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  11月30日(月)
いよいよ今日で11月も終わり。11月っていうのは本当に中途半端な月だなと思います。「あ〜〜寒くなったな」とボヤいているうちにいつのまにか過ぎていく。とまれ、明日から12月です。
早朝、車のガラスはびっしりと氷で覆われて、多分マイナス1,2度まで下がったのではないかと思われました。長野県は全県ではじめてマイナス気温になったのだとか。日がのぼるころには次第に霧が立ちこめてきました。
朝霧が晴れれば久しぶりの快晴、北アルプスの峰々が冠雪して連なって、もう完全に雪山です。




今日義兄のブログを読んでいて、沖縄目線でのさまざまな生活事象への言及がなかなかおもしろく、引き込まれておりました。
[「第1次寒波」では、気温18度、最高気温21度で「さむい、さむい。仕事へと朝は三層に着込んで、ふつうは素足に草履だが、靴下まではく重装備のいでたちとあいなった」と書かれていたので、18度では私でも寒いだろうなあと同情してしまいました。
かつて3月に沖縄を訪問し、多分15度くらいだったのではないでしょうか、北風の中で同僚と「沖縄ってこんなに寒いところだったのか」と口々に言い合ったことを思い出してしまいました。

それはともかく、このブログで義兄は「意見への反論でも、伝えたい主張でも、用件でも日頃のブツブツ癖の割には『りろ整然』には弱く、相手が判るように表現できず大切なポイントを抜かしたりと不甲斐なさが募る」などと謙遜して書いていらっしゃるけれど、なかなかどうして。ブログというより随筆集のような趣で、幼少期に沖縄戦をくぐり、戦後の復興期を生き抜いてきた1人のウチナンチュの心のひだを時折垣間見る気にさせられます。
「正直いえば吾輩は『日本語』のまえにウチナー語の環境でそだった。ですから標準語は第二国語」と書いています。3才ほど年が下の妻に聞くと、やはり同じような環境だったとのこと。
それが戦後教育の中で、強制的に「日本語(標準語)」教育がすすめられ、「方言」追放運動とかで「方言札」まで首から掛けさせられたという、今から見れば言語の暴力が学校を席巻したのでした。
現在では、若い教師たちもウチナーグチが話せなくて、年配者が学校に出掛けて子ども達に教えているのだとか。言葉は生活の一部です。地道な努力が少しずつでも実ってくれるように願わずにいられません。
義兄のブログでは、「かわをむく」が実に興味深い。とんちんかんだが背景を知れば「あはは」の後にはほろ苦い哀切の気持ちにさせられるのです。
「このブログ読まれるヤマトンチュには可笑しいのかなー、或いは面白いのかなー?」という問いがありましたけれど、面白いと言うより、いろいろと考えさせれているというのが正直な気持ちでしょうか。

私自身は子どものころから時分が育った富山での富山弁がいやでたまらなかった。何がと言われて、「が」「ちゃ」の多いしゃべりコトバの語感が私には「音感」としてなじめなかったのかもしれません。富山弁コンプレックスは東京への憧れの裏返しかというと、私自身は決してそんなつもりはなかった。
実際、富山のコトバより祖母や母の加賀柏野や松任のコトバにずっとひかれていたのでした。でも実際にしゃべるのは富山弁とそのイントネーション。その狭間で、しゃべるコトバについては悩みも深かったのです。今にして思えば、自分では意識していないけれど、ラジオなどで聞く「コトバ」と比較していた節が大いにあります。この点、突っ込んで分析してみる価値がありそうですよ。
東京で生活するようになってから、自分では富山弁を克服しようとし、またしたつもりでも、いかに「育ちのコトバ」が骨肉に染みこんでいるかを日々教えられることになったのです。
今でも単に単語のイントネーションだけでなく、全体の抑揚といったことまで、やはり私は「越中人なんだな」と思わされ、苦笑いすることがあります。富山に帰ったりすれば、周りは富山弁オンリーですから、ああ故郷なんだなとしみじみ思わされることも多くなりました。これも年をとったということなんですかね。長く富山にいた妻は、安曇野にいても昔からの越中人のような言い回しをふつうにしていますから立派です。

越中訛りなどは標準語からいくらかずれているだけですから、フツウの生活の中ではたいしたことではありません。しかし、ウチナーグチはそういうわけにはいかない。琉球という特別の環境のなかで作り出してきた言語であり生活そのものですから、末永くウチナーグチを大事にしてほしい。
というわけで、義兄にはウチナーグチを含め沖縄のフツーの姿をもっと教えてほしいとお願いする次第です。



  11月29日(日)
今年はエルニーニョ現象が本格的で「暖冬」になるという予報らしいのですが、実感はぜんぜんそんな感じじゃありませんね。暖かかったかと思うと突然寒くなり、1日でも寒暖の差が大きく、今朝などはエアコンなしでは過ごせないほど。
「暖冬」のときは、低気圧が太平洋側を通過することが多いので、太平洋側でドカ雪になる恐れもあるのだとか。そうなれば、大町より池田の方が雪が多いということもあり得るわけで、これからは油断できません。
昨夜11時頃に「さあ寝よう」と妻に言ったら、カジマヤーの集合写真を親族に送る準備をしていた彼女は「え、早いじゃない?」と思いがけない返事。いつもパソコンに向かって12時、1時まで起きているという私のイメージがあり、しかも妻の方が先に布団に入っていることが多いためにそう言ったのでしょうか・・・。
「早く」寝たせいか、このごろの鼻づまりのせいか、今朝は5時頃に目が覚めてしまいました。外は零度近くになっているのでしょうか。
で、何をしていたかというと、昨夜ツイッター担当のKさんが送ってくれた埋め込みコードを「町民の会」のホームページに貼り付けて最後の仕上げをしていたという次第。まあ何とか見られるようにはなりましたかね。
ホームページやブログの技術だけではなく、フェイスブックやツイッターなどのSNSの発展には目を見張るものがあります。私などはとてもついていけません。それぞれ相互間の連携もかつてなくできるようになっているので、ネット上でのなかなかおもしろい情報発信ができるというわけです。それらの技術をすこしずつ教えてもらいながら習得できるようにしていくことにしましょう。

昨日は午後からボランティアの「こどもじゅく」にでかけました。新聞紙上での広報がきいたらしく、1ヶ月ほど前から通ってくる子どもの数が急に増えて定例の木曜日、土曜日には小学生・中学生で活気に満ちています。
昨日の担当したのは小6の子。図形は何とかなるけれど、分数計算が苦手中の苦手と言う。分数のかけ算・割り算が入ってくる文章題も宿題にどっさり出されているようで、困り顔をしていました。
分数計算だけはただ機械的に計算ルールを覚えてもダメで、意味がわからないと定着しない。やむなく、初歩からていねいに教えることにしました。本当に急がば回れなのです。「家で兄弟に教えてもらうより、よっぽどわかりやすい!」と言ってくれたのでホッとしました。
「じゅく」には信大の学生たちも何人か来てくれているので、子どもたちも嬉しそう。そりゃ「おじい、おばあ」ばっかりではね。
来週からは協立病院が一室を提供してくれることになったので、これまでよりうんと運営がしやすくなります。このまま、うまく発展してくれたらいいですね。子どもや親の居場所づくりにもなっているのですから。



  11月27日(金)
例年よりかなり早い寒波の襲来。いよいよ雪の季節です。昨年あたりから寒さが身にしみる身体となった私としては、来てほしくない寒気団ですが、季節はそんなことにお構いなくやってくる。
今朝はうっすらと雪が積もり、午後まで雪が降りしきって、山々は裾野まで白くなっていました。明日あたりからは冬型が強まって天気は回復するのではないかと思われますが・・・、寒い!




