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  3月31日(火)
まだ3月末というのに何という「暑さ」。5月末くらいの陽気です。外でちょっと畑仕事をしていても汗が流れてきて、慣れない身体にはかなり負担です。朝は車の窓に氷がつくほど冷え込みますから、温度差は20度以上にもなるので全く身体がついていきません。
日曜日に地域自治会の総会があって公民館分館の事業報告を行い、これで今年度の自治会での仕事はすべて終了しました。あとは「悠々自適」「毎日日曜」の日々となります。
そうなると、一日をどう過ごすかが結構厳しく問われることになります。「晴耕雨読」と言ったところで、晴れた日に朝から晩まで畑仕事をしているわけにも行かず、本を読んでばかりいるわけにもいきません。よほど計画を立ててしっかり守るようにしないとズルズルと日が過ぎてしまいます。自分の生活を根本的に見直さないといけませんね。

今日の信濃毎日新聞を見ていると、沖縄についての記事の見出しがどうしても気になって仕方がありません。
1面トップでは、「沖縄県指示の効力停止 農相外交防衛に損害」と見出しをつけているのは、その限りで間違いではありませんが、いかにも政府の立場の代弁的な態度がにじみ出ています。
さらに3面では、「沖縄 辺野古阻止へ焦り」「今夏着工にらむ政府 沖縄県既成事実化に不安」という見出しが。同じ紙面の社説では「誰のための不服審査か」とかなり厳しい調子で政府の対応を批判しているのとは対照的な見出しに違和感を覚えてしまいます。
ところが、です。信濃毎日のWeb版を見ると、そこに今日の朝刊最終版が載せられていてちょっと驚きました。トップの見出しが手元の新聞とは違っているのです。Web上での新聞は「最終版」となっていましたから、たぶんこっちの方が新しいのでしょう。
それによると、見出しは「沖縄県対抗措置を検討 知事農相決定に疑問」となっており、自宅に配布された第6版から手直しされているのです。これなら社説とはそれほど齟齬があるとは思えません。(Web上でのものが最新だとすればの話です)
事件、事態の進行にともなって版を重ねるごとに誌面が変化することはありうることです。この問題の場合もそのように受け取ろうと思えばできるのですが、どうなのでしょうか。
以下、上から第6版1面、3面、Web上で公開されている最終版。






「審査の公正に疑問」という沖縄県知事の発言や沖縄県の今後の対応について、信濃毎日が「辺野古阻止へ焦り」と書くのは事実に即しているのか。私は「焦って」いるのはむしろ安倍政権のほうではないのかと思います。
最近の政府の強権的なやり方は、アメリカの思惑を先取りし機嫌をそこねまいと必至になる卑屈な対米従属路線から生まれているわけですから、沖縄県民、国民の意識からますます離反することになります。
今回の農水省の決定は、本来国民が不利益を受けた場合の救済措置として定められた「行政不服審査法」を使ってまで沖縄県を押さえこもうとしているわけですから、まさに悪あがき。しかも翁長知事の指摘するように「国が申し立てをして、同じ国である農水省が審査するという対応」ですから醜悪でさえあります。
結局、沖縄県民の批判・怒りの高まりに恐れをなして、強権的に既成事実を早く作ってしまおうという政府の「焦り」が「農水省決定」の背景にあるというべきでしょう。
いま沖縄で起こっている出来事はたとえ1つの事象でも複雑な様相を持っています。その事実をどう伝えるか、見出し1つでも悩みまくる局面がなからずあるはずです。
政府発表が唯一の事実であるかのように報道すればそれはジャーナリズムの死滅を意味します。事態を複合的に正しく報道し、それについて解説なり社説では社の方針をきっちり打ち出す。信濃毎日新聞が「社説」で主張する立場を貫くのなら、記事であれ見出しであれそうした報道にさらに磨きをかけてほしいと思うのです。



