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  12月29日(土)
雨模様の後は大雪の予報。二つの低気圧がオホーツク海で合体して超大型の低気圧になり、冬型の気圧配置が強まって今期一番の寒気が押し寄せるということのようです。
昨日から中学3年の冬期講座がはじまって、いまその真っ最中。折しも理科の問題でお天気や気圧配置のところにさしかかっていて、今日は生徒たちに「天気予報では天気図が必ず出てくるから、しっかり見ておくように」と釘を刺したところでした。


かれらは理科の問題としての天気図は知っていても、実際にどのような動きをし、どんな天気を表すのかはほとんど無頓着。天気図さえそれほどに受験教材に過ぎないのですね。乾湿計一つにしても、どちらが寒暖計で、どちらが湿度計かもわからない。つまりその仕組みが分かっていないので答えられないということ。腕に水をつけて息を吹きかけるとどうなるかという実験をしていないんですかね。
実は、かくいう私も、今年の受験生のために一ヶ月ほど前からようやく体系的に中学の理科を勉強し始めてみたところなのです。数学なら高校3年までの教材、問題はほとんど頭のなかに入っていますが、こと理科となるとからっきし駄目でした。しかし、中学の教材くらいなら常識で判断できることもたくさんあるので、今のところ何とかなっていますが、これから入試問題となると果たしてどうなるか。何とか生徒たちに負けないようにがんばってみるつもりです。いろいろと新しい発見(忘れていたこと!?)もあるので、結構楽しい。

いよいよ今年も大詰めになってきました。沖縄の母から年越しそば(沖縄そば)も届けてもらい、明日は講座のあと、妻と正月の買い出しに行く予定です。喪中であるとはいえ、里帰りする息子の家族のために、少しは用意しておかないといけません。

思い立って、Yahoo!オークションで高額のソフトに入札してしまいました。チャンスをうかがっていたのですが、なかなかうまく行かないで半年ほど過ぎてしまいました。このソフトIllustratorはオークションでもなかなか値が落ちなくて、いつでも人気の商品です。自分でも一番よく使っているソフトなので、できるだけ最新版に近づけておきたいと思ったのです。
もちろん最高入札額を自分では決めていて、それ以上は入札しないでおくつもりですが、いままでも結局そうしていると他人に落札されてしまうという繰り返し。果たして今回はどうなることでしょう。あと1時間半ほどで結論がでます。駄目ならまた一ヶ月以上たってチャンスをうかがうつもり。いい品物を少しでも安くゲットすることは容易なことではありませんね。
一円でも安く買いものをしようと涙ぐましい努力をしている妻の様子を知っているので、万単位で「安いか高いか」と言っている姿は、妻には信じられないことかもしれません。自分で稼いだお金で何とかするので、許してくださ〜〜〜い。落札できたらの話だけど。


  12月27日(木)
沖縄戦での「集団自決」をめぐる教科書の記述問題で示された昨日の文科省見解、コトバのもてあそびはいい加減にしてほしいと思います。これは子どもたちから真実を隠し、さらには日本語の使い方を確実に誤らせ、そして”人をコトバで言いくるめる”こと、すなわち人をごまかすことを公然と子どもたちに推奨するようなものでしょう。世の教師のみなさん、とくに国語・社会科の担当の先生方はもっと激しく怒っていいと思います。事実を知っている多くの沖縄県民にはさらに大きな怒りと失望感と嘲笑がひろがっているんじゃないでしょうか。
テレビ・新聞は、検定意見が撤回されたわけでもないのに「間接的に強制が受け入れられた」という「好意的」な報道をしていましたけれど、これがマス・メディアの今日の状況。情けないの一語です。
文科省は「日本軍の中には、直接強制はしないが何らかの示唆・関与があった。さまざまな要因の中で沖縄県民は集団自決に自ら追い込まれていったのだ」とでも言いたいのでしょう。実態はもちろん、日本軍が直接関与することによって「集団死が強制された」のであって、それ以外ではあり得ません。
文科省の見解のポイントは「集団死」をもたらした責任は日本軍ではなくあくまで”自決をした沖縄県民”にあるという点です。例の自己責任ですね。軍はそれにいくばくかは関わっていただけだとして軍の責任を完全に免除するいいつくろい。これが日本の教育をとりしきる文科省の方針なのです。
当時軍が強制した「軍民共生共死」という方針はそんな生やさしいものではありません。軍幹部の立場からいえば住民を盾に戦争を続けようとするのだから正しくは「民死軍生」となります。事実住民の犠牲の方が軍よりはるかに多かった。沖縄県民のいまなお多くの「おじい、おばあ」が生々しく記憶していることです。

先日沖縄に里帰りした際に訪れた沖縄県平和祈念資料館。ここには無数といっていいほどの沖縄戦の記録が集められています。この祈念館の「総合案内」をそのときに購入してきました。いまそれを見直しています。
巻頭には「この戦争の体験こそ、とりもなおさず戦後沖縄の人々が米国の軍事支配の重圧に抗しつつ、つちかってきた沖縄のこころの原点であります。
”沖縄のこころ”とは、人間の尊厳を何よりも重く見て、戦争に繋がる一切の行為を否定し、平和を求め、人間の発露である文化をこよなく愛する心であります」(設立理念)という沖縄県の決意が述べられています。この本から少し引用してみます。

