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  11月29日(水)
今回の風邪は「ノロウイルス」によるもので主に腸の異常をもたらすものらしい。どこでどのようにかかったのかは定かではありませんが、ともかく峠は越えました。
しかし、まだお腹は正常ではなく、柔らかく消化の良いものだけしか受け付けません。何しろお腹が空かないのです。もう少し我慢するしかないようですね。

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27日の信濃毎日に、数学者秋山仁さんの「学生の熱意 日中の差」と題する一文が載っていました。
秋山さんはあの「さすらいの数学者」然とした風貌でテレビでも有名ですが、きわめて多面的かつ精力的に活動をしている尊敬すべき人物。かく言う私も講義の内容に結構ご厄介になった口です。
その寄稿文の中で秋山先生は中国の天津市にある南開大学に招かれて数学の集中講義に行ったときの模様を書いています。

一週間朝から晩まで講義をして報酬が約4万4千円という信じられない低額にもかかわらず、秋山先生は講義を引き受けます。「それには理由がある。学生たちが本当に熱心で真剣だからだ」
その意欲たるや秋山先生に「授業のはずが、国際学会さながらの真剣なやりとりを期待している」と言わしめるほど凄まじい。コトバはどうしているのかなと思って読んでいると「私の下手なアクセントの英語での授業も目を輝かせて聞いていて、全員理解しているようだった」
秋山先生は、その文の中で、中国にでかける数日前に日本の高校や大学で行った講演の模様についても書いています。いわく「残念ながら、中には毎年成人式で報道されるような『無法状態』のところもあった。話を聞かないどころか、歩き回り、先生も一緒に騒いでいるところすらあった。うつろな目をし、聞く耳を持たない若者たち・・・」という、これまた何と形容していいかわからないほどの無惨なありさま。

秋山先生が中国の学生たちについて一番感じたことは「高等教育で学ぶ機会を持てたことを、親や家族、社会に対して感謝していて、この機会を最大限生かして、人のためになる人間になろうという気概を抱いていることだった」
昨今の中国たたきが強まる風潮のなか、この日中の青年の差を私たちは何ととらえたらいいのでしょうか。日本の青年の姿については確かに一面的な描写という指摘もあるでしょう。中国の一般的な高校や大学で講演をしたらどうだろうとか、日本でも数学科で講義をしたらどうかということについて秋山先生は書いていませんから。でも私にはわかります。秋山先生はポイントを押さえています。
私が一年前知り合った中国の女の子(高校を卒業し就職したあと日本の企業に研修に来ている)の日本語に対する熱意、学習意欲と言ったら、日本の学生の比ではありませんものね。

日本の学生の状態を嘆くばかりでは何の解決にもなりますまい。私に言わせれば今の中国の学生たちの姿は日本の60年代の学生の姿にダブって見えます。私が大学に進学した1964年からの数年間は学生運動の高揚期ということもあって、社会的な関心だけでなく学ぶと言う意味でもそれは凄まじい勢いがありました。自主的に講座を開いたり、研究会を持ったり、社会科学と自然科学の交流をはかったり・・・。ちょうど秋山先生が中国の学生について指摘するような局面がみられたのです。

だとすれば、単純に同時代だとして、切り口を揃えてみたところで批判にも、比較にもならないことは明らかです。このことについて秋山先生は次のように書いています。
「この1ヶ月あまりに接した中国と日本の若者たちを思うと、初等・中等教育の段階で若者に要領や損得の価値観をすり込むのではなく、それぞれに未来への希望を抱かせ、それを努力によって実現していく術をキチンと応援して身につけさせることが大人の責任であると、帰りの機中でつくづく思った」

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しばらく雨模様のぐずついた天気でしたが、今日はようやく日ざしが見えました。2週間ぶりにお花の教室に出かけてきました。 この前準備しておいた二つの作品を仕上げる日です。
行くとさっそく「来月初旬からクリスマスの展示が始まるのでよろしく」というご挨拶。出展をしてほしいということです。予定はしていましたから、今作っているプリザーブドの3点セットを出すことにして、クリスマスっぽいものに多少手直しをしました。
明日あたりから蔓の材料を取りに行って「明かり展」とこちらの展示会の両方の準備です。ちょっと集中しないと間に合いません。



