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  4月29日(金)    
ずっと草だらけだった庭をようやく手入れして、少しはすっきりしました。何しろいろんな花を植えてあるのですが、草の中に芝桜やチューリップが咲いている状態でみっともないことこの上ない。見方によれば、それがごく自然なのかもしれませんが、庭の花としてはやはりまずい。それに、生えてほしくない木や草も生えてくるので、やはり定期的にしっかり管理しないといけません。まして、お隣さんが、大変几帳面に庭の手入れをしているものだから、落差が大きすぎるのもちょっと・・。

そうそう、草取りをしていたら、アカガエル(?・・名前がよくわからない)のご夫婦がでてきました。オスがメスの背中にしがみつき、2階建てになっていて離れないのです。誰にも渡さないという意思表示なのでしょうか。カエルとしては普通の姿なのでしょうが、微笑ましくて思わず一枚写真を撮らせてもらいました。
あとでネットで調べてみたら、これは「抱接」といい、純粋な交尾とは違うのだそうです。ただ乗っかってしがみついているだけですものね。
カエルの場合はこうやって産卵を促し、産卵後に精子をかけるのだそう。メスが少ないのでオスが何匹も乗っかって、メスが絞め殺されたり、余りの重たさに水の中に沈んでおぼれてしまうこともあるとか(おぼれる話は「バラの会」顧問のEさんに聞きました)。
上の写真は我が家の庭で。下はネットで見つけたヒキガエルの多重層の写真を拝借。これじゃ愛に溺れてもしかたがない。




午後遅くまで草取りやイチゴの手入れをしていたら、横浜からの一行(第3陣)が三々五々やってきました。バスが渋滞でなかなか進まず、ずいぶん到着が遅れたと話していました。晴れている上にひんやりした風がかえって心地よく、ウオーキング日和。
「いいところに住んでいるんですねえ。うらやましいです」とみなさん口々に言う。「引っ越したらどうですか」というと、「そうしたいけど、先立つものが・・・」そりゃまあ、いいところだから住まいをすぐに変えるなんてできるわけがありませんよね。
「安曇野が大好きで、あちこち出かけているんですよ」という人も結構いた。みなさんの顔はみんな穏やかで、気持ちがゆったりしているように見受けられました。のんびり安曇野の里山を歩いて、今日はみなさん本当に楽しそうでしたよ。都会から日帰りで来るウオーキングですが、晴れれば今日のような体験ができるんですからお天気次第。連休明けも晴れてほしいですね。

女川の高野さんから初メールが届きました。今後連絡をいちいち電話では迷惑をかけるので、アドレスを教えてほしいとお願いしていたのです。
彼は教師を経て女川の町会議員を長い間つとめてきましたが、ずっと「女川原発の危険と必死になって立ち向かった40年」だったと書いていました。その心の底には「教え子のふるさとを守りたい」という強い思いがあったとも。現在は避難所で議員活動を続けているわけで、会議やら相談やらで日に夜を次いで駆け回っているのでしょう。体の休まる暇もないのではないかと心配です。





  4月27日(水)    
昨日からクラブツーリズム主催のウオーキングが始まりました。主に関東からの約1500人の方が、今月の25,27,29,30、5月10,13,15と7日間かけて池田町の「北アルプス展望ウオーク」のコースを歩くのです。
今日はその第1陣、約100人がやってきました。クラフトパークから東山沿いを歩いて、何と我が家の裏の山の方から横の道を抜けて町道に出てくるのですよ。
今日の一行は横浜のみなさん。ちょうど私の隣のFさんが少し前に横浜から越してきた人なので、ちょうど玄関先に出ていたFさんを取り囲んでおばさんたちの人垣ができておりました。多分窓から見ていたFさんの奥さん、何事かと内心穏やかではなかったかな?

あいにく午後からは小雨がパラついて北アルプスが全く見えず、みんな残念がっていました。私は雨の中、沿道に立ってみなさんをお出迎えし、「また来て下さいね」とそれぞれに声をかけて慰めておきました。
このウオーキングの参加者は、あちこちに出かけて旅慣れているような人ばかりでしたから、中には「このくらい何でもありませんよ」と平気でスタスタ歩いて行く人も。


