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  5月29日(木)
今日は恒例のバラ園整備作業。新しいメンバーも加わって除草などに精を出しました。バラ祭りが近いので、定例作業日だけでは足りず、都合のつく限り時間を見て作業をしています。
バラたちもようやく咲き始め、あと1週間もすればすっかりバラ園らしくなることでしょう。

バラ園を運営する「池田町バラ愛好会」が10名のメンバーで発足したのが2010年7月19日。今年の7月で4周年ということになりますね。ただ、バラ園そのものの発足はそれから一年後の2011年6月25日。オープニング・パーティーが懐かしい。当時は3.11大震災直後で支援活動もありめちゃくちゃ忙しい日々でした。
そして2012年7月6日から3日間、第1回バラ祭り。つづいて翌年6月14日から3日間、第2回バラ祭り。会員、オーナー会員も次第に増えて、池田町の一つの観光スポットとしても認知度をあげてきました。
今年は、6月13日(金)から15日(日)までの3日間。来週あたりから祭り本番の準備作業を本格化しないといけません。とりあえずチラシをつくり、コンビニなどにおいてもらうと同時に、新聞社にも取り上げてもらって事前宣伝を徹底しようと考えています。
チラシおよび会員向けのニュースは以下の通り。

チラシ
ニュース
















  5月28日(水)
この暑さのために、バラ園の作業と畑の手入れをやっていると昼頃には熱射病になりそうです。
夜大町で中3生の授業を始めようと思ったら少し前から降り始めた雨が急に激しくなり屋根を打つ音が大きくて授業にならない。どうやら雹も降ったらしいと後から聞きました。

5月25日、26日には妻と富山の娘のところに出かけておりました。というのも、美容師をしている娘がこれまでの美容院勤めを卒業して年末には自分の店を持つということになったので、詳しく話を聞きに行ったのです。
小さいながらも自分の店を持つというのは美容師であれば当然の夢。私たち夫婦にも出来ることがあればと思い、電気関係の仕事をしている私の友人に新しい店の電気工事をしてくれるように頼んできました。
ついでに散髪をしてもらってさっぱり。娘の嫁ぎ先は理容店なのでまことに都合がいい。娘の連れ合いもその父親もなかなか腕がいいので、このところ数回連続して髪を切ってもらっています。
富山からの帰りには、いつものように魚をどっさり買って、その後の食事は魚づくし。



  5月22日(木)
関西電力大飯原発3、4号機をめぐり住民たちが関西電力に運転の差し止めを求めた訴訟で、「運転差し止め」を命じる画期的な判決が福井地裁で言い渡された・・・昨日の夜の朝日系列のニュースで、朝日新聞がスクープした「吉田調書」の内容とともに詳しく報じていました。
「これ以上ないほどのすばらしい判決」と息を弾ませる団長・中島哲演さん(福井明通寺住職)のなつかしいお顔をほんのちょっとですがテレビは映し出していました。
中島さんとの出会いについては2011年8月25日にかなりくわしくとりあげています。ご参考までに。
中島さんが言うとおり、下級審にはまだ司法の精神がしっかりと生きており、住民の個人としての人格権を土台とした論理を展開していて、胸のすくような判決です。横浜地裁で昨日出された自衛隊機の夜間飛行差し止め命令も同様に住民の切実な願いを相当に聞き入れた判断といえます。
ところが、たとえば再稼働差し止めの仮処分申請の大阪高裁での即時抗告審(5月9日)では住民側の申し立てを却下しているわけで、上級審判になればなるほど目線が住民から離れていくいく構造は強まっている。
中島哲演さんは私が知る限り若い頃から福井県内の原発の危険を指摘し、反原発の活動に身を投じていらっしゃいました。そうした方々がいればこその今回の福井地裁の判決です。

今朝の信濃毎日新聞には、大飯原発運転差し止めの判決について二人の学者の短いコメントが紹介されていました。
その一人は地震学者の石橋克彦・神戸大学名誉教授。
石橋さんについては2011年8月23日の記事でその著書を紹介したことがありました。原発にももくわしい権威ある地震学者です。
彼はこの判決を「画期的で素晴らしい」「安い電気代の維持や二酸化炭素排出削減に原発が役立つという電力側の主張を『筋違い』と断じるなど司法がようやく正気を取り戻した」と全面的に賛辞を送っています。私も石橋さんと全く同意見です。

ところがもう一人の原子力工学者で宮崎慶次大阪大学名誉教授はどうか。
「このような(判決のような)理由をあげれば)すべての原発は動かせなくなる。・・・判決は、原子力の素人が下した無見識で無謀なものだと言わざるを得ず、司法の威信を損ないかねない」だそうです。
いやはや、安倍さんや原発関連会社が泣いて喜びそうなコメントです。コメントというより低級な罵りでしかありません。

宮崎教授の過去の発言をちょっと調べてみますと、あるわあるわ。たとえば次のようなものです。

・一般に新型炉は安全性と経済性ともすぐれている。
・将来的に高速増殖炉と再処理で核燃料を増やしながら使用するのが国家百年の計にかなう。それこそが百年千年とエネルギー文明の持続を期して原発を推進する正当性だ。
・地層処分は技術的にはすでにめどがついている。
・地下では地震の影響は小さく、仮に倒壊しても隔離に問題はないはずだ。地震と火災流で埋まったポンペイ遺跡では2千年もの間、人の形まで保存された。
(2014年1月18日朝日新聞朝刊)

これが果たして原子核工学の専門家なの?と目と耳を疑うような主張です。こうでも言わないとリケンにありつけないんでしょうかね。
2011年当時経産省原子炉安全小委員会の委員でもあった同氏は、その年8月24日の報道ステーションで次のようにもおっしゃっている。

確かに信頼は失墜したんですけれども、原子力なしで今後の日本のエネルギー、あるいは世界のエネルギーが確保できるかというと、そういう状況ではないということですよね。だから私は基本的には原子力政策を変更する必要はないと思っております。
(ウランを)使い始めるともっと資源的には逼迫してくると。だから当然将来に対する投資として、もんじゅもやらなければいけませんし、核燃料の再処理施設もきちっとやらなければいけないと。やはり貿易立国日本の我々の将来の生存をかけるのは、モノを作って世界に売っていくということで、その基幹としての電力は、原子力を基幹電力として生きていく、それがベストだと思います