最近の作品のページ


  11月26日(日)
息子とその嫁さん、生まれたての長女。娘と二人の子ども。2,3日滞在してまた帰って行きました。
私たちが結婚して35年になるわけですから、還暦というのは実に重い実感のあるコトバです。
新築祝い、子どもの誕生祝い、私の還暦祝い、息子の結婚祝い、私たち夫婦の結婚35周年記念・・・などいろいろと理由をつけての家族大集結。孫たちの泣き声でにぎやかになった我が家も過ぎてしまえばまたもとの静けさ。このあとはゆっくりと過ぎし日のあれこれを思い出し、これからの糧にすることにしましょう。

ところで、みんなが帰って行ったあと、私と妻はホッとしたせいか、あるいは風邪なのか激しい嘔吐や腹痛、発熱に見舞われて一日ダウン。体の節々が痛くて歩くにも支障が出る始末。それにしてもこんな症状に見舞われたのはほとんど例のないこと。とにかくしばらく安静にしていることにしましょう。

年末になるととどく年賀の欠礼状。今年も何通か届いていますが、その中に中学一年のときの担任の死去の通知がありました。
思えば、私が大学で数学科にすすむことになる遠因を届けてくれた女性教師でした。その妹さんには仙台でひとかたならぬお世話になりました。中学・高校・大学、悩める私をそっと見守ってくれた人でもありました。ご冥福をお祈りいたします。


  11月24日(金)
作家の灰谷健次郎さんが亡くなった。彼の本で妻と読んだ最後の本が「風の耳たぶ」。日本画の大家・藤三と長年連れそう妻ハルの死出の旅路でのやりとりを人情味溢れるタッチで描いたもの。それまでの灰谷文学の範疇ではとらえられない新境地を感じたものでした。
彼の著作は「天の瞳」以外はほとんど読んでおり、何かにつけて強烈な刺激を受け続けていました。差別や管理主義などの非教育的な営みに激しすぎるほどの潔癖感を持ち、それゆえいささかの反発も感じながら、それでも底なしに「にんげん」を信じるその姿勢には深く共感を持って接してきました。72歳と言えばまだまだこれからの人。その訃報が残念でなりません。

ひさしぶりに「評論家」らしい「評論」が信濃毎日に載りました。大宅映子さんの「わかり難い教育基本法改正ー不毛な論争脱却を」と題した一文です。
この教育基本法改定問題をわかりにくくしている理由は「教育改革論争の形をとりながら実は保守対革新のイデオロギー論争だからである」と彼女は述べます。そして「改正派はGHQの押しつけで日本人魂はぬきとられたなどと、よく恥ずかし気もなくいうものだ。押しつけだって良いものならOK」「反対派は愛国”心”を国が強制するのかと、既に祝日法にも学習指導要領にも明記されていることにこだわり、”戦後”から動いていない。それどころか個人主義を利己主義にすりかえるなど、本来の基本法の理念をねじ曲げた責任も重大だ」というのです。結論は「改正案がよくなったとは全然思わない。一日も早い具体的一歩を望みたい」とわけのわからないところに落とし込む。子どもたちの実態、教育現場の実態と教師たちの苦悩は彼女の「評論」の範疇には存在しないようです。
翻って国会での審議の模様。桝添さんのあいかわらずのテイノーやらせ質問だが、その引き出している答弁からはいろいろと面白いことがわかってきます。
桝添さんは聞きます。「なんで改正するの?」
安倍総理「教育の機会均等、学力水準は大幅に向上したが、核家族化が進み、ぬくもりのある地域社会が姿を消しつつある。新しい時代に合った理念、原則を定めた」。伊吹文科相「日本特有の規範意識を復活させ、世界共通のモラルを維持する努力をすることが根本哲学だ」。ぬくもりを消してしまった大本はどこに? 「道徳・規範意識のない者ほどそれについて饒舌になるものだ」というのはやはり真理です。