住民犠牲の諸相(68ページ)

沖縄戦の最大の特徴は、正規軍より一般住民の犠牲者数がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い、米英軍の無差別砲撃による犠牲のほか、日本軍による住民の殺害が各地で発生した。
日本軍は沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕追いだしや、米軍に探知されないために乳幼児の殺害などをおこなった。その他、食料不足から住民の食料を強奪したり、戦闘の足手まといを理由に、死を強要した。住民は逃げ場を失い、米軍に保護収容される者もいたが、食糧不足による餓死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄の状況であった。

日本軍による住民犠牲(70ページ)

日本軍は、兵員、兵器、弾薬、食料などすべてが不足する中で沖縄戦に突入した。このため、食糧・避難壕などの強奪や戦場での水くみ、弾薬運搬への動員などによる多くの犠牲を住民に強いた。さらにスパイ視による住民殺害など残忍な行為もあり、なかには投降のよびかけや説得にきた住民を殺害した例もあった。

日本軍の強制による集団死(72ページ)

日本軍は、住民と同居し、陣地づくりなどに動員した。住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許さなかった。迫り来る米軍を前に「軍民共生共死」の指導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により親子、親類、知人同士が殺し合う集団死が各地で発生した。その背景には「天皇のために死ぬ」という国を挙げての軍国主義教育があった。



ガマの中の復元像 銃剣・銃口は住民に向けられている


「今日の信濃毎日新聞の「検証『強制』削除」(上)によれば、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」のメンバーの一人が「沖縄は日米同盟に不可欠な地域。『反日感情』が生まれたらどうするのか。沖縄を中国にしてはならない。文科省は政治音痴だ」と語ったとありました。このメンバーは、沖縄をアメリカの軍事植民地として維持するには文科省は謝った政治判断をしたとでもいいたいのでしょうが、この発言が事実だとすれば、まさに「自由主義史観」グループの本音が出たコトバです。沖縄を本土の捨て石にするという発想。沖縄県民への差別。その深層心理がはしなくも表に出てくるのが今日の彼らの姿に他なりません。
もし仮に私を含めて「ヤマト」の一人一人が、沖縄県民の痛みに無頓着であったり、「日本を守るために」沖縄の米軍基地を維持強化すべきだという見解に無意識にでも与し続けるすれば、それは自民党・文教族、「国民会議」など「歴史修正主義」側と同罪ということになる。それほどの意味をこの「教科書問題」は訴えているのだと私はいいたいのです。
ネット上ではこうした意見を「サヨク・リベラル」と揶揄する意見やブログが多数アップされています。すべてとはいいませんけれど、沖縄の現実の前では彼らは全く無力です。それゆえ、矛先は「南京虐殺」や「従軍慰安婦」問題に集中していく。歴史学的には決着がついている問題を政治的に蒸し返し、都合のいい部分、たとえば一部の証言の食い違い、写真の誤りなどを取り上げ、それをすべてであるかのようにすり替えるトリックでセンセーショナルにまき散らす。
インターネット・ブログとは実にその意味で便利このうえない道具になっています。匿名でどんなことでも大量に垂れ流せるわけですから。それゆえ、私を含めて、沖縄の現実に忠実であろうと願う人々は、もっともっと声を上げるべきだろうと思います。ドイツ並みに、彼らがそうした言動をはくこと自体が恥ずかしいことだと国民的レベルで認識されるまでにたたかいぬくべきです。


  12月24日(月)
昨日の朝からシステム(WindowsOS)を入れ直しを初めて、一日半かけてようやくほぼ元通りにしました。たまりにたまった書類、画像、ビデオ録画などの移動と保存に費やす時間の方が多くて面倒でしたけれど、それが終わればあとは次々とインストールするだけ。本を読みながら一気にやってしまいました。
保存用のハードディスク・ドライブは満タン状態ですが、新規インストールのハードディスクはスリムになって気持ちがいい。いままで感じたもたつきも解消したので、しばらくはこのまま何とかやれそうです。いままでありとあらゆるソフトを入れたのに全然使わなかったので、今回は必要なものだけに極力絞ってインストールしたので、ハードディスクの空きがたっぷりあります。
ただ問題はモニター。解像度をあげると画面は広くなるけど、字が小さくなって読みづらい。字を大きくすると画面に映る領域が狭くなるので作業しにくい。ディスプレーだけは早く大きなものにしたいのですが・・・。

夜のニュース番組「筑紫哲也NEWS23ー”生活破壊”」では、胸が苦しくなるようなすさまじい貧困の実態がえぐり出されていました。年間所得200万円以下の世帯が1000万を超えて貧困層が広がり、最底辺では年間数十人の餓死者が出ているこの日本。「構造改革路線」という新自由主義的弱者切り捨て政策がどのような社会をもたらしてきたのかをまざまざと示すものでした。願うべくは、なぜこのような現実が生まれているのかをもっと深く追求すること。自公政権の生み出した「格差社会」の実態をもっと多面的に明らかにすること。
来年度予算の問題でも、メディアの取り上げ方は全く不十分で、このまま推移すれはどのような生活苦がもたらされるのかを明確にはしないから、明日はなんとかなるかもしれないという漠然とした期待を持たせてしまう。
「格差社会」という現実は、一方での貧困の蓄積と他方での富の極端な集積があるということです。20世紀後半まで信じられていた「一億総中流」などという言葉が実に実態のないものであったか、いかに今日を準備するものであったかがもっと論じられていいと私は思います。