なるほど、商業新聞は「公正・公平」「不偏不党」をムネとし、賛否の「つりあい」をとるために、このような人物のコメントをさりげなく載せるんですね。

「原子力のシロウトが分かったような口をきくな」というご本人でも、よもやドイツ脱原発倫理委員会報告を当然ご存じないはずはありませんね。あっ!・・この倫理委委員会には「原子力の専門家や電力会社関係の人は一人もいません」(委員の一人、ミランダ・シュラーズさんWebRonza 2012年7月27日)から、宮崎先生にとってはやっぱり問題外でしたね・・・。

ドイツでは3.11後メルケル首相がこの委員会の報告に基づいて脱原発を打ち出し、議会も多数でこの方針を決定したのでした。
問題は、人類社会の未来を展望したときに求められるエネルギーに関する知見、とりわけ理念・倫理なのです。地裁判決の第一・最重要な柱がまさしくこの点であって、専門○○であらせられる宮崎教授にはおそらく到底理解不能なことなのでしょう。これだけは確信を持って言えます。似たような大学教授の面々がそりゃたくさんいらっしゃいますからね。

そこで、WebRonzaから、この倫理委員会の報告の要点を転載させていただくことにしましょう。どうせ理解不能な宮崎センセなどはこの際どうでもよろしい。

・原子力発電所の安全性は高くても、事故は起こりうる。
・事故が起きると、ほかのどんなエネルギー源よりも危険である。
・次の世代に廃棄物処理などを残すのは倫理的問題がある。
・原子力より安全なエネルギー源がある。
・地球温暖化問題もあるので化石燃料を使うことは解決策ではない。
・再生可能エネルギー普及とエネルギー効率化政策で原子力を段階的にゼロにしていくことは、将来の経済のためにも大きなチャンスになる。


ドイツ語翻訳者ユミコ・アイクマイヤーさん訳による委員会議事録を読むと、日本との大きな違いにすぐに気がつかされます。こりゃ100年経っても日本はドイツに追いつけないと思わされてしまいます。
共同委員長マティアス・クライナー氏が、第一発言で次のように言うのです。

倫理委員会は、委員会を開示し、今日行われる専門家や意見の代表者との対話による諮問や、この公開中継を行うことで、透明性の証としたいと思います。なぜなら、皆様、未来の安定したエネルギー供給への転換は、公の議論と意見形成の上に、誠実さと信頼の上に成り立つだろうからです。

いかがです。もう一人の委員長クラウス・テプファーさんは、これを受けてさらに次のように言います。

世界の他の国々とは違い、我が国ではチェルノブイリ事故の以前にすでに、社会共通の確信がありました。「原子力は未来の技術ではない。原子力は移行のための技術である」と。これは確認であり、この得られていた共通認識までもが振り出しに戻らないように、繰り返し強調されなくてはならないと思うわけです。

ますます日本とは違いますね。クラウス・テプファーさんは3.11大震災と福島での原発事故について「現地の人々に対して特段配慮しましょう」とも呼びかけています。いろいろ注目すべき議論がありますが、ここでは引用することが目的ではありませんので、あとは議事録をぜひお読みくださいますように。



  5月21日(水)
天気予報通り今朝早朝からかなり激しい雨になり、同時に気温がぐんと下がって寒いこと。お昼近くになってもやむ気配がありません。久しぶりの本格的な雨ですから、しっかり大地に湿りを与えておいてほしいものです。

昨日から「大東亜戦争の本質」(同台経済懇話会 紀伊國屋書店 1996年)に沿いながら、関連する書物にあたるという読み方を始めました。専門学者ではないし資料や書籍も限られていますから、当然のこととして大きな限界があります。それでも私自身が過去に集めたいろいろな文献を当たらなくてはならず結構忙しいことになっています。

さて、この本では瀬島龍三氏が「刊行にあたって」という短い巻頭言を書いています。
その冒頭で彼は次のように書きます。

歴史の認識とか史観とかいいますが、それが先にある筈は決してありません。先にあるのは厳然とした歴史の真実なのです。歴史の真実を知らなければ正しい歴史の認識は生まれてまいりません。(中略)
歴史の評価が定まっていく過程においては、その時代の人やその戦争の当事者が生きている間、それぞれの国の国策や、政治集団の利害が、イデオロギーの主張によって、事実が歪曲されて喧伝されたり、その時の力の強い側の主唱する理論や観念が正しいと強制されがちです。
その最も顕著で強力であったものが、戦後の連合軍の日本占領政策による日本人に対しての一方的な史観の強要でありました。


占領軍が連合国側に都合の悪いことや事実は封殺して、都合のいい政策や史観を日本人におしつけ教え込んだ、と断定するのです。
そして、東京裁判の不当性を権威づけるために、例のごとく、インドのパール判事の「判決」についての言及が出てきます。
瀬島氏はこの本の上梓からほどなくして、1997年京都東山にある京都護国神社に「パール博士顕彰碑」を建立するさいの建立委員会委員長を務めているほどですから、パール判事への思い入れの強さがわかるというものです。
瀬島氏はパール判事ついて、次のように書いています。

ところが実は、戦争の勝者が自らの理論と価値観で一方的に敗者を裁いたこの極東国際軍事裁判で、その勝者側の連合軍の一員であった国を代表する判事が、この裁判の不当性と判決内容の不当を訴求し、反対の判決を出していたのです。(中略)
その壮絶とも言える日夜の勉強と研鑽の結果、彼は当時誰もが到達し得なかった深淵で詳細を極めた近代のアジア史、戦争史の実態を把握することになりました。そして、国際的な権威でもあった国際法の論理と法的根拠と共に、連合国側の判決の内容の不当と不法性を、歴史的事実を挙げて詳細の論駆し、日本の無罪を判決したのでありました。


「しかしこの東京裁判の判事の中で唯一国際法の専門家だったインドのパル判事が・・・被告人全員無罪の判決を出したということを我々日本人は忘れてはならない」と勝ち誇ったように「戦争論」で書いている小林よしのり氏も同類ということです。

