昨日は母の祥月命日。沖縄から届いたマンゴーを供えて2人でおまいり。身内からのお花も届いて仏壇はしばしのにぎわいです。
信心のない私ですから、一日一回仏壇のまえに座るなどとは縁がありせんが、それでも記憶にある限りのご先祖様は大切です。とりわけ父・母とすごしたわが幼少期から思春期の思い出はいまなお何かの弾みでよみがえるのですから。
松本で中学受験をひかえる小学生を相手にするようになり、さらに今日からは中学生も。松本は大町、池田とは相当に様子が違って教育熱心な親も多く意識もそれなりに高い。東京での雰囲気とさして違わないような気すらします。
いまはやりの中高一貫校の問題もこれから扱うことがでてきますが、算数・理科に限って言えば出題は過去の問題に慣れた頭からは相当に隔たっています。「思考力をみる」ということらしいのですが、さて本当に思考力を見ることができるのかどうか。確かに詰め込み形の知識偏重受験の出題から見れば「画期的」な出題形式と言えるでしょう。
それほど多くの問題をみているわけでも、私の頭でよくよく考えて解いたわけでもないので、軽々しくは言えませんけれど、ひとたび出題形式が定まるとこれが「考えさせる」問題だとしてある形式が定着するのにはどうしても違和感がある。学校で依然として詰め込みをやりながら、出題だけは「考えさせる」ことになるのかどうか。いざ進学してからはまた「考えさせる」こととは無縁の教育になってしまうのではないか。
今日の学歴偏重と大学受験のやり方を変えない限り、また、スマホ、ゲーム漬けになっている子どもたちの生活スタイルを根本的に変えない限り、途中でどんなに入試の形を変えようが見かけは「考えることに長けた」一部のエリートを育てるだけの入試「改革」になってしまうのではないか。
それよりも義務教育の質をあげ、予算をたっぷり注いで無償で行き届いた教育をつくりあげることに心血を注いだ方がよほど未来につながる教育ができると私は思うのですけど。
といいつつ、やっていることは親の要望にも子どもの期待にも応えられる「受験」の技を教えることでせっせと教材作りに時間をかけている毎日なので、大きなことは言えません。
このごろ雨がつづいて草が伸び放題。よって、毎日草刈り機を駆使して重労働にいそしんでいます。マクワウリだと思って植えたらキュウリだったという、そのキュウリが実をつけて連日バケツどころか飼い葉桶のような大型の入れ物で収穫。従って毎日毎日キュウリばかりたべて河童に変身しそうです。幸い大好物のトマトがようやく色づき始め、キュウリとトマトを息子・娘家族にどんどん送っているところです。地方発送もうけたまわりますので、ご連絡を。
さて、沖縄では辺野古の海をめぐってきわめて緊迫した状態になっています。辺野古を埋め立て工事前のボーリング調査のための岩礁破砕、ブイ設置に今週にも着手しようという状況。そのために
広大な立ち入り禁止海域をもうけ、地元漁民を買収して監視船に仕立て県民同士を敵対させる周到な準備も行っているのです。
着工には地元自治体の稲嶺市長はもとより、県民の7割以上が反対。民意は基地新設・着工反対であり、その意思はきわめて強固で明白なのです。だから
琉球新報は「辺野古着工 強行は構造的差別だ 民主国家なら移設断念を」と書き
沖縄タイムスも、「[辺野古掘削手続き]新基地に正当性はない」と厳しく指弾しているのです。
アメリカ軍の基地のために日本政府が積極的に土地、カネ、人を提供するのはこれが戦後初めて。辺野古内陸部に「兵員宿舎など30棟以上の施設建設」が計画されていると暴露されたことに何の異論もとなえずにです。
先日の報道でも、とりあえず「678億円を計上」(
琉球新報7/4)、来年2月頃の着工をめざしてさらに予算措置をとるのだという。これが安倍さんの言う「積極的平和主義」の内実です。
11月の沖縄知事選には、すでに地に落ちた仲井眞がまたまた出るのだという。沖縄タイムスの報道では、「歯車を前に進めたつもりだ。いったん前に進めたら、どんどん前へ進めて落ち着かせてしまうことが大変重要ではないか。現実的な進め方ではないかと思っている」などと述べて、自身の変節を合理化している始末。先の日米防衛相会談で、仲井眞知事が条件とした普天間基地の「5年以内の運用停止」には一言も触れられずじまいだったどころか、すでにアメリカからは「辺野古に基地ができないうちに停止できるか」と日本に釘をさしたと
報道されているにもかかわらずにです。
そうした自民党沖縄県連の独走に中央の
石破幹事長は「そうはいっても独自の調査を見るとあぶねぇんじゃないの」と言ったとか言わないとか。とはいえ、「用が済んだから使い捨てた」と見られるのもいやだし。
自民党本部で恫喝された沖縄自民党と公明党が仲井眞擁立で体制づくりにとりかかっており、翁長那覇市長への出馬要請を行った議員を除名・離党勧告するなど手段を選ばない手段に。一旦転落したらどれほど惨めに転げ落ちるかの証拠固めをやっている様はまるで道化です。