  3月27日(金)
沖縄在住の友人が、大浦湾に面する瀬嵩地区で3月21日に開かれた辺野古新基地建設反対集会の録画ビデオと24日の琉球新報を送ってくれました。
ビデオでは、会場で抗議活動を続けるカヌー隊の姿や、その後ろに海上保安庁のゴムボート、さらにコンクリートブロック投入用のクレーンなどが写されていて、緊張感が伝わってきます。
集会には地元の住民はもとより先の衆議院選挙で当選した議員や県副知事も参加し、県内外からの参加者は総勢3900名。発言者はそれぞれの立場で新基地を許さない決意を語っていました。
下の画像はいずれもチョイさんの沖縄日記より。




24日の琉球新報は、1面、2.3面を使って知事の作業停止指示を大きく伝えており、普段見慣れている全国紙や「本土」の地方紙とのあまりにも大きな差に愕然とさせられます。




全体として地方紙は一般紙面での扱いは別として、社説では政府の強引さ、問答無用の態度を強く批判、政府は直ちに県と話し合うべきだという論調が目立ちます。その意味では沖縄県民の意思を尊重していると受け取られます。

ここ数日の全国紙、地方紙の社説はどうなっているのか、気になって少し調べてみました。

<信濃毎日新聞>政府は県の主張を一顧だにしない。(政府の)強引さが目に余る。移設を既成事実にしようと作業を進めることがあってはならない。政府に求められるのは、埋め立てに向けた作業を止め、県と話し合うことだ。

<北海道新聞>対立の原因は地元の民意に背いて強引に作業を続けてきた国側にある。沖縄の理解を得る努力を約束してきた安倍晋三首相は、まず作業を停止する政治決断をすべきだ。・・理解に苦しむのは国側の頑迷な態度である。・・昨年の知事選と衆院選で反対の明確な民意は示された。選挙結果には従うのが民主主義の基本だ。

<東京新聞>翁長雄志知事の指示に従い、海上作業をいったん停止すべきだ。米軍基地新設に向けた作業は、あまりにも乱暴ではないのか。・・安倍内閣は県内移設を拒む沖縄県民の民意に向き合おうとせず、翁長氏と政権首脳との面会も拒み続けている。抗議活動中の市民を逮捕、排除してまで作業を進めようとする。そんな法治国家がどこにあるのか。

<神戸新聞>ここまで沖縄を追い込んだ責任は対話の扉を閉ざし、問答無用で工事を進めようとする政府の対応にある。政府は速やかに作業を中断し、県との話し合いに応じて事態を打開すべきだ。・・政権にとって都合の悪い「民意」には向き合わず、ねじ伏せようとする。あまりに傲慢(ごうまん)ではないか。・・政府はいったん立ち止まり、沖縄の声に真摯(しんし)に耳を傾けるべきだ。

<高知新聞>貴重なサンゴ礁の保護に責任がある県が損傷具合を確認するのは当たり前だ。翁長氏の警告に全く耳を貸さず調査を続ける姿勢はどう考えてもおかしい。・・安倍首相らはこれまで「沖縄の方々の理解を得る努力を続ける」と繰り返してきた。政府として十分努力していると県民に説明できるだろうか。

<京都新聞>地元の理解が得られないまま移設を進めても、安全保障にプラスになるとは思えない。政府は、沖縄だけでなく、日本の将来のためにいったん調査を止め、誠実に民意と向き合うべきだ。

<愛媛新聞>米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設に反対する翁長雄志知事の訴えは、沖縄の民意だ。政府は肝に銘じ、真摯(しんし)に耳を傾けねばならない。・・埋め立てを承認し辺野古移設容認に転じた仲井真氏に、多くの県民は「ノー」を突きつけたのだ。移設は白紙に戻ったと言うべきであり、民意を黙殺して強行するようでは、もはや民主主義とは呼べまい。・・政府は今こそ、「辺野古ありき」で対米追従を強めてきた姿勢を改めるべきだ。

<新潟日報>地元の反発を無視したままでの移設強行は、地元受け入れを重視してきた米政府も歓迎することではないはずだ。政権の強引さや異論を受け付けない狭量さを印象付けることにもなろう。また、国が一方的に計画を進めて、仮に移設が完了したとしよう。その時、県民の日米両政府への視線がどれほど厳しいものになるかを想像すべきだ。