「大東亜戦争の本質」第3章第2節「東京裁判史観の呪縛」(稲垣武)でも、「インドのパル判事の条理を尽くした長大・精細な『日本無罪論』は日本国民に知らされず、その抄訳がでたのは講話独立後だった」とパール判事の判決が「日本無罪」であったと論じています。

右派論壇が垂れ流すこのようなパール判決の恣意的な利用について、政治学者・歴史学者の中島岳志氏が「パール判事」(白水社)を通して精細な分析・批判を行っています。
ウィキペディアによると中島教授は「リベラル保守」と自称されているのだそうですが、彼はこの書物の中でパール判事の生い立ちや思想、東京裁判での意見書(パール判決)の成り立ちなどについて詳しく紹介し、瀬島龍三氏の「思い入れ」をものの見事に打ち砕いているのです。

パールは、決して「日本無罪」を主張したわけではなかった。彼が判決書の中で主張したことは「A級戦犯は法的には無罪」ということであり、指導者たちの道義的責任までも免罪したのではなかった。まして、日本の植民地政策を正当化したり、「大東亜」戦争を肯定する主張など一切していない。
彼の歴史観によれば、日本は欧米列強の悲しき「模倣者」であって、その道義的責任は連合国にも日本にも存在すると見ていたのである。
この点を理解せず、「パール判決書」の言葉を都合よく切り取って、「大東亜戦争肯定論」に援用することは、断じて避けなければならない。・・・彼の残したメッセージは、近年の右派論壇にこそ突きつけられている。(「パール判事」297〜299ページ)


大東亜戦争肯定派は、パール判事が「当時の国際法に照らして厳密に考察したとき侵略戦争を裁く法的根拠がない」「平和に対する罪、人道に対する罪」は事後法であり、罪刑法定主義に反するしてA級戦犯を無罪としたことにとびつき、あたかも東京裁判自体が茶番であったかのように描き出し、あまつさえ我と我が侵略的行状のすべてを無罪放免させようともくろんだのです。しかし、パール判事はB級(通例の戦争犯罪)については厳しい態度で臨み、たとえば南京虐殺について次のように主張しています。

本件において提出された証拠に対し言いうるすべてのことを念頭において、宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である。

また日本軍の20カ所の地域での残虐行為についても同様の立場で次のように述べています。

主張された残虐行為の鬼畜のような性格は否定し得ない。本官は事件の裏付けとして提出された証拠の性質を、各件ごとに列挙した。この証拠がいかに不満足なものであろうとも、これらの鬼畜行為の多くのものは実際行われたのであるということは否定できない。

パール判事の論拠によれば、A級戦犯容疑者がこれらの事件の遂行に命令・授権・許可を与えたという証拠は不十分であり、あくまで現場レベルの判断によるものだとして、その当事者はすでにBC級戦犯として処刑されているということになります。このことからわかるように、パール判事の立場は日本無罪論などとは全く異なったものであることは明白です。
小林よしのり「戦争論」で、さきに引用した部分のすぐとなりには「東京裁判でねつ造された日本の犯罪の一つが南京虐殺である」という一コマが並べられています。おそらく筆者はパール判事が南京事件を含めどれほど個別の戦争犯罪に厳しい態度をとっていたかについては知ることもなく、ただ自分の主張にとって都合のよい部分だけを切り取って引用しただけなのでしょう。賞味期限(右派論壇の中での)の切れた彼に言ってみたところで、いまさらという気がしないでもありませんが・・・。



  5月20日(火)
ようやく平常の生活に戻りました。医者のいいつけで今日まで他人との接触禁止。従って念のため仕事も今日明日はまだ休むことにしました。生徒のみなさんには迷惑をかけてしまいましたが、致し方ありません。
今回の「ウイルス性疾患」は、熱はさほど出ないのに寒気がするため、2日前までは室内暖房を目一杯かけて、それに電気毛布を入れて結局汗をいっぱいかいて、夜何度も下着を替えることに。結構しつこいウイルスだったようです。
今日は朝から熱も下がって普段と変わりない状態だったので、人には会えないけれど畑ならいいだろうと、妻と野菜の手入れに出かけました。
畑でも汗をたくさんかいて、帰ってから風呂に入って、ようやくさっぱりしました。とにかく汗をたくさん出すのがいいようですね。

ところで、18日は「北アルプス展望ウオーク」のイベント開催日で、バラ園前での接待を仰せつかっていたのですが、私は当然人前に出るわけにはいきません。
この日ようやく熱も下がったので、車に乗ったまま状況を見守ることにして、もっぱら写真撮影をしておりました。
接待の時間が予定夜相当後ろにずれ込んだこともあって、ちょっと打ち合わせと異なる不手際もあったのですが、そこはバラの会のメンバーが10人ほど出てくれて最後までしっかり接待に当たってくれました。
この日は、私が知っている限りおそらく初めてといえるほど上天気でまさしく「北アルプス展望ウオーク」、最高のウオーキング日和でした。
昼にはさすがに汗ばむ陽気になって、ウオーキング客はひっきりなしにテントを訪れ、冷たいお茶や漬け物などの振る舞いにうれしそうでした。
残念ながらバラはまだ堅いつぼみ状態なので、バラの時期にはちょっと早かった。しかし、あと10日もすれば咲き始めるでしょうから、ウオーキングのみなさんにはまた訪れてもらえるのではないかと思っています。
高い場所から北アルプスを遠望しつつバラ園を見ると、このロケーションのすばらしいこと。当日町長、振興課長もウオーキングの一行に先んじてバラ園を訪問してくれていましたから、町としてこのバラ園の充実発展にきっと何か考えてもらえるのではないかと・・。ね、振興課長。熱心にこのブログをお読みくださっているので、実のある対応を期待しております。






  5月16日(金)
風邪の症状がよくならないので、午前中医者に診てもらいに行ったら案の定「インフルエンザB型」。昨年も今頃かかっていましたね、と言われそうだったなと思い出しました。昨年も妻からもらったんじゃなかったっけ。
幸いB型はそれほど熱も出ず軽症なので、5日間家で安静にしていることという条件付きでタミフルなどを処方してもらってきました。結局仕事も休みです。生徒にうつすわけにはいきませんからね。