いやいや、htmlやcssコードを使わないで、Webでの無料サイトでホームページの作るのは実に難しい。
昨日から、ホームページ無料サイトのWix(本社イスラエルのテルアビブ)で作成し続けて、まだ未完成ながら何とか実験的に公開できるところまでこぎつけました。
「戦争法に反対する池田町民の会」ネット対策部の3人が手分けして、ホームページ、フェイスブック、ツイッターを作成しようと相談したのが22日。ほとんど間髪を入れず、Sさんがフェイスブックのページを完成。続いてKさんがツイッターのページを完成させて、私が一番出遅れてしまったのでした。
会のホームページだと思ってきてみたら、個人のページだったというのは何とも気味が悪いだろうというので、私のホームページに付属するのはやめて、独自の無料サイトでつくるというのが作成の前提。そうなると、いったいどうすればいいのか、私にはあまり経験がなかったので、あれこれ調べるところから始まり、アラブの「敵」イスラエルの会社というのも知らず、何となくよさそうだと思い、Wixで作成することにしたのでした。
さて、サイトを構築する段になって、とくにコードの知識は不要だけれど、ぺたぺた貼り付ける作業が意外と面倒。しかもpdfファイルをアップできない。テンプレートが全て英語というハンディを克服して、やっつけ仕事で2つのページを何とか仕上げました。
下に試作段階の3つのWebコンテンツを紹介します。12月1日の署名推進会議と担当者会議を経ていずれのサイトも正式に発足することになります。従ってご意見があれば是非お寄せください。

「戦争法に反対する池田町民の会」ホームページ http://nowar-ikeda.wix.com/news
フェイスブック https://www.facebook.com/sensouhouhantaiikeda/
ツイッター https://twitter.com/No_War_Ikeda

3人が相談しつつ連携し、それぞれの持ち味を生かしてネットで活躍するっていうのは、これまでなかったこと。署名を中心とするこれからの会の活動をサポートできるように頑張っていきましょう。

夕方からは、松本で開かれた「憲法九条を守り広げる松本地域連絡会」主催の「小林節講演会」に妻とともに出席しました。
小林教授の話はネット上で結構見聞きしていたので、話の内容はおおよそ見当がついていましたが、アドリブの多い方なので、そちらの方がおもしろかったかも。
会場は超満員で300人はいたでしょうか。彼の持論である、参議院で1人区の20議席を取ればねじれを作り出すことができるし政権交代の展望を開けるので、その声を広げようという訴えは、いままさに全国で広がりつつある声に励みを与えるもので、参加者に大きな共感を呼んでいたように思われました。



  11月24日(火)
土曜日には、知り合いから頼まれて近くの中学生の勉強のサポートをしているのですが、間もなく定期考査があって中学生たちは対策に追われていました。社会で憲法の学習をしていたので、資料を見ながら「憲法第99条を読んでごらん」といいながら「これを読んで何か感じない?」・・・。ま、そう言ってもすぐにはピンと来るわけではないと思って、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書いてあるけど、「憲法を守る義務があるのはこれだけ?君たち一般国民は守らなくてもいいの?」と質問した。
「ホントだね、なんでかなあ」と初めて見たような顔をしていた。そして、「オレらは偉い人じゃないから書いてないだけじゃない」とか「忘れたんじゃない」とかと最初言っていたけれど、「そもそも憲法って何だ」という話をひとくさりしたあと、「じゃ、もし天皇や国務大臣、裁判官、公務員が国民(=君たちのことだよ)に対してこの憲法を守る義務を負わせるというように、現在の憲法のあり方をひっくりかえしたら、いったいどうなる?」と聞くと、すかさず「独裁」という返事が。さすがスルドイ。わかっているんですね。「そこがこの憲法第99条の大事な意味なんだね」と念をおしたら、「あ、資料集のここに出てる」だって。それならそうと、ちゃんと読んでおけ。
「先生は憲法の前文を覚えさせられなかった?」と聞くので、「いや、そんな記憶はないなあ」と答えると不思議そうな顔をしていた。だいたい「公民」なんて授業なかったし、それどころか日露戦争での日本の戦果を本来の授業すっぽかして延々と大講義する教師がいたほどの「のんびり」した時代ですから。大町でもそうでしたが、今では、公民の授業でしっかりと前文を覚えさせているんですね。
学校で憲法の勉強をしっかりとしておくことは大事なこと。ただし、単に字句を覚えるだけではあまり意味がありません。憲法の最も重要なことをどう伝えるのか。教師たちの授業に期待しましょう。

ついこの間の新聞に、右派勢力が改憲をめざす国民運動を展開しつつあるというニュースが載りました。その皮切りとして開かれた「今こそ憲法改正を!1万人大会」の詳報をサンケイが嬉々として伝えています。それによれば「美しい日本の憲法をつくる国民の会」主催者の櫻井よしこ代表は「戦後70年の今、私たちは憲法改正の機は熟しつつある」と述べて、並々ならぬ決意を示していました。これにはアベ首相も「自民党総裁」の名でビデオメッセージを寄せたとのこと。「国務大臣の憲法遵守義務」なんてどこ吹く風ですね。こんな大切なことが、この国では全く問題にもならない。
「しんぶん赤旗」によれば、「国民の会」の支部が全都道府県につくられ、それを国民運動の母体にするということらしい。彼らの「本気度」が伝わってきます。
まっさきに狙われるのは地方議会での憲法改正決議。おそらくこれからあらゆる機会に、どの自治体でも請願・陳情が行われるのではないかと予測されます。
そして、私たちの「9条守れ署名」や「戦争法廃止2000万署名」の向こうを張って、すでに「改憲賛同国民署名445万人余」を集めたというのですから、今後さらに「草の根」で(実は業界団体や各種団体などを使って)集めていくだろうことも容易に察しがつく。
従って、私たちの日本国憲法に対するとらえ方も、これまでのように表の顔とウラの顔、大義名分と実際の姿という使い分けではなく、日本国憲法の内実そのものをたたかい取る大戦略をかかげ、同じものでも改めて作り直すくらいの気構えで向かわなければならないと思うのです。
憲法を水戸黄門の印籠に堕してはならない。何の力にもならない。中身を開けてみればカラッポなんてのはシャレにもなりませんから。
現在、戦争法に見られるように、憲法を蹂躙しても痛痒すら感じない勢力に憲法を語る資格はありません。彼らはむしろ憲法を壊し自ら求めるものに近づけることを通して改憲の土台を作ろうとしているのですから、どんな小さな表れでも改憲につながる動きに対して私たちのビジョンを示して抗い続けることが必要です。
この国では、大阪に見られるように,都構想をいったんは否定しながら、「バージョンアップ」の目新しさと現職の強みに目を奪われて維新候補に票を投じるという有権者の「ゆれ」も見られますから、ある小さな出来事を境に劇的に改憲の方向に動くことだってあり得ないことではない。それほど政治とは「もろい」ものです。
ネット上での改憲右翼勢力の常軌を逸した「殴り書き」がますます力を得ているのも、そうした背景を持っていることに十分注意する必要があるでしょう。
もっぱらこの手の書き込みを職業的にやっている連中(まさしく「プロ市民」)が、たとえば辺野古に詰めかけるふつうの県民やや本土からの応援者を見てきたように「プロ市民」とやるのですから、お里も知れてお笑いぐさなのですが・・・。決してあなどってはいけません。たたかうのみです。



  11月23日(月)
富山にでかける直前、高速道路のETCカードをいつもしまっている引き出しから取り出そうとしたが。ない!
ETCカードばかりでなく、いっしょに置いてあったクレジットカードやANAカードもなくなっている。青くなって、時間がない中一生懸命に探したが一向に見つからないのです。
沖縄には、あらゆるカード類を持参していたために、こちらでは不要なカード類は区別してしまっておこうと思って、分別したところまでは覚えているのです。従って、それらを外に持ち出したことはあり得ない。
富山から帰ってからも、何度も探したけれど、結局は同じ。妻が心配して、「別の目で見たら見つかるかも」といいながら協力してくれたものの出てこなかった。
そして今日、畑に行って枝葉を燃やしたり追肥したりして家に帰る途中、妻が何気なく車のダッシュボードの奥にある封筒を見つけて「これ何?」。
まさかこんなところから出てくるなんて! 絶対に外には持ち出していないと確信して仏壇の中まで探しており、連休明けに再発行の手続きをしなければと覚悟していただけに、うれしさ半分、ショックも大きかったのです。本当に愕然としましたね。
勿論妻には感謝、感謝なのですが、自分のこととなれば、こりゃ認知症の始まりではないのか・・・。そう疑っても十分な出来事でした。大事なものをなぜこんなところに入れたのか我と我が身の精神状態が信じられずに、しばし動揺を隠すのに苦労した次第。
もっとも、過去にもこれとよく似たことは何度か経験しているのですが、カード類は初めてなので夢の中でも探していましたっけ。
妻は「(私だけでなく)あなたもこんな調子だから安心した」と妙な慰め方をしてくれていました。多分これからもしばしばこうしたこととつきあっていかなければならないわけで、むしろ「またか」と気楽にしていた方が精神上よろしいようです。おそまつ。

