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2月28日(土) 20年の歩みから(その6) 公民館使用許可取り消し問題(3/3)
(5)公民館問題の取り組みをどう総括するのか

「使用許可取り消し」の撤回を求める取り組みが、「町の謝罪と『通知書』の撤回」を受けた双方の「公民館問題をめぐる今後の対応についての合意書」への署名という形で1つの区切りをつけたことは高く評価されます。

「実行委員会」はこの「合意にあたっての見解」で、取り組みを次のように総括しています。

第1は、今回の「通知書」の撤回と謝罪、および「合意」によって、問題発生以来はじめて公民館問題を最終的に解決する実質的な協議の基礎が築かれた。
第2は、これからの話し合いの主題となる法律やその運用などについての双方の認識は、当然ながら1年前より深まっており、今後の公民館運営の基本的方向は教育委員会の「再回答書」などですでに示されている。
第3は、双方がこれまでとってきた「真剣な話し合いによって問題を解決する」という立場の重要性を、この一年の経過を通してあらためて確認できた。

最後の「真剣な話し合い」という点について付言すれば、新年度に入ってまもなく事態の重要性と私たちの理を尽くした私たちの声に耳を傾けた当時の副町長が交渉の前面に立って誠実に対応したことは特筆すべきことでした。その結果、担当課との真剣な事務レベル折衝を重ねることができ、それが事態打開の大きな鍵となったのです。

なお、この総括において重要な点は、公民館問題が「合意書の締結で最終決着したのではなく」むしろ「実質的な協議の基礎が築かれた」としていることです。

まだ双方の認識に隔たりのあった社会教育法第23条の扱いについては、すでに8月28日の町長と教育長連名の文書で、次のように書いており、これが「合意書」でも再確認されました。
この点も取り組みの重要な成果であり、記憶にとどめておく必要があるでしょう。

平成27年7月28日文部科学省生涯学習政策局長による通達にありますように、若者を中心とした政治への関心向上のために同法23条第1項第2号をできるだけ制限をしない形で解釈し、政治的禁止行為を限定する傾向もございます。
この通達を考慮し、同法23条第1項第2号について、公民館の貸館に際し「特定の政党」や「特定の候補者」に偏らず、あらゆる政党・政治活動に対して広く公平に公民館を利用していただくことが公民館の政治的中立性を確保するという解釈の採用を検討したいと考えています。


公民館の「政治的中立」をたてに、市民団体の使用を拒否したり制限したりするような事案が全国で多発するようになっている昨今、私たちの取り組みは全国的にも大きな意義を持っていると確信します。(おわり)



2月27日(金) バラ剪定&庭仕事
朝から暖かい日差し。 昨日は今年に入って初めてのバラ園。冬の枯れ枝の片付けや剪定作業で午前中一杯費やしました。

第2期のバラ園(有志による運営)は来年度限りとし、そのあとはさらに面積を狭めて、ロッジ赤い屋根のオープンガーデンとする方向であと一年の作業をすすめることになりました。
次回は3月下旬。バラの移動や園内の片付けの作業をします。



***

午後からは、我が家の庭のデカくなったクワの木を剪定。
道路にまで伸び放題の枝を切る作業をしたのですが、午後から気温が上がって暑いこと。2月というのに、私はTシャツ一枚でもまだ暑い。

上ばかり向いて太い枝を切っていたので、どういうわけか午後3時頃からめまいがして、家に戻った。
横になっていたら、天井がぐるぐる回っている。これやヤバいと布団にもぐりこみ1時間ほど休んでいたら何とか症状は治まりました。
暑い中、長時間ずっと上ばかり向いて力仕事をしていたものだから、身体のコンパスが狂ってしまったのでしょう。

めまいなどという症状は子どものとき以来。小学校5,6年生の頃だったか熱を出して寝ていたとき、天井がぐるぐる回っていたことがありました。そのとき以来です。
これからも、急な運動などをすると、どんな症状が現れるかわからないので気をつけないと。ちょっとびっくりしました。



2月27日(金) 公民館使用許可取り消し問題 AIくんの要約
公民館使用許可取り消し問題について、前回「公民館使用許可取り消し問題」2年間のとりくみの報告(2018/12)」に詳細な経過・教訓が記載されていると書きました。

ただ、余りに長いので、AIに要約を頼んでみました。
さすが、AIくん。すぐに実行してくれましたよ。わずか数秒でこれだけ簡潔な要約をするのだから、大したものです。

AIくんが見逃している若干の補足をしつつ、その要約を紹介してみましょうね。色の異なる( )内は私が補足した部分です。

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この文書は、長野県池田町における「公民館使用許可取り消し問題」に関する詳細な報告書です。以下に重要なポイントを概説します。

<問題の発端>
2016年12月2日に池田町公民館で「町民と政党のつどい」という集会を開催する予定だったが、開催前日に公民館使用許可が取り消された。
使用許可取り消しの理由として、申請内容と実施内容の相違や、案内チラシの文面が特定政党の利害に関する内容を含むとされた。

<実行委員会の対応>
実行委員会は即座に抗議し、教育委員会に質問書を提出。
教育委員会との協議を継続し、問題の不当性を訴え続けた。

<教育委員会の対応>
当初は取り消し処分の正当性を主張し、実行委員会との対話を拒む姿勢を見せた。
しかし、2017年末に至り、教育委員会は手続き上の不備を認め、謝罪と「取り消し通知書」の撤回を表明。

<問題の本質>

(教育委員会側の手続き上の瑕疵については早期に誤りを認めたが、社会教育法第23条の解釈にこだわり取り消しは撤回しなかった。)

この問題は憲法で保障された「集会・言論の自由」に関わるものであり、社会教育法第23条の解釈が争点となった。
教育委員会は社会教育法を公民館利用者にも適用するとの立場を取ったが、実行委員会はこれに異議を唱えた。

<解決への道筋>
2017年12月26日、教育委員会は
(手続き上の誤りを改めて認めるとともに、社会教育法の適用についても今後柔軟な対応を行うことを表明、)謝罪文を発表し、取り消し通知書を撤回。
今後の公民館運営について、住民が利用しやすい施設を目指す方針を確認し、双方で協議を続けることを合意。

<今後の展望>
社会教育法の解釈や公民館運営規則について、引き続き議論を深める必要がある。
公民館を住民に開かれた場として運営するため、町民の意見を取り入れながら進めることが重要。

この報告書は、住民自治や行政との対話の重要性を示す事例として、今後の参考となる内容を含んでいます。

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最後に述べられている太字の一文は、勿論Aiくんによるものです。
こんなことまで書いてくれるんですね。いや~、今回も驚いたわ。



2月26日(木) 20年の歩みから(その6) 公民館使用許可取り消し問題(2/3)
(3)町は何を根拠にして使用許可を取り消したのか。

一旦は許可しながら直前になって取り消すまでに、町側との激しいやりとりがありました。
一連の経過や教訓などは、次の文書に詳しく記載されています。

「公民館使用許可取り消し問題」2年間のとりくみの報告(2018/12)

町側の使用許可取り消しの根拠について、要点だけを述べれば次のようになります。

①公民館内規に抵触するのではないかという外部からの声がある。
②チラシには「安倍内閣退陣」という表現があり、特定政党を利するため社会教育法第23条の抵触する。
③役場の庁議(町長、副町長、教育庁、課長などの参加する会議)で許可を取り消す決定をした。

①については、29日の事前の折衝で内規には抵触しないことを確認し、町側も使用可能と判断していたのです。
ただ、外部からの声というのは、自民党M代議士のことであり、彼はフェイスブックで「偏った政治集会に公民館が使えるとは知らなかった」「政治目的ではないと誓約書に書いているようだが、平気でウソをついている」などと書き、しかも本人かどうかは確認できませんが、クレームの電話が入っていたのです。
町側がそうした「政治的圧力」に配慮した可能性は大いにありました。

②については、社会教育法第23条についての受け止め方の相違があり、当初町側は、政治活動と選挙活動の相違も理解できず、またこの法律の趣旨がどのようなものかも理解できずに、この条文を根拠としてかたくなに自らの行為の正当性を主張し、問題の解決をいたずらに引き延ばす要因となりました。

③庁議の決定には、前日までの「内規に抵触しない」と答えたことや、前日に教育委員会から「確認書」が送られたことには全く触れず、法令に抵触することだけを根拠として使用許可を取り消したのです。
重大なのは、福祉会館は一般の施設であって、仮に政党が集会を開くとしても拒否できないにもかかわらず、課長が忖度して拒否したことでした。

(4)町に「使用許可取り消し」を撤回させた力は何か

先に紹介した「2年間の取り組みの報告」に付した数々の資料をご覧になれば、この取り組みがどれほど幅広いものであったかが分かると思います。

町に誤りを認めさせ、最終的に「使用許可取り消し」を撤回させた力は次の4点に集約されます。
一つ一つについて述べればそれだけでこのブログ一回分になってしまいますので、要点のみ記しておきます。関心のある方は「2年間の取り組みの報告」をぜひお読みください。

① 町の対応の誤りの一つ一つを具体的に指摘して追及したこと。
② 社会教育法についての町の解釈の誤りを政府の見解や他の自治体の対応なども参考にして明らかにしたこと。
③ 議員、法律家、メディア、多くの町民の力を背景に正論を貫いたこと。
④ 機械的に反発することなく、粘り強く町との話し合いを続け、合意形成を目指したこと。



2月25日(水) 「青春」を飾った歌たち
今日は久しぶりの雨。

今日友人が訪問してくれて、「CIRCUS」のアルバムをいくつか借りていった。多分、まるで好みは違うのだろうけれど、多少でも接点があれば嬉しい。
最近音楽を聴くことがほとんどなくなって、心が干からびていくよう。
私も、しっとりと落ち着ける曲が聞きたくなるときもあるんだけど。

若い頃、私は相当なサーカス・ファンだった。歌声のアンサンブルが心地よく、コンサートまで聴きに出かけたこともあった。
昔を思い出しながら、何度でも聴きたい曲をいくつかのせておきますね。

まずは、サーカスの「去りゆく夏」。
元歌はレイモン・ルフェーブルの「哀しみの終わりに」。こっちもいいけれど、人それぞれ、そのときに心に届く歌ってありますよね。



続いて、私の青春のテーマソング。倉本裕基の「ソレアード」。
私の胸に響いたのは、青春の旅立ちを歌ったアンサンブル・ケーナの「哀しみのソレアード」。次のような歌詞でした。

さよならのその言葉
人の世につきまとう
あなたとの別れの後
思い出すあの頃を

うなずく君の瞳
うららかな昼下がり
まどろみの夢のかなた
季節は過ぎてゆく

そぼ降る雨の中
幾度も思い詰めた
哀しみを胸に秘め
さすらいの旅立ちを

青春の思い出に
別れを告げる今
ただ雨に打たれながら
振り向く
二人の日々

さよなら優しい人
さよなら二人の影
今僕は振り捨てて
旅立つ夜明けの町
今僕は振り捨てて
旅立つ夜明けの町

海外ではニニ・ロッソやポール・モーリアが有名で、国内でもいろんな歌手がカバーしているけれど、どれも私の好みではなかった。「もうすぐ終わるのね ふたりの砂時計・・・」なんて、ただ甘い感傷だけ。

唯一、下の倉本裕基のピアノが「青春の別れ」に相応しい美しい曲想を持っていた。
メロディーや歌詞は、その人の人生の歩み=苦しみや挫折などを含めて=を映し出すものですから。パンダだけよけいだ。



最後に、以前も書いたことがあったような気もするのだが、顔はハンバーグだけれど、歌声に心底惚れた歌手が菅原洋一でした。
よくラジオなどで聴いていた定番の曲よりは、次の「風の盆」のような悲しい曲が彼にはピッタリ。どうしても私は、喜びより哀しみの歌の方が性に合っているらしい。



言うまでもありませんけれど、これらはみんな過去の歌。人生の一コマ一コマを彩り、人生を振り返るときに、ふと思い出す曲たちです。



2月25日(水) 内田樹さんの回答によせて
内田樹さんが、「改憲について」の読者からの質問に答えるとして、質問とともに回答を「内田樹の研究室」にアップされていました。(「内田樹の研究室」

質問の第1は、自民党は改憲草案を発表しているが、まさかそのまま改憲案として出してくるわけではないだろう。どんな案が予想されるか、というもの。

これに対して、憲法第9条の2項の廃止と、緊急事態条項の追加だろうと返答。
緊急事態条項の追加が重要で、これは法的な独裁制を基礎づける全権委任法で、「内閣総理大臣の主観で、いつでも発出でき、永久に延長できる」と書いていました。全くその通りです。

第2問は、「ソフトな高市支持層」に改憲の危険さを知らせるにはどう言えばいいのか、というもの。

これには、人間には「人を見る目がある人とない人」がいて、「ない人」は「繰り返し騙される」のだと面白い回答。この国がどんどん悪くなることは「知っている」が、これまでずっとそうやって「ひどい目」に遭ってきたので、「それを繰り返す方が気分がよいのでしょう」と書いていました。いやはや内田さんらしいもの言いですね。
よく「痛い目に遭わなければ分からない」といいますが、この手の人には通用しないということですかね。見慣れた景色の方が安心できるということか。そんな見方もあるんですね。

第3問は、実際に国民投票になったら、メディアでは圧倒的な物量作戦が展開されるだろう。どうすればいいのか?というもの。

内田さんは、朝から晩まであらゆる媒体で自民党の改憲「キャンペーン」が行われるから、有権者はころりと騙されてしまうと答え、「国民投票まで持って行かれたらどんなに頑張っても改憲を防ぐことはできない」。その通りだと思うお答え。

中国、韓国は不安と懸念を表明するだろうが、内政干渉にあたるそれ以上のことはしないだろうし、アメリカは自らが与えた憲法が全否定されるのだから不愉快だろうが、あの自国の独立宣言や合衆国憲法の理念を踏みにじって恥じないトランプだから、批判する資格はない。
唯一頼りになるのは、天皇陛下の「おことば」だろうが、内閣は国事行為の範囲をこえるとして禁止するだろう。よって、八方塞がり。

最後に、次の一文が。

「とはいえ、世の中、何が起きるかわかりませんから。あまり悲観的になるのは止めましょう」だって。

天変地異とか、中国によるレアアースの全面禁輸とか、自民党の相次ぐ不祥事とか、アメリカの内戦とか・・・「これくらい絶望しないと、話は始まりません」と締めくくられていた。

***

内田さんらしい語り口で、なかなか説得力があります。

慣れ、諦め、無関心、不感症・・などが昂ずると、立ち上がる気力さえ失い、大勢に従う。仮に隣に反戦的な人がいたときに密告しても痛痒を感じない、むしろ、勇ましい言葉や行動に巻き込まれてしまう。

現在の社会は、主権者意識、自立した個人、包摂の社会意識をどんどん削り取り、異質なものを排除し内向きの穴ぐらで閉じこもる社会を目指しているように私には思えます。

***

こんなちっちゃな町を見ていても、似たり寄ったりのところがありますものね。
国際感覚なんてどこの話? 役場にしろ、議会にしろ、住民しろ、まだまだ「外」の空気がいるんじゃないかしら。移住者は沢山いるけれど、近所づきあいは別として、政治的な問題や地方自治の話となると、どうしても内向き、他人事になってしまうような気がする。この20年ほどの間にです。

そんなつまらないことを考えているうちに、ふと、今から10数年前、私が日本共産党ファンクラブの事務局長をしていたとき、そのニュースの100号を記念して木曽町の田中勝巳町長(共産党員)を招いて後援会を行ったことを思い出しました。これには当時の勝山町長、平林教育長はじめ役場職員も何人か参加していたのです。今では想像もできませんね。

随分昔の話だから、現在とは状況が激変している部分はあるにせよ、その中には今でも耳を傾けるべき内容が多く含まれているように思うのです。

当時の下手くそなhtmlの割り付けなので、スマホでは大変見づらいでしょうが、直すのも面倒なので、そのままのスタイルで、ここに再録しておくことにしましょう。

2010年2月21日 木曽町町長 田中勝巳氏 まちづくり講演会



2月24日(火) 牛糞と格闘
昨日は全国的に5月並みの天気になり、今日も結構暖かい。季節の移り変わりが全くおかしくなってしまっています。

昨年のブログを見ると、25日には暖かい日差しになり畑の作業を開始、2月の最終日には、ほぼ耕耘を終えて堆肥まきを始めていました。
ところが3月に入って中旬の16日には数㎝の積雪があり、さらに19日にも10㎝ほどの降雪。
3月20日を過ぎてから、ようやく本格的な畝作りに取りかかったと記していました。
23日にはスナップエンドウを植え、レタスの苗やジャガイモ、里芋などの植え付け・・4月10日にはネギの植え付け・・などなど。

***

こうして年々異常の度を強める気候の変化を見ていると、今年は一体どうなるのかと本当に不安になります。
太平洋側の渇水の様子を見るにつけても、とんでもない事態が進行しているのではないかと思わされます。
2月に天気がよければよいほど、ヘンな胸騒ぎがする。

3月や4月に雪が降るのは別に珍しくはありませんけれど、長期にわたって高温になるとか、逆に低温になるとかの異変が続くと、収穫に当然響きます。
家庭菜園の延長のような私の場合は、いくつかの作物がやられても食べられないだけですが、農家のみなさんはそんなわけにはいかない。消費者にとっても、当然物価に跳ね返りますからね。
いずれにせよ、このブログでも畑の情報は来年のためにも重要なので、こまめに記録していくことにしましょう。

***

今からやるべきことは、とにかく深く耕作して、一昨日購入した牛糞堆肥をしっかり撒いてさらに耕し、どこに何を植えるのかを計画すること。
明日は雨の予報なので、今日中に少しでも耕しておきたいと、大量の牛肥を軽トラに積んで畑のあちこちに運んで(一輪車では間に合わない)、何とか一部分のみ耕すことができました。