システムを入れ替えながら読んでいた本が「南京事件論争史」(笠原十九司、平凡社新書)でした。押さえた筆致ながら、歴史学者らしい緻密で実証的な論考は説得力があります。
書店でいやになるほど目につく「虐殺否定本」の背景も見据え、歴史学の生産的な発展を願って書かれたこの本の前には、「南京虐殺はなかった」「あったとしてもどの国でもやっていることでとるに足らない人数だ」「米英、中国のプロパガンダに過ぎない」というたぐいの政治的策動は完膚無きまでに粉砕されています。
一枚の写真が「ねつ造」であったから他は推して知るべしというような「批判」を売り物に稼ぎまくっている「パラサイト学者」がもてはやされるこの国の有り様を国民的なレベルで果たして克服できるのかどうか。
あの戦争を肯定し南京虐殺事件を限りなくゼロに近い出来事にしたい連中の心性を形成しているのはまぎれもなくアジア蔑視のエリート意識です。だからアメリカ、いや白人への対応は全くその裏返しです。戦前からすり込まれてきたこうしたアジア民族への蔑視観は、戦後のアメリカ軍の占領政策とその後の対日支配、中国・ソ連封じ込め政策のもとでいっそう増幅されたと私には思える。だからこそ、あの時代から今日までの歴史を、庶民の側から徹底して見直し検証しつくすことが必要です。
沖縄に行って、妻の母から沖縄戦の当時の様子を聞いたことは先に書きました。そのときに、当時の様々な恐怖を「昨日のことのように思い出す」と言った母の一言がまだ耳に残っています。近くの糸数の壕に行ってガイドから「ガマの中にいた女性は現在もそこに近づかない」という話を聞き、あらためて加害者と被害者の距離、記憶の深浅の度合いについて考えされられました。
母の一言は、集団自決への「日本軍の直接の命令はなかった」とそれでも強弁し続け、あの戦争が「自存自衛・アジア解放」の戦争であったと言い続けているこの国の支配層とそれを支持する立場の連中の論理の欠如、想像力の貧困を際だたせています。

夜遅く、妻が昨日買ってきておいた小さいケーキを食べながらささやかなクリスマスイブ。妻はビールで私はお茶。それもいいではないですか。クリスチャンのみなさん、よいクリスマスを。


  12月22日(土)
先日、戸をあけると一人のおばあさんが戸口に立っている・・・・いやいや怪談ではありませんよ。
「公民館脇のゴミ収集所の前のAといいますけど・・」とゴミ収集所を強調するものですから、てっきりゴミの問題でもあったかと、ちょっと構えて話の続きを待ちました。話って言うのは何のことはない「自分は年でもう畑が耕せなくなっているので、所有している畑を使ってくれないか」という頼みをしに来てくれたのでした。
その畑というのは目と鼻の先の、かつて民生委員の方が紹介してくれて一時は不発に終わっていたところ。聞けば自宅の周りにあちこち土地を所有しているのだが、夫に今年初め先立たれて今は一人住まい。子どもたちも県外に住んでいて満足に管理できなくなっているので誰か畑を使ってくれる人がいないか探していたということでした。
実際に妻とその畑にすぐにでかけて(といっても一分もかからない)事情を聞き、さっそく使わせてもらうことにしました。Aおばあさん曰く「ああ、これでやっとホッとした」。道路脇にある良い土地なので、花を含めていろいろと作付けが出来るようになるでしょう。いよいよ農業に専念しなければならなくなりそうな一年です。
両隣も一人住まい。このおばあちゃんも一人住まい。いよいよ一人住まいだらけのこの周辺。こうやって農村はさびれていくのかとちょっとわびしい気持ちにもさせられた一こまでした。それだけに隣近所づきあいを大切にしてお互いの健康を気遣っていかないといけないとも思わされました。

ところで、いま私のつかっているこのウインドウズ・マシン、動作がおかしくなりはじめていて、フォルダを開けるときにエラーが多発したり、コピー・ペーストにやたら時間がかかるようになってしまいました。激しく使っているのでやむを得ないところもあるのでしょうが、そろそろOS入れ替え(XPのまま)の時期のよう。ここ3日ほどかけて、ゆっくり入れ替えをやろうと決心しました。
MacもLeopardに早くしたいし、Windowsマシンも最新のテクノロジーを導入したいのですが、まるで予算がありません。お母さんに生き返ってほしいですよ〜〜〜。
老眼がすすんで、字がぜんぜん見えなくなっているので、まず専用メガネを調達するのが先ですかね。そのあとは、アルバイトしてお金をためて一気に更新ですね。


  12月21日(金)
昨日は終日町議会の傍聴でした。傍聴席がかなり高い位置にあるので暖房が効き過ぎて暑いこと。朝10時から午後5時半まで一般質問を聞き続けるのもなかなか大変です。
来年度予算の編成期にあたるので今回の議会では、来年度の重点施策やこれからの財政の課題などを問う議員が多くいました。
質問に立ったのは議長と病欠1名を除く10名の議員のうち9名。質問の材料も多岐にわたり、いつもより建設的な質問・要望などが多く出されたのが特徴だったと思います。