それでも、沿道には梅、桜、桃、レンギョウ、水仙・・・ありとあらゆる花が咲き誇っていますから、きっと花の美しさには満足して貰えたのではないでしょうか。「きれいですねえ」と口々に言いながら通り過ぎていきました。
我が家のレンギョウも今年は満開。目が痛くなるほどの黄色です。チューリップも咲いているし、プランターに移した沢山のイチゴも白い花を咲かせて、いい季節です。
ちょっと驚いたのは、かなりの女性のみなさんがあたり一面に出ている「ツクシ」を見つけて感動していたこと。「こちらの方は、つんで食べないんですかねえ。天ぷらにするとおいしんですよ」と写真まで撮っていました。ツクシがでていることは知ってはいましたが、それほど沢山出ているという自覚もなく、ましてや食べることなど思いもつかなかったので、びっくり。
都会に住んでいると、こうした田舎にあるものは見るもの聞くものすべて新鮮に感じられるのでしょうね。その意味では、都会のみなさんとこんな場所で交流できるのは実に愉快だし、面白いことだと思われました。震災で自粛ムードが広がる中、こうした行事にたくさん参加し、こんな田舎町にまで来て下さるなんて嬉しいことでもありますし。
数年前まで都会に長く都会に住んでいたことを忘れて、田舎の視点で物事を見ている自分にちょっとびっくりかな・・・。そうそう、MNEMOさんの25日のブログに町田市能ヶ谷に行ってきたというお話が書いてあって、改めて町田市での生活を思い出していましたっけ。とはいえ、鶴川も東京ではすっごい田舎だったよなあ。駅を降りるとカエルが鳴いていたから。






今日は雨だったし、水田は水を入れ始めた時期で、周りも土色が多く緑の季節とまではいかないのでちょっぴり残念でしたが、おそらく後半の5月の一行は素晴らしい景色を堪能できるのではないでしょうか。いまのところ、4月は1日バス2台くらいですが、5月には230人、300人、550人と尻上がりに参加者が増加。500人も歩いてくるとまたまた3年前のように、我が家の前は鈴なりになるのですかねえ。
この頃は被災地支援と重なるので、日程調整がむずかしくなりますが、できればこの一行のみなさんに飲み物のサービスをして、バラの会の資金を稼ごうと思っていたので、私が現地に行っている間は、バラの会の他の役員や会員のみなさんで仕切ってもらうことにしましょうか。
蛇足ながら、このご一行様のあんないマップは私の作品です。都会のみなさん、とてもいいコースなので是非緑の季節にお越し下さいね。画像をクリックするとPDFファイルが見られます。著作権はクラブツーリズムにあるのでしょうが、会社の宣伝にもなるし制作者でもあることですから公開しても許してもらえるでしょうね。





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震災で忘れていた原油価格が、このところずっと値上がり続き。日本での価格は円高のためにそれほど高騰していないとはいえ、このままいけばどんどん上がっていきそうな気配です。
最大の原油国サウジは「余剰の原油生産能力が十分にあり、需要を満たすことができる」(サウジ・アラムコのファリハ最高経営責任者(CEO))とのコメントを出していますが、すでに1バーレル120ドルの水準。当座は乗り切れるとしても、それほどの余力がないことは、様々な方面から指摘されているとおりです。
アメリカのWTIも北海原油もほとんど同じように価格が急上昇。すでに1バーレル110ドル〜120ドルの水準。こちらはシリア、イエメンでの政治的な混乱、NATOの泥沼の軍事介入が一層上昇に拍車をかけているという構図です。どちらも需給逼迫を見越した先物価格の上昇であり、さしあたりピークオイルと関係はなさそうですが、それでも背景にはどうなるかわからない不安が広がっていることは否めません。私のカンでは、WTIとブレント価格はピークオイルがらみである公算が強いと思えるのですがどうでしょうか。
イラクでも同じでしたが、政治的な混乱は油田の荒廃、破壊などをともない、取り返しのつかないダメージを与えてしまうことが問題。やけになったカダフィが何をするかわからないなどとも言われている現状では、世界の経済は震災とイラク、リビア情勢のために相当に深刻な状態になる危険を秘めていると思われます。注視が必要です。









  4月26日(火)    
女川の町会議員高野さんから電話が入りました。連休明けに行くと話してあったので、その返信があったのです。
彼は今女川町の体育館で800人余りの大所帯で避難所生活をしているのですが、そこは結構物資が届いているらしい。ところがその近くにいくつもある100人余りの小さい避難所ではまだ十分物資が届かず、とくに日用品や野菜などの生鮮食料品がほとんどないという話。できるだけそのような場所に物資を運んで欲しいという連絡がありました。
今のところ、5月12日から土日をはさんで4,5日(あるいは19日から4,5日)程度現地に行こうと考えてはいますが、ネットワークの皆さんと相談して具体化しなければなりません。何しろ、自己完結型の支援ですから、日常生活のすべてを自給、泊まるところも自前で準備、テントか車での生活になるので、そう甘いことではありません。そのための準備を連休を挟んで大車輪ですすめ、しっかりと支援活動をしてきたいと思っています。
当日までに必要なことは、@日程と現地での行動の調整Aトラックの手配B支援のための募金(野菜、米などを買う費用、および支援者の生活費)B支援の物資の再組織(とくに日用品、野菜の調達)C支援者の生活の準備。D役場や議会との連携(支援車両の認定や議員の参加など)