  11月22日(水)
比較的あたたかい晩秋のせいか、今朝も濃い霧が辺り一面にたちこめて、車はすべてライトを点灯して走っています。
知人からの依頼で午前中、データベースの構築のお手伝いにでかけました。その帰り道、午前10時頃になってもまだ田圃からもうもうと湯気(蒸気?)があがって濃い霧となって流れていきます。
池田町は標高600メートルくらいあり、我が家はさらに山に登ったところにあるわけで、霧なのか雲なのかさっぱり区別がつきません。ともかく、昼夜の温度差が大きくなるこの時期は霧の季節です。

明日から娘が子ども二人をつれて、息子が嫁さんと子どもを連れてやってきます。
今日は妻が観劇のために東京に出かけており夜遅く帰宅する予定なので、母の面倒をみながら掃除などをやっておりました。母に食事を食べてもらいながらテレビを見ていましたら、崖の途中に入り込んだ降りられなくなった一匹の犬を17人のレスキュー隊が出て救出するというのんびりした番組をやっておりました。50人の住民と50人の報道陣というアイドル並みの報道です。
犬の話題では今まで見られなかった狂犬病患者が今月に入って二人も出たというニュースがあり、いのししが人にぶつかってきたり家に侵入したりという話もありました。何だか人間だけでなく動物も生きにくい時代になってきているのですかねえ。例の犬については全国から約30件の「ひきとり」申し込みがあるそうな。一縷の希望も・・・。
ひるがえって我が家のネコのハルちゃん。夕方何かをくわえてそそくさと帰ってきました。すぐに家のどこかに隠れて何かしています。あれこれ探してみるといたいた。どうやら小さいネズミを捕まえてきて、いじっているらしい。ネズミはすでに死んでおり、あっちへくわえていったり、こっちに連れてきたりと忙しい。何とかつかまえてネズミを取り上げて捨ててきました。
しかしよく考えてみると、ハルちゃんにしてみれば初のネコらしい捕り物に成功したわけです。こりゃ目出度いことじゃないですか。ね、ハルちゃん。

ところで郵政民営化に反対した議員の復党問題のニュースを見ていると、よくまあこんな低レベルのことを平気でやっていると呆れるばかり。年内決着をいそぐ理由が政党助成金問題とあっては、もう根腐れ以上のものがあります。タウンミーティングでの金の動きを見ていても同じことを感じます。
けんかしている高校生にワゴン車が故意に突っ込んだというニュースに報道ステーションの古館さんが「壊れていますねえ、人の心が・・・」とため息をついていました。日本中何かが壊れてきているとしたら、その大本はいったいどこにあるのでしょうか。


  11月17日(金)
自民・公明両党による教育基本法改定のごり押しを見ると、日本の支配層がいかに国民をなめきっているか、いかに大きな矛盾を抱えているかがよくわかります。
彼らのやり口は今に始まったことではないので驚くことはありませんけれど、このまま参議院でもすんなりと法案が通っていくなら、将来この日が憲法改悪への第一歩を記した日として永久に黒い枠で囲まれた日になるでしょう。そしてまた、なぜ日本の国民がやすやすと戦争への道を許したのか、将来の国民から必ず指弾されることになるでしょう。日本がまともに残っていればの話ですけれど。
ええ??それほど大きな問題ではないと??目くじらたてるほどの問題ではないのだと言うのですか??
この日は、戦後60年経って、日本の保守層とアメリカの支配層がノドから手が出るほど欲しかった、待ちに待った日ではないのですか。先の総選挙で圧倒的多数を確保した自民・公明だから、今こそ「歴史的一歩」を踏み出す時だと彼らは考えているのでしょう。
全国で次々と中学生が自殺している。15歳に満たない子に「生きることに疲れた」と言わせるこの信じがたい現実。この子たちの無言の抗議と言いしれぬ苦しみと悲しみが、この教育基本法に少しでも反映されているとでもいうのでしょうか。事態は全く逆でしょう。
金を払って教育基本法の改悪を買う政府のどこにまじめさがあるのでしょう。労働条件の悪化を加速させることで家庭を壊してきた当の本人が家庭をもっと大事にしなければならないという茶番。校長の権限を果てしなく肥大化させ、学校から自由で闊達な雰囲気を破壊した責任は不問に付されて、あくまで教師の責任とされる。どれだけの教師が精神や健康に障害をきたして学校から去っているのでしょう。
教育基本法の改悪案をつぶさに見てみましょう。どこに、自由で希望にみちた学校が想像できるのでしょうか。
この後の法案は??自衛隊の防衛省昇格法案。憲法改悪案を通すための国民投票法案。共謀罪法案。おやおや、もう戦時体制はすぐそこではないですか。
このまま参議院で教基法改定案を通してよろしいか。断固として否と声を出して抵抗すべき時です。

