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  12月31日(木)
中3、高3の入試対策がいよいよ本格的に。とりわけ高3のために、来る日も来る日も入試問題を解く毎日でした。センター試験も一頃よりはずいぶん難しくなっているような気がするし、私大の理工系の入試も変な問題がたくさんあって、生徒に理解できるように解説するのはなかなか難かしい。長野では高校の学力が大学の要求するレベルにはとても追いついていないので、現役で合格するというのは至難の業。というわけで、しわ寄せはすべて休みの今日から2日までに。
妻は、正月もずっと出ずっぱりですから、私と昨日から来ている息子夫婦とは今日一日大掃除をしたり、おせち料理をつくったりして忙しく過ごしておりました。年賀状も結局今日から明日の仕事になり、文字通り新年に書く年賀状。どうか許してください。

猫のハルちゃんは、どういう風の吹き回しか息子夫婦と孫にもすっかり慣れたようで、おとなしく抱かれています。最近は人が来てもあまり逃げなくなったのは、それなりに経験を積んでノラの習慣が撮れてきたからなのでしょうか。
ハルちゃんは、子どもの泣き声はやはり苦手なようで、孫の泣き声にはかなり敏感に反応、逃げ出してしまいます。それでも孫の方は、昨日からの雪とネコに大喜びで、はしゃいでいます。








さて、いよいよ大晦日。今年前半はちょっとした疫病神にとりつかれたものの、すぐに退散してくれたようで無事越年できます。池田町に来て、1年1年忙しくなるのは、それだけ人とのつながりが増えたからなのでしょうか。私も妻も、「こんなことならフルタイムで仕事をしていた方が楽だね」と話すくらい。もちろん、そうはいっても、フルタイムだと帰宅後の時間がほとんどなくなることは百も承知でそう言っているのですが。
池田町に来てからの数年を振り返ってみると、母の介護をしながら蔓細工などにのめり込んでいた2年間ほど。このときは時間がたっぷりありました。新しい家を得て一年後母が亡くなり、それからは塾の仕事とファンクラブ、ガイドマスターの仕事に時間をとられるようになり、今年に入ってからは町の行政の問題にかなりかかわるようになってきました。
来年は、おそらく塾の仕事と町政研究会の仕事が一つの軸になり、その合間にガイドマスターとファンクラブのお手伝いが加わるという生活。役場の皆さんとのつながりもふえそうな気配です。
一方で、体力・視力・集中力などが減退中なので、身体管理もまた大きな課題。なにしろ体重がどんどん増えているので、身体がおも〜〜い。つい先日買ったズボンがもきつい。

新聞をみていましたら、今年もまた派遣村。昨年よりも人数が多いといいますから、雇用をめぐるこの日本の状況は異常を通り越しています。民主党の悪いところがあちこちで顔を出し、それが全体を覆っていくという感じの年末。参議院選挙が行われる来年の参議院選挙時にはかなり変化が生まれているような予感がします。民主の右寄りと自民の一部が接近し(もう全く違いはないのですが・・)、社民を切って新しい政治状況を作り出すかもしれないという観測が流れていますが、さもありなん。どこかの政党に期待するのではなく、要求していくこと、たたかうことだけが道をつくるのだと心して、また1年を過ごしたいと思っています。



  12月24日(木)
この年でクリスマスということもないのですが、妻がチキンをはじめとしてそれなりの準備をしてくれて、ささやかな「クリスマス」。子どもの頃に父母が長い靴下(本物)にいろんなお菓子を入れて枕元においてくれたことを思い出しました。あれから半世紀以上。
妻が孫たちにサンタのパンを焼いて送ったのにお礼の返事が来て、また焼いてくれという催促。今度は猫の「にくきゅうパン」がいいのだとか。肉球にはアンコとかチョコを入れてという特別の注文でした。それはうまそうです。

