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  9月29日(木)    
昨夜家に着いてから今朝まで2人の方から支援物資の提供の連絡があり、今日は朝からその対応で追われていました。
まず1人は穂高の方。以前池田町の山桜トレッキングに参加したことがあるという年配のご夫妻で、わざわざ我が家までマットレスや衣類を届けてくださいました。
あと1人は松本に事業所がある電気会社の社長さん。そちらに来てほしいということだったので、ネットワークメンバーの1人に頼んでいっしょに軽トラで松本に向かいました。すると支援物資は塩尻の自宅にあるという。
無理してきてもらったメンバーのことを心配しながら彼の後について塩尻に向かいました。ある店に車を止めたのでようやく到着かと思ったら「腹がへったから飯を食っていこう」と食事を振る舞われ、びっくりするやら恐縮するやら。
そのあと、さらに延々と車を走らせて朝日村との境に近い塩尻の自宅に到着。軽トラを2台持って行ったのは正解で、布団やら毛布やら座布団やらがどっさり準備されているではありませんか。礼を述べつつ全て積み込んで社長宅を辞し、午後2時すぎにようやく我が家に戻りました。

社長さんの話では「松本では真剣に被災地支援や放射能問題にとりくんでいるけれど、塩尻では何も動きがない。新聞を見ていたら池田での支援の活動が紹介されていたので連絡した」ということでした。「鍋や食器などが必要ならまた連絡して欲しい」とも。ありがたいことです。
穂高の方にしろ、塩尻の方にしろ、支援の意思のある人はまだまだいらっしゃるわけで、そうした気持ちをどのように束ね、いくつものうねりにしていくのかが今後の課題だろうと思わされました。
というわけで、ネットワークの物資集積場の準備ができない現状では、我が家は玄関に大量の米袋、ゲストルームに布団類が山積みになっています。
気がついたら飼い猫のハルちゃんがその上で気持ちよさそうに寝ていたので、あわててカバーをかけておきました。


これからの私の仕事は、第1に、チラシとポスターを完成して印刷・配布の準備をすること。1日か2日には何人かに手伝ってもらって完了すること。
第2に、3日の会議の準備(事前視察の報告と、7日からの物資収集の段取りを立てること)をすることです。
第3は、募金箱をつくって(手伝ってもらって)、各所に置くこと。
第4は、女川の仮設住宅の皆さん用に、青空市の案内状をつくること。
そして第5に、本番の支援行動の参加者の決定と支援行動プランを練ること。
結構時間刻みの仕事になってきそうで、気合いを入れてぬかりなくやり遂げなければなりません。



  9月28日(水)    
昨日の朝から今日の夜まで女川町に事前視察と打ち合わせに行き、午後9時過ぎ家に戻ってきたところです。
昨日は朝8時に出発、北関東道を経て東北道に入りました。仙台北部道路から宿のある多賀城に入ろうとしたところ、三陸道入り口付近でものすごい渋滞。やむなく宿に寄らずに進路を女川に変えて三陸道に入ることにしました。
三陸道も混んではいましたが何とか4時半頃には女川に到着し、すぐに役場に向かいました。そこで持って行った米を届け、総務課長や係から女川の状況を聞いたり、避難所や仮設住宅の様子を聞いたりしました。
役場の話では、支援物資は米や布団類を含めまだ相当に残っており、週一で仮設住宅などに配布したりしているとのことでした。

今朝は多賀城のホテルを7時過ぎに出て女川に向かいましたが、復興作業関係と思われる車で道路は至る所で渋滞、相当に時間がかかることがわかりました。
女川総合体育館前での高野さんたちとの待ち合わせ時間は9時半。それには少し余裕があったので、女川町の入り口(石巻側)にある万石湾沿いの集落に寄ってきました。そこは先日の台風で山からの出水で首のあたりまで浸水したというところです。津波ではほとんど被害がなかったのに、台風の大雨で津波と同じくらいの被害が出たのでした。山からの水が堤防にぶつかり逆流して家に押し寄せてきたというのです。
家の前には水に浸かって使い物にならなくなった家財道具が山と積まれ被害の大きさを物語っていました。80歳のお年寄りが「こんなことは生まれて初めてだ」と語っていました。

女川の状況は、まず瓦礫がかなりきれいに片付けられ、道路が一応舗装されて全体としてはすっきりとした印象でした。しかし、よく見ると、ごたごたとしたものの片付けは終わったというだけで、何も変わっていない。
避難所での生活をしている人はまだ200人を超えており、すべて仮設に入るのは10月一杯だといいます。仮設住宅に入った人たちも、ようやく雨露をしのげる場所がきまったというだけで、雇用も今後の生活の見通しもまったくないに等しく、すべてはこれからという状態です。
さらに、家は残ったけれど、家族を亡くしたり職を失ったりした人も多く、被災者の生活は依然として苦しい状況が続いています。
仮設住宅に張った人の話を何人か聞いてきましたが、とにかくどんなものでも提供してもらえれば助かるという切実な要望がありました。行政の立場と住民の側からの立場とでは微妙に食い違いが生じていることがわかりました。

高野さん、阿部さんとの打ち合わせで、今度行くときの要領として確認したのは次の諸点でした。
@仮設住宅付近での青空市は2箇所とする。米や野菜類は青空市であれ戸別配布であれ、すべて袋詰めにして順に配布する。従ってそれに見合う袋詰めを持って行く。
A戸別配布は一箇所として、必要分を袋詰めにして持って行く。
B布団類は預けておいて、町議会選挙後にボランティアの方の助けを借りて必要なところへ配布してもらう。
C衣類は青空市の場所で、ハンガーにつるして自由に選び受け取ってもらう。
それ以外の物資については、自由に選んで受け取ってもらう青空市形式とする。
D雨の際には、集会所を使うこととする。
E前日までに、高野さんの手配で、翌日朝から青空市と物資配布を行うことを周知するチラシを仮設住宅の住民に配布してもらう。

私たちの宿泊については、当初ホテルと考えていたのですが、高野さんから一軒のプレハブ小屋の使用が可能との話があって、2日間その場所を使わせてもらうことにしました。ホテル代がすべて他の用途にまわせることになり、時間もずいぶん節約できるので、初日の夕方には近くの住民のかたと交流会が持てる可能性が大きくなりました。

帰りがけに、女川で唯一水揚げがある漁師の店でサンマを一箱求め、池田町に到着と同時にメンバーのみなさんに受け取ってもらいました。以下は女川町の現在の写真です。

1.女川町立病院から見下ろした光景(その1)
マリンパル付近。道路はかなりかさ上げされて舗装されている。すぐ下の同じアングルの写真は、5月20日のもの。




2.女川町立病院から見下ろした光景(その2)。
破壊された建物が撤去され、道路が舗装された分すっきりして見えるが、片付けが終わったというだけの印象。すぐ下の写真は、5月7日の同じ場所。




3.女川町立病院から見下ろした光景(その3)。すぐ下の写真は、5月7日の同じ場所。




4.女川湾。何隻か漁船が見えるのことに新鮮な印象を受けた。


5.旧市街地。草が生えていて一見昔から荒れ地だったように思える。


6.うずたかく積まれた瓦礫の山


7.新しく作られた女川町仮設庁舎


8.仮設住宅


9.当日の宿泊場所


10.高野さん、阿部さんを交えて話し合う近くの住民の方たち


11.青空市を行う予定の場所


12.魚屋さんの前で




  9月24日(土)    
ようやく素晴らしい秋晴れの一日。どの農家でもきのう今日、明日が稲刈りの最盛期で、コンバインでの作業があちこちで見られます。

昨日から我が家には被災地支援についての問い合わせが相次いでいます。それも塩尻・松本方面から。午後からの問い合わせでは、「いっしょに行きたいんだけど可能か」というのを含めて3件の問い合わせがありました。
動機はさまざまですが、一様に松本や塩尻では、「この時期に被災地に直接出向くような動きがないし、ちょうど新聞で見かけたので」という話をしていました。
そういえば、昨日塾で中3の生徒が「先生新聞に写真載ってましたね。しかも一面に」と声をかけてきました。よく見ていてくれて嬉しかったです。Aさん、市民タイムスの威力はすごい。

被災地支援ネットの今後の予定は次の通りです。ボランティアでお手伝いいただける方がたくさん必要です。ぜひお手伝い下さい。よろしくお願いします。
下の赤字はボランティアの方の力が必要な日です。なお、は派遣メンバーによる女川町現地支援行動です。

9月27日(火)〜28日(水) 女川町事前視察、現地との打ち合わせ。私ともう1人で出かけます。
10月3日(月) 午後2時〜4時 ネットワークおよびボランティア全員でのミーティング
10月4日(火) チラシ新聞折り込み
10月6日(木) 午前9時〜12時 スペースゼロ(会場)設定など事前準備
10月7日(金)〜9日(日)午前9時〜午後4時 スペースゼロ 物資・義援金の受け付け
10月10日(月)〜 必要に応じて支援物資仕分け、積み荷準備、物資購入
10月20日(木) スペースゼロ 9:00〜 トラックに積荷 午後1時〜現地へ行くメンバー打ち合わせ
10月21日(金)午前7時 池田町役場出発
10月22日(土)午前9時〜 女川町で青空市、物資個別配布 交流会など 午後 第一陣 池田町へ
10月23日(日)朝女川町出発 夕方池田町へ

