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  5月31日(月)
午前中は「子育て支援」を求める3項目の署名を持って、池田町町長と会談。これは共産党池田支部が取り組みを提起し、ファンクラブも取り組み団体として署名を勧めてきたものです。
内容は「就学援助児童対する眼鏡購入費の支援」「高校までの医療費の無料化」「観劇・音楽鑑賞など義務教育での芸術鑑賞への全額公費負担」というもの。医療費の無料化は2〜300万円の予算措置が必要ですが、それ以外はそれほどの額にはならない要求です。
町長の答弁は、今年度は大きな建設関係の支出があるので、どれもむずかしいというもので、それを過ぎればそうしたことにも目を向けていきたいと当初述べていましたが、話し合いの中で「眼鏡」問題については、眼科医の専門的な意見をすみやかに聞いた上で判断したいと答弁。それ以外の問題については、他市町村でも実施しているところは少ないので、突出したことは避けたいということもあり、現在では難しいとの答弁で終始しました。
参加した印象では、これらの施策はもともと町長の視野には存在せず、他から(とりわけ共産党から)指摘されてやるわけにはいかないということもあって、よけいに頑なな態度になっているのではないかと思わせる節がありました。もう一つは、参加者からの指摘もあったことですが、池田町は全体として福祉は進んでいるという行政の側の勝手な思い込み。従ってこれ以上の公的支出は不要という考えに傾くという傾向です。
こうしたことについては、私たちの側からの子育てと公的な支援のありかたについての理論武装と同時に、町の予算のありかたの研究や過去の収支についての地道な検証作業を引き続いて行っていかないといけないと思わされたことでした。


昨日は松本で「いのちの山河〜日本の青空II」という映画を見てきました。自主上映会として全国で取り組まれているもので、岩手県沢内村村長であった故深澤村長が人々と力を合わせて乳幼児死亡者ゼロ、老人医療費無料化などにとりくむ奮闘を描いたものです。描き方がやや類型的で掘り下げた描写が少なかったきらいはありますが、全体としては大変感動的な映画に仕上がっており、最後の場面は大きなタオルが必要なほど泣ける映画でした。現在の貧困や高齢者医療の問題と直接にからみあうテーマですから、教えられることは山ほどありました。必見です。

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午後からは畑にでて、午後ずっと畝作り。さすがに疲れてぐったりです。あちこちが痛いだけでなく、親指の付け根が攣ってしまったり、膝の痛みが激しくなったりと、ちょっとやりすぎかな・・。ただ、時期を逃すと植えるタイミングを外してしまうので、いまやっておかないといけない作業なのでやむなく。
通りがかりの近所の人が「何植えるだい?」と聞くので、「豆」と答えると「カッコウは鳴いたかい?」と聞く。「もうとっくに鳴いたよ」「それじゃうちでもそろそろやらないといけないね」・・・。
そうなんです。豆(大豆)は「カッコウ」の鳴き声が植える合図なのです。恥ずかしながら、私は全くその知識がなくて、昨日近くの親しくしてもらっているお宅に寄った折、そこのおばあちゃんから、「カッコウは豆まけ、豆まけって言って鳴いているんだよ」と教えてもらったばかりでした。それで、今日通りがかりの人の言っている意味がすぐにわかったという次第。恥ずかしい。
いろいろ調べてみると、カッコウは別名「豆まき鳥」とも言い、この時期はカッコウも鳩も子育てに専念するため蒔いた大豆をほじられることが少ないから(あるいはこの時期にはもう遅霜の心配はないから)、カッコウが鳴いたら大豆を播けということなのだそうです。そうしたことから親は子へ「カッコウは豆を撒けと言って鳴いているんだよ」と教えてきたのでしょう。古い昔からの農業の知恵なんですね。
そうそう、畝をつくっている最中にも遠くで「豆まけ、豆まけ」と鳴いていましたよ。



