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  10月28日(金)    
あんまり字を書きすぎ、しかも行間が標準ですので、読みづらいことこの上なし。今日からちょっと行間をあけて(125%)、多少は読みやすくしてみました。字の大きさはブラウザの標準なのでかなりでかい。私などはこのくらいがちょうどよいので、そのままとしました。

21日に先発のトラック隊の一行が、女川町の商工会へ義援金を届けたのはその日の午後。池田町の商工会長のメッセージをいっしょに持っていってもらえばよかったのですが、持っていたのは後発の私。結局土日にかかって渡すことができず持ち帰ってしまいました。それを今日電話した上であらためて郵送、ようやく肩の荷がおりました。
また、物資収集会場のスペースゼロにあった段ボール箱をMさんと運び出して、会場も元通り。いろいろと片付けるべき仕事があって、なかなか落ち着かない毎日です。
とはいえ、少しずつは目が我が家に向いてきています。午後からは我が家の大量のゴミも処理場へ運んでちょっとすっきりしました。全く手つかずに放置してあった我が家の庭も、明日からは徐々に片付けて、あまり恥ずかしくないようにしなければと思っています。
タマネギを植えるために苗は買ってあるのに、これもそのまま。お天気が続くようだし肥料も買ってきたので、明日は耕耘機を畑に持って行ってうえつけの準備をすることにしましょう。

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冬が近づくと、どうも憂鬱になります。というのも、受験生とくに高3生のおつきあいで、どうしても大学入試問題を解かなければならないからです。塾に勤めていれば仕方のないことなのですが、割と時間の余裕のある2次試験よりも入試センター試験の問題を解いていて、ものすごい違和感を感じることが多くなっているのです。たまに解いているから余計にそう思うのかもしれないのですが・・・。
時間さえあれば、大変いい問題だと思うものがほとんどです。しかし、60分という限られた時間の中で一体生徒の何を見ようとしているのか、さっぱりわからない問題にときおり出くわします。
明日生徒にやってもらうのが、2009年度の数学UBの問題。実際の平均点は50点。この時期に練習としてやってみれば、多分現役の目の前の生徒(中程度の進学校)なら30点から40点というところでしょう。松本深志あたりでも、上位は80〜90点はいるかもしれませんが、平均点では60点には届かないのではないですか。

大学入試センターのホームページで、「センター試験」の方針を見ると次のように書かれています。

大学入試センター試験は、大学(短期大学を含む。以下同じ。)に入学を志願する者の高等学校段階における基礎的な学習の達成の程度を判定することを主たる目的とするものであり、国公私立の大学が、それぞれの判断と創意工夫に基づき適切に利用することにより、大学教育を受けるにふさわしい能力・適性等を多面的に判定することに資するために実施するものです。

問題をつくる大学の先生たちも結構悩んでこれを作っているのでしょう。苦心の跡は随所にみられます。しかし同時に、過去とは異なるオリジナルな力作を作ろうというあまり、「方針」から全くずれて受験生をただいたずらに苦しませる出題になることも相当にあるのです。
2009年度本試の第2問から第4問はそのような問題です。これらが「基礎的な学習の達成の程度を判定」するにふさわしい問題かどうか、現場で教えている教師ならすぐにわかることです。高2までにすべての課程を終えて、高校3年で入試対応の演習をみっちりやっている一部の「進学校」の生徒なら、60〜70点とることは容易でしょう。それでも本番となるとそう簡単に高得点は取れない。
上にあげた問題は、ほとんどが2次型の問題であって、時間を十分に与えてよく考えさせ、それなりに熟考した答案を書かせるのであれば大変面白い問題です。しかし、時間内でこれらを解かせてどんな力を見るのでしょうか。全く理解に苦しみます。生徒の力を「多面的に」見るどころか、単に選別するだけのためのテストに成り下がっています。
こうしたテストが延々と続けられているこの国の異常さを、文科省も地方の教育委員会も学校現場も見て見ぬ振りなのか。それとも矛盾を感じながらも、今日の最善策だと思って思考停止に陥っているのか。そもそも高校3年間の数学(他の教科・科目も同様です)をたった60分のテストで評価する恐ろしさ。

そうですね、私なら次のように提案します。その年度のセンター試験をすべての高校教師に受けさせる。もちろん誰がどれだけの点だったかなど公表する必要もないことですから、結果だけでよい。その結果と生徒の結果とを見比べてみれば、とても面白いことが浮かんでくると思いますよ。どうすればいいのかを、高校側も大学側も真剣に考え始めるのではないでしょうかね。来年度からやってみてはいかがですか。

※後日談ですが、29日にこのことを高校3年の生徒に話したら、「そうだ、そうだ。やらせてみよう」「できが悪い先生は辞めさせよう」「大賛成」などという過激な発言を、しかも大声でしていました。



  10月27日(木)    
夜8時過ぎ、女川の高野さんから電話があって、体育館に保管してあった大量の布団について報告がありました。
石巻の共同ボランティアセンターから20人ほどが車を持ってきて、体育館の布団を仮設住宅に入る人たちに全て配り終えたということです。池田町の人たちからのプレゼントですというアナウンスをして配ったと言っていました。
選挙の政策チラシを配りながら、住民の話を聞いていたら、みんな大変喜んでいたということ。石巻からは、足りなかったときのことを想定して毛布も持ってきており、とにかく体育館の中はスッカラカンになったから安心して欲しい、みなさんによろしく、というのが高野さんの締めくくりの声でした。池田のボランティアもすごいが、石巻のボランティアもすごい。
あとは心おきなく選挙をたたかって、前回と同じく最高点で当選を果たしてほしいものです。もちろん阿部さんも高位当選を!!

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朝から全国的に秋晴れの素晴らしい日。こんな日に支援活動ができたらよかったのに・・とお天気がうらめしくなりますが、まあ雨の経験もまたよし。今後のいろいろな取り組みに貴重な教訓を付け加えてくれるわけですから。
朝から、現地に行ったスタッフと連絡をとりあいながら残った仕事をして午後2時過ぎようやく自宅にもどりました。女川から帰ってまだ自分の荷物も解いていないので、これからゆっくり残務整理と片付けにとりかかります。

毎年開いている「ピースイン大北」という組織から明日開くイベントで女川支援の様子を報告して欲しいという依頼がずいぶん前からあったのでした。ただ、あまりの忙しさに誰がそれをやるかを決めかねたまま女川から帰ってきたのですが、いざ決めるとなるとなかなか人がいない。Mさんに何とかやってもらえないかとお願いしたら、「他の人だったら断るところだけれど、あなたの頼みだからやるしかないね」と快く引き受けてもらえた。今日打ち合わせをした折に、さっそく「活動参加所感」をまとめて手渡してくれたのにはびっくりした。うれしかった。
彼の主張にはいちいち頷くことが多いのですが、「主義主張、趣味・趣向に関わらずもっと人間の本源的部分のコミュニケーションやお互い様と助け合う絆の部分を強くしながらも、決して強制しない『緩やかな紐帯』作りが必要である」という指摘はまさにその通りです。私たちのネットワークのありかたそのものであり、それを目指すことによってネットワークの輪を広げてきたのですから。
これが、被災地支援という目的だけではなく、もっと様々な分野で人と人とのつながりが生み出されたら、地域は変わり人も変わるのではないかと思います。その芽はいたるところにある。ただ、だれかがそれを引き受けて前に進まなければならないのです。