沖縄では、政府・防衛局側の横暴ぶりがますます加速しているようです。
第1は、数十トンもの大型ブロックを含むコンクリートブロックを県との事前協議なしで投入しようとしていること。「(防衛局の工事仕様書では)汚濁防止膜の固定には合計238個のブロックを使う」ためなのだそうです。
この背景には、翁長知事が「岩礁破砕許可を取り消さない」としたことから何でもできると防衛局は踏んでいるのではないかというのが北上田さんの説明。中には44d、57dもの巨大なコンクリートブロックが含まれているというのですから、大浦湾の珊瑚礁をずたずたにするようなものです。
第2は、海上で抗議行動をするカヌー隊にたいする海保の暴力行為と暴言の数々。海保に何度も海に沈められ溺れそうになったという証言や、転覆した抗議船に乗っていて意識を失い救急搬送された男性を気遣う仲間に「死んだら連絡する」と言ったという証言など、「過剰警備」の域を超えた暴力行為が常態化しているのです。琉球新報は怒りを込めて社説でこのことを告発しています。
第3は、辺野古とは反対側の本部半島沖に浮かぶ伊江島での米軍基地拡張計画。これは22日の「しんぶん赤旗」が報じました。
計画では、「米空軍特殊作戦機CV22オスプレイと、米海兵隊F35Bステルス戦闘機の訓練を行うため、強襲揚陸艦への離着陸訓練などを行う訓練場(LHDデッキ)を2倍以上に拡張する計画」(赤旗)というもの。(下の図も同紙)

伊江島といえば、沖縄戦では草木の一本も残らず、島の象徴ともいえる城山(タッチュウとも)の形が変わるほどの爆撃や砲撃を受けた島。戦後、米軍によって土地が取り上げられたことから、阿波根さんらの不屈の土地闘争が展開されたところです(実際の見聞録は今年7月17日にこのブログで書いています)。
政府は口を開けば「沖縄の負担軽減」とオーム返しに言いますが、実際は本土の基地と連動して基地の根本的な強化を行っているというのが現実の姿です。
沖縄蔑視・差別としかいいようのない出来事が、遠い本土からはほとんど見えない。遠い地だからということで、やりたい放題が許されていいはずがありません。
たとえば、こんな出来事はどうでしょう。来年の参議院選挙の日程について、政府自民党は6月23日公示ー7月10日投票と想定して調整しているのだという。6月23日がどんな日かを指摘された自民党幹部は「知らなかった」とうそぶいたといいます。「政治家ならよもや知らないはずはないと考えたいが、さもありなんとも思う」と沖縄タイムス社説は書いている。
目をこらして何が起こっているのかを知ることが必要です。



  11月22日(日)
金曜から土曜にかけて富山にでかけていたので更新が遅れてしまいました。
今回の富山行きの目的は、一周年を迎えた娘の美容室を訪問することと友人宅やしばらく会っていなかった妹宅や姪宅を訪問すること、さらに魚を仕入れてくることでした。
はじめに訪れた友人は、富山県の9条FC事務局長をしている元先輩同僚です。かつて沖縄にも一緒にでかけ珍道中をしてきたご夫婦で、懇意にしていただいている方。
世界史の教師だったこともあって近現代史について造詣が深く、今日の状況についての問題意識と分析では大学での研究者といえどかなわないのではないかと思うくらいの人です。機会をみて池田町でぜひ話をしてほしいと頼んだところ「本気か?」というので「大まじめ、本気」と言うと、車の運転は好きな方なので「行ってもいい」と快く返事をしていただきました。さしあたり「世界史の中の憲法9条と安倍内閣」といった内容で、講義をしていただければ嬉しいと思っています。いつ実現できますかね。

妹宅に寄ったあとで娘の美容室へ。それなりに固定客もついて忙しく働いていると言っていましたから一安心です。旦那とご両親は自宅で理容店を営んでいるので、朝から晩までバタバタと忙しさ続き。それでも私たちが行くと気さくに対応してもらえるので、いつも一晩泊めていただいて大変ありがたい。本当に感謝です。(写真下は娘の美容室、次が仕事中の理容店)




昨日は、朝早くに出て今度は姪のお宅へ。弟(故人)夫婦の娘で、つい最近第二子が誕生したので顔を見に行ったのです。私はずいぶん姪には会っていなかったために、今度は是非にと思い出掛けたのでした。
住まいは、母が暮らし、さらに私たちも長い間住んでいた土地の近く。メインの通りは昔の面影もありませんでしたが、奥まったところは年月は感じましたがあまり変わってはおらず、懐かしい町並みのたたずまいでした。


さて、1日たって今日。午後から戦争法反対のスタンディング宣伝行動。いつものビッグ前で10人ほどが集まって買い物客や通行者に戦争法反対をアピールしました。
これから毎月第3日曜日に固定して宣伝行動を行います。地味だけれど、声を上げているということ自体が重要なので、続けることに意味があります。ただ、宣伝用の看板が車に乗せて運ぶ途中に風圧で弱い部分で真っ二つに折れて壊れてしまいました。修復できるかどうか微妙なので全く残念です。





  11月18日(水)
翁長知事の辺野古埋め立て承認取り消しを違法として、知事権限すべてを奪う代執行訴訟を国が福岡高裁那覇支部に提訴しました。政府によるこの乱暴狼藉を何にたとえればいいのか。
翁長知事は「県民にとって『銃剣とブルドーザー』による強制接収を思い起こさせるものだ」と記者会見で述べましたが、おそらく翁長知事に票を入れた沖縄県民の共通の思いではないでしょうか。知事は「政府の対応は沖縄差別の表れであり、法の下の平等の原則に反する」とも述べていますが、確かに過去に沖縄県民が被ってきた暴力的・差別的な扱いを現代によみがえらせるものです。それゆえ、これは沖縄県民と本土政府との対決という次元の問題ではなく、この国の地方自治のあり方、民主主義のありかたそのものを問うすぐれて憲法上の問題なのです。
「本土」の人々がこの政府のやり方に対して傍観者的であったり、政府のやり方に暗黙の了解を与えるようなことがあれば、結局は自公政権の暴力的・排他的・差別的な行為を認めたことになる。そしてそれはそのまま自らにはね返ってくる、そう思わざるを得ません。
差別する側は、大抵の場合それを「差別」とは思わない。まして安全保障上の問題であれば、政府の言い分にも理があるのではないかと思わされてしまう。しかしそれはとんでもない思い違いです。
私は、国による「代執行」というファッショ的な強権発動を絶対に認めるわけにはいきません。同時に、「本土」において、沖縄県民と連帯して辺野古に新基地を造らせないたたかいを格段に強めなければならないと思わされています。

何度も沖縄と行き来して、つくづく思うのですが、「本土」の住民の沖縄への認識は驚くほど低い。実態を知らされていません。常夏の観光地、きれいな海を持つ珊瑚礁の島々、たくさんの米軍基地が置かれているが日本防衛には必要・・・という程度か。
しかし、本土資本によって沖縄の海がどれほど汚され、破壊されてきたかをほとんどは認識しません。独立した琉球王国が薩摩によって侵略されて「日本」に編入されてからの沖縄県実の暮らしの実情、悲惨な沖縄戦の実態、戦後の米軍支配による貧困の蓄積という実態もほとんど知られていません。また、米軍基地の存在によって、どれだけ騒音や米兵の犯罪で県民の人権が侵害されているのかについても同様です。「本土」の意識としては、沖縄はあいかわらず遠いところにある異境なのです。
もし、私が沖縄出身の妻と出会わなければ、多分そうした実態を「知らない」一員であったかもしれないという自戒を込めて、もちろんこれを書いてはいるのす。だからこそ、是非ともこころある皆さんには、一度沖縄を訪れ、観光コースではない生の沖縄県の実情に触れ、自らの5感をフル動員して考えていただけたら嬉しい。