  5月28日(金)
罷免された福島社民党党首が「私を罷免することは沖縄を切り捨てることだ」と言っていました。「何か変えられるかも」と「淡い期待」を抱いて閣内に入ったのだとすれば福島さんもあまりに人がいいということでしょう。それとも打算とポストの誘惑に負けたということでしょうかね。
今回の解任劇では、かろうじて社民党らしい対応をしたともいえますが、今後は連立を維持するのかどうか。社民党もここは選挙で消滅の瀬戸際にありますから、そう簡単に連立解消とはいえないところだし、痛し痒しというところでしょう。
そもそも社民党は地方レベルでは自民とも民主とも無原則に野合してきた歴史を持っていますので、国政レベルでの民主党との関係が問われるところ。それにしても、共産党まではいかない革新勢力の受け皿がこの体たらくではね。昔々の又一っつあん(社民党副党首))の勇ましい言葉がまだ耳に残っていますけど・・・。

沖縄では、琉球新報社、沖縄タイムス社がともに「辺野古移設、日米合意」と「社民党首の解任」について号外を2度も出す異例の対応。情勢は全く余談を許さない緊迫した局面にさしかかってきています。
どんな結論を出そうが、すでに沖縄県民の意志はきわめて明確で、「県内にはいかなる形でも新たな基地負担は受け入れない」ということですから、アメリカにしか目が向かない政党や「抑止力」を振りかざして沖縄に負担を強いる連中を追い詰めていくしかありませんね。



  5月24日(月)
沖縄タイムス、琉球新報各社は県民の声を代表するように連日普天間基地やその他の沖縄の現状について精力的に報道しています。新聞報道をずっと追跡していて、どれほど安保条約=軍事同盟体制の矛盾が沖縄に集中しているかがよくわかります。メディアの役割が、「本土」と沖縄とでどれほど違っているのか、実際にweb版で確かめてみることをお勧めします。

政府も、自公、民主も結局は安保体制を積極的に維持強化するという方針の上に、アメリカ軍の「抑止力」という「切り札」で普天間問題を切り抜けようというわけです。海兵隊の「抑止力」とは一体どういうものか、それはどのように「抑止力」たりているのかという議論もろくにせず、ただ存在していることだけが「抑止力」という論理は、米国のいいなりに、それをオウム返しに主張しているだけで何らの説得力もない。
かつて、冷戦下で「核抑止力」という論理が幅をきかせたことがありました。もちろん現在でもなくなっているわけではありませんが・・。その「核抑止力論」というのは結局際限のない核軍拡をもたらすだけで、核戦争の抑止にならないだけでなく、むしろ暴発の危険をはらむ「悪魔の論理」であることが広く認知されるようになって、結局オバマの演説に結びついていったのです。
今日のアメリカ海兵隊の「抑止力」もそれと大差ありません。
本当にまじめにそれを考えているのだとすれば、なぜ海兵隊が組織改編でグアムに移転するとしたときに反対しなかったのか、グアムの強襲揚陸部隊を逆に日本に持って来いと要求できないのか。そして岩国など本土の必要な基地に一元化することを求めないのか、なぜ「沖縄」だけに新しい基地を提供するのか。緊張が高まっている韓国にこそ海兵隊は必要なのではないのか・・・
沖縄の海兵隊の役割については「虹の日記」さんが5月23日に書いているとおり、それが抑止力にならないことは広く知られていることなのです。にもかかわらず、「勉強すればするほど抑止力になっていることがわかった」という鳩山さんのお話は、為にする議論だということがよくわかります。結局「沖縄に犠牲になってもらう」という太平洋戦争末期のあの発想から一歩も外にでていない日本の支配層の頭の中が透けて見えるというだけの話。
だとすれば、そんな政治家諸氏にはすっぱりはやめてもらうしかない。自らやめられないのなら、辞めさせるしかない。新しい国と国との秩序、強力な平和外交、説得力ある外交論理こそがいま求められているのではないのでしょうか。

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さて、今日は塾の休みの日。唯一今日が休みなので、なんだか疲れが一気に出てきてしまい、夕方妻が仕事から帰宅するのも知らずに寝ていまし。妻も、今度から勤務がうんと少なくなり、週2日勤務。これまであまりに働きすぎたから、「これからちょっとはゆっくりとしたらいいよ」と話しています。
昨日から降り続いていた雨も夜にはあがって半月がきれいに見えていました。明日はいい天気になるのでしょう。
これまで10日余り更新できなかった理由に「畑にずっと手を取られていた」のを付け加えるのを忘れていました。何しろ草をとり、畝をつくり、肥料をまき・・・という作業を延々やっていたので、ついつい日記を書くゆとりもなくなっていたのでした。一通り形はできたので、あとは苗がそろって植え替えたりする時期にまた忙しくなってくるのでしょう。

