確保に我が国として主体的に貢献する」と書いて、フルスペックでの集団的自衛権の行使をあけすけに主張しているのです。
「たたき台」では、提言30で、「イージス艦を増強、防衛のための敵基地攻撃も」とのべ、提言32では「防衛費を年間3000億円増強」、提言33では「武器輸出を原則OKに」、提言34では「世界の常識、集団的自衛権の行使を可能に」と、なんとも勇ましい。強烈な軍拡・軍事大国志向です。
しかも、アメリカべったりの安倍政権の姿勢を批判するどころか、提言36では「日米防衛協力を新たなステージへ」とし、彼らの基盤が、先に述べた「日米合同委員会」路線の枠内にあることをはっきりと示しているのだから、現在の安倍政権の応援団であると同時に、それをさらに先にすすめようとする意図を感じさせます。それをやれるのは自分たちしかいないという選良意識です。

B第8章の2として「緊急事態」条項を盛り込む
この点は自民党の草案と酷似しており、「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」とし、「国民の生命、身体、財産を守るためにやむをえないと法律が認める範囲内で、身体、通信、居住及び移転の自由並びに財産権を制限する緊急の措置をとることができる」と書いています。
「たたき台」では、「内閣総理大臣など特定の機関に過度に権力が集中し、それが濫用されることへの根強い不安があるようです」と書いて、そのようなことがないように国会が内閣を十分にコントロールする機能を書き込むし、それだからこそ憲法できちんと定めるのだと述べています。さて本当にそうなるのでしょうか。これについては別の機会に考えてみることにしましょう。

長くなりました。他にも重要な問題点があるのですが、それはまた後日に。
この「フォーラム21」に集まっている人たちは先にも述べたように、各省庁や大企業の中堅幹部です。もちろん個人の立場で参加しているのでしょうが、「フォーラム21」の愛称を「梅下村塾」と名付けているように松下村塾気取りです。提言も集団討議に基づくものですから、政治への影響力は馬鹿になりません。海外で注目されるのも無理からぬことです。
日本ではまだあまり知られないこの組織、極めて危険です。これからも十分に注意して見ておくことが必要です。



  2月1日(木) その2
安倍首相がとにかく「改憲」に前のめり。これを支持してくれる議員が多数を占めていること、日本会議などの応援団がいることで相当に気分をよくしているからなのでしょう。
日本会議については、昨年たくさんの本が出版されて、出自から現在の活動に至るまでよく知られるようになりました。
ただ、その中で、宗教団体や一部財界を基盤とした日本会議などの勢力があまりに活発に地方でも活動しているために、この国が全体として右傾化しているとみられるかもしれないが、実際には限定された動きに過ぎないという見方が出されています。
しかし、実際に突出した動きが日本会議のそれであるとしても、その特異で時代錯誤の歴史観、価値観を戦後のこの日本で堂々と主張できる基盤は広範に存在することは間違いありません。
日本会議によって、その基盤の一つが多様な宗教団体であることがはっきりしてきました。しかも、宗教団体の結集は単なる野合ではなく、椛島有三氏らによる「日青協人脈」の集約点であることも様々に語られてきています。それゆえに侮りがたい。

それでも、私には、どうしてもまだずっと理解できないことがありました。これまでも私の問題意識として持ち続けてきた一つのこと。「戦前との連続性」の底流に何があるのか、今日にどのように引き継がれているのか、ということです。
あの戦争から70数年と言っても、世界史の大きな流れから言えばほんの一瞬。新しい憲法がつくられ、民主化が進んだといったところで戦前の教育を受けた人々、戦争政策を血肉として進めた人たちの意識がコロリと変わるわけではない。そこでつくられた戦前的意識・価値観が温存され増幅され、今日的に作り替えられる装置があるはずだ。そこにメスを入れない限りあの戦争は終わらない。私はずっとそう思ってきました。