医者から帰って寝ていたら、何かゴトゴト外で物音がします。何事かと縁側に出てみたら、何と大型のバズが我が家のすぐ前に停まって、たくさんの人が降りて絵を描く準備をしている。都会からのお絵かきツアーの面々だったのです。観光協会のメンバーがその世話で忙しそうにあちこち駆けまわっていました。
数人でやってくるのはいつものことですが、数十人での来訪は初めてじゃないかな。田植えの終わった田園風景と北アルプスを懸命にスケッチしていました。
あいにく今日は風が強く、山は半分ほどしか見えず残念でした。これに懲りず、また個人的にでも来てほしいものですね。




  5月15日(木)
看護学校時代の同窓会で名古屋に出かけていた妻が風邪をひきゴホゴホやっていたかとおもったら、私にもうつったらしく今日はのどが痛く胸が苦しい。微熱もあります。
それでも今日の午前中はバラの会の作業があり、しかも今度の日曜日にウオーキング大会があってその接待を引き受けているので、どうしても休むわけにはいきません。
10人ほどでせっせと整備作業に汗を流していた頃はまだよかったのですが、午後1時頃に帰って休んでいたら熱っぽくなってちょっとヤバい感じです。今日は早めに寝て早く直さないと。
夕方から天気予報通り、本当に久しぶりに本格的な雨になりました。午後5時現在かなり激しく降っています。作物には恵みの雨ですが、あまり降りすぎるのも困りもの。明日には晴れて農作業ができるようになればいいのですが。

さて、ここ2日ほど、記事を書いては途中でそのままにしておいたために、更新できずにズルズルと日が過ぎていってしまいました。雨のために、2日間の記事をそれなりに補足してアップすることができました。
さて、今日のニュースで最も重要なことは、例の「安保法制懇」(首相の私的諮問機関)が集団的自衛権行使を容認する答申を提出した問題。
こんなのは人選からして「出来レース」であるのは明白で、答申を出した彼らの反動ぶりをさらけ出しただけのものです。大メディアがこれをどのように扱うのか、きわめて注目されるところですね。
国民的な反対運動をどのようにして構築するのか。運動の端緒はすでにつくられてはいるわけですから、今日の政党状況に関わらず大きなうねりにしていける可能性は高い。しかし、放置すればあっという間にものが言えない状態へ。「戦争できる国」への暴走を許さない運動の成否がこの国の未来にかかっていると思わないわけにはいきません。



  5月14日(水)
仮に「集団的自衛権」の容認が閣議決定され、場合によっては対中国、北朝鮮問題で発動され、一部ではあれ国土が攻撃されるようなことがあったとしたら・・・後世の人々(50年程度でよろしい)とくに歴史家は何と総括するのでしょうか。
「当時としてはやむを得ない自存自衛の行為であり、『国際的』に認知された行動であった」とするのか、それとも「なぜ立派な憲法を持ちながらそのような愚かなことに足を踏み出したのか、なぜ人々はそれを止めることができなかったのか」と書くのか。

2014年は、あらゆる意味で日本の歴史の転換点を画する年になるという予感がいたします。
それは「集団的自衛権」だけの問題ではありません。改憲の手続き法が国会を通り、医療・介護改悪法案、労働法制改悪法案が国会で審議され、さらに大学の学長に権限を集中する法案、教育委員会制度を根幹から変える動き、さらには原発を重要なベースロード電源と位置づけたエネルギー政策、辺野古への新基地建設の着手、そしてまたTPPでの決着(そういえばJAが経団連と連携を強化するという記事も)などと国の形を根本から変える暴走が果てしなく続く。私たちの住む都会や町村が音を立てて変わっていくその不気味な音が聞こえはしませんか。

世界6月号には、ジャーナリスト堤未果さんによるノーム・チョムスキー教授へのインタビューが載せられています。
冒頭二人が指摘するのは、アメリカ政府の政策に対する国民への「強力な刷り込み」とそれによる「合意のねつ造」。
チョムスキー氏は言います。

「高学歴の人々の中には、ある種のことは口にするのはおろか、思考することすらまずいという分別がしっかりと刷り込まれています。『21世紀に他国を侵略することは許されない』というケリー(国務長官)の言葉に誰一人笑わないのは、精神と思考がコントロールされているからです。これは日本を含む先進国全体の高学歴層に言えることです。

高校、大学などの公教育を解体する目的は何かという堤さんの問いに、チョムスキー氏は「『連帯の原則』に基づいた、公教育の理念を破壊することだ」と答え、「彼らにとって、人々がお互いを気遣い、支え合い、連帯するという行動は、自らの権力を弱めることになるのでたいへん危険なのです」と言う。
日本でも学校の株式会社化などアメリカと同じ流れがでているが・・・という問いかけに、これまた「日本の生徒と先生には気の毒ですが、米国と同じことになるでしょう」とストレート。
最後に「希望」を持って自由のためにたたかうことを強く呼びかけているこのインタビューは、チョムスキー氏よりも堤さんの方が輝いていると思わせる大変読み応えのあるものでした。



  5月13日(火)
昼は汗ばむ陽気。野菜の支柱立てやポットへの種植えなどをしているうちにすぐに時間が経って、夕方松本で高校生の相手をしていたらそれで一日が終わり。生徒たちに聞くと来週から中間試験とのこと。日が過ぎていくのが何と速いことでしょうか。






雑誌「世界」の6月号は自民党野田聖子総務会長のインタビューが載っていると先日から話題になっていましたが、自民党内の深刻な内部矛盾というほどのことでもなく、大した話ではありませんでした。
ただ、「殺し殺される」ことが問題になるという指摘にはそれなりの説得力があります。安倍総理の動きを快く思わない面々のガス抜きを適当にやらせ、実際には彼の思惑通りにことを運ぼうという意図が見え隠れします。
国民の側からの総反撃が、実際には自民党内の矛盾をひろげ思わぬ障害が現れるというような情勢を作り出していくことが何より大事です。

世界6月号では、注目すべきインタビューが幾つもありました。その一つが、アメリカの映画監督ジョシュア・オッペンハイマー氏へのインタビューです。
こんな映画があったのかと目を疑ったのが、彼の監督作品「アクト・オブ・キリング」。いや〜ショックなんてもんじゃありません。
これは、1965年から66年にかけてインドネシアで起きた共産党員とその関係者100万人が殺害された事件「9.30事件」を前代未聞の手法で描いたもので、その紹介記事によると、「この映画では、千人近い人間を殺した男がカメラに向かって得々と、いかにして殺したかを語る、自慢する」のだそう。
このインタビューは、映画評論家の川本三郎氏が監督オッペンハイマー氏と対話するという形ですすめられています。その内容は実に衝撃的。
実は、この映画は予告編だけではなくfull movieがYouTubeにアップされているです。それには理由があって、インドネシアでは映画館でこの映画を上映できないためにせめてYouTubeで見られるようにしたというわけ。これを通して現地のたくさんの人がこの映画を見ることができたと紹介されていました。

This video was posted with the full approval of the copyright holders of The Act of Killing.