私にはここ数年抱き続けていた1つの構想がありました。現在の生活では、あまりにも乱暴な話で私だけの勝手な思いでしたし、実現性もはなはだ怪しいものでしたから、このブログ上ではほんの時たまその片鱗を吐露するだけでした。
その構想とは「沖縄への一時移住」することです。実は、今月初めに沖縄に出掛けた際に、かねて打診していた方から「一軒家を貸してもよい」という前向きのお返事をもらうことができたのです。具体的にいつからということが決まったわけでもないし、第一、経済的な事情から向こうで生活できるかどうかも甚だ怪しいのですから、いまのところはあくまで私の「思い」に留まっています。だから「もう沖縄に行っちゃうらしい」とか、「池田が嫌になったらしい」などという尾ひれの付いた「噂話」にはどうかしないでくださいね。
とはいえ、口では沖縄での生活について結構いろんな人に話しているものだから、先日もある方から「ちまたのウラ情報では沖縄に行ってしまうっていうじゃないかい」と聞かれてしまい、いやいやそこまで広がっているのかと、嬉しいようなこそばゆいような感覚にとらわれてしまいました。
「このまま池田に居続けることになった」などと構想の挫折を表明すれば、バラの会のみなさんなどは「万歳!」と喜んでくれるかもしれませんけれど、あんまりカッコいい話にはなりませんからね。私としては、どうしたらいいのか、あと一年ほどかけて考えてじっくり考えたいと思っています。それはもう考えれば考えるほど困難がいろいろと増えてきますから。

ホントのところ、「沖縄一時移住」はと言ってみたところで構想にもなりません。「じゃ、沖縄で何するの?」ですからね。
これまで考えてきた第1は、「本土=沖縄」の架け橋の役目。沖縄を訪れようという人にとって、ホテル・民宿という宿泊は一時的にはいいとしても、結構費用がかかります。ましてヤンバルの地、辺野古や高江に行こうとすれば、時間的にも経済的にも負担です。そうした人たちに宿と案内が提供できて、しかも交流できる場がつくれたらいいなということです。
第2は、まだ健在で1人で生活している義母の最晩年を、ともに過ごしたいという気持ちですかね。妻がいつでも世話をしに行ける条件をつくっておけたら悔いを残さずに済みます。妻にとっては若い頃からほとんどいっしょにいることもなかった母のもとで残り少ない日々をともに過ごせたら、家族の絆ももっと深まるでしょうから。
そして第3は、情報の発信。現在ではいろんな人がいろんな立場で懸命に沖縄の問題をリアルタイムで発信してくれています。しかし、まだまだ足りない。本土=沖縄という双方向での情報の発信と共有はどれだけあってもいいのですから。
というわけで、今回の政府による「代執行裁判」のニュースは、私もいよいよ腹を据えて沖縄問題にとりくむときがきたのかな、私なりの最後の挑戦を始めてもいいのかなという気持ちを「後押し」してくれたことは間違いがない。アベちゃんに感謝しなくっちゃ。



  11月17日(火)
軽トラパレードをいっしょに取り組んだご近所の青年の紹介で,夕方松本のある地区で開かれた学習会に参加しました。
「平和を守る岡田の会」「平和を守る本郷の会」の共催で開かれたもので、中国近現代史が専門の久保享信州大学教授がの「安保法制と『中国脅威論』」と題して講演しました。
会場には年配の方々を中心に50〜60名ほどが参加し、満席の盛況ぶり。第2回目の学習会ということらしく真剣に学ぼうとする雰囲気であふれていたのが心地よかった。人の多い松本まで来ると、池田とはまたちょっと違った雰囲気がありますね。

久保先生の講演で印象に残ったことを列挙すると次のようになります。
まず今日の国際情勢の見方について、「力の均衡論」にしがみつく勢力はいまだに根強く残っているが、戦後70年の情勢の基本は国家間の紛争の「話し合いによる解決」であることに注意することが肝要。たとえば、教皇仲介で交渉2年の末のアメリカ・キューバの国交復交(2015.7.20)。韓国・北朝鮮間の新合意(2015.7.20)、欧米とイランの核開発合意(2015.7.14)、中国・ロシア間の交渉40年の末の国境交渉妥結(2004.10.15)など。反対に、地域紛争とテロは軍事力では解決できずにいることが今世紀初めの特徴だという点。
第2に、日中関係について1980年代からの推移を見ると、常に日本政府の動きに対して中国側からの批判が高まって関係悪化が進んでいる。
日本政府に対する中国の批判は、尖閣問題以外は常に日中戦争がらみであること。それに対して日本の対中イメージの悪化は中国の社会問題が中心となっていること。
さらに、日中間の問題を考える際に、過去の戦争は常に中国周辺と中国国内で展開され、日本は加害者である視点をわすれてはならない。中国側の被害者意識の強さにくらべて、日本側のあまりに弱い加害者意識は大きな問題であること。
第3に、日中双方の現状と問題点では、中国脅威論者は中国軍の軍備増大をしきりに強調するが、とくに海空軍はいまだに弱体であること。しかし、中国軍は共産党の軍隊であり、広い中国の中では必ずしも指揮系統がきっちりしない面もあって、出先が突っ走ることもありうる。双方が軍拡競争に陥ることは最悪の選択で、安保法制はまさにそれにつながる危険をはらむものだ。
第4に、日中戦争で勝者のはずの国民党軍が共産党軍に敗北して台湾に政権をつくったことや、その直後の冷戦の開始などの混乱から、戦争被害の全容解明がすすまず、戦後賠償問題も棚上げにされたことなどが今日の日中関係に影響を与えている。
今後、政府、民間などあらゆるレベルで相互理解の努力を積み重ね、紛争を平和的に解決する努力を続けることで、今日の複雑な状況を乗り越えるべきである・・・・。

久保先生が指摘されるように、「中国脅威論」は現在の中国国内で起こっている否定的な現象によって加速されている面があります。中国の理不尽な大国主義的・覇権主義的な行為には厳しい批判の目を向けていかなければならないことは当然です。
それにしても、自分の姿形に似せてしか相手を見ることができないのは、この国の人々の習い性なのでしょうか。日本が過去に中国で何をしたのかには頬被りして中国の脅威を云々するおかしさ。
そうかと思うと、政府がTPPや辺野古新基地建設でアメリカに唯々諾々として従っても、アメリカ脅威論はマスメディアなどには一向に出てくる気配がない。こっちの方がよほど実害があり、この国の未来をふさいでしまう現実的な危険をはらんでいるというのに。



  11月16日(月)
「戦争法案に反対する池田町民の会」を結成したのが今年の6月23日。国会開会中、「町民の会」は小さな町ながらいろんなことをやってきましたが、9月後半以降はちょっと一服状態。もちろん「呼びかけ人会儀」や事務局会議を開いて今後の活動のあり方はいろいろと検討はしてきていました。
全国的には、戦争法廃止を求める運動の勢いは全く衰えず集会やデモなどが相次いで行われ、野党の選挙共闘を要求する若者たちの動きも活発です。
私たちの会も、そろそろ本腰を入れて活動に取りかからなければならない時期。今日は、久々に大看板の付け替えを行いました。9月後半に一旦取り外した看板のうち、続けて立ててもよいという許可を得た3カ所に、「法案」を「法制」と書き直して据え付けたという次第。
大看板をとりはずしてしまうのは惜しいというかなり多くの声に励まされ、前の看板を生かして(戦争法案の「法案」を「法制」に変えただけ・・・ちょっと安易ですけど)復活したのでした。これを1つの勢いとして、これからの最重要課題は、全国2000万統一署名の成功をめざすということになります。
そのために、12月1日に署名推進会議を招集して、池田町での目標2000名の署名活動にとりかかります。11月いっぱいは、チラシや呼びかけ、宣伝行動などに使う資材の準備。何ヶ月かは、腹を決めてやり抜かなければなりません。




パリでのテロ活動が今後も続くのではないかという予測が語られていますけれど、IS側から見れば声明の通り「幕開け」にすぎないということでしょう。もちろんそんなことを許せるはずもありません。
桝添都知事が「東京でのテロの可能性も視野に対策を」と話していました。どこまでもアメリカに追随して「有志連合」に加担するなら、単にISなどの標的になるだけではなく、日本が他国での加害者となる可能性を飛躍的に高めることになります。
安倍政権に、外交的な手段で紛争を解決したり、他国の紛争解決への平和的手段でのかかわりを期待することは全くできない以上、それに変わる勢力の力を高める以外にありません。先に述べた「戦争法廃止」の全国統一署名は、それを展望する意味で、地味だが強力なパワーを秘めた活動としての重要な意義をもつ。
日本においてテロを根本的に(!)防ぐのは、監視社会にすることでも、軍事力を高めることでもない。ひとり1人の政治的自覚にもとづいた「9条政権」(私の造語=憲法9条を守り生かす政権)への歩みでしかありません。