10月24日(月)午前9時〜 スペースゼロ片付け


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我が家では、息子ファミリーが昨日からやってきて、今日は午前中畑で作物を収穫、午後からはブドウ狩りに出かけています。私は夕方から仕事なので1人で家で留守番です。









昨日書いた八重山での教科書採択問題について、今日の「しんぶん赤旗」紙上で立正大教授(前日本教育政策学会会長)の浪本勝年さんが重要な指摘をしていました。
1つは、採択地区協議会が出したのは「答申」であり、決定ではないこと。各教育委員会はかならずしもそれに拘束される必要はなく、答申と異なるものを採択しても、その後協議会で再協議すればよいこと。
2つは、教育委員会は教育行政機関であって、その任務が教育条件整備であること。つまり、教科書採択にあたっては「教師を中心に教科書採択が行われるように条件整備をすること」。
3つは、文部科学省が各教育委員会に対してできることは指揮命令ではなく、あくまで指導・助言であり、教育委員会は独立して判断して良いこと、
4つは、地区内での統一採択を決めた教科書無償措置法は教員や地元の意向を無視するもので、教師が学校ごとに教科書を選べるような法改正が必要であること、などです。傾聴すべき意見だと思いました。




  9月22日(木)    
今日、明日と、西関東から400人ほどのウオーキング客が池田町へ。すぐ近くの集落センターを起点にして我が家の横を通り、東山沿いを歩いてハーブセンターまで行く約3キロほどのコース。
昼過ぎ、先発隊が歩く頃はまだ空も明るかったのに、中ほどから終わりのバスの一行が歩く頃には雨がかなり強く降ってきて最悪のコンディション。この季節のウオーキング・イベントでは、カラッと晴れて山もすっきり見えるなんてのはまずないので、かわいそうです。
道を間違える客がときどきいるので、私は家の前に立ってずっと案内をしていました。
ご婦人方がきまって口にするのは「いいところにお住まいですねえ」。厚木や横浜の住宅街に生まれ育った人からみるとそうなのでしょうね。そのあと私は絶句。「でも、ここには住めないわね。雪が降って、それにすごく寒いんでしょう?」
気をとりなおして・・・、こんなところまで良く来て下さいましたね。お礼申し上げます。



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さて、沖縄八重山での教科書採択問題はどうなったのか。文科相の横やりで、とんでもない展開になっているようです。
先日まとめをしたときには、石垣市と与那国町の教育長が育鵬社の「公民」に固執。竹富町は育鵬社版の教科書を不採択として折り合いがつかないまま、10月8日に3市町の全教育委員でつくる地区教育委員協会に持ち込まれることになったのです。その結果、多数決で「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版は採択されないことになりました。
ところが13日になって中川文科相が、石垣市と与那国町から異論がでていることを口実に「不採択は無効」との見解を明らかにし、一本化に向けて文科省が乗り出すことも示唆するに至ったのです。

これらの動きの過程で、石垣市の玉津教育長が13日に自民党の「文部科学部会」と「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」(教科書議連)の合同会議の招集を受けてこれに出席、自己の見解を述べたと報じられました。
自民党のねらい通りに教科書採択をすすめようとしている玉津教育長ですから、自民党と「議員の会」はこれに全面的に支持を与えるとともに、育鵬社の教科書を採択した「地区協議会」の答申で行くべきだという意見で占められたようです。

ここで、事態の推移を正しく見るために、「教科書採択に関わる制度」の問題をみておくことにしましょう。
まず、「教科書無償措置法」では、都道府県教育委員会が「市若しくは郡の区域又はこれらの区域をあわせた地域に、教科用図書採択地区を設定しなければならない」(第12条)とされています。また13条では「採択地区が2以上の市町村の区域をあわせた地域であるときは、・・・当該採択地区内の市町村の教育委員会は、協議して種目ごとに同一の教科用図書を採択しなければならない」と書かれています。
採択の方法の詳細については、文科省のホームページに詳しい解説が載っています。
その中で注意すべき点は次の諸点です。

第1に、教科書採択の権限は「その学校を設置する市町村や都道府県の教育委員会」にあること。
第2に、「適切な採択を確保するため、都道府県教育委員会は、採択の対象となる教科書について調査・研究し、採択権者に指導・助言・援助する」こととし、そのために「専門的知識を有する学校の校長及び教員、教育委員会関係者、学識経験者から構成される教科用図書選定審議会を設置し、・・・通常、教科ごとに数人の教員を調査員として委嘱」こと。
第3に、採択地区内の市町村は、「通常、共同採択を行うため採択地区協議会を設け、ここに学校の教員等からなる調査員を置くなどして共同調査・研究を行っている」こと。
第4に、「保護者や国民により開かれたものにしていくことが重要」であり、「具体的には、教科用図書選定審議会や採択地区協議会等の委員に保護者代表等を加えていくなど、保護者等の意見がよりよく反映されるような工夫をする」こととしていること。
第5に、都道府県教育委員会は「市町村教育委員会間で行う同一の教科書を採択するための協議が整わない場合には、適切な指導・助言を行い、採択の適切な実施に努めること」


さて、石垣市の玉津博克教育長と与那国町の崎原用能教育長の言い分は、この「教科書無償法」を盾にして「8月23日の教科用図書八重山採択地区協議会答申に沿った採択(育鵬社版)」をすべきだというものです。無理無体を通してきた経過は一切無視して「多数決で決めた」という事実だけが頼りということです。
一方の竹富町の方は、協議会の非公開、選定答申のための無記名投票、教科書を事前調査する現場教諭の差し替えを追認する形の規約改定などを次々と行って、育鵬社版に持ち込んだ手法や、育鵬社版の教科書が調査員の推薦にはなかったことは承認できないとし、最終的な採択の権限は町の教育委員会にあるという立場で育鵬社版を拒否したということです。
3教育委員会の立場が異なり、同一の教科書を採択できない場合には、文科省が示した手順通り、沖縄県教育委員会が「適切な指導・助言を行うこと」になっているわけですから、9月8日にその指導・助言のもとに3市町教育委員13人による協議が開かれたのは当然のなりゆきでした。その流れは、右の琉球新報のまとめ図表がわかりやすい。当然のことながら、県教委が、育鵬社版を否定した3教育委員会委員13人の協議の結論を「有効」としていることは介入でも何でもありません。。

さて、こうした一連の動きをうけて、自民党、石垣・与那国両教育長、産経新聞などはどう主張しているのでしょうか。
はっきりしているのは、採択に至る手続きや教科書の内容の問題をいっさい黙殺して、「地区協議会で多数決で決定したこと」がすべててであり、これに従わない竹富町に全責任があるという立場です。
産経に至っては異常な熱の入れようで、「協議会は、地区内の教科書を同一にするという法律に基づいた組織で、すでに議決は終わっている」「守るべきは協議会の議決に基づく選択であり、指導すべきは違法状態を生んだ竹富町だったはずだ。こうした要求を通せば、“ゴネ得”が際限なくまかり通り、採択制度は崩壊する」「県教委の『不当な採択介入』とともに、文部科学省の動きが鈍かったことも重大な問題だ。採択制度の崩壊は、民主主義に基づく教育委員会制度の危機でもある」とまで言い出す始末。「制度が崩壊する」などと大げさに騒ぎ立てれば立てるほどその底が透けて見えてみっともないと私は思うのですけど。
民主主義を踏みにじっているものが民主主義を口にするのは歴史の示すところですから別に驚きませんが、この産経の論調は居丈高なだけで、粗雑きわまりない。焦りすら感じられます。

産経の危機感には根拠があります。それは、「八重山地区協議会」での審議やその前後の経過に不明朗な問題が次々と明らかになってきたからです。
列挙してみましょう。

@協議会の玉津会長は、会長判断で協議会委員から学校現場の経験がある教育委員会の専門職員を外し、必ずしも教育経験者ではない教育委員と学識者を加えた。
A専門性の高い調査員による推薦教科書の「順位付け」を廃止し、順位を付けない複数推薦方式に変えた。
B調査員の推薦の有無にかかわらず、教科書は協議会の責任と権限で選ぶとした。
C選定作業は委員8人による非公開・無記名投票で行われた。
D公民教科書の協議は2人しか発言せず約5分で終了し、実質的な協議がないまま投票に持ち込まれた。
E委員が教科書名を言わずに審議し、実質的な協議がなかった。
F玉津会長は会長判断で調査員の「順位付け」を廃止した理由として、従来調査員は一位しか報告せず「順位付けに拘束性があった」としていたが、その後調査員が全教科書に順位を付けて報告していたことが分かり、玉津会長がウソを理由にしていたことが判明した。
G玉津教育長は自民党、教科書議連の合同会議に出席、特定政党の会議で異例の意見表明した。


これほどの問題が指摘されながら、「地区協議会」で採決したという「形式」だけを金科玉条にしているのです。経過に不明朗な点があれば、再審議、再議決ということも当然あるにも関わらずです。