今日は遠く仙台からウオーキングの一行がやってくるというので、友人がガイドに出かけています。我が家の横をいつ通るのかと思って電話したら、もう終わったとのこと。今日は最高のウオーキング日和で、きっと満足して帰ってもらえるのではないでしょうか。何しろ北アルプスが見えるウオーキングが本当に少なかったから、今日はいままでとはまるで違う、まれに見る天気ですからね。
ネットワークのスタッフと道の駅で落ち合って、連絡していた折に、観光協会のUさんがハーブセンター前で忙しそうにしているのが見えました。今年のウオーキングにはまるで参加出来ず、心苦しい限り。そのぶん、冬にホームページの作成で一生懸命やりますから、大目に見て下さいね。

好天に誘われて、ほんのちょっとだけ外の風景を楽しんできました。近くの長福寺にはたくさんの人が黄金色に染まった大銀杏とその下のもみじを鑑賞に来ています。
昨日のテレビでこの大銀杏の紅葉が「見頃だと放送されたので来てみた」という老夫婦がいました。いっしょに境内まで行っていろいろ話をしていたら、軽井沢に別荘を持つ栃木の方で、何と息子の勤めている会社の地主だとか。
それ以外にもいろんな人と出会いましたよ。松川の議員さんが仙台から来たというグループを連れて来ていましたし、被災地支援でお世話になったボランティアの方も訪れていました。
訪問者の会話に耳を傾けていると、「こうしてみると池田町は捨てたもんじゃないね」ですって。
外は秋。名残のコスモス、たわわに実った柿の木。それぞれに秋の風情を演出して気持ちの良い午後のひとときです。








仙台のKさん、ご実家近くで撮った写真(25日付け)に大きな画像をリンクしておきましたからね。ダウンロードして印刷などに使ってください。それにしても、針浜の親戚やご近所のみなさん、本当にいい顔してますね。こんな人たちの中で育ったKさん、心根のやさしさのふるさとがわかったような気がします。心がなごみます。こんな人たちと出会ったことが嬉しくてジーンときます。それに集合写真がまたいい。やれるだけのことをぜ〜んぶやって晴れ晴れとして、どことなく素朴で、親しみのある・・・そんな人間たちが勢揃いしています。

昨日から今日にかけてやっていたもう一つの仕事、日本共産党ファンクラブニュースがようやく完成し、印刷に回すことができました。いつもより一週間遅れの仕事になってしまいましたが、やむを得ません。配達をなるべく早くしてもらえるようにお願いするしかありませんね。よろしく。

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FCニュース裏面




  10月26日(水)    
1万人の池田町の住民が1万人の(津波で1割が亡くなったが・・・)女川町の住民を支援する。このタイプの支援活動はあらゆる意味でやりやすい。海のない農村の町が海だけが頼りの漁村の町を支援する。偶然とは言えこれもなかなかの支援の仕方です。
1万人の町で取り組んだ支援の結果は写真でご覧の通りなのですが、物資が80坪ほどもあるホール一杯になり、義援金と運営費を含めて110万円を超え、物資を運ぶのに使った車両が4トントラック2台と2トントラック(ロング)1台。さて、これを10万人規模の市、あるいはもっと大きく50万人くらいの規模に広げたらどうなるだろうか。
現地ではいまも全国から続々と支援ボランティアが入ってはいますが、池田町の近隣では、この種の支援行動はほとんどみあたらない。無いから遠く塩尻からも物資を届けてくれる人が後を絶たないということなのです。
私の場合はもう一つ、高野さんという具体的な人が女川町にいなかったらどうだろう、ここまでやれただろうかと思わないわけにはいきません。3.11直後に書いていた自らの記事をときどき読み直しているのですが、そのときの感情をずっと持ち続けることは難しい。何かをしたいのだけれど、結局何もできないまま、日常に埋もれていくということだったかもしれない。いやその公算は限りなく大きいのです。

ただ、次のようなことは言える。仲間たちの誰もが今や「女川町」と聞くと直ちに反応して記事を見たりニュースを聞くというように、ともかく作ったつながりは消えない。消えないどころか、次々と新しいつながりを生んでいくのです。
今回は松本市から、自ら志願して支援活動に加わった男性がいます。医療団体からの派遣とはいえ、自ら積極的に参加した男性もいます。ボランティア・デビューを果たし大活躍をしたMさんの奥さんもいます。私の妻も、いろんな予定をやりくりして参加しました。
そして今回特筆すべきことは、女川町出身の女性Kさんのめざましい活躍でした。現地でスタッフに加わっただけではなく、案内役から物資の配布、軽トラックの提供までしてくれ、さらに家族ぐるみで物資配布などの応援をしてくれたのでした。
台風で甚大な被害を受けた地元に帰り、先頭に立って案内してくれる先から、なつかしいおばあさん、おじいさん、親戚の人たちと涙の再会。私たちもホロリホロリとなりながら、米や野菜の入った袋を届けて回ったのでした。帰りには家族から大量のサンマをお土産にまでもらった。これは、後片付けを手伝ってくれたボランティアのみなさんにお分けしましたよ。うまかった。

今回のとりくみで、間違いなく輪はひろがり、裾野をひろげ、被災地を忘れていないというメッセージを池田町民(および近隣の市町村)と女川町民に示したと思います。ここまでやれるとは誰も思わなかったでしょうね。
ローカル紙の好意的な記事がどれほど力を発揮したかわかりません。また、商工会、米屋さん、トラックを提供した事業者などの後援、何よりスタッフを支えきった沢山のボランティア。いやいや、このうちどれが欠けても、支援活動はうまくいかない。そうした人たちと支援のこころが池田町にはあるということです。
雨のせいで、うまくいかなかったり不満を残すことはいくらでもあげられますが、まず確認しておきたいのはこのこと。3.11直後から粘り強くジミに、それこそ地を這うようにやってきた成果が、テント前に列をなして順番を待つ女川町の人たちの姿に繋がっている。物資を受け取って顔をほころばせるお年を召したおばあさんに繋がっている。

しかし、一方で次のようにも思うのです。私自身のやっていることは、特別なことでは決してなくて、いってみれば「あたりまえのことを、あたりまえにやっている」ということです。確かにチラシを作ったり、行動計画を練ったりすることは誰でもできるとはいいませんが、たいていのことは時間を提供することができる人でありさえすれば、あたりまえにできることばかりです。だから池田町ではその思いを持っている人が次々と繋がってきているのでしょう。
しかし、この社会は、そうした「あたりまえ」の感覚と行動をあらゆる場所で奪い去ってきたのではないのか。つまり、私たちの行動は、人間として社会生活を普通に送っている人々なら誰でもできることをやることによって、「あたりまえ」の復権を問わず語りに要求しているともいえるのです。

