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  5月29日(日)    
先日バンコックにいる姪から第二子が誕生したという報告がありました。「おっぱいもよく飲み、体重も順調に増えている」とのこと。まずはおめでとうさん。まきちゃんお疲れ様でした。まあ、これから二人の子育ては大変でしょうが、苦労のしがいがあるというもの。第一子と違って顔はアジア系らしい。大きくなるとどうなるかはまだわかりませんが、容姿ががどうであれ元気でのびのびとした子に育ってほしいものです。


昨日からずっと雨降り。午後になってかなりはげしく降って、山間部では土砂崩れも発生している模様。土砂崩れや河川の増水で大きな問題が起きなければいいのですが。
夜になっても雨は降り続いて、山から水が落ちてくる我が家の前の用水では、かつてのように大きな石がごろごろと音を立てて流れ落ちてくる音がします。これは不気味。数年前は山から流れ落ちてくる大小の石で下の水田の一部が埋まりましたから。
池田町では役場に災害対策本部が設置され消防団に出動が要請されました。前の田んぼにも泥水が入り始め、このまま激しい雨が続けば、数年前の二の舞の恐れも。夕方よりやや小降りにはなってきていますが、予断を許さない状況です。

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一昨日から「女川町被災地支援」の活動報告のニュースを作っていました。いずれ何らかの形で報告をしなければならないと話し合っていたので、たたき台を作ったのです。原案で事務局でも了解はとっていませんが、ネットワークのみなさんや女川町の方々にも意見を聞く意味でお知らせします。ぜひご意見をお寄せ下さい。(どちらが表でもいいようにつくっています)

震災被災地支援ニュース<表面>(PDF)
震災被災地支援ニュース<表面>(PDF)

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先日、ダイヤモンド・オンラインに神戸松蔭女子学院大学教授、池田清さんの小論「東日本大震災と阪神・淡路大震災の真の教訓 東京一極集中・地域間競争から協力・共創の時代へ」が掲載されました。
部分的には問題がないわけではありませんが、現在のところ大変注目すべき考察だろうと思われます。

池田さんはまず次のようにのべます。

@大災害は、その時代の政治や経済、社会が抱える矛盾や本質を露呈させるとともに、大きな政治変動、経済変動、社会変動の引きがねとなってきたことを歴史が教えている。(安政地震、関東大震災、戦災と広島・長崎被爆、ハリケーン・カトリーナ災害など)
A東日本大震災は、戦後日本の中央集権的官僚機構と東京一極集中の国土・地域政策、産業政策、エネルギー・原子力政策を根本的に問い直す機会を提起した。と同時に大型施設・設備と生産・エネルギーの広域的分業システム、そして大量生産・流通・消費・廃棄システムによって立つ文明と生活の質そのものの転換を迫っている。
B東日本大震災は第1に、地震、火災、津波という従来型の災害と、原発事故、放射能汚染など新しいタイプの大規模な複合災害である。


こうした認識に立って池田さんは、過去の「震災復興」には二つの対立軸があったとして、次のように指摘しています。

@ 近代日本の都市づくりと災害復興を貫く思想と政策が、為政者の「創造的復興」と被災者の「人間復興」との対抗関係として把握しなければならないこと。A 「創造的復興」とは、為政者が大災害をバネとして開発・成長と近代化をより強力に推し進め権力維持を図ることを目的としている。それは、大災害以前の都市を再建する「復旧」ではなく、都市の構造や外観を抜本的につくりかえる「復興」であった。
一方、「人間復興」は、大正デモクラシーの旗手の一人であった経済学者福田徳三が関東大震災後に提唱したもので、被災者の人間としての「生存権」と営生の機会を保障するものである。それは、核のない平和で環境・経済・社会が持続可能な地域・都市を創りあげる力量を有する「人間発達」につながる、というものだった。


こうした観点でみれば、今回の大震災はどのような特徴を持つのか。池田教授は次のように断言します。

今回の東日本大震災は、電力会社と政府、一部の学者、研究者が「科学・技術」による「安全神話」をつくりだし、原発の危険性を置きざりにして業界の利益を追い求めてきた結果である。
そこから学ぶべきは、「われわれの消費生活繁栄のピラミッドの空洞をうずめる」ことである。と同時に、大震災復興において、「人間復興」を期すべく、東京を頂点とする大都市と地方の過疎、東京電力などエリート企業・富裕層と下請け・非正規雇用の貧困層などの格差・差別構造のピラミッドの型そのものを問うものでなければならない。
第2に、今回の特徴は、津波による被害で街が壊滅状態となったことである。
復旧、復興の主体は、あくまで被災者と被災地であり、その意思やニーズに基づいたきめ細かい復興計画が求められる。政府の役割は、被災地が歴史や産業、文化の異なる多様な地域であることから、人的、組織的、財政的な強力なサポート体制をつくることである。


このあと、彼は阪神淡路大震災の教訓について重要ないくつかを述べています。阪神淡路については、様々な方面から指摘されているように、「創造的復興」の名の下に、都市部の再開発を大手企業のもうけ優先に行い、もとからあった地域商店街や住居を閉め出して、地域の絆を断ち切り多くの「孤独死」などを生み出したのです。
今回もまた野村総研が仕切る宮城県の「復興」の動きのように、財界よりの「復興」が取りざたされている折、この論考は1つの良識であり、地域に根ざした復興を進める上でよりどころとなるものだろうと私には思えます。



  5月28日(土)    
昨日は、池田町のある女性団体から要請を受けて、10人ほどの会員に女川町の被災の状況や支援の模様を話しました。こちらは派遣メンバー3人。私からはプロジェクターを使って写真を写しながら、現地の様子をくわしく説明。その後、もう一人のメンバーから支援行動に参加しての感想などを話しました。
その中で、ある高齢の方が「うちは90歳と95歳の老老家族。もし何かあればどうしようもない。集落で誰かが何かをしてくれるという話も聞かない。死ぬのを待つしかないのか。誰かが責任を持って助ける仕組みが必要だ」と発言。「地域によっては助け合いマップのようなものが作られて、誰が誰の援助をするかが決められているところもある」という発言もありましたが、こうした声が出てくること自体、町の中にしっかりした防災の体制が作られていないことを示しています。話し合いの中では、池田町での震災対策についても話題が及び、議論百出でおもしろかった。