  11月15日(日)
フランスでのテロ事件について、時間が経つにつれてその規模の大きさや残忍さ、背景などが次第に明らかにされています。
摘みのない民間人々をターゲットに虐殺行為を行うこの手のテロにどんな理屈も通るわけがありません。129人にのぼる犠牲者には、深く深く哀悼の意を表します。
この同時多発テロはISを含む複数のグループによる犯行との見方があり、フランスのISへの空爆開始直後から狙われていたと思われます。
次はニューヨークタイムスが配信する動画です。


この蛮行をテレビ報道で見ながら、どんな言葉も無力ではないかと思われてしまいます。だがいつまでもそうしているわけにはいきません。それぞれがこの事件について情報をあつめ、しっかり考え、自国の政府の動きをよく見ておかなければならないと思うのです。

フランスのオランド大統領は「周到に準備された戦争行為」と述べたと伝えられます。だがそれはテロの実行部隊からすればまさに思うつぼでしょう。欧米諸国を恐れさせ、ISなどイスラム過激派の存在感と「ジハードの正当性」を世界に知らしめたいわけだし、「戦争行為による混乱」こそが彼らの生きる場所だからです。
日本のテレビ各社でも現地の模様がくりかえし放映されており、TBS系列では朝のサンデーモーニングで詳しく報道しており、分析の視点も多面的で優れた討論になっていたと思いました。

フランスでの事件の映像を見ていると、つい3.11テロとその直後のアメリカ政府、日本政府の対応を思い出さないわけにはいきません。ブッシュは「アメリカに対する戦争だ」といい、大量破壊兵器を隠し持っているとしてイラク侵略に手を染めていったのでした。
当時の小泉首相は何のためらいもなく、アメリカへの支持を表明し、新たな法律(テロ特措法)までつくって米軍支援活動(海上自衛隊によるレーダー支援や、補給艦による米海軍艦艇などへの給油等)に乗り出したこともまだ記憶に残っていることです。
しかし、これがいまやイラクを破綻国家にし、イラク・シリアにまたがってISなどの跋扈をもたらし、テロを世界に拡散したもともとの原因となったことは折に触れて指摘されている通りです(今日のサンデーモーニングでの寺島実郎さんがくりかえしそのことを強調していた)。
そして、暴力による報復は、たとえば1人のテロリストの殺害が10人の新しいテロリストを生み出すといわれるように、際限のない「報復合戦」と世界中への暴力の拡散にしかならないことも、3.11の教訓としてつとに指摘されてきたことでした。
ところがいままたターゲットとされたフランスやイギリス、ロシアなどによって、さらなる暴力(軍事力)での「解決」が目論まれています。
日本でも、戦争法の成立でアメリカから「後方支援」要請があれば容易に自衛隊を派遣できることになるし、安倍首相なら喜んでそれに応ずるでしょう。とすれば、日本もまた常にISなどの標的になるということです。現実の脅威が、私の、あなたの隣に迫りつつあるということです。

3.11のあと、坂本龍一さん監修の「非戦」(幻冬舎)という分厚い本が出版されました。3.11前後のさまざまな論考を集めたものですが、そこに貫かれているのは「暴力の連鎖を断ち、非戦に希望を見いだそう」という主張でした。
それらの論考で、すでにこれからの私たちの進むべき道が示唆されているのですが、この国の支配層も世界の指導的立場の人々も、結局は「テロ行為犯罪者」を「戦争遂行者」とすりかえて、どうにも「戦争」をしたいらしい。その果てに、自国の、これまた際限のない監視社会化と異質の排除という底なし沼に落ち込んでいく。
軍事力の行使をやめるべきだという主張に対しては必ず「そんなきれい事でテロがなくなるなら、とうの昔になくなっている。そんなことをいうのは腰抜けだけだ」と戦前の日本軍さがらの「勇ましい声」が聞こえてきます。果たしてそうでしょうか。
この国で、アメリカの軍事支配下での暴力、暴行、人権侵害に対して、あくまで非暴力で立ち向かい、いまなお共犯者の日本政府とも戦い続けているのが沖縄県民です。アメリカ軍にテロで立ち向かったことなど一度もない。そのような組織もない。歴史も経過も全く異なるけれど、私はそこに人間としての勇気と無限の可能性を見るのです。
次は「非戦」に載せられた2001年9月22日付けの坂本さんの文章の一節です。私は坂本さんの発言に最大の共感を表明します。

ぼくは思う。暴力は暴力の連鎖しか生まない。報復をすればさらに凶悪なテロの被害が、アメリカ人だけでばく世界中の人間に及ぶことになろう。巨大な破壊力を持ってしまった人類は、パンドラの箱を開けてはいけない。本当の勇気とは報復しないことではないか。暴力の連鎖を断ちきることではないか。



  11月13日(金)
13日の金曜日は、私の亡き母の月命日にあたります。欧米的には「不吉な日」ということになるのでしょうが、いかにも覚えやすい 日であることはまちがいない。いつもは考えない母のことも父のことも少しは思い起こしてみようと思っています。

さて、例の戦争法案反対の全国的なたたかいが高揚した9月からすでに2ヶ月が経過しました。池田町では、この間、いくつかの会儀やスタンディング宣伝は行ったものの具体的な行動としてはたいして進めてきたわけではありません。何となく一服というか終わったことという雰囲気がないわけではありません。
しかし、そんな雰囲気は見かけだけのもの、有権者の意識の深いところでは現状への危機意識や不満が積もっているし、主体的な取り組み次第で、これまでとはまた違った形で政治的な動きを作り出すことができます。
その1つのとりくみは、「総がかり行動実行委員会」が提起する全国2000万人署名であり、もう一つは日本共産党の提起する「国民連合政府」(仮称)に呼応した参議院選挙に向けた戦争法勢力への審判です。


今日開いた「戦争法に反対する池田町民の会」の事務局会議では、先の「呼びかけ人会儀」の決定事項に基づいて、署名活動の具体化やその他の課題についての取り組み方を協議し方向付けました。
その中でも、これから重要な柱になるのが2000万人署名。池田町では町民2000人目標の大運動になります。それを成功裏に進めるために、町民の会署名推進委員会を立ち上げて全町民的なとりくみにすることを決めました。署名に限定した委員会ですが、他の取り組みとも結合して総合的にすすめることが必要になります。その事務局での責任者を私が務めることになりました。
12月はじめには推進会議を開いて意思統一し、大々的に署名活動を推進させようと考えています。というわけで、署名活動の最終目標日である来年4月25日まで、しばらくの間我が全精力を費やすつもりです。
11月月中に署名推進のためのWebコンテンツを私のホームページに付属させてつくるつもりですので、フェイスブック、ツイッターその他Web関連のリンクを多数貼り付けてもらえるよう、ご協力をお願いいたします。

ところで共産党の提唱する「国民連合政府」構想について、各界各層から歓迎の声が大きく上がっているのですが、商業新聞レベルではあまり報じられることがないので一般にはあまり知られていないかもしれません。
安倍政権の菅官房長官に至っては、「選挙目当て」と言い、「共産党は『日米安保条約は破棄せよ』『自衛隊は解散』などと主張してきた。国民にどう説明するのか」などと批判したと伝えられ、自分たちの姿に似せてしかものを考えられない「知性の貧困」をさらけ出したのは記憶に新しい。要するに共産党提案の真意を何一つ理解不能だということです。それは相手の民主党についても部分的には言えることで、現在の段階では「選挙協力は困難」などと「選挙強力」のレベルでしかとらえられないことを示しています。
しかし、さまざまな弱点をかかえる民主党ではあっても、安倍政権による立憲主義破壊、憲法無視の暴挙に対して最後まで抵抗し野党共闘を守って戦い抜いたこと。これは地域レベルでも同様です。その経験をどう総括し選挙に生かすのかが真剣に問われていると言えるでしょう。有権者はどの動向をしっかりと見守っている。
菅の言いたいことをストレートに全面にでて応援しているのがサンケイ新聞。たとえば次の記事をみれば、彼ら自身もやはり自分たちの姿形に似せてしか相手を見ることができないことを示しています。沖縄での「島ぐるみ会儀」の選挙のたたかいからも何一つ学んでいない。学ぶ気もない。それ以上に、野党を分断し自民党・財界を支えることが使命ですから、もともと彼らが共産党の提案や沖縄での経験を理解できるはずもないのです。地域からそれを乗り越える大きな運動を作りあげて、彼らの政治的見識の貧しさ・低劣さに痛打を与えることが唯一の返答です。