あまり間をおかずに、今回の行動の総括会議を開くことと、町民への報告をしなければなりません。ちょっとパソコンの前に座る時間が長かったので今日は思い切って報告原案を作成しました。ネットワークのみなさんのご意見をいれてよりよい報告にしますので、チェックしてください。よろしく。




さて、恥ずかしくて身が縮むようなお褒めの言葉をMNEMOさんに書いていただきました。彼から書いていただいた中で、とくに次の2つのことがうれしかった。
1つは「積極的な方向とは、『ある人の行動によってうれしくて涙が出てしまう人が出るという図式が連鎖的に起こる事態へと向かって行くこと』」だという「積極性」の定義です。打算だけで動いていれば、そんなことは決して生まれ得ない。私心を一杯持ちながらも、この時はただあそこにいる人たちの役に立ちたいというだけの思いで具体的に行動したときに、その涙はこぼれ落ちて、さらにその連鎖が生じるのでしょう。私はKさんからそれを教えてもらいました。
第2は、彼のこの感想を私の日記を残らず読んだ上で書いていただいていることです。断片を見て判断するなら、どんな評価も可能でしょう。私も生活のすべてを書いているわけでもなく、妻と諍いを起こしたりやけになったりしたことや、ネットワークの活動がうまくいかないで怒り狂っていることを書くわけにはいかないのは致し方ないことですからね。ただ、できるだけ正直にありのままを伝えるということは心がけてきたつもりだし、可能な限り「証拠書類」「証拠写真」を示して記事を書いてきたので、それなりに私の考えや行動は理解していただけただろうと思うのです。それをMNEMOさんは欠かさずやって下さっている。ありがたいことです。彼の学識・教養と判断力には敬服するものがあり、尊敬する数少ない人物の1人なのでよけいにそうです。
ところで、私ってそんなに「とっつきにくい」かなあ・・・・

私の日記をこれも書かさずチェックしてくれている東京在住の我が友が身体を心配して「釈迦に説法ですが、ぼちぼち長く、地下深くやらないと、なかなかこの国はてごわいですもんね。どこかでぜひ『気を抜いて』くださいね」と言ってくれました。そうしたいと思っていますよ。常々。妻と温泉にでも行ってきますか。いやいやタマネギを早く植えないといけないのでした。それからですね。



  10月25日(火)    
長かった支援活動の準備期間、そして女川での本番の支援活動。ようやく一区切りつきました。
後片付けも支援活動のうち、と昨日から今日の午前中にかけて物資収集の会場であるスペースゼロの片付けや清掃を行い、今日の午後やっとゆっくりした時間が取れました。
と、いいつつ、実は次の仕事のファンクラブニュースの作成が追っかけてきていて、午後遅い時間からそれにかかりきり。あと1つの原稿を残してレイアウトも含めて何とか形をつけました。
当然のことながら、残務整理はまだまだ残っているし、町民への報告やネットワークの総括会議の準備もあるので、まだしばらくは断続的に仕事が続きます。

さて、その女川支援行動、一日目はときどき激しく降る雨にたたられて、全員びしょ濡れになりながら、それこそ渾身の力をふりしぼっての懸命の作業を続けたのでした。何と言ってもこのネットワークメンバーの一致した献身的な全力投球が、雨の中でも何とか支援活動をやり遂げられた最大の力でした。本当にみなさんには感謝です。素晴らしいメンバーです。

仮設住宅を中心とした2か所の「青空市」には定刻前から長蛇の列。それぞれに袋を持った人たちがあらかじめ配布してあったチラシを持ちながら順番を待っていました。30分も1時間も辛抱強く待ち続ける人たち。人気はやはり毛布や暖房器具でした。ずっしりと重い米や野菜の入った袋もそれぞれに嬉しそうに受け取っていただきました。
待っている人たちの顔には時折笑顔も見られて、5月とはずいぶん違った和やかな印象を受けました。そうしたみなさんの嬉しそうな顔が私たちに「やってよかった」という気持ちにさせ、疲れをとってくれたのでした。
ともかく写真と報道記事で今回の支援行動を振り返ってみます。総括的なまとめはあと少し時間がかかります。

1.













































  10月19日(木)    
いよいよ明日の朝出発です。ただし、天候が下り坂で、本気で雨を心配しなければならなくなっています。
今朝高野さんに連絡して、体育館を借りるなどの対策を検討して欲しいと伝えましたが、彼は至って楽天的で「あんまり気にしなくていいんでないの。高野博は晴れ男だから」。ま、そう願うことにしますか。テントや机など雨対策はある程度しっかりしていくことは当然ですが。

朝9時に積み込み準備を開始し、午後1時から積み込み開始。これにはこれまでにないボランティアの皆さんが来てくれて、それはすごい働きぶりを発揮してくれました。4トントラック2台、2トントラック1台という、想像を超えた物資を運ぶ今回の支援行動は、池田町にとってもよい経験を重ねる活動になるはずです。
ともかく事故のないように万全を期して、女川町民に池田町民のこころを届けてまいります。
支援・協力いただいた皆さま、本当にありがとうございました。



  10月18日(火)    
作業再開。どのくらいボランティアのみなさんがきてくれるだろうかと心配していたのは全くの杞憂、いやいや私の至らなさ。朝早くから10名以上が来てくれて、どんどん作業がはかどりました。
その一方で、今日も物資を運び込む人があとをたたず、13人が膨大な数の衣類や布団などを持ってきてくれました。これらのほとんどは数日前にタウン情報や市民タイムスが報道してくれたときに問い合わせてくれていた人で、持ってくるタイミングを失っていた人たちばかり。たくさん集まっているからと断るわけにもいかず、何とか受け入れて仕分けを終えました。
現地に行くスタッフよりも仕分けを手伝ってくれる人たちが多く、これはもう本当に嬉しかった。昨日あたり、相当に落ち込んでいたこともあって、涙がでそうなほど嬉しいことです。このみなさんの気持ちは、間違いなく女川のみなさんに伝わることでしょう。ありがとうございました。

明日は今日の続きで、今度は積み込みの手順をしっかり確認し、向こうでうまく荷下ろしができるように荷物の配置を考えること。私自身まだイメージが十分にできていないので、明日は荷物担当のスタッフとしっかり打ち合わせ、万全を期すことにしましょう。
明日から野菜が届くし、あさっては豆腐の搬入もあるので、今日までとは別の対応が必要になります。何か抜けたことがないかどうか。よくよく手順を確認しておくことが私のつとめ。あとしばらくです。