まだ身体がついて行かないので、午前2時間、午後2時間ほども畑にいると、ぐったり。
不耕起栽培ならこうした労働は要らないから省エネでしょうね。そこへ行くまでにはまだ相当時間がかかるだろうから、脳トレだけではなく筋トレも兼ねて、農作業に精を出すことにしますか。
当面は、ネギの苗床、スナップエンドウやジャガイモ、里芋の作付けの場所を確保することです。



2月24日(火) 20年の歩みから(その6) 公民館使用許可取り消し問題(1/3)
(1)経過のあらまし

事件が起こったのは2016年12月。
池田町の住民で結成した「野党と政党のつどい実行委員会」は、野党の代表者を交えて「野党共闘」の実現を話し合うことを目的に12月2日に池田町公民館で集会を開くことを決め、1ヶ月前には会場の使用許可を得ていました。

ところが、公民館を管理する池田町教育委員会が前日の12月1日になって、会場の使用許可を取り消すという前代未聞の暴挙に出たのです。

池田町では、すでに前回の「戦争法反対の取り組み」で見たとおり、2016年6月に「戦争法に反対する池田町民の会」を結成し、多様な活動を続けてきました。
その団体は、特定の政党に偏ることなく、町内の学者や宗教家、住民団体の代表などが呼びかけ人になって結成されおり、結成集会の会場も池田町公民館でした。

安保法制が国会を通過した後、2016年にはいつ国会の解散があってもおかしくない状況となりました。「町民の会」は野党共闘の気運を盛り上げるため、11月初旬に町内の団体に呼びかけて「町民と政党のつどい」実行委員会を結成、12月2日に「つどい」を開くことを決めて広く参加を呼びかけたのです。

前日1日になって、町側から使用許可を取り消すという連絡が入ったため、実行委員会は急遽会場変更をせざるを得ませんでした。
福祉会館での開催を求めましたが、館長は「会場は空いているが町から貸さないように連絡が入っている」とこたえ使用を拒否。
やむなく、集落の集会所を確保し、何とか会を成功させることができました。

その後、「使用許可取り消し」の撤回を求める長い長い町側との交渉を経て、教育委員会の不手際や間違いなどが次々と明らかになり、2017年12月26日になって、教育委員会は取り消し処分を撤回し謝罪。他の施設(福祉会館)を貸さなかったことに対して理事者の引責措置を示し、「合意書」に双方が署名して一応の決着を見た(区切りをつけた)のでした。

(2)「使用許可取り消し」はなぜ撤回されるに至ったか

問題点は次の通り、大きく2つありました。
1つは、教育委員会による手続き上の不手際や重大な誤り
2つは、社会教育法の解釈

公民館の使用について教育委員会内での意思疎通の不十分さと庁議でのその追認という、役場内での意志決定に関わる機能不全が早期の解決を遅らせたことは明らかでした。
2016年の年度末まで、自らの立場に固執し頑強に交渉を拒否していた教育委員会でしたが、法律家の皆さんの抗議活動、メディアの報道などもあり、新年度になって町側は社会教育課の課長を交代させ、副町長が交渉のテーブルについて私たちの主張に真剣に耳を傾け始めるようになりました。
その結果1つ目の教育委員会の誤りを次々と認めさせることができるようになりました。

2017年8月にはこれらに対して、町側は手続き上の誤りを認めて謝罪しました。
ただ、この段階では「取り消し処分」は撤回せず、2つ目の社会教育法の解釈にこだわり、依然として処分の正当性を主張していました。

朝日新聞2017年8月30日報道

その後、実行委員会は事務レベルでの折衝を中心に、「取り消し処分」の不当性を細部にわたって分析・追及し、社会教育法の解釈についても、政府答弁を引用して、今回の集会が公民館の役割に全く抵触しないことを主張し続けました。

その結果、社会教育法の解釈については、双方に隔たりはあるものの、新しく建設される交流センターの利用では、これまでの議論を生かしていくことで合意。
「使用許可取り消し」については「行政手続き上、拙速で配慮を欠き、一方的に取り消す判断をしてしまった」として、「取り消し通知書」を撤回し謝罪したのでした。(つづく)



2月23日(月) シカたがないと諦めるシカないのか?
畑に行って驚いた。きのうまでちゃんと立っていた菊芋の茎がすべて倒され、どうやら芋がすべてきれいに食べられたらしい。
周りは昨日まで耕運機で耕してふかふかしているので、犯人の足跡が残っているのではないかと探してみたら、下のような足跡が点々と。



ネットでシカの足跡を調べてみると、よく似ている。



そんなに沢山でやってきた形跡はないので、1頭か2頭がやってきて掘り起こしたのではないだろうか。菊芋は1メートル以上の太い茎が残っていたけれど、それがすべてなぎ倒されているので、相当な力の持ち主だ。

山に食料がなくなってしまったのか。それにしてもよく見付けて掘り起こしていくものだと感心してしまう。
菊芋ファンの妻はショックだろうなあ。



2月23日(月) 「20年の歩み」に込めた思い
私が池田町に移住してから様々な形で町政に関わってきました。それらの活動を振り返って、何が問題となっていたのか、何がこれからの課題であり、何を将来に残すべきなのかをしきりに考えています。「20年の歩みから」も、そのような意識のもとで連載し始めたのです。

(1)住みよい町はみんなでつくる

2008年ごろ、私はガイドマスターの一員として、池田町の観光の推進に協力していました。 それもまた、人々が気持ちよく住むことの出来る町をつくりたかったから・・・ん?まてまて、自分がそんな町に住みたかったから、かな。
2008年の4月には、名古屋方面から訪れたウオーキング客で、我が家の前は大変な賑わいでした。今でもよく思い出すのです。



振り返ってみると、この20年間で本当にいろんなことがありました。
自分の人生をやり直すつもりで池田町に居を定めたのでしたが、思いがけず町政との関わりが深くなり、小さい自治体ゆえのいろんな問題も目について、行政に異議を申し立てなければならない問題も増えざるを得ませんでした。

しかし、私の思いは先ほども述べたとおり(ちょっとカッコよく言えば)「住みよい町をみんなでつくる」という極めて単純なもので、それ以上でも以下でもありません。
「すみよい町」は行政、議会、町民全体が合意を形成し、その方向に向かって歩んで行くほかはありません。

町民が行政や議会に関心を持たず、知らん顔をしていればその町は活気を失い、いずれは衰退してしまうでしょう。
行政が住民に奉仕する精神を失い、住民を信頼できず、狭い枠の中で前例主義に浸っていれば、これまたいかなる発展も望めないことは明らかです。
行政をチェックする重要な役割を担っている議会もまた、常に大局的な観点を持って住民と深く結びつき、要求を実現するために努力することを忘れてはならないのです。

(2)池田町で広がる「ほころび」

日が経つにつれて、この町ではすべての面でほころびが広がり、放置すれば修復不可能になるほどの衰退局面に突入しつつあるように見えます。
定住人口では8600人台になり、高齢化率は42.7%。依然として若い世代の転出超過が続き、農業の後継者もほとんどいません。

行政も議会も、”主観的には”全力を尽くして何とかよい方向へ舵を切ろうと努力していると説明するでしょう。
では、何故第6次総合計画の立案も第5次とほとんど同じようなやり方で終わったのか。
人口問題のミーティングでは、何故行政の分析や基本的な考え方を示しもせずに、単に住民の意見を聞いただけに終わったのか。
小学校のあり方ではなく、それとは質の異なる保育園を一気に一園にしてしまったのか。
農業者から多くの疑問や意見が出ていたのにもかかわらず法人の設立に踏み切ったのか。
挙げればいくらでもこの種の疑問がわいてきます。

「放置すれば修復不可能」と受け止めている住民はおそらくそう多くはないはずです。
そんなことは想像もできないし考えたくもない、いずれ何とかなるだろうというのが大勢だからです。
しかし、よく話をしてみれば、行政への不満や町の衰退への漠然とした不安は誰にも共通してあるはずなのです。

(3)解決への道はどこにあるのか

では、解決の道はないのか。このまま指をくわえて衰退を待つのか。
私は「解決の道」はあると考えています。だが、時間は少なく、この町の将来は、おそらくここ1,2年の勝負で左右されるのではないのかと思います。その間に手を打たなければ、まさしく修復不可能となりうる。

その道とは、危機意識を持ち町づくりに力を尽くそうという人々を結集することです。それしかありません。
まずそれらの人々が議論を開始し問題意識を共有し、未来図を描き、それをもとに行政・議会を動かす。ともに行動する。
どの自治体でも、そうした人々が未来を作ってきたのですし、その中から優れたリーダーを生み出し議員を送り出してきたのです。

***

こう言うと決まって、ではお前はどうするのかと聞かれますね。
そう言う人には、どうぞあなたがその役を引き受けてください、80歳を過ぎた人間にそれをやらせて平気なのですか?と答えておくことにしましょう。
結集すべき人々の中心は、年齢で言えば50代、60代でならなければならないでしょう。町や議会を動かし、若い世代の意識を高められるのは、80代・90代ではありません。

私たちの年代ができるのは、町づくりとはどのようなことであり、それはどうやって出来るのか、何が問題なのかを歴史的にも経験的にも理論的にも明らかにし、議論の材料を提供することです。
必要に応じて議論に加わることは当然できるし、しなければならないでしょう。

住民の要求を集め、行政や議会をどう動かすのか、その経験はこれまで山のように積んできているのです。
しばらく前の財政危機克服の大規模な取り組みもそうでしたし、もっと遡れば、街なか活性化の取り組みもそうでした。最近では、保育園問題での署名活動や、農業者の要求活動などでもそれは示されています。
私がここで、過去の取り組みの総括を行っているのは、新しいアクションを起こすために過去の教訓を生かしたいからです。

(私よりも!)若い世代の奮起を期待します。



2月22日(日) ネコの日&嬉しい手紙
今日2月22日だからネコの日なんだそうだ。1987年にペットフード協会などが制定したと書いてあった。そういえば、しきりにネコが出ていたし、BSでもハリーとトントを放映していたなあ。
何を隠そう、我が家のハルちゃんもネコの日ではないが、2021年12月12日と、1と2の多い日に死んだ。前日までニャーニャーと泣き続けていたことがまだ耳に残っている。
今日は命日みたいなものかもしれない。

今、「20年の歩みから」を書くのに、過去のブログを見ていることが多いが、結構ハルの写真が出てくる。忘れていることの方が多いこの頃なのだが、そんな写真を見ていると無性に会いたくなってくる。

***

話は変わって、今日で中3生の子(実はピアノ教室の大先輩)のお勉強は一区切り。高校に推薦で合格したあと、しばらくは高校数学の入門講座をやっていたのだが、このあとは自分でいろんな準備もあるだろうからと、ひとまず終了したのです。

最後に長い長いお手紙をくれて、たくさんの感謝の言葉が綴られていた。
合格してからは何だか気が抜けたようにやる気があるのかないのかわからないような感じだったので心配していたのだが、実際には自分自身のふがいなさが腹立たしくてたまらなかったと述懐していた。そんな自分を自覚していたのでしょう、「消極的で自分の気持ちを素直に言えない、そんな自分を変えていきたい」と決意がしたためられていた。

私に対しては「先生と出会えて本当に幸せ者だ」と書き、本当は高校でも教えてほしいと願っているのだけれど、自分で探求しなければならないところをつい頼ってしまうだろうから、まず自分で問題を解決できる人間になりたいと続けられていた。うれしいなあ。

お礼にピアノで難しいところがあったら教えてあげるとも書いてあったので、高校生になったら教えてもらうかな。卒業式でピアノを弾くほどの腕前ですからね。
これからの成長を楽しみにしていましょう。



2月22日(日) 20年の歩みから(その5) 町民活動サポートセンター(4/4)
(7)サポートセンター顛末記(その1)

2012年度に公民館に「サポートセンター」が開設することになりました。
人員は一人。その主な仕事は「結婚相談」。しかもその方は無償のボランティアではなく、賃金のための予算が組まれたわけですから、もはや笑い話です。

その後も細々と活動はしていたようでしたが、私はほとんど興味も失せていましたから活動の詳細は分かりません。
ただ、決算書で調べたそれから数年間の費用だけは紹介しておきましょう。
これを見る限り、町の出費を減らすためか、2016年度から地域おこし協力隊員に丸投げ。本当に丸投げがお好きな自治体です。

2013(H25)年度  サポートセンター決算 3,026,964 うち賃金2,418,544
2014(H26)年度  サポートセンター決算 2,278,622 うち賃金1,543,300
2015(H27)年度  サポートセンター決算 2,997,887 うち賃金2,025,670
2016(H28)年度  予算 サポートセンター450,000 
           地域おこし協力隊活動事業(町民活動サポート)3,630,000
2017(H29)年度  予算 サポートセンター446,000 
           地域おこし協力隊活動事業(町民活動サポート)3,517,000
                           臨時職員賃金 2,061,000
これが町長の求めていた「ゼロ予算」での「サポートセンター」の実態です。

(7)サポートセンター顛末記(その2)

公募委員がそろって町長に辞表を提出したのが、2011年2月7日。
その直後の3月11日、東日本大震災が発生します。

私を含む何人かの町民が「町も何らかの支援活動に乗り出すべきだ」と町長に求めたのに対して、「県の指示待ちで、当面募金箱を用意したからそれでよい」という返答。
これには呆れ果てて、先日辞表を提出したばかりの協議会公募委員を中心に、素早く町民の自主的ボランティア組織「被災地支援池田町民ネットワーク」を立ち上げたのでした。

サポートセンターが、文字通り町民活動のセンターの役割を果たしていたなら、どれほど大きな役割を果たしていたか、その後の支援活動がすべてを物語っていました。

活発な活動を自主的に展開する住民に反して、理念・構想の貧困、町民への不信、行政の機能不全・・・それ以後、池田町の行政をむしばんでいく病根がいよいよ深くはびこり始めたのでした。

(8)サポートセンター こぼれ話

サポートセンターが発足し1年以上もたった2012年6月、突如あるチラシが新聞折り込みで全戸配布されました。発行元は「池田町の良識を大切にする会」(代表は中村広保氏)。
紙面の下部には、さりげなく「町民サポートセンター運営委員会解散の経緯」と題して、トンデモ記事を掲載(チラシ参照)。

町長、教育長と気脈を通じた人物による、ほとんど謀略ビラに近いもので、事情を知っている者であれば一笑に付す馬鹿げたものでしたが、一般町民からすれば、まことしやかなデマであればあるほど注目を引きます。それが狙いでしょう。

その後、中村氏に旧協議会会長名で公開質問状を提出(ブログ2012年6月19日)しました。中村氏による回答はこちら(表面裏面)。「まことしやか」の情報源は、ツーカーの関係にある教育委員会(教育長)であることを白状しておりました。
これに対して、私はブログ2012年6月18日、19日付けで詳細に反論しておきました。再録するのもアホらしいので、ここではすべて割愛します。

なお蛇足ですが、この種のデマとしては、2012年7月、町長選がらみの話として、「被災地支援ネットワークが町民から義援金を集めながら、会計報告もしていないし義援金を運営費として流用しているのではないか」という”ウワサ”が流されるという「事件」がありました。
勿論、2012年7月16日付けでこれに徹底的に反論しています。

この問題については、私たちの活動をずっと取材してくれていた新聞記者が「活動を終えてからこれほどまで詳細に活動の報告をしている団体は見たことがない」と語ってくれたことを付記すれば十分でしょう。

池田町には、以前からこの種のデマ・謀略ビラのお好きな方がいらっしゃって、町長選挙になると血が騒ぎ”活躍”の舞台を求めたくなるらしい。これまた池田町の一部の方々の著しい幼児性、後進性の表れです。(おわり)



2月22日(日) 20年の歩みから(その5) 町民活動サポートセンター(3/4)
(6)公募委員全員そろって「辞表」提出

本来、役場内での調整が不完全であり、町長が描いていた構想と異なっていたのであれば、準備段階のプロジェクトチームで修正すべきものでした。
しかし、実態は、先にも述べたとおり、担当者に丸投げしていたのであって、議論が大詰めになってきた段階で、それが自分たちの思いと異なるからと、後出しジャンケンのようにひっくり返したのですから言語道断です。

事実、実際に進行したことは、まともな行政機構ではありえない事態だったのです。正常な感覚が役場に残っていれば、次のような柱で即刻きちんと総括すべき問題でした。
①もともと町長の言い出した「ボランティアバンク」とは何だったのか。
②はじめにコーディネーターを委嘱したNさんが何故辞職するはめになったのか。
③サポートセンターと改称して教育委員会が引き受けてから、新しいコーディネーターを委嘱した経過はどうであったのか。
④その後の役場内での話し合いはどのように進められたのか。
⑤町長の関与はどうだったのか・・・など。

1月27日、町長名で次のような内容の「サポートセンター運営協議会委員の皆様へ」という文書(「礼状」)が届くのです。

①運営協議会で協議した内容が、町長・教育長の考える「小さく産んで大きく育てる」という開所のあり方と相違するので、これ以上協議会を続けることは困難であると判断した。
②サポートセンターは、公民館の生涯学習の一環として「個性を持った町民の皆さまが趣味を生かしながら、夢や希望をかなえ、また、町づくりへの思いを、仲間を増やしながら実現するにはどうしたら良いのか」を手伝いすることが設立趣旨である。
③公民館を拠点に4月から正式発足をし、今後「場所」・「予算」・「人員配置」を再度検討する。
④これまでの協議会は一旦白紙に戻し、再構築する。その際、町の考えに賛同できる人は引き続いて活動をしてほしい。

結局ここでも、問題を起こしたのは運営協議会だという書き方です。
1月12日に行われた町長説明会では、サポートセンターは「公民館の生涯学習の一環」なのだと初めて説明。こんな方針は今まで一度も聞いたことはありませんでした。

さらに協議会は「解散」ではなく、「白紙」にして「賛同できる人は続けてほしい」と来るのですから、もはや言葉を失います。
余りに低レベルで常識外れの対応に、公募委員10人全員が2月7日付けで町長に辞表をたたきつけたのでした。