これに比して、ときどき紹介してきた「安曇野賛歌」の北林あずみさんのコメントは正鵠を射ている。「『里山主義』を唱えている保守主義者」を自認し、必ずしも共産党の綱領に全面的な賛意を表してはいない氏が、戦争法反対のたたかいやその直後からの共産党の提案に全面的な共感と同意を示しているのは、氏の提案への理解の深さとともに、まさにその提案の持つ道理と国民的な大義の正しさを証明するものであると私には思えます。ぜひ一読されることをお勧めします。



  11月12日(木)
バラの会の定例作業日。11月も中旬に入って、年内の作業はあと2回を残すのみとなりました。12月末に落ち葉を集めて堆肥作りをすれば年度内の作業はすべて終わり、あとは2月上旬の総会を迎えるだけ。
今日(来週も)の作業は、2年前に仕込んだ堆肥をたっぷりと施して冬越しの準備です。集まった人数は8名とちょっと少なくて寂しかったのですが、みんな堆肥を運んだりバラの株の回りにすき込んだりして汗を流しました。
このバラの会の発足は2010年7月、開園が2011年7月でしたから、発足からまる5年余りが過ぎたことになります。草にかなり覆われ、仕切りの木材も敷き詰めたチップ材も古びてしまい、オープニングセレモニー当時の初々しさはありませんが、バラは大きくなり6月には見違えるように花を咲かせてくれています。


2011年7月オープニング


今日の作業の様子

メンバーは毎週木曜日には特に都合が悪くなければ必ず集まって、ワイワイガヤガヤと自由に楽しくやっています。来るも来ないも自由で、全くの自発性のみ。しかし、ひとたび集まれば、持ち寄ったお菓子や果物、お茶請けの漬け物などを囲んでおしゃべりに時間を忘れますから、その自由さが魅力になっているのかもしれませんね。
土地の契約期間は10年なので、ちょうど折り返し点を過ぎたところ。あと5年間どのように発展させるのか、とくにバラの管理(消毒、施肥など)と敷地全体の構想を今一度しっかり見直さなければならない時期に来ています。

沖縄辺野古では沖縄防衛局の海上作業(ボーリング調査)が再開され、陸上部でも作業が本格的になっているようで、全く腹立たしい限りです。
現地の新聞によれば、昨日は早朝から市民500人以上が集まって機動隊を押し返す場面もあったと報じられていました。
リーダーの山城さんの話として、機動隊を押し返したのは座り込み以来初めてのことで、「市民が結集すればできることが証明された。暴力的なことはせず、座り抜いて闘おう」と決意を語ったとのこと。すでに7月から、いかにして常時300人から500人くらいの県民を座り込みテント前に集めるかが課題であり、その策を練っているという話が出ていましたから、これから翁長知事を支える取り組みとともに、現地での直接抗議行動が本当に大切になってくるでしょう。
沖縄タイムスは、仲井眞前知事が9日夜にBSフジの生放送番組「プライムニュース」に出演して、またまた放言を吐いたことを報じていました。
新基地建設をめぐって「(沖縄県と国が法廷で争うことは)論外。ある程度予測できたはず。対立のための対立、プロパガンダ的、パフォーマンス的でこれだと基地問題を解決できない」と述べたとか。
彼にして「宜(むべ)なるかな」ですが、この発言が示すのは仲井眞氏が県民によって何故に落選させられたのかを全く理解しようとせず、裏切り後の心情をさらに拡大再生産し、自らを合理化するために政府の「プロパガンダマシーン」となり果てていることを白状しているということです。もはや、彼がいる場所は沖縄県のどこにも存在しないと知るべきでしょうね。
辺野古新基地を阻止するためのたたかいは、沖縄県民であるかそうでないかによって異なることはありません。むしろ、「本土」側の運動こそがアベを追い詰めていく決定的な力になる。そのように運動を強めなければなりません。もしそうでないなら、そう遠くない時期に「本土」側が沖縄県民にむしろ見放されることにすらなる。



  11月10日(火)
今日は「いいトイレの日」なんだそうで、せっかくですからトイレ掃除を入念に行いました。寝てばかりでは妻に申し訳ないので、少し早く起きて他の掃除も。
何でも語呂合わせで「何とかの日」をつくればいいってもんじゃないんですけどね。さしずめ11月22日は「いい夫婦」ということになるのでしょうか。”ニアミス”で結婚記念日ですから、盛大にお祝いすることにしましょうか。

北アルプスはカラマツの紅葉なのか麓がすっかり黄色くなっていました。ということは、雲に隠れた山頂はかなり白くなっているのではないのかな。ただ気温が高いのでそれほどでもないのかも。
このところの雨と暖かさとで、庭の野菜はグンと大きくなってきました。小松菜、葉大根がちょうど食べ頃。柔らかくておひたしや味噌汁には最適です。畑のネギもずいぶん太くなっていまが旬。焼いて食べると実にうまいのです。
食べてばかりではいけませんから、昨日から雨の晴れ間を見て、4月から5月に収穫できるエンドウ(フツウのエンドウとスナップエンドウ)を撒きました。これまでは春に撒いていたのでうまくいかなかったのに懲りて、今度は晩秋に撒いてみることに。たくさんできるとうれしいですね。




今日の毎日新聞11面、「論争の戦後70年」(第18回沖縄戦記録と記憶)は、摩文仁の丘のさまざまな施設(慰霊碑、平和の礎など)をめぐって沖縄県民と本土の視線の相違を的確に指摘していました。私自身が過去に同じ場所をめぐって見たこと、教えられたことが深められているのを読んでうれしくなったのでした。
実は、先日の沖縄行きの際も息子夫婦を連れて摩文仁まで行ったのでしたが、巡回車で各県の碑がならんでいるところをざっとみただけでしたから、結局は何一つ学ぶことはありませんでした。時間があれば、この場所はどんな歴史を持っているのか、戦没者を慰霊するとはどういうことなのか、その仕方はどうあるべきなのかなどにもっと思いを寄せられるはず。息子たちには、今度は時間をとって来ようねと話して終わらざるを得なかったことが残念でした。

沖縄県南部の摩文仁の丘は、沖縄戦末期に日本軍と住民が米軍によって追い詰められ、沖縄守備隊の牛島司令長官と長勇参謀長が無責任にも「以後は各自で戦え」(爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ)と言い残してこの碑の下にある壕で自殺したところ。牛島中将を祀る碑「黎明之塔」が最も高い場所に広く建てられていることに、沖縄県民なら強い不快感と違和感をいだくはずです。


写真は2012年に友人たちと訪れたときのもの

この碑につづく道の脇にはあたかも参道を飾るかのように32基の各都道府県の碑が建ち並んでいるのです。毎日新聞の記事は次のように記しています。

碑の多くは1960年代に建てられた。しかし、最近刊行された福間良明・立命館大学教授(歴史社会学)の「『戦跡』の戦後史」によれば、60年代末、摩文仁の各県碑に対し、沖縄側の不快感が噴出する。華美を競うかのように慰霊碑が林立し、本土から半ば観光気分の慰霊団がやってくる。そのことに反発する議論や論調。沖縄戦の象徴の地、摩文仁の丘に、現地の沖縄からはあまり歓迎されない一角が生まれてしまったのである。

では、現在はどうか。この記事は続けて、「非常に違和感を覚える」と述べる歴史家の大城將保さんの言葉を紹介しています。その発言の趣旨はこうです。
@この牛島中将の碑を中心とした霊域が政府の補助で造られ、沖縄戦を知らない人たちが戦跡の中心を魂魄の塔から摩文仁の丘の霊域に移してしまった。従って、沖縄県民から言えばこれは「靖国神社の沖縄版」である。
A沖縄戦の異例の原点は「魂魄の塔」しかない。46年に軍民の別なく米兵も含めて3万5千人の遺骨がこの塔に納められた。その精神が、平和記念公園の中心部に沖縄県によって建設された「平和の礎」につながっている。
各県の碑は軍人軍属のみの慰霊であり、場合によっては沖縄戦以外の戦没者の方が多い碑さえある。しかし、平和の礎には沖縄戦で一家全滅し名前さえわからない子どもたちも、その通りの記載されているのです。沖縄戦とは何であったのか、何をもたらしたのか、その碑に刻まれた一家全滅の「名もなき名前」は何を訴えるのか・・・。
碑の建設に深く関わったこのような大城さんの言葉には大変重いものがあります。
下の写真はこれまで沖縄で私が撮影したものです。