産経などがこの教科書に拘泥する背景には「新自由主義史観」に基づく育鵬社版での国家主義教育推進のねらいがあることははっきりしています。自民党も教科書議連も全く同じ土俵にあります。
自らの口出しを「介入」とはみなさず、沖縄県民の世論を背景とした沖縄県教委の指導・助言を「介入」と強弁、特異な歴史観や国家観を押しつけようとするこうした動きが全国的に執拗に続けられている教育反動化の一コマにすぎません。どんな小さな現れも、具体的で道理ある論理で徹底して反論し、世論を喚起して、その反憲法性、反民主主義性を完全に打ち破るしかありません。これは日本国憲法を国民のものにするたたかいの一つでもあるのですから。

そうそう、いま思い出した。
育鵬社版の公民教科書の表紙には、宇宙から撮ったとおぼしき日本全体の写真もどきが載せられているのですけど、どこを探しても沖縄県が載ってないんですって!これは確かめないとと思って見てみたらホントだ。こんな教科書、採用していいんですかね、石垣島って日本じゃないのかな、タマツさん



  9月21日(水)    
昨日からずっと降り続く雨。浜松に上陸して東海から関東を経て日本列島を縦断する台風のために、あちこちで大変な被害が生じています。日頃何ともないような地域でも厳重な警戒が必要になっていますね。おそらくこのあともまだいくつかの台風がやってくる可能性がありますから、これまでにない対応が求められるのではないでしょうか。


さて、昨日の信濃毎日新聞に注目すべき記事が載っていました。それは「光吸収率100倍の太陽電池」開発のニュースです。
岡山大学大学院自然科学研究所が開発した酸化鉄化合物を使った太陽電池で、コストは1キロワットあたり1000円という信じがたいもの。従来は(我が家の発電パネルも含め)1キロワット100万円(実勢価格はこの半額くらいまで下がっている)ですから、もしこれが実用化されれば原発なんて目じゃない、発電の革命になることはまちがいありません。とくかくこの記事を読んでみましょう。


原発に注ぐ法外のカネをすべてこのような基礎研究と実用化に向けたらどうなるのか。大手原発メーカーと関連するゼネコンなどは干上がってしまうかもしれませんが、これからのエネルギー供給と産業の発展にとってはきわめて大きな福音となるでしょう。
すでに岡山大学とベネッセHDが連携協定を締結、2013年の実用化に向けて試作品などの提供に取り組むことが報道されています。

今後は、原発を廃炉にし、高濃度放射性物質を管理する科学を何としても発展させなければなりませんから、そのための基礎研究や技術は不可欠です。撤退のための科学ですから、これにはよほどの理念と予算とがなければできないことです。
貧困な科学予算のもとでも、大学では将来のエネルギーの確保にむけた基礎研究が続けられている。それは新しい産業を形成する可能性を大きく秘めた科学・技術の姿です。
政府はそのどちらにも顔を向けていない。来年度予算では基礎研究を含めて予算を減らし、原発には依然として湯水のようにカネを注ぎ込む。やはり、内橋さんが指摘するように、こうした政策の貧困の裏には核兵器開発をもくろむ政府・財界の黒いねらいが隠されているのかもしれません。



  9月19日(月)    
東京明治公園では、「さようなら原発1000万人アクション」の一環として、5万人集会が開かれました。
毎日新聞は写真でその模様をかなりくわしく報道しています。

この集会の模様はUSTREAMなどを通してインターネット中継されました。本当は集会に参加したかったのですが、なかなか思い切りがつかず、結局お茶の間で連帯するということに。

呼びかけ人の5人の話はそれぞれに面白く、お茶の間ですぐそこにこうした話が聞けるというのも悪くないなと思いつつ、結局みなさんがデモ行進に出るまで、おつきあいしました。

以下、4人の話をほとんどそのまま、文章で再現しましょう。澤地さんはちょっと聞き取りにくかったので、今日は割愛。話し言葉はかなり省略してあります。

鎌田慧

みなさん、私たちは今日ここに5万人集会を成功させることができた。すでに4万人を超えている。
今日の集会はこれまでの集会の結節点。これからの集会の出発点でもある。まだ1000万署名は始まったばかり。今日100万人を超えたばかり。あと900万。1000万の声を脱原発に向けてつきつけよう。 野田首相は国連に行き、原発の安全性を高め再会していくと発表している。安全性と信頼性はすでに破綻している。それでもなおかつ再開するというのは人民に対する敵対。
日本人の8割が原発はいやだ、原発のない社会に生きたいと言っている。その声を無視して政治はない。

これまでどのくらい被爆者が発生しているのか、被爆労働者が発生しているかこれからわかる。その恐ろしい結果を私たちは認めなくてはいけない。その救済を少しでも早く始めなければいけない。
原発から脱する運動は文化革命、意識を変えていく運動。核に依存して生きていくことはできない。核と人類は共存できないことは広島・長崎、福島で証明されている。どうしてこれ以上の犠牲者を作ることができるか。

私たちは原発にさよならをいう。再見、また会う日までのさよならではない。もう絶対に会わない、アディウが私たちのメッセージだ。原発のある社会はいらない。子どもたちに原発のない社会を残すためにがんばっていこうではないか。

 これから1000万署名を頑張り、来年3月24日日比谷野外音楽堂で集約集会をひらく。それまでにもいろんなイベントを企画する。いっしょにがんばろう。

大江健三郎

二つの文書を引いて話す。第1は、私の先生の渡辺一雄さん。

「恐怖なしでは偉大な事業は成し遂げられないと言う人々もいる。それはウソです。狂気によってなされた事業は必ず荒廃と犠牲をともなう。真に偉大な事業は狂気にとらえられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって誠実に地道になされるものです」

この文章はいま次のように読み直される。
「原発の電気エネルギーなしでは偉大な事業は成し遂げられないと言う人々もいる。それはウソです。原子力によるエネルギーは必ず荒廃と犠牲をともなう」

私が引用する第2の文章は、新聞に載っていたものだ。
「原子力計画をやめていたイタリアがそれを再開するかどうか国民投票をした。そして反対が9割をしめた。それに対して日本の自民党の幹事長がこう語ったそうだ。 『あれだけ大きな事故があったので、集団ヒステリー状態になるのは信条としてわかる』」
偉そうなことを言うものだが、もともとイタリアで原子力計画が一旦停止させられたのは、25年前のことだ。チェルノブイリの事故がきっかけだった。それから長く考え続けられたうえで再開するかどうかを国民投票で決める、ということになった。その段階で福島が起こった。

今の自民党の幹事長の談話の締めくくりはこうだ。
「反原発というのは簡単だが、生活をどうするのかということに立ち返ったとき、国民投票で9割が原発反対だからやめましょうという簡単な問題ではない」
原発の事故が簡単な問題であるはずがない。福島の放射性物質で汚染された広大な土地をどのようにはぎ取るか、どう始末するか、すでに内部被曝している大きい数の子どもたちの健康をどう管理するか。

いままさにはっきりしていることはこうだ。
イタリアではもう決して人間のいのちが原発によって脅かされることはない。しかし、私ら日本人はこれからさらに原発の事故を恐れなければならないということだ。私らがそれに抵抗する意思を持っているということを、その努力をもたない政党の幹部とか経団連の実力者たちに思い知らせる必要がある。
そのために、私らに何ができるか、民主主義の集会、市民のデモしかない。しっかりやろう。

内橋克人

今日は福島はもとより、下北半島の端から日本中からたくさんの人が集まって下さった。ありがとうございます。
この感謝の言葉はいま生きている私たちだけではない。これから生まれてくる20年、30年、100年先の幾世代もの子孫の人々の感謝の言葉であろうと思う。ありがとうございます。
まだこの世に生を受けていない人々もあわせて深く皆さん方に敬意を表する、そのような時代が必ず来ると私は信じている。

一つだけ注意しなければならないことがある。それは新しい原発安全神話、安全神話の改訂版、新版が台頭しつつあると言うことだ。
つまり技術がすすめば安全な原発は可能であるというこうした安全神話の改訂版が装いを凝らして台頭しつつある。たとえば地下深く原発を埋め込んで洞窟の中で原子力発電を続ける、こういうたくらみ・計画が進んでいるということだ。
地下に原発の装置を埋めてなおかつ原発を持ち続けたいという、その意図の裏に何があるのか。
それは私たちの国が核武装することが可能な潜在力を持ち続けようという意図だと思う。そのような合意無き国策がここまで進んできた。

幾度も幾度もうちひしがれた経験をいかさなければならない。原発エネルギーではなくて、いのちのエネルギーが輝くそのような国にしようではないか。
今日その一歩が踏み出される。世界が変わると思う。さようなら原発、こんにちはいのち輝く国、その第一歩をみなさんとともに歩き続けたい。