昨日は塾の高2の男の子3人が遊びに来てくれました。遠くははるばる白馬から。この学年は中学の頃からみんな仲良しで、高校になってから入ってきた生徒達も心優しいヤツばかりで、授業も楽しい。
パソコン好きなこともあって我が家(私ではなく)に興味があったかもしれませんね。一人の子は音楽大学志望で我が家でさっそくピアノを披露してくれました。DVDを見たりパソコンをいじったりしてあっというまに夕方。いっしょにファミレスで食事をし、お別れしました。
多感な時代をどう過ごすか、生活や考え方にかなりの甘さを感じることはあっても、それは今の私の立場から見たもの。私にできることは、彼らなりに大いに考え悩みながら自分の進路を作っていってくれるのを見守るだけですね。
まもなく年末年始の冬の講座がはじまりますが、今年は中3に加え、高3も入ってくるので今からかなりの準備が必要です。来てくれた彼らにはあと一年後にそうした試練が待ち構えています。毎回懸命に来てくれている彼ら彼女らに答えられるように私もしっかりやることにしましょう。


私はこの一週間ほどずっと町の財政に関する資料を集めています。主に決算カードを使って様々な資料を作るのですが、あまりに細かい仕事なので時間ばかりかかります。それでもグラフにしてみると思いがけないことがわかってきたり、問題点が浮き彫りになってきたりしてなかなか興味深い仕事です。仲間の皆さんの同意をえて、どこかで順次公開できればいいなと思っています。町民の人たちから意見をもらってさらにそれに磨きをかけていき、いずれ近い将来に全町民向けの「町政白書」が発行することが一つの到達点。しかしそれは目的ではなく、それをもとにして町の財政を真に町民奉仕のものに変えていくことが目的です。全国で取り組まれている住民の立場からの町政分析が、ようやく池田町でも緒に就いたかなと思います。来年はそれを一つの形にすることが目標ですね。

今日は、FCニュース新年号の座談会の準備会議をひらきました。その中でも町政の問題は大きな話題に。とりわけ、この間様々な問題で町長が示してきた無責任体質と丸投げのやり方に厳しい批判が集中。このことを具体的にわかりやすく知らせて、いま何が町政の課題になっているのかを浮き彫りにしなければなりません。

私がそれなりに係わってきたハーブセンターの問題について、町長ブログでは「今後は組合役員の皆様と4月1日からのスタートに向けてしっかり協議し万全を期したいと考えます。町民の皆さんにもご支援ご協力の程お願い申し上げます」と何も問題がなく、スムーズに移行ができるかのような書き方。しかし実態はまるで正反対です。
ある団体の役員がいみじくも語ったように、ひきうけた「運営組合」の理事たちは「田んぼを売らなければならない羽目になる」という程の厳しい現実がある。町は借金体質も含めてただそれを引き受けさせたいだけなのです。
もう一つの指定管理者制度に応募して採用されなかった団体の試算では、初年度の管理費として1900万円必要で、さらに運営補助費が1000万円以上。それほどの経営状態の施設を引き受けさせようというのですから、現在の町長の考え方は実情も無視し町民の意思もはきちがえた実にノーテンキなもの。どうやらそうすることが「ミンエイカ」だと思っていらっしゃるようです。もし、町長がこの私のブログをお読みになることがあるなら、あと一年後どちらの言い分が正しかったかをいっしょに検証してみることにしませんか。ビビッて町から補助を1000万円を超えて出すなんてのはルール違反ですよ。そんなことをすれば、応募した他の団体が黙っていない。町長は、募集要項通りに「鑑賞園の管理費だけを出す」という方針にとことんこだわるべきなのです。それがどんな結末をもたらすかをじっくり観察なさるがいい。
その際、責任は引き受けた方だけではなく、町長自身にあるということをこの間の全経過が示していることをお忘れなく。では良い新年を。



  12月18日(金)
今年の年末年始も中3、高3の冬期講習の予定が決まって忙しくなりそうです。というより、すでに大学入試の数学の問題をひたすら解かされていて頭がいたい。結構長いブランクがあったので(というのは言い訳・・実力がないのです)、勘がもどらず苦労しています。
最難関の大学を受験する子がいないだけまだましですけど、それでも医学部は敷居が高い。高校生が現役でそうした大学に合格するというのは至難の業です。
大学自体、あるいは大学の問題の中には、、どう考えてもただ受験生をイジメたいだけのような馬鹿げた問題もあって、大学の先生たちは一体何を考えているのやら。早くこの季節が終わって欲しいものです。