さて、最近の1つの重大な問題は、大阪府知事の一連の動き。自らが代表を務める地域政党が「君が代」斉唱時に教職員の起立・斉唱を義務づける条例案を提出したと報じられましたが、これはとんでもない事態です。
日弁連が、条例を「可決することがないよう」求める声明を発表しましたが、あまりにも当然のこと。その当たり前のことが通らない、当たり前でないことがふつうのように「大衆」に支持されて公然とこの社会で出しゃばってくる・・・それはまさにファシズムの先触れということではないのでしょうか。ドイツのナチスにだって「大衆」に熱狂的に支持された時期があったのです。今のうちに橋下という男の本性を見抜いておかないと、いとも簡単にかつての道のように転落してしまうことになります。
彼らは「法律に定められたことは守るのが当然だ」とよく言います。「『日の丸・君が代』は国民の中に定着している」というのも彼らの有力な論拠。それに依拠して事を進めようとする「大衆迎合主義」が彼の特徴ですが、その際に、「国旗・国歌法」制定時の議論も、法律よりも上位の「憲法」の要請も全く眼中にはありません。要するに都合のいいもの、大衆受けするものだけをよりあつめるだけです。

こうしたことが平然とこの日本で起こりうることの異常さに、もっと気がついてもいいのではないか。しかし、石原知事にしろ、橋下知事にしろ、この国の大都会でこのような知事を圧倒的な都民・府民が選択したのだから、気がつきようがないのかもしれません。結局、地震・津波の被害と同様に、膨大な犠牲者がでてはじめて、その愚を悟るということになるのか。いやいや阪神・淡路大震災を経てなお、「創造的復興」の名のもとに「道州制」や大型開発の動きが加速している現状をみるにつけ、結局は行くところまで行き着かないと、その本質は姿をあらわさないのかもしれません。もちろんそうさせてはならないのですが・・・・。



  5月26日(木)    
Googleの衛星画像で東日本の太平洋側をアップしてみると、どこもかしこも白茶けた津波の爪痕が写っています。女川と同じか、あるいはそれ以上の惨事が、東北から関東にかけての東海岸をずっと埋め尽くしているのです。市や町や報道もされない集落の片隅で、必死に耐え生きようとけなげな努力を続けている無数の人たちがいる。
たとえばこの安曇野でさえ、親族や知人・友人といった関係者を持つ人たちがたくさんいるのですから、事情は全国どこでも変わらないはずです。

この間、人の情け、人の温かさ、人の力・・・いろいろ教えてもらったことはかけがえのない収穫でした。被災地支援の活動がなければ永遠に繋がることができなかったであろう人たちと、たくさん知り合えたことも貴重です。これも決して偶然ではないのだと思います。
思い返せば、いくつものシーンが浮かんできます。テレビの前で、まんじりともせず津波の映像を涙を流しながら見続け、自分に何ができるかを必死で考えていたこと。町役場との対応を知って、それならと決意し仲間のところを駆けまわったときのこと。田中会館の朝。ホテルで高野さんと再び巡り会えたときのこと・・・それらの一つ一つが私にとって深い意味をもつ出来事でした。

阪神・淡路大震災のとき、東京にいた私には全く何もできなかった。近くに被災した知り合いがいたにも関わらず、何かをする手立てを全く持たなかったのです。心を痛めることはあっても、まわりでそうした具体的な行動を起こす人も知らず、ましてや地域での関わりを持ってもいない私でしたから、当然と言えば当然でした。なぜあのとき、今のように考えることができなかったのか。現地へ行くかどうかではなく、募金をするかどうかでもなく、自分との関わりを考えるという意味において、当時の私は大きな限界を持っていたのでしょう。
今回の支援の行動は、池田町に来てからの私自身の存在の意味をたしかめる大きな機会になったと思います。大それたことではなく、人と人とのつながりの大切さの再確認という程度の意味ですけれど。

「町民ネット」としての行動では1つの区切りはつけたけれど、終わったわけではない。これからどのように持続させていくか、じっくり腰を落ち着けて考えていかなければなりません。
当面、町民に返すという仕事が待っています。とりわけ、震災直後からボランティア隊として黙々と仕分けなどの作業をしてくれた女性のみなさんに、被災地の様子や支援行動の詳細を伝えるべきでしょうし、たくさんの物資や資金を届けてくれた心ある方々に報告する義務があります。ここ数日の課題です。
さっそく明日、町のある女性団体から被災地の様子を知りたいから1時間ほど話して欲しいという依頼がありました。うれしいことです。これには、私を含め派遣メンバーの3人が対応することにしました。室内を暗くできれば、プロジェクターを使って写真を写して概要を知ってもらおうと思っています。他の団体にも積極的にこちらから働きかけることも必要かも。

そして私の次の大きな課題は池田町の防災対策について民間レベルでしっかり検討するということ。これは「震災シンポ」および何らかの報告書という形で結実させたいと思っています。これには「町民ネット」だけではなく、もっと専門的な知識を持った人も結集して調査・研究することが必要ですから、ある程度時間がかかります。東日本大震災の悲劇をこの町で繰り返させるわけにはいきませんし、町の将来設計にもかかわることですから、慎重にしかし大胆に、そして一歩ずつ取り組んでいくことが必要です。

一昨日からすこしずつ畑を耕しています。ところが女川から帰ってからというもの、背中の左半分が凝りに凝っていたいのなんの。妻にゴルフボールで指圧してもらって少し良くなったかと思ったら今日もほとんど変わらない痛さ。どこか妙な無理があったのか、年なのか。それでも「畑は待ってくれない」ので、遅まきながら今日はトマト、キュウリの苗を植えました。また、ゴーヤ、トウモロコシ、モロヘイヤ、オクラなどの種も蒔きました。これからまだまだやらなければならない畑仕事がいっぱい。年と相談しながらやるしかありませんね。