折しも昨日は国の来年度予算の財務省原案が示され、マスメディアもいろいろと解説をしていました。詳細は今日の新聞でも書かれているとおりですが、一言でいえば自公政権がもはや政権運営をなしえないことを示した予算原案ということでしょう。
薬害C型肝炎訴訟の政治決着の問題一つとっても、自公政権の目がどこを向いているかがはっきりわかります。内閣の支持率よりアメリカへの忠誠、財界・大企業への目配りを優先するこの政治に一刻も早く終止符を打つ以外に打開の道はないところまできている。
残念ながらマスメディアはそこまでは踏み込めず、むしろ自公対民主という構図を押し出すことに報道価値を見いだしているのですから、庶民の生活苦、労働苦などの受難は構造的でかつ作為的なものであると言わなければなりません。

それにしても、予算原案であることが現行憲法がアメリカの押しつけだから自主憲法を持つのだと主張してはばからない彼らが、なぜこれほどアメリカの属国のように言うがままになっているのか、その構造を見ておかないといけないでしょう。戦前の国体意識とアメリカへの従属意識がなぜ奇妙な一体構造を形成しているのか。新自由主義と苔むした国家主義が結びつのか。現在の日本の支配層にとって、最も支配しやすく、国民意識の動員をしやすい「支配のイデオロギー」を探しているのでしょうが、それだけにその綻びもまた大きいと言わなければなりません。「国」「国家」意識を注入することは戦争動員への布石ですから、これだけ格差社会が問題になり、貧困が構造的になっている現在の状況下では、外国の脅威に目を向けさせる動きに最も警戒すべきときです。
「貧困にあえぐいまのような状況より、戦争でも行った方がよほどいい」という若者の声は一人や二人ではないのですから。


  12月19日(水)
午後から池田町の観光協会にでかけてホームページづくりの援助をしてきました。事務員がホームページの担当なのでここ半年ほどアドバイスをしてきたのでした。今ではもうかなりの腕前になってきています。
PhotoshopやIllustratorの使い方やHTMLの文法はほとんど終わったので前回からcssにすすんで今日はその2回目。とはいえ、私もそれほど知っているわけではないので、テキストを決めてそれをもとに一緒に勉強をしていくことにしました。

ところで、今日その事務所に行って私のホームページを開いて説明をしようとした矢先、「あの〜、こんな事言っていいのか悪いのか・・・ここをクリックするとヘンな画面が出るんですけど・・・」と彼女。確かにクリックしてみると、バイアグラなどの販売ページに飛んでいるではないですか。エッチ画像のサイトでないだけまだよかったのですが、どうやらスパイウエアの侵入でリンクが書き換えられたらしいのでした。念のため家に帰ってクリックしてみたのですが、とくに問題はありませんでした。いったいどうなっているのか・・・何だかキツネにつままれたような話でした。
確かに観光協会のパソコンでは私のサイトの一つのリンクだけが書き直されている。我が家のパソコンではそんなことはない。とすれば、サイトへの攻撃ではなく観光協会のパソコンのキャッシュに何者かが侵入したのかもしれない。何とも気味の悪いことでした。勝手にリンクを書き換えられたんじゃたまったものではありませんものね。気をつけないといけません。


  12月17日(月)
気温が上がらないものの、晴れ間がひろがったために雪はほとんど消えてしまいました。
お昼には、ニュースの取材でYさん宅へ。好きな山の話を新年号に書いてもらうことを依頼に出かけたのでした。
奥さんもいっしょに話がどんどんはずんで、山のいろんな話やら趣味の話やらで10分の予定が2時間に及ぶという大変なことになってしまいました。
北アルプスのほとんどを踏破しているという彼の話や写真にはさすがに歴史が刻まれています。かなり前ですが、山小屋で不破哲三さんといっしょになり、じっくりと会話をして大変魅力的な人だったということも聞きました。連載が楽しみです。

午後からはお花の先生の自宅ギャラリーで開かれている展示会にでかけました。裁縫教室からの帰りの妻も合流して展示を見たり、ハーブティーをごちそうになったりして一時間ほど過ごしてきました。
行くと近所の方も来ていてなかなか盛況かと思ったら、どうも深刻な顔をして額を寄せ集めてなにやら話し込んでいます。聞くと、すぐ近くの民家でほんの少し前に大きな火事があり、折しも出かけていた先からの帰りだった先生は方角から見て自宅が燃えているのではないかと思ったと、近所の方々と話している最中でした。みなさん「おどけた、おどけた(驚いた)」の連発。興奮がなかなかおさまりそうにありませんでした。
年の瀬も押し迫っての災難で、被災した方にはさぞ辛く恐ろしい体験だったろうと想像しますが、火事だけは本当に気をつけたいものです。出かける前の火の始末、十分注意しなければ。