落合恵子

こんにちは。あなたにあえてほんとうによかった。でも会えたきっかけを考えると腹立たしくて仕方がない。この腹立たしさを新しい力に変えて明日を変えていきたいと思う。

私の世代はビートルズの歌を歌って育った。そのビートルズの歌にイマジンという歌があった。「想像してごらん」から始まるあの歌。

想像して下さい。子どもはどの国のどの社会に生まれるか選ぶことはできない。そして生まれてきた国に原発があって、この暴走があったことが私たちの社会だ。

想像して下さい。福島のそれぞれの子どもたちの今を。そしてこの国のそれぞれの子どもたちの今を想像して下さい。
スリーマイル島、チェルノブイリ、そして福島。あの核大国のフランスでも最近核施設の事故があったが、ほとんどの情報を手に入れられない現実に私たちは生きている。
今度はどこで、次は誰が犠牲になるのかと、そのストレスをたえず抱いて生きていくのはもういやだ、私たちはそう叫んでいきたいと思っている。

放射性廃棄物の処理能力ももたない人間が原発を持つことの罪深さを私たちは叫んでいこう。
それは、いのちへの、自分を生きていこうという人への国家の犯罪なのだ。容易に核兵器に変わりうるものを持つことは恒久の平和を約束した憲法を持つ国に生きる私たちが決して許容してはならないはずだ。

想像して下さい。まだひらがなしか知らない小さな子どもが夜中に突然起きて「放射能来ないで」と泣き叫ぶような社会をこれ以上続けさせてはいけないはずだ。

私は、私たちは、みなさんも、「この犯罪に荷担しない」と、ここでもう一度自分と約束しよう。原発という呪詛から自由になること、もちろん反戦・反核・反差別はぜんぶ一つの根っこだ。「いのち」ここから始まる。
いま函館で海のむこうに大間原発を見ながら歩いている大きなグループがある。あるいはきのうオーストラリアから帰国したジュンコさん、会場のどこかに埋もれているでしょう。ありがとうございます。
世界から原発と核が消える私たちのゴールに向かってあゆもう。暴力に対して私たちは非暴力をつらぬく。けれどもあきらめない。投げない。わすれない。歩き続ける。
この一つのウオークをけが人ゼロ、熱中症ゼロ、もちろん逮捕者ゼロで歩き続けよう。




  9月18日(日)    
夜ともなれば、集く虫の音が響き渡っています。コオロギの大きな声が聞こえるのでどこかと思ったら、どうも家の中らしい。しかし、ここと思えばあちらに聞こえ、あちらと思うとまた別の場所で聞こえ・・・ま、いっか。家の中も外もコオロギだらけです。

今日明日は、ファンクラブニュース作りです。今号では、先に行った原発学習会の紹介と感想が一つの柱。あとは、議会傍聴記やSさんの北欧の福祉・教育を考えるシリーズ。まださっぱりレイアウトの構想ができませんが、何とかなるでしょう。

山がすぐ近くに見え、空の青が異様に深く、じりじりと照りつける太陽。台風の影響で南風が吹き込んできているからなのでしょうか。富山では35度まで気温が上昇したとか。池田でも30度は超えていましたね。
雨を期待して畑に水遣りをしていなかったので、あわてて妻と夕方畑にでかけ、消防車よろしくポンプで放水してきました。ポンプの威力はすごいですね。あっというまに畑は水浸しです。
帰りがけにオクラをまたまたバケツ一杯。カボチャやサツマイモも結構大きくなっていました。つい先日蒔いた大根の芽が沢山出ていたため間引き。若い葉はすこぶるおいしくて、私の大好物。しばらくは、いろいろ食卓を賑わせてくれそうです。



  9月17日(土)    
朝から蒸し暑いいやな天気。身体がだるくて何となく元気がでません。
台風は沖縄付近でうろうろしてどうやらしばらく停滞する見込みで、今年の沖縄は台風の当たり年なのでしょうか。連動して紀伊半島でも雨が強くなるというし、被害がでないことを願うだけです。

先日9月9日の市民タイムスには、「池田・松川ウオーキングツアー人気」という記事が出ていました。「おもてなし奏功」というのが記者の見方。これはまさに正鵠を射ています。


池田町では先日の読売旅行社の700名に続いて、今月の22,23日にはクラブツーリズムの企画で400名近くが池田町の一部を歩きます。
池田町に来てくれるのは嬉しいのですが、時期が大切。池田では今日から一週間ほどが稲刈りのピークで、天気はイマイチ。今回は、我が家のすぐ近くから歩き始め、ほんの少しだけの行程らしい。幸い沿道のコスモスがとてもきれいだから天気さえ良ければ喜んでもらえると思うのですが、地元と打ち合わせをしっかりするなど旅行者本位の計画であってほしいものです。そうでなければこちらとしても「おもてなし」のしようがありませんからね。
こうしたウオーキング客の呼び込みの立役者は池田町観光協会のメンバーなので、その苦労は並大抵ではないはず。私もマップを作ったり、バラ園でおもてなししたりと今年はちょっとだけお手伝いできました。旅行者と話をしていて、気持ちが通い合うというか、たとえ雨でも「来て良かった」と思ってもらえるように気配りをすることが大切だと強く思います。
同時に、あとからも書きますが行政の側が「何ができるのか」を真剣に考えることが必要でしょう。
「美しい里づくり」のアクションプランを策定して今年から実行に移すと言っていますが、対応は後手後手、住民の自発的なとりくみにほとんど学ばず、観光協会と推進本部に丸投げではないのですか。
歩く方は、できるだけ自然のままの池田町を歩きたいという希望が多い。コンクリートの道より土の上がいいと思うのです。また沿道の整備、不要な掲示物の撤去など、さりげなく安全と景観を保全するような事業で、行政にできることはいくらもある。終点のハーブセンターでたくさん買い物をしてもらえるようにコースを設定するのはいいとして、受け入れ(おもてなし)の準備がちゃんとできているのかどうか。
受け入れ側の対応として、池田に来てくれる客を「お金」を落としていく対象物としか見ないというのは最低最悪。そんな対応はすぐに見破られてしまいます。そうではなくて、池田町の景観をいっしょに楽しむという気持ち、池田町の特産をいっしょに賞味する、喜んでもらうという姿勢が人を呼ぶのです。現在まで池田町観光協会とガイドマスター会が文字通りそのように実践してきたからこそ、これだけ人が来てくれていると知るべきでしょう。行政がそうした立場をしっかり持ち、池田の良さをアピールする先頭に立つことが必要だと私は思います。

9月議会で、この問題について質問したのは内山玲子議員。
「魅力ある観光施策とは何か。観光協会がバスの誘致などでがんばっているが、町の計画は他にあるのか」との質問に対して、振興課長は何と答えたか。
「旅行業界から一定の評価を頂いており、知名度も上昇している。今年は北関東からのべ900名、そのほかに今後1000名のツアー客が見込まれる。誘客による経済効果をもたらすような受け入れを考えていきたい」
「今後町内のみなさんの実益になるような体制の整備をはかる。北アルプスや田園風景の眺望、花とハーブなどにより、信州安曇野のスタンダードな観光地になるように地域の皆さんと連携したい」
なるほど、さらりと聞き流せばしごく当然のことに思えますね。しかし、ここで前面に出てくるのはやはり「誘客による経済効果」「地元への実益」です。観光協会と町当局との考え方には大きな隔たりがあると言わなければなりません。
では聞きますが「誘客による経済効果をもたらすような受け入れ」を誰がしているのでしょうか。町はそのために具体的に何をしてきたのでしょうか。
前から口を酸っぱくして言っているように「経済効果」優先の考え方は間違っています。「経済効果は後から必ず付いてくる」のです。町の人々が「もてなし」の心で満たされていれば、もてなす方法はいくらでも出てくるのであり、それにともなって池田の特産品を買ってくれるということです。もてなしへの「感謝」として経済的な対価を提供してくれるのです。そして間違いなくその方が「経済効果」も高いのです。
行政のやるべきことは、物心両面で「いかにして池田町をホスピタリティあふれた町にするか」ということでなければなりません。
そう言うと、「そんなことはわかっている」とおっしゃるかもしれませんね。それならそうと明確に(!)観光の理念を打ち出すべきでしょうし、観光客受け入れの立場を明言すべきです。

そしてもう一つ大事なことは、それをになう観光推進本部と観光協会のスタッフの増員(少なくとも推進本部職員1名、観光協会スタッフ1名の増員)、受け入れの拠点となるセンターの新設と既存の設備・備品などの充実、職員の待遇の抜本的改善が先決・急務です。
私が見る限り、観光の最前線で苦労しているメンバーはイベントに追われまくって余りに忙しすぎます。ボランティアで活動するガイドマスターの努力にはおんぶにだっこ。それを仕切る観光協会の現スタッフでは活動範囲がすでに限界を超えています。町の指導的立場の皆さんはそのことをご存じか。振興課も町作り推進係もそうした実態にもっときちんと目を向けるべきだし、当然町長もそれを真剣に受け止めるべきではないでしょうか。「受け入れ体制の整備」というならこのことこそ即刻改善すべきです。

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先日の被災地支援ネットワークに事務局会議には市民タイムス、大糸タイムスの記者が来てくれて、さっそくこれからの取り組みを記事にしてくれました。ありがたいことです。
市民タイムスの記事が出た今日は朝から「支援物資を出したいのだけれど・・」という問い合わせが何件かありました。池田町だけではなく明科や穂高からも。
私は昨日から、イベントへの後援の依頼にまわっていて、今回はかなり輪がひろがりそう。20日には信濃毎日の記者も取材に来てくれます。まさに、これからのとりくみ次第ということですね。
この記事をご覧のみなさま、ぜひ大きな支援の輪を広げて下さい。また、義援金・物資の提供をよろしくお願いします!!
次は、15日の大糸タイムスの記事、および今日17日の市民タイムスの記事です。