私も実際にこの映画を見てみたのですが、なにしろインドネシア語だし字幕スーパーなどはありませんから、映像だけを見て雰囲気をつかむしかありません。
さて、この映画で1000人を殺したという町の「チンピラ」は今はずいぶん年をとっており(冒頭で出てくる白髪の老人)、「孫たちに囲まれて平穏に暮らしている好々爺」。それでも仕草は至って若々しく、殴って殺すと血がたくさん出て扱いに困るので「針金で首を絞めた」として実演をしてみせる(10分後)。本人は取材にも録画にも大変協力的で、殺害の方法などについても平然と、ときには笑いながら楽しそうに説明するのです。そんな映像が最初の方で出てきます。
その後アルパチーノよろしくいかに拷問・殺害をしたかを集団で演じ、実際に映画にしてみせる(50分頃)。たぶん「こうした方がもっとリアルになる」などと話し合っているのでしょう。Actには殺人行為そのものと同時に、演技の意味も持たせているのですね。

この大虐殺が起こったきっかけは、1965年9月30日の深夜から翌朝にかけてのことで、まず当時の大統領スカルノの親衛隊が6人の陸軍将校を襲い、ラジオ放送で「これはスカルノ大統領を陰謀から守るための行動であった」と流したのです。
しかし、彼ら親衛隊はスハルト少将率いる軍によって弾圧・粉砕され、その事件が「共産党によって起こされた」として、その後権力を掌握したスハルト派は以後数年にわたってインドネシア共産党関係者・支持者を虐殺していくのです。
これを実行したのは軍だけではなく一般の民間人も多数含まれること。この映画はその殺人の実行者へのインタビュー、実際の演技などで構成されているのです。
インドネシアではこの事件での殺人行為について司法当局からの責任追及は一切無く、逆に「殺害者たちは国家の危機を救った者だと位置づけられている(倉沢愛子「9.30世界を震撼させた日_インドネシアの政変の真相と波紋」岩波現代全書)」。
同時に、この事件は「西側陣営」の「協力」があった(映画冒頭のクレジットより)とされ、オッペンハイマー氏は次のように語っています。

アメリカをはじめ西側諸国は、日本も含めて、スハルトの新体制を支持した。ジャーナリズムも事件の真相を伝えなかった。「ニューヨークタイムス「も「タイム」も沈黙した。

大虐殺の深層には「あれは正しいことだった」という権力の「言い訳」があったとオッペンハイマー氏は言い次のように指摘します。

一度殺してしまうと「言い訳」にすがってしまう。信じてしまう。そして殺人を繰り返す。「言い訳」を疑ってしまうと、最初の殺人からして否定しなければならない。・・・
個人ではどんなに人間的であっても、権力が「言い訳」(共産主義者を殺したことはよいことだった。正しいことだった)を続ける限り、彼らもそれに従わざるを得ない。これはインドネシアだけの問題ではないと思う。


チャップリンの殺人狂時代の中の台詞を彷彿とさせる権力者の「論理」がここではまさに絵を描いたように生きているのです。「悪の陳腐さ」が腐臭を放っていても、人々はそれを「巨悪」とは見ることが出来ない。
果たして、このことはインドネシアだけの特異なことなのでしょうか。



  5月11日(日)
母の日です。子どもたちからのプレゼントが届いた(息子の方は連休に来たときに受け取った)のに、母(妻)の方は昨日から明日までの3日間も看護学校同窓会で名古屋へ。おかげでハルちゃんとのんびり留守番です。
とはいえ、実際には朝から夕方まで畑仕事ですから、結構体力を使います。それほどの仕事量ではないのですが、そとで日に当たって野良仕事をするのは、思ったよりもはるかにエネルギーを消耗するのです。
家に帰って一風呂浴びて食事をして・・・もう一日の終わり。従ってここ最近パソコンに向かう元気もでてきません。
自分たちの食材だけではなく子どもたちや沖縄の母のためにもそれなりに作っているので、まず土を耕して畝を作って、必要に応じてマルチをして・・・などとやっているとあっという間に時間が過ぎていきます。
今年は借りている畑の一部だけにしようと思っていたのですが、カボチャやスイカ、瓜などは結構広い土地がいるので、結局200坪ほどの広さになってしまいました。ネギやトマト、ナス、キュウリ、里芋、ジャガイモ、スイカ、メロン、インゲン、エンドウ、ピーマンなどはすでに植え込んでありますが、芽を出させているオクラ、モロヘイヤ、ゴーヤ、小豆、大豆、トウモロコシなどはしばらくしないと植えられません。唐芋(サツマイモ)もスタンバイ。
これらが7月から8月にかけていっせいに収穫時期を迎えるのですから、連日朝市状態になります。楽しみと言えば楽しみですが・・・。
今日は、これらに加えて6月のバラ祭りで販売する予定の苗のポット植えを行いました。割と買ってもらえるのはトウモロコシ、オクラ、モロヘイヤかな。ミニトマトも挑戦しているのですが、芽を出してくれるのかどうか。