  5月24日(火)    
昨日までずっと写真の整理や記録をまとめていて、少し整理がついたところです。
22日、23日と雨が続いて、今日ようやく晴天になりました。21,21日とウオーキングの行事があったのですが、2日目の22日は午前中から昼過ぎまで雨にたたられて残念。20日はカンカン照りで真夏日だったのに、うまくいかないものですね。
夕べは20度を切って「寒い寒い」の連発。お風呂に入ってようやく一息つくという気温の急激な変化、なかなかついていけません。寒さもちょっと異常で、今朝北アルプスを見たら有明山の頂が白くなっていました。この季節にまだ雪というのもめずらしいことです。
女川支援から帰ってから、22日、23日は疲れが残って身体が痛く、なかなか何かをしようという気持ちになれませんでしたが、今日あたりからようやくちょっとずつ身体を動かしていかないと・・・という気持ちになっています。しばらく畑やバラの会のことがお留守になっていたのでそちらの方にも目を向けていかないと・・・。


支援に出かけている間、ローカル紙には支援行動のことが紹介されていました。朝取材に来ていましたから何か書いてはくれるのではないかと思っていましたが、なかなか好意的にしっかり書いてくれていました。以下はその記事。
上が信濃毎日、下は市民タイムス事です。




無我夢中で支援の準備をし、強行軍で支援行動を行い、さてこれをどう総括するのか。「ネット」としてではなく、自分自身の問題として「何を感じたのか」と聞かれてどう答えるのだろう、そう考えてふと戸惑ってしまう。
あまりにも大規模な災害、あまりにも広範囲な津波の被害なので、彼の地は人知の及ぶ領域にはないかのようにすら思えてしまう。こうして晴れ上がったすがすがしい青い空と田植えの終わった田の向こうに冠雪の北アルプスを眺めていると、ほとんど想像することも困難なあの現場。

ほとんどの場合、それは「人ごと」なのであり、忙しい毎日の生活からみればいつも考えているわけではない出来事の1つに過ぎない。
当然のことながら、阪神・淡路大震災のときも東北の人たちからすればそれは「人ごと」。それが今回は「我が身」の出来事になったわけで、全国どこにいようが、この手の災害は「明日は我が身」なのです。
そのときになったら対処する問題なのか、それともそうならないうちに考えるべきことなのか、答えはきわめて明快のはず。ときには意識を一点に集中させ、想像の限りを行使し、被災の現場を凝視する時間があってもよい。そして、写真でも手記でも何でもよい、それを自分に引き寄せ、取り込み、心に浮かぶ何かをつかみとる努力をすべきなのです。

女川では、16人の町会議員のうち、震災前までは原発に反対していたのは共産党の2人だけ。地方交付税の不交付団体になるほどに巨大な原発補助金の前に他の議員は積極的に賛成するか、または明確な反対は取れなかったのか。
この震災で、女川原発は外部電源が1つだけ残りかろうじて福島の惨事を免れたのでした。それも、共産党の議員や国会議員の再三にわたる警告・要求の結果10メートルの浚渫を行わせたことも大きい。女川は高台にあったから無事だったのではなく、紙一重で惨事を免れたといえるのです。そして今は、町民の6割が反対の立場になっている。大惨事を経なければ意識が変わらないというのは何とも皮肉なことです。

次は、高野さんの支部が発行している情報紙「希望」です。





  5月21日(土)    
昨日で持って行った物資はすべて配布し終わり、あとは午前中の女川原発の視察を残すのみ。
この日もほとんどのメンバーが5時起きだったので、私とMさんは6時頃から女川町立病院の駐車場をはじめ、被災現場を見まわりました。かなりがれきが片付けられたとはいえ、大きな建物は津波を受けたときのままだし、いくつもまだ手つかずのところが残されていました。
満潮時だったからなのか、あちこち水浸しになっていて、復旧の困難さを垣間見る思いでした。












朝食後、高野議員、阿部議員とともに牡鹿半島を縫い進んで女川原発が最もよく見える海岸まで行きました。こんなところはベテラン議員である高野さんの独壇場。途中には女川市街地と同様に破壊された集落があちこちにあり、一つ一つ車からおりては実情を見ました。ある集落で突然2匹のネコがやってきて遠巻きにしながらも近づいてきます。痩せこけて今にも倒れそうなネコを見ていると涙がでそうになります。








海はとても静かで澄んでいました。その中に、突然流れ着いたと思われる家が浮かんいるところへ。ものすごい違和感と恐ろしさで立ちすくんでしまいます。


女川原発の見える港では、原発を間近に見ながら、高野議員がくわしく実情を説明してくれました。この詳細はウエブ上で公表されている次のインタビューで確認できます。津波に襲われたときの状況も含めて注目すべき映像ですから是非ご覧下さい。女川町支援のおさらいをする意味でも役に立つでしょう。

高野議員へのインタビュー




原発から帰って、すぐに池田町に帰る準備にとりかかり、私を除くメンバーは12時に女川町を後にしました。
私はというと、40年ぶりに大学時代の友人が秋田から家族とともにやってきてくれ、高野議員も含めいっしょに昼食時間を過ごしました。


そのあと、私は1時間遅れで女川町をあとにし、一路池田町へ。高速道路途中で前に出発したメンバーと合流し、夜中の12時頃無事池田町に到着。そのままバタンキューでした。