富山に住んで美容師をしている娘には、ぜひいっしょに行ってボランティアをしないかと話をしました。
女川町の総合体育館では現地の理容店が協同で無料の理容店「かっとはうす 春うらら」を開店していることをニュースで知ってはいましたが、小さな避難所ではとてもそこまでは手がまわらないことでしょうし。
現地ではどんな支援が望まれているのか想像するしかありませんが、日常生活で最低限私たちが必要としていることは、現地の皆さんも同じ。衣食住は当然として、風呂に入ったり髪を切ったりすることも必要不可欠です。娘の方はどうなるかわかりませんが、いずれにしても長い期間の息の長い支援が必要です。やれるときにやらなかった悔いだけは残したくありませんからね。
この記事をご覧のみなさん、物心両面でのご支援をよろしくお願いいたします。
写真はasahi.comより。津波で壊滅した宮城県女川町の中心部(3月13日午前9時7分、朝日新聞社ヘリから、山本裕之氏撮影)

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さて、町議会議員選挙が昨日投開票が行われ、このあと4年間の議員の陣容がきまりました。私の応援していた共産党候補は、一人が最下位に甘んじはしましたが、12人中2名が当選を決め、ようやく激しい選挙戦から解放されました。
この選挙の結果から、ある意味では地方の選挙の名残を残す地縁選挙という色彩もあり、決して新しい時代を準備する選挙とはいえない面もありました。議員は特定の「地域」の代表であるはずがありません。ところが地域丸抱えの議員が多数。さらに一般の団体推薦を受けた候補も当選していますから、ある当選議員の言うように「これからの議会活動はかなり難しい」といえそうです。
さらに共産党候補を除いては政策らしい政策がない。これもこの選挙の特徴でした。合同個人演説会ではわずか5分とはいえ、まともに政策を述べた候補がほとんどいないというのはいかにも寂しいことです。
おそらくこれから4年間の議員活動の中で否応なしにそれぞれの質が問われることになるでしょう。
もっともこうしたことは池田町に限らないわけで、多くの保守的な農村ではそれなりに見られる光景かもしれません。

今日の信濃毎日ではこうした地方選挙の現状について、昨日は社説で、今日はコラムと「地方発」でとりあげています。
コラムでは、長野県下伊那郡大鹿村の選挙について、次のように書いていました。

(略)◆注目していたもう一つは、下伊那郡の大鹿村議選である。人口1100人余りの小村だけれど、豊かな自然に引かれて移り住む人が増え、5人に1人ほどは「Iターン」という。選挙は定数8に対してIターンの4人を含む10人が立ち、無投票とは縁遠かった“伝統”を守っている◆地縁や血縁だけでなく、いろんな人が出るのはいいことだ−。村民のこんな受け止めもあった。若手有志による合同個人演説会もあり、どの候補も出身地にかかわらず、それぞれの村にかける思いを語った(略)

そして「地方発」では、これとは対照的な「地縁・血縁」の壁に阻まれ、Iターンの立候補者が当選できなかった南佐久郡北相木村の模様を追跡しています。27町村議選のうち半数近い13町村で無投票という実態に触れて、議員報酬の少なさ、厳しい財政状況での議員活動の困難さという要因も指摘しています。

そうした実態があるにせよ、池田町では12人の中で二人の共産党議員がいるという存在感はきわめて重要で、政策でも実績でも議会を大きくリードしていくことが求められると思います。
ただ、共産党もまた大きな問題点を抱えていることは間違いがない。松本のように3人が枕を並べて落選という情けない状態になっていることから、政策の問題だけではなく、日頃の活動の質や高齢化問題の克服に真剣にとりくんで、町民の圧倒的な支持を得ていくことが必要でしょう。
あと10年もすれば団塊の世代に多い「活動家」はほとんど引退していくのですから、このあとの10年はおそらく歴史の大きな転換点となるのでしょうね。
地震・津波でなくても、日本の社会は大きな節目にさしかかっています。政治経済構造という点では今度の大災害がそれを加速したともいえますが、人間社会の構造という点では、もっと深刻な問題をはらんでいると私には思えます。
もっと大きな視点で見れば、歴史は60年代から70年代とはまた違った意味で、新しい社会を作り出す人間を準備するのでしょう。したがって私たちの役目は、「住みよい社会を後世に残すために全力をあげて奮闘すること」だとあらためて思わされます。