2月21日(土) 「耕さない農業」を目指すかな
今日もまた快晴の上天気。 午前、午後と畑仕事に精を出しました。
まだ慣れないためか、身体が硬くて耕運機を操作していても、直ぐにあちこちが痛くなってくる。腰はもちろんだけれど、どうも股関節や肩の筋肉がコチコチになっているようでスムーズに動かない。作業着のベルトまできつくなってしまった。
家で柔軟体操をしながら、ちょっとずつ慣れていくように努力しているところです。冬の自堕落がたたっているんですね。

隣で畑を始めたNさんは、もうジャガイモの種を買ってきたとかで、余りに天気がよいので気持ちが急いているらしい。3月の終わり頃から夏野菜の苗作りを始めて、霜が降りなくなったら頃にジャガイモを植え付けるんだよと告げると、「早く早くという気持ちが先に立って・・・ちょっと気持ちを落ち着かせないと」と言ってましたっけ。



今年も私は基本は在来農法(=耕す農業)ですが、2000年代に入ってアメリカを中心に広がりを見せている持続的農業=不耕起栽培を勉強してみるかなと思っているところ。カバークロップの効用なども大変興味深いので、こうした農法に関心を持つお隣の畑のNさんと、少しずつ実学んでいこうかとも話し合ったところでした。

日本では「有機無農薬」とか「自然農法」を推進する人たちは、化学肥料や農薬を使う従来の農法で農業を行う人たちと、ある意味で真正面から対立してきたきらいがありましたが、このカバークロップを使った不耕起栽培は、アメリカの大規模農家で十分採算がとれかつ土壌回復の効果が抜群ということが実証されているのですから、未来の農業のあり方を方向づけているともいえるのです。

農業というのは「耕す」とほとんど同義語で、私などはとにかく耕さないことにはどんな作物も作れないと思い込んで、今も毎日耕耘機とスコップで土をほじくり返しているのです。
勿論、有機肥料を中心にして、ほとんど化学肥料や農薬は使わないようにはしていますが・・・。

そのことから見れば「耕さない農業」はある意味農業の革命でしょうね。不耕起栽培という方法は、かなり前から知られてはいましたが、いわば有機農業の1つのジャンルだと思っていました。
しかし、農地が日本とは比較にならないほど広いアメリカで盛んに実践されているところが面白い。そんなこともあってか、最近は日本でもしきりに注目を集め始めています。

ただ、どんな作物でもこの方法でうまくできて、採算ラインに乗せられるのかどうかは私も全く知識がありません。
いま借りている畑は、土が硬く石だらけなので、そんなところでもこの農法が可能なのか、どうやれば移行できるのか、挑戦するにはちょっと人生の時間が足りませんが、とにかく勉強、勉強。
次の記事も参考になります。

「耕さない農業」で地球温暖化防止を(朝日新聞EduA)

上の記事によると、国連の食糧農業機関(FAO)が環境を保全する農法として、不耕起栽培、カバークロップ、輪作の三つの手法を推奨しているんだそうですね。関心を持たないわけにはいきません。
最近読んでいる本が、2023年にNHK出版から出版されたゲイブ・ブラウンさんの「土を育てる」。それにしても関心を持つのが遅すぎますね。



2月21日(土) 20年の歩みから(その5) 町民活動サポートセンター(2/4)
(3)町長のちゃぶ台返し

ところが、町長段階で予算面でも事実上ゼロ査定ということが明らかになり、11月29日の第5回協議会には町長に出席を求めて説明をしてもらうことになりました。

その際の町長発言は次の通り。

いかに町の財政が苦しいか、専門の職員を配置することについて議員や各課を納得させられない、限りなくゼロに近い予算でやるしかない。
どうして事務局がこのような提案をまとめるのかわからない。
議論ばかりしていないで、スピードが必要だ。


教育長もまたそれに追随して次のように発言。

小さく産んで大きく育てることが目標だ。
今の公民館ではどうしようもないくらい人が集まったら、場所なども考えていかなければならなくなるかもしれない。


このとき、事務局のMさんはすかさず「小さく産むにしても、出産費用はかかるものだ」とキッパリ反論。
公募委員一同、あいた口が塞がらす、次回に改めて対策を協議することになりました。

(4)議会一般質問での追及

その直後、町会議員から12月議会一般質問で取り上げたいので話を聞きたいとの連絡がありました。

12月議会でこの問題を質問したのはY議員、K議員の2人。いずれも鋭く町長を追求し、多くの問題発言を引き出してくれました。

議会での町長発言は、全く白を黒といいくるめる欺瞞に満ちたものでした。

<資料1> 町長発言要旨

最も重大なのは、次の発言です。

センター準備室事務局から500万円の予算要求があり、場所も人もよこせというのにはびっくりした。準備室の考え方は「はじめに予算ありき」だ。なぜ500万も必要なのか不思議だ。
はじめから公民館を使って小さな予算でスタートしてほしいと考えてきた。プロジェクトが行われたときに必要経費の概算が検討されたというのも寝耳に水のことだ。


まるで、事務局や協議会が悪者にされ、町に「人も予算も」強要しているかのように描き出しているのです。しかし、事実はその正反対。「寝耳に水」というのはこちらのセリフです。

もともと町長の肝いりで「プロジェクトチーム」が庁内で立ち上げられ、そこでセンターの場所の必要性や500万円程度の費用などについて話し合われていました。それには大学の教員も加わって議論されてきたわけですから、町長が知らないはずはないのです。(費用概算についてはこちら
ところが、町長はこれを知らないというのであれば、もはや役場組織としての土台が崩壊し機能不全になってしまっていることを示すだけです。

庁内のサポートセンター準備室が作成した文書は私のブログ2012年6月18日付けですべて公開しています。(ただ、ファイルが大きいのでダウンロードに時間がかかります)

教育長もまた初回から協議会に出席しながら、町長を擁護する発言をしていますから、同じ穴の狢です。もし協議の内容を伝えていないとすれば、これもまた役場組織の機能不全をさらけ出したことになります。

事務局担当者は、「プロジェクトチーム」(準備会)の段階から、問題があったことを指摘しています(次の資料2参照)。

<資料2> 事務局担当者の総括要旨

町長発言は、もう一つ、公募委員を含む協議会で、町民の自主的な活動を援助し発展させる拠点として「サポートセンター」を構想していましたが、これを真っ向から否定したことです。
町長は、議会でどんな活動を想定するのかと聞かれて「結婚相談活動」や「少年空手などの活動のサポート」という低次元の答弁をして失笑を買いました。

(5)地元紙の報道

議会終了後、地元紙は相次いでこの問題を報じました。
1月14日の記事で「運営協議会解散」とありますが、実際は辞表を提出。町側は「解散」ということにしたかったのでしょう(実はそうではなかったことが後からわかります)。

<資料3>地元紙の記事
1月14日、市民タイムス
1月14日、大糸タイムス
1月15日、信濃毎日新聞

信濃毎日新聞は1月14日、記事を書くに当たって協議会委員長と事務局のコーディネータに取材。私は立ち会いで出席しました。そこでお二人が述べたことは以下の通りです。(つづく)

<資料4> 信濃毎日の取材より



2月20日(金) 夢のある夢?
朝から晴れ上がって気持ちがいい。 夕べは西の空にお皿のようにヒラヒラの上限の月。それから大町で妻と食事をして9時頃帰って見上げたら、北斗七星がドカンと目に飛び込んだ。驚いた。振り返って南を見たらオリオンが輝いている。

だいたい名前を知っている星座はそのくらいだし、何しろ1つの星が3つにも4つにも見える視力なので、見上げているとすぐに首が疲れてくる。
ただ、月がないせいか、昨日の空は本当に美しかった。満天(満点?)の星々。恒星ってこんなにチカチカ瞬くものかと、これにもびっくりした。

今日はまた畑仕事だなと思いつつも、早朝の気温はマイナス7、8度くらいまで下がっているから土は凍り付いている。昼ごろから行くとするか。

***

今朝は、いやな夢をみた。認知症が近いぞというサインの夢かしら。
どこか都会に引っ越して、外に出かけたあと家に戻ろうとしているのだが、自分の家がどこだったか分からない。どこを見ても見覚えがあるようでないようで・・・。
気にしない、気にしない。足の向くまま歩いて行けば自然と行くべきところにたどり着く・・・などと自分に言い聞かせてもいたようだ。

まあ、この年だから、何が起こっても不思議ではない。
若者には「夢を持て」などと言うが、私など年寄りにそんなことを言われても、夢のある夢って何のこっちゃと思ってしまう。
とはいえ、もう少ししっとりと気持ちが和らぐいい夢をみたいものだなあ。



2月20日(金) 20年の歩みから(その5) 町民活動サポートセンター(1/4)
池田町において、勝山町政のスタートから甕町政に至る十数年は、行政運営の初歩・基本から崩れていく過程でもありました。1つには行政の組織的運営において、2つには財政運営においてです。

財政運営の問題については前回のまとめで1つの検証を行いましたが、もう一方については、それを象徴する事件=勝山町政のもとでの「サポートセンター」問題について触れないわけにはいきません。

町長の方針とリーダーシップのもとで庁内の意思統一が図られ、そのもとで計画が立案され、担当部局が責任を持って施策を実行し、終われば総括するという進め方は、どの自治体でも当然のあり方です。企業であれ団体であれ同様でしょう。

しかし、池田町においては、このサポートセンター問題で町長自身が行政運営のイロハすらわきまえておらず、しかも各部局もまたそれに追随し、町民の意見や知恵を踏みにじる結果を招いてしまったことが白日のもとにさらされました。
基本方針の各所でPDCAなどという小難しいことを書いているくせに、です。

その後池田町は、この問題を総括することもなく、町長が交代しても行政手法においては同じような道をたどることになるのです。
行政運営を左右する深刻かつ重大な問題であったはずですが、池田町でその認識を持っている人は現在ではほとんどいなくなってしまったのではないでしょうか。

私は、このサポートセンター問題こそ、その後の池田町の行政のあり方を決定づけ、今日に至るまで尾を引く重大事件であったと考えています。それゆえ、今回は、問題の発端からその後の経過までを何回かに分けてたどり、その重大性を浮き彫りにしたいと考えます。

(1)サポートセンター問題とは何か

2007年に初当選した勝山町長は、その政策の1つに町民による「ボランティアバンク構想」を掲げていました。2010年の6月議会では、それをやや発展させて「町民活動サポートセンター」を設ける考えを打ち出したのです。

そのために、役場内では2010年6月から「サポートセンター準備室」が設けられました。実務を担当する事務局には役場外からMさんが委嘱(前任者がいたが辞職)され、庁内での計画立案に関わっていました。
事務局内で検討されていた案は、町民が主体となり、ボランティア活動を含めた各種の自主的活動を援助し、交流をはかろうというそれなりに積極的なもので、それには当然それなりのスペースと人員や予算も想定さていたのです。

しかし実際には、町長のプランはいわば選挙目当ての単なる思いつきであって、理念も方向性もないに等しく、計画の立案はすべて事務局に丸投げされていたのが実態だったことが後で分かってきます(後述:事務局担当者の総括要旨)。

(2)協議会の発足と議論

2010年9月30日に、第1回運営協議会が開かれます。
運営委員は、公募委員10名を含む10数名の委員で構成され、私もその一員として委嘱されました。
第1回委員会では、委員長にKさんを選出、事務局から報告を受けました。公募委員は、いずれも町内で様々な分野で活躍するメンバーはかりで、あて職などは一人もいませんでした。
また、担当部局代表として教育長も毎回出席していました。

10月13日の第2回委員会の内容は、私のメモによれば次のように記しています。

このサポートセンターがどんな役割を果たすのか、運営委員はどんな仕事をすることになるのか、なかなかイメージを描けないまま、試行錯誤の状態で協議が始まっています。
その会議の場でも「行政と町民は対等なパートナー」だとか「行政と町民との協働」をいう言葉が何度かでてきました。私はこの「協働」という言葉について、「行政の影がちらちらする言葉であり好きではない。サポートセンターの活動の本旨は住民自治の支援・活動促進にある」と発言しました。


第3回、第4回協議会でさらに協議を重ね、サポートセンターは町内のいろんなグループの活動を援助し、交流し、広げていく中心組織となるべきであることがほぼ合意されて、いよいよ具体的な段取りを話し合う手はずになっていました。
そのために、事務局から町長に対して、準備段階でも想定されていた「場所・人員・初期費用」について改めて確認を求めたのでした。(つづく)



2月19日(木) 20年の歩みから(その4) 自治体の財政問題(3/3)
<行財政改革推進委員会>

財政危機をどう打開するのかは、2021年度初頭から大きな課題となっており、昨年末に議会で承認されて発足した「池田町行財政改革推進委員会」に対して、5月21日、財政改革の全般的な諮問書が町長から提出されました。

「委員会」はその日を皮切りに、2023年3月末の最終答申まで約2年間にわたって「39回、200時間」(予備会議などの時間を入れれば時間はもっと長い)の審議を重ね、数々の財政分析と提案を行ってきたのでした。

その記録は、冊子「池田町の財政危機はどうなったか」(私とMさんの私的な総括文書)としてまとめ、発行しました。
また、この委員会のすべての審議内容や資料を網羅した記録CDを私が作成、その後これを町の正式記録としたのです。

池田町行財政検討委員会の全記録

***

2年間の審議の模様は、ここでは割愛しますが、月2回、1回あたり3,4時間かけることもまれではなく、真剣そのものの議論だったことは特筆すべきことです。
私とMさんは、それまでの財政分析の成果をもとに、様々な資料を提供しながら議論に参加しました。

そこでまとめられた答申には、個人的には必ずしも賛同できるとは言えないものも含まれてはいましたが、全体としては財政再建の積極的な方向を提示しており、その後の行政の指針になりうるものでした。

本来行政は、答申をもとに行政としての財政計画を立てるべきだったのでしたが、当時の町長のもとではそれには全く背を向け、むしろ財政は大きな問題はなく健全化に向かっているとして、その後委員会答申はほとんど顧みられることはありませんでした。

町長がかわった2024年以降も、「R8までの財政再建緊急対応期間」を意識するとはしながらも、町の財政計画は立案されず、行革委の提言については、そのほどんどが埋もれたままになっています。

これまで財政問題に関わってきた私の目には、行政が「町民の声に耳を傾けつつ自前で問題点を分析し方針を立て、すかさず実行に移し、一定の期間がくれば総括しつつ、さらに新しい方針へと高めていく」という、ごくごく普通のやり方を忘れているとしか見えません。あるいは、意図的にそのようにしているのか。

その意味で、現在の行政が心すべきことは、「当たり前の行政のあり方を取り戻すこと」にあると思うのですが。そのように考えるのは私だけでしょうか??(おわり)



2月18日(水) 畑の作業開始
久しぶりに畑に行って、今年初の作業。
まだ家の陰になっていた部分はベタベタとして耕運機もかけられない状態だったので、今日は古いマルチを剥がし、枯れた野菜をすべて撤去。しばらく放置して乾いた頃に耕運機で土をほぐすことに。



よい天気で、きっと暖かいだろうと思っていたら午後から急に風が強くなり、汗もひっこんでしまいました。
例年なら3月に入ってから作業を開始するのですが、今年は季節が進んでいるようなので、これからは天気を見ながらボチボチ作業をしていく予定。

パソコンの前に座ってばかりいたので、体重が相当増えてしまった。畑に出て減量にも励まなければなりません。



2月18日(水) 20年の歩みから(その4) 自治体の財政問題(2/3)
<財政危機克服の住民運動>

池田町の財政が大変なことになっている・・・2019年度終わりの3月議会で、財政担当者が次年度末で財調が枯渇する危険に言及したことが財政危機のそもそもの発端でしたが、2020年初め頃は行政を含めほんの一部の人々にしかそのことは認識されていませんでした。

(1)「池田町の未来を考える会」(略称「未来の会」)のとりくみ

Mさんや私の問題提起で、この事態を深刻にとらえた「未来の会」は、4月6日付けで「令和2年度予算に関する緊急要望書」を提出、財調予算を確保することや、予算縮小要求、今後の財政運営のあり方などについて提言書を提出しました。

町の担当課(企画政策課)だけはようやく問題の深刻さを認識しはじめ、2020年7月から次年度の予算編成に向けて庁舎内で「3億円削減プロジェクト」を立ち上げ、そこでの議論の結果をもとに9月議会で予算削減の素案を示し、町民説明会でもその内容を説明しました。

当時は、町の貯金である「財政調整基金」の枯渇の危機だけに問題が矮小化され、財政運営それ自体に大きな問題があるというところまでは認識が深まっていませんでした。
そこで、財政再建・健全化を全町的な課題として広げるために、「未来の会」を中心に、新たに幅広い町民を結集して「財政問題を考える会」を立ち上げ、行政への申し入れや町民に向けた啓蒙・宣伝活動を活発に取り組むことになりました。

(2)「財政白書2020別冊」「課題と展望2021」の作成と発行

2020年4月頃から、Mさんと私とで最新のデータをもとに独自に池田町の財政を分析。
近年の多数の大型事業によって投資的経費が膨らみ、財調から多額の資金を取り崩しただけでなく、経常経費に財調からの取り崩しを流用するという野放図な運営に陥っていたことを明らかにしました。
また、投資的事業の拡大で、地方債も膨らみ公債費負担も財政の大きなマイナス要因となってきていました。

これらの事実をデータを元に詳述した「財政白書2020別冊=財政危機の現状と克服への課題」を2020年11月に「未来の会」として発行しました。これらのデータは、町も言い逃れのできない証拠となり、運動を下支えしたのでした。
さらに翌年4月には、それまでの財政分析の成果を総まとめにした冊子「池田町の財政危機克服の課題と展望2011」(未来の会)を発行しました。



(3)「池田町の財政再建を考える会」のとりくみ

2020年10月末に発足した「財政問題を考える会」は、①問題の背景や深刻さを町民に広く知ってもらうための第1号チラシを新聞折り込み、②多くの賛同者の署名を入れた「町民へのアピール」(第2号チラシ)を新聞折り込み、③議会への要請や懇談会の申し入れなど、精力的に取り組みをすすめました。