  5月20日(金)    
朝6時起床の予定が、何とみんなは5時にはもう起き出して、そのうち2人は車で被災地の様子を見に出かけていきました。
心がけがよかったのかずっと晴天続きで、この日もよく晴れて暑くなりそうな予感。私たちの停留している駐車場の脇とグランドは自衛隊の15,14連隊の車両がずらりとならび、若い隊員が朝早くから準備に取りかかっていました。私たちのメンバーは、隊員から情報を仕入れたり、談笑しながらその労をねぎらったりしていました。自衛隊と一緒の敷地で、生活しているのも実に奇妙な感覚。
1人の若い隊員は2ヶ月間もずっとここで、捜索活動からがれきの撤去作業までやっているのだと話していました。遺体発見は自衛隊、その回収は警察と分担しているとのこと。「どうして回収してくれないのか」と食ってから係られることもあったとか。夜中に遺体の捜索の夢をみて飛び起きることもあるという話も聞きました。任務とはいえ過酷な作業の毎日、自衛隊がいなければ、これほどの作業はできないでしょうから、黙々と作業を続ける隊員のみなさんには本当に頭が下がります。

今日は、支援活動のメインの日。物資を住民のみなさんに渡すことが中心の仕事です。
7時には高野さん、阿部さんも来てくれて、7時半頃にまず最初の「青空市場」を予定している仮設住宅付近に移動しました。設営場所の脇は避難所になっている小学校で、私たちが行くと何事かとのぞき込む住民の方がすでに何人も。
すぐに狭い空き地も階段もブルーシートにひろげた物資でいっぱいに。いろいろ段取りをしてきたはずなのに、文房具が見つからなかったり、用意したメッセージを忘れたりとトラブルはあったものの、何とか開設にこぎつけみなさんに挨拶を終えていよいよ第1回目の「青空市場」の開始です。








団長の矢口さんと私と案内役の高野さんは、そこで青空市場を離れて第2小学校の一部屋に設置されている役場に行き、議長、教育長、総務課長に面会しました。団長から義援金とお米、車いすを贈り、今日の行動について説明、しばし情報交換の時間を持ちました。
小学校の4部屋が役場になっており、現在急ピッチで近くに役場を建設中でした。職員も何人か失い、狭い場所で住民の様々な要望や手続きにこたえ、町の再建に取り組まなければならないのですから、その苦労ははかりしれません。
役場に持って行った支援物資は、物資の受付所に。広い体育館は物資がいっぱい積まれており、自衛隊員が役場の職員の指示で搬送にあたっていました。




そこから「青空市場」にもどると、もうすでにほぼ終わっていて、片付けの最中。高野さんの「予言」通り、約30分で物資がなくなっていました。

予定より大幅に早まっていたので、その足で次の「青空市場」へ。そこは津波が押し寄せた先端にあたっていて、かろうじて残った家屋が10数戸あるところ。広い「空き地」にブルーシートを広げて物資を並べました。私はハンドマイクで市場のよびかけ。そこでも三々五々住民があつまってくれて、心よく品物を受け取ってくれました。直ちにお酒を一杯飲む人も。人数が少なかったせいか、和やかに終わりました。そこで午前中は終わり。










「基地」にもどって、体制の立て直しです。そこからは二手に分かれるので、その準備にとりかかりました。あと2,3カ所の青空市場用に物資を1台のトラックに、さらに宅配用に準備した袋に米と野菜を詰めてセットにする作業をしてそれらを別のトラックに。
さらに昼食後は、残った物資をもういちど整理してあと1カ所の青空市場と1カ所の宅配へ向かいました。
宅配の途中、壊れた家の庭にきれいな花が静かに咲いていたのが印象的でした。
午後2時過ぎには予定した物資の「お届け」はすべて終了。その後片付けをして全員で記念写真。今日帰る予定にしていた3人が2台のトラックで午後3時半ごろ帰途につきました。
記念写真には大きな画像のリンクが張ってあります。








まだ日が高いので、高野さんの案内で高台から被災地の様子を見に出かけました。
そこは、道をはさんで体育館や第2小学校、幼稚園のある高台の一角、第1中学校のすぐ脇です。写真の上の赤いが私たちの宿泊していた駐車場。中央やや下の赤いが、役場や駅のあった女川中心部を一望した場所です。津波は、この高台の両側やこの南側の商店街、住宅地を2キロ以上も遡り、女川町の住宅家屋の7割を破壊したのでした。




私が2週間前に来たときから見ると、ずいぶん片付いてしまっていました。がれきの集積場がいくつも作られて数階建てビルくらいの高さに積まれ、道も高潮をさけるために高く作られていました。もう数週間もすれば、すっかりがれきも片付けられて、昔から広々とした土地だったかのような景観になってしまうのでしょうか。
しかし今はまだ道路には釘のついた材木片がいたるところに落ちていて、タイヤのパンクが心配。よけて通るために時速10キロくらいののろのろ運転で進まなければなりません。災害時にお墓の上の方まで流されていた電車がようやく運び出されているところをちょうど目撃することができました。この電車にも人が乗っていたのでしょうか。
電車の次の3枚目の写真には船の向こうに廃墟となった役場と、さらにその向こう高台に一階まで津波で壊された町立病院が見えます。その向こう側が、マリンパルから浦宿へと通ずる商店や民家の密集していたところ。以前紹介した写真がそちらのほうです。






次の写真は、総合運動場の高台から見た被災現場。高い塀を乗り越えて津波が押し寄せた様子がわかります。写真の次は同じ場所のGoogleによる衛星画像。




この日の夕方は、高野さんご夫妻と阿部さんを招いて夕食会。池田町から来た個性的な面々の放言の数々と心づくしの手料理に、久しぶりに楽しいひとときを過ごしてもらえたのではないでしょうか。笑顔が大変うれしかったです。




最大の山場を無事終えられた充実感を胸に1日を終えました。午前2時頃には、先に池田町に戻ったメンバーが早朝無事着いたとの報告を受けホッとしました。



  5月19日(木)    
朝6時半に役場前に集合。時間には8名のメンバーとその家族、見送りの「町民ネット」のメンバー、それに市民タイムス、大糸タイムスの記者たちが集まり、簡単な出発式。7時5分前に役場前を4台の車で出発しました。
4トンと2トンのトラック、それに大型トレーラー、それに乗用車一台の計4台の支援隊。なかなか壮観な出発でした。
この大型トレーラは団長の持ち物で、5〜6人が寝泊まりできるほどのベッドや、キッチン、トイレ、ソファーを完備したアメリカ製の車なので、みんなの注目の的。これが現地では威力を発揮することになります。こんな車両を持っているメンバー(団長のYさん)がいるのですから、たいしたものです。