  4月22日(金)    
胃と気管支がやられたらしく、ずっと調子がよろしくない。それでも天気がよくて外に出ていたり中で画面にしがみついて仕事をしていたりすると、ついたばこに手がでてしまうから、悪循環が続いてかなり深刻な事態になってしまいました。
じっとしていると、あまりその深刻さがわかりません。少し早足で歩くとか、坂道を続けて登るとか、階段を3階まで上るとかという「ほんのちょっとした身体への負荷」でどのくらい自分の身体がダメになっているかわかります。
今から10年くらい前、東京にくらしていたときに夜走っていたことがありました。途中から心臓だか肺だかに鋭い痛みを感じて、池田に来てから心臓の検査もしたし肺の検査もしたけれど、とくにこれという重大な症状もなく・・・結局現在まで。

1日や2日の変化は全く気がつきません。身体の弱りかたは、プレートの沈み込みで少し少しひずみが蓄積され、ある日たまっていたエネルギーが一挙に放出されるのに似ているかも。今年あたり、もう一度人間ドックでしっかり見てもらって、身体作りに取りかかることにしないと。修復不可能なほどに壊れてしまったら、身体の場合はもはやおしまいですからね。



  4月19日(火)    
ともかくまず次のYouTubeの画像をごらんあれ。



歌詞つきはこちら

以前に書いたこともありましたが、私と原発との「出会い」のそもそもは今から30数年前、高校1年生を担任したときのこと、学校の文化祭で「原発問題」を取り上げたときでした。その安全性をめぐっていろいろ生徒たちが調べたり考えたりする一助にと、実際に敦賀原発を視察に行ったのでした。
そのときに「広報室」の中で、職員が説明してくれたのは、いかに原子炉が堅牢につくられ安全かということだけでした。
続いて、その10年後くらいだったと思いますが、能登原発について北陸電力と交渉した際に、原発の安全性とともに、それが他の燃料とくらべていかに安価であるかを強調していたことが忘れられません。

それから、各地でさまざまなずさんな管理と未熟な技術のために事故を多発させながら、結局はつくられた「安全神話」の中で飼い慣らされ、問題意識を眠らされたまま今日まで来たというのが大方の国民ではなかったのでしょうか。
友人から紹介してもらって知ったのですが、「きっこのブログ」(かつてとりあげたことがありました)には、数年前から日本共産党の吉井英勝議員が国会で地震と津波による原発の重大事故の可能性を指摘しつづけてきたことが取り上げられ、詳細に論評がつけられています。吉井議員の追及は、原発事故の原因を知る上で、詳細に読んでおく価値があります。
「電源喪失によって炉心溶融を含む重大事故が起こる」と具体的に指摘されながら、電力会社も政府も結局は「安全」と言い続けてきたのでした。結局、「ずっとウソだったんだぜ」。
その背後で、東電からいかに多額の政治献金が自民党に行われてきたか。次は「しんぶん赤旗」の記事です。

不正続出の東京電力 役員半数超、自民に献金
東電役員が自民側に献金 ランク付け計1703万円

これに対して「それがどうした」と「産経新聞を応援する会」のブログが「ウヨク」丸出しの恥ずかしいことを書いていますが、ご愛敬ということですかね。こんな人々もいるということを知っておいても損はないでしょう。

単に自民党に献金をしてきたばかりではない。業界・政治家・「文化」人ぐるみでいかに「安全神話」をつくりあげてきたか、原発政策をごり押ししてきたかを告発しているのが雑誌「世界」5月号「生きよう!」での内橋克人さんの論文。その「『原発安全神話』はいかにしてつくられたか」では、かつて電気事業連合会(電事連)の「報道統制」を思わせる資料が数々紹介されており、政府業界ぐるみで「原発の安全」と「クリーンなエネルギーとしての原発」が社会の隅々まで「浸透させられていく」様子がえぐり取られています。
日本においてこれほどの事故を経験しながら、原発推進政策は挫折し変化するのでしょうか。原発推進派が政治の主流を占める限り残念ながら無理でしょうね。「日本のエネルギー事情から原発依存はさけられない」という論理で、「より安全」を掲げて原発は全国でいっそう推進されていくことになるでしょう。

福島での現場作業員の必死・決死の努力にもかかわらず、事態はいっこうに好転しているとは思われません。むしろ、原子炉内の不安定度が増して炉心再溶融の危険や、大規模な放射性物質の飛散という事態ももありうるのですから、何よりもまずこの緊急事態を収束させることが喫緊の重大問題です。そのうえで、つくられた「安全神話」の虚構を完膚無きまでにひっぺがし、その責任を糾明することが必要でしょう。それ抜きにこれからのエネルギー政策は語れない。

