早朝、車のガラスはびっしりと氷で覆われて、多分マイナス1,2度まで下がったのではないかと思われました。長野県は全県ではじめてマイナス気温になったのだとか。日がのぼるころには次第に霧が立ちこめてきました。
朝霧が晴れれば久しぶりの快晴、北アルプスの峰々が冠雪して連なって、もう完全に雪山です。
今日義兄のブログを読んでいて、沖縄目線でのさまざまな生活事象への言及がなかなかおもしろく、引き込まれておりました。
[「第1次寒波」では、気温18度、最高気温21度で「さむい、さむい。仕事へと朝は三層に着込んで、ふつうは素足に草履だが、靴下まではく重装備のいでたちとあいなった」と書かれていたので、18度では私でも寒いだろうなあと同情してしまいました。
かつて3月に沖縄を訪問し、多分15度くらいだったのではないでしょうか、北風の中で同僚と「沖縄ってこんなに寒いところだったのか」と口々に言い合ったことを思い出してしまいました。
それはともかく、このブログで義兄は「意見への反論でも、伝えたい主張でも、用件でも日頃のブツブツ癖の割には『りろ整然』には弱く、相手が判るように表現できず大切なポイントを抜かしたりと不甲斐なさが募る」などと謙遜して書いていらっしゃるけれど、なかなかどうして。ブログというより随筆集のような趣で、幼少期に沖縄戦をくぐり、戦後の復興期を生き抜いてきた1人のウチナンチュの心のひだを時折垣間見る気にさせられます。
「正直いえば吾輩は『日本語』のまえにウチナー語の環境でそだった。ですから標準語は第二国語」と書いています。3才ほど年が下の妻に聞くと、やはり同じような環境だったとのこと。
それが戦後教育の中で、強制的に「日本語(標準語)」教育がすすめられ、「方言」追放運動とかで「方言札」まで首から掛けさせられたという、今から見れば言語の暴力が学校を席巻したのでした。
現在では、若い教師たちもウチナーグチが話せなくて、年配者が学校に出掛けて子ども達に教えているのだとか。言葉は生活の一部です。地道な努力が少しずつでも実ってくれるように願わずにいられません。
義兄のブログでは、「かわをむく」が実に興味深い。とんちんかんだが背景を知れば「あはは」の後にはほろ苦い哀切の気持ちにさせられるのです。
「このブログ読まれるヤマトンチュには可笑しいのかなー、或いは面白いのかなー?」という問いがありましたけれど、面白いと言うより、いろいろと考えさせれているというのが正直な気持ちでしょうか。
私自身は子どものころから時分が育った富山での富山弁がいやでたまらなかった。何がと言われて、「が」「ちゃ」の多いしゃべりコトバの語感が私には「音感」としてなじめなかったのかもしれません。富山弁コンプレックスは東京への憧れの裏返しかというと、私自身は決してそんなつもりはなかった。
実際、富山のコトバより祖母や母の加賀柏野や松任のコトバにずっとひかれていたのでした。でも実際にしゃべるのは富山弁とそのイントネーション。その狭間で、しゃべるコトバについては悩みも深かったのです。今にして思えば、自分では意識していないけれど、ラジオなどで聞く「コトバ」と比較していた節が大いにあります。この点、突っ込んで分析してみる価値がありそうですよ。
東京で生活するようになってから、自分では富山弁を克服しようとし、またしたつもりでも、いかに「育ちのコトバ」が骨肉に染みこんでいるかを日々教えられることになったのです。
今でも単に単語のイントネーションだけでなく、全体の抑揚といったことまで、やはり私は「越中人なんだな」と思わされ、苦笑いすることがあります。富山に帰ったりすれば、周りは富山弁オンリーですから、ああ故郷なんだなとしみじみ思わされることも多くなりました。これも年をとったということなんですかね。長く富山にいた妻は、安曇野にいても昔からの越中人のような言い回しをふつうにしていますから立派です。
越中訛りなどは標準語からいくらかずれているだけですから、フツウの生活の中ではたいしたことではありません。しかし、ウチナーグチはそういうわけにはいかない。琉球という特別の環境のなかで作り出してきた言語であり生活そのものですから、末永くウチナーグチを大事にしてほしい。
というわけで、義兄にはウチナーグチを含め沖縄のフツーの姿をもっと教えてほしいとお願いする次第です。