昨日は季節風が強く吹き荒れて、せっかくの大根干しがひっくりかえってしまった。今日も午後から夕方にかけて2,3センチの積雪。そうとうに荒れた天気になっている様子です。普通冬型が強まると池田町は晴れてくるのに、衛星画像(気象庁17:30)を見ると厚い雪雲が空を覆って、明日までに少しつもりそうな気配です。


伊豆半島の地震といい、この雪といい、やはり変ですね。



  12月17日(木)
昨夜富山から帰った妻が小谷周辺では一寸先も見えないほどの吹雪で怖かったと言っていました。その帰りがけに大町で待ち合わせをして一緒に食事をして帰ってきましたが、その帰りもちらちら小雪が舞っていました。今朝は冬型の気圧配置が強まって池田でも1pほどの初積雪、いよいよ氷と雪の季節の到来です。早くタイヤ交換しておかないと・・・。


もともと私の使っているPCはLinuxをメインにする予定でしたが、結局まだWindowsXP環境のまま。その意味ではマシンは2世代前、ソフトは4世代前くらいの古い7、8年前のままという状態です。本当はもっと時間があればLinuxのいろんなディストリビューションを試すのですが、いかんせんマシンに注ぐお金も時間もなく惰性で毎日を過ごしています。
ところでLinux Kernel創始者のLinus Torvalds氏が10月末に来日、インタビューに答えています。
デスクトップのOSとしてはこの数年長足の進歩を遂げてきているとはいえ、まだ使いやすいとはいえないが、これについてどう考えるかという質問に、彼は次のように答えています。

一方、デスクトップの分野は最も入るのが難しいところです。
理由はいくつかあります。過去には「Linuxの上で動くオフィス用ソフトがない」と言われました。今日、それは存在します。しかし、最も大きな理由は、企業でコンピュータを使っている人々の多くが、実はコンピュータを好きではない、ということだと思います。
私たち開発者はコンピュータが大好きです。しかし、多くの人にとってコンピュータは仕事のためにやむを得ず使う道具に過ぎません。
そうした人たちはデスクトップ環境が大きく変わることを好まないのです。
とはいえ、徐々にデスクトップにLinuxは利用されてきています。あわてる必要はないでしょう。


なるほど、やっぱり好きでないとダメなんかね。続いて面白い質問がありました。

Q 企業にとってはサポートに加え、技術の継続性が重要です。もし、あなたが第一線を突然退いたりしたらLinuxはどうなるのでしょうか。
A バスに私がはねられたら何が起きるのか、という質問ですね(笑)。
Q いえ、我々の質問ではなくて、読者から来た質問です。
A よく聞かれる質問です。もし私がバスにはねられたりでもしたら、しばらくは混乱するかもしれませんが、半年もたてば落ち着き、引き続きLinuxは開発されていくと自信を持って言えます。
というのも、私は大勢のLinuxカーネル技術者に支持されているからです。こうした技術者たちの貢献を実際に見ていただければ、一人の人間に依存しているわけではないことがわかるでしょう。
10人のチームというわけでもありません。実に多くの人たちがカーネルを維持するために協力しながら働いています。


本当に必要で、いいものなら創始者の思いさえ乗り越えて進むということでしょう。長島さん流に「頭痛が痛い」的な物言いをすれば、オープンソースの理念は「永久に不滅です」。何しろ現在世界中の企業・個人が猛烈な勢いで開発に加わっているわけですから、まだまだ発展途上といえるOSです。
従ってデスクトップ用のOSという観点では、そして私としては、もっと多くの人が自然になじめるようなソフトに仕上げてほしいと切に願っています。なぜなら、コンピューターはあんまり好きでない人でも、ファクスやテレビなどと同じくらい自然に使えるようになることが望ましいし、何よりそれほどお金をかけなくても十分楽しめるし実用的なものであるべきだからです。
とはいえ、相手は複雑なソフトですから、学校教育などを通してきちんとその土台を理解し、自然に使えるようにすることが今後必要かもしれません。