午前中、3日前に亡くなった知人の弔問に行ってきました。
訃報に接したのは一昨日のイベントの会場で。昨日はイベントのためにまったく時間が取れず、やむなく今日妻と二人で出かけたのでした。
67歳といえば、私の父の亡くなった年齢と同じ。あまりに早い死ですから、本人もさぞ無念だったことでしょう。
亡くなった知人は、私と同じガイドマスターの会所属。池田町の山歩きの草分け的存在で、山のことから人のことまで、何でも知っているという人。
良くも悪くも豪放磊落、天衣無縫、破天荒、大言壮語・・まあいろんな三字、四字熟語がふさわしい面白い人物で、まわりからは誤解もされやすいところもありました。ただ、自分のことより人のことをいつも考えて世話を焼くところは誰も真似ができない行動の人でもありました。
前の町内ではすぐ近くに家があったこともあり、母のことをよく気にかけてくれて自分で育てたラベンダーなどを「枕に入れると気持ちがいい」と大量に運んできてくれたり、母に声をかけてくれる優しい一面をもった憎めない人で、私は以前から仲良くしていたのでした。
3年ほど前にはキノコ採りに連れて行ってくれて二人で東山を歩き回ったこともあり、その際に「これからは若い人が俺らのあとを継がなくてはいけない」と話していたことが耳に残っています。心よりご冥福を。



  5月23日(日)
ようやく忙しい日々にちょっと一息つきました。なにしろ10日も更新をさぼったのですから、何かあったのではないかと思われたかもしれませんね。
ウオーキングのマップ作りに続いて、ファンクラブのマレットゴルフのイベントやの作成、その他いろいろあってなかなか更新する時間がとれませんでした。
また毎日夕方から塾の仕事があるのも時間がとれない一つの要因になっていました。・・・とこれはいいわけ。
さて、昨日今日とウオーキングのイベントがあり、両日とも写真撮影のためにウオーキングのメンバーを追っかけ、先回りしては写真をとりまくっていました。車で移動していたとはいえ長時間やってくる参加者を待っているのも結構疲れました。おかげで足も結構痛くなってしまい、このあとしばらくは休養です。
昨日は良いお天気に恵まれ北アルプスもよく見えてみなさんウオーキングを楽しんでいました。ただ、新しいコースだったので私の方はタイミングや待っているポイントがわからず、かなり苦労しました。
今日はまた朝から冷たい雨が降り、それも時間とともに強くなって最悪のコンディション。それでもウオーキングになれた人は、完全装備で参加、みんな元気よく歩いていました。脱帽です。
ガイドやボランティアのみなさん、役場の皆さんは雨に打たれながらも、参加者に怪我のないよう無事終了できるように、本部や各ポイントでしっかりサポートしていました。この努力あってのウオーキング大会であることがよくわかりました。本当にお疲れ様でした。
私の役目は、これから写真を整理して公開することです。ただ、レンタルしているサーバーの契約容量がもはや満タン状態なので、観光協会のホームページに移動することが急務。これもこれからの仕事です。
写真上3枚が22日。下3枚が今日の模様です。なお下から2枚目は我が家の前ですよ。












琉球新報、沖縄タイムスはともに緊急号外を出して、辺野古周辺への基地移設を伝えに沖縄に来た鳩山首相について報道していました。
民主党の本性がはっきり現れたというのが実際のところですが、何ともお粗末な顛末に、沖縄県民は怒りを通り越してあきれ返っているのではないでしょうか。
夜のニュース番組で、今度の参院選ではインターネット上での選挙報道が解禁になるのではないかと伝え、人気ブログについて取り上げていました。ブログのトップはあのKOIZUMIジュニアだという。私には親譲りの危険人物としかみえませんが、世のいかほどかの皆さん方には「イケメン」ぶりとブログの気さくな書きっぷりがお気に召すらしく、熱い目を注いでいる様子が紹介されていました。いや無理矢理視聴者に押しつけていました。
具体的に普天間基地をどうするのか、この異常な日本の労働態様をどうするのか、福祉の貧困をどうするのか、具体的に迫っていけば、イケメンさんの化けの皮などすぐに剥げてしまう。沖縄県民の怒り、苦しみに寄り添うことなく、感覚的イメージで国民にこびを売る政治家とこうしたアホ報道を面白おかしくやっているメディアのありようは、日本を異常な社会に変質させている一つの歯車になっているのではないかと思わされたことでした。