道順は、豊科インターから長野道に入り、上信越道を経て上越へ。そこから北陸道をへて、新潟中央ジャンクションで常磐自動車道へ入り、さらに東北自動車道へ。続いて三陸道へ入って河南インターで石巻バイパス、女川街道を通って女川に、という経路です。
この日は、トラックも大型も80キロ〜90キロのゆっくり走行なので、女川まで12時間。午後7時に女川に到着しました。日中韓の首脳会談があり、そのあと首脳たちが被災地に来るというので、高速道はどこに行っても警察の警備車の一団と出くわしました。隊列を組んで現地に向かい、ところどころのSAで休んでいるので食堂でも隊員で一杯。結局行きも帰りもそうした一行と抜きつ抜かれつの旅になりました。



石巻まで高野さんが迎えに来てくれて、女川まで先導。石巻市街地では、よくテレビで見たがれきの散乱する町が両側に。女川に近づく途中の道路は地盤が沈下したため、満潮時に海水が覆って水浸し。
浦宿では内海のためほとんど被害がないのに対して、女川の中心地に入ったと同時に、恐ろしい光景が目に飛び込んで来て、おそらく私が感じたと同じようなショックを全員が感じながら、女川バイパスから被災地入りをしました。
午後7時とはいえまだ薄暗い高台の総合運動公園と総合体育館。私たちはグランド脇の駐車場に車をとめ、女川での活動を開始しました。






もちろんその日の仕事は、明日に備えて体力をたくわえ、よく寝ること。高野さん、阿部さんと初顔合わせをしたあと、夕食を簡単に済ませました。
そのあと、全員で避難所になっている総合体育館に行き、避難している住民や体育館内の様子を見てきました。
避難所では、運営の責任者をしている教育委員会生涯学習課参事の平塚さんが、避難所運営についてさまざまなエピソードや苦労を話してくれました。
一番の問題は、支援物資を配布しつつもいかに自立的な生活をしてもらうかに苦労しているということでした。そのために避難所では地域別に自治会をつくり、そこで生活のルールを決めて運営していること。たとえば、この避難所では飲酒は禁止していないのですが、これもルールの1つ。
とんでもない「ボランティア」が来ることもあるとも話していました。1人でひょっこりやってきて泊めて欲しいという若い女性。物資を持ってきて「お安くしておきます」というグループもあるのだとか。平塚さんは「何を考えているのか」と憤っていました。24時間体制で避難所で住民の世話をする苦労は並大抵のものではないはず。たまりにたまった苦労を吐き出すかのように、私たちに次々と語ってくれる姿が印象的でした。
そこから帰って明日の打ち合わせをして、1日の日程を終えました。



  5月18日(水)    
朝からトラックに荷物を積み込んで、お昼過ぎようやく完了。やはり2台のトラックが正解でした。それぞれに煮崩れしない程度に一杯積み込んで役場の駐車場に移動。明日朝出発を待つだけになりました。
午後1時過ぎからは最終打ち合わせ。私のつくった「ハンドブック」をもとに、綿密な意思統一を行いました。ここには信濃毎日と市民タイムスの記者も同席し、細かく取材。明日の信毎には記事がでると言っていました。どのように書いてくれるのでしょうか。
今朝の高野さんの話では、20日の午後からは議会が始まり公的な活動も行わなければなならないので、21日の午前中女川原発を外から視察、説明を聞き、昼食をとってお別れするということになりました。20日を乗り切ることがともかく最優先。沢山の物資をどの程度受け取ってもらえるのでしょうか。少しでも役に立てることだけが望みです。







  5月17日(火)    
いよいよ明後日から我が先輩高野さんが被災地生活をおくる女川町支援に出発です。これまで夢中でいろんな課題と格闘してきましたが、支援のための準備は何とかやりとげ、車両も2台トラックを手配できました。
様々なな支障があってもみんなの英知を集めれば何とかなるという楽観主義で乗り越え、募金目標も15日に達成。次の日にはもう35万円にひきあげこれも1日でクリア。さらに今日は40万円に迫る勢いで、明日には完全に超えることになるでしょう。金額の多少にかかわらず、ここに込められた1人ひとりのこころざしは尊いもの。
物資も米をはじめ、日用品が次々と寄せられて嬉しい悲鳴。ただ、これを個別に配布することになると洗剤などはやはり足りなくなり、達成した目標でかなりを購入、持って行くことになりました。
野菜は、明日の朝積み込みに行き、さらにその他の物資を朝から積んで午後早くには準備を全て完了する予定にしています。明日を乗り切れば、あとはひたすら車を走らせるだけ。現地でも、思わぬ障害がでてくるかもしれませんが、つわものぞろいの代表団のメンバーですから、必ず乗り越えて立派に任務を果たすことができるでしょう。
残念なのは、私のカメラがついに壊れてしまったこと。妻のカメラを借りて持って行くことにしました。

私なりのメモとして、ここでいくつかの教訓点をまとめておきましょう。
1つ。自分たちがとりくんでいる行動の意義と目標をみんなで確認することの大切さ。これはネットワークに集うひとりひとりの原点を絶えず確認することであり、わかりやすい目標で団結することを意味します。忙しくなるとどうしても手足だけの問題になってしまうのです。いくらお金を集めるか。毎日誰が来て仕事をするのか・・・。
2つ。ネットワークは「ゆるやかな組織体」ではあるけれど、それを運営するには「強力な事務局」が不可欠であること。今回の行動の原動力の1つは、心を合わせた「ジミな」(Yさんのことば)4人のメンバーが強力なタッグを組んだことでした。ネットワークの運営が行き詰まったり分裂したりするケースがあるのは、寄せ集め世帯で急速に高い目標に達しようとするために起こります。
3つ。町民の「こころ」に徹底して寄り添い、依拠すること。今回の行動の中で、メンバーがこれまで築いてきたさまざまな人間的信頼関係が遺憾なく発揮されました。車両の手配に駆け回ってくれる人、仕分けの作業に懸命に取り組んでくれる女性のみなさん。それぞれがいろんな知恵を出し、それをみんなで認め合い補い合う空気。行動が前進しないわけがありません。
4つ。情報の共有。仕事の都合で1日や2日そこにいなくても、何がどのようにすすんでいるのかがわかるようにしておくこと、方針やその日の目標がよくわかるように意思統一すること。
そして最後は楽観主義。カラ元気じゃダメですけどね。



