清沢冽の「暗黒日記」の中に次の一節があります。
「戦争は文化の母なり」と軍部のパンフレットは宣伝した。それを批評してから我等は「非国民的」な取り扱いを受けた。いまその言葉を繰り返してみろ!戦争は果たして文化の母であるか?
毎日新聞に安倍首相の「日教組」ヤジを巡って、これは単なるヤジで済まされる問題ではない。ネット右翼が好むレッテル貼り「非国民」「売国奴」「日教組」と同じレベルで、相手を恫喝し言論を封ずる手口なのだという批判が載っていました。今も昔も変わらないということなのです。
その清沢列さんに、ケチョンケチョンにこき下ろされていた人物に徳富蘇峰という爺さんがいました。清沢さんは書きます。
日本だけだ、抽象的精神力というものを重視するのは。物量や発明も精神力であることを気づかずに。蘇峰の如き議論がドン・キホーテの最たるもの。かれは全く科学的考え方はない。・・・
大東亜戦争に導いた民間学者で最たるものが二人ある。徳富蘇峰と秋山謙蔵だ。この二人が在野戦争責任者だ。・・・
こうした人々を指導者とする日本は禍いなる哉。
この爺さんを担いで国民に「一億総討死の決意」をあおりたてたのが新聞各紙でした。これには清沢さんも開いた口がふさがりません。
一億総討死をしたら、その後の国家はどうなるのか。しかし、それがいまのところ軍人、右翼のイデオロギーである。
この「暗黒日記」には当時の新聞記事(切り抜き)が豊富に収録されているので、資料的価値が極めて高いし、当時の軍や新聞社の考え方が分かるので、大変おもしろい。その中で、結構たくさん引用されていたのが先に紹介したあの爺さん。当時の狂信的右翼イデオローグの1人として私も興味があったので、毎日ワンズから出版されている「勝利者の悲哀=日米戦争と必勝国民読本」を読んでみました。
一読しただけで読むに堪えない自己陶酔の駄文が羅列されており、こんなものに当時国民は踊らされていたかと思うと実に情けない。当時の風潮の中でこの本質を的確に見抜いていたのはさすが清沢列です。
軍部、天皇制権力は何故このような人物に利用価値を見いだしたのか。それは完全に彼らのイデオロギーの体現者であり、アジテーターであったからです。利用価値がなくなればポイ捨てになることも歴史の示すとおり。戦後は戦前の弁明のみに冗長な時間を費やしたのでした。
はっきりしていることは、当時天皇のとりまきや軍部が海外侵略を理由づけ合理化した考え方が、ここにそのまますべて彼の考えとして披瀝されていることです。
冗長な彼の文を要約するとだいたい次のようになります。
@ 変化きわまりない世界において日本だけが三千年来万世一系の天皇が統治しその臣民である大和民族は皇室を中心として生活してきた。日本は天皇すなわち現身神(あきつかみ)が統治する国土であるから皇国であり神国である。
A 日本の歴史は皇室の歴史である。鎌倉、室町、江戸時代とそれを忘れ果てていたが、江戸時代末期になり「猛然と迷夢から覚め」、「尊皇攘夷」としてその自覚がよみがえり維新を成就させた。
B アングロサクソンが本家(イギリス)、新家(アメリカ)の二手に分かれて日本にせまってきた。一時日本国民はこの魔手に心を売ってアングロサクソンの出店、仲買、小売りであることに甘んずる「あさましき心」を持つに至った。
C このアングロサクソン崇拝の迷夢から覚めるのは昭和6年、柳条湖事件(満州事変)である。なぜなら日本は東亜における防波堤、駆逐の原動力であることが東亜諸国民に示されたからである。当時日本がなければ東亜はアングロサクソンの植民地とされていただろう。
D 日本は100年来米英に対して「味方、親類」同然の好意を持っていた。しかし、彼らは自らの世界制覇の実現のために、日本の平和的通商・外交を妨害、日本に対して一切の手をアジアから引くことを要求し日本を「東亜の一隅に缶詰」にした。
E 日米の戦争は、米英によって徴発されたものである以上、わが皇国にとっては一億国民の生死存亡にかかわる。すなわちこの戦争は「自存自衛」の戦いである。
F 日本は東亜の指導者である。明治末期以来アジアの諸民族はみな日本を認めてその指導者としていた。日本以外にその責務を果たすものがない以上、わが国は10億アジアの同胞を背負って立つことにならざるをえない。
G 要約すれば、この戦争は「自存自衛のため」「大東亜解放のため」「世界新秩序建設のため」という3大目標を持つ。この3つは同心円であり、その根本はわが皇国の生命を保全するために始まり、世界を米英の暴戻・抑圧から脱却させることをもって終結する。
この結果がどのような悲惨なものであったかはさまざまな資料が示すとおり。しかしながら、どれをとっても今日の右翼的な勢力の背景をなしている考え方であることに驚きを隠せません。戦後”国民的な”レベルではこんな幼稚で神がかり、差別主義的で手前味噌、支配し侵略する側からの論法すら克服されてはいないのです。
戦後70年の地点に立ってもっとも重要なことは、この爺さんたちがまき散らした侵略戦争の論理を完膚なきまでに論破し精算し尽くすことであると私には思えます。
今日の日本に於いて、彼と同じ役割を果たしている人物がひとり2人ではありません。権力にすり寄り、そのイデオロギーの拡散者としてのみ存在価値を持つ人物がいることは日々実感していることです。
清沢冽の科学的で論理的な思考に学び、そうした人物のまき散らす論調に踊らされず、冷静に歴史を分析し、今日の動きを見通すことが大切だと思うのです。