今回の事故が引き金となって、原発に代わるエネルギーがどうしても必要だという論調が見られます。それはそれで正しいのですが、それが石油依存だったり石炭・天然ガス依存だったりすれば、今度は地震・津波よりももっと大きな社会不安・社会崩壊への序章になるという認識も持たなければならないでしょう。それは再三にわたって指摘してきたピークオイルの問題です。
おそらく今回の震災の復興は原油頼みとなることは間違いありません。がれき撤去や建築のための重機使用、車などの運搬手段、食料・生活用品の生産・流通手段、農業関係などあらゆる分野で、かつてない量の原油、電力が使用されることになる。仮にピークオイル後にこの種の震災が起きたらどうなるのか。今度は全国民に想像を絶する困難が待ち受けることになるでしょう。世界からの救援も期待できなくなる。そうしたことも想定してこれからの社会を見据えていかなければならないのです。
震災から1ヶ月以上立って、復興計画とその財源がしきりに取りざたされていますが、道路・企業・大型開発といった従来型の復興計画がまたぞろ浮上しそうな勢い。しかしこれでは地域経済の再生にもつながらず、ピークオイルに太刀打ちすることも到底できないでしょう。

たとえ巨大震災という非常事態下にあっても人権は守られなければならない。危機に立つ私たちの社会をどこへ向けて築き直すのか。たとえば都市と地方を分断し、互いに対立を煽り、競争させ、その隙間に利益追求の機会・市場を置く、すなわち「競争セクター」一辺倒の社会原理に経済繁栄の原動力を求めるようなあり方を超克するときがきている。分断、対立、競争に代えて連帯、参加、協同を原理とする、足腰の強い「共生セクター」へ向けて日本社会を一大転換させる。夢物語ではない。これだけのおぞましい悲惨を経てなおも過去の慣習のうえに社会再生など可能であろうか。(「世界」5月号 内橋克人)


  4月17日(日)    
昨日は朝早くから陸郷山桜トレッキングのガイドマスター・スタッフとして参加。ただし、膝の手術の後遺症と運動不足がたたって思うように足が前にでず、結局途中まで歩いて車で先回りし、ところどころで取材するということになってしまいました。
一年経って相当歩けるようにはなったし、平地では何でもないのですが、山歩きとなるといろんな筋肉に負荷がかかるのでいけません。妻を見習って歩く訓練をしっかりしないと、あとしばらくもすれば本当に歩けなくなってしまうかもしれません。

昨日はかなりの人が県外から参加。いろんな情報を知っていて、あちこちの行事に参加しているようでした。朝2時に起きて関東から参加したという人も。そのエネルギーには脱帽です。かなり高齢の人も多いのに、みなさん健脚ですね。すごいことです。
朝はすっきり晴れていたのに、10時頃からにわかに小雨模様になり雷も鳴り出すしまつ。軽い前線が通過したのでしょう。風が強くこのまま続けられるのだろうかと思われましたが、幸い昼が近づくにつれて再びお天気も回復。弁当を食べる頃にはすっかり晴れ上がって青空がひろがりました。
お目当ての山桜はまだ堅いつぼみ。その他の桜はようやくほころび始めたところ。夢農場のあちこちで菜の花と心地よいコントラストを見せていました。








昨日から今日までは、町会議員選挙のさまざまな文書作りであけくれました。昨日の後遺症で足がいたく、畑仕事もできませんでしたけれどさほど残念にも思わず、1日が終わり。選挙が終わるまでは、慌ただしい時間との勝負が続きます。

そうそう、先日いっしょに沖縄に行ったHさんから、富山の「キトキト」魚が届きました。妻がさっそく刺身にしてくれて実にうまかった。とれたて魚の新鮮な刺身なんてなかなか食べられないですからね。ありがとうございました。



  4月15日(金)    
昨日写真を公開してから、何か忘れているような気がしていました。つまり・・・ですね、もっと高野さんと親密な交流があったことを示すものがあったような・・・。
そうでした。大学を卒業してから多分1年目の夏休み、高野さんと鈴木君と私の3人で佐々木伸子さんの赴任先の田代島(?)に行ったのでしたよ。そのときの写真をついにみつけたのです。これも貴重なものです。高野さんにはきっと喜んでもらえるのではないでしょうか。
順に紹介しましょうね。妻もきっとびっくりの写真ですかねえ。

まず島に上陸して歩いて行く3人。多分これは私の父から譲ってもらったカメラMamiyaでとったものかもしれません。左から鈴木君、高野さん、佐々木さん。いずれも画面をクリックすると大きな画像がリンクされています。


本当は、これらの写真はすべて完全にセピア色(あとからお見せします)だったので、そのままにしようかとも思いましたが、フォトショップで修正して現代風にしておきました。
次の上は海岸に着いて記念写真を撮る3人。下は高野さんと私のツーショットです。これだけはセピア色のままにしておきました。2人とも若いですねえ。それにお気づきですか。私は「すまし顔」であることには変わりありませんけど、ずいぶん穏やかになっていると思われません?髪の毛もたくさんあるし・・・。そうなんです。大学を5年やって一皮むけていたし、このときは名古屋で教員1年目でしたから、溌剌としていたんですよ。