  5月15日(日)    
目の回るような3日間が終わりました。被災地支援活動の第2弾、女川町への支援行動のための義援金と物資をあつめる一連の行動にとりくんだのです。
結果から先に書けば「大成功」。町民のパワーとこころざしが遺憾なく発揮された3日間だったといえます。集まった物資は10数袋の米をはじめ、トイレットペーパー、洗濯洗剤、食器洗剤からバケツ、漬け物にいたるまで多種多様な物品が寄せられたのでした。私たちの呼びかけに答えて足を運んで下さった町民のみなさまにこの場をお借りして心よりお礼申し上げます。
また募金にも答えて沢山の義援金が寄せられ、昨日の目標を30万円としていたものを、今日は35万円まで引き上げ、それもほぼ達成。ゆとりを持って野菜などの物資を購入していくことができます。
次の2枚の写真は一昨日のもの。




次は今日の活動の模様。テントの前で沢山の人たちが群れているのは、3年前と同じくクラブツーリズムによるウオーキングツアーの一行です。今回は、東京多摩、千葉、茨城、埼玉のみなさんです。
天気に恵まれて一行は大満足。暑さのせいで冷たいハーブティーが好評で、参加者の8割が1杯100円程度の募金に快く応じてくれました。接待にあたったボランティアのみなさんはてんてこ舞い。しばし我が家の前はまた人で埋まりました。
参加者のみなさんの中には被災した人もいて、接待にあたったボランティアや近所のみなさんと会話が弾みました。よく今回の接待の事情(震災支援の募金含みのハーブティー)を話すと、異口同音にその意義をみとめ、「おかげでとても意味のあるウオーキングになった」とおっしゃって下さる方も。あとからの私たちの反省会でも、参加者がそれぞれ「おいしかった」とか「ごちそうさまでした」と挨拶していくことに「ものすごく励まされて嬉しかった」と語っていました。期せずして実現した都会との交流が、池田町に新しい風を送り込んでくれたことは間違いありません。
あと4日後には被災地女川町に出かけます。おそらくこうした池田町民や全国のみなさんの心が女川町のみなさんに必ず受け取ってもらえることと信じます。










さて、今回の行動で見えてきたことがあります。私たちの行動は思想信条をこえて、「被災地を支援する」という一点で結集したメンバー。さまざまな考え方があって当然だし、むしろそれが自然でしょう。日頃どのような政治活動を行っているか、どんな考え方を持っているかではなく、これからどんな行動をともにすすめるか、それがどんな意義をもった行動なのかという尺度だけが活動の指針となります。これこそが「ボランティアのこころ」というものでしょう。
まさしく、「町民ネット」はその思いでひたすら活動を続けてきました。多くの町民が趣旨に賛同し、数え切れないほどの物資を提供し、募金に応じてくれたのはまさしくそうしたこころを受け入れてもらえたからに他なりません。
新聞店の店主が無料でチラシを折り込みしてくれたし、隣町の企業がトラックを無償で貸してくれたり、とさまざまな善意が結集したのは、紛れもなく私心なきボランティアのこころを理解してくれたからです。地元ローカル紙もそうした「心意気」をくみ取って大きく報道し側面援助してくれたのでした。
しかし、議員や町の幹部のみなさんの対応はどうだったのか。関東からのウオーキング・ツアーに対して、これだけの人数が来てくれているのだから何らかのアクションがあってもおかしくないのに、おそらく対応したのは少数のガイドマスターだけ。ガイドマスターにも議員は多数関わっているはずなのに、です。
支援行動にしても、3月のときは前議長が足繁く来てくれましたが、今回は1人の共産党議員が来てくれただけであとは音沙汰なし。町から何か向こうの町にメッセージを届けるということもなし。あるホテルの社長が女川町民あてにメッセージを沢山の物資とともに届けてくれたのとはきわめて対照的でした。
「行政は行政としての仕事をしているだけだ」というのも一つの言い分でしょう。では、「行政としての仕事」とは何なのか。また議員の仕事とは何なのか。行政や議員が「ボランティア」や「自主的な活動」を語るとき、そこに行政や議員がどのように関わるのか。
ここでは詳しくは書きませんが、この震災支援の活動を通して、あのサポートセンターの顛末の突きつけた問題点が見事に検証された気がするのは私だけでしょうか。女川の支援行動が終わった段階で、もう一度全経過を振り返り、そうした点も含めて総括する必要を感じます。

私の女川町支援後の課題は、池田町における「防災」のありかた。政策の根本にもどって深く考えていくことです。
町民活動、議会活動、そしてこれからの自治体のありかたなどを、「防災」を軸にとらえてみたいと考えています。


  5月12日(木)    
女川に出かけたのは6日、7日だったからまだそれから一週間も経っていません。しかし、余りの慌ただしさで、それもずいぶん前のことのように思えてしまうのは全くどうしたことでしょうか。
帰った次の8日は、バラの会の役員会。夜は高校生の授業。次の日はネットワーク全体ミーティングのため、朝からチラシの仕上げと書類の準備。10日はファンクラブ役員会とチラシの印刷、ウオーキングのマップ作りとこれはまた殺人的な忙しさ。