写真は上から休憩時のミーティング、下はほぼ作業が終わった後、よくやったねと一息をいれているところ。







  10月17日(月)    
高野様へ。 仮設前での青空市の最終稿をメールで送ろうとしましたが、そちらのメール容量が一杯で送れません。そこで、下からダウンロードして使って下さい。なお、行動計画表も送ろうと思いましたが、プライバシーに関わる問題がありますので、必要なことのみメールでお知らせします。よろしく。

新田青空市用チラシ

旭が丘用チラシ

週末にかけて天気は下り坂のようで、22日の青空市が心配。何とかもってほしいものです。今日も朝から数人の問い合わせ。安曇野市や松本などから電話です。松本に用があった妻に、ついでに取りにいってもらいました。
明日からまたスペースゼロを会場に、仕分けと梱包、積み荷の準備がはじまります。まだ明日・明後日と遠くから物資を運んで来てくれる人がいるので、仕分け作業が必要なのです。まだ小分けが済んでいない米の袋詰めも残っているし、仕事があとからあとから湧いてくるような感じ。泣いても笑ってもあと数日で終わりです。
咳がとまらず、体調はいまいちですけれど、何とか乗り切らなければと気持ちを引き締めています。


21日からの準備をしながら、いろんなことを考えています。私たちがいまやっているような本格的な物資支援の活動は、近隣の市町村でもまず耳にはいりません。被災直後は凄まじい勢いで広がった物資支援のとりくみも、被災から7,8ヶ月も過ぎるとほとんど聞かれなくなる。もちろんサークルのような規模で、作ったものを送ったり、生鮮食料品を届けたりという取り組みは行われています。持続的にすすめられているこのような活動は尊いものです。
私たちが行っているのは、冬に向かう現地のみなさんに暖かい冬を過ごしてもらえるように、布団類や衣類、米、野菜、食器など仮設住宅の生活で不足していると思われるものを大量に届ける活動です。今回は、住民からの反応が凄まじく、4dが2台、2dロングが一台と前回の優に2倍の物資の運搬と人の派遣です。
確かに、このような呼びかけに応えてくれる人たちがこれほどいるというのは、「この日本まだ捨てたモノじゃない」ということでしょう。
しかし、何故にこうしたボランティア活動が尻つぼみになっていくのか。今はよくわかるような気がします。民間でそれを行うには、まず資金です。何をするにもこの種の支援活動は身銭を切ってやれるほど甘くはない。
二つ目が活動を支える「ヒト」です。これはお金以上に決定的な要素です。だいたい、このヒトで行き詰まると、ボランティア活動はうまくいかない。ヒトがカネを呼び集めるのですから。そしてこのヒトの問題こそ、ボランティア活動の最大で最難関の課題なのです。活動の正否はここにかけるエネルギー量に比例するといっても過言ではない。
池田での活動がこれまで続いてきた大きな要因は、それだけのスタッフがそろっていたということに尽きます。しかし、そのスタッフも当然のことながら一枚板ではないわけで、言うに言われぬ苦労がつきまとう。投げ出したくなる気持ちに何度も襲われながら、それでも被災地のことを考えてとりくみの意義を見いだし、我と我が身を奮い立たせるのです。経験した人でなければわからない辛さが襲ってくる。
当たり前のことを当たり前にやっている、とはいっても、それがどれほどのエネルギーをともなうものか。これはやってみなければわからない。
全国で被災した人たちに寄り添い黙々と働いている人たちが、どれほどの辛さを隠しているのか。どんな気持ちを堪えているのか、今はちょっとはわかってきたような気がしています。

池田では、すっきりと晴れた空に、中腹が紅葉した北アルプスがくっきりと見えて、秋がどんどん深まっていく様子がわかります。
もう白馬方面の初冠雪はなくなって夏のアルプスですが、それもあとわずか。すぐに頂が真っ白になって、田畑もモノトーンの世界に変わっていきます。





  10月15日(土)    
何とか雨があがって、予定の「広津紅葉散策」がうまくいくといいですね。私は今回はじめてパス。というのも、被災地支援の計画作りや書類をつくるためにずっとかかりきりになっているからです。スタッフのみなさん、ごめんなさい。

さて、昨日の信濃毎日新聞一面トップに次のような記事が掲載されました。


これは神戸大学名誉教授である石橋さんの説を紹介したものです。東海・南海地震が発生した際に糸静線断層帯も連動する可能性について、信濃毎日は「新たな説」と書いていますが、前に紹介したことのある「大地動乱の時代」(1994年 岩波新書)ではすでに次のように指摘されているのですから、当時の最新の知見をさらに発展させたものといえるでしょう。

西南日本東進説の立場からは、アムールプレート東限の日本海東縁〜フォッサマグナに沿う大地震の続発に注意する必要がある。最近日本海中部地震と北海道南西沖地震がわずか10年で続発したこと、前者の翌年に84年長野県西部地震(M6.8)、93年2月に能登半島沖地震(M6.6)が発生したことは、アムールプレート東縁の応力状態がかなり高まっていることを示しているようにみえる。・・・安政東海地震の震源断層運動は、アムールプレート東限に沿って駿河トラフから甲府盆地近くまで及んだ疑いもある。

東海地震を引き起こす力はフィリピン海プレートの沈み込みだけではない可能性が強い。
東海地震の発生メカニズムを再考するとき、西南日本と東北日本が別々のプレートに属するという、83年ごろに登場した新しいプレート論が本質的に重要である。それも通説の「北日本北米プレート説」ではなくて、私が「西南日本東進説」とよぶ考えが重要である。


今回の石橋さんの学会での報告は、3.11東日本大地震によって糸静線より東側部分の近くが東へ動き、力のバランスに変化が生じたために、アムールプレートの東進がよりいっそう促進される可能性があるということです。

8月23日の日記で、東海・南海地震、首都圏の地震についての石橋さんの説を紹介しています。あらためて、最新の地震学の知見をよく知り、対策に活かすべきだと思われます。
信濃毎日は今日付でさらにつっこんだ記事を載せています。

政府の動き

県内の動き

これらの記事の中で、県内の自治体では「学説の1つとの受け止め方が多い」と書かれていましたが、これはまずいでしょう。国だって同じこと、「学説の検証必要」だなどと今頃行っているんですから。結局大災害が起こってから、「大災害が起こる可能性を検証しよう」などと言っているに等しいような気にさえなります。石橋さんの警告は1990年代の初めなんですよ。
地球温暖化説だって、ピークオイル説だって学説。しかし、海外の研究者や自治体の方がはるかに現実的に対応しているのではありませんか。3.11を経てなお、対策に熱が入らないとすれば、これは自治体の役割を放棄したも同然だと私は思います。
8月の記事で紹介したように、石橋さんの指摘で重要なのは、もし今後大震災が起これば、それは必ず「原発震災」となるという点です。これは強調してもし足りないくらいです。
国、県、市町村レベルで最悪のシナリオを想定し、緊急な課題から迅速・確実に対策を講じていくことは当然必要です。しかし、その際に全国の自治体でみられるように、行政の縦割りの弊害や地域住民と連携した動きを作り得ない弱点をどう克服するかも大きなテーマになってきます。