  12月16日(日)
夕べから雪になり、朝まで5センチほど積もりました。ふわりとした牡丹雪ですから、少し気温が上がればすぐに消えてしまいそうです。本格的な冬の雪ではなく、どちらかというと「暖かい」北陸の雪に近い。
雪が降ると、まわりの景色は一挙にグレースケールの世界になってしまいます。もともと枯れ草、枯れ葉、枯れ木で茶色っぽかったのが、雪で白黒の世界に変わっただけですが、それでもいよいよ冬の到来という実感がわいてきます。おとなしく家で丸くなっているに限りますね。



午後からは、赤旗しんぶんの記者がファンクラブニュースを中心とした後援会活動の模様を取材に来ました。日頃の活動の様子や読者の家で話しているところを是非見たり聞いたりしたいというので、編集責任者の私も呼ばれたのです。
何軒かを訪問して、ニュースの印象などを聞いてきましたが、割としっかり読まれているようで、町のことや政治の動きがよくわかると話してくれました。
中には、書いてある字がむずかしかったり、読みづらかったりするので、もう少し分かり易くという注文もありました。確かに、字が多すぎて余裕がないので、狭い紙面の中でももっと工夫の余地があると思わされました。
「楽しみに待っている」という声を聞くのは編集者冥利に尽きること。がんばってよいニュースを提供できるように今後とも頑張らねばと思わされたことでした。


  12月15日(土)




吉田健正さんの「『軍事植民地』沖縄」(高文研)という本があります。戦後沖縄がいかに米軍に蹂躙され、アメリカと日本政府の共犯関係によってアメリカの軍事的な植民状態に置かれ続けてきたかを詳説した力作。
テロ特措法をめぐる異常な国会状況を見ても、COP13(国連気候変動枠組み条約第13回締結国会議)での日本の態度を見ても、アメリカと日本との共同正犯という関係はますます深まっていると感じざるを得ません。
長崎佐世保で起きた凶悪犯罪の報道のかたわら付け足し程度に報道されたCOP13。鳥越さんがニュースステーションで怒っていましたね。「京都議定書締結という名誉ある位置にある日本が、アメリカと欧州の間に入って数値目標を設定できるように頑張る必要があるのに、いったい何をやっているんだ」って。それもそのはず、財界の言うがままにろくな努力もせず、決められた数値目標が達成できないとみるや他国と排出量取引に色目を使う姿は異様とさえ言えます。
折しも、「しんぶん赤旗」で紹介されていた国際環境保護団体であるAvaaz.comのサイトに私も訪問してみました。さっそく要請署名もしておきました。
COP13の交渉に重大な懸念を表明して、次のように世界の人たちに行動をよびかけています。

バリでの気候変動交渉は困難な局面に陥っています。先日までの交渉経過は順調に見えていました。この繊細な問題に対して、2020年までの排出大国の削減目標を含め、中国など途上国の順次追従も得られるなど、大方の意見の一致を得られていました。この削減目標は、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)報告に基づく、気候危機を回避するのに必要な削減目標数値です。しかし、日本、アメリカ、カナダの3カ国はこの削減案を拒否、それに伴い他国も足踏み状態に陥っています。
この片意地を張った3カ国政府のせいで、地球の未来が滅ぼされるのは許されません。今週金曜までに出来る限りの手を尽くさなければ!我々の緊急グローバル請願書に今すぐ署名してください。 --我々は、サミット会場でのイベントにて、アジア・フィナンシアル・タイムズ紙掲載の全面広告と共に、サミットの交渉代理人に、いかなる妥協案にも反対するよう強い意思で臨んでいただく要請を目的として、この請願書を直接手渡します。このキャンペーンに今すぐあなたの署名をお願いします!





  12月13日(木)
思い立って昨日から屋根裏を片付け始めています。何かやり始めると終わるまで集中、しかし、少しするとまたすっかり忘れてしまうというのは私の悪いクセみたいなもので、妻もあっけにとられているようです。
身体を動かすこともその一つの目的でした。何しろ、先日の健康診断であのいまわしい「メタボ・シンドローム」の初期状態を宣告されたからです。
妻とは、食事は食べ過ぎにならないようにする、間食をしない、晴れた日は必ず散歩にでかけるなどと話し合い、ただいま実行中。さて、どれだけ中性脂肪を減らすことができるでしょうか。

母が亡くなってから今日で5ヶ月目。朝妻と仏壇の前で母の遺影に手を合わせました。ほとんど忘れてしまっていることの多い毎日になって、せめて月違いでも命日にはしっかり思い出したいと思っています。
屋根裏を片付けていて、母の文書箱の中から古い年賀状などにまじって、文集か何かに寄せたと思われる原稿をみつけました。何に投稿したのかは全くわかりませんが、父が亡くなってから5年と書いているので、今から15年くらい前の手記だろうと思われます。自分の誕生からその日までの生活と思いを概観している文書で私も知らなかったことも書かれていました。
私や妻、子どもたち、親戚のみなさんにも、生前の母の心のうちを知ってもらう一つの資料として、ここに記録しておこうと思います。