琉球新報の号外

沖縄タイムスの号外



  5月12日(水)
ゴールデンウイーク後は低温の日が続いて農家の方たちも困っているという報道。我が家では、苗は買ってきたものの、植える場所を作るために毎日少しずつ耕しているところです。足が思うように動かないので、なかなかはかどらない。種から育てる野菜は、いつもながら芽出しが遅れて今年も今から種をまいている始末です。果たしてうまくいくのかどうか。

飼い猫のハルちゃんは沖縄から帰って以来私にべったりになってしまい、どこかへ行こうとすると不安そうに付いてきます。しばらく留守にしていたのがかなり効いたらしい。と思ったら、今日はまた大物を仕留めてきてしまった。はじめてハトを捕まえてきたのです。ヘビでなくてよかった。あまりに大きいので家の中には入らずに外で羽をむしってペロリと食べてしまった。うまかったようです。ハルちゃんは「肉食系」なんですねえ。


さて、5月22,23日の両日に行われるウオーキングのマップがほぼ完成しました。ただいま最終校正中。これは印刷に回して、当日参加者に配布される予定です。

ウオーキングマップ第1日 表紙[PDF] 地図[PDF]

ウオーキングマップ第2日 表紙{PDF} 地図[PDF]



  5月9日(日)
一昨日は雨模様でしたが、昨日からまた5月らしいいい天気。朝晩は相当に冷え込むので暖房がほしいほどです。
田植えの終わった田んぼは静かに水をたたえて北アルプスを映し、夜ともなればカエルが大合唱。最高に気持ちのいい季節です。
さて今日は「母の日」。息子夫婦からカーネーションの花束が届き妻はちょっと恥ずかしそう。これまでうんと苦労してきたのですから私も子どもたちの気持ちをうけとめて大いに感謝することにしましょう。

沖縄の法事の際に、義兄から代々伝わる先祖の系図を見せてもらいました。それによると、祖先は沖縄の王族(?)の一人で、その十一代目(十世の次男)が謀反を起こした嫌疑で地方に追われ、沖縄南東部(現在の南城市)に逃れて現在の氏を名乗ったということになっていました。それが1689年。それから連綿と家系がつづき、妻の世代は二十世ということになります。妻もはじめてこれを見たらしく、私から「あんたは王族の二十世かよ、すごいことだね〜」と冷やかされて不思議そうな表情をしていました。先祖を大切にする沖縄では、それぞれの家にこうした家系をしめす系図が大切に保管されているようです。
妻の実家に伝わる家系図は妻の世代まで追跡してあり、義兄は「それらを整理することと今後の家系図を整備することがこれからの仕事」と話していました。確かにこうした家系を追跡することは歴史を知ることでもあり、どのように人々がつながっているのかを知る上でも大変興味のあることですから、子どもたちにそれを伝えることは私たちの世代の責務だと思わされました。

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沖縄での3日の法事は、午前中の墓参りから始まって、午後は親戚、知人、近所の人たちの訪問で延々夜遅くまで続きました。
こちらのように決まった時間に一定時間お坊さんの読経と焼香や献花、その後の直来というような形式はとらず、午後いつでも自由に来てお参りしてよいというもので、あくまで参拝者の都合に合わせたもの。まったく普段着で格式はなく、しかも来た人ごとにゆっくり話もできるので、ある意味では大変合理的です。
ただ迎える方は、来訪者ごとにもてなすわけですから裏方は大変です。男は酒をのんで話をしていればいいのですが、女は一人一人の酒食の準備、片付けと大変。田舎の風習ということで、これも連綿と受け継がれてきたことなのでしょうか。



