さて、そうしてみたときに我が町はどうなっているんでしょうかね。
ポツポツ、トビトビの我がK町長のブログによると、敬老祭へのメッセージで「当町は地震や放射能の被害もなく、日々安心して暮せるありがたさに改めて感謝するとともに、同朋日本人・長野県人として被災地の復興を支援するとともに・・・」と書いておられます。私にはこの感覚が全く理解不能です。
ひとたび原発震災となれば放射能の影響は計り知れないわけで、信州安曇野だけがこれから無縁であるはずがありません。町長さんはいったい何に感謝したいのでしょうかね。
自治体のイニシアティブで原発から脱却し、地域でのエネルギー自給を達成し、子どもたちの将来を守っていかなければならないとき。まさに歴史的転換点であるという認識が行政と住民とで共有されなければなりません。
さらに、被災地の復興をいったいどのように支援しようとなさっているのでしょうか。是非ともお聞かせいただきたい。



  10月14日(金)    
信濃毎日新聞の地域版情報紙「タウン情報」が記事を載せてくれて、今日は大北地域で新聞に折り込まれたために、今日も朝から電話が鳴り出して、9時前にはすでに2件物資収集に行ってきました。米と布団です。
それ以後も松本、穂高、安曇野市などからの電話が鳴り止まず、えらいことになっています。


電気カーペット、米、茶碗、コートなどの提供の申し出があって、これは一人では対応できません。メンバーの仲間達は、積もった自分の仕事をしたり、体調を崩したりして、実働部隊がほとんどゼロ。やむなく、午後からボランティアの仲間や困ったときの神様にご出動願って、我が家で当面の活動を乗り切る作戦をたてることにしました。

私の仕事は、物資の受け付けもさることながら、このあとの日程や物資を運搬する計画と、参加者の役割分担、配車計画などを考えることです。




  10月13日(木)    
タウン情報紙が報道してくれたおかげで、私の携帯電話は朝から鳴りっぱなし。松本、塩尻といった遠距離からの物資提供の申し出が相次いでいます。昼過ぎには塩尻から乗用車で布団を届けてくれた女性がいました。5月にはなかった反応です。

スタッフ(私を含め)の疲れも相当たまっているので、物資の集積場は17日まで閉鎖することにしました。しかし、各紙の問い合わせ先が全て私になっているので、直接私に届けてくれる人もいて、またまた我が家が集荷場になっています。うれしい限りです。

私はここ2,3日現地で青空市を行うことを知らせるチラシの作成にかかりきり。どうやったらうまく配布できるのか、こればかりはどんなに頭の中で描いたところで、現実の進行のシミュレーションにはなりません。前回の青空市を参考に、みなさんが仮設住宅に入って比較的落ち着いていることを前提に組み立てて、それにあうチラシをつくってみました。これでうまくいく保障は少しもありませんが、こちらの意図は何とか伝わるのではないでしょうか。

高野さん、阿部さん、下にチラシ原稿を載せましたので、ご意見をぜひお寄せ下さい。





  10月12日(水)    
支援物資のうち、大量の布団類を保管してもらえる場所がみつかりました。安心して支援に出かけられます。宿泊も阿部さんのご厚意でうまく行きそうだし、支援行動の参加者も15名を超えそう。トラックは現在4dと2dがそれぞれ一台ずつ確保、しかしあと一台必要です。その手配がいまいちですが、何とかなるでしょう。大応援団が来週女川に行きます。

今日は1人で朝から物資集積場のお守りでした。すでに物資の収集は終わっているにもかかわらず、午前中だけで3人が品物を届けてくれました。そのうちの1人は昨年の米だけど・・・といいながら30キロ一袋を持ってきてくれたのでした。その心根は涙がでるほどうれしい。

これまでに寄せられた米は約1500キロ。30キロの袋にして50袋に達します。米どころとはいえ、売ればお金になるわけですから、届けてくれる行為には並々ならぬ気持ちが込められています。そして、米を届ける行為にはまた、間違いなく米を作っている農家の自負と誇りも込められています。自分のつくったおいしい米を東北の人たちにぜひ食べてほしいという。

被災地の人たちにとって、主食である米のありがたみ、米のうまさはひとしおでしょう。5月の被災地支援の際に、高野さんに「何が一番必要か」と聞いたとき、即座に「米」という返事が来たことが今も耳に残っています。
重い30キロ袋から2キロずつ小分けする作業をしていると、ずっしりとした重みが腕に伝わってきて、だんだん腕が麻痺してくる。小分け作業の中で、米の一粒一粒に、日本の大地の恵みが乗り移り、人々のいのちと暮らしを支えている、そうした実感が伝わってくるのです。
実は、何を隠そう、これまで一度もそんなことを思ったことがなかった。米びつの中から米を取り出して洗って炊くだけ。1つの操作の中の対象物、単なる胃袋を満たす食料としか米を見ていなかったのでした。
それが、農家のみなさんが被災地のために収穫したばかりの新米を届けくれる現場に居合わせ、精米したばかりのまだ暖かい米袋から米を取り出して小分けするとき、その小さな粒の意味が手のひらに伝わってくるのです。農業者の米に対する愛着というのはそういうものなんだろうな、と少しは納得できた気がしました。

政府は11月のAPEC首脳会議までにTPPへの参加を決めるのだといいます。にわかにTPP問題が改めて浮上してきたため、農業団体などは猛烈な反発を強めています。
日本の農業を大規模化し第6次産業化すれば、関税を撤廃しても日本の農業は生き残れると政府は言う。米を作ったことも支援行動をしたこともない役人の発想では、日本の米もアメリカの米もアジアの米も同じ米なんでしょう。安ければ安いほどいいということになるのでしょうか。米作りがどれほど日本の大地を豊かにし、環境を守り水源地としての役割を果たしているかという認識も全くないのでしょう。米と輸出関連企業の生産物を同列に並べて議論する愚かさにそろそろ気がついてもよさそうですが。何かあれば、まず「米」なのです。
たとえ、食糧自給率が10%を切っても「安ければいい」という発想は、多国籍企業の「人間抜き」の発想であり、利益さえ上がればどんなことでもするという資本の論理です。この非人間性は歴史的な問題もあって日本の大企業ではとりわけ露骨で激しい。
輸出関連企業にとっては、関税が撤廃され輸出しやすくなる環境は当然必要とするでしょう。一般論でこの問題を片付けられては困ります。
確かに輸出関連企業はもうけをあげられるでしょう。これまで日本の大企業は国内での産業の循環をつくり内需を掘り起こして成長をはかるのではなく、逆に中小企業に犠牲を転嫁しつつ輸出をのばして利益をむさぼってきたのでした。労働者の賃金は押さえ込まれ、福祉は削られ、大企業だけが利益をため込むだけため込んできたのではなかったか。それをさらに極限までおしすすめようとしたいだけ。勤労国民にとっては何らのメリットもありません。
企業が海外に出て行かざるをえない、日本の産業が空洞化するなどというのはとっくの昔から言われてきたことでしょう。あたかもTPPに参加しなければ日本の屋台骨が壊れてしまうように思わされているとすれば、そんなものは幻想でしかない。TPPが日米TPPとなることは明らかである以上、ますます従属の度合いを深め、食料からエネルギーまで根こそぎアメリカがらみとなってしまうでしょう。