川の流れのように

私は石川県生まれで幼少の頃里子に出された。養父母には慈愛深く育てられたが、家は貧しく、父母との会話は少なかった。
師範学校に入学するとき、両親から私は養女で、実父母と7人の兄弟姉妹がいることを知らされた。両親が育ての親であることの驚きと、肉親が多い喜びに一晩中泣き明かした。
やがて教師として西田地方小学校に勤務。4年生の担任となった。6年生担任のとき、私は結核で倒れ古里保養所へ入った。後を親友のM先生におまかせ出来たのは神様のお計らいと感謝。ご恩は終生忘れ得ぬこととなった。
終戦になって航空母艦に乗っていた主人が無事帰ってくれた。本来なら抱きつくほどの感動であるはずなのに、それどころか、戦災で家は焼け無一物で、家族の命を守るために二人は必死で働いた。
市内で小さい3部屋のバラックに住むことになった。子どもは6歳を先頭に3人となり、7人家族で息が詰まるような日々だった。
私は実父母達に会いたい気持ちを抑えがたく、3人の子どもをつれて故郷に帰った。実は、私は以前に実家に帰ったことがある。それは出征する兄を見送るためだった。だから道はよく知っていた。
田舎の小川にはフナやメダカの群れが泳ぎ、森の水車は歌い、道ばたのレンゲの花は微笑んだ。2人の男の子ははしゃぎ、2歳の女の子は背中で眠った。
ようやく家について両親に迎えられたが、挨拶は涙があふれて言葉にならなかった。
それ以来、私はいつかは子どもたちのために自然が美しい土地に住みたいと思い続けてきた。念願がかなって現在の呉羽山麓の団地に移り住んだ。
当時は家が点在し野ウサギが跳ねていた。空き地にはスミレ、タンポポ、エノコロ草などが咲き乱れ、敷きの情緒をかき立ててくれた。
  春浅き朝の目覚めにうぐいすの
          心ときめかす初鳴きをきく
  友を呼ぶ郭公の声われもまた
          まねて呼びおり胸弾ませて
  雛つれてつがいの雉の訪るる
          狭庭はすでに初夏となりたる
夢に見た自然にめぐまれ、主人も私もこの地をこよなく愛し満足感にひたった。しかし、主人は8年前に、母は5年前に亡くなった。
  亡き夫と仏間にひとり語るとき
          秋桜の花かすかにゆるる
現在私は家の前の百坪の畑に花、野菜、果物を作りながら、これらや天国の亡き主人や母に語りかけている。
私は「川の流れのように」の歌が大好きである。口ずさむたびに自分の人生の歩みを振り返る。
川もやがては大海に入る。私の人生の流れはもう河口に近い。大海に入るまでに恩を受けた数々の人に感謝し報いる生活を続けてたい。
  ありがたく余生を送らんかにかくも
          子ら世に立ちてすこやかなれば



  12月8日(土)
人の前でものをしゃべるというのは大変難しいことです。恥ずかしく身の縮む思いを無数に重ねて来た私としては、身にしみてそれが実感できます。
著名な作家で、物書きを生業としている人でも、いざしゃべるとなると事情は違うようで、何をいっているんだか解らない人もいる。しかし一方で文字通りの雄弁家っていう人もいるんですね。
かつてある集会で日本共産党の金子満広さんの話を聞く機会がありました。非常に複雑な情勢をどう打開するかというテーマだったと思いますが、彼の話には無駄がなく明晰で一字一句そのまま文章になる、そんな語り方でしたから、ただ私は口をあけて聞いているだけでした。世の中にはすごい人がいる。話している内容がそのまま文章になるなんて、自分自身に引き寄せれば全く考えられないことでしたからね。まして、ものすごく深い内容を整然と話せると言うことは、どれほど日常的に深く物事を考え、整理しているかということにかかわってきますし。
それ以来、人に何かを伝えるときはそのまま文章になる話し方をしなければ、というのが私の目標になったのでした。しかし実際は「言うも行うも難し」で、いまだに話し始めるとしどろもどろになってしまう自分が情けない。ま、日頃から深く物事を考えず、しかも根っから小心者ということなんでしょうね。

なぜこのようなことを書き始めたかというと、写真にあるように、佐高信さんと魚住昭さんの対談「だまされることの責任」(高文研)を読んだからでした。
本になった対談ですから、当然しゃべり言葉がそのまま印刷されるわけではありません。修正・補足などはいくらでもあるでしょう。しかし、それでも話す内容が深い内実に裏打ちされ、整然としているというのはすごいことです。辺見庸さんにも、小沢征爾さんにもそんなことを感じました。いずれも自分から出て行く「ことば」をものすごく大事にする。私自身はもうこんな年ですから、もうどうでもいいかな(ダメかな)と思いますけど、若い人には、人に話すというのはどんなことなのかをこうした対談から学んで欲しいと思わずにはいられません。