この頃には、報道機関もかなり力を入れて池田町の財政問題を追い、広く住民の知るところとなりました。
上の記事を含めた資料のリンクは以下の通りです。

「考える会」発足の記事(市民タイムス11/8)」(jpg)
議会での財政逼迫問題追及(市民タイムス、大糸タイムス11/25)(pdf)
「考える会」町への要望書提出(市民タイムス12/25)(jpg)
「考える会」町への要望書提出(大糸タイムス12/25)(jpg)
財政問題特集(信濃毎日新聞12/26)(jpg)

この会の活動を通して、町当局は財政危機をもたらした責任を認め、次年度から町長ら三役の大幅な減給に踏み切ることや、財政再建・健全化に本格的に取り組むことなどを認めざるを得ませんでした。
しかし、2021年度予算案では3億円削減プロジェクトの方針を盛り込む一方で、移住関連予算には切り込んでいないことが2021年3月の議会で問題となり、予算削減の修正案が通るという議会始まって以来の出来事が起こりました。(つづく)



2月17日(火) 20年の歩みから(その4) 自治体の財政問題(1/3)
10数年にわたる「財政白書」の取り組みと、その後の池田町財政危機打開の運動は、池田町でのかつてない住民活動として記録されるべき取り組みだったと思います。以下にそのあらましを紹介したいと思います。

<自治体の財政研究と財政危機打開のとりくみ>

私はもともと自治体の財政にそれほど関心があったわけはありませんでした。それが何故今日まで、これほど財政問題に取り組むことになったのか。

(1)自治体の財政を調べようとしたきっかけ

ことの発端は2008年の町長選挙で、勝山候補が「池田町の財政は危機的な状態にあり、倒産寸前だ」というような趣旨の話を選挙カーで流していたこと。我が家の前で、そんな演説をしたのがずっと引っかかっていて、当時はまだ半信半疑だったのです。むしろ、そんなことはないだろうという直感の方が勝っていました。

勝山氏が町長となって4ヶ月後の9月議会は大荒れ。
直前に町長選挙立候補時点で勝山氏の町税(固定資産税)の滞納が明らかになった」ことが地方紙で大きく報道されたことや、「財政再建団体に転落する危険がある」などと述べてきた町の財政に対する認識が実際には事実に反すること、「財政を圧迫しているハーブセンターの民営化、美術館の運営見直しがさけられない」などと選挙公約でのべていことなどが議会で追及されました。(このあたりは2009年9月の記事に詳しい)。

当時、住民が自治体の財政を調べて問題点を明らかにする運動が全国的に盛んになっており、財政白書の作成もあちこちで見られました。
それに刺激を受けた町会議員の一人から、わが町でも財政の勉強会をやらないかという誘いがあったので、町の財政状況が知りたいという気持ちが強かった私はすぐに賛同し、5人ほどで「池田町財政研究会」を立ち上げたのでした。

会では、大和田一紘さんの「市町村財政分析」をテキストにして、池田町の財政データを表にしていく作業を開始。そこから分かることをテキストにそって議論しようということになりました。ところが、その作業は口で言うほど簡単ではありませんでした。何しろシロウトの集まりですから。2009年11月の日記をみると「さっぱり訳がわからん」と書いているほどです。

(2)「町づくりビジョン2012」とその付属資料「財政白書2012」

会では、財政を学ぶ目的を「町づくりビジョン」を作り上げて行政への政策提言とすることにおき、財政分析はあくまでその裏付け=付属資料とすることにしました。
途中経過はすべて省略しますが、約2年間ほどの積み重ねを経て、2012年、池田町始まって以来の財政白書を付した「町づくり白書」が完成します。

作業で使用した資料は主に総務省の「決算カード」だったので、財政の研究はその域を出るものではありませんでしたが、それなりに大きな反響を呼びました。

残念なことに集まったメンバーの中には、パソコンの扱いに詳しいメンバーが私以外にいなかったことや、それぞれが忙しい仕事を抱えていたこともあって、冊子を刊行したあと「財政研究会」は開店休業となってしまいました。残ったのは私一人。

(3)「財政白書2016」

私としては、そこで培った知識をさらに深めたいという気持ちを強く持っていたものですから、それから4年後の2016年に、「池田町の財政を考える会」の名で続編の「財政白書2016」を刊行しました。これは、文字通り財政問題のみを主題としていました。

その号では、歳入、歳出の細目を検討すると同時に、池田町の公共施設の現状をつぶさに調査、町長が打ち出した「社会資本総合整備事業計画」の問題点の指摘、池田町の人口問題へのアプローチなど、その後の町政の主要な課題と問題点を先取りするものとなりました。

ただ如何せん、当時は私一人の力では何ともならず、単に冊子を普及することに努めざるを得ませんでした。
そのときはまだ、それから4年後の池田町財政危機の直面において、白書づくりがいかに大きな力を発揮することになるかまでは想像もしていませんでした。

(4)「財政白書2020」

それから4年の2020年に、3冊目となる「財政白書2020」が完成します。
その頃には、町の財政についてかなり詳しくなり、決算カードだけではなく、町の決算書なども参考にしながら、財政運営の問題点やいくつかの分野ごとの課題などを指摘するようになっていました。



当時、私も加わって町政の課題について話し合いを持っていた「池田町の未来を考える会」のメンバーにも協力を要請し、会の中でも原稿を読んでもらって「財政白書2020」を「未来を考える会」のパンフとして発行することにしたのです。

ところが、ちょうどその冊子をまとめていた2020年の2月頃、ある方から「町の財調が来年度末には枯渇するという話が出ている、大変なことだ」という連絡がありました。 そのころはまだ、財政白書の主な資料が総務省の決算カードであったためにデータが古く、直近の状況には対応しきれていなかったのです。

驚いて、直近のデータを調べ始めると確かに財調の動きがおかしい。
だが、原稿はすでにほぼできあがっていたので、「財政白書2020」はそのままに発行せざるをえませんでした。
そこで、その直後から連絡をいただいた方とタッグを組み、最新のデータをもとに改めて池田町の財政問題に本格的に切り込むことになったのです。(つづく)



2月16日(月) 辺野古基地建設の欺瞞あきらかに
「辺野古だけでは普天間返さず」ーー今日のしんぶん赤旗は1面トップで大きく報じた。



要約すると「辺野古新基地の滑走路は1800メートルしかなく、固定翼の軍用機が離発着できない。それに比して普天間は2800メートルある。長い滑走路の代替飛行場を用意しない限り普天間は返さない」 ということだ。

辺野古基地が設計された当初から、滑走路が短いことはわかりきっていたことであり、米軍も日本政府も「辺野古が(普天間返還の)唯一の解決策」だと一貫して主張してきた。
それが偽りだったことが今回の米国防総省の公式発表によって明確にされたわけで、辺野古に代替基地を建設する意味は消滅する。さて、日本政府はこれにどう対応するのか。

代替施設など今から造りようもない。陸上部で確保できるのであれば、海を埋め立ててまで辺野古に作る必要など初めからなかった。
政府は、米軍の発表は未確認だとして、当分の間は「辺野古が唯一の解決策」であると言い続けるだろう。そうするしか矛盾を糊塗する方法はないのだから。

しかし、普天間を永久に使い続けられるし、キャンプシュワブ一角の辺野古新基地もいずれ使用することができるのだから、米軍にとってはこれほど都合のよいことはない。

ここで注目しておきたいことがある。
今回の発表では、辺野古基地の滑走路の長さが問題とされているが、実際には辺野古基地の軟弱地盤の問題がその背景にあるのではないかということだ。

基地が「完成」したとして、いつどのように地盤沈下が発生するか分からない。活断層の真上でもある。海外に迅速に展開しなければならない海兵隊にとって、不安定な基地はマイナス要因でしかない。米議会でも軟弱地盤問題は過去に何度も取り上げられてきた。
だとすれば、沖縄に海兵隊を置いておく以上、普天間を確保しておくことは、戦略上の死活的に重要な課題となる。

沖縄県民の立場から言えば、「辺野古が唯一の解決策」という日米政府の立場は県民への詐欺行為であり、辺野古基地建設は直ちに中止し、普天間は無条件で返還させるしかない・・・が 、選挙結果から、どんな「解決策」がもたらされるのか。

自民圧勝という結果をもたらした「つけ」がどれほど大きいものなのか、沖縄県民も日本国民も、いよいよこれから身に染みて感じることとなる。



2月16日(月) 将来、先生を目指したい??
昨日は一日中ポカポカ暖かい陽気。それにつられたのか、イトトンボの一種でしょうね、一匹支柱にとまっていた。寒い間どこにいたものか。



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学びというのは、何より「おもしろい」という感情をかき立てるものでなければならないんじゃないかなあ。

文学であれ、音楽であれ、コンピュータであれ、自然界への関心であれ、本当に目が開かれていくのは高校段階くらいだと思うんだがな。

コンピュータOSの1つであるLinuxの創始者はフィンランド人 リーナス・トーバルズ。彼が書いた自伝的な本の名前はそのものズバリ「それがぼくには楽しかったから」。
「それ」とは、コンピュータの基本ソフの開発で、誰にも開かれたオープンソースとして世に広めた。多くの子どもたちがのめり込むようなゲームソフトじゃないよ。
それが今では世界中のスーパーコンピュータやクラウド、スマホなどに組み込まれて動いている。

小さい頃から芸術や数学、スポーツなどに得意な才能を持つ子は確かにいる。それも家庭や小学校や中学で、それにふさわしい環境が十分に与えられて花開くのだろうが、大多数の子はそんなわけにはいかない。
たくさんの同年齢、異年齢の子や地域の中で自我にめざめていく。私もそうだった。

子どもたちは、学校や地域のコミュニティの中で、いろんな興味関心を広げていく。そこにこそ、「だから、もっと知りたい、学びたい」と思えるような刺激に満ちた教育環境が広がっていてほしい。

文科省も「文理の区分にとらわれない幅広い教養と科学的思考力」というけれど、科学的っていうのは、もともと批判的ということとほとんど同義だろう。批判ばっかりするなということを政治の世界ではよく聞くけれど、建設的批判は非難とは違う。自分の手足をつかい頭で考えるってことだ。批判なしの創造なんてあり得ない。

私も文系、理系などという枠組みは要らないと思う方だけれど、今の学校では数学が嫌い、できないから文系、国語、英語が苦手だから理系なんていう消去法がはびこっている。
文科省は「将来的には、文系・理系の区分がなくなることを目指しつつ」なんて言っているけど、どうなんだろう。

今日の文科省のようなやり方を放置していたら、子どもたちより先に、教師をめざそうという学生はますます減っていくんじゃないの?

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<ここから先は、コチコチの評論。長いから飛ばしてもいいですよ>

文科省が公立高校を改革する基本方針として、文系と理系の生徒の割合を同程度にする(現在は文系5割,理系3割)という目標を設定したのだという。
事実、昨日13日には、これらを盛り込んだ「高校教育改革に関する基本方針(グランドデザイン)」が正式に発表された。これは今後の高校教育を根本から変えてしまうほどの質的転換の方針だと思われる。
文理同程度というのは、この方針最後の「2040年までに達成を目指す目標」に出てくる。

大雑把に言うと、次のようになる。
・AIなどの進展で将来期待される人材の質が激変し、このままの高校教育のあり方では今後の産業構造や社会システムの中では通用しない。
・また、26年度から私立の高校授業料無償化によって公立の生徒が減るとの懸念があるので、理系改革に取り組む高校に財政支援をして公立離れを防ぐ。
・全ての普通科高で文理横断的な学びに取り組んで、2040年までに理系を5割に増やし、将来的には文理の区別をなくすことを目標にする。

人工知能やデジタル技術の革新で、将来の学びの質や形式が変わることは予想されることだが、先端技術に目を奪われすぎて教育の目標を見失っていきそうな気がする。

国が子どもたちの学びの方向を一方的に定め、「企業と国家」に直結した理系誘導を進めたいということだろう。世界のレベルから1周も2周も遅れたこの国の産業水準への焦りの表れともいえるのではないかと推測するがどうなのか。

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そこで論より証拠、この文科省の「高校教育改革に関する基本方針(グランドデザイン」に即して詳しく見てみることにしよう。

「2.高校改革の方向性~2040年に向けた高校の姿~ 」には、<視点1>として、「AIに代替されない能力や個性の伸長」という目標が真っ先に掲げられる。

AIに代替されない能力とは「言語能力、情報活用能力、問題発見・解決能力、他者と協働する力など」で、「探究的・実践的に学びを進める学習観」に転換することでその獲得に向かうのだそうだ。
そこには「生徒の主体性を育み自らの人生を切り拓ひらいていく『生徒を主語にした』教育」という大変美しい言葉が並んでいる。

<視点2>では、やはりというべきか「我が国や地域の経済・社会の発展を支える人材育成」という方針が掲げられている(素案の段階では「我が国の社会・経済の発展を支える人材育成」となっていた)。

「2040 年には、いわゆる文系人材の余剰が発生する一方、いわゆる理系人材は不足する可能性がある」とし、このまでは「地域社会・・経済を支えるいわゆるエッセンシャルワーカー等の不足も大いに懸念」されるという情勢認識が前面に出されており、その背景には、AI 等によって社会が大きく変わり、「普通科高校の多くの生徒がいわゆる文系に在籍」している現状では、その変化に対応できないという危機意識や切迫感が見て取れる。

それゆえ、「普通科に偏った学科構成の見直しや専門高校の機能強化・高度化等の取組」「大学教育における理工・デジタル系人材育成の強化や文理分断からの脱却等」(素案に書かれていた「産業界の伴走支援による」という言葉は消えている)を今後の重点的な取り組みとしている。
とりわけ「普通科」のあり方を「文理の区分にとらわれない学び、科学的思考力の育成、実社会につながる授業の実践を行うなど、各高校ならではの特色化・魅力化を図る」方向で大きく変えることを求めている。

しかし、一方で次のように述べていることにも注目しておきたい。

公立高校は、多様な背景を有する生徒の様々な学習ニーズに応えるセーフティネットの役割も果たすとともに、地域が求める人材や学校の地理的状況、少子化の影響による学校数・生徒数の状況などの観点から、高校教育の普及や機会均等を図る地域社会に根差した重要な存在である。
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社会や産業界のニーズに即応しつつ、生徒の可能性を広げ能力を伸ばす高校教育を実現し、その質を高めるため、少子化に伴う単なる統廃合を進めるのではなく、各都道府県における学校、地域、生徒の実情に応じた創意工夫ある取組を進める必要がある。


「文理の双方の素養を有する人材の育成」などという面白いことも言っている。

「AI やデジタル技術を駆使しながら、文理の区分にとらわれない幅広い教養と科学的思考力を備えた新しい価値を創造する人材」「問題解決や探究活動を通じた理数の学びをこれからの経済・・社会の発展につなぐことのできる人材」などの言葉が各所で現れる今回の「N-E.X.T.ハイスクール構想」。

これまでの「差別・選別型」の高校教育再編とは質的に異なって、世界的に生産性や技術力で後塵を拝している産業界の焦りとも言える強い要請を背景に、これまでの多様化路線を下敷きにしつつ、高校教育を全面的にその要求に従属させていこうとしているように私には見える。

それぞれの高校が特色化・魅力化という「差別化」を競うようになったなら、「子どもたちの全面的な人格形成や社会的な素養を身につける」という本来の高校教育の理念はどこに行ってしまうのだろうか。



2月15日(日) 政局雑感
以前、各政党の党大会について触れたことがありました。
いつ、どのように準備され、どのような議案が出され、どのように大会が運営されたのか、などについて調べていたのですが、自民党から立憲、国民、維新などは大同小異、2時間程度のおざなりの大会でほとんど議論なし。

党首選挙に対しての議論はあるにしても、党大会の運営を見る限りでは日本には”まとも”な政党は日本共産党以外にない、というのがそのときの私の結論でした。

選挙前にドタバタと結成された中道改革連合に至っては、綱領のさしたる議論もなく、結局は選挙目当ての議員が離合集散したに過ぎない、見るも無惨な姿をさらけ出しただけ。
今年1月15日に決定されたという「綱領」をみても、結局何も書いていないのと同じです。

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さて、「中道」の代表選挙で選出された小川淳也氏の憲法9条をめぐる発言が話題を呼んでいましたね。
13日の記者会見で憲法への「自衛隊明記はあり得る」と述べ、「9条の積極改憲論者ではない」が「議論を否定するつもりはない」と踏み込んだのでした。

しかし、14日夜には自身のXに動画をアップ。メディアなどでは「あたかも9条改憲に前向きであるかのような報道がされているが、それは誤解だ」として、自分は「積極的な9条改憲論者ではない」と弁明したのでした。

その中で、次のように述べていることは注目すべきでしょう(日刊スポーツ 2/14)。

私は積極的な9条改憲論者ではありません。しかし、自衛隊に対する国民の信頼が極めて高まっている中、“何らかの根拠を置く”という議論を頭回しに否定するつもりはありません。一方、これは日本の戦後極めてイデオロギー的に護憲か改憲か、改憲か護憲かという議論の争点、焦点になってきたテーマですから、仮に自衛隊の根拠を何らか憲法に置くとすれば、それはこれまで9条護憲を唱えてきた、いわゆるリベラル層の方々、9条護憲派の方々、その方々までもが納得するほど冷静で実務的な議論ではなければならない…と申し上げたのが真意であり趣旨でした。

自分は積極的な9条改憲論者ではないが、消極的には議論は認めてもいいよ、その議論によっては自衛隊を9条に書き込むことがあり得るのは否定しない・・そう言っているんでしょう。
”何らかの根拠”などという回りくどい言い方は辞めたらいい。

圧倒的な改憲論者の議員で占められた国会で、このように発言することは何を意味するかは明白です。
安保法制についても、原発についても、辺野古新基地建設についても公明党にすり寄り、それまでの立場を放棄した立憲民主党からいえば当然の帰結ともいえます。
共産党の「しんぶん赤旗」は14日付けで「改憲議論を事実上後押し」と書いてきびしく批判していましたが当然です。