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さて、11月も半ばを過ぎてもう冬の足音が聞こえてきました。北アルプスの雪はかなり下まで降りてきています。紅葉もほとんど終わって、山道にはびっしりと落ち葉の堆積。
今日はかつて母といっしょに学校に勤めていた方がわざわざ富山から訪ねて来てくださいました。たちの悪い校長であったために、上司であった母からいろいろと助けてもらったという話をたくさん聞かされました。いろんな面をもった母ではありましたが、正義感の強いところがあって言うべきことはきちんと主張したところは私も認めます。当時日教組つぶしが激しかった時期で結局その学校で残ったのは母とその方を含めて3人であったという話も。


その方といっしょに母を宅老所に送り、その後いくつかの観光地をめぐりました。
最初に、ふと思い立って大町のヒーリング・ガーデン「La Casta」というところに行ってきました。一度のぞいてみたかったところです。
かなり大きな庭を持つ洋風施設があって、四季に応じてゆっくり散策を楽しんだり、香り、化粧などのアロマテラピーが楽しめるところです。
入場料が高いだけあって、手入れは行き届いており、高級感溢れるたたずまい。大町の田園風景の真ん中にいささか場違いな感じではありますが、非日常的な雰囲気を楽しめるわけですからそれなりの意味があるともいえます。それにしても、こうした洋風嗜好がやっぱりカッコいいんでしょうねえ。私の中にも結構しみこんでいますから。
同時に、私としては、こうしたアロマの雰囲気を日常にしたいと願っているので、もう一度ゆっくりそこに行ってコーチしてもらうことにしますか。それにしてもこの施設、「花とハーブ」の池田町ではなく、大町に存在することがいかにも皮肉っぽい。




  11月16日(木)
12月中旬から大町の食事処「わちがい」で、初めての「あかり展」がひらかれます。冬の大町は寒く人通りも少なくなり、店も閑散とするので、少しでもお店にあたたかさを感じさせるものを置きたいというお店の女将さんの願いから、この冬実現の運びとなったものです。
どういうわけか私にもお誘いがあって、打ち合わせに出かけてきました。そこに集まった人たちはその道のプロばかり。私のようなシロウトかつ甘ちゃんはいない。
鉄工芸、ガラス工芸、七宝、和紙、木工・・・といったクラフトの専門家があつまって「あかり」をテーマにお店を飾ろうという趣向です。
私が出品できるのは「つる工芸」+ちょっとしたドライフラワーですから、かなり恥ずかしい。しかも、12月に入らないと「つる」は収集できないので相当につらい展示会になります。
それでも今年は、この「あかり展」をひとつの引き金にして、これまでにないつる細工を考案してアッといわせてみたいですね。どうしたらいいのかサッパリわかりませんが、12月に入ったら1ヶ月ほど夢中でとりくむことにします。
質の高い丸いランプシェードは人気があるので、これは欠かせないとして、どんな形のランプシェードを作って本命の展示にするかこれからが思案のしどころです。
カゴにいれたドライフラワーを中から明かりで照らして変化を付けるという趣向もおもしろいかな。
それにしても、こうしたいろんな人たちと交流したり、刺激を及ぼしあうのは何とも緊張感があってよい。乞うご期待です。