さて、この本の冒頭には伊丹万作さん(映画監督・伊丹十三さん、大江健三郎夫人のゆかりさんの父)の「戦争責任者の問題」という一文が掲げられています。1946年(私の産まれた年です!)に書かれたこの短い文章には、いま考えなければならないことが分かり易い言葉でかかれています。
「戦争が終わったとき、多くの日本人は「私は騙されていた」と口にした。騙された人がいるなら騙した者がいるだろう」「たどっていけば結局一人か二人に行き着いてしまう。しかし、私の知っている範囲では『俺がだましたのだ』といった人間は一人もいない」。だとすれば、「だましていた人間の数は、一般に考えられているよりはるかに多かったに違いない」
「『だまし』の専門家と『だまされ』の専門家に画然とわかれていたわけではなく」だまし・だまされの連鎖がおこっていたと彼は推測していきます。「つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」。これらの具体的な例をあげていることはいうまでもありません。
さて、彼の主張の真骨頂はそこからです。
「だますものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあると考えるほかはないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
「あの時代はそうしなければ生きていけなかったし、すすんでそうしていたわけではない」という言い訳にも「果たしてそれでだまされたものの責任は解消されるであろうか」とたたみかけていきます。
「『だまされた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいない」
彼は、責任の所在とその深さを問うだけはなく、どうすればよいのかについても明確に指摘しています。
対談の中でも当然ながら触れられていることですが、これらの思索の中にどれほど今日的な問題が詰め込まれているかを知って、ほとんど言葉にならないような衝撃を受けました。

これらはすべて私の問題意識である「戦前と戦後の連続性」の問題につながっていきます。
国民的レベルではまだ戦前を総括していない。批判も反省もしきれていない。それゆえに、伊丹さんの言葉を借りれば、このままでは今まさに私たちは次の「戦争責任」のまっただ中にあることになる・・・・。
魚住:「沈黙のファイルの取材を通して・・・戦前と戦後は地続きで断然なんかしていないということを心の底から実感しました」
ああ、やっぱりそうなんだな。この人も同じことを感じていたんだな。私なんかよりもはるかに協力に取材を通してつかみとっていたんだな・・・。
そうならなおのこと、前の戦争についての徹底した批判を重ねるのと同時進行で、次の戦争を起こさせない責任の取り方もまた「地続き」で考え実行せねばならないことになる。憲法第9条は、まがりなりにもあの戦争に対する「戦争責任」の、自らと国際社会への国民的表明の一つであった。それを放棄することは、「だました、だまされた」責任をもきれいさっぱり放棄して、再びだます・だまされる構図へズッポリとはまりこんでいく第一歩ということになりはしないか。
この対談に触発されて、いろんなことを考えさせられました。
本のカバーには次のように書かれています。
「1945年日本敗戦、日本人の多くは『だまされた』と言った。そして60年後の今、再び『だまされた』と人々は言うのか」

今日、12月8日。


  12月6日(木)
今日は朝マイナス5度くらいまで下がったのでしょうか、びっしり霜が降りて、北アルプスは普段雪のない有明山まで雪をかぶっていました。日が昇るにつれて山にかかっていた雲も晴れてすがすがしい好天に。


ネコのハルちゃんは、このごろ「食っちゃ寝」状態。いつ見てもゴロゴロ寝ています。外は寒いので、トイレに行く以外は中でトロトロしているのでしょうか。寝るときは私とは絶対に一緒に寝ないのに、妻の布団の足下か、よほど寒いときは妻の毛布に潜り込んで並んで寝ています。しかし、腹が減ると今度は必ず私のところに来て、耳元でニャ〜ニャ〜私が起きるまで鳴いてご飯をせびるのです。寝るのは妻、ご飯は私と分担を決めているらしいのですが、賢いのかアホなのか・・・。多分、私や妻の性格を見抜いているらしいから、賢いというべきでしょうかね。最近は書斎のソファの一つをぶんどって、いつもこんな調子。腹がちょっと出てきてメタボっぽくなってきたのかな・・・。


今日は本当に久しぶりにお花の先生の所に寄ってきました。12月8日からクリスマス展示会をやるので、作品を出さないかと言われていたのです。自分としてはもう足を洗ったつもりでいたので、リンゴの注文(先生のお父さんがリンゴ農園を経営)をするだけのつもりで出かけたのですが、つい長居をして作品づくりをしてしまうはめに。「その気になったときだけ来ればいいんだから。足なんか洗えないわよ」と言われて妙に納得して、二つも作ってしまった私でした。こうして並べて見ると、我ながら”男”が作ったとは思えないものなので、これってジェンダーの刷り込みなんでしょうか。






  12月2日(日)
沖縄から帰ってくるやいなや、部落の川ざらいの予定があり、午前中はたまりにたまった泥を重機やスコップでかき上げる作業に汗を流しました。水路の建設以来30年ぶりとかという恐ろしい状態で、周りの農家の人は逆に「いい土だねえ。オラの畑に入れたらいいべ」などと冗談ともつかない話をしていました。肩は痛くなるわ、腰は痛くなるわで、帰ってからすぐに風呂につかってしばらくダウンしていました。年はとりたくないものですね。

昨夜は一週間ぶりに生徒達に会いました。生徒達におみやげを配って、ついでに持ってきたサトウキビ(生)の試食。素晴らしく甘いキビの茎に初めての生徒達は驚いたようでした。