  9月15日(木)    
午前中は被災地支援ネットのメンバーを獲得するために朝から池田町を軽トラで走り回り、帰ってからインターネットで池田町議会の中継を見て、午後から議会傍聴に出かけました。
今日は6名の議員が質問にたち、明日は4名です。矢口稔議員の町長に対する質問(苦言?)は愉快でした。中身はここで書くこともはばかられるようなことだし、USTREAM(一般質問9/15B)で見られますから書きませんが、町長答弁はひどい。それはないでしょう。「迷惑をかけた覚えはない」ということですから開いた口がふさがらない。ただ自覚と誠実の問題だとだけ言っておきましょう。
それ以外の議会の話はまたいずれ書くことにして、今日は被災地支援町民ネットのとりくみについて。

3.11から半年もすると、町の中での生活は前と全く変わらず(当然と言えば当然です)、被災地のことは心の片隅に追いやられてしまいます。しかし、ひとたび支援の話を持ちかけると、打てば響くように反応が返ってくる。
それは(たとえテレビの中で見たことであっても)1人ひとりの疑似体験として脳裏にしまい込まれている大災害の記憶が引き出されてくるからなのであって、何をどのようにしたいのかをしっかり話していけば、誰もがこの運動に答えてくれるからです。
いつも家の前を散歩する女性に立ち話をしていたら、その日の晩に「わずかばかり」と言いながら多額の義援金を届けてくれ、さらに次の日には「実家からも」と言って義援金を届けてくれました。また何人かは20日のミーティングに参加することを約束。次第にネットワークはすばらしい知恵と行動力を持った集団に発展しつつあります。
また10月の支援行動に向けては、池田町商工会、大糸タイムスが後援を決め、観光協会や農業団体、他の新聞社にも働きかけがすすめられていて、池田町ぐるみの支援行動にひろがりつつあるのです。

会議がうまくいくように考え、チラシをつくり、あちこちに出かけて話をし、そうやって一つ一つの行動が積み重ねられていく。泥くさく、地を這うような目立たない地道な活動だけど、やりがいのある仕事。ネットのメンバーは、それぞれみんな私同様に感じながら、私心なくあちこち動き回っているのです。思うに全国のすみずみで、様々な形の支援のとりくみが同じようにしてすすめられているのでしょう。
全くどうしようもないような国の政治の中であっても、地域からそれらに抗して被災地と直接つながって人間どうしの絆を深めるこの活動に、私は未来への希望を見ます。

下は現在準備中のチラシ(原稿)です。いろんな意見を入れていいチラシに仕上げていきたいのであえて未完成のまま掲載します。日程を含めて20日の会議で正式決定するものですのが、趣旨は全くかわりませんから、ネットのメンバーも許してくれるでしょう。ぜひご意見をお寄せください。





  9月13日(火)    
午前中はバラ園で水まき。暑い中、まわりの草を刈ってバラの根もとにたっぷりと水をかけました。
ただ、水をためる貯水場所にヘドロがたまって水が十分たまらなくなっているため、できるだけ早く改修工事をしなければなりません。男手が相当に必要だし、近いうちに計画をすることになりそうです。

夜は「被災地支援ネット」の事務局会議。数名があつまって9月から10月の支援行動の骨子について検討しました。20日に予定する「ネット」の全体ミーティングの原案をつくるのが今日の目的で、おおよその支援計画を作成することができました。
10月初旬に第3次の物資提供と支援金の拠出をよびかけるキャンペーンを行い、10月中下旬に宮城県女川町に支援に出かけることが柱です。今回は、ネットのメンバーを増やし町内でのネットワークの機能を充実させること、現地には冬に向かう時期もあり、それにふさわしい支援行動とすること、単に物資を運ぶだけではなく現地での交流と現地の特産物の購入などあたらしい試みも加味することなどを申し合わせました。
「米とリンゴをたくさんもっていきたいね」というのがみんなの願い。ネットワークのみなさんは心の底から現地の苦難に寄り添いたいと願う心優しい人ばかり。真剣に議論する姿を,取材で訪れた市民タイムスと大糸タイムスの記者が、かたわらで暖かく見守っていました。その記者にメンバーの1人が「是非現地にいっしょに行って見てこよう」と働きかける一幕も。記者の方は「真剣に検討する」と答えていましたから、実現する可能性は大きいですね。
これらの活動をコーディネートする私の役割はなかなかに重い。前回でかなり体力の限界を感じていたのに、またまた今まで以上の取り組みに臨まなければならないので、体調管理も必要になってきます。ま、気負わずに自然体でやるしかありませんね。

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本の奥付を見ると、2011年9月15日第一刷発行となっている。そんなこともあるんですね。
「東京の『教育改革』は何をもたらしたか」(渡辺謙一著 高文研)という本のことです。注文したら発売日前に届いたというわけでした。
元都立高校の校長が、石原都知事のもとですすめられてきた(すすめられつつある)「都立高校の再編」の中で、どのように学校が変えられてきたのか、それはどのような意味を持つのかを、自らの体験をもとに赤裸々に語っている本です。
そこで浮かび上がってくる現在進行形の東京の教育の特徴は、次のようなものです。
第1は、「生徒の多様化」と「少子化」を口実に、公立高校を「進学校」「中堅校」「教育課題校」に格付けして改変、さらにそれを細分化して整理統合すること。
第2は、校長をトップ管理職とする管理・監督権限を肥大化し、学校での集団的な教育活動を排除、学校を人間教育から管理の場へと改変させること。
第3は、教育目標を「人間の人格育成」ではなく「人材づくり」とすること。

いま大阪で橋下知事がねらっている「教育基本条例」は、東京での「教育改革」の上を行く史上最悪の教育破壊計画です。大阪維新の会による「基本条例素案」をとにかくじっくり読み込んでみましょう。どんな学校教育の現場が浮かび上がってきますか。私は想像するだに寒気がしてきます。

私が注目するのは、東京でも大阪でも、圧倒的な支持で当選した知事のもとで、「民意」を盾にとって、こうした教育破壊があたりまえのように行われていることです。中身・実態はともかくとして、やろうとしていることにはそれだけの都民・府民の「支持」があるということについてです。結果には責任をもたないあの「支持」です。「そんなはずではなかった」「そんなことまで考えて投票した訳ではない」という例のアレ。
ブッシュが始めた戦争から10年経って、「そんなはずではなかった」というアメリカ国民の自信喪失にも似ているかもしれません。その一点で、日本もアメリカもは「成熟した社会」であるとは全く思われまぜん。

こんな「教育」が大手を振って闊歩するのを許せば、大阪でも東京でも子どもたちの学力も人間力もおそらく急速に低下していくことでしょう。行政が焦れば焦るほどそうなる。なぜなら教える側に情熱もなく、ただ言われるとおりの教育をする中で、感動的な教育実践が生まれれるはずはないからです。教育委員会や校長が教師を信頼できず、逆もまたそうだとすれば、生徒はどうやってそのような教師を信頼できるのでしょうか。

上記の本にあわせて、いちど読んだ「競争やめたら学力世界一」(福田誠治 朝日新聞社)を読み直し、それらを結びつけるリンクになりそうな本「それでも日本人は『戦争』を選んだ」(加藤陽子  朝日出版社)をこれから読んでみようと思っているところです。

北欧を考えるとき、友人が「一冊の本が止まらない」と書いた「ユダヤ人を救え」(エミー・E・ワーナー 池田年穂訳 水声社)にも手が伸びています。同時並行で何冊まで読めるか??