さあ、高野さん、ずいぶん思い出しましたね。40年の歳月は長い長いものがありますが、一旦よみがえった記憶は40年を飛び越えてしまいます。私もあらためて当時のことを懐かしく思い出しています。この島も震災と津波でずいぶん大きな被害を受けたんですね。

さて次は、島で海に入ったり歌を歌ったりしていたんでしょうね。最初の写真は元気印の佐々木さんのポーズ。続いては何をしているのかわからない3人の戯れ。3枚目が高野さんお得意のポーズ。






写真は以上です。鈴木君、ブーちゃんはどうしているんでしょうか。高野さん、もし消息が分かったら教えて下さいね。



  4月14日(木)    
私の父の命日。昨日は月違いの母の命日。妹からお花が届きました。いつも忘れないで心遣いをしてくれるのが何ともうれしいことです。花をかざって朝2人でお参りをしました。

今朝早くから予定通り胃検診でバリウムを飲んでX線撮影をしてきました。お腹がときおり痛くなるので、今日はどこにも出かけられず、家のまわりで草取りをしたり、パソコンに向かったりです。

午後、思い立って女川町の高野博町議に連絡を取ってみましたら、携帯が通じて短時間話すことができました。もう半世紀ぶりくらいの突然の連絡だったから「記憶が定かではない」という彼の返事。やむを得ませんね。そこで、私が何者であるかをはっきりさせるために、かつての大学時代の写真を公開し、彼の記憶を呼び覚ますことにしましょう。

私が大学の教育実践班というサークルに入ったのは1964年(昭和39年)のことです。だからやはり半世紀ぶりでしょ?その当時、このサークルは近くの地域で子ども会を組織したり、教育の勉強会を開いたりして活発に活動を行っていました。したがって構成メンバーはほとんど教育学部生でした。私のような理学部生は異色の存在でした。このころが実践班の全盛期だったんじゃないでしょうか。
それからまもなくして教育学部は分離され宮城教育大学になります。当時は目的大学としての宮城教育大学の設置に反対する運動も進められていましたが、結局押し切られてしまうことになります。蛇足ですが、そのできたての宮教大に入学されたのが「中野さなえ」さんだったというわけ。もちろん当時私は面識はありませんでしたけど。

さて、当時の私は、富山市内の某高校でただひたすら受験勉強に励んでいたために、どれほどの社会的な関心も知識も持ち合わせず、このサークルに入ってからは、見ること聞くこと新しいことだらけ。
そんな私に教育学や社会科学の基本をいろいろ手ほどきしてくれたのが高野さんであり、他の多くの先輩だったのでした。あとから思うと「あいつ(私のこと)を仲間に入れようではないか」という組織的な働きかけがあったのは間違いない。ねちっこく、しつこく働きかけてきましたからね。
それでも当時の私は、自尊心も懐疑心も強く、彼らの言うことには容易に頷かなかった。写真には実に「お高くとまっている」ような当時の私がよく写っています。小市民的な殻を破っていくことがなかなかできないまま、それでも彼らの人間的な魅力に打ち勝つことができず、次第にさまざまな活動にのめり込んでいくことになります。
ただ、私がそのサークルに属していたのは教養部の2年間が中心で、あとは学部の自治会の活動が中心になっていきましたが・・。そして一年の挫折の経験を通して、ようやく自我の確立らしき地点にたどりつくのです。

それはともかくまず写真を紹介することにしましょう。まず1枚目は、大学に入って1年目の冬ですかね、サークルの建物の前で映した写真です。一番後ろの列の左端男性が高野さん(左の2人の女性の間で笑っている)。それから4人目、肩を斜めにして眼鏡をかけすましているのが私。
同じときに男だけで写した写真に私と彼が並んで写っている写真がありました。それが次の丸い写真です。2人の前にいるのが鈴木博之くん。ギターを弾いていました。どうですか高野さん、少し思い出していただけましたか。





当時サークルでは、みんなでよく遊びにでかけ、今は津波で跡形もない近くの海岸(七ヶ浜?蒲生海岸?)で「芋煮会」やラインダンスをして楽しんだものでした。いま手元にあるのは、その頃の写真だけです。当時あまり写真を撮るということがなかったんですよね。
次の写真は、海岸で芋煮会をしているところ。中央で立ってS君のギターを見ているのが私。右に1人置いて高野さん。その下の写真は輪になって歌を歌っているところ、続いてラインダンスをする仲間たち。青春していますね。いずれも画面をクリックすると大きな画像が見られます。高野さん、なつかしいでしょう。
「わすれな草をあなたに」の歌が好きだった高野さんでしたね。今でもその歌声が耳に残っているのですよ。かなり思い出しましたね。