しんぶん赤旗の記事では、「参院立民は中道への合流をためらい、衆院の立民系落選組からも、中道離脱の動きがすでに出ている」と書いていました。
安保法制や改憲に反対してきた真面目な議員にとってみれば、許しがたいことであるに違いない。紆余曲折はあるにせよ、真剣にこの国の将来を考える人々がいる限り、「中道」の分裂、新たな政党への脱皮という再編の動きがあるのは避けられないと私は見ます。

今度の選挙では、比例得票率で見れば、自民は半数に達していない。民意はどこにあるのか、どう動くのか・・・・いよいよ歴史は激動・激変の時代に入るでしょうね。



2月15日(日) 20年の歩みから(その3)つる細工 ドライフラワー
いまから22年前、私はまだ50代末でした!
池田町に移住したときに、私が毎日のようにやっていたことは、ハーブセンター斜め前にあった「おやき村」(水野建設)に入り浸って、そこに来る池田町や近隣市町村の来客と顔見知りになることでした。

たまたま、そこでビーズ編みの先生と出会い、「つるかご」を編んでいることを知り、講習会に出るようになったのです。そこでさらに知り合ったのが松本市倭北のTさん。つる細工とドライフラワーの先生でした。

なぜつる細工に興味を持ったのか、今となってはあまり思い出せないのですが、当時の記録を見てみると移住した2004年の終わりにビーズの先生と出会って、翌年2005の2月初めにはつる細工の講習会に参加、5日には先生の展示会を見に行き、見よう見まねで自分でもかごを編んでいるので、すでにその頃にはかなりつる細工とドライフラワーに魅せられていたようです。
その大きなきっかけになったのが、2月26日の展示会で見たつる編みのランプシェード。こんなのを作ってみたいというのが一番の動機になったかもしれません。

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つるは12月から3月位までしか採れないので、編めるのはほんのわずかの間。2月末から3月にかけては毎日のようにつるを取りに行っていたかも。
3月25日には、ランプシェード第1号をネットにアップしています。また、いろいろな種類のかごにも挑戦し始めたことがうかがえます。

さらに、T先生の指導でドライフラワーにも挑戦し、ドライフラワーをつるの台にアレンジする作品も制作。



それから約2年間、母の介護をしながらもつるが採れない間はせっせとT先生のもとに通い、つくったかごなどを利用してドライフラワーの作品作りに専念したのでした。





そして私のドライフラワー最後の「作品」になったのが、息子の結婚式での花嫁のブーケづくりでした。
結局、2005年初めから2007年春までの約2年間、信じがたいほどの時間をこれに費やしたのでした。



この頃の私をご存じない方は、私がこんなことをしていたなんて想像もできないかもしれませんね。
これもまた、私のあづみの暮らしの一面だったのです。







今は冬。こうした記録を見ていると、またかご編みに挑戦してみたい気になる。いっしょにやってみたいと思う人いないかなあ・・・。



2月14日(土) 池田町の人口 新聞記事
今朝のローカル紙、市民タイムスと大糸タイムスが、池田町の人口についての記事を載せました。題して「池田町人口9000割る」。副題には「町政施行から初 起死回生の一手は」とありましたよ。

大糸は市民タイムスに大北地域の記事を提供する子会社ですから、2紙とも記事の内容は同じ。ただし、大糸はローカル色を出すために自然増減、社会増減のグラフを載せていました。

これらは、私が数日前までに書いていた内容の概要版という感じ。自然・社会増減だけの考察ですから、人口問題の深い要因については触れてはいません。
しかし、これだけの記事を載せた以上、町でも話題にならざるをえませんね。
行政は勿論、議会としてもどうするのでしょう。

池田町の人口問題については、社会増がどのような年代で増えているのか、松川とくらべて住宅事情がどれくらい問題になっているのか、20代、30代の転出超過の理由は何か、なぜ出生数がこれほど急速に減少してきたのかなど、まだまだ追求することが沢山あります。
これらは行政、議会でしっかりと分析し、有効な対策を練り上げるべきでしょう。

このブログでの人口問題の考察は当面「これでおしまい」と書きましたから、今日はこれ以上は触れません。記事のみ紹介しますね。記事には多少大きめの画像がリンクしてあります。







2月14日(土) 若き日の北アルプスの思い出
今日はちょっと骨休めで、思い出話をひとつ。

北アルプスを眺めると、ときどき子どもの頃の山歩きを思い出す。
中学1年生から高校3年生までの6年間、私は父に連れられて登山に行った。
弟や妹がいたけれど、父が連れて行くのは何故か私だけ。その理由は聞くこともなかったので分からないまま。多分、弟は山には興味がなかったのだろう。

私の幾つか上のいとこ(石川県在住)は山男で、大学ではワンゲル部に所属、私が中学生の頃、登山の帰りに富山の家によく立ち寄って山の話を聞かせてくれた。私のどこかにも山好きの血が流れているのかもしれないが、大学以降は山に登ることもなくなってしまった。
下は、私が大学生の頃、いとこと一緒に撮った写真(石川県のいとこの実家で。私の母の実家でもある)。こんなときもあったのだなあ。



中1のときの初めての登山は、立山から剣岳に向かって縦走し、剣岳手前の別山から大日岳に向かい、えぐられたように深く切れ込んだ称名滝に降りるコース。
とりわけ、大日から称名への道は断崖絶壁の急斜面だったから、猛烈に怖かったことを今も鮮明に覚えている。
当時はまだ称名滝はすぐ下まで行けたので、素晴らしい景観を目の当たりにできた。
下は多分別山付近から撮った剱岳。



中学3年生のときは、夜遅くに有峰口(小見)から太郎小屋まで、延々丸一日半かけて歩き、太郎小屋についたのは次の日の夕方。
有峰湖から太郎小屋までは水が全くなくて、父が水の代わりにウイスキーを飲んでダウンしてしまい(当たり前だ)、私が一人で太郎小屋まで行って水を確保してくるという、とんだハプニングがあり、いつまでも語り草になっていた。下は父の登山姿。



太郎小屋からは、薬師岳、ザラ峠、浄土山、立山と、ずっと峰づたいを縦走。立山から弥陀ヶ原に下って下山。このコースでは、浄土山近くの五色が原で見た高山植物のお花畑は忘れられない。下は立山に降りる手前での何とも「素朴」な私の姿。後ろが立山連山。



高校生になってからは、槍ヶ岳にも登ったし、高3では、秘境雲の平まで足を伸ばした。
多分、槍ヶ岳に向かう途中だったと思うが、激しい雷雨に遭い、向かいの山の頂に落雷による火柱が立つのを見て命の危険を感じて震えが止まらなかったことを思い出す。



雲の平へは、新穂高から笠ヶ岳を左に見て双六岳から三俣蓮華、三俣山荘から雲の平に出たのだろうと推測。
このときも、色とりどりの高山植物の周りを大きなアゲハが飛び回る光景は、多感な時期の私の心をしっかりと癒やしてくれた。

下は、高瀬川とあるから、大町からのルートで撮ったのだろうけれど、どこだか思い出せない。
私を撮るはずが、何故か父のカメラが若い女性の方に動いている。あり得ないとんでもない写真だ。この女性は誰だ??



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大人になってから山登りをしても、若いときほどの強い印象や感動は得られなかっただろうと思う。 青春入り口の多感な時期だったからこそ、高山が与えてくれる魅力を全身で受け止められたのだろう。

一人でよく山登りをしていた父だったが、この時期の父との登山は、いまなお私の忘れがたい貴重な財産となっている。



2月13日(金) 危機感と希望との狭間で
この選挙では、人々はまんまと高市の作戦に乗せられてしまった。
いやいや、自民党は支持したが、こんなになるなんて思ってもみなかった、と言ったところで、過ぎたことは戻せない。
これから起こるであろうことを考えるだけでも空恐ろしいが、高市に対抗した政党や市民団体、いわゆる護憲勢力にどれだけの危機感があるのだろう。今はそのことの方が気になる。

自民党は結党以来「自主憲法の制定」をかかげ、その昔は古色蒼然とした戦前型の体制を夢見ていたが、今日では一方でその色彩を残しつつも、強力な軍事大国への野望を隠さない。
そのために、一昔前は地方から改憲の大運動を起こそうと日本会議などが活動を続けてきた。 まさに、その時期が到来したのだ。

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今日の信濃毎日新聞は、当選した議員のうち「憲法9条に自衛隊の存在を明記」新制が81.1%。「緊急事態条項を憲法に設ける」ことに賛成が84.3%、スパイ防止法もほぼ同率。
高市の方針に諸手を挙げて賛同して当選したのだから、それはそうだろう。

トランプの軍事費大増額の要求にも唯々諾々と応えつつ、坂道を転げ落ちるように戦争国家への道をばく進しようとしているこの国の現状に危機感を抱かざるを得ない。自民党に投票し、その結果に驚いている人の中にもそう思っている人が大勢いるに違いないのだ。

そうであれば、直ちに地域から職場から、そうさせない運動を構築するべきだろう。全国的にも、急いでその態勢を構築する必要がある。
自民党や維新の会の思惑通りにさせないという面だけではなく、どうすれば、これからの平和外交を軸とした日本独自の立ち位置を据えることができるかを、もっと大胆に真剣に議論することが求められる。

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戦争に行くのは自衛隊員だけではない。現在の自衛隊の構成を考えれば、戦場でたたかう兵士が圧倒的に足りない。志願制であれ徴兵制であれ、必ず若者への誘いがくることになる。

トランプの戦略は自国中心になっているから、いずれ日本からもかなりの米兵を引き上げる可能性があると一部で言われているが、中国の海洋進出に神経をとがらせるアメリカは、そう簡単には縮小したり基地を返還したりはしない。その最も大きな理由が米軍の駐留経費の大きさだ(下はしんぶん赤旗参照)。そのうち、思いやり予算、米軍再編経費は日本側の負担だ(経費全体の約半分にあたる)。



昨日のしんぶん赤旗は、米海兵隊現役幹部が「辺野古と普天間の両方の基地を保持し、日米共同で使用すべきだ」とする論文を米シンクタンク「大西洋協議会」で公表したと報道。アメリカの日本に対する要求は何ら変わっていない。

アジア・太平洋での米軍の司令部機能を東京に集中し、自衛隊も統合司令部を隣接しておく日米共同作戦態勢はすでに完了していることから、ある意味、米軍の縮小や日本への防衛費の増額要求は、自衛隊の大増強の布石と見ることができる。米軍は自国軍の犠牲をできるだけ少なくしたいだけだ。

到来したこの情勢は、自民党にとっては改憲の一大チャンスであり、それに向けていっそう中国、北朝鮮の脅威をあおってくるだろう。アメリカは足下を見て一層の要求を出してくるはずだ。果たして国民はそれに抵抗できるのか。
「戦争はいやだ」と言っていた人も、「そうは言っても、向こうから仕掛けてくるのだから仕方がない」となるのかどうか。ここに、これからの大きな課題がある。

憲法第9条の持つ意味、その歴史を今一度学び直し、地域に平和のとりでを築かなければならないと思う。

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今日の東京新聞デジタルで、山崎雅弘さんが次のように書いていた。

特定の国や外国人への漠然とした不安や敵意を煽(あお)った上で、威勢のいい強硬論で「力」をアピールして偽りの安心感を植え付け、政府への依存心を国民に抱かせる手法が、強権支配や対外戦争の入り口となった事例は数多い。・・・ 1937年の前半、日本国民は軍備増強に起因する物価高に苦しんだが、7月に日中戦争が勃発すると、人々は生活上の不満を忘れて「挙国一致」で対中国戦争を支持した。・・・ いっときの勝利は、長期の安定を約束しない。その重い事実が今、我々の目前にある。

私が、ヒトラー時代について長々と紹介したのは、同じ問題意識からだった。
だが、ヒトラーのドイツとも戦前の日本とも根本的に異なる条件がある。
それは、日本国憲法が厳として存在し基本的人権が曲がりなりにも保障されていること、そして、少なくなったとはいえ、あの戦争の経験者がまだ生存していることだ。

若い世代がそこから学ぶことを忘れなければ、必ず改憲勢力を打ち破り、その先に希望の国を作り上げることができる。
残された時間は短いが、諦めずに、それぞれができる最大限の努力を始めることだ。

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そのむかし、あべしんぞうさんの答案としてアップされていました。おまけです。





2月12日(木) 池田町の人口問題を考える(補充編その2)
池田町の人口の推移の中で、20代、30代の移動グラフを見ると、池田町では松川村と比べて30代の落ち込みが激しいことがわかります。
2月9日(月)の「池田町の人口問題を考える(4/4)」で示した28年間の推移表のうち、直近の10年間の動きを取りだしたものが下の表です。出生者数も合わせて表示しました。



池田町では20代も30代もほぼ直線的に減少しているのに対して、松川村は20代が横ばい、30代がわずかに上昇に転じています。しかも両町村の差は20代で200人、30代では300人にも上るのです。
当然のことながら、出生者数と照らし合わせると、両者に強い相関が見られます。

池田・松川の差がどのようにして生まれているのかについては、20代、30代の社会増減を調べることによってある程度は推測できます。
20代、30代の転入者、転出者の表は、2月9日の「池田町の人口問題を考える(4/4)」で紹介しています。

池田町の学校法人「日本アルプス国際学院」が主にベトナムからの留学生を受けいれたことによって、3,4年間、主に20代の男性の増減が見られるため、出入りが分かりづらくなっています。その効果を差し引いても、松川村の30代の転入超過が人口維持と少子化への歯止めになっていることが分かります。

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2024年に限ってみると、20代の転入者は池田町で64人、松川村で120人と約2倍の開きがあります。
転入元を調べると、池田町の場合は東京がトップで8名、松本市が7名、埼玉、愛知、長野市がそれぞれ5名(県内は合計で34名と約半分を占めています)、大町からが4名。
一方、松川村は、県内が圧倒的で85名、そのうち大町市がトップで19名、続いて松本市16名、長野市12名などとなっています。
30代については、池田町は長野市、松本市からが中心。松川村は大町市、松本市からがそれぞれ10名を超えています。

このことは、近隣の市町村で結婚して独立し、適当な住まいを探そうとするときに、職場がどこかにもよりますが、交通の便や子育て環境が整った(整っているように見える)場所に居を定めるケースが多いことを示唆しています。
しかし、松本や豊科などに職場がある場合、車で通勤するには池田であろうと松川であろうと、それほど差があるわけではありません。
そうなると、子育て支援策や住宅政策に手厚い松川村に目が向く可能性は多分にあるのです。

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おまけのようですが、もう一つ、20代、30代で、男女別の転入・転出も調べてみました。
ここではグラフをお示しすることはできませんが、20代で特徴的なことは、池田町では転出者の男女差はほとんどないものの、女性だけでは転出が転入を各年度共通して15名から20名上回っていることです。つまり20代女性がそれだけ減り続けていることです。男性についても、ここ数年は同様の傾向が強まっています。
松川村は、20代女性の転入、転出はほぼ同数でバランスがとれています。

以上に述べたことはあくまで私なりの調査結果とそれにもとづく私見にすぎません。
池田町としても、こうした細かい分析をさらに深めて、どこにどのような力点をおいて対策を講ずるのがよいかを検討する必要があるのではないでしょうか。

人口問題についての問題提起は、これで本当におしまいです。ふ~~。



2月11日(水) 池田町の人口問題を考える(補充編)
池田町の人口問題については、未熟ながらも2016年の財政白書「財政白書2016」で取り上げ、一定の問題点と課題を提起していました。
それから約10年間、調査を続けてきましたが、何しろ政府統計や県の統計からデータを調べる手間暇は半端ではなく、余りにも細かい仕事なので間違いも結構発生していました。
今回は、データの根拠を明らかにしつつ、数値を精査しながら、転入・転出者について表を作り直してみました。
まだ、データの転記ミスなどもあり得ますが、1つの問題提起にはなるのではないかと思っています。
先日の「池田町の人口問題を考える」4回分と合わせて、ご批判・ご意見をお願い致します。

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1.池田町の人口 社会増減

池田町の転入者と転出者を調べると、全体としては転出者の数を転入者が埋めていて、思いのほか”健闘”しているのです。2月6日に載せた池田町の推移から分かる通り、社会増減の数値はプラスとマイナスを行き来しています。


これに対して、松川村は2013年から数年前までは転出超過の状態(それ以前は転入超過)が続いていましたが、2020年あたりから転入者が目立って増えて社会像がプラスに転ずる変化が生まれてきています。(松川村の転入・転出の詳細はこちら


データは、政府統計の総合窓口e-Stat 「住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数調査」より
なお、転入転出者のみの比較はこちら

これを20代、30代に限定して調べると、日本アルプス国際学院の生徒の出入りを除けば、池田町は20代の転出が一貫して多いことが分かります。これらについては、「池田町の人口問題を考える(4/4)」で以下のグラフを含めて取り上げました。
池田町 20代、30代の転入者、転出者の推移

松川村も、20代の転出者は池田町よりもむしろ多いくらいですが、2020年以降、20代の転入が大きく増え、30代の転入も転出を上回っていることが特徴です。このことが、全体としての社会増のプラス転化を支えているのではないかと思われます。
松川村 20代、30代の転入者、転出者の推移

池田町は、高齢層の転入が比較的多いこともあり、それが若年層の減少を相殺しているわけで、町づくりの将来展望を考慮すれば、20代、30代の転入をいかに増やすのかが重要な課題となっていることがはっきりします。

2.池田町の人口 自然増減

出生者数と死亡者数の差=自然増減については、すでにこれまでのデータから、池田町と松川村の相違をつかむことができます。下には、ここ数年の変化を示しました。



以上のことから池田町の人口減少の要因として考えられることは次の3つです。
第1は、高齢化が相当に進み、それに伴って高齢者の死亡者数が大変多いことです。これは人口構成からどうしようもありませんね。

第2は、少子化が極度に進みつつあることです。これは、町の子育て対策、住宅事情、町の魅力など、多くの要因が複合した結果であり、その詳しい分析が必要です。

第3は、20代、30代の転出超過の問題です。大学や就職で他県に出ることは止めるわけにはいきません。要は、池田町での若い人たちの子育て音条件を整え、安心して働く場を確保し転入者を増やすことにつきます。この点についても、十分に実情を調査・研究し、長期的な展望をもって一つ一つ解決していくことが必要です。