  11月13日(月)
塾でのこと、中一生が「学校で放火があった」というのでよく聞いてみると、ある生徒が放火というより紙くずに火をつけたらしいということ。その子は人のものをよく盗るらしいし、とにかく気持ちが悪いのだそうだ。「そんなに決めつけたらいけないんじゃないかい」「味方になってやれないの?」と聞くと「そんなんじゃない。とにかくキモイ」という返事が返ってきた。
実際にその子を見ているわけでもないし、どんな事態になっているのかは全く判断はできませんが、中一の生徒達の心理状態というか、日常のものの考え方というかが何となくわかってきた。
どうやら彼らは自分の感覚でとらえたことを絶えずまわりの気心の知れた子たちに発信し続け、その同意・不同意を見極めつつ、力関係に応じてその感覚的判断を蓄積していく。そうするうちに、自分で見極めたり、判断したりすることが不得手となり、勢い群れの心理を自分のものにしなければ自らの存在感をもてなくなってきている・・・そんな気がしてなりません。
当然親はそのうちの一部にある程度は気がついてはいても、学校や子ども達だけの間での我が子の姿を見ているわけではないので、全面的に評価することは無論できない。だから、いま全国で発生しているさまざまな子どもを巡る不幸に、大人はただうろたえるだけで正しく対応することができなくなっているのではないのだろうかと思います。

今日のNHKのチャップリン特集の番組でいくつかの注目すべき映像がありました。チャップリン未完の台本があり、自分とは異質なものをどう受け入れるのかということをテーマにしたものだというのがその一つ。
しかし、現実の学校のなかで起こっていることは、異質なものを排除し、等質な仲間だけで群れるなかに自分の居場所を見つける心性の肥大化です。いったいこれを際限もなく垂れ流し、拡大再生産する構造とはなになのか。大人達はいまだにこれをとらえ切れていないのではないか。
一方では、家庭の教育力の欠如であるとして、管理強化と国家主義的な方向で打開しようとする教育基本法改定の勢力。また携帯端末やゲーム機に代表される遊びとコミュニケーションの手段を野放図に子どもの手に渡しながらそこで何が起こっているか知ろうとしない大人達の存在。管理されることに慣れすぎて、怒りも持てなくなった現代の労働現場。
さてさてそう考えていくと、子どもの教育をめぐる問題は複雑で一筋縄ではいかない。ついあきらめてしまいそうです。しかしながら、もう少し深く考えてみると、深いところで悩んだり傷ついたりして出口を求めているのは、実は当の子ども達なのだろうと思います。あまりに生きにくい世の中であるのに、方法や思考が拙劣であるために表現ができないだけなのです。このような時代だからこそ、それゆえに、あらゆる方法で、子ども達に思考の訓練の場を提供し、思考の技術を伝えなければならないと強く思います。

朝早く起きると、外は快晴。畑や車のまわりは霜で真っ白。栗のイガが白くなって転がる様はちょっと異様。北アルプスの峰峰は朝日にきりりと輝いて青い空に浮かんでいました。外は零度。晩秋の輝きです。。





  11月12日(日)
昨夜からの寒波で、昼になっても気温が上がらず肌寒い一日になっています。
北アルプスを覆っていた雲が少し晴れてきたので見てみると、雲がかかっていたところはすべて雪で真っ白。これほどまでに山が荒れていたとは驚きです。まだ暖かいと思っているうちに、本格的な冬がもうすぐそこまできていると感じさせられました。


ところで国会では教育基本法の改定を巡って、週明けにも委員会採決・衆議院通過という緊迫した状況になっています。
言うまでもなくこの教育基本法は、戦前の軍国主義教育・天皇神格化教育の厳しい反省にたって制定されたものです。
教育基本法の前文はあまりに有名ですからここに引用するのも気が引けますが、改定案の前文とともに書いておきましょう。
書き出しはこうでしたね。
「われらは、さきに、日本国憲法を制定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」
改定案の冒頭はこうです。
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」