今日の信濃毎日新聞一面に、「秋にも辺野古での工事着工」というニュースが載っていました。記事では「普天間飛行場に関し、仲井眞知事が求める『5年以内の運用停止』の実現を目指す姿勢を前面に打ち出すのが狙いだ」と書いていましたが「、5年以内に運用停止」などとはアメリカも言っていないし、誰も信じていないのに、そのことには一言も触れずじまい。
この「工事着工」をこのまま安倍内閣の思惑通りに進めさせるとすれば、それは単に安倍内閣だけにとどまらず、本土の沖縄に対する取り返しのつかない差別と屈辱の押しつけになるでしょう。

ところで、光人社NF文庫の一冊に「OKINAWA 沖縄 日米最後の戦闘」という本があります。著者は「米国陸軍省」(外間正四郎訳)。アメリカ軍による沖縄戦の詳細な記録(「沖縄戦に関する最も権威ある戦史であり、熾烈を極めた90日間の死闘をジャーナリスティックに再現した客観的な記録である」(訳者まえがき)です。
具体的かつ細部にわたるまで克明に記録されたこの文書はどのようにして可能だったのか?その秘密が「編纂にあたっての覚え書き」に記されています。
太平洋地区の全米軍が「琉球列島を確保せよ」という命令を受け取ったのが1944年10月3日。翌年1月には「第一情報・戦史部隊」の一部として、この琉球作戦に参加するための特別な「ヒストリアン・グループ」がハワイで編成され、第10軍(陸軍)に配属されることになります。
彼らは各軍、各部隊に記録係として配置され、戦争中から戦後にかけて会議を持ち、海軍の戦史係とも会議を重ねて正確な記録となるように努力を重ねていきます。
沖縄戦後ヒストリアン・グループの代表によって執筆された原稿は戦史編集室太平洋部に回されてさらに加筆、監修を受け正式なものとされていきます。
「アイスバーグ(氷山)作戦」と米軍が名付け、戦後「鉄の暴風」とも呼ばれたこの沖縄戦で、いったいどんな戦争が行われたのか? 
映画「ひめゆりの塔」などで描かれるのは沖縄戦でもごく一部の姿にすぎません。実際には「死ぬまで戦う」頑強な日本軍の抵抗によって、米軍自体が「12,500人の戦死または行方不明、36,631(Wikipediaでは72,012)人の負傷者」を出したほど戦闘はすさまじく、日本軍および民間人の犠牲者(死者、行方不明など)は約20万人、うち沖縄出身者15万人といわれています。
この本における記録はたたかいの記録ですから、沖縄の一般の人々の苦難や被害については当然のことながら触れられてはいません。しかし、米軍が、これだけ詳細な記録を残すことができる特別な体制をとっていたこと自体、すでにあの戦争での力量において雲泥の差があったとみるべきでしょう。
この記録の中では、注目すべきいくつもの記述がありますが、それについてはいずれまた触れることにして、記録の最後に記されている次の一文に注目しておきましょう。それは、損害が米軍のそれをはるかに上回るものになったというだけにとどまらず、「さらに重要なことは、日本は九州から220キロ内のところで1500平方キロの領土を失ったということであった」。
激戦の中で命を奪い奪われ、住民自体も「集団強制死」させられる悲惨さだけではなく、その後の沖縄の歴史の中で、どれほどの悲しみや苦痛が続いたのかに想像をめぐらせる必要があるということです。
沖縄でアメリカ軍に決戦を挑み大打撃を与えると妄想した「大本営」と沖縄を本土決戦の「捨て石」とした牛島中将の第32軍が、結局は侵略戦争の末路を沖縄でこのような形で示すことにしかならなかった事実をくみ取るべきだということです。
「戦争」に道をひらく安倍政権の集団的自衛権や辺野古での基地建設、教育委員会制度の改変などに関する暴走見るにつけ、沖縄戦の犠牲者はあの世で「愚かなことよ!」と叫んでいるのではないのでしょうか。



  5月7日(水)
この連休の間に、田圃の半分ほどで田植えが終わってしまいました。機械で植えればほんとうにあっという間に田植えが完了。人力で植えることを考えれば、1/1000位の労力でしょうか。ただこれからは水の調節に気を配らなければならないので、農家の皆さんはしばらく気が抜けないのでしょう。
昨夜には、また「霜注意報」が発令されて、先日植えたばかりのキュウリやトマトに被害が及ばないよう覆いをかけて何とかしのいでいます。5月中旬までは遅霜の心配があるので、霜に弱い作物(キュウリ、トマトなど)は霜よけが必要。今年はもう霜も降りないのではないかと予想していたのですが、まだしばらくは注意が必要です。