さて、思い出話はともかくとして、彼に連絡をしたのは、どのような支援ができるのかを教えて欲しかったからです。電話をしたとき彼は会議中で忙しそうでしたので、後日連絡をもらうことにしました。いずれ旧交をあたため、無事を喜び合い、支援の内容について詳しく話せることでしょう。

高野さま、あらためてご連絡ありがとうございました。写真などもすべて失ってしまったんですね。ここで掲示した写真は、ひょっとしたらかなり貴重なものになるのでしょうか。そうなれば嬉しいです。
私のメールのアドレスはこちらです。時間が許せば状況をお知らせください。

会話の中で、彼が池田町の2人の議員の活動、とりわけ個人通信とファンクラブニュースについてよく知っており、その活動に学んで議員活動を続けてきたというのには驚きでした。どこでどのようにつながっているか分からないものですね。これも何かの縁。これから様々な支援活動ができることでしょう。どんな事でも相談して下さいね。



  4月13日(水)    
午前中は、被災地支援のためにあつめた物資を仕分けし梱包する作業に出かけました。これは昨日の会議を待たずに事務局で決めて、女性ボランティアの方々にも協力依頼をしていた仕事。10人くらいのボランティアと事務局メンバー3人が、沢山の物資を手際よく箱詰めし現地に持ち運べるようにしました。
私からは、現在までの到達点や、こうした取り組みが池田では初めての試みで大きな意味を持つとりくみになっていることなどを話し、現地に物資を発送するために今日の作業が重要な意味を持っていることを伝えました。みなさんは、いちいち頷いて聞いてくれたし、本当に一生懸命に働いてくれたので、予定より早くにすっきりと荷物をまとめることができました。ものすごいパワーを持った方々です。カメラを持って行かなくて心残りでした。

午後からは町議会議員選挙の応援の仕事と高2の授業。
明日朝は胃の検診でバリウムを飲まなければならず9時以降は絶食です。仕事を終えてからこれを書いているのですが、腹がへってしかたがない。これは寝てしまうに限りますね。腹が減って寝付かれないかも。



  4月12日(火)    
ほんのわずかですが、少しずつ気持ちに余裕が持てるようになりつつあります。震災から1ヶ月が過ぎ、その間に全く異質の沖縄旅行が挟まり、そしてまた地方選挙や震災被災者支援をはじめとするさまざまな仕事が追いかけてきます。
今日は久々に「被災者支援ネットワーク」の主なメンバーが集まり、これまでの活動のまとめと総括を行い、今後の方針を話し合いました。
そこでこもごも語られたのは、このネットワークが町民の中にあった「何かしたいが、どうしたらいいかわからない」という気持ちに一つの活路を示したことです。それが、「自分でもこんなことができる」という連鎖を生み出して、大きな支援の輪を形成していきました。これは池田町の歴史の中でもはじめてのことであり、町民主導の運動としての一つの画期といえるものです。
その火を消さないためにも、この「ネットワーク」を持続させ、ゆるやかな組織体として今後とも運営していくこと、物資の収集については一区切りとし、必要に応じて協議すること、できるだけ沢山のルートを探して現在ストックしている支援物資を現地に届けることなどを決めました。一応私の考えていた原案が了承され、新しい次の一歩を踏み出すということになります。
今日の協議を踏まえて加筆した「総括と方針」の文書は次の通りです。

被災地支援町民活動ネットワーク「総括と方針」

遅くなりましたが、沖縄旅行の写真を少しずつ載せていくことにします。今日は、2日目(嘉手納・普天間・首里城など)、3日目(辺野古、高江、チビチリガマなど)、4日目(南部戦跡)です。

3月26日(土) 嘉手納・普天間・首里城など
3月27日(日) 辺野古、高江ヘリパッド、チビチリガマなど
3月28日(月) 南部戦跡



  4月7日(木)    
ゆっくりものを考えることができないような状態です。今日の午前中は「バラの会」の仕事。3時間ほど重労働が待ち構えていました。先日植えたバラの一本が枯れかけているという情報があって、急遽水路を確保するための作業をせざるをえなくなったのです。
バラの専門家にかけあって見てもらったら、水涸れではなく茎が痛んでいたための症状とわかって一安心しました。水路づくりも無事終わって、今年の夏は何とかしのげそうです。