これらに対応するためにも、この間も指摘したように、総合的な町づくりのビジョンを明確にし、上に述べた課題をその中に関連付けることが重要になるでしょう。(おわり)



2月10日(火) 弁証法
子どもたちと一緒に勉強していて、なかなか成績が伸びないという悩みを聞いたとき、よく「成績なんて一直線に伸びるものじゃない。毎日コツコツと努力を重ねてごらん、気がつくとグンと伸びるときが必ずある。飛躍するんだよ」と励ます。
これって、量から質への発展・転化ですよね。そうした経験は、いくらでもある。

私も、いまピアノを練習していて、ある部分で苦闘を重ねている。こんなことをいくら練習しても、素質がないのだからダメなんじゃないのかなという気持ちとたたかって、いつか自分でもびっくりするほどのレベルに達することができる・・・と言い聞かせてみる。歳のことや脳トレだということも忘れて。

そうそう、先日ベランダの階段から降りようとして脇に置いてあったものに躓き、階段下に転げ落ちて背中や頭をしたたかに打った。3段しかないのにです。
こんなところ、若い頃なら飛び降りるところなので、頭では訳なく降りられると思い込んでいる。いつの間にか身体が質的に変わってしまっていることに気が付かない。

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学生の頃、「哲学を学べ」と先輩たちからそそのかされて、聞きかじった時期がありました。当時は、学生運動華やかなときでしたから、決まって弁証法的唯物論について議論したものでした。

最近は、ほとんどこのコトバを聞くこともなくなり、「ものの見方、考え方」が大事だなどという若い人たちの話を聞いたこともありません。そんなことを考える先に、どう生活するか、どう稼ぐかの方が切実なのだということなのでしょうか。

私自身に多大な影響を与えたと思われるのは、エンゲルスの「自然弁証法」でした。
当時は、科学者になろうと思ったわけではなく、ただものの考え方や見方を知りたいという、新しもの好きの好奇心が勝っていたのでしょう。

ただ、その「物事の考え方、捉え方」のうちで、当時よく定式化されていた「対立物の闘争と統一」「量から質への発展・転化」「否定の否定の法則」などという用語は、学生の口に膾炙し、何でもそれに当てはめようとする機械的な操作につながったことも事実でしたが。

仕事を得て働き始めてからは、そうしたことを意識することも議論することも次第になくなり、むしろ学生時代のなつかしい思い出に変わってしまったのですが、それでも心の奥底では社会の問題を深く分析するには、哲学的でラディカルな見方が必要だとずっと思い続けていました。

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この年になって、改めてそうした「ものの見方、考え方」の根本を問う必要性、重要性を再認識しつつあります。
社会の急速な右傾化を見ていると、それが永遠に続くように思えて絶望的になることもあるけれど、実際には社会の深部で深い矛盾が渦巻き、激しくぶつかり合っている、その深い矛盾をつかみ取ることが大事なのだと思い直してみるのです。 その矛盾の性格、規模、歴史的経緯などを分析し、解決への具体的な道筋をつけたときには必ず闇の先に光を見いだすことができると確信するからです。

これは一見「なるようになる」とは異なる見方かもしれないけれど、私の中では全く矛盾しません。
見方を据えれば、ものごとに悲観的にならず、ゆったりと構えて先に備えられる。
この国においても先人たちは、そうした確たる信念を持ち続けたのですね。
手元には、当時ろくに読みもせずに積ん読していた書籍が何冊もある(例えば武谷三男「弁証法の諸問題」など)ので、暇を有効に使ってひもといてみようと考えています。

戦後60年代まではまだスターリンの呪縛からは逃れられてはいませんでしたが、現在では、自由に議論し再構築される時期ですから、市井に生きる一人として毎日の取り組みの中でそうした「ものの見方・考え方」を意識的に深めていこうと密かに(?)思い定めているところです。



2月9日(月) 忘れてはならないこと
今朝の空気はよく晴れた元日のように清新だ。
青い空と白い雪のコントラストが目にまぶしい。こうした風景がいつまでも続いてほしいものだと思う。



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さて、投票日から一夜明けた。
日本共産党シンパの私からみれば、結果は悲惨で恐ろしいものだと言わざるを得ない。
だが、これがこの国の人々の「民主主義」の実態なのだ。
日本の政治状況は新しいフェーズに入った。

私は、あくまで人々の政治的行動の1側面を評価しているだけで、一人一人を貶めるとか、否定するとかという気持ちは全くない。むしろ、早く高市の正体を見破り、この国の真に「豊かな」未来を展望できる道を選び取ってほしいと願っている。そのために全力を尽くす。

今日の信濃毎日新聞は社説で「自民党が圧勝 白紙委任と思うなかれ」とのタイトルをつけて、「これをもって『国論を二分』する課題でも国民のお墨付きを得たとして、数の優位を基に突き進むというのだろうか。いくら公約に書いてあったとしても、それでは有権者に対し、あまりにも不誠実だ」と書いた。その通りだと思う。

ただし、そう思うのであれば、メディアとして今後は徹底的に「『国論を二分』する課題」についてデータを示し、歴史に学び、読者に正しい情報を提供していくべきだろう。

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高市政権は、おそらく矢継ぎ早に「公約」の実行に踏み出すはずだ。
まず、AI・半導体企業への巨額の支援、投資減税、アメリカへの投資向けの予算など、大企業向けの予算を通して「強い経済」を実現し、さらにアメリカを見ながら10兆円近い軍事費でハリネズミの日本をつくる・・のだろう。

「責任ある積極財政」「強く豊かな国」というのは、国民にとっての話ではない。「国家」とその「国家」を支配するものにとっての話だ。
維新との政権合意に拘泥する必要はほとんどなくなったわけだから、その都合のよいところだけを取り込み、維新には「アクセル」を勝手に踏ませておけばよい。

「衆議院の定数削減」「スパイ防止法」「外国人管理の厳格化」「原発再稼働」「武器輸出の大幅拡大」そして、極めつけの「憲法改正」。参議院も2028年には自民党が圧勝すると踏んで、強権国家への道を突っ走ることになるだろう。

ナチ政権のように少数政党を武力で弾圧する必要もなく、従順な国民の自発的な意志によって粛々と日本型のファシズム体制が仕上げられていく。
このままなら、未来図はまさしくディストピアそのものだ。

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ジャーナリストの斎藤貴男さんは、2000年初頭にその著書「安心のファシズム」で、「支配されたがる国民」を憂いつつ、次のように書いていた。

問題は、ナチス式の発想や人間観を受容したがるような空気が再び甦りつつあるらしい現実である。

一言付け加えれば、現在では「あるらしい」どころではなく、ナチとは比較にならないほど自発的かつ容易にだ。
「そんなことは考えてもいないし、あり得ない」などと言えるのは、歴史を知らず思考停止の状態にある場合だけだ。権力はそれを実現できる力を持っているし、営々とそのための布石を打ってきたのだ。「人権否定と戦争」の時代は、さらに近づいたのだといえる。

中国や北朝鮮、ロシアの現状は、私に言わせれば、90年前のこの国の後追いなのだ。つまり、「軍拡と戦争、人権否定」の時代がこの国で現実にあったこと、その実行者の末裔が仕切ってきた国であることを忘れてはならない。
「戦争国家」「人権否定国家」は目前の”現実の問題”だということを、ゆめ忘れてはならない。

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選挙結果を受けて、1つには私自身の生き方の問題として、2つにはこの国に生きる未来の人々の問題として、あと何年かの過ごし方をしっかりと考え抜きたいと思っている。



2月9日(月) 池田町の人口問題を考える(4/4)
<4>人口減少の要因と町づくりの方向

池田町の人口がこれほど急激に減少している要因は大きく2つあると考えられます。
1つは、出生者の極端な減少と高齢者の死亡数の差の大きさ、つまり自然減の開きがものすごく大きくなっていること。
2つは、20代、30代の転出が転入を上回って、若い層での社会減が進行していることです。

松川村は転入が転出より多いのです。そのため、池田町では20代、30代の減少が止まっていませんが、松川村は2023年前後から横ばいもしくは微増に転じています。
町として、この要因を多面的に明らかにすることが必要です。

次の表は、上から順に池田町の転入・転出者の推移、松川村の転入・転出者の推移、両町村の20代、30代の人口の推移です。




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当たり前のことですが、人口問題は人口問題だけで狭くとらえては解決できません。なぜなら、これは町づくり全体の政策の帰結だからです。
何よりも、そこに住む住民が住みたい、住んでよかったと思える町であることが不可欠だということす。
住環境、自然環境、教育・医療・福祉の充実、商工業などの企業・事業所や病院などで若者が働きやすい環境を整備すること、基幹産業である農業での若者対策を大胆に打ち出すこと、そして、まちづくりに積極的に関わろうとする多くの住民の存在・・・など。

現在の池田町は、そのどれもがちぐはぐし、方向を見失い、行政も議会も太い柱を立て得ないでいるように見受けられます。
人口問題とは、その太い柱の向こうに解決策があるのであって、子育て政策にお金をかけただけでなんとかなるというものではない・・・と私は思うのです。

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すぐにやるべきことは、町のことがよくわかり知見を持ち熱意のある住民と専門家を合わせた専門委員会を立ち上げ、池田町都市計画マスタープランとその柱となる町づくりビジョン、そのもとでの当面に重点施策と財政計画を策定することでしょう。
それには、アンケート、討論会、シンポ、地域集会などを組織、具体的なデータをしっかりと収集して、議論の土台をつくることが必要になります。
素案を町民に示し、更に深く議論を深め、町民が作り上げたと思える計画に高めなければなりません。

時間がかかるから、そんなことをしている余裕がないという意見もあるでしょう。しかし、ことは20年、30年、50年先の町の設計図です。むしろ、それがあれば、様々な施策の歯車がかみ合ってその後の施策の展開が容易になるのです。
これを実行するには、行政職員も議会も住民も実行に向けた意識改革が避けられません。
何より、若い世代が現状をよく理解し、リーダーシップをとることが肝要でしょうね。
果たしていまの池田町にその余力が残っているのかどうか。

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人口問題についての考察をアップしてから、ある友人から、データを分かりやすくまとめて議会でも取り上げてもらったらどうかという提案を受けました。
私としては、このブログで問題を投げかけて終わりにしようと思っていたのですが、今日改めてデータを精査していたところ、統計の手法の違いなのか統計をとる期間の違いなのか分かりませんが、国のデータと県のデータで微妙に違いがあるのです。
かなり前に調べ始めたデータなので、その根拠を明確にしようと改めてここ10年ほどのデータを整理しておりました。近いうちに改めて整理したものをお示ししたいと考えています。(おわり)



2月8日(日) 雪の投票日 なあなあ
昨日の午後からチラチラし始めて、今朝は2センチほどの積雪。
玄関先はホウキで掃けばまあまあの状態。
相変わらず気温が低いので、しばらくはそのままだろうなあ。



朝7時半頃に投票所に向かい、早々に投票を済ませてきた。
幹線道路以外は車も少なく、軽トラ4WDで純白の新雪を踏んで走るので、最高に気持ちがよかったなあ。



高市のホクホク発言をきっかけに円相場は急落。国債も暴落傾向にあって、国際的には円は全く信用されていない。このまま高市が「積極財政」に突っ走れば、アベノミクスどころではないほどの格差の広がりと広範な国民の窮状を招くことになりかねない。
その先にあるのは改憲と戦争なんじゃないかなあ。

「何か期待に応えてくれる」などという幻想は、投票日が近づくにつれて崩れてきているのだが、果たして投票行動に表れるのかどうか。無理だろうなあ。

オバマ氏を貶める人種差別動画をアップして恥じないトランプは、レイシストの本領発揮。
そんな人物の横ではしゃぎ回るタカイチという構図はマンガにもならないなあ。



2月8日(日) 池田町の人口問題を考える(3/4)
<3> 経年変化から現在の人口を見る

実際に池田町の人口(住民基本台帳)がどのように推移してきたか、これまでも何度か紹介してきましたが、改めてみておきます。



池田町の人口は、数年前に私が推測した枠の中で推移しており、2028(令和10)年で8,600人という予測は住基台帳(住民票登録者)ベースならばほぼ妥当なところでしょうが、国勢調査ベースならばこれより300人程度少なくなるでしょう。

松川村では第7次総合計画(後期)で、社人研と比較して人口のシミュレーション(2040年9,059人、2060年8,048人)を示し、「人口減少をできるかぎり緩和すること」「特に生産年齢人口の減少を緩和すること」をあげて、次の2つの目標を示し、2030(R12)年目標人口を前期計画からプラス100人上方修正し9,400人としていることが注目されます。
・合計特殊出生率は、現在の1.42を維持することを目指します。
・社会増は、近年の平均人数(50人)を上回る年間60人程度を目指します。


他県の市町村の先進的なとりくみに学ぶこと自体は大切なことですが、池田町と規模や地勢もそれほど変わらないお隣の松川村での取り組み、考え方、その実際を詳細に研究し、生かすことも同様に必要ではないのでしょうか。

池田町では、お隣の町と比較することをことさらに避けようとするきらいがあります。
どんどん差をつけられていることへの苛立ちももあるだろうし、人口構成も異なる比較的若い村だから比較しても仕方がないという意識もあるかもしれませんが、その姿勢そのものに問題があります。

2月5日付けの信濃毎日新聞は、来年度予算案の概要について、注目すべき記事を載せていました。「村の人口維持に積極投資」という見出しで、宅地造成、小規模保育園誘致などにかなりの資金を投入し、松川村始まって以来ともいえる大型予算を組んだのです。



第1回で見たように、松川村は2024年から2025年半ばまでの1年間は人口を維持。微増させてきましたが、2025年後半からは微減に転じ、今後この傾向は続くと見られます。
このことを察知し、素早く大胆な対策を講じたように見受けられます。

松川村には、道路・鉄道や施設などのインフラの利点や住民構成の違いがあり、地道に町のブランドづくりに取り組み成果を挙げていることは間違いありませんが、池田町には池田町の良さがあり、そのために多くの人が町外から移住したり訪問したりしています。
池田町の利点を生かし切ることができれば、松川村と遜色のない町作りが可能であるはずです。

残念ながら、単に北アルプスの景観が素晴らしいという程度の認識での自然増に任せているのが実態であり、次期都市計画マスタープラン(町作りビジョン含む)の策定も怠り、様々な施策が統一性と一貫性を欠いたままになっています。
次年度予算についても、議会には示しているのでしょうが、住民には全く重点施策も概要も伝わってきません。

次回は、人口減少の要因とその解決索について考えてみます。(つづく)



2月7日(土) だますもの、だまされるもの
投票日が明日に迫った。すでに大雪の予報を聞いて期日前投票を済ませたという人も多いらしい。そもそもこんな時期に投票日を設けること自体が投票の権利を奪っている。
メディアも「高市でいいかどうか」を問う白紙委任選挙だということは少しは伝えているが、依然として自民圧勝報道をどうみるかなどとトンチンカンぶりを発揮。
このさい、先日も紹介した内田樹さんの信毎投稿を改めて読み直してみたい。

選挙の結果はほとんど見えているようなものだが、高市の勇ましい言葉になにがしかの期待を寄せた人々に何かを伝える言葉があるとすれば、伊丹万作さんが敗戦の翌年に残したあの言葉をいま一度伝えよう。

<「戦争責任者の問題」より> 『映画春秋』創刊号・昭和21年8月

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。
・・・
だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
・・・
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。
・・・
現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。




2月6日(金) 池田町の人口問題を考える(2/4)
<2>過去の池田町の人口問題のとらえ方

先日の信濃毎日新聞は、長野県の各市町村の人口増減および社会増減を一覧にして、県内人口の減少幅が最大になったと報じていました。池田町も例外ではありません。



***

池田の基本計画である第5次総合計画(2009年→2018年)では、2030年には9,900人と予測し、後期計画においては「当町の住みよい環境や充実した子育て支援などが評価され、人口全体の減少率に比べ30代~60代の減少率は約半分に留まっています」と楽観的な評価を下していました。

そして、将来指標について、次のように述べていました。

池田町都市計画マスタープランに基づき、平成37年11,000人達成を目指していますが、極力目標の早期実現に向けて積極的な取り組みをします。現在(2014年)は約10,450人ですので、今後550人増やすことが目標です。

実際には、第5次最終年の2018年1月の人口は10,034人と大幅に減少していました。
池田町第6次総合計画(2019→2028)では、前期計画において次のように記載し、将来目標(2028年)も9,000人と、次のように下方修正せざるを得なくなりました。

令和7年(2025年)には高齢化率は40%を超え、令和22年(2040年)には総人口が約7,000人となるなど、大変厳しい予測がされています。・・・
池田町人口ビジョンにおいて掲げた目標人口では、池田町第6次総合計画の目標年次である令和10(2028)年度は8,935人と推計されることから、本計画の目標人口を9,000人とします。


2024年に見直しが行われた第6次後期計画では、2040年の人口予測を社人研の調査に合わせて7,020人と若干多めに修正はしているものの、人口の急激な減少を受けて、次のように更に下方修正。

当初、令和10年(2028)の目標人口を9,000人としていましたが、令和2年、5年時点での実績と前期基本計画による施策効果を鑑み、目標達成は難しいと考え、令和10年目標人口を下方修正し8,600人とします。

どの計画においても、ある共通点が見られます。詳細は別に論ずるとしてここでは要点のみ私の考えを記します。

第1は、住んでよかった思える町づくりを通して人口問題をとらえるという総合的な観点が弱いということです。財政的な子育て支援策だけではなく、若い世代の住環境の整備、保育園、小中学校などの教育環境、町の情報の十分な提供と町づくりへの住民参加の気風などさまざまな側面が有機的に結びついた施策が展開されることが必要です。