「帝国陸軍の本質」(三根生久大著 講談社)は、日本の陸海軍の創設から太平洋戦争末期までを視野に入れて、歴史と問題点を詳細に分析した力作です。その最後章「第12章」は「天皇教あるいは日本陸軍教」というタイトルで、私が知りたかった瀬島龍三氏と戦争との関わりについて触れていました。
そこでは、旧日本軍の本質と太平洋戦争の敗因には、当時の参謀本部作戦室作戦課に部外者はもちろん平の大本営参謀でも近づけない「奥の院」と呼ばれるグループの存在とその暴走が深く関わっていたことが力説されています。
この事実はあまり知られず、語られることがないのは、ほとんどのメンバーが亡くなってしまっていることと、「当時のすべてを知る『奥の院』の実力者」で多くを語れるはずの瀬島龍三(当時)がなぜか口を堅く閉ざしている」ことにあると著者は述べています。
しかし、その瀬島が決して「語ろうとはしない」その部分こそ、「大本営が作戦指導の蹉跌を踏んだ原因」であり帝国陸軍の戦史の空白部分なのだというのです。
瀬島が語らない以上、ともに仕事をし彼をよく知る二人の人物(浅枝繁春、堀栄三)から「謎の真相と帝国陸軍の本質」が何であるのかを語ってもらおうと、本書ではそれらの証言を克明に収録しています。それらの証言から浮かび上がる帝国陸軍の本質、とりわけ参謀本部・大本営の本質とは何か。
その第1は、「『神州不滅』『八紘一宇』などを原理とする天皇教」に基づく中毒的皇国史観の信仰=「独善的・狂信的ナショナリズムの信奉」(浅枝)だと言います。
第2は、参謀総長といえどもその言うなりにさせられ、陸軍省人事局すらコントロールすることができた一握りの作戦参謀による「鉄の密室」グループの存在。
彼らはすべて陸大「軍刀組」で組織されており、絶大な権力を手中にしていたが「そうした連中が米軍の作戦の実相などはなにも知らずに、ただ日中戦争の経験だけで米軍相手にやっているんだから話にならない・・・作戦課がすべて一人相撲をとっているのだ」(堀)
台湾沖航空戦のデタラメな「戦果」が大本営に伝えられたときに、当時情報参謀としてその戦果に疑問を持ち参謀本部の上司にその旨の電報を打ったが結局作戦課で握りつぶされてしまいます。、握りつぶしただけではなく誤った情勢判断に基づく作戦を立案して現地軍を苦境にたたき込むのですが、その責任者が瀬島龍三であったというのです。「こんな人が作戦の中枢で国を動かしていたかと思うと残念でならない」(堀)。
第3は、「哲学もなく、戦術の大原則も知らない軍官僚」。
浅枝は、瀬島を中心とした「奥の院」が、フィリピンではルソン決戦を本義としておきながら、台湾沖航空戦の戦果を誤認してレイテ島に主戦場を変更したことを例に「要するに弾の下をくぐったことのない、いわば小手先の利く秀才幕僚のペーパープランでしかなかった」「彼らは『統帥の秘密』をタテに他の部に対しても徹底した秘密主義をとり、その傍若無人の言動はまさに封建時代の暴君以上のものだった」と手厳しく批判。
堀もまた「瀬島が一度も戦場の弾の下をくぐったことのないという人事もおかしい。・・・問題は陸軍の教育にあったのだ。・・陸大の『軍刀組』にはたとえば『大和魂』というような精神力を強調して、点数稼ぎのリポートを書くような者が多い。・・・そういう教育を受けた日本の軍人はどうしても単細胞にならざるをえない。つまり物事をまともな原理から柔軟に分析研究するということに欠けている」と痛烈に批判しています。
第4は、「野戦軍の苦労も眼中にない」こと。「酷寒や炎熱の下で死と対決する戦場の将兵の苦労などは眼中になく、将兵は将棋のコマに等しい」とみなし「軍人特有の権力を振り回すことだけは忘れないのだから始末が悪い」(著者)。

この本の著者の三根生氏は、最後に次のようにこの章をしめくくっています。

陸軍の中央人事が陸大出身者によって固められ、省部が完全に官僚化された昭和陸軍の中で、早くから参謀職に就き、弾の下を一度もくぐったことのない瀬島龍三に、自ずと行政官僚志向が強まっていったというのも不思議ではない。うがった見方をすれば、それが戦後、中曽根首相のブレイン、そして行・財政改革に敏腕を振るうことになる原点となっていったのかもしれないである。

日本だけではなくアジア各国に耐えがたい苦しみと多大な惨禍をもたらしたあの戦争を考えるとき、軍部の中心にいて最も責任を問われるべき人物たちが戦後も平然と国家機構の要職につきこの国を動かしてきた異常さこそ、今日至る所で吹き出している戦前回帰の虚言・妄言の根底をなしていると思わないわけにはいきません。
冷戦を作り出したアメリカが日本の再軍備を進める過程で、戦犯たちを続々と政財界、自衛隊に復帰させてきたことを考えれば、今日アメリカで批判が高まる靖国参拝や従軍「慰安婦」問題も見方を変えれば実は自らが蒔いた種から生まれ出たものであるといえるのです。
日本の国では、国民レベルでこうした問題に正面から向き合い、あの戦争を徹底して批判し総括しているわけではありません。それどころか、多くの国民はあの戦争時とさほど変わらない精神的な土壌を保ち、天皇教にとらわれ、安倍政権を支持し、集団的自衛権を容認しようとしている。
私自身は、アメリカの単独占領とその後の対日支配のしくみの中で、戦前との連続性が巧みに保持され利用されてきたことが、今日の「右傾化」の温床となり、新たなファシズムへのバネともなっていると考えています。



  5月6日(火)
息子夫婦・娘とその孫たちが3日の夜遅くにやってきて連休はにぎやか。5日には娘たちが帰り、今日は午後息子たちが帰っていきました。つかの間の家族の集まりでしたが、こうやって元気で集まれるのはうれしい限りです。
4日には息子の連れ合いとその子が美容師をしている娘に髪を切ってもらってさっぱり。なんと言っても技術を持っているのは強みですね。ただ家族の間では使われ損かも。


その夜にはみんなで庭に出てバーベキューをしました。火力の調節がむずかしくて、肉や野菜を焼く当番の息子と娘は結構しんどそう。しかし、こんなに食べられるのかと思うほどの量をしっかり腹に収めてみんな満足しました。


息子夫婦だけになった今日の昼前、いつも連休に寄ってくれるSさん夫婦が今年も訪問してくれ、最近の政治状況などについて情報交換。欠かさず表敬訪問してくれる律儀さには感服してしまいます。もっとも我が家は帰省の中間にあたることもあって、いい休憩地点になっているのです。
障害者団体の役員として全国的な活動をし、毎年北欧を訪問しているだけあって、その情報量と活動の蓄積にはすごいものがあります。今後の活躍に期待大です。
よい天気になってきた昼過ぎ息子夫婦も帰途につき、私はそのあとまもなく仕事で松本へ。あっという間に過ぎていった連休でした。









  5月3日(土)
ゴールデンウイーク後半の初日は快晴、汗ばむほどの陽気です。すぐ目の前の田圃では、耕耘機が一日うなりを上げて田ならしをしていました。
水をたたえ鏡面のようになった田圃に映るさかさ北アルプスはこの時期しか見られません。天気が悪ければみられないわけで、田植えまでのほんの数日の絶景です。