TPPに参加し、米をはじめ安い農産物が次々となだれ込んできたことを想像してみましょう。都会のスーパーには、日本の米と同じ品質、同じ味覚と銘打った「海外ブランド米」が所狭しと並ぶ。外食産業で日本の米を使うところはなくなり、後継者難でただでさえ高齢化が進んでいる農家は次々と米作りから撤退していく。保水能力を失った水田地帯は荒れ地と化し、大規模災害に脆弱な土地となる。荒れた農地を復元することは難しい。
米だけはTPPの除外品目とするように交渉すればよいという論調も目にしますが、TPPの何ものかを理解しないお人好しな言い分です。「例外なき関税撤廃」ではそんなことは許されない。それでもなお、TPPを丸飲みしようという民主党政権はまさに亡国の政党でしかありません。
原発もTPPもいのちの根幹にかかわるい問題です。大企業の論理にひれ伏すのか、人間中心の論理を貫くのか、いままさにその岐路にあるといえます。



  10月10日(月)    
朝8時半に物資収集の会場に行き、午後5時頃帰って、それから仕事に行って午後10半頃に帰る。そのあとは、一日のまとめのプリントをつくってバタンキュー。そんな日が7日から4日間続きました。
なかなか書きたいことも書けず、あっという間に日が過ぎて今日。ようやく物資の梱包をほとんど終えて、一区切りがついたところです。
それでも今日も夜に、「こんなものがあるんだけど、持って行ってもいいか」という問い合わせがあって、しばらくは会場に行き、集荷を続けなければなりません。

さて、今日まで集中的に行った支援物資を集める活動は、予想をはるかに超えた盛り上がりで、会場が物資であふれるばかりの状態に。義援金も目標の2倍以上の額になり、うれしい悲鳴を上げることとなりました。それだけ、被災地を思い、何かをしたいというこころが潜在的にずっと息づいていたということでしょう。本当にうれしいことです。やってよかったと思います。
1時間以上かけて車で物資を運んでくれた人、大きな箱に入れた物資を我が家までわざわざ送ってくれた人、軽トラ一杯の荷物を積んで駆けつけてくれた人・・・無数の善意が集荷物に込められています。これら一つひとつの物資は単なる「モノ」ではありません。
1人で多額の義援金をさりげなく募金箱に入れていったお年寄りがあり、年金から精一杯のお金を捻出して募金箱にお金を入れてくれた人があり・・・お金にも心がこもっています。決して無駄な使い方はできないと改めて思わされました。
そして今日は郷里が女川町だという若い女性が訪れ、「報道もされない一地方の女川をどうして池田町の有志が支援するのか」と不思議そうに質問しました。事情を説明すると、いちいち頷きながら納得してくれ、「実は私は女川町の出身」であり、「最近越してきた池田町でこのように郷里の支援をしてくれているなど思いもしなかった」と話してくれました。そしてそのあと郷里の惨状に思いを馳せ涙を流しながらいろいろと女川の様子を話す彼女の姿に、スタッフも思わず貰い泣きする一コマも。
本当にいろいろなドラマが生まれた集中支援活動となりました。

この3,4日の取り組みを振り返って思うのは、「支援ネット」が町の内外でしっかりした市民権を得て、町民の中に支援のこころをずっとともし続けてきたことの意義です。この活動は確実に大きな広がりを生み出しました。
あとはこれをどうやって女川町民に届けるかということ。これは思うほど易しいことではありません。まず派遣人員の確定、トラックの確保が優先されます。トラックも4トン車で3台ほど必要だし、運転手も当然複数いるわけですから、なかなか難しい。
さらに、大量の物資をどのように渡すかという段取りも周到に立てなければなりません。あと10日余りで現地へ出向くわけですから、これからが準備の正念場。心して取り組んでいかなければなりません。

もし高野さん、阿部さん、これをお読みでしたら、何とか布団類の保管場所を確保してくださいますように。石巻や周辺を含めて複数でも一向にかまいません。それでも困難な場合は、どうぞご連絡を。無理を強いるような支援活動はすべきではありませんからね。
支援行動のスタッフは、今度は約15名。女川出身の女性も多分同行します。また今回は、血圧計・骨密度計などの健康チェック器具も携えて行き、22日午後から交流をしながら健康チェックもできるように考えています。
米も2キロずつ袋詰めし、約700人分確保しました。まだ増えるかもしれません。すごいです。重たいです。4dトラック3台ほど要ります。
まもなくまたお会いできますね。町民向けのチラシもつくりつつありますので、あとしばらくお待ち下さい。天候がよいことを願うだけです。

写真は9日から10日かけての支援行動です。























  10月7日(金)    
物資・義援金受付の初日が終わりました。この日以前に受け取った人を含め、50人の人が物資を提供、会場のスペースゼロは初日にして物資の山に覆われることになりました。
特徴的なことは、布団、衣類、暖房器具など冬に備えて、被災地の人たちに暖かくしてほしいという気持ちの表れが大きかったこと。検討していたトラックの容量では足りなくなりそうな気配です。
土日の今日、明日で町民の皆さんからどれだけの物資やお金が寄せられるのか期待されます。きっかけと適切なよびかけがあれば、答えてくれる町民の気持ちは深く広くあることをこの支援行動は示しているといえます。
新聞記事は、上から昨日の大糸タイムス、今日の信濃毎日新聞、市民タイムス。
















  10月6日(木)    
夕方またかなりの地震。長野と富山の県境付近を震源地として、長野県北部と富山県東部が揺れまくっています。風呂に入るにも覚悟が入ります。

午前中は、明日からの物資あつめの準備。会場のスペースゼロで掃除をしたり、シートを敷いて我が家からすでに寄せられたものを運んだりしました。いよいよ明日からの3日間が勝負。いかに資金をあつめるか、現地支援の体制を整えるかがこの3日間にかかっています。うまくいくように精一杯やるだけです。

さて、歳月の移ろいは無情。月日の流れはどうもがいても止めることはできない・・・・。アップルの創設者であり、つい最近まで最高責任者だったスティーブ・ジョブズ氏(56歳)がついに亡くなったというニュースを聞いてそんなことを思っていました。
病を得てからは時間の問題ではあったのでしょうが、MacユーザーにとってはもちろんのことIT業界にとっても大変な衝撃であることは疑いないところでしょう。asahi.comが紹介する追悼コメントがそれを物語っています。
ジョブズがアップルに復帰してからのめざましい活躍はもはや誰知らぬもののないくらいになっていました。ウインドウズユーザーだけではなく、今までアップルに全く縁がなかった若い層までことごとく魅了し尽くすという歴史を創ったのですから、ジョブズという天才はこれからも事あるごとに語り継がれる伝説の男になるのではないでしょうか。