<南日本新聞>基地の負担軽減を目指した普天間飛行場の移設は本来、沖縄県民のためというのが原点だった。この原点に立ち返り、政府はいったん作業を中止して翁長氏らとの話し合いの席に着くべきだ。・・普天間飛行場の返還で日米が合意して20年近くになる。依然として移設が進まない現実を直視して政府は対応を考え直すべきだ。

<中日新聞>安倍内閣は県内移設を拒む沖縄県民の民意に向き合おうとせず、翁長氏と政権首脳との面会も拒み続けている。抗議活動中の市民を逮捕、排除してまで作業を進めようとする。そんな法治国家がどこにあるのか。・・・在日米軍基地の約74%が沖縄県に集中する現状は異常だ。普天間飛行場返還のためとはいえ、その負担を同じ県民に押し付けていいわけがない。基地負担を極力減らし、日本国民が可能な限り等しく分かち合うために力を尽くす。それが政治の仕事のはずである。


これに対して全国紙ではどうか。朝日新聞は3月24日付けで「辺野古移設 沖縄の問いに答えよ」と題し、冒頭「政府はどこまで問答無用の姿勢を続けるつもりなのか」と問いかけてはいますが、そのあとには一連の経過を説明することが中心で、論説はやや腰砕け。最後に次のように述べるのが精一杯というところ。

米軍基地が集中する沖縄の県民にとっては、国の安全保障政策は「なぜ辺野古か」「なぜ沖縄に海兵隊か」といった疑問だらけである。沖縄からの深刻な問いかけに、政府はまず向き合うべきだ。

毎日新聞は3月24日「沖縄の対抗措置 政府は追い詰めるな」と題する社説を掲げ、その冒頭で、「政府は直ちに作業を停止し、県との話し合いに応じるべきだ」と主張しています。しかし、そのあとは朝日と同様で、最後に次のように書いています。

政府が今のやり方を進めていっても、その先には何の展望も見いだせない。沖縄の理解と納得がないまま、将来、仮に辺野古に代替施設が完成したとしても、それは日米安保体制の強化につながるだろうか。
むしろ、いつ暴発するともわからない県民感情を抱えて、同盟は不安定化しかねない。これ以上、沖縄を追い詰め、感情的な対立を深めれば、問題解決は遠のくばかりだ。


問題は、政府の強権的態度、沖縄県民敵視、民主主義否定の行動にあることは明らかだし、沖縄県民の圧倒的多数は「辺野古への新基地建設」に反対しているのですから、各社もここに立脚点を置いているのかどうかが問われているのです。

読売、サンケイ、日経はこれとは正反対の基地建設推進ですから、これはまた後日検討することにしましょう。「サンゴと人命とどっちが大事だ」「国防は県政の問題ではなく国政の問題」「県は軍隊機能を持てない、県民と領土を守れない」として基地建設をけしかけるネット右翼のみなさんの言動もまたの機会に。
我が軍と米軍にとって沖縄の新基地は国防の要である。国の方針に従うことは国民の最大の義務である・・・安倍さん、そう言いたくてうずうずしているんだろうなあ・・・。



  3月25日(水)
家庭用VTRの規格が事実上VHSに収束していくのは1970年代後半から1980年代初めにかけてであり、映画ビデオなどがレンタルショップに本格的に並ぶのは1980年代の終わりごろから2000年くらいまで。それ以後は徐々にレンタルショップの商品はDVDに変わり、さらに2008年頃からはブルーレイディスクが並びはじめます。
ちょうどレンタルビデオショップが続々と出来て映画を手軽に見られるようになった1990年代初頭から、私の映画集めが始まって2000年初め頃までたまったビデオテープは膨大なものに。何度かこれについて書いたことがありましたね。
将来退職した暁にはゆっくりビデオで映画でも見てというのがそもそもの始まりだったわけですが、そのときすでに大きな誤算が3つありました。
最大の誤算は、記録メディアがまもなくDVDに変わっていったこと。第2の誤算は映像機器がデジタルに変わり,画面が信じられないくらい高精細になったこと。第3は、次々と新しい映画がDVDでレンタルされるので、古い物をいくらため込んでも見る暇がないこと。