魂魄の塔


宇野精一さんによる魂魄の塔の解説


平和の礎に刻まれた名もなき子たち

沖縄県の南部地域には、いまなお全員が死亡した家の敷地がそのままになっている場所があります。毎日新聞のこの記事の終わりには、このことに関連して批評家の仲里功さんの言葉が紹介(「」内)されていました。

「各県の慰霊塔には、僕も非常に違和感がある」と仲里さんも言い、その対極にあるものとして、くしくも一家全滅の家をあげた。戦後70年たった今も全滅した家の屋敷跡があり、コンクリートブロックの囲いや香炉だけが残っていたりするのだ。
「華々しい慰霊の塔にはないものがある。戦争の実態が何であるかを人々に喚起するのではないか。整理された碑の場合、どうしても制度的な鎮魂になり、生きている人たちの都合が投影される。でも、全滅の屋敷跡やガマの暗闇には、生きている人が投影できないものがまぎれもなくある」



一家全滅の家の敷地(白い家の前の空き地) 祠だけが建っている。

この記事は最後に、摩文仁の丘ではなく嘉数高台に建てられた「異色」の「京都の塔」の碑文に言及しています。
実際に碑文を比較しながら歩いてみると分かるとおり、各県の多くの碑文は「遠く南の海の果てに散った英霊」とか「今日の繁栄の礎を築いた英霊」などとあの戦争を美化し、いかに国家に尽くしたかという観点でしか書かれていません。その中で京都の碑だけは、「・・・多くの沖縄住民も運命を倶(とも)にされたことは誠に哀惜に絶へない」としているのです。
先の「違和感」は、単に牛島中将を中心に碑が建立されているだけではなく、こうした碑文のあり方と都道府県のこの地の位置づけに深く関わっています。
私もこのことを知らなければ、フツウの観光客同様に、「こんなに沢山の碑がたてられてすごいな」というレベルでおそらく終わっていたことでしょう。こうしたことを知れば、摩文仁の丘を訪れたときの感想はずいぶん違ったものになるはずです。



  11月9日(月)
沖縄での疲れからなのかどうか、このところ午前中ずっと身体がだるくて眠くて横になっていることが多い。今日も午後3時頃まで、妻がいろいろと家事をしている横でぐずぐずゴロゴロ。ほとんど夢うつつの状態でした。
昨日から雨模様になっていて、今日はこの時期としてはおかしいくらい暖かい。身体がついていっていないのかもしれません。
腰の痛みを解決するには「水泳がいいじゃないの、行ってみたら?」と妻の助言。気合いが足りないのか、出掛けること自体が億劫になっています。もうしばらく様子をみることにしますか。

昨日までの私の仕事ときたら、収穫し乾燥した落花生の皮むき(豆はその後さらに乾燥して油で揚げる)、小豆の選別、ギンナンの処理などでした。
いずれも、根気だけの単純作業ですから、フツウは早晩嫌になるような仕事なのですが、私には、時間はともかく根気強く仕事をすることが嫌ではなく、つくづく性分だなと思ってしまいます。
血液型なのかどうだか、それぞれ向き不向きってのもあるでしょうから、べつに善し悪しを言っているわけではありません。そうやって世の中は回っていくんでしょうね。

沖縄県知事の辺野古埋め立て承認取り消しに対して、今度は国交相が「承認取り消し処分の是正を指示」するという挙にでました。シュワブ前への警視庁機動隊百数十名派遣といい、今度の「是正指示」といい、言ってみれば国による沖縄県への「弱い者いじめ」そのものです。
今日の琉球新報は、元駐日米大使であるウォルター・モンデール氏(元副大統領)へのインタビュー記事を掲載し、次のように書いています。

モンデール氏は米軍普天間飛行場の移設先について「われわれは沖縄とは言っていない」と述べた上で「基地をどこに配置するのかを決めるのは日本政府でなければならない」との考えを示し、移設先は日本側による決定であることを強調した。
名護市辺野古移設計画については「日本政府が別の場所に配置すると決めれば、私たちの政府はそれを受け入れるだろう」と述べ、米政府が計画見直しに柔軟な姿勢を取る可能性にも言及した。


オウム返しに「辺野古が唯一の解決策」と言い張っているのは日本政府だけであり、結局「いくらでも『思いやり予算』を差し上げるから、沖縄に何とかしていてほしい」と哀れな懇願を続けている様が、何人ものアメリカ高官からの証言で明らかになっているのです。
琉球新報は今日の日付で、4日のニューヨーク・タイムズの社説を紹介しています。その社説のタイトルは「日米、県民の意思否定(Denying the Will of Okinawans)」というもの。中身は琉球新報や沖縄タイムスの記事でだいたいわかりますから、繰り返しは必要ないと思いますが、実際にニューヨーク・タイムズの記事を見てみると、短い社説ながら機動隊が「おじい、おばあ」を引きずり出している写真も含めて”よくここまで”という書き方をしているのです。
沖縄の歴史にも触れて、都道府県の中で最も貧しくつけ込まれやすい沖縄に米軍基地が集中している様をきちんと紹介していまし、最後には、「辺野古での基地建設がうまくいってないってことは、あんたらが口にする『平和・人権・民主主義』とやらが試されているんだぜ」(ちょっと意訳しすぎですけど)と主張したりしているんです。どうぞ直接ごらんください。



  11月8日(日)
Windows7のPCを起動すると決まって画面に現れるのが「Windows10のご紹介」。メインマシンを10にアップグレードしたいと連絡したわけでもないのに、本当にわずらわしい。「すでに1億人以上のユーザーが・・・」などと押しつけがましいでしょ。
とはいえ、実はサブマシンのWiodows8のPCは先日10にアップグレードしてしまったのでした。ところがその作業時間の長いこと。1日で終わったかと思ったら、依然として8のまま。次の日に起動してようやく10へのアップグレード作業が始まるという具合で、これはまずいんじゃないの。いまのところ問題なく動いていますけど・・・。作業後のアンケートにはその通りに感想を書き送りました。
PCでの操作性とノート型での操作性とはかなり異なるのかもしれませんが、PCでは9.0から8.1への改良をさらに向上させて、GUI(graphical user interface)とは、デスクトップ画面で直感的な操作でも迷わないポインタやマウスなどの使い勝手を指しますが、左下の「スタート」ボタンとそのメニューは分かりやすくなっており、それなりに改良はされているのだろうと思われます。
ただ、ブラウザのEdgeがHTMLやCSSの規格を正確に反映したブラウザになっているのかどうかに不安が残ることや、余りにもウインドウズストアとの連携が強制されすぎている点は、Appleとどっこいどっこいになってきているのかなと少々うんざり。
ネット上ではメーカー製品をアップグレードした場合の不具合やアイコンの稚拙さについて手厳しい評価があったり、初期につきものの問題点はまだまだ今後の課題のようです。今のところ8.1で動いていたソフトはほぼ問題なく動作するようなので、しばらくおつきあいしてみようかなと思っているところ。あくまでサブとしてですが。

前回ちょっとグチった郵便局での不手際について、池田局とその統括局である穂高の郵便局からそれぞれ責任者の方が来訪されて、原因を告げられ丁寧にお詫びをされました。
パソコンは航空便で送ることはできるのだが、その際に局としての「確認済みであることを示す記載」が必要だったこと。今回のトラブルは局がそれを怠ったために、東京で船便にされてしまったのでした。こんなことは起こってほしくはないのですが、起こってしまったことはしかたがありません。今後起こさないようにすることの方が大事ですから。その点もお二人はしっかり確約されました。
前回この問題を取り上げた以上、私としては郵便局としてこれ以上ないほどきちんとした対応をされたということをここで報告しておきます。地元局の名誉にかかわることですからね。