ここにすでに改訂の大きなねらいが書き込まれています。現行とどう異なるのか。なぜ変えるのか。
「民主的で文化的な国家」「公共の精神」「伝統を継承」これらの前文中のキーワードは、第2条(教育の目標)第5項に収斂していきます。
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」
このために第10条を改変した第16条を周到に用意しているわけです。「不当な支配に服することなく、国民全体に直接に責任を負って行われるべき」であるとした現行第10条の規定を完全に換骨奪胎し、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり・・・」「国は全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。・・・」
要するに「国旗・国歌の徹底」「学習指導要領の法的拘束力」「学校の管理強化」「教育委員会の改組・再編による管理体制強化と指導の徹底」などをスムーズに行うためにそれを妨害する「不当な支配」を排除するというものであることはあきらか。私に言わせれば、現行の不当な支配とは180度異なっています。
そして極めつけは、この改訂教育基本法が従うべき日本国憲法とは現行のものではなく「新・日本国憲法」であるということ。これも一連の政権政党やそのとりまきの言動から判断すれば明らかです。

文部科学省 教育基本法について

ところで上の文部科学省のサイトには「教育基本法をなぜ今」変えるかについて説明した文章が載っています。
「教育基本法をなぜ今」
そこには教育をとりまく環境の変化とともに、最近の特徴として「子どものモラルの低下、家庭や地域の教育力の低下、若者の雇用問題などの深刻化」などが上げられています。だから教育の根本にさかのぼった改革が求められているのだというのです。
このところ国会で話題になっているタウンミーティングにおける「ヤラセ質問」で政府がサクラを使ってやらせた「質問」とは「教育基本法改定案では家庭教育を重視しており大変結構」という内容でした。
さて、こういった教育の問題点を羅列されて、どこでどう現行の教基法を変えなければならないという結論になるのでしょうか。そこが実はいちばん大きな問題です。変える必然性は全くない。むしろ、現行の憲法・教基法から逸脱しその精神を軽視・無視しているところに問題があるのだと私は思います。
たとえば青年の雇用問題をこれほど申告にしたのはどこの誰なのか。これを平気で改訂の理由に挙げる無神経さと厚顔無恥に、彼らのねらいが2重写しになって見えます。
大企業の利益を上げやすいように労働基準法を次々と改変し、不安定雇用労働者を大量に作り出したのはまさしく歴代の自民党政権だったのではないのですか?
東京都に見られるように教育の現場に超がつくくらい教師を管理体制でしめあげ、憲法も教育基本法もない状態を生み出したのは単に石原個人の問題でなく自民・公明合作の教育行政そのものではなかったのか。
子どもたちから未来を奪い、生きる喜びを失わせてきた張本人が道徳を語り、愛国心を語る。おそらくそういう子ども達に銃を握らせて日本を守れと教えれば嬉々として従うと思っているのか、昔はそうだったといいたいのか、何しろ憲法の第9条をとりはずして恥じない連中だから、結局のところ、教育基本法改訂を、憲法を変えるその露払いにしたいというのがその本音なのでしょう。



  11月8日(水)
昨日は早朝から富山と金沢に出かけておりました。折から台風並みの風が吹き荒れ、横殴りの雨がたたきつけるあいにくの天気。ときどきあられやみぞれが車の窓を打って外はもう冬。強い風で何度も車のハンドルを取られそうになりました。

まず訪問したところは、かつて大変お世話になりながら、東京に出て以降は一度も挨拶にも行かないままになっていたH先生のお宅でした。考えてみれば20年ぶりくらいになるのでしょうか。
先生は髪こそ白くなっていらっしゃいましたが、顔つきから雰囲気まで全く昔のまま。辛口の批評(「口の悪さ」??)も昔のままでした。
「叱責されて当然のときにも辛抱強く見守っていてもらえたことが心から嬉しかった」と言うと「しょぼくれているのに追い打ちをかけてでかい声を出してもしかたがないだろう」ですって。そんなにしょぼくれていたかなあ??
もっとも当時よりさらに厳しい戒めのコトバを頂戴して頭をうなだれて帰ってまいりました。