そのため込んだビデオテープの1つにVHS誕生の物語「陽はまた昇る」(西田敏行主演)があったのは皮肉です。技術者が心血注いで開発したビデオデッキ、テープが今じゃ「ゴミ」同然なんですから。
もちろんこうした技術革新の上に現在のあくなき開発が進められているわけですから、それが無駄だなんて決して思いません。VHSにしろ、ベータにしろ開発する側の技術者の苦労は映画に描かれている程度のものでないことは容易にわかります。また、この技術は単に家庭用だけではなく医療、地質、宇宙・海洋探査,土木その他さまざまな分野で使われてきたわけですから社会的に有用な財産の1であったともいえるでしょう。
ビデオ関連機器同様、パソコンなども全く同じ構図です。考えて見れば、この30年ほどの技術革新の進度と深度は余りに大きい。これほどの変革は過去においては見られないのではないでしょうか。
私が思うのは、むしろ技術革新が早すぎて人間がそれを使いきっていないということ。余りに営利に走り、資源を無駄にし、新しいものを追いかけ過ぎて、やがて自縄自縛・制御不能になりかねないこと。その兆しはすでにいくつも見られます。

ここしばらく日夜ビデオテープのDVD化を進めてきて、終わったのが約3分の1くらい。これじゃDVDメディアを買うお金もデッキも持たないので、ただいまどうするか思案中です。思案しながら惰性でつづけているのかなあ。
ブルーレイには一切手を出していないのでまだ救いはありますけど、ディスクにV字の溝をつけることで従来のDVDを利用して従来の9倍の容量を実現することに成功しているというし、1枚の光ディスクで500GB(ホログラフィックディスク)だとか 現時点で1.6TB(5次元ディスク)だとかという途方もない規格が現れはじめているらしい昨今、あのとき一体何をしていたのかと思う時代が遠からずくるのではと恐れおののいています。5次元ディスク一枚で私の全コレクションが収まってしまうって?ギャ〜〜。
今を去る10数年前、改造PowerMacMTに80GBのハードディスクを2台つけてモンスターマシンと呼んでいた頃が懐かしい。輝いて見えます。
ともあれ、そんな光景を窓越しに遠く眺めつつ、考古学博物館の収蔵物と同じくらい価値がある我が手持ちのコレクション、せいぜい大事にしていくことにしようと改めて心に誓ったことでした。



  3月24日(火)
冬型の気圧配置が強まり、北アルプス上空まで雲で覆われ、その先の東側は青空が広がるという典型的な池田のお天気です。その青空から白い「はぐれ雪」が舞ってくる様は何とも心地よいものです。空気は冷たいけれど、日差しと青空は早春のものですから。
下は夕暮れの北アルプス。


今日夕方7時のNHKニュースでのトップは「翁長沖縄知事の辺野古工事停止」通告の問題でした。
NHKの報道姿勢は、何が辺野古で起こり、何故県民が翁長知事を選び、なぜ一週間以内での工事中止を指示したのかについては全く触れず、政府の見解表明の場面をいろいろと映し出しただけ。作業中止の指示にもかかわらずそれを全く無視して作業を続けている沖縄防衛局。それを監視し抗議する県民。もっとそうした実態を報道すべきではないのでしょうか。
TBS記者の金平茂紀さんは、沖縄に関するマスメディアの現状について、次のように語っています。

特にこの1、2カ月の間に沖縄の名護市辺野古周辺で起きていることは、率直に記せば、常軌を逸している。
常軌を逸していることは、通常であればマスメディアにとってみれば、報道すべき基準の必要条件のひとつなのだが、現実はそうなっていない。
常軌を逸しているにもかかわらず、メディアの多くが(それは地元の一部テレビ局をも含む)、それをなかったことのように振る舞っている(振る舞っていないか?)。その対応自体が常軌を逸しているという事態が生まれているのだ。