9日の「被災地支援池田町民ネットワーク」の全体会議では、私の準備した要項をもとにいろんな補強意見が出されて、首尾良く支援行動ができそうな段階に。それぞれのメンバーが支援行動を何とか成功させようと心を合わせて動き出しているのは実に心強い限りです。
次は、今朝町民に新聞折り込みで全戸配布されたチラシ。新聞店の社長の厚意で、無料で入れてもらうことができました。


事務局の仕事は多岐にわたり、なかなか細部までゆきとどかないところが出てきますが、何より心がけなければならないのは、ネットワークに集う人たちの創意・行動力を汲み尽くすこと。被災地のみなさんのいつ果てることのない苦闘に思いを馳せて、少しでも役立つことだけを考えてしばらくは行動を積み重ねることしかありません。

明日からいよいよ被災地支援行動の第2弾。今日はウオーキングマップをほぼ仕上げて細かい仕事からようやく解放され、あしたの準備に取りかかっています。

ウオーキングマップの原案(明日の実行委員会提出用)は以下の通り。もし誤りなどがあればご指摘下さい。

5月21日用
5月22日用

明日は千葉、埼玉からウオーキングの一行が300人ほどやってくるので、その方々にも震災支援に加わってもらおうと、お茶の接待も計画。天気が持ち直してうまくいくことを祈るのみです。


  5月8日(日)    
「初当選の200数十票からはじまって400票、600票、そして前回最高点、二人合わせて15%というところまできた。いまは、自分の家が流されたことより40年かけてつくってきたたくさんの支持者がいなくなったことのほうが、はるかに辛い。40年かけてやってきたことが何だったのか、何にも悪いことしていないのに、津波でみんな持って行かれて・・・会いたいと思ってもその人たちはもういない。相談したいと思っても身近にいた人がみんないなくなった・・・そう思うとテンションが下がるのよ」
昨日の動画のすぐ下の写真は、高野さんの家や支持者の方々の家があった付近を写したもの。根こそぎ津波で流されてしまっています。自分が助かったのは孫のおかげだという高野さん。私としてはただ聞くことしかできません。
池田町の共産党町議山本久子さんのホームページを見つけ、その通信をモデルに何とかそのレベルに追いつこうとしてきたと言うので、その場で「あこがれの君」に電話をかけ、声のご対面も果たしましたよ。

さて、ここからは19日からでかける支援行動のこと。
まず、避難所について。最大の避難所は発表で約800人という総合体育館。彼の話では親戚などに行っていて、現在いるのは500人くらいかなということでした。それ以外に100人程度の避難所が6カ所、そのほかは少人数です。
避難所については物資がそれぞれ運び込まれていることや、きわめて狭いことなどから、新しい物資を受け取る余裕がないのが一番の問題。弁当が始まることだし、「炊き出し」が一番喜ばれるということでした。
それでは物資が必要ないかというとそうではなくて、ひとつは仮設住宅が建設され57戸約150人の入居が始まっており、その人たちに布団類を含む日用品、食料品の配布が大変喜ばれるだろうということで、第1の目標はここに物資を運ぶこと。
次に、津波からかろうじて助かったいわば孤立住宅があちこちにあり、何カ所かで青空マーケットが必要になるということ。ここでも同じように、トイレットペーパー、洗濯洗剤、台所用品、調味料などの日用品や、新鮮野菜がすごく喜ばれるということですから、ハンドマイクを持ってみなさんに知らせ青空市場を3カ所程度行うことになるでしょう。
次は、津波の手から逃れた住宅のいくつかでは高齢者も多く、直接家庭に野菜や日用品を配ることも。これは約100世帯といいますが、全部まわることはできないので、可能な限り準備せざるをえないでしょう。
持って行って余った物資(冬用の毛布、布団など)は民家に預かってもらい、仮設住宅ができ次第配布してもらう手はずにしてきました。あとは募金を開始し資金をつくって必要な日用品・野菜などを購入すること、米や日用品などを配布しやすいように小分けすること、ハンドマイク、自分たちの生活の準備をすることなどです。
2日目には、しっかり現地を見て池田町での防災の教訓とすること、議員や町長にも会えたら会って物資の提供を報告することなど、現地との連携をすすめられればよいと考えています。

写真は上から、寿町方面、女川漁港、石巻線女川駅周辺での電車、回収された写真











  5月7日(土)    
昨日の昼前、高野さんと久しぶりに連絡が取れたものの、なかなかこちらが聞きたいことがうまく聞けず、また向こうもこちらの考えがいまいちつかみかねているうち、高野さんの口から「こっちさ来ねか?」という声が。実は私も19日から行く前に、1度現場を見ておきたいという思いを強くしていたので、二つ返事で即座に女川に行くことを決意。妻にも話してすぐに切符を手配してもらいました。
「車より列車の方が疲れなくてよい。東塩釜まで列車が通っているので、そこまで来れば迎えに行く」という高野さんのアドバイスにしたがって、明科から列車に飛び乗ったのが午後2時。昨日は現場に行ってもどうしようもないので、うんよく取れた中野栄のホテルに宿泊。今朝から行動を開始しました。

8時頃本塩釜まで迎えに来るというのがずいぶん早く7時過ぎにはもう着いたという電話が入りましたが、私はまだ食事中。ついでだからとホテルまで来てもらうことにしたら、まだチェックアウトしないうちにもう到着。ようやく40年ぶりの再開を果たしました。

8時前にはホテルを出て、まず石巻へ。高速道路は通ってはいるものの凹凸があって注意が必要です。周りの田んぼのあちこちに車がひっくり返って散乱。家々の周りには畳やら海水に浸かった家具やらがうずたかく積まれています。


ひとしきり山道を走っていよいよ女川へ。その直前の海沿いではほとんど被害がなかったというので驚き、そういえば、帰りの松島もそれほどの津波の被害は見られませんでした。観光客がいたほどですから。
ところが女川に入ってカーブをまわったとたん、あの光景が突然目に入ってきました。これまでの光景とは全く異質の、見渡す限り破壊され尽くし変わり果てた町の姿です。