スティーブ・ジョブズが最高責任者になる前はジョン・スカリーから引き継いだギル・アメリオがアップル社の再建にとりくんでいました。1990年代半ばにはパソコン市場でのアップルのシェアはかつての20%から8%に落ち込み、IBMやサン社に身売りする話も公然と検討されていたのです。製品の品質の悪さ、商品管理のずさんさなどによってアップルの業績は手がつけられないほどになっていた。
そうしたアップル社の立て直しに白羽の矢が立てられたのがアメリオだったのですが。
あれこれの改革に乗りだしたものの、企業体質は大きく変わらず、新しいOSをどのような仕様にするかでマイクロソフトのビルゲーツにウインドウズNTをベースにしたマックOSの開発を持ちかけ、ビルをその気にさせた一コマもありました。
しかし、交渉は継続しつつも、社内での駆け引きからSolaris、BeOS、NeXTなどが次々と新OSの候補に挙げられ、最後にはジョブズの率いるNeXT社のUNIXをベースとしたOSに決まります。それがジョブズ復帰のきっかけになったのでした。
ジョブズ復帰とともに、CEOから引きずり下ろされたアメリオは次のように書いています。
「スティーブは、いまや自分の履歴書に新たな一行を書き加えた。それはCEOの乗っ取り≠ニいう特技だ。次なる標的はウォルト・ディズニー社かもしれない」。
アップル社の転落の歴史を何とか立て直そうと努力しつつ、結局はジョブズにバトンを渡さなければならなかったアメリオの回顧は「アップル薄氷の500日」(ソフトバンク)にくわしい。

彼の光と影は語り尽くされているので、とくべつにここで評論しようとも思いません。ただ、この500日を含めてマックユーザーだった私には、やはり一種の感慨を禁じ得ないものがあります。
何と言っても、マックのユーザーフレンドリーな設計指針。次に、画面にあらわれるすべてにわたっての「美しさ」の追求。一時、マシンのつくりが全くこの路線から外れて、どんどんユーザーを失っていった時期がありました。それこそアップル薄氷の500日の内実なのです。
しかし、ジョブズ復帰後の設計の立て直しは見事というほかはない。ただ、形にこだわる余り、使い勝手にはユーザーフレンドリーとは言い難い問題も多く出てきています。
アップル社はジョブズが90年代の終わりに自ら告げたように「世界は変わりました。マックは寿命をまっとうしたんです。新たな何かに移行する時期です」という路線にそって、次々と魅力的な製品を開発してきました。それもジョブズの卓越した能力によって。
しかし、それから時代はさらに確実に変わってしまった。彼自らの言葉をもじっていえば、「ジョブズ個人がリードして新しい何かをつくる時代は終わった。ジョブズは寿命を全うしたのです」。

アップル社がこれからどこへ向かうのか、パソコンメーカーからさまざまなIT端末のメーカーに脱皮したのはいいけれど、肝心のコンピューターはどうなるのか。新しいマシンを買う余裕をすでに無くしてしまっている私のような存在でも、興味は尽きません。



  10月5日(水)    
19時、19時6分とたて続けに震度3から4クラスの地震。私はちょうど震源に近い大町にきていて、生徒達と雑談していました。ゴーという音とともに建物の2階が強い縦揺れにおそわれましたが、時間は約15秒くらいと短く、たいしたことにはなりませんでした。
「ビビッた〜〜」「怖いなあ〜〜」と高2の生徒達。「今度、歩けないほどの大きなやつがきたら、まず机の下にかくれろ、揺れが収まったら外に脱出する。ここは2階だから家が壊れても大丈夫だ」と、かなり無責任な私。せまい鉄筋の階段を通って下へどうやって逃げたらいいのか、しばし生徒と話し合ったことでした。
午前中には東北で、夕方には北陸・甲信越で、そして夜には九州で地震。日本列島が揺れ続けています。何か得体の知れない大きな変動の前触れでなければよいのですが。

話はガラッと変わります。
1990年代に始動したALMAプロジェクトによる次世代型大型電波望遠鏡のシステムが、9月30日に観測を開始したというニュースがありました。久々にわくわくするようなニュースです。
ALMAのサイトでのプレスリリースによると次のように述べられています。

アルマ望遠鏡が観測するのは、電波の中でも波長の短いミリ波・サブミリ波です。この種の電波をとらえることで、宇宙に漂う低温のガスや塵を観測することができます。このガスや塵は太陽のような星や地球のような惑星が作られるもとになる物質であり、アルマ望遠鏡の稼働により、「銀河や惑星がどのように作られてきたのか?」という謎に迫ることが可能になります。また、「生命の起源となるような物質が宇宙に存在するのか?」という、これまでの天文学では触れることのできなかった分野にまで大きく研究が飛躍すると期待されています。

この計画がどんなものであるかというのは、上に書いたサイトで詳しくていねいに説明されていますから、いやが上にも期待がたかまります。
2つの銀河が衝突してできた7千万光年かなたの触角銀河の画像(ハッブルとアルマの組み合わせ画像)が公開されています。まるでいま命を得た胎児のような不思議な画像。新たな星の材料となる高濃度の低温ガスの雲が映し出されているわけですから胎児に見えるのも理由のないことではないような・・・。
写真はアルマの完成予想図だそうです。何となく映画「コンタクト」を思い出させるようなアンテナのたたずまいです。


話は私の高校生の頃に飛びます。
私は子どもの頃から、ずっと自分の進むべき道は天文学なのだと思ってきたのでした。なぜそう思ったのかは定かではないのですが、小さい頃からSF少年、理科少年だったことが「災い」していたのかもしれません。
しかし、そうかといって星には特別興味があったというわけではなくて、むしろ地球を脱出する手段の方に関心があったような気がします。
しかし、いかんせん肝心の物理オンチで、からっきし点が取れず、高校の担任に理系大学への進学希望を告げても全く相手にされず、受験間近に「おまえは文系だ」と言われる始末。それでも夢をあきらめきれず反対を押し切って理学部に進んだは良かったけれど、結局というべきか当然と言うべきか、入学早々あえなく挫折。結局数学を手段とする教師の道を選んだというのが私の偽らざる履歴なのでありました。
そんな物理落第生の私でも、やはりこうしたALMAのニュースは心躍るものだし、よくやったと喝采したい気持ちに駆られます。

いま、中学生の生徒たちと理科を学習していて、かつての自分の勉強で何が問題だったのかを考えることがよくあります。
電磁気や力の単元を勉強し直して思うのは、高校・大学の頃は自然現象を支配する法則のそもそもの成り立ちがよくわかっていなかった。目で見、手で触ったり、感じたりすることがなく、ペーパー上の暗記的知識にすぎなかった。
理屈抜きで結果だけどんどん詰め込むやり方になじめなかった私はどんどん理科から離れていく結果になってしまいました。・・・・と言い訳してみる。