  12月16日(水)
鳩山首相へ母親から9億円。この母親、いったいいくら資産があるんでしょうかね。14日に「兄と違うのは、私は犯罪を犯していない。(私の)団体の収支報告は完璧(かんぺき)で、虚偽の記載は1件もない」と豪語していた弟には、兄よりももっと多い11億円の資金提供。献金を報告していないのなら政治資金規正法に違反するし、贈与税を払っていないのならこれまた「犯罪」っていうんじゃないですか。
妻とともに「我々の母親とは違うねえ。逆に母親に1000円、2000円お小遣いをあげるくらいが関の山の我々と住んでいる世界が違うし」とため息吐息。これほどに富の偏在がすすんでいるということでしょう。こんな資金のやりとりを「知らなかった」とか、秘書がやったなどという政治家に今日の政治が委ねられていること自体おかしなこと。

2,3日前「N響アワー・アンドレ・プレビンの世界」という見出しに惹かれて番組を見ていましたら、確かに懐かしいアンドレ・プレビンさんが指揮をしていました。80歳ですからずいぶん年をおとりになっていました。今シーズンからNHK交響楽団首席客演指揮者に就任されたんだそうですね。
私がはじめて彼の指揮と演奏を聴いた(見た)のは1991年、モーツアルト没後200年記念の番組でした。今から18年ほど前のことですから、プレビンさんがまだ60を少し過ぎたころの番組です。演奏もさることながら、彼の語る「モーツアルトの音楽」には甚く心を惹かれたものでした。
それは主に「フィガロの結婚」についての解説でしたが、モーツアルトに精通した人でなければ話せない語り口でしたし、その内容もいかにモーツアルトが貴族の内側からその腐敗や衰退を痛烈に批判していたかを解き明かすもので溜飲を下げたものでした。
この番組でのプレビンさんは度の強い黒縁眼鏡をかけ円熟した指揮・演奏ぶりで一目でファンになりました。もはや今となっては「幻の番組」の録画ですね。プレビンファンにはたまらない作品ということになるでしょうね。
彼がピアノを演奏しながら指揮をする様子も実に自然で見事でした。それに続くザルツブルグ音楽祭の「フィガロ」も私の宝物の一つになっています。ただしこれはベルリンフィルですがプレビン指揮ではありません。
録画状態が悪くならないうちにDVDに落としたいと思いつつ、そのままになっています。3倍速でとったので録画状態が一部ひどくなっているところがありますが、歴史的価値のある一巻であることはまちがいありません。
それにしても、モーツアルトの「フィガロ」にしても「魔笛」にしても、魅力ある人物が登場します。私が好きなのはやはり脇役だけれど重要な人物たち、「魔笛」のパパゲーノであり「フィガロ」のケルビーノです。
「魔笛」ではタミーナとパパゲーノが歌うデュエットがすてきだし、「フィガロ」では「恋とはどんなものかしら」が最高。聴衆はこれには主役よりも大きい拍手を送っていますものね。ただ誰がこれを演ずるかでずいぶん雰囲気が変わってしまいますから要注意。
DVDに落としたら(いつになるかわかりませんけど)差し上げますので、どうぞご連絡を。





  12月15日(火)
かなりのブランク。体調不良というわけではないのでご安心を。
この間、パソコンには向かっていたのですが、あることに集中していたためにどうしても日々の出来事や考えなどを書く余裕ができなかったというわけです。そのあることとは町の財政の分析です。最近有志数名と「町政研究会」を立ち上げて、懸案だった町の財政分析を始めたのでした。一年前にもやりかけたことがあったのですが、忙しさに紛れて中途半端になってしまったのですが、今回は月一回の例会を設けて、少しずつデータを蓄積していくことにしたのです。テキストは自治体研究所の大和田さんの「市町村財政分析」。これがまた膨大なデータ(決算カード)をもとにいろんなグラフや表をつくりながら経年推移を調べていくので時間がかかります。
会ではとりあえず、議論したことをもとにデータを蓄積し、それをもとにいずれ「町民から見た町政白書」のようなパンフレットにまとめいようと話しているところです。まだ始めたばかりなので、試行錯誤の連続。何が見えてくるのかもそれほど定かではありません。そのうちこの場でも中間的な報告ができるかもしれません。