さて、MNEMOさんが昨日のブログで、カジマヤーを迎えることができた義母へのお祝いのことばを寄せてくださいました。大変嬉しく読ませていただきました。
実は、そこでも触れられていると同じことを実は私たちもカジマヤーの席上でこもごも話し合ったのでしたよ。つまり、母の年齢まであと何年生きなければならないか、そのことを考えると気が遠くなりそうだね・・・などと。私だって30年もあるんですから。
前回訪れたとき、義母(これからは母とだけ書きますからね)から沖縄戦当時の様子などについてあれこれ話を聞く機会がありました。ときどきはここでも紹介したことがありましたっけ。カジマヤーの席上でも、長兄がわざわざ沖縄戦当時の模様を紹介してくれましたが、いまの私たちの想像を超えた苦労があったことを話の端々から伺うことができました。
もうずいぶん前に亡くなった義父は、八重山に派遣されているときにマラリアにかかり一生苦しむことになったことも、母の苦労を一層重くしたことでしょう。
ところで、11月4日まで妻の実家に何泊かしたとき、早起きしてきた母が私に告げた1日のはじまりの挨拶は何だと思われますか?おもわず聞き返しましたよ。「Good morning!」なんですもんね。どう返事していいのか、どぎまぎしましたよ。それくらい元気、元気。
朝配達された新聞を隅から隅まで目を通すのは、依然として決まった日課。デイサービスに行く日は、わざわざ朝必ずシャワーをあび、お化粧をして、ずいぶん前から行く支度をして待っている。1日の終わりには短いながらもきちんと日記をつけている。まあ、見習わなければならないことがありすぎです。
カジマヤー当日の司会をしていて、みなさんに言ったこと・・・「お母さんは、100才以上まで生きると宣言していますから、今度は100才の誕生日にみんなで集まりましょうね」。このままなら100才越えは間違いないことでしょう。こっちがあぶないんじゃないかなあ・・・。





  11月6日(金)
沖縄行きに際して、直前の10月28日、私はゆうパックで1つの荷物を沖縄に送りました。腰も痛いことだし、できるだけ機内の荷物を減らそうと思ったのです。荷物の中身は、式のための靴、ブログ更新のためのパソコン、その他ちょっと重いものいくつか。
郵便局では、受付のひとりが「パソコンのバッテリーはダメなんじゃないでしょうか」と言ったので、私は「機内持ち込みができるんだから、送ることもできるんでは?」と訪ねました。その受け付けの人も確たる自信があったわけではなく、いろいろ調べていたようですが、最後には局の責任者とおぼしき男性の「1つならいいですよ」と断定的に言っったのが決め手になって、そのまま荷物を発送したのでした。
航空便ですから到着予定は30日。私が沖縄に着く頃にはもうとっくに着いているだろうと思って安心して出掛けたのですが、着いた日も、次の日になっても一向に届く気配がない。
しびれを切らして問い合わせてみたら、東京で航空便から船便に変わったのだと言う。驚いて、どうしてなのかと問い詰めたら「航空便では運べないものがあったから」という返事が返ってきた。
それでは1日の式には間に合わないので、荷物を出した意味がない。受け取る必要もなくなったので、荷物を出した場所にそのまま送り返して欲しいと頼んで、帰ってから局と話し合うことになりました。
結局、今日になって担当局から局側の不手際をわびる連絡が入りました。おそらく、航空機の爆破、発火などを警戒し、出火原因となり得るものは極力荷物としては飛行機に載せないよう検査を厳しくしていることによるものでしょう。パソコンもモノによっては爆発物に変わるかもしれないし・・・。
このあたり、地方の郵便局ではまだ職員が対応を身につけていないようで、そのために起こった問題だったのだろうと思われました。
式は代用品で何とかやりくりできたものの、パソコンがないため沖縄にいる間はブログの更新ができず、一週間のすきまができてしまいました。
みなさんも、航空便の荷物には十分気をつけてくださいね。

沖縄では、31日には妻と短時間辺野古キャンプシュワブ前の座り込みテントに立ち寄りました。
その場で座り込みリーダーから、警視庁の機動隊員百数十名が辺野古に派遣され、座り込み住民の排除と弾圧の体制をいよいよ本格的に強めるだろうとの情報が伝えられていました。
作業車の出入り口には機動隊の車が2台門を囲むように止められ、その隙間にALSOKの警備員がぎっしり並んでいたのが印象に残りました。これからは島ぐるみ会議の県民がどれだけ多数この場に集結できるかにかかってくることになるでしょう。
2日には水族館の帰り道、息子の家族を辺野古に連れて行き、短時間でしたが、雰囲気だけでもつかんでもらうようにしました。「新基地建設予定地」が見える瀬嵩には、風で飛ばされて一部しか見えなかった例の看板「スーパーメーゴーサするぞ」がちゃんと復元されていました。
ちなみに、スーパーメーゴーサとは沖縄の正義のヒーロー『琉神マブヤー』の必殺技のこと。Wikiによると、「拳が発光し、凄い威力のメーゴーサー(げんこつ)を食らわせる技」とある。2008年から始まったテレビドラマでは結構ウチナーグチが使われ、子どもたちに沖縄の言葉や歴史を伝える役目も持っているらしい。たとえばこんなYouTube動画。最後までは見られないけれど、結構おもしろそう。
マブヤーダンスなんてのもあって、沖縄の子どもたちはみんな知っているのだった!(この映像の最後にスーパーメーゴーサがでてくるぞ)







  11月5日(木)
昨夕、午後7時ごろ長野の自宅に戻ってきました。那覇は一週間前よりは少し涼しさが出てきたものの気温は26,7度、そこから中部国際空港を経てJR線の中津川を越えたあたりから長袖が欲しくなり、明科駅に降り立ったときにはついにコートを着てしまいました。
今朝は車の窓ガラスが凍り付き、霜がびっしり降りていましたから、真夏の土地からから真冬の場所へ一気に移動したという感じで、身体がついていきません。北アルプスは常念岳から北の山々が冠雪して青空に映えていました。


とはいえ、日が昇って日差しにあたっているとポカポカ暖かく、青空が透き通って最高の秋の1日です。
妻は朝早くからマレットゴルフとボーリングのはしごで出掛け、私はバラの会のBBQの集いに国営あづみの公園へ。何ともあわただしい月の始まりでした。
私にとっては大町松川地区のあづみの公園ははじめて。待ち合わせの11時までしばらく時間があったので、ゆっくり公園内を散策しました。くぬぎ、こならなどの落葉樹にまじってモミジが真っ赤な彩りを添えて紅葉がいま真っ盛り。
木陰はちょっと肌寒いものの、日差しが漏れる雑木林は森林浴にぴったりでした。約1キロほど歩いて帰りは園内を走るメルヘンチックな車に乗って待ち合わせの場所まで移動。その後、肉や野菜を焼いてたっぷり食べ、バラの会としては初めての園外の交流会を楽しみました。






さて、今回の沖縄行きはもちろん義母のカジマヤー。11月1日、会場のユインチホテルに7人の兄弟姉妹のうち5人の家族総勢42名が集結しました。
数え97才になる義母は、沖縄のお祝いの服装に着替えて、まず全員の集合写真。つづいて、宴会場に移って約2時間のお祝いの会がはじまりました。
はじまりました、と書いたものの、私が司会者なので開会を宣言したのは私。数少ないヤマトの人間がウチナーの伝統行事である式の司会をするのも何かの縁ですからね。みんなが打ち解けて楽しく時間を過ごせるように一生懸命に運営に努めました。
沖縄以外では、このようなお祝いは見たことも経験したこともないはずですが、部落を車で練り歩く昔のカジマヤーとは違って内輪のお祝いですから、日本でも世界でも気持ちはおんなじ。お祝いの次第も似たようなものですから、誰がやっても全く違和感はありませんでした。
長男のあいさつ、乾杯をしたあと、家族の紹介、母への花束・記念品の贈呈、余興・・・と一応の型どおりに式は進行。だが、ここは沖縄、余興では長男が棒とサイ(十手のような鉄の武具)を使った演武があり、さらに母がめでたい席におきまりの琉舞「かじゃで風」を舞い、最後のシメはこれまた沖縄でのお決まりのカチャーシー。
ホテルの付き添いの方は、「たいていは車いすなんですがねえ」と言いつつ、母がしっかりと自分の足で歩き、さらには琉舞さえ踊る元気さに目をまるくして驚いていました。最後の挨拶ではマイクをもってしっかりとお礼の言葉を述べ、大きな拍手を浴びて嬉しそうでした。


母の長寿に乾杯


ひ孫から花束を受け取って固い握手


たくさんのひ孫に囲まれて記念撮影。子ども達が持っているのはカジマヤー(風車)


長男の棒術の演武


琉舞「かぎやで風」を踊る母


みんなでカチャーシー


挨拶する母

この会には、私の息子、娘の家族も参加して期せずして家族勢揃いとなりました。それゆえ、私の仕事は車の運転。妻といっしょに案内をかねてドライバーの仕事に専念する羽目になってしまいました。
短い期間だったものの、わが家族としても得がたい思い出を刻んだ沖縄行きとなったことでした。















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