最近整理の仕方として、次のように考えていけばいいのではないかと思うようになっています。

戦前の天皇制権力を形成していた人々、支配的立場にあった人々は、日本軍の将校・参謀、政治家、財閥、官僚、大学教授、文化・知識人など実に幅広い。彼らは、直接には戦場に出かけているわけではなく、むしろ国民を戦争へと駆り立てたかそれを支えたかの張本人たちだから、米軍に敗北したことは”精神的には”認めることができない。聖戦でありアジア解放の戦争であったという”意識”を捨てることは不可能であったろうと思われます。
その人々がこの世から去った後も、あの世からの「声がけ」「励まし」によって、家族・親族・関係団体などにその意識・考え方が引き継がれ新たに意味づけされてきているということです。これが、米軍支配下で、ある意味では純化され、加速され、再生産される側面があったのではないだろうかと私には思えるのです。
旧日本軍の将校を自衛隊幹部として取り込んだのはアメリカだとしても、将校たちが持っていた古い意識を消したわけではない。むしろ彼らにリベンジの機会を提供したともいえるのです。そして彼らは自衛隊幹部、OBとして強い影響力を行使する。
日本遺族会や宗教団体は先に述べたように、「戦前意識」の一翼をなしています。宗教的な意識は容易に拭い去ることはできないし、「お国のために」たたかって靖国に祀られた遺族の意識は、それを批判する勢力によって逆に強化され、戦前への情念として増幅される。
そして、次に政治家、官僚。これには、アメリカの占領政策の劇的変化がテコとなって、今日の政治の右傾化に大きな役割を果たしています。それには二つの側面がある。
ひとつは、岸のような「戦犯」を日本の政治の中心に居座ることを許し、野放しにしてきた不徹底な民主化の措置と国民の意識。そこには、日本を支配する道具として、日本帝国を支えてきた連中を取りこむことにためらいを感じなかったアメリカ占領軍およびその後の対日政策が横たわっています。
もうひとつは、直接に「戦前回帰」を訴えるよりももっとスマートに「支配の論理」を形成する層の存在。
アメリカとの直接の利害に関わる人々は、日本会議などとの親近感は持っているとしても、アメリカの支配論理とは両立し得ない面をかかえていますから、対米関係を重視し、政治家や財界をとりこむことのできるイデオロギーがどうしても必要になります。そして、それは、国民の中に容易に浸透し拡散できる「力」をもっている。
その震源地は、まぎれもなく日本の陰の支配組織「日米合同委員会」です。ここでは、日本会議のようなアナクロニズムは全く問題にならない。むしろ有害ですらある。必要なのは、アメリカの対日支配を合理化するスマートでかっこよい理論なのです。もちろん「日本的な」という条件付きであることは言うまでもありませんが。

以上のことをまとめると、結局「フォーラム21」のような研修組織が軸となり、その出身者が分厚い(日本会議との親和力のある)「価値観・世界観」を政界・財界に広げ、その土台のうえで日本会議などが自由にうごめく、そんな構図が私には描けて仕方がないのです。
これこそが今日の「右傾化」の幅広い基盤、底流を形成している・・・日本の真の民主化をのぞみたたかう人は、そうした支配の仕組みとたたかう雄大な構想をもって、粘り強く前にすすむことが求められている。



  2月1日(木)
昨日は日中は暖かくてポカポカ陽気。ハルちゃんも久々にコンクリートに体を擦り付けてコロコロしていました。


しかし日が沈んでからはまた強い寒気に覆われて寒い寒い。夜は自主防災会の会議があったのですが、終わり頃にはスーパー満月がちょっと欠け始め、10時半過ぎには赤い月が見えていました。目が悪いのでくっきりとは見えませんでしたが・・・。あんまり寒いので、ちょっと見てはすぐにひっこんでしまいました。

さて、いよいよ2月に突入。7日の沖縄行きのために、それまでにやることがいろいろとあって忙しい。
まず昨日はバラの会のニュースを配って3月のイベントの案内。3月3日には剪定、17日には総会という予定を役員会で決め、ニュースに載せたのです。


総会の準備として議案をつくらなければならないので、一昨日は一日会計の事務処理(会計の仕事を引き継いで書類に落とす作業)で費やしてしまいました。
総会にかける議案の審議は終わっているので、これでようやく心置きなく出かけることができます。
あとは、自主防災会のニュース第1号をつくること。これはきのうの役員会で企画班の責任者として提案し了解されたので、出発までに作り上げて届けることになっています。
防災については、日頃から住民の意識を高めることと、役員会で話し合っていることを地域のみなさんと共有することがいざというときに決定的に重要になります。ニュースは言い出しっぺの私がつくるとして、その内容は各係で分担しみんなでつくっているという意識が持てるようにしないといけないなと考えているところです。池田町でも先進的な自主防災活動の先例ができるのではないでしょうかね。
まだ案の段階なので、紹介はできませんが、配布できる状態になればここでも紹介しましょう。きっと他の地域の活動の参考になるしょうから。




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