その後は、救援物資の集積場に出向いて、集まった物資の梱包・・・と思っていたのですが、ボランティアのみなさんの都合がなかなかつかず空振り。それでも、午後から物資を運んで来て下さる人もいたり、トラックの運転手をしている女性が来て情報交換をしたりして2時間ほど話し込みました。
懸案になっていた「ネットワーク」の会合の日取りがなかなか決まらず昨日から電話をかけまくって調整した結果、来週の12日に何とか出来そう。それぞれの所属する団体が動いているので、調整が本当に難しくなっています。

私がいま考えている、これからの「ネットワーク」の活動のあり方は次のようなものです。

[被災地支援ネットワークの役割]
@震災被災地・被災者支援の継続的なとりくみ
A被災地支援にとりくむ池田町の個人や団体相互の活動交流

[今後のネットワークの運営]
1.支援のとりくみ
@物資の提供のよびかけと収集
 ・個人への連絡をもとに、継続的に物資をあつめる。
 ・月一回程度(土日)、キャンペーンを行って物資の提供をよびかける。

A物資の発送
 ・輸送コースについての情報を集め、必要な物資が被災地に迅速に届くようにする。
 ・定期的に集積場で梱包・発送の準備を行う。
B現地への直接支援行動
 ・時期をみて、直接現地に出向き、物資を届ける。

2.相互交流
@支援のとりくみについて、相互に情報交換しあう。事務局を通して全員に周知する。


現在のところ、物資を集めることは出来ても、それを常時受け入れ、梱包し発送の準備をするという地味で粘り強い、時間のかかる作業についてはわずかのスタッフで担われているのが実情です。
こうしたことを何ヶ月もやり続けるのは、信じがたいほどのエネルギーと情熱が求められる。直接現地で行うボランティアでも一過性のキャンペーンでもなく、遠くの地で粘り強く地を這うようにとりくむ支援行動を支えるものは一体何なのでしょうか。単に「想像力」とか「共感力」とか「ボランティア精神」とかというものだけの問題なのか。私自身、いまそれを問い続けています。



  4月6日(水)    
昨日は予想通り朝から時間刻みの忙しい1日でした。まず、震災支援の打ち合わせでゼロ・スペースへ。いままで私の代わりに事務局をまとめてきたKさんから状況を聞いて、これからの方向を検討。
続いて観光協会に行ってホームページの打ち合わせ。家に帰ってから、さらにその続き。ファンクラブの打ち合わせも重なって、留守にしていた間の仕事が一挙に押し寄せてきた感じでした。幸い、仕事がなかった分助かりましたが。
夕方は、留守の間家の管理をお願いしていたお隣さんを招いて夕食会。リラックスした後、しばらくファンクラブニュースの作成に取りかかったものの、さすがに持続力がなくて午後10時頃にすべて終了。
今日は朝からまた会議やらニュースづくりやら、ホームページの作成やらで目の回るような忙しさに襲われそう。沖縄から帰ってくるんじゃなかったなあ。



  4月5日(火)    
震災支援の取り組みを他のみなさんに託さざるをえないという何とも後ろめたい思いを後に残して沖縄に出かけて11日。ようやく無事昨日夜遅く池田に戻ってきました。あらかじめ計画をした通り、ほぼパーフェクトの予定進行。こんな旅行も珍しいほどという充実した日々でした。
沖縄では、普天間、嘉手納、辺野古などを今年も巡り、高江のヘリパッド建設地にも足を運んでその実情を見てきました。また、中部・南部の戦跡やガマを多数訪問し、かつてない貴重な体験を数多く積むことができました。想像すらつかないような沖縄戦と住民の苦難のあとを目の当たりにして言葉を失ってしまいます。いまは詳しいことを書けないのがもどかしいほどです。これらは本当に自分の目で見、身体で感じるべきだとしか言いようがありません。

明けて今朝、天気は快晴。従って気温は当然のことのようにマイナス2〜3度。身体に震えがくるほどの寒さです。これまで沖縄ではTシャツで過ごしていたのですから落差が激しすぎる。
10日余りも家を空けると、室温でも9度。暖房を入れてもなかなか暖まらず、灯油の床下暖房を入れっぱなしにしてもまだ寒い。東北の被災地の方々は、こんなものじゃない、信じられないような寒さの中での生活をしていることに今更ながら気づかされます。

今日からの池田での生活は、10日余りをカットして3月25日に今日を接続しての忙しい日々になりそう。さっそく町議選のためのニュースづくりと、震災支援のボランティア活動のまとめと今後の方針作りに取りかからなければなりません。3月に植えたバラのことも心配だし、今日は本当に大車輪の1日になりそう。沖縄の記録は時間をみて少しずつやっていくことにします。次第に日付の空白が埋まっていくはずです。ともあれ帰郷の第一報。

写真は、順に高江東村の米軍ヘリパッドの建設現場前、自然壕(ガマ)の前、石垣市民の会「9条の碑」、西表島由布島での水牛車、同じく由布島植物園内。














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