  9月12日(月)    
読売新聞が9月7日付けで「展望なき『脱原発』と決別せよ」という世論を逆なでするような社説をかかげています。何なんですかねえ、これは一体。
その要旨というは次のようなものです。

@電力の安定供給は豊かな国民生活の維持に不可欠。
A原発の再稼働ができないと来年夏には全国で9%、依存度の高い地域で19%電力が不足する。
B原発がなくなっても、節電さえすれば生活や産業に大きな影響はない、と考えるのは間違いだ。
C不足分を火力発電で補うために必要な燃料費は3兆円を超え、料金に転嫁すると家庭で約2割、産業では4割近く値上がりするとの試算もある。
D原発の安全について国が責任を持ち、首相自ら地元自治体の説得にあたることが必要。
E原発の建設をやめた国から、原発を輸入する国があるとは思えない。
F自然エネルギーの拡大は望ましいが、水力を除けば全発電量の1%に過ぎない。現状では発電コストも高い。過大に期待するのは禁物。
G脱原発によって原子力技術の衰退は避けられない。高い技術と原発事故の教訓を、より安全な原子炉の開発などに活用していくことが日本の責務。
H感情的な「脱原発」ムードに流されず、原子力をめぐる世界情勢を冷静に分析してエネルギー政策を推進すべきだ。


経団連は7月14日に「エネルギー政策に関する第一次提言」を発表、その中で次のように書いています。

原子力については、定期点検終了後も停止したままとなっている発電所を、速やかに再稼働させることが何よりも重要である。
政府は、これまで実施した緊急安全対策等の意義について、周辺地方自治体・住民に十分説明し、理解を得る必要がある。各地元の要望についても柔軟に取り入れながら、政府一体となって、一貫した方針のもと、強い責任感をもって再稼働に取り組むべきである。(中略)
準国産エネルギーである原子力の果たす役割は引き続き重要である。安全性確保を大前提に国民の理解を十分に得ながら、引き続き着実に推進していく必要がある。


どうですか、うり二つと言うより、財界・読売が先導して原発推進の新しい宣言を行っているようなものです。まだ福島での事故の収束の見通しが立たず、住民が苦しんでいるというのにです。

この夏、ついに電力が逼迫して大停電ということにはならなかった。
「世界」10月号で中川孝治さんは「なぜ東京で電力は余ったのか」と題して、この夏の東電の電力事情を分析しています。それによると、7月下旬から8月初旬の猛暑日でも需要が80%を超える日がめずらしく、それどころか供給力に大幅な余力をもって東北電力と関西電力に応援融通するほどだったことが示されています。

今日の信濃毎日新聞によると全国の知事、自治体首長へのアンケートで、原発の新増設に反対と答えた比率が66%、先の世論調査でも浜岡原発の再稼働に反対する声が市民の6割、福島の被災者の中では67%が「原発をへらすべき」だと答えています。
6割台でとまっているのは、日本において読売が書いたような「電力逼迫による生活や産業への打撃」論がかなり浸透していると見られます。電力各社が停止したり使わなくなった石炭や天然ガス、揚水発電を動員すれば、容易に電力をまかなえることを東電はこの夏に証明してしまったわけで、そのことが国民の中で広く知れ渡るならば、脱原発の数字はもっと変わるはずです。
読売の社説はそうなることを恐れて、「電気」がなくなるぞとウソをつき脅しをかけながら、独占企業の利益を守り抜く姿勢を示しているのです。

まともに庶民によりそうならば、第一項目で「電気を使い放題つかう産業や消費生活を見直し、生活の豊かさの質を問い直すべきである」と書くのが原発事故後の感覚というものです。また今後のエネルギーでは、日本が圧倒的に再生可能エネルギーで西欧諸国に遅れをとったのは、原発関連企業と電力独占に法外の利益をもたらす原発にシフトしたことが要因なのですから、原発からの脱却こそが今後のエネルギー政策の基本であることをキッパリと指摘すべきなのです。
現在の科学では高濃度の放射性廃棄物を無害にすることや、安全に処理する技術が皆無であり、原発を続けるなら死の灰を果てしなくため続けることになることに最大限の警鐘をならすべきです。
その意味で、読売社説は人間の命より儲けしか頭にない財界・多国籍企業の代弁者を嬉々として勤めていることを自ら暴露しているようなものです。
そして、読売の社説には、原発事故を一日も早く収束して福島県民の健康を守る視点や、安全神話を振りまき財界の片棒を担いできたメディアの反省などという視点も全く見られないことは重大です。

この期におよんで財界ベッタリの特異な見解を大手マスメディアが公にする異常さ。
期待した自民党、民主党がこの体たらくですから、どれほど原発推進勢力が焦っているかを垣間見せた社説でもあるといえます。私にはそうとしか思えません。



  9月11日(日)    
今朝女川の高野さんに連絡をとって、10月にまた行きたいと話していたところ、11月4日から町会議員選挙があるので、もし来るなら10月中旬までがいいということでした。冬が近づくので「何にも持っていない人が多い。とにかくどんなものでもいいから持ってきて欲しい」と訴えていました。
以前の彼の話では9月いっぱいで仮設住宅に入れると言っていたので、もう入居できたのかと聞くと、「とんでもない、10月末になる」ということ。7〜8か月も段ボールで仕切られた避難所での生活では「身体がまいってしまう」とも。
彼のホームページではこの間の事情について次のように書かれていました。

安住町長は本当に避難者のことをわかっていない。ひどすぎる。3階建てのコンテナ仮設住宅にこだわり、お盆どころか、彼岸すぎても入居できず、とうとう10月15日以降でないと完成できないと言い出しました。
さらに、少しでも早く入居させるという口実で、工事完成順に4段階に分け、入居させると言い出した。何ども何ども分けられる人の立場も考慮せず、よくぞそんなことを考えるものだ。私は怒りを覚えました。
私はもう避難生活が半年を過ぎ、7ヵ月目になろうとしている。精神的にも限界を超え、今朝も救急車で運ばれる避難者もいる。とにかくこれまでの説明のとおり、9月末まで入居できるように、計画を見直し、工夫をすべきだ。なにがなんでも10月はじめには入居していただくという強い決意で仮設住宅の建設にあたって欲しい。方法はいくらでもあるはずだ、と主張しました。
しかし、町長は3階建てコンテナ仮設住宅を見直す考えは示しませんでした。ここまで、避難住民の悲痛な叫びを無視し、全国初の3階建て住宅に固執する理由はなんなのでしょうか。本当に不思議でなりません。
企業の論理優先、住民ないがしろの町政に、もう限界です。


いつも温和で笑みを絶やさない高野さんが怒り狂っているのですから、事態は本当に深刻です。福島や岩手ではすべて仮設住宅に入居が終わっているのに、さらにこの後1ヶ月以上もプライベートも何も無いところに押し込んでおく行政の怠慢は非難しても非難しきれない。
おそらくそれぞれの自治体ごとに首長の行政手腕、リーダーシップ、人格などがこうした非常時の対応に現れてくるのでしょう。宮城県知事もさることながら、原発容認のこの町長の頭の中は、原発交付金をどのように維持するか程度のことしかないのではないでしょうか。ひどすぎる。
まだ避難所に暮らしている方々が、少しでも楽に生活できるよう、そして一日も早く仮設住宅に入居できてくつろげるように、どうぞ頑張り抜いてください。

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台風の影響か、昨日今日とかなり蒸し暑い日。昨日から今日にかけては首都圏から沢山のウオーキング客が相次いでやってきたため、池田町のガイドマスターは大忙しでした。私は仲間数人とともにバラ園でお茶などをふるまっておもてなし。
昨日はバス5台。割と早く着いた組は、バラ園で一休みしてくれましたが、遅かった組は、急なにわか雨にたたられてバラ園はパス。ウオーキングはお天気次第なので全くの「運」ですね。
次の写真は上から、道祖神前で説明を聞く一行、我が家の前のコスモスを見ながら歩く一行、最後がバラ園でくつろぐみなさんです。






今日は、水戸、土浦、宇都宮、前橋、郡山、両毛からバス14台、合計500人でした。北アルプスは見えないものの、幸いお天気には恵まれて無事成功したようでした。「ようでした」というのも、私は午前中は池田町創造館主催の「被災地支援交流会」に出席しており、午後はまた共産党ファンクラブなどいくつかの民主団体が実行委員会をつくってひらいた「原発問題を考える学習会」に出席していたため、全くウオーキングの相手はできなかったのです。
午前中の「被災地支援交流会」は池田町から被災地の支援におもむいた4人に被災地の様子を生の声で語ってもらい、それを受けてこれからの支援のありかたをさぐろうというものでした。我が「町民ネット」からもMさんが報告者として女川支援の様子を語りました。
参加者はあとから来た人も含めて20数名。小さい池田町でも「何かをしなければ」と思って行動に立ち上がった人たちが数多くいるのは心強い限りです。今回の交流会はそうした人たちの活動をお互いに知ることができたこと、今後も継続的に支援をすすめていくことが大切だと確認し合った点で貴重なものでした。




午後からの原発学習会の講師は、チェルノブイリ支援を20年にわたって続けてきた元高校教師で小牧崇さん。プロジェクターをつかって、半径数百キロにわたってひろがった被害の状況や、ナタネを使って放射能の除染にとりくんだ経験などを話してくれました。また現地での消防式典で、代表が原発の事故処理収束にあたった消防士289人中、06年現在で45人が亡くなっていること、それも当時22歳から24歳の未来ある若者たちであったことを報告したという話は印象的でした。内部被曝による影響の方がはるかに大きいことも福島での原発事故を考える際に重要な点だと思わされました。
私の役目は司会者。いろんな行事のある日だったので参加者が少ないのではないかと心配していたのですが、会場一杯の70名余りになって大成功でした。心残りは時間が短かったために、十分質問や討論の時間がとれなかったこと。これは第2回目以降の課題です。





  9月8日(木)    
空気が澄んで、昨日今日と気持ちのよい日です。家の周りではコスモスが満開。今から1〜2週間が見頃です。
毎年種がこぼれて増え続けているコスモス。昨年は「アメリカネナシカズラ」にやられてかなり被害を受けました。今年は雨が多かったせいか一時出現したものの、根こそぎ退治したらそれきりになって今はきれいに咲きそろっています。
このコスモスは全く咲いているうちが花で、後始末が大変。いつもそれを思いつつ、咲くにまかせています。






