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名作の舞台
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〜16〜 2002.01.30
寺島尚彦作曲 「さとうきび畑」
平和希求の名曲


 沖縄戦の悲しみを思う時、だれもが思い出す「さとうきび畑」の歌。夏の日差し、広いさとうきび畑、風。そして、海の向こうからやってきたいくさで、鉄の雨にうたれ死んでいった父―。沖縄戦の歌としてあまりにも有名なのに、だれが作ったのか知られていなかった名曲だ。
 作ったのは洗足学園大学元教授の寺島尚彦=神奈川県川崎市在住=である。初演は一九六七年。六九年、森山良子がレコーディングし、さらに七五年にNHK「みんなの歌」でちあきなおみが歌い(後に、森山良子バージョンも)広く知られるようになった。沖縄ではいつしか観光バスガイドたちが歌うようになった。
 沖縄の人が作ったと思われてきた。寺島の二女でソプラノ歌手の夕紗子(ゆさこ)は、東京で喜納昌吉と共演した機会に「さとうきび畑」が話題になり、「父が作ったんです」と話したところ、「じゃあお父さんはウチナーンチュか」と言われたという。全国各地で歌を通して反戦平和を訴えている海勢頭豊は「さとうきび畑」のリクエストをよく受ける。「私が作ったと思っている人がいっぱいいますよ」と苦笑いする。

写真:風に揺れるサトウキビの花は沖縄の冬の風物詩。戦後の復興・発展とともにサトウキビも世代をつないできた=糸満市



 作曲家寺島尚彦誕生

 寺島尚彦は一九三〇年に生まれ、東京で育った。音楽の環境には恵まれていた。母が琴や三味線をやっており、九歳年上の姉が東京音楽学校師範科に通っていて、家にピアノがあった。姉の楽譜を引っ張り出し、けん盤を触って音を探した。小学校五年の時、初めて五線紙に曲を書き、詩もつけた。これが最初の作品ということになる。
 太平洋戦争当時、家は現在の新宿区で、農村の雰囲気が残る新興住宅地のはしりのような地域だった。父は既になく、ほかの家族は群馬に疎開し、兄と二人で東京の家を守っていた。
 中学生の尚彦少年は、警戒警報が発令されると、暗やみでひたすらピアノを弾いた。警防団から「非国民だぞ」と怒鳴られたが「ピアノの音は敵機までは届かない」と反論し、弾き続けた。
 戦争が終わり、高校生になった寺島は、建築家を目指して受験勉強に励む。「大学に受かるまで音楽はやめろと家族から言われていた。でも、夜中でもメロディーが出てくるから五線紙を隠して作曲していた。島崎藤村や北原白秋の詩に自分で曲をつけながら」。ある時、受験勉強はむなしいと思い始める。「楽譜を持って音楽の先生に相談に行ったら、『私は作曲は分からないから』と東京芸大の作曲の先生を紹介してくれてね。楽譜だけ持って訪ねたのが池内友次郎教授宅だった。教授は楽譜をじーっと見て『芸大を受けなさい。君は入ります』と言ったんです」。受験の前年の暮れのことである。土壇場の進路変更だった。
 大学卒業後は、テレビやラジオのドラマ音楽の写譜をしたり、シャンソンの伴奏をしながら作曲を続けていく。「あいつはポピュラーに成り下がったと言われたこともあった。しかし音楽にジャンルはない。あるのは、いい音楽と悪い音楽だけ。音楽の現場はいつも生きている。少しでも心に入ってもらえる曲を書かなければ…」



 「ざわわ」の誕生

 六四年六月十九日から二十一日、沖縄音協に招かれたシャンソン歌手、石井好子の伴奏者として初めて沖縄を旅した。その時、南部戦跡を回り、海の見えるサトウキビ畑でインスピレーションを受け、後に「さとうきび畑」が生まれる。
 「摩文仁の丘に続く一面のさとうきび畑は私の背丈(せたけ)より高く、その中に埋もれるようにして歩く私に、戦跡案内をしてくれた人の言葉が天の声のように降りかかる…『あなたの歩いている土の中にまだたくさんの戦没者の遺骨が埋まったままになっています』。美しく広がっていた南国の青空はその瞬間モノクロームに一変し、ただ頭越しに轟然(ごうぜん)と吹きぬける風の音だけが耳をうち私は立ちすくんだ。その風の中に戦没者たちの怒号と鳴咽(おえつ)を私ははっきりと聞いたのである」
 この時の打ちのめされた感覚を持ち帰り、怒涛(どとう)のように聞いた風の音をどう表すかと悩んだ。「ザワザワのようにうるさいだけでもなくサワサワのように爽(さわ)やかでもなく、『ざわわ』にたどり着いた時、一年半の月日が過ぎていた」とエッセーで振り返っている。
 「ざわわというのは通り過ぎていく風の音だけど、まだちょっと軽いんじゃないか。しかし、もっと重い言葉では音楽的ではない。それなら、たくさん繰り返すことで広さとか意味の深さを表そう」。こうして「ざわわ」を六十六回も繰り返す、十分を超える曲になった。「もどかしいようだけど、かみしめることにもなる。一つの賭(か)けではあった」
 賭けは成功した。
 九五年の慰霊の日、テレビの撮影で三十一年ぶりに沖縄を訪れた寺島は、記憶をたどってあのサトウキビ畑を探した。そして「平和の礎」こそが、その場所だったと確信した。
 昨年十二月、今年一月と続けて沖縄を訪れ、初めて銀色に輝くサトウキビの花を見た。「きれいですね。ススキよりずっと端正で…。触ってみました。針金みたいに強いんですね」
 サトウキビの花のりりしさ、しんの強さから沖縄の心と沖縄の希望を感じた。今、新しい平和を求める歌のイメージが寺島の中で胎動している。
 (敬称略)
文・米倉 外昭
写真・高里 宏志
写真:あのサトウキビ畑は祈りの場所となった。「海岸の風景は37年前と変わっていません」と話す寺島尚彦さん=昨年12月、糸満市摩文仁の平和の礎
 相次いだCDリリース
 昨年2月に寺島尚彦の二女、夕紗子(ソプラノ)が、自分が生まれる前に父が作った曲をCDに。これが話題になり、NHKテレビ「そして歌は誕生した」で8月に放映された。森山良子は32年ぶりとなる完全版をCDリリース。沖縄出身の盲目のテノール歌手新垣勉もCDを出した。
 各地でファミリーコンサート
 昨年9月に佐喜真美術館で寺島夫妻と2人の娘によるファミリーコンサートが行われ、反響を呼んだ。今年も全国各地で予定している。6月29日には、糸満市摩文仁の平和祈念堂でコンサートを開催することが決定している。

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