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ここで、沖縄紀行二日目の、糸数壕(アブチラガマ)について少し書いておきます。
母に案内してもらって壕についたときは雨が一番強かったときで、その雨をついて長野の修学旅行の高校生たちが多数ガマに来ていました。
妻も家から数分のところにこんな壕があるなんて知らなかったと言っているほどですから、一般に知られるようになったのはそれほど古いことではないようです。数年前から施設も完備して、主に平和学習に訪れる修学旅行生を中心に壕内に案内しているのだとガイドの人が語っていました。
母を車に残して、受付をすませヘルメット、懐中電灯を借り、さらにガイドをお願いすることにして壕の中へ。壕は全長270メートルといいますから、ものすごく深く細長い洞窟です。
ここはもともと糸数集落の避難指定壕で、日本軍の陣地壕や倉庫として使用されていたのですが、敗走を重ねる日本軍が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となり、軍医・看護婦・ひめゆり学徒隊が配属。一時壕内は600名以上の負傷兵で埋め尽くされたと言います。
壕内は大きな岩がゴロゴロし、どうやってベッドなどを配置したのかわかりません。ガイドの話では板や芭蕉の葉を敷いて横たえていたという話ですが、多分、岩の上にそのまま放置された負傷兵も多数いたのではないかと推測されました。中に入るにつれて結構広い場所も沢山あります。破傷風患者の隔離部屋、手術台、病棟などと名ばかりの場所がいたるところに。当時そのままに欠けた食器やビン類が散乱しているところもあります。岩の割れ目や底なしの裂け目があったりして、逃げようとした兵士がそこに入り込んでそのままになっているところも多いのだとか。最近も2体の遺体がみつかったという話も聞きました。
米軍が来るようになってからは、壕の空気穴からガソリンを投入されたこと、ひめゆり学徒隊が切った手足を岩の裂け目に投げ込んだり、立ったまま寝たりしたこと。方言を言ったというだけでスパイ扱いされ日本軍に殺されそうになり、逃げ損なって岩の割れ目に落ち込んだものの死体がクッションになって助かり、はい出して壕から逃げた人がいたこと・・・戦争の実態を知るなら、一度はこの壕に入ってみるべきです。
壕から出て助かった人も、この壕での体験については決して口を開こうとしなかったといいますから、どれほどの惨状であったか、推測の域を超えています。
沖縄にはこうした壕がたくさんあって、それぞれに戦争の傷跡を生々しく伝えていますから、これから沖縄を訪問される方には、南国の「癒し」空間の沖縄だけでなく、戦争を今に伝える沖縄を知ってほしいと心から思いました。
 < 11月29日 4日目 ニライカナイの聖地、知念半島へ >
 < 11月30日 最終日 家の近くを散歩 >


  12月1日(土)
沖縄のお母様、にいにい、ねえねえたち、いろいろとお世話になりました。ネット上からですが、お礼を申し上げます。また近いうちに行けることを楽しみにしています。

11月26日、沖縄に着いたときはどんよりとした曇り。そのあと小雨が降り始めてその後は帰る前日まで風雨の中でした。それでも晴れ間を見ていくつかまわってきたところがありましたので、それらを中心に沖縄紀行の報告をいたします。
ただ、今回の沖縄行きは妻の里帰りでしたから、かなりの時間母のもとにいましたし、兄弟姉妹や親戚の方々とも沢山会ってご挨拶もしてきました。了解をえないまま写真を載せたものもありますが、お許しを。

池田を発ったのは11月26日。朝7時にタクシーが迎えに来て松川まで行き、特急あずさで新宿まででて、それから浜松町、羽田と乗り継いで12時30分のJALで沖縄へ。
もうだいぶボケが進行したのか、新宿駅に着いて乗車券を出そうとしたらどこを見てもない。どうしたのか全然記憶がないというのは症状として深刻です。まいった。
それから切符はすべて妻に預けることにしました・・・・情けない。

飛行機はジャンボではないので沖縄着が4時少し前。妻の兄が私たちに貸してくれる車ともども空港まで迎えに来てくれました。兄を家まで送る道すがら、さっそく沖縄ソバの美味しいお店に連れて行ってくれ、腹一杯になりました。なにしろ、普通盛りがこちらでいえば特大。小がこちらの普通盛りに相当する大きさですから大変です。このあと、お蕎麦を注文するたびに、このサイズの問題がつきまとうことになります。
お兄さんの家にちょっと立ち寄った後、母の待つ県南部にある南城市玉城へいそぎました。那覇の町やその周辺を車で通るにつけても、車の多さ、ビルの密集度にびっくり。しかもパチンコ屋が異常に多い。兄の解説では、沖縄の人たちは遊ぶところがないので、パチンコでもしなければただ酒をくらって寝ているだけ。だから何はさておいてもあり合わせの金を持ってパチンコ屋へ急ぐ人が後をたたないのだとか。本土資本に翻弄される沖縄の都市部の人々の暮らしが見えてきそうな光景でした。

ようやく家について、母と対面。血圧が上がって胸が苦しいといいながらも笑顔で迎えてくれた母はさすがにシワも増えていましたが、88歳と思えない話しぶり、記憶力にはただただ恐れ入って脱帽するのみ。お茶を飲みながらいろいろと話を聞かせてもらいました。
明日は糸数の壕に行く予定だと話ていたら、つい戦争の頃の話になって、沖縄戦当時の様子をあれこれと話してくれました。いつか、母の戦争体験をまとめてみようと思います。沖縄戦の生き証人ですから。
 < 11月27日 2日目 糸数壕、平和祈念博物館 >
 < 11月28日 3日目 辺野古沖基地建設反対テント訪問、古い友人・兄弟姉妹と再会 >



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