さて、今日は町の12月議会がひらかれ傍聴しました。私の関心事はハーブセンターの今後。しかし、これについて質問したのは共産党の山本久子議員だけ。町の一つの重大関心事をよそに「美しい村連合」への加盟とこれからの町の取り組みについて4人も質問しているのには驚きでした。ハーブセンターの運営についての関心は薄れてしまったのですかね。
町の提案は指定管理者として応募した3団体のうち、町内の一団体を審査委員会が推薦。この議会にその団体に管理を委ねることが議案になっているのです。ところが募集から現在に至るまで町の姿勢と応募した団体の間には大きな見解の相違と断絶があり、看過できない問題が発生していたのです。これを追及したのが山本議員。
細かいことはここでは割愛しますが、町の態度は町長が表明したように「考え方がすれ違っている。なぜこんな形(指定管理者制度)を民営化をお願いしたか原点を理解してほしい」ということにつきます。要するに「町の財政からずるずると赤字の施設にカネを注ぎ込むことはやめて、民間にすべてまかせ赤字がでてもそれはその団体の責任」とすることです。「考え方」は全く行政の責任を放棄した低俗な「民営化論」にすぎません。
ハーブセンターは町の肝いりで設置された池田町振興公社の施設として93年にオープン。花とハーブの町づくりの拠点施設として町を代表する施設になる予定でした。ところがオリンピック道路の開通とともに町を通過する車が激減、当初は2000万円以上も町に使用料を納めていたこの施設も急転直下売り上げを落とし、ここ10年ほどは町からの2500万円程度の資金つぎ込みなしでは運営できなくなっていたのです。
そこには管理運営の主体の不明確さ、町の観光戦略の不在、センターの経営のまずさなどから、これ以上のあいまいな運営ができなくなっていたことは事実です。これらについてはかつて私も意見書を提出して、その改革の視点や方法について提案してきましたが、町の対応は「おそまつ」の一言。
仮にもこの施設を町を代表する物産、花とハーブ、観光の拠点施設にしようとするならばこれは町の関与なしには運営できないことは明白で、それには管理を委任する団体とともにどのような町づくりを進めるかという明確な指針がなければなりません。町長の考えは、一応は理念的なものは口にするものの実際にはこの施設を町の財政から切り離して身軽になろうというただその一点。「どんなに赤字が出ようと、それは管理責任というものでその団体が負う。それが指定管理者制度というものだ」という暴論に本質がよく表れています。
一つの施設が売り上げをのばし、町を代表する施設として発展するにはそれなりの戦略が欠かせません。しかもそれは多岐にわたる総合的な見取り図でなければならないはずです。それが全くないわけですから、そうしたものをもとに質問する山本議員と「考え方の違いがある」というのは本音でしょう。だとすれば、この町長のもとでは期待する方が無理というものかもしれません。同時に、もしある団体がこの施設の管理を引き受けるとすれば、それは赤字を覚悟してあらゆる苦難を抱え込むということと同義となるでしょう。
これを打開するカギは町民自身が持っているといえるし、何らかのアクションを起こさないでは、いずれ大きな問題となって跳ね返ってくるに違いありません。


町長の見解を質す山本議員




  12月4日(金)
今日のしんぶん赤旗をみていましたら、大学生のなかで不破哲三さんの「マルクスは生きている」が人気だとありました。しかし、当の青年達は「マルクスは生きているが、僕たちは死にそうだ」。まさに実感ですから、笑うに笑えないジョークです。
ジョークと言えば、昨日、来日中の映画監督マイケル・ムーアがNHKでのインタビューに答えていたのが実に面白かった。
「わずか1%の富裕層が富を独占している」という資本主義のゆがんだ実態を何度も何度も告発し「資本主義は悪だ」と言い切る彼。ときどき突拍子もない行動をとる彼ですが、貧困にあえぎながらつつましく生きる普通の人々への共感という彼を支える信条がよくあらわれていました。
イラク戦争開始時には回り中から批判や嫌がらせがあったといいますが、今日ではこの愛すべきキャラクターの監督への共感が深く広く広がっているのではないでしょうか。
テレビで紹介されていたように、モンスターと化している現代アメリカや日本の資本主義をもっともっと告発し、生産や生活の現場で告発・抵抗の運動を進めなければならないと思います。