  5月7日(金)
沖縄へ向かったのが4月30日。もちろん一番大きな目的は妻の父の25回忌の法要です。
出発したときは池田はまだ朝晩は霜が降りるほどの寒さでしたので、当然それなりの服装で行ったのですが、向こうは25度以上。しかし、日がたつにつれて本土の方の最高気温の方が高くなってしまったらしい。
ただ、朝晩の気温の差は沖縄ではあまりないので、平均すると沖縄のほうが当然暑いので、ずーっとTシャツ一枚で過ごしてしまいました。

連休に入っているので、交通はかなり混雑しており、那覇周辺の町並みは普段より雑然としている感じがしました。
那覇空港では山形県から来た妻の妹夫婦が待っており、いっしょに実家へ向かいました。南部に近づくにつれてサトウキビ畑がひろがり、いつもの見慣れた風景が。
妻の実家では90歳をこえてなお元気な母が今か今かと待ってくれていました。

沖縄は四季がないので、年中いろんな花が見られます。実家の庭にもいろんな植物が。これらを見るのも沖縄行きの大きな楽しみです。








パパイヤやバナナをはじめ実のなる木もあちこちに増えていました。パパイヤの花を見たのははじめてです。
食べ頃らしく黄色い実をたくさんつけていたのは「カニステル」という果物。食べてみるとまるで甘い水分のないカボチャです。妻の妹はいたく気に入ったらしくパクパク食べていました。








庭にやってきた大きな真っ黒な蝶。素早いので写真をとるチャンスがほとんどなかったのですが、何とか一枚だけ成功したのが下の写真。調べてみると「ジャコウアゲハ」という種類らしい。夜には蛍も何匹か舞っていましたよ。



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さて、次は沖縄の基地問題。2日は法事の準備で朝から大忙しになるだろうと考えて、5月1日、私たち夫婦と山形のご夫妻の4人で沖縄中部の辺野古と普天間基地を見に出かけることにしました。

新聞報道によれば、県民の意志に反して辺野古沖にくい打ちで基地をつくる案を首相側近が民主党議員に伝えたという。琉球新報の見出しは「県民反対でも強行」。オスプレー部隊を徳之島に移転するということも。
佐藤優氏は同紙の「ウチナー評論」で「鳩山首相は沖縄人の魂がわかっている。仲井真知事が県民大会で黄色い服を着ていなかったとか、県外移設に言及しなかったという評論はピントはずれ。むしろ沖縄についての中央差別にふれたことには『政治的発言を超える存在論的な響きがある』」と書いていました。
「沖縄基地問題の本質は差別なのだ」という指摘は、確かに本質をついていると私も思いますが、それでもこれはたたかいの最前線で基地問題と取り組んだり、米軍の植民地的治外法権の横暴に苦しめられている人々の側からすると、この評論は知事の言動を免罪する美化論の一系譜でしかないように思えます。つまり、騒音や人的被害に日々さいなまれている基地周辺の人たちからすれば、本土による「差別」であると同時に米軍による沖縄の「植民地支配」という問題なのですから、基地は撤去する以外に解決の道はないのです。

私たちは南風原から高速を名護市辺野古へ。連休中ということもあって、本部方面へむかう車で道路は相当に込んでいました。しかし、海洋博へ行く人たちを除けば、辺野古方面はがらがら。
座り込みテントのある辺野古の港に着くと、2年前に訪問した際に「辺野古の海の美しさや基地建設の理不尽さ、それを食い止めてきた歴史」などを話してくれた専従の女性の方が今もテントにいて、次々と訪れる人たちを相手に解説をしていました。
鳩山首相が宜野湾にもきて市長と会ったり視察をしたりするという話も出て、「ここにもくるといいのにね」と言うと、「こないこない。それは絶対にない」といいつつ、それくらいの度量があればいいんだがと言って「もしきてくれればしっかり話をするのに」と語っていたのが印象的でした。