昨日から爽やかな秋晴れに恵まれて、ここ連日畑にでて作業に追われています。いまやっているのは、イチゴの苗床を作ること、大根や白菜や野沢菜を植える場所をつくることが中心で、耕耘機を使って結構本格的です。
向かいのおばあさんから「よくだねえ、上手につくっているじゃない」とお褒めの言葉。放っておいても育つものばかり作っているので、あまり自慢にはなりませんけど・・。
青空のもと、畑では赤とんぼが無数に飛び交って、突き出たもの」があると見れば見境いなくとまっています。妻の頭にも平気でとまっていましたが、本人にはわかりませんね。
大豆は今年は何とか収穫が望めそう。オクラは相変わらず2,3日おきに大量に取れて、あちこちに配っています。モロヘイヤはそろそろおしまい。カボチャも結構ゴロゴロ。ジャガイモは全て収穫が終わり、あとはサツマイモと落花生が9月〜10月に取り入れです。
それが終わると、来年にむけてまたタマネギやニンニク、ラッキョウなどを植えることになります。畑には終わりという字がありませんね。




さて、かなり長い間、いわば「充電期間」のような日が続いていました。体調が思わしくなかったということもありますけれど、それは口実に近いもので、実際には「のんびりしたい願望」が支配的だったということでしょうね。
本読みと畑と数学と・・・もっぱら他人と関わるのを避けて家と畑を往復していたのでした。そろそろ秋本番にさしかかって、そうもいっておられなくなりそうです。
被災地支援の第3弾の準備に取りかかる時期です。被災地は東北だけではなく、豪雨災害で被災された紀伊半島のみなさんも視野に入れなければならないでしょうし、いざやり始めると課題は無数に出てきて猛烈に忙しくなります。前の支援の際に「体力の限界」をチラッと感じたこともあり、ちょっと避けていた面もあって「ひきこもり」になっていたのですが、やれるときにやらないと結局後悔する羽目になりますからね。自分から言いはじめた以上、最後までやるべきだと言い聞かせて、来週早々に「支援ネット」のみなさんに集まってもらって、その日から始動です。



  9月5日(月)    
紀伊半島を中心に、猛烈な雨量の長雨で想像を超えた災害になってしまいました。テレビで見る現地はまるで津波に襲われた東北のような状態。
台風の進み方が極端に遅かったために、同じ場所にしめった空気が流れ込んでこうした災害が引き起こされたと解説されています。それにしても、「ここに住んで長いけれど、こんなことは初めてだ」という現象が全国のあちこちで起こっているのは異常です。
温暖化によって自然環境が徐々に変わってきているのは、日本列島の生態系の変化ではっきりしています。つい先日も亜熱帯産のパッション・フルーツが首都圏で栽培できるようになったことが報じられていました。温暖化の検証には、単に炭酸ガスの影響だけではなく、もっと多面的・総合的に判断できるように研究を急がないといけないのではないでしょうか。

八重山といえば、友人夫妻とともに今年の春訪問した沖縄南西部の島々です。日本最西端の与那国島をはじめ、石垣島、西表島など大小さまざまな島から構成されています。
その八重山地域で持ち上がった「中学校の教科書採択」にかかわる一連の由々しい動きが新聞の紙面で小さく報道されました。
八重山地区の教科書採択協議会が、こともあろうに「新しい教科書をつくる会」系の育鵬社版「公民」教科書を採択したというのです。採択したのは石垣市、与那国町の2市町。竹富町はこれに反対し育鵬社版を採択しませんでした。
しかし、現行の教科書採択制度のもとでは地区全体として1つの教科書を選ぶ定めになっていることから2市町が竹富町に育鵬社版を強要、竹富町はこれを拒否するという前代未聞の状況が引き起こされているのです。
「新しい教科書をつくる会」系の自由社版や育鵬社版については、過去に神奈川県横浜市や東京世田谷区での「実績」があり、いまに始まったことではないのですが、問題はなぜ沖縄でこのような問題が表面化したのかということです。

沖縄が教科書検定で「集団自決」が削除されたことをめぐって10万人規模の大集会と抗議の渦が巻き起こったことは記憶にあたらしく、教科書問題でも敏感になっているのかとおもいきや、その足下でこのような「事件」が起こっている。
結論からいえば、私の考えは次のようになります。
第1に、沖縄でも政治的には革新が優勢かと言えば決してそのようなことはなく、むしろ「いなか」ではきわめて保守的な空気が濃厚に残っているということです。
とくに尖閣諸島をかかえる八重山では、中国の動きに敏感にならざるを得ず、与那国町では自衛隊の誘致にも積極的に動いてきました。
第2に、それに乗って当選した首長がこうした歴史観の持ち主であり、それをチェックする議会や住民の運動が弱く、また首長が息のかかった教育長を据え教育委員長・教育委員を選ぶという条件が重なることによって、沖縄であろうとどこであろうと、容易にこうした事態が引き起こされることです。
しかし、第3に、沖縄ではこと教科書問題については住民の圧倒的多数はこうした「暴挙」に批判的であり、問題の本質が全住民のなかに浸透していけば、保守派、新自由主義のこの種の動きは短命に終わらざるをえないということです。
事実、沖縄タイムスの世論調査によると、事態の推移と問題のありかがわかるにつれて世論も形成され、6割以上が育鵬社の教科書採択に反対、賛成はわずか2割に過ぎなくなってしまいました。

強引に育鵬社版教科書採択をすすめた石垣市の教育委員長の言動を見ると、つい先日私が批判したあの藤原センセイの仰っていることとまるきり同じではありませんか。
日本国憲法に基づく平和・民主の教育を「偏向」とののしりながら、右翼的な歴史観を教育にもちこもうとする動きは全国どこでも表に出てくる基盤があるということを示しています。

私としては、遠い沖縄のことと見過ごすわけにはいきません。琉球新報や沖縄タイムスから記事を引用しながら、この間の一連の動きをまとめてみました。
日記本文で書くと、それこそ延々と続く論文になってしまいますので、今回は別のコンテンツにまとめました。関心のおありの方は琉球新報、沖縄タイムスの紙面でソースを確かめつつ、ぜひお読み下さいませ。

[資料] 八重山地区教科書採択問題について



  9月4日(日)    
今日9月4日と10,11日に読売旅行のウオーキング一行が池田町を歩く予定になっています。しかし、折からの台風の影響での雨がつづき、せっかくのウオーキングも台無しです。
この種の企画の参加者は、雨でも慣れている人が多いとはいえ、やはり晴天の安曇野とはまるで違います。バスが到着する昼前あたりから、何とか天気が回復してくれたらいいのですが。
仁科神明宮を起点に、我が家の前を通りバラ園に寄って、ハーブセンターまでガイドマスターが案内します。私もその端くれなので、様子を見に行ってくることにしましょう。バラ会員は午後1時に園内に集合なのでこっちも参加。オーナー会員の募集チラシをつくって、希望者に渡すことにしてあります。


昼少し前、一行が仁科神宮に到着。雨はあがっていましたが、まもなくまた激しく降り始め、最悪の空模様。それでも、皆さんは元気よく出発しました。
私は迎えに行ったあと、健康友の会主催の健康祭りにちょっと顔を出して、食事をしたあとバラ園に。雨で倒れたコスモスを起こしたり、花の手入れをして待っていましたら、1台のバスの一行だけがバラ園に寄っていってくれました。
聞くと、雨のために不満タラタラだったようで、あとの2台は途中の経路をショートカットして到着地点にむかったらしい。バスごとに雰囲気がずいぶん違うように思われました。次はバスの到着の模様とバラ園での一行の様子です。いずれも大きな画像がリンクされています。













  9月2日(金)    
昨日畑で畝をつくっていたためか、遅くまで記事を書いていたせいか、今日は朝起きられず、ぐずぐずと昼過ぎまで寝転んでいました。
最近腰や手首だけではなく、左足が攣ったりして、どうも左半分にいろんな支障が出て困っています。脳梗塞の前兆なのかとも思いますが、素人判断ではそれらは腰の神経から来ているらしい。いずれにせよ、診察してもらうに限りますね。今年は人間ドックを申し込んであるので、それらを含めて綿密に見てもらうことにしましょう。

台風接近の影響で、今日は一日断続的に雨。まもなく四国に上陸という報道がありました。大雨で洪水や土砂災害などが発生しなければいいのですが。

ここしばらく何かを書こうとすると、何となく長い長い論文調になって、反省しきりです・・・。誰かさんから、これらの記事と「安曇野」とはどんな関係があるんだと言われてしまいそう。考えようによっては、勝手な記事を垂れ流しているといえないこともありませんが、正直に感じたことや出来事を紹介しておくのも私自身の責任だと思うし、1人でも2人でも読んでいただける方がいれば、書き続けることに意味はあるだろうと思って、今日もまたパソコンにむかっています。

鹿砦社という出版社から今日ある本が届きました。もちろん注文していたもので「東電・原発 おっかけマップ」(鹿砦社特別取材班)という、いまはまだマイナー(?)な本です。
「デジタル鹿砦社通信」によれば、「トーハン、日販など取次会社から新刊「委託」配本を拒否された『東電・原発おっかけマップ』は、逆に注文が殺到し、早晩品切れ(あと1200冊)の見込みです!」だそうですよ。注文するならお早めに。