映画「キャピタリズム」の日本語公式サイト





  12月1日(火)
「ビラを配っただけで逮捕、有罪になるかもしれない−。そう聞いたら多くの人は驚くだろう。現実である」・・・今日の信濃毎日新聞はこのように書き出しています。
オートロックのないマンションに昼間10分ほど入って、共産党の「区議会便り」を各戸のドアポストに入れたというだけで現行犯逮捕・起訴された荒川庸生さんに対して、最高裁判決は30日「上告棄却」を言い渡したのです。これによって、このビラ配布を有罪とした高裁の判決が確定してしまいました。
信濃毎日新聞は社説で上のように書いたあと、「違和感をぬぐえない。・・・弊害は市民活動の隅々に及ぶ。最高裁の結論は残念である」と続け、さらにこの逮捕のきっかけに住民の通報があることをあげて、「自分の考えと異なる意見であっても排除せず、どこまで尊重できるか−。社会の自由度と寛容さを測るものさしである」「警察を頼る前にまずは住民同士で話し合う。当たり前だけれど確認しておきたい」と述べてます。

信濃毎日が「違和感」としか書けないのはメディアの限界ですが、実際にはこれは憲法の「表現の自由」を奪う明白な「不当弾圧事件」です。
荒川さんは「商業ビラの配布は日常的に行われており、なぜビラ配布が犯罪なのかという国民の素朴な疑問に判決は答えるべきだ」と述べていますが、これが常識というものです。高裁判事にも最高裁判事にもこうした「常識」が欠如しているとしか思われない。それとも官舎に住んでいる彼らは「共産党のビラが入れられることを苦々しく思っていた」とでも言うのでしょうか。いかがわしいビラは何とも思わないのに。
高裁判決の論理はこうです。「憲法21条1項は表現の自由を無制限に保障したものでなく、思想を発表するための手段であっても、その手段が他人の権利を不当に害することは許されない」
深夜大きな物音をたてたりドアをたたいたりしてビラを配ったりでもしたなら、それは直接に他人の平穏に暮らす権利を脅かしているわけですから、これを規制するのに「表現の自由の制限」を持ち出す方がおかしい。平穏に配布されているビラが不要なら新聞折り込みのチラシ同様捨てれば良いだけなのです。チラシなどでしか政党の見解を知ることができない人もいることを考えるべきでしょう。
「表現の自由」とりわけ「政治的な表現の自由」は最大限に保障されなければならないのです。これは日本の自由と民主主義のあり方にとって死活的に重要なことではないのでしょうか。私たちはこうした「言論の抑圧」にもっともっと敏感にならなければならない。
監視カメラが張り巡らされ映像が日常普段に撮影されているのに、生活を乱していないから犯罪とは思わないというのは「チラシ配布が市民的自由の侵害」だと短絡的にとらえて犯罪視することの裏返し。日頃どんどん進んでいる権利の侵害に気づかず、一方で目に見える「気に入らない」事象を拙速に排除することが横行すれば、これは市民の側からの自由と民主主義の圧殺につながるといえます。最高裁はこうした風潮に便乗するのではなく、むしろ間違った傾向に警鐘をならし、どのように言論の自由が守られなければならないのかを明確に示すべきでした。
「共産党ファンクラブニュース」を作成し配布したり、共産党の号外チラシを配布している私としては他人事ではありません。いずれこうした最高裁の判断が民主主義に逆行するものとして断罪される日が来るでしょうけどね。だから、今後ともチラシや号外は撒き続けるつもり。何かあれば徹底的に闘うのみです。




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