数学はとくべつにできたわけでもないけれど、たまたま有能な指導者(学校ではなくプライベート)に恵まれて高2の終わりまでには高校のすべての内容を終えていたのですから、理屈をしっかりかみ砕いて教えてもらえばきっと物理でも化学でもわかるようになったろうにと思うのです。
懐かしいのでちょっとだけ付け加えておきますと、その先生は、芥川龍之介のような風采で見るからにカミソリのような印象。しかし優しすぎるくらい優しい性格で、数学の原理を丁寧に教えてくれたのでした。問題演習は少数精鋭。あとは自分でやれという方針で、先にどんどん進む方が見通しがきいてよい、というのです。
高3になって入試の準備をするときも、私が自分で問題を選んで自分でテスト問題をつくり、その先生のところでそれをやってわからないところを聞くという、先生にすれば全く便利な生徒でした。
そうこうするうちに、その先生と同じ大学・学部・学科に進学することになってしまったというオチ。人生ってそんなもんですよね)。今はむかしのお話です。

生涯学習。脳細胞が半減期を迎えても、遅くはあるまい。ALMAをきっかけにして、時間のある間に、もう一度生徒たちといっしょに物理・化学に挑戦してみますか。




  10月4日(火)    
澄んだ青空がいっぱいに広がって、最高の秋晴れ。朝早くは相当に冷え込んで、軽井沢では氷点下だったとか。室内はさすがにシャツ1枚では寒いのですが、戸外は汗ばむほどの日差しでした。
昨日は雲間にわずかに見えた鹿島槍や白馬方面の山々の冠雪が、今日はくっきりと青空とのコントラストを見せて、ようやく北アルプスらしくなってきました。


昨日頼んでおいたチラシが今朝折り込まれていました。さっそく午前中にお隣の生坂村の一人から問い合わせが、午後からは池田町の方からの電話がありました。布団の申し出です。ありがたい提供なのですが、布団が多くて偏りが心配です。それに昨日の会議でも話題になりましたが、前のように2dトラックでは無理だろうから、もっと大きなトラックにしないといけないのではという心配もあります。同時に、高野さんとの確認で、向こうで保管場所を確保してもらうとなると相当に広いスペースが必要ですから、それも心配。いっそ、石巻と共同の保管として、女川だけではなく石巻で必要な人にも分けてあげられるようにした方がいいのかもしれません。できるだけその方向で物資を運ぶことにしましょう。

市民タイムスが今日付の一面で7日からの物資収集のニュースを報じてくれました。本当は昨日の会議の様子を写真として載せるはずが、その出来が悪かったので顔写真を載せたいからといって昨日遅くに改めて写真を取り直しに来ました。というわけで、そっちの写真が載ってしまいました。
代表と事務局長仲良く並んでのどアップだから恥ずかしいことこのうえない。だれかが「お父さんと息子かいな」と言っておりました。代表は議員なので、連絡先としては載せにくいというタイムス社の判断から、結局私の名前と連絡先が頻繁に新聞に登場することになります。まあ、せいぜい名前を売っておくことにしますか。


夕方妻と畑にでかけ、カボチャをすべて収穫して、草を刈り耕すばかりにしてきました。これからタマネギ、ラッキョウ、ニンニクの植え付けが待っています。私は、10月は相当に忙しいので、畝を作るまではやることにしてあとは妻にお任せです。
毎日収穫した大根菜とオクラ、カボチャ。都会では野菜が相当に高値になっているらしいから、必要な方は送ってさし上げましょうか。



  10月3日(月)    
10月に入ったと思ったら、もう冬が近づいてきたという感じ。気がついたら爺ヶ岳、鹿島槍の頂上は真っ白。初冠雪です。空気も澄んで、夕日が沈む北アルプスの稜線がくっきり見えます。

昨日、一昨日は地元の祭り。私自身、今年は祭りとは縁がなく今日の会議の準備をしていたのですが、外が何だか騒がしいので出てみたら、お祭りを支えている青年部のみなさんが我が家の前で「花笠音頭」(なぜ花笠なのかは不明でしたが・・・)を踊っているではありませんか。いままでこんなことはなかったし、何しろ若い人たちの姿をまとまって見たこともなかったので、感激して隣のお二人とともにしばし見とれていました。




さて、今日は一所懸命に準備した被災地支援町民ネットの全体会。予想よりも集まりは少なかったのですが、それでも11,2名が駆けつけてくれておおよその段取りを決めることができました。
今日の主題は、当然のことながら7,8,9日の物資収集・募金活動と21日からの支援行動の詳細計画。まだ細部での詰めはできていませんが、組織的なとりくみが明日から始められることとなりました。
報道機関も2社来てくれたし、このあと他の2社も来て取材してくれる手はずになっています。明日は新聞折り込みも入りますから、問い合わせも増えることでしょう。
商工会や観光協会、JAなどが後援をしてくれたし、輪はまちがいなくひろがっています。いよいよ覚悟を決めて取り組まなければなりません。これをお読みの皆さんも是非ご協力を!(下のチラシにはpdfファイルがリンクされています。ご利用下さい)






  10月1日(土)    
朝早起きして、久しぶりに裏手の雑木林を散策。ウオーキングではなくアケビ探しのためです。
アケビは、私にとって秋の深まりを感じる野山の貴重な植物。パカッと口をあけて美味しそうな種の部分が見えると、何だか嬉しくなります。
蔓の絡まれた木は迷惑なんでしょうが、「青つづらふじ」ほどには木に巻き付いたりしないし、野生のアケビは我が家の大きなアケビとは違って、スリムで葉も小さいので環境にはそれほど負荷を与えていないのがよい。
まだ口の開いていないものも多かったので、今日は少しだけ収穫。飾っておいたあと秋の味覚を楽しんでみることにします。下の写真のうち、左の大きな一個(それでも小さい方)が我が家のアケビ、それ以外は野生種。


今日もまた、ある年配の方から「布団があるから取りに来てほしい」との連絡があり、軽トラですぐに自宅まで伺いました。今回は町内のすぐ近くの人。「葬式のために買ったんだが使わないので・・・」といいつつ、土蔵の2階へ案内されました。親戚がものすごく多いのだといいます。
80過ぎのおばあさんが、3分ほどかけて2階にあがっていき、「これだ」というのを見てびっくり。軽トラ1台ではおさまらない。中には使用感のある寝具もまじっていて仕分けするのに手間取ったのと、階段が狭いので1枚1枚下ろすのに汗びっしょり。あちこち助っ人を頼んでみても今日は全然ダメで、結局1人でエッサエッサとトラックに積み込み、家に帰ってからまた部屋に入れて・・・。それにしても、世の中にどうして布団がこんなに山のようにあるんですか!!







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