「原発安全神話」がどのようにつくられ、誰がそれを担ってきたのかについては、すでにいろんな本で紹介されてきています。

@「世界」5月号で内橋克人さんの記事
A「原発文化人50人斬り」(佐高信 毎日新聞社)
B「原発の闇を暴く」(広瀬隆・明石昇二郎 集英社新書)
C「原発官僚」(七尾和晃 草思社)

ABはどちらかというと「怒り」の方が前に出て、緻密に「原発神話」に切り込んでいく点では少々問題があるように思いますが、それはともかくとして、今日の福島での大惨事を招いた責任の所在を明確にしていくことは、事故の収束をすみやかに図ることと同時にどうしても必要なことです。

この「おっかけマップ」では、「東電」「福島」「永田町」「霞ヶ関」「電力・産業」「学術・メディア」などと分類して、それぞれに「原発」にかかわった「戦犯」1人ひとりについてその実際をかなりのページをさいて取材・紹介しています。
顔写真はもちろん住所やその地図まで記載する念の入れようが大手取次店の逆鱗に触れたとも考えられますが、この本の編集者によれば、これらはすでに公開ずみの情報だと説明。
特徴的なのは、単に1人1人を告発するだけではなく、総合的にみて、それぞれの個人がどのように今日の複合的な「犯罪」に関わっているかを明らかにしようとしている点です。そのために、各章の冒頭に総論を置いて全体像の解明に力を入れており、読み応えがあります。たとえば、「東電編」は小出裕章さんが担当、霞ヶ関編は吉岡斉九州大学副学長が担当するというように。
見かけよりははるかに真面目で、「原発安全神話」に正面から切り込もうという熱意と迫力を感じました。



  9月1日(木)    
藤原正彦著「日本人の誇り」に次の一節があります。

「日中戦争の頃から八紘一宇という言葉はよく用いられました。・・・この意味は、世界は兄弟達の住む1つの家のようなものであるという、神武天皇建国以来の、日本書紀にも出てくる日本人の道徳であり平和思想です。・・・具体的内容は『基本国策要綱』にあるように、世界平和の確立を目指し、まずは日満支を核とした大東亜共栄圏を建設しようというものでした」
日本が中心となって東アジアの白人植民地を解放し、そこに平和と繁栄を築こうというのですから、立派なスローガンにも聞こえますが、『日本が中心となって』というのは他国から見たら思い上がりと思われても仕方のないものです。しかし、これは利己的なものではなく、白人の牙から同胞アジア諸国を守るという、幕末からのアジア主義であり、日本人の気概のほとばしりでもありました。・・・「八紘一宇」と「大東亜共栄圏」は独りよがりな気負いでしたが、世界征服を睨んだものでは決してありません」(124〜125ページ)
「アジア侵略の計画など全くないからこそ・・・日中戦争開始前の中国から数限りない挑発を受けても、政府と参謀本部は自重と不拡大方針をとったのです」(127〜128ページ)


さて、私が昨日まで読んでいたのは、1993年に初版本が出ている「日本軍政下のアジアー『大東亜共栄圏』と軍票」(小林英夫、岩波新書)。
当時軍が物資調達のために発行した特殊なお札(軍用紙幣)を通して、日本軍が中国本土や東南アジア諸国で何を行ったかを検証している本です。
筆者は何度も現地に足をはこび、聞き取りや資料収集を行いきわめて実証的にその実像にせまろうとしていますから、そもそも藤原さんとは立脚点が異なります。(もっとも比較すること自体無理ですけど)
小林さんがこの本の中でくりかえし実証しているのは、日本軍の現地での軍事占領政策を支えていたのは物資の「現地徴発」だったことです。

戦争遂行のために必要な物資を占領地域の民衆から収奪したこと、そのため広範な民衆が塗炭の苦しみをなめさせられたことを忘れてはならない。その物資収奪のカラクリの中心に位置するのが軍票であった。

物資そのものの量はさして変わらないのに、軍票というあらたな通貨がくわわって貨幣量だけがふえるのだから、必然的にインフレをもたらす。日本は占領地域において、価値維持のてだてが不十分なまま軍票を主要通貨として強制流通させただけでなく、戦局が悪化するとそのてだてすら放棄して、紙切れ同然の軍票を乱発し。その結果、中国本土、東南アジア諸国の経済をインフレのるつぼに陥れたのである。


日本軍は東南アジア占領計画を研究し始めたのは1941年のはじめ。それが開戦のわずか20日前になって「南方占領地行政実施要領」が作成されます。小林さんは、これについて次のように指摘しています。

この『実施要領』の基本は、「占領に対しては差し当たり軍政を実施し、治安の恢復、重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す」ことにおかれていた。そして、「国防資源獲得と占領軍の現地自活の為、民政に及ぼさざるを得ざる重圧は之を忍ばしめ、宣撫上の要求は右目的に反せざる程度に止むるものとす」という。つまり、日本軍の占領目的は物資獲得であり、その結果生ずる犠牲はあげて占領地の民衆に転嫁するというものだった。したがって、独立運動などに対しては、「皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とした。
これが「東亜の解放」「英米の支配からの解放」をスローガンに、「大東亜共栄圏」の実現を叫んだ日本の本心だった。


『実施要領』に見る日本軍の方針は、藤原先生の「思い込み」とはずいぶんかけ離れていますね。
この本の後半では、日本の軍事占領政策と軍票の乱発が、当時東南アジアで築かれていた商品経済の緊密なネットワークをことごとく破壊したことが具体的にしめされています。「強制的に財産を奪い、人命を奪い、民衆を塗炭の苦しみに追い込んだのである。これこそがまぎれもない事実であった」のです。
終わりに小林さんは次のように書いています。

“虐殺”“強姦”“強制労働”、これらはもはや戦争犯罪というべきことである。しかも、これらは戦場で戦闘行為に付随しておきたのではなく、占領地で女性や子どもをふくむ一般市民に対してなされたのであった。数多くの証言がそれをうらづける。いまこそ、徹底した被害調査と誠意ある補償がなされるべきであると、わたしはつよく思う。そのことなくして真の意味で日本とアジア諸国との友好の歴史を築くことはできないだろう。

「軍隊の兵隊達が時には羽目を外して強姦したり物資を強奪したことはあったろう。しかしそれはどこの国の軍隊にも見られたのである」という藤原さん。それで日本軍が免罪されると思っているのでしょうか。具体的な資料にあたりもせず、現地に行って直接調べるわけでもなく、まさに当時の軍部の「宣伝」(「実際のねらい」ではない)文句を新しい装いを凝らして言い募るその熱意には感心してしまいます。おそらくそれだけ危機感を強めているともいえるのでしょう。
ここまで極端ではないにしろ、現在の日本には得てしてこのようなタイプの人が結構多くいるような気がします。事実を事実としてみることをやめ、自分の描いた、ある意味で完結した世界に浸ってそれと異なるものはことごとく排斥していくタイプ。これは怖い。
歴史を語って、藤原先生のような「おっちょこちょい」(本人の自己評価ですよ!)にその任を求めざるを得ないところに、今日の右翼的潮流の限界と底の浅さがあるということを浮き彫りにしたのが、この「日本人の誇り」。いずれ役に立たなくなったらポイ捨てされるのに・・・。


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「天皇をいだき、和の精神で貧しくとも心豊かに生き、日本だけではなくアジアの国の民衆の幸せをも願う優秀な民族」という信念(?)を1つの公理として、そこからあらゆる現象を定理として取り出していく。考えてみると、藤原先生はずいぶん昔にはやった公理主義の手法で、この世の出来事を解明していこうとなさっているのかもしれません。
その意味では、彼なりに歴史の「解釈」に向かっているのでしょうが、果たしてそれを「真実」といい、その手法を「誠実」と呼べるのでしょうか。
数学では公理はあくまで議論の出発点に過ぎず、無矛盾性こそが論理の命なのであって、その真偽は問われません。

その昔、まだ20代から30代の頃、ルイ・アラゴンの「ストラスブール大学のうた」の一節がはやったことがありました。今ではちょっと手垢にまみれた感もなきにしもあらずですが、当時はものすごい新鮮な響きを与えてくれたものでした。

教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと


これは大島博光さんの訳。ネット上で見ると、「希望」を「未来」に、「誠実」を「真実(まこと)」と解釈した方がいいという人もいます。たとえば「ルイ・アラゴンの言葉に寄せて 〜言葉と詩の花束No.7」のように。
大島さんについては、一行目は良いとしても2行目ですら私には意訳に思えるのに、「花束No.7」のように原文から勝手に離れていくのはどうかと思います。下の原文に見るように、大島さんの方がいいですよね。(フランス語は40数年前にチラッと勉強した程度なので、故大久保さんの蔵書から辞書「ロワイヤル仏和中辞典」をお借りして必死で調べてみました・・・)

Enseigner c'est dire espérance
étudier fidélité

私には「真実」にむかう生き方が「誠実」なのだから、「『真実』に基づいて行動し、論理的に物事を処理することに対しての保証がないことには、『誠実』は非常に不安定な存在だからです」というのは逆のような気がするのですが。




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