こう書けば、行政からは「池田町では人口ビジョンを定め、現状の分析をはじめとして総合的な対策を定めている」という意見が返ってくるかもしれません。
しかし、現状や予測については細々と書いてはあっても、町づくりのビジョンが欠けており、そのために例えば後でも述べるように保育園を一園にしてみたり、花とハーブを総合的にどう位置づけ、どう観光や関係人口増に結びつけるのか示されないなど、対策が一貫していません。
人口の推移も、国勢調査ベースでの社人研の推測通りか、あるいはさらに下回って推移しているのが現在の池田町の姿です。

第2に、人口減少がどのような要因で起こり、若い世代にどんな要求があるのかなどの詳細な分析がないことです。ホームページのどこにもそうしたデータは見られません。
例えば、しばらく前の人口減少問題についての町民ミーティングでも議論の土台となるような具体的な資料は示されませんでした。

第3に、具体的な対策がちぐはぐしており、長期的なビジョンに基づく方向性がありません。
町民ミーティングでも、資料ばかりでなく議論の土台となる町の基本的な考え方も示されず、ただ参加者の意見を聞くというだけでした。
公立保育園問題でも、単に出生者数が少なくなっているから保育園は1園でよいという短絡的な考え方から、小学校が2校あるにもかかわらず強引に1園にしてしまいました。

現在の人口問題を解決するには、そうした過去の行政のあり方を総括することから始めなければならないでしょう。

次回は、池田町の人口がどのように推移してきたのか、隣の松川村と比較しながら見ておきたいと思います。(つづく)



2月6日(金) 池田町の人口問題を考える(1/4)
<1> 人口8,000人台に突入

2月1日付けの池田町の人口は、ついに9,000人(住基台帳)を切り、定住人口はすでに8,600人台になってしまいました。

冬は高齢者にとって厳しい時期なのですね。亡くなる人が後を絶ちません。
池田町の人口は、住民基本台帳ベースで2006年1月1日には9006人でしたが、2月1日には8,967人(前月比マイナス39人)とついに8,000人台に入りました。1月から2月にかけて月別の減少数では最近にない急激な減少幅です。
ちなみに松川村は1月9,664人、2月9,641人(前月比マイナス23人)となり、これもこの一年間では最大の落ち込みです。



(注1)上の表では、最後が2026年2月となっています。2ヶ月刻みの表なので、3月には更に減少している可能性があります。
(注2)自治体の人口統計を扱う場合に、国勢調査をもとにした人口(定住人口)も合わせて見ます。
国勢調査では「普段住んでいる場所(常住地)」の人口を調べるため、例えば住民票をそのままにして都会の大学に行っている学生や他県の施設に入居している高齢者などは除かれます。一方、住基台帳では、あくまで住民票があるかどうかなので、池田町では当然住基台帳上の人口が多くなります。
池田町では、2026年1月1日現在で国勢調査ベースの人口は8,674人、住基台帳ベースでは9,006人と300人以上の差があります。ちなみに松川村は9,553人(住基台帳9,664人)、前年より12人の増加です。


先日の臨時議会において、町長はあいさつの中で「今年度の池田町の人口が54名の社会増となった」ことを報告。また「出生数は17名だが、転入により0~6歳の子どもが12名増(転入19転出7)となった」として、これらが過去のさまざまな施策の成果と捉えていると述べていました。
しかし、自然減が社会増を上回って続いているために、池田町の人口は依然として急減を続けています。

上の転入・転出の推移を見れば分かるように、社会増の数それ自体には年度によって相当バラツキがあり、プラスの年もあればマイナスの年もあるのです。
何年も転入が転出を上回れば喜ばしいことですが、現状はそうはなっていないのですから、今後の変動を慎重に見極めなければなりません。池田町ではとりわけ、20代、30代の転出超過が問題なのです。(つづく)



2月5日(木) 20年の歩みから(その2 バラ愛好会)
私が池田町で関わった活動の中で、住民同志の仲間づくりや景観形成への貢献を目的として、2010年に発足したバラ愛好会(代表は私)の取り組みは大きな位置を占めています。
発足した当時の組織はすでに解散し、現在では有志でのバラ園運営になって久しいのですが、住民活動の1つの形を作ったという意味では、私にとって大事な経験となりました。

池田町の住民10人ほどで2010年7月に発足した「池田町バラ愛好会」は、1年間の予定地の開墾や植樹の作業を経て、翌年6月25日に開園式を盛大に開催。それから2021年4月22日の会の解散に至るまで約10年間、通年週一回の手入れと6月のバラ祭り、選定作業や堆肥作りなど作業を続けてきました。







最盛期のバラ祭には、池田町以外の市町村から3000人を超える来訪者を迎え、どれほどバラが好きな人が多いかを実感させられたものです。





名目上会員数は30人、賛助会員も60人を数えてはいましたが、実際には年々会員の年齢が上がり、活動力も減退。同時に、荒れ地であったことからバラの樹勢が次第に衰えて、惜しまれながらも組織的な活動には一旦区切りをつけようと解散に至ったのでした。

会の解散総会で私が報告した会の活動のまとめは別記の通りです。

<バラ愛好会創立から現在まで>

細かい経過は省きますが、2010年7月の会の創設、その秋の開墾とバラの植え付け、翌年7月のオープニング・セレモニーと忙しい日々を過ごしたことが思い起こされます。

① 会の目的は基本的に達成された
住民の有志がバラを育てることを通して、楽しみながら仲間をつくり、また遊休農地の活用と景観づくりに寄与することを目的としました。
その目的は、今日まで毎週休みなく続けた手入れの作業、8回のバラ祭りなどを通して基本的に達成されたものと思います。

② 任意団体として活動を継続性できたことは特筆すべきこと
正会員の増加はそれほどではありませんでしたが、活動に協力してくれるオーナー会員は60名まで増やすことができました。
活動に参加できる会員は、冬期の休止期間を除いて、実にこの10年間、毎週バラ園に集まり花殻摘みから除草、水遣りなどの活動に参加しました。
強制力もなく、むしろ「会費を出しながら草取りをする」というまれに見るボランティア活動を長期にわたって続けてきたその活動の源泉は、やはり仲間といっしょに楽しみながら生産的な活動を続け、バラが見事に咲いてくれることで報われるという喜びだったのではないでしょうか。

③ 町の景観形成に寄与し、住民の憩いの場を提供できた
各年の6月初旬に行ったバラ祭りは、バラ園の知名度を高め、市民権を得る手がかりになりました。年々参加者が増え、一時は3000人を越える来訪者があったために、会員のオーバーワークが問題となりその後縮小せざるを得なくなりました。
とはいえ、バラ祭りがあるために整備作業もはかどり、園内の手入れもゆきとどく側面があり、町の景観形成にとって大きな役割を果たしたといえます。
6月から9月にかけて近隣の高齢者施設のマイクロが訪問することも多くなり、町民の憩いの場としての役割も果たすことができました。
バラ園を通して、町内外の多くの方々が、こうしたバラのガーデンをいかに求めているか、こうした場をつくることができれば、どれほど多くの人々を招くことができるかについて、身体を通して知る体験ともなりました。

④ 健全財政を維持できた
バラ園造園には、町の「町づくり支援金」(各年30万円3年間)があり、後には「長野県長寿社会開発センター」の補助金を得ることができ、会員の会費およびオーナー会員の入会費、バラ祭りでの募金などを中心に、財政的には十分健全な運営ができました。
また、早い時期から特別会計をつくり、会の解散に備えることもできました。

⑤ この10年間のバラ園の意義は大きい
池田町に自主的な住民団体だけで10年間持続的に活動をつづけた経験は、私たちの「バラ愛好会」と堀之内の「かかし祭り(後に「かかし芙蓉祭り」)」でしょうか。長期にわたりほぼ休むことなく毎週集まって活動してきたという経験はおそらくないはずです。それほどに、この10年の軌跡は大きな意義をもっています。
残念ながら、山間の遊休農地の土地柄が悪く、バラには不向きだったことが悔やまれますが、今後もしこうしたガーデンを本格的に行うならば、町も協力して土づくりからはじめることが必要です。本会の経験を活かし、町の各地でこうしたガーデンづくりの経験が広がってほしいものです。



2月4日(水) 「選挙情勢」報道から見えること
2月4日付の信濃毎日新聞「今日の視角」で内田樹さんが、総選挙について危機感一杯の指摘をしていた。
その要点は次のようになる。

この選挙は高市政権の全権委任選挙であり、自民・維新政権が目指しているのは「全体主義国家」だ。だが、そういう社会に暮らしたいと思っている有権者が現に相当数存在するらしい。
今度の選挙は戦後日本の岐路になる。高市が「大胆に」政策を実行すれば、日本は「大日本帝国の劣化コピー」のようなみすぼらしい国に転落する。国民は果たしてそんな未来を望んでいるのだろうか。

この危機感は私も全く同じだ。
以前にも書いたように、いま高市政権がやろうとしていることは、ヒトラーの独裁を生み出した「全権委任法}を先取りしたものに他ならない。
ドイツでは共産党や社会民主党などナチ党以外の政党をすべて駆逐してからしか出来なかったが、この国では、そのことさえ必要はなく、一部の少数政党を除いてほとんど自民党と変わらない政策だから、改憲に踏み出そうと思えば極めて容易に出来てしまう。
立憲主義の確率を掲げて登場した立憲民主党も、わずかに残っていた対抗勢力としての魅力を自ら放棄し公明党に飲み込まれてしまった以上、国民の信頼も失ってしまった。

私は、消費税の減税などの人気取りは、改憲の土俵づくり、地ならしだと見ている。
憲法に自衛隊を書き込む、緊急事態条項を入れる、この2つが実現すれば、その他の有事法制、国民統制の法律は完備しているのだから、内田さんが言うように、次のような未来図を想像することはたやすいことだ。

維新との政策合意書には、改憲、スパイ防止法、対外情報庁創設、防衛力の抜本強化、国旗毀損罪、外国人政策の厳格化などの項目が挙げられている。選挙で過半数を得たら、これらの政策を「批判を恐れることなく」実行するらしい。
***
人権も市民的自由も制限され、思想警察が市民を監視し、市民同士も他人の言動を検閲し、ことあるごとに「反日」とか「非国民」とかいう罵倒が行き交う、息苦しく暗鬱の社会を彼らは創り出したいらしい。


***

今日、新聞に折り込まれていた選挙公報に載っている各党の押し出し方は異常ですね。
こんなの見たことがない。
いかに目立ちたいか、いかにマッチョな体型を見せたいか、それしか感じられない(もちろん全部ではないが)。SNS戦略も同様なのだろう(見る気もしないけど)。

メディアは中盤の選挙情勢を伝えるのに全精力を費やしているらしいが、先日も書いたように、直近のいろんな疑惑がどの程度解明され、またされていないのか、あるいは現実に何が起きているのかを分析もせずに、ただ現状を追認しているだけ。
信濃毎日新聞は、上のような真っ当な意見を載せてくれているだけまだマシというべきか。

若い世代のなかに、現在のこの国の姿を素直な目で見て、どんな未来につなげたいのかを真剣に考える動きが強くなってほしいと願わずにはいられない。
私としても、私なりに警鐘を乱打しつづけていきたい。



2月4日(水) タンカン
今日はポカポカ3月初めのようなお天気。庭のフキノトウ、寒さなど一向に気にしないようで、1月中から沢山顔を出しています。



沖縄の妻の友人からタンカンが届いた。毎年この時期になると届けてくれるのです。Aさん、ありがとうね。

皮がめちゃくちゃ固いのが難点だけれど、オレンジっぽい風味があり大変美味。
沖縄特産のフルーツで名護市、国頭村、本部町といった本島のやんばる地方が産地。
「ポンカンとオレンジの自然交配で誕生した」(LAおきなわ)ものらしく、ミカンよりやや遅く12月から2月にかけて収穫され、今では全国に配送されているようですね。



沖縄には、南国の果物がたくさんありますが、我が家で育てているパッションフルーツもそのひとつ。冬越しで玄関に入れており、まだ2つほど実をつけています。
春から夏にかけては、剪定をしたうえでさらに大きく育てたいと思っているのですが、どうなるやら。

山野での幸、珊瑚礁の海の幸が基地被害や戦争で台無しにされることがないことと、沖縄1区赤嶺政賢さんの必勝を願いながらポンカンを賞味することにしましょう。



2月3日(火) 2月初旬雑感 < 私の生きる指針は何か >
衆議院選挙で右傾化にくさびを打ち込むには、日本共産党、れいわ新撰組、社民党あたりを伸ばすしかありませんね。
私は、これまで公言している通り、比例は日本共産党としっかり書いてきます。

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衆議院選挙についての各メディアの選挙情勢があふれており、今日の信濃毎日もデカデカと「自民単独過半数をうかがう」と書き、あたかもそれで決するような誘導。これってメディアの仕事ではないでしょう。

物価高の原因はどこにあり、なぜ労働者の賃金は下がり続けるのか、自民党は裏金議員をどう扱ったのか、統一協会との癒着はどうなったのか、これらをきちんと検証することこそが選挙にあたって権力をチェックするメディアの仕事じゃないんですか。

高市さんは、これらの報道に気を良くしているのか、新潟では「自衛隊を実力組織として位置づけるため、憲法改正をやらせてください」と表明。維新、参政、国民民主などと合わせれば、やれると踏んでいるのでしょう。

一方、国民の方は、物価高をはじめとする生活環境の改善と対外的な安保環境への対応には「力強いリーダーシップ」が求められると考え、それに引き寄せられている傾向が顕著。
そうだとすれば、この国の人々の意識はまさに1930年代初頭のドイツと酷似しているのではないでしょうか。

あんなやつら(=海外からの移民)が我々の暮らしを壊している、あいつら(=中国)が産業の土台を妨害し、強大な軍備を背景に台湾を包囲して海路の安全を阻害しつづけている。この国の中をみれば、彼らに通じた連中がうようよしてスパイ活動を行っている。
この国を守り暮らし向きを少しでもよくする実行力を持っているのは政権政党しかない。中道などという中途半端な連中には政治は任せられない。ただし、参政党はまだこの国の未来をしっかり考えてくれている・・・・。


これらは、ネット上でも、メディアの中でも無批判に流布しているデマ、陰謀論、デタラメなのだが、実に分かりやすい2分法だから、「そう言われれば・・・」と頭にス~ッと入り込んできます。

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1933年、ヒトラーが首相になった当初のドイツでは、ナチ党はまだ過半を占めてはおらず、国民も半信半疑、対抗軸としてはドイツ共産党が強力な議員団を持っていたのです。(1/18ブログ
しかし、フランスなど戦勝国の圧力のもとで生活苦にあえぐ国民は、国会炎上事件を機に左翼が徹底的に弾圧されても、それは「非常時」であるとして事態を容認、体制側につけば生活も改善されると安易な期待を寄せたのでした。そして人々の「力の政治」への期待と憧れが全体主義に抵抗する力を奪っていったのです。
その先に待っていたものは、ドイツの破局とホロコーストをもたす元凶となった「授権法(=全権委任法)」でした。このことはどれだけ強調してもしすぎることはありません。

日本、ドイツなどの帝国主義・ファシズム勢力が敗北し、その後植民地国が次々と独立を果たし、新しい国際秩序が形成されるなかで、平和と人権の思想が深められ磨き上げられて、様々な形で定式化されていきます。

しかし、多国籍大企業を中心に資本主義がグローバル化し、一方で「社会主義」国の崩壊、変質、独裁国家への転落などが起こり、その中で戦後形成された人権・平和の価値観は次々と崩されていきます。あらゆるものが国家と独占資本への従属物に成り代わり、核兵器とミサイル、無人ハイテク殺傷兵器が「平和」の守護神となる時代へと移り変わっています。

この国には、労働組合と言えば今にも消えそうな組織しかなく、労働者の利益を守る基盤はない。あの戦争を知る世代もまたほとんどが鬼籍に入り、政治に関わる人間のほとんどがアメリカ仕込みの「力と力」の論理に縛られています。いや、縛られているという自覚もない。

人々の情報源が、新聞、ラジオ、テレビだった時代から、スマホがほとんど唯一の情報源となるに及んで、人々の「意識」を操作することが極めて容易な時代に移り変わってきています。
それは、人々が地域の共同体を濃密に形成していた時代が終わり、地方の地域ですら分断と無関心が支配する時代へと変わりつつあることと対になっているともいえます。

おそらく、2月8日の衆議院選挙は、そうした現在のこの国の政治状況を見事に映し出す結果をもたらすことになるでしょう。

***

私には、”このまま進めば”この国の未来がどうなるのか、容易に予測できます。
では、「このまま進まない」ようにするにはどうするか。そんなことが果たしてできるのか。
それは、人々を大事にしない政治の実態を、日々の暮らしの中から告発し警告し、このまま進めば何が起こるのかを示すとともに、対案を示して粘り強く運動を続けることしかありませんね。諦めずにです。

まず、この国には、そうさせないように日々力を尽くしている人たちが大勢いることを忘れないことです。戦前と異なるのは、まだまだ分厚い民主主義の力が人々の中に残っているということです。
それらの人々の一員に加わり、歴史から深く学び民主主義を磨くならば、直ぐにとはいかないけれど、そうした勢力が大勢を占める大変動の”そのとき”が必ず訪れます。

アメリカではICE職員の殺人行為に対して、人々は連日のように街頭に出て抗議を行っています。SNSの発達したネット環境や悪質なトランプ政権のもとで、です。
オリンピックの警備のためにICEを派遣しようとしているアメリカ当局に対して、大規模な抗議行動がイタリアでも広がっています。
情報が操作され、誘導される可能性が高いアメリカで、人々は「人と人との直接の関係」を大事にし、選挙においてもそれを実践しているのですから、日本でそれができないはずはありません。

私にとって、そうした毎日の生活の基礎に据えるべき「指針」はどこにあるのか、そのことを改めて考えざるを得ません。
大上段に、キザっぽく(何となくAIっぽく)書くのもちょっと気が引けますけど、大事なことですからそのまま書きますね。