H先生宅を辞した後、次の予定まで時間が少しあったので妹のお宅を訪問して休憩させてもらいました。
その後向かった先は金沢で開業医を営む従兄弟夫妻のお宅でした。
訪問の目的は、かねてから目がショボショボして結膜炎の傾向があったために見てもらおうと思ったことと、依頼されて作成中のホームページについての打ち合わせを行うことでした。
いろいろと検査してもらった結果、目はたいしたことなく「視神経もきれいな色をしている」と言われてホッと一安心。
食事をごちそうになったあと、お二人を前にしてホームページ作成と更新についてひとくさり講義を行ってきました。
何とか目的を果たしてそのお宅を出たのが午後10時。森本インターの近くまで車で先導してもらって、その後は一路長野へ。帰路は車も少なく、眠くもならず、ほぼ予定通り池田に戻ってくることができました。



明けて今日は昨日とは打って変わって快晴の素晴らしい天気になりました。 いったんは融けた北アルプスの雪も昨日の寒波でまた復活。2500メートル以上の山は軒並み真っ白になって青い空に美しく輝いていました。
庭先を見ると日陰にはわずかだが白い霜が。いよいよ霜の季節の到来なのですね。
霜に当たるととたんに変色して二目と見られなくなるのが咲き終わった紫陽花の花。そこで、変色しないうちにというので、妻と二人でいつもの場所へ紫陽花を摘みにでかけました。ドライフラワーにするために毎年花を取りに行っているのです。
今年はどうも例年より色が悪く思ったようには集めることができません。果たしてうまくドライフラワーになってくれるかどうか。
午後からはお花の先生のところにでかけ、クリスマスの作品づくりに精をだしました。今日は準備をしただけ。完成は来週に持ち越しです。


  11月5日(日)
11月に入ってから相次いで来客があったり行事があったりして更新が出来ずにいました。ようやく一段落。気がつくともう11月です。
ここしばらく気温もそれほど下がらず、秋らしいさわやかな日が続いています。山に入ればそこは紅葉のまっさかり。全山黄色や赤にそまってそれはそれはうつくしい秋景色です。

11月3日。
妹夫婦と、妹の連れ合いの弟さん夫妻が時間を合わせて我が家の建築祝いに来てくれました。家のまだ完成していないときに、それぞれ一度訪問してくれていたのですが、完成してからは始めてでした。短い時間でしたが、食事に出かけたりすぐ近くの大銀杏を見たりして安曇野の秋を満喫。その後は母がお世話になっている宅老所に出かけて母と面会。職員のみなさんからはしばしゲストとして歓待していただきました。





11月4日。
この日はまた母の古くからの友達で親交の篤かったSさん夫妻が息子さんの車で立ち寄ってくださいました。お年を召していらっしゃっても記憶力や判断力は昔のまま。ほとんどを失っている母とは比べようもありません。うらやましい限りです。
しばらく母の隣で手をとっていろいろと話しかけていてくださいました。母ははじめはほとんど反応を示しませんでしたが、それでもみなさんが帰る頃にはベソをかいていましたから、記憶の深いところでなつかしく思い出されていたのでしょう。いろいろな刺激を与えてもらって母もひと頃よりは生き生きとしていたようでした。


11月5日。
明けて今日は「大峰高原散策」の日。ガイドマスターの研修をかねた植物探索の日でした。このイベントについて参加者を一般募集していたので町外、県外からの参加者もかなりありました。
私は相変わらずホームページ用のカメラマンとしてフリーの参加。あっちへ行ったりこっちに行ったりと結構忙しく動き回ったので疲れました。
大峰高原は池田町のシンボルともいえる大カエデがあるところ。白樺林が続く散策エリアとしても次第によく知られるようになっているところです。
家を出た7時半過ぎはまだ辺り一面霧で真っ白。車を走らせて高度を上げるころにようやく晴れ間が見え始め、高原に到着する頃にはすっかり上天気になりました。
今日のイベントはゆっくりゆっくり歩きながら木や山野草の名前を確認することが中心でした。いつもはただ見ているだけの木も、よく木の肌や葉を見ているとよくもこんなにいろんな種類があるものかと思わされます。
参加者の中には、植物はそっちのけで、枯れ葉の間に顔を出しているキノコを探すのに夢中の人もいて、霜降りシメジ、クリタケ、リコボウなどたくさんのキノコを収穫していました。









"Diary" by Mr. Blue Piano Man


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