津波の高さは20メートル。高野さんは「海だった」と言っていました。「石巻では汚泥が運ばれて来たけれど、女川では津波が大きすぎて何もかも持って行ってしまった。だからヘドロなんてぜんぜんない」のだとも。
上の写真の左手の山には赤茶けた木が見えます。山の左側には茶色っぽい建物が。これは女川町立病院。その茶色っぽい木の上、町立病院の一階付近まで津波が来たことを示しています。
病院の前の駐車場で、ここは大丈夫だろうと津波を見ていた人がやられたという話も聞きました。駐車場がほぼ海抜20メートルです。おそらく誰もこんな大津波が来るなどということは想像もできなかったのでしょう。
下の写真は町立病院の駐車場から見た破壊された町。その下は同じアングルで撮った映像。唯一存在するとも言われている町立病院の上から見た津波です。
その下は、がれきに埋まった町の姿。










女川町は、池田町とほとんど同じくらいの規模の町。世帯は原発関係を除けば3500世帯。それがどのようになったかは、YouTubeの動画でも確かめることができます。ちょうど高野さんが案内してくれたコースとほぼ同様です。

この下の写真は順に、知人と変わり果てた町を見下ろす高野さん(左)、支援の車、第2小学校に間借りする災害対策本部と町役場、そして「我が家」(総合体育館)前での高野さんです。








津波は入り組んだ山ひだを縫うようにあらゆるものを破壊して1キロ以上もさかのぼっています。その先端にはかろうじて難を逃れた民家がところどころに10戸〜20戸。

一通り女川をめぐったあと、高野さんが「我が家」と読んでいる避難所「総合体育館」に向かいました。鯉のぼりがおよぐその避難所は、女川では最も大きなもので、約800人が生活。広い体育館はすべて段ボールで仕切られており、その中央部に招かれ「さあどうぞ」。一坪もない狭いスペースでご夫婦が2ヶ月以上も生活しているのでした。

そこでお昼過ぎまで20日、21日の打ち合わせを行い、午後2時からは別の人と会わなければならないというので、それに間に合うように1時頃石巻まで車で送ってもらってそこでお別れ。あとは電車を乗り継いで、午後10時半過ぎ池田町に戻ってきました。かなりきつい行程でしたが、無事な高野さんと再開できて何よりでした。
20日、21日の支援行動に関する打ち合わせの内容は、明日また書くことにして、今日はとりあえず見てきたことのご報告まで。
まだ身体には、女川のがれきに混じって漂う腐敗臭が染みついているような気がします。津波にあっていない場所との余りにも大きな違い。落差。それ故に眼前の光景がにわかには信じがたい。しかし、実際に見なければわからない町の姿でもあります。多分、これは将来、どこかの町の姿となるのかもしれないという恐ろしい予感を感じつつ、女川を一旦後にしたのでした。



  5月6日(金)    
昨日午後、バラ園の入り口に立てるアーチができたというので、その設置につきあいました。かなり大きくしっかりした建材でつくられており、これにつるバラを絡ませれば見事なアーチになるだろうと思われました。
バラ園はまだバラの芽が出始めたばかりで、さっぱりそれらしくなく、いろんな花を植えてガーデンらしくするのがこれからの課題。それでもこうやってアーチなどができると、次第にその形を整えていくので、今後が楽しみです。





  5月5日(木)    
今日になってようやく5月の雰囲気。黄砂の影響も薄らいで暖かく気持ちのよい青空がひろがっています。田んぼでは、これから10日あたりまでが田植えのシーズン。農家の方々はネコの手も借りたい忙しさなのでしょう。ご要望なら飼い猫のハルちゃんをお貸しします。
子どもたちはみんな表に出てカエルを追っかけたり、アリの喧嘩を見つけて喜んだり、動き回っています。しばらくは後ろについて歩いていましたが、とても追いつけなく、スゴスゴと引き返して年を感じておりました。




我が家は、レンギョウの花が終わってパンジー、カイドウ、チューリップ、芝桜などが花盛り。イチゴの白い花もたくさん咲き、カモミールも咲き始めて華やかな雰囲気を醸し出しています。まもなくアイリスの紫も見られる季節。一年で一番木々と草花が美しく輝く時期です。




育ち盛りの子どもたちのパワーに圧倒されながらも、こうしてみんなが集まってくれるのは何ともうれしいことです。今度はいつやってきてくれるのでしょうか。
みんなが帰ったあとは、にわかに静かになった我が家。穏やかな夕暮れが1日の賑わいを心地よく思い出させてくれます。





  5月4日(水)    
あたりはようやくゴールデンウイークのたたずまいに。我が家の前の田んぼでは早くも田植えがはじまりました。ただ今年は、黄砂の影響か景色がどんよりと暗く、いつものすっきりとした初夏の景観は望み薄です。


このゴールデンウイークは、娘と孫2人が1日から、息子夫婦と孫1人、息子の嫁さんの妹と子ども2人の計6人が3日から、そして今日はさらに富山から私の弟の連れ合いとその娘が結婚の報告に来て、我が家はすし詰め状態。子どもたちがそろうと動物園状態になり、私たち夫婦の居場所もないほどです。うれしい悲鳴というのでしょうか・・・・。
今日は、みんなが遠くにイチゴ狩りにでかけそのうち一部は松本城へ出かけているので、まだ隙間ができてこれを書く余裕ができました。
写真は昨夜のバーベキューの様子。


2日には、被災地支援町民ネットの事務局会議を行って、19日から行う現地支援行動についての具体的な打ち合わせを行いました。まだ倉庫にのこっていた支援物資をすべて持って行き、必要なものを受け取ってもらう段取りがようやくできてきました。
ただ、その準備のためには相当なエネルギーが必要で、この間かなり多忙な毎日になりそう。それも畑の耕作や苗の植え付けを並行して行わないといけないので結構きつい。

下の写真は3日にバラ園へでかけ、孫たちに勤労奉仕をしてもらったときのもの。






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