さて、今日は憲法記念日。

読売新聞は「憲法記念日 集団的自衛権で抑止力高めよ」と、さすがヨミウリに違わぬ社説を掲げています。
読売の浄衣氏認識は「米国の力の相対的な低下、北朝鮮が核兵器や弾道ミサイルの開発を継続し、中国が急速に軍備を増強して海洋進出」しているというもの。それに対応するために「領土・領海・領空と国民の生命、財産を守るため、防衛力を整備し、米国との同盟関係を強化することが急務である。安倍政権が集団的自衛権の憲法解釈見直しに取り組んでいるのもこうした目的意識からであり、高く評価したい」というわけです。
この社説には、立憲主義を根本から破壊するという観点も、平和的外交によって東北アジアから緊張を取り除き、領土問題などの懸案は粘り強く外交交渉で解決するという方向も一切ありません。ただ「集団的自衛権の限定容認」は「抑止力」になるという「思い込み」だけ。集団的自衛権がアメリカの戦争に荷担するという側面を強く持つことには口をつぐんだままであるのは言うまでもありません。
こうした社説を見ると、あの戦争でメディアが果たした役割を地のままで再び果たしていると思わないわけにはいきません。
朝日新聞は、集団的自衛権容認論は「アリの一穴」であり、「日本国憲法の平和主義は形としては残っても、その魂が奪われることになるのは明らかだ」としつつ、「国会が行政府を抑制できない無力さ」「論争によって問題点を明らかにし、世論を喚起する。この役割が果たせていない」ことを問題点としてあげています。
安倍政権のやり方は、「憲法を国民の手に取り戻す」どころか、「憲法を国民から取り上げる」ことにほかならない、と一見まともなことを言っているように見えますが、やはり日本国憲法の今日的意義を深め、日本の平和と安全をどのように確保するのかという憲法的見地を示すことができてはいません。
信濃毎日新聞は、「憲法第9条にノーベル平和賞を」という呼びかけの紹介から社説がはじまり、安倍政権の改憲準備は民意を無視していることを正しく指摘し、「いつ日本が争いの当事者になってもおかしくない状況になる。海外での自衛隊の交戦が現実味を帯びる」「集団的自衛権の行使に道を開けば、9条も同じ展開をたどりかけない」と書いています。そして、最後に「国民をおきざりにしたまま、突き進もうとする政府の姿勢を許すわけにはいかない。解釈改憲に反対の声を上げていきたい」と明快。

「憲法記念日」の今日、敗戦直後に大メディアが国民向けにどのような態度をとり、何を語ったのかを振り返ってみるのも悪くないのではないでしょう。
毎日新聞は、何日も紙面の半分以上を白紙で出したのでしたね。

昨日まで鬼畜米英を唱え、焦土決戦を叫び続けた紙面を同じ編集者の手によって180度の大転換をするような器用なまねは、とうてい良心がゆるさなかった。国民も今日から転換するのだ≠ネど、どの面下げていえた義理か、終戦の詔勅をはじめ公的機関の発表と事実の推移をありのままを紙面に載せるだけが、私の良心の許す最大限だった。その結果は紙面の半分以上が白紙とならざるを得なかった。
(毎日新聞 高杉孝二郎西部本社編集局長)(太平洋戦争と新聞 前坂俊之 講談社学術文庫)



  5月1日(木)
池田町では桜も葉桜になり、いま桃の花のまっさかり。田圃には水が張られて、いよいよ田植え間近な季節になってきました。
昨日は一日雨が降ったおかげで畑は久しぶりにしっかり潤い、夏野菜の定植が始まります。山々では例年より木立の芽吹きが少し早いような気もするのですが、どうなのでしょう。いずれにしても、大型連休には初夏の陽気であたりは冬の景色から一気に初夏の装いに変わりそうです。1年で最もいのちの躍動が感じられる季節です。
我がバラ園では、新芽も大きく伸びて6月はじめには花が咲き始めるはず。定例作業日の今日も数人が集まってバラ祭りにむけた整備作業に汗を流しました。
何しろ面積が広いので、定例日だけでは整備が追いつかず、私とSさんは4月中旬からほとんど毎日通って区画整理をしたり耕したりしてきたのですが、ようやくきれいに整備ができ、あとはバラの植えてある区画の整備を行うだけ。とはいえ、まだ半月くらいは、せっせと作業を続けなければなりません。作業が終わり、少しずつ整備されていくバラ園を見るのはなかなか気持ちのいいものです。




さて、ここしばらく私が読んでいた本は、次の2冊。

大本営参謀の情報戦記 堀栄三 文春文庫
太平洋戦争と新聞 前坂俊之 講談社学術文庫

前者は、大本営陸軍部にあって「マッカーサー参謀」との別名をとる情報将校の手記であり、当時の大本営がどれほど情報を軽視し、精神主義と形式主義に冒され「鉄量は精神力で克服できるという呪術的思考」(215ページ)で悲劇的な結末を招いたかを詳述して大変興味深い。
「大本営発表」が嘘八百の代名詞のようになったのは、1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦以降、とりわけ「ありもしない戦果に損害のひた隠しが加わって、ウソとデタラメが発表されるようになった」(太平洋戦争と新聞397ページ)ことに起因しています。
堀さんの手記でとくに注目を引くのは、その台湾沖航空戦のデタラメ「大戦果」に酔った大本営作戦課がルソン決戦からレイテ決戦へ戦略の大転換を行うという「歴史的な大過失」を犯した部分の記述。情報参謀としてただ一人台湾沖航空戦の「戦果」に疑問をもち「この成果は信用できない」と大本営に打電するのですが、大本営でも現地マニラでも「一顧だにされな」い。
堀さんがこの本を書いたのは1996年。自衛隊の統合幕僚会議第二室室長をつとめるものの、「真実を述べず事なかれで生きていく」「そんな空気が耐えられなく」なり、「自衛隊の現状と将来に絶望に近い気持ち」を抱いて退職を決意するのです。
戦後、アメリカの都合による戦犯解除で旧軍人が次々と「警察予備隊」に入っていくことになるのですが、うがった見方をすればこの旧日本軍の弱点(空疎で幼稚な精神主義、情報収集と分析能力の欠如など)をアメリカが十分に知っているからこそ、まったく新しい組織、人材ではなく旧態依然とした軍の「人材」でアメリカの思うように使おうとした、とも考えられはしないか。
戦後世代に属するとはいえ、安部首相にしろ石破幹事長にしろ、思想・人脈においてそうした歴史を内面化しているがゆえに、アメリカにはいい顔をみせ(アメリカでの講演!)、国内ではとんでもない反動的な発言を繰り返すことになるのでしょう。




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