4月も半ば、日中は暑いですが、朝夕はやっぱり寒い。長野県は何処でも桜の花が満開。この時期はいろんな花が一斉に咲き、今が一番綺麗な時期です。早い所では田んぼにも水が入りました。暑くなったり寒くなったり体調も狂いがちです。
沖縄から来た人が「信州はやっぱり寒い、鼻水が出てきた」と言っていました。それは本日の公演の為に沖縄からはるばるやってきた「北島角子芝居」の一行の話です。
2月に「沖縄の為に働きたい」と故郷への移住を決意したと新聞報道が縁でNさんを訪問した際に今日の催しを紹介されました。
今日の催しの主催団体である「信州沖縄塾」が上田で開設されて今年で10年になるそうです。それを記念するイベントが「北島角子ひとり芝居」。
北島さんは昔から沖縄芝居の役者として活躍されていて名前だけは知っていました。「もう随分お歳だから今のうちに見ていた方がいいよ」と勧められたのです。残念ながら今まで一度もお目に掛かった事がないので、今日は夫と共に出かけました。
83才という北島さんは写真よりも若い感じでした。ひとり芝居の合間を埋めるのは舞踊と朗読。
沖縄は琉球王朝時代から舞踊家が多く、嬉しいとき、哀しいときいろんな場所で盛んに踊っていたようです。その名残で沖縄舞踊は今でも盛んです。高校でも芸術クラブがあるそうで、また沖縄県立芸術大学も入学希望者が多く、本土からの入学者も多いようです。今日の踊りと朗読をされた方もその大学を卒業された方で専門分野で活躍されています。
朗読は「6月の空」という絵本で、50数年前の宮森小学校の米軍機墜落事故を描いた絵本です。映画「ひまわり」はその絵本を元に作られたそうです。
北島さんの「ひとり芝居」は「にっぽんじん?」と言うタイトルで戦前から今に至るまでの話をほとんど方言(ときどき日本語)で孫のお友達に聞かせるという内容でした。
あらすじ:「琉球処分から141年、ウチナーンチュもりっぱな日本人になろうと頑張ってきたのに。ウチナーグチ(沖縄方言)は野蛮だからヤマトグチ(標準語)を使いなさいと無理矢理指導された。
沖縄人は一等落ちる日本人と非難されながらも沖縄戦では『立派な日本人として闘え」と、そして親兄弟の命まで奪われ、哀れの限りまでしてやっといくさが終わったら今度はヤマトからから捨てられアメリカ世ーさー。
それから27年もしてから「祖国復帰」で万歳したのに。え〜でも見て下さいよー、この沖縄の現状を・・・。
ウチナーンチュは日本人ですか。私たちは一体何人なのでしょうか。
これをほとんど方言でやるので夫や本土の人はどれくらいわかったのでしょう。前後のつながりでだいたいはわかるかも知れないが細かいことを知って笑ったり、泣いたりしたのは沖縄出身者でしょうね。
親の時代の人たちが「日本語」を強制されていて(そんな強制があったとは知りませんでした)も方言は絶えませんでした。ですから私たちも方言は使ったし、小学校の頃まで『方言札」と言って方言を使った人に札を首からかけさせられるという方言撲滅の名残がありました。
こんな琉歌があります。
♪うちなー世(ゆ)ーからヤマトの世ー、ヤマトの世ーからアメリカ世ー・・・・。
時代を風刺した歌です。アメリカ世ではお金はドルを押しつけれアメリカ人のやりたい放題に口も出せませんでした。しかし、英語は強制されなくて方言はしっかり残っています。しかしまたヤマトの世になって方言が絶えようとしています。今の子どもたちは方言を知らない子が多いそうです。私の同期の人がボランティアで学校に指導に言ってるとか。
北島さんは沖縄の「しばいしー」(芝居人・役者)と言って方言芝居をずっと続けて来た人です。ですから昔の首里言葉(上品)は私たちにも理解できない部分がありますがとにかく方言がお上手です。沖縄戦のことを後生に伝えてから死なないとグソー(あの世)に言ってから先に逝った人に叱られると言ってました。
沖縄の現状はあまり報道されません。いま琉球朝日放送が制作したいくつかの記録映画がいま各地で自主上映されつつあります。今日の上田劇場に来た下さった方々はどのようにとらえたでしょうか。最後にかちゃーしー(きまりがなくて適当に音楽に合わせておどる踊り)を会場全員でおどり盛り上がりましたが。沖縄は本当に見捨てられたのでしょうかね〜。でも宜野座さんという方が沖縄のいろんな運動の状況を話されみんな頑張っているんだと元気づけられました。しかし、若くもない人が沖縄に帰って果たして何が出来るのか少々考えさせられました。
夜町内の寄り合いが無ければもう少し交流が出来たかもしれなかったのですが、急いで帰宅したので残念でした。