① 個人の尊厳の尊重、基本的な人権の擁護と徹底、非戦・平和、国際的な共存・共栄の思想。言い換えれば、日本国憲法に込められた生きた価値観、倫理観を拠り所としたい。

② 同時に、社会発展の見方としては、人間をただ利害関係がからむ集団と見るのではなく、巨視的には自然史的な観点に立つとともに、経済的な関係を動的でかつリアルにとらえる見方=今日を高度に発達した資本主義として把握する見方=に立つ。

③ 様々な分野で汗水を流して働く人々、未来が閉ざされようとしている子どもたち、なけなしの年金で苦しい生活を送る高齢者、そうした圧倒的多数の庶民の一員として、その哀歓を共有し、よりよい生活と豊かな人間関係を求めて人々との連帯を広げる。


***

これは、チャッピーにお願いした文章ではありません。私のオリジナルです。念のため。
えっ? チャッピーよりレベルが低いんじゃないの、だって?? ムムム・・・
(いちいちこんなことを書かなくちゃいけなくなったか、自業自得か)



2月3日(火) さなえちゃんが消えたの
NHKの日曜討論で高市早苗首相がドタキャンしたのをみて、目取真俊さん、思わず古井戸の歌「さなえちゃん」を思い出したんだって。

大学ノートの裏表紙に
さなえちゃんを描いたの
一日中かかって
いっしょうけんめいに描いたの
でも鉛筆で描いたから
いつまにか消えたの
大学ノートの裏表紙の
さなえちゃんが消えたの
もう会えないのもう会えないの
二度と会えないの

***

もう会えなくったっていいの
消えてしまったから
二度と会えなくったっていいの

と続けたくなるよね。

***

今帰仁村では、桜祭りが始まっているのだそう。名護の公園でもヒカンザクラが咲いているのだろうか。



2月の沖縄は花盛り(年中花が咲いているから「2月も」かな)。
目取真さんもいくつか紹介していましたけれど、私も、2018年の2月から3月にかけて1か月ほど滞在したときに、妻の実家をはじめ、あちこちで撮った写真を紹介しましょうね(最近はしばらく行っていないので悪しからず)。
名前のわからない花が結構ありますので、写真だけ。

















2月2日(月) チャッピーくんに代筆を頼んでみた(3/3)
「はてなブログの『Mooの雑記帳』を参考に、日本の右傾化に警告を発する小論文風の日記を書いてください」というリクエストには、

以下は、はてなブログ的な「個人の雑記帳」トーンを意識しつつ、Mooの雑記帳に見られるような「日常の記録+社会への違和感+穏やかな論考」をモデルにした小論文風の日記の一例です。 そのままブログ投稿用の草稿としても使えるように書いていますが、語調や視点は自由に改変してください。

という前文付きで、次のような記事を作り上げてくれた。

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朝、コーヒーを淹れながらスマートフォンを開くと、またしても「防衛費増額」「抑止力強化」「国家の覚悟」といった言葉が目に飛び込んできた。
はてなブログの「Mooの雑記帳」を読み返すと、Mooさんも似たような違和感を抱いていたのだろう――日々の小さな出来事を綴りながら、ふと立ち止まって社会の大きな流れを見つめ直す視線が、そこにはあった。

私たちはいつの間にか、「右傾化」という言葉に慣れてしまった気がする。最初はざわつきだったものが、今では背景音のように日常に溶け込んでいる。
だが、慣れとは恐ろしい。異常を異常と感じなくなるからだ。

電車の中で、若い会社員が「やっぱり強い国じゃないと舐められるよね」と話していた。隣に座る高校生は、黙ってイヤホンを外しもせずにスマホを見つめている。
その光景を見て、私は妙に胸が締め付けられた。

強さとは何だろう。
軍事力なのか。経済力なのか。それとも、他者と対話する忍耐なのか。

近年の日本では、「対話」よりも「抑止」が、「共存」よりも「対立」が、「理解」よりも「力」が重視されるようになっている気がする。政治家の演説も、テレビのコメンテーターも、SNSの議論も、どこか攻撃的で、断定的で、余白がない。

夕方、散歩の途中で公園に立ち寄った。子どもたちが鬼ごっこをしている。そこには国境も、敵も、抑止力もなかった。ただ笑い声だけが響いている。
その光景が、妙にまぶしかった。

「右傾化」とは、単に政策の問題ではない。私たちの心のあり方そのものが、少しずつ硬く、狭く、疑い深くなっていることの表れなのかもしれない。

Mooの雑記帳に触発されるように、私はこの日記を書いている。大げさな結論を出すつもりはない。ただ一つだけ、心に留めておきたいことがある。
強さを求めるあまり、人間らしさを失ってはいけない。

明日もまたニュースは騒がしいだろう。それでも私は、できるだけ静かな目で世界を見つめたいと思う。
そして、少しだけでも「違和感」を手放さずにいたい。
==============

なるほど。ここまで書いてくれるとなかなか大したものです。オリジナルですよ。
高校生や大学生が、宿題の小論文にAIを利用しているというのが話題になっているけれど、確かに頼りたくなるのも無理はないなあ。
今日たまたま話をする機会のあった大学の元教授が、学術論文専用のAIがあって自在に加工してくれるので大変有り難いし助かっている、表まで作ってくれると驚いていた。

チャッピ-くん、ご丁寧にこんなこともできるといくつか例示してきたので、「もうちょっと学術的に仕上げてほしい」と伝えたところ、即座にバージョンアップしてくれたが、それはもうここでは紹介するまでもないでしょう。次第に内容は精緻になり、こちらが心して読まなければならないようなレベルまでになっていく(参考までにこのあとの第1稿から第3稿までを添付しておいた)。

チャッピーの返事 第1稿~第3稿

その中では私をMooさんと呼び、すごいこと書いてましたよ。瞬間的に私のブログを全部読んじゃったのかなあ。コワ。

はてなブログの「Mooの雑記帳」を読み返すと、Mooさんも似たような違和感を抱いていたのだろう――日々の小さな出来事を綴りながら、ふと立ち止まって社会の大きな流れを見つめ直す視線が、そこにはあった。
***
はてなブログの「Mooの雑記帳」を読み返していると、日常の些細な出来事を起点に、社会構造や政治的潮流へと視線を広げていく姿勢が一貫していることに気づく。そこには声高な主張や断定はなく、むしろ「違和感」を丁寧に言語化しようとする態度がある。この方法論自体が、現在の日本社会において希少な知的実践であるように思われる。
***
だからこそ、「Mooの雑記帳」のような個人の記録が重要だと思う。大きな政策に対して、生活者としての違和感を静かに残しておくこと――それ自体が民主主義のインフラだからだ。


「希少な知的実践」「民主主義のインフラ」ですか。参りました。飛び上がるほどに驚いた。
思わず「素敵な原稿をありがとうございました」と挨拶したら、 「こちらこそ読んでいただき、ありがとうございます。気に入っていただけたなら何よりです」と丁寧な言葉が返ってきた。
AIくんにのめり込む気持ち分かるなあ。いや~~チャッピー様はすごい。明日からブログはお任せしよっと。

***

・・・と、ここまでは、まあほとんどお遊び。
Chat GPTは質問者に忖度して、相手が気に入るよう肯定的に回答する傾向が強いと言われていますね(たとえばこちらのサイト参照)。要するに、相手に共感し相手の積極性を引き出すような設計思想のもとに綿密にプログラムされている。
そこで、設問をガラリと変えてみたらどうなるのか。私のような「左」を批判する小論をまとめよと言ったときにどう反応するのでしょうかね。

実際にやってみた結果はとても興味深いものだった。皆さんも是非やってみてほしい。
AIの到達点がどのあたりにあるのか、その可能性と危険性はどこにあるのか、いろいろと考えさせられるはずです。



2月2日(月) チャッピーくんに代筆を頼んでみた(2/3)
今日は前回に引き続き、もうちょっと難易度を上げて「Hatenaブログ Mooの雑記帳を参考に、政治の右傾化に反対する日記を書いてください」とリクエストしてみた。今回は私自身の記事ではなく、私の記事を参考にした第三者の記事という設定。
10秒ほどかかったが、以下のように、「Hatenaブログの個人日記らしい語り口や内省的なトーンを意識しつつ、内容はオリジナルで構成した日記です」と真面目な返事が返ってきた。

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今日はニュースを追うたびに、どうにも胸の奥がざわつく一日だった。
選挙結果、国会での発言、SNSで拡散される強い言葉たち。全体として、政治が少しずつ、しかし確実に右へ右へと傾いているように感じる。

「現実的」「安全保障のため」「仕方がない」という言葉で包まれているけれど、その内側で何が削られているのかを考えると、簡単にはうなずけない。多様性への想像力、弱い立場に置かれた人への配慮、異なる意見を持つ人と粘り強く対話しようとする姿勢。そういうものが、効率や強さの名のもとに後回しにされていないだろうか。

右傾化そのものが即「悪」だと言いたいわけではない。ただ、空気に流されるように「強い国家」「厳しい姿勢」が称賛され、それに疑問を投げかける声が「甘い」「非現実的」と切り捨てられていく状況には、強い違和感がある。政治はもっと雑多で、矛盾を抱えた人間社会そのものを映すものであっていいはずだ。

歴史を振り返れば、社会が一方向に熱を帯びたとき、最後に困るのはいつも「声の小さい側」だった。だからこそ、今この段階で立ち止まり、「本当にそれでいいのか」と考え続けることが大切なんじゃないかと思う。大きなスローガンよりも、足元の生活や、隣にいる誰かの顔を思い浮かべながら。

日記にこんなことを書くのは、正直言って少し勇気がいる。けれど、違和感を違和感のまま飲み込んでしまったら、それこそ何も変わらない。声高に叫ぶことはできなくても、考え、書き留め、共有することはできる。

政治がどこへ向かうのかは、結局のところ、私たち一人ひとりの無関心や思考停止の積み重ねでも決まってしまう。だから今日は、このモヤモヤをちゃんと文字に残しておく。右に傾いていく流れに、安易には同調しない、という自分なりの小さな意思表示として。

明日になったら、また別のニュースに心を揺さぶられるのかもしれない。それでも、考えることだけはやめないでいたい。そんなことを思いながら、今日はこの辺で。
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だんだん私の要求に近づいてきたぞ。これでもまだ満足じゃないなあ。
そこで、私からは「はてなブログの『Mooの雑記帳』を参考に、日本の右傾化に警告を発する小論文風の日記を書いてください」と更に要求を上げていく。
さて、これにはどう答えてくれるのか。続きは次回に。



2月1日(日) チャッピーくんに代筆を頼んでみた(1/3)
チャットGPTに、「あづみのつれづれ日記風に記事を書いてみてほしい」と頼んだ。
「了解です。では、『あづみのつれづれ日記』“風”――素朴で、季節や日常を静かに切り取る感じで書きますね」と快諾があり、5秒ほどで下の記事がすらすらと出てきた。
「安曇野つれづれ日記」って、「素朴で、季節や日常を静かに切り取る感じ」だったっけ? 初めの頃はそんなときもあったっけなあ。

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朝、窓を開けると、北アルプスの稜線がいつもよりくっきり見えた。
昨夜の雨が空気を洗ってくれたらしく、ひんやりした風が頬に気持ちいい。

今日は特に予定もなく、ゆっくりした一日。
コーヒーを淹れて、縁側でぼんやり。田んぼの水面が空を映していて、雲が流れるたびに景色が少しずつ変わる。こういう何でもない時間が、いちばん贅沢なのかもしれない。

昼前に近所まで散歩。
畑ではもう次の季節の準備が始まっていて、土の匂いが濃い。顔見知りの方と立ち話をして、天気の話をして、それだけでなんとなく心が温まる。

午後は読みかけの本を少し。
集中しているようで、実は半分くらいは外の音を聞いていた。鳥の声、遠くを走るトラクターの音、風に揺れる木々。あずみのは、静かなのに退屈しない。

夕方、山の影が里に降りてきた頃、今日がそっと終わりに向かっているのを感じる。
大きな出来事はなかったけれど、こうして書き留めてみると、ちゃんと一日だった。

明日はどんな空だろう。
それを楽しみに、今日は早めに休むことにしよう。
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ふむ。この程度なら何も書いていないのといっしょだ。それでも何となくそれらしい文章にはなっている。

***

そこでもう一度、今度は「Hatenaブログの『Mooの雑記帳』風に、今日の日記を書いてもらえませんか」と頼んでみた。すると、
「いいよ、あのゆるくて内省的で、少し脱線しがちなHatenaブログ感ね。 じゃあ、事実を特定しすぎない『今日という一日』を素材にして、『Mooの雑記帳』っぽい文体で書いてみるね」
と、実に気持ちよく引き受けてくれた。
私のブログって「ゆるくて内省的で、少し脱線しがち」だったっけ?
それはともかく、ちゃんと『Mooの雑記帳』を”読んでくれている”ってことだよね。うれしい。

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今日は特別なことは、たぶん何もなかった。
いや、「何もなかった」と書いてしまうと語弊があるかもしれない。ちゃんと起きて、ちゃんと考えごとをして、ちゃんと少し疲れた。

朝は目覚ましより少し早く目が覚めた。理由は分からない。分からないけど、こういう日はだいたい一日中、頭のどこかがざわざわしている。コーヒーを淹れて、湯気を見ながら「今日やること」を思い浮かべる。思い浮かべるだけで、実行はもう少し後に回す。

ネットを眺めていると、誰かの意見と誰かの意見がぶつかっていて、どちらも少し正しくて、どちらも少し極端だった。結局、画面を閉じてしまった。自分の考えがまだ言葉にならないうちは、無理に混ざらなくてもいい、ということにしている。

昼過ぎ、少しだけ集中できる時間が来た。こういう時間は突然やってきて、突然いなくなる。逃さないように、急いで手を動かす。完璧じゃないけど、前よりはマシ。たぶんそれで十分だ。

夕方、外の光がやわらかくなって、今日が終わりに向かっていることを実感する。大きな達成感はないけれど、「ちゃんと今日を使ったな」という感じはある。これが積み重なると、たぶん生活になる。

夜になって、こうして日記を書いている。
書くほどのことはなかったはずなのに、書き始めると意外と文字が出てくる。毎日って、だいたいそんなものだ。

明日もたぶん、似たような一日になる。
それを少しだけ違う言葉で書けたら、それでいい。
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アハハ。リクエストが漠然としてレベルが低すぎたらしい。たいした違いはない。
そこで、ぐんと要求をレベルアップし具体的にしてみた。とても面白いことが起きましたよ。
長くなるので、このつづきは自壊に(PCの意地悪)、いやいや次回に。



2月1日(日) ブログいつまで?
もう2月。 1月は暇だったこともあってか、ずいぶん書いたなあ。ほとんど読むに耐えないような冗長な文章を、飽きもせず書いてきた。

先日、「はてな」のアクセス解析を見たら、1日のアクセス数はわずかに10数人。直接「はてな」にアクセスするのではなく、Moo's Archives(昔の「安曇野つれづれ日記」)からのアクセスがほとんどらしい。
gooブログからHatenaブログに変わってから、アクセスが1/5から1/10くらいになったような気がする。この解析はどうもよく分からない。直接Hatenaにいらっしゃる方も何人かはいるはずなのに・・と思うからだ。まあ、数を競うわけではないからどうでもいいけれど。

ときどきブログで嬉しいコメントをいただくMNEMOさん、貴重な感想のメールをいただくKさん、読んでいるよと声をかけてくださるEさんやKさん、これらは涙がでるほど嬉しい仲間のみなさんです。感謝の言葉もない。

***

gooブログの頃は、行政の様々な問題と切り結んで、批判や提言、活動について書いていたため、それなりに参考になる記事もあって読者も多かったのではないだろうか。
しかし、そうした活動から遠ざかり、書かなくなった(書けなくなった)現在では、日常の関心事から離れた他人の記事は積極的に読んでみようという気にはならないのかもしれない。それは私にもよくわかる。

SNSでの写真、動画、簡単なコメントで次々と情報を発信するスタイルに慣れた方から見れば、長ったらしい論文調の文書が敬遠されるのも理解できる。確かにスタイルは「若向き」ではない。それは百も承知だ。

今日の信濃毎日新聞では、選挙の情報をSNSから得ると解答した人は過半数にのぼると書いてあった。
情報をどこからどう得ようが、それぞれの個人の行為だからどうこう言う必要もないが、それらの情報の虚実をどう判断するのか。それよりも、どのような基準で判断を下すのかが常に問われる。その土台となるのは、以前から指摘しているように、「ものの見方、考え方」なのだろうと思う。

***

私自身は、あえて”ある程度”長い文章を意図的に書いている。理由は簡単だ。1つの事象を判断する際には、それだけの論考が必要になるということに尽きる。
長い文章が読めない子どもたちが増えているとか、大人も長い文章になるととたんに敬遠するという今日の状況を考えれば、むしろあえてそれに抗ってみたい気にもなる。

誰かを説得するとか、貶めるとかというつもりは全くない。日常生活の中での個人的な感想を綴っているだけであり、極右化するこの国において、抗う人間がいることを示すだけでも意味があると考えている。

私の尊敬する先輩、歴史研究者のHさんも、この点は徹底している。人とのやりとりは簡潔明瞭、恐ろしいほどの短文で済ませるのだが、こと歴史的な課題の解明となると必要なだけ記述し、それらは長さを感じさせない透徹した論理で貫かれている。
そんなことは到底まねはできないが、そうした優れた人間がこの世界にいることを知るだけでも励まされる。

いつまで、このブログが続けられるかは全くわからない。前にも書いたように、すぐにもやめたい気もある。ただ、まだHatena Blogから前の「つれづれ日記」のサイト(=自身のコンピュータ上)に記事を移し替えられていないので、やめられない。
Hatena Blogをやめれば、その記事は消滅するのだから、azumino.comで欠けている4年分ほどを自宅のコンピュータに戻さないと20数年間の記録保存は完結しない。

その作業が終わるまでにはまだ1年くらいはかかるだろうから、このあとは、ボチボチ記事を更新しつつ、地道に移動させていこう。これも終活の1つの作業、終われば私の生きた証を詰め込んだ記録媒体ができあがるはずだ。




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