その後前に来た食堂で昼食をとったあと、海沿いに南下して今度は宜野湾市にある普天間基地に向かいました。中部の町の沿道は、古い沖縄建築がまだいたるところに残っていました。
普天間基地の周囲を少し回ってみましたが、南のはずれに着いたのであまり雰囲気はつかめない。そこで、嘉数高台に向かい、たくさんの階段を上がって塔の上へ上ってみることにしました。
そこからはよく写真で見た基地の全容が見渡せました。沖縄国際大学をはじめとしてどこにどんな建物があるのかを示した写真や沖縄戦の鎮魂の歌碑、基地撤去のあとの土地利用の計画を書いたパネルがあり、塔の下には沖縄戦における嘉数高地の解説などが書かれていました。
すぐ下の写真中のMCAS Futenmaは「Marine Corps Air Station Futenma」の略。








塔の上からは、沖縄の一等地を基地が占めその周囲に建物がひしめいていることがよくわかります。ゴールデンウイークのせいか、飛行機の発着は見ることができませんでしたが、基地の中には大きな輸送機が何機か。

1日には嘉数高台から普天間を見下ろしただけなので、危険さの実態を十分知ることはできませんでした。そこで、沖縄最終日前日の5日、もう一度基地のまわりを回ってみることにしました。
この日はタクシー運転手をしているいとこが終日つきあってくれて心強い限り。
まず向かった先は4日に鳩山さんが住民と「対話」集会を行ったという普天間第2小学校や国際大学の周辺。
北のゲートに着くと、ひっきりなしにYナンバーの車が出入りしていました。金網ぞいにまわってみると、金網のすぐ隣は住宅地や畑。普天間第2小学校はフェンスから100メートルくらいしか離れていません。上空から見て「世界一危険」とラムズフェルドに言わせた状況は、現地に来てはじめてわかります。












その後、今度は沖縄最大の米軍基地嘉手納にまわりました。ここはとにかくとてつもなくでかい。何度か来たことがありましたが、例の「安保がみえる丘」を探すのにちょっと手間取りました。それもそのはずで、かなり周辺の道路が変わっていたし、道路をはさんで「安保の見える丘」の反対側には大きな「嘉手納道の駅」ができていました。むしろその4階からたくさんの人が基地を眺めていました。すぐ下の写真2枚は「安保の見える丘」から。道路を挟んで右が嘉手納の町。左が基地。
基地内では、ちょうど戦闘機がタッチアンドゴーの訓練中。猛烈な爆音をとどろかせて着陸と離陸を繰り返していました。レストランから見える、子どもの日の「こいのぼり」と、フェンスの向こうの広い基地いかにも沖縄の実態を物語っているように思えました。














  5月6日(木)
午後6時半近く無事池田町の我が家に到着しました。今日は富山で32度を超え、松本でも予報で30度というので「沖縄より暑いね」と言いながらの帰着でした。日が落ちてからはさすがに涼しく、カエルの大合唱が田んぼから聞こえてきました。
ところで、帰りがけ池田町に入ってクラフトパークを過ぎたあたりでふと見ると、山が燃えている。はじめは、野焼きでもしているのかなと思って見ていたのですが、それにしても火が大きすぎ消防車が次々と駆けつけてきます。車を止めて見ていた人に聞くと「山火事」ということ。いやいやこれには驚いた。
山腹の木を切り出したあとの禿げた一帯の真ん中あたりから出火したのか、枯れ草や枯れ木に火が次々と燃え移ってどんどん周りに広がっていったらしい。
だから「山火事」というよりは山腹での野焼きが延焼したような印象でした。しかしそれが周りの木々に燃え広がれば本格的な山火事になってしまいます。
私たちが着いたときは、かなり周辺まで火が燃え広がっており、そのまま立木に燃え移るのかどうかという瀬戸際でした。ただ山は新しい新芽が出たところで生木が多いので、境界まで火が来てもそれ以上は広がらなかったような感じでした。消火作業も懸命に行われていて、かなり下火になったことを見届けて家路につきました。
ほんのちょっとした火でも乾燥しているときは大きな山火事になる恐れがあるので、外で火を扱うときは本当に注意しなければならないと改めて思わされてたことでした。


沖縄ではちょうど鳩山さんがやってきて、とんでもないお土産を落としていったことや、里での法事の模様などいろいろ報告すべきことがありますが、まだ荷物も解いていないので、明日以降また時間をみて書くことにします。今日はとりあえず、無事到着したご報告まで。




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