今日のNHKニュースで映し出されていた防衛大臣、官房長官などの態度をみていると、本当に骨がらみアメリカの代弁者となっていて、日本国民の一部である沖縄県民の意思などは全く眼中にないということがよくわかります。
管官房長官に至っては「この期に及んでこうした措置をすること自体、甚だ遺憾だ」という侮蔑的・挑発的なコメントをあの顔で述べるのですから、あきれて物が言えません。
琉球新報の社説の表現は私よりはるかに強烈です。

「全く問題はない」。沖縄の基地負担軽減を担当しているらしい菅義偉官房長官はこの日も硬い表情で断定調の「全く」を再三口にした。強気一辺倒の物言いには、沖縄を敵視する響きがある。
見たくない現実から目を背け、都合のよい事情だけ取り入れて強がり、恫喝(どうかつ)する。仲井真前知事による埋め立て承認にすがりつき、沖縄の民意を問答無用で組み敷くことしか打つ手がないことの表れだ。子どもじみた心性が際立つ。民主主義の価値を損なう政権の低劣な品格が映し出されている。


この最大級の抗議に耳を傾けない政治家はもはやその資格すらないというべきでしょう。
こうした声にもかかわらず安倍政権は、県知事に会おうともせず、いまだに「丁寧に説明し納得してもらう」などとうそぶいているのですから、沖縄県民差別・蔑視ここに極まれりです。

これに対する翁長知事の態度は見事です。「腹を決めて」きっぱり政府と対決していこうとする知事の姿勢に対して、辺野古現地でダイバーチーム「レインボー」を束ねている牧志さんは「公約にもとづく立派な判断です。歓迎しますし、仲間からも喜びの声が上がっています」と語っています。
辺野古で抗議活動を続ける人々の間からも「歓声」があがり、抗議船からは「海保の規制はもう根拠が無くなりました。皆さんは、防衛局の違法行為を取り締まらなければなりません」というアナウンスが流されたといいます。
翁長さんをいっそう力強く応援するとともに、政府に抗議する声を全国から集めて行かなければならなりませんね。

琉球新報の社説は「『沖縄のことは沖縄が決める』。われわれは地方自治の原則に根差した知事の決断を強く支持する」と書いて、なぜ知事が作業中止を指示するに至ったかを極めて明快にまとめ、結論として「知事の作業停止指示には環境破壊を防ぐ法的正当性がある」とのべています。
沖縄タイムスも同様です。社説で「一連の経過を冷静に吟味すれば、筋の通った毅然とした判断であることが理解できる」と書いて、政府・米軍の強行姿勢を強く批判。
こうした現地沖縄の報道を読むにつけ、「本土」のメディアの報道との落差の大きさが気になって仕方がありません。



  3月20日(金)
畑に行くと、春の七草の1つ「なずな」がいっぱいです。今年はちょうど今頃が旬。小さい株ながら若い芽がそこかしこに頭を出しています。
なずなと合わせて、昨年秋に蒔いた野沢菜や小松菜も花芽を伸ばして、今日の夕食のために収穫してきました。
今晩は「メバル」の煮付けに菜の花添え。ナズナのお浸し。春の味覚ですね。


まだ枯れ草や枯れ枝で景色は4月中旬まで薄茶色なのですが、ところどころにノカンゾウやノビルなどが薄緑の芽を伸ばしているのが見えます。これまた節約生活にはうれしい食材!!菜園では、まもなくほうれん草も株を大きくしはじめるでしょうから、いよいよ野菜のおいしい季節の始まりです。

3月も2/3を過ぎてしまいました。今日中学生の入試発表の日。塾のオーナーから松本深志高校、地元の大町高校などに全員合格したというメールがありました。思うようにカリキュラムを消化仕切れず、今年ほど心配した年はありませんでしたが、とにかく全員志望校に受かって何よりでした。



  3月19日(木)
私が大学生だった頃のある日、いとこのKouichiくんに向かって「その名前ってお父さんが八紘一宇からつけたんかな」とからかい半分、不用意に質問して何とも腹立たしそうな顔をされたのを、いまちょっと顔を赤らめながら思い出しています。
その当時は、その言葉のいわれや意味するところを正しく認識していた訳でもなく、ただ戦争中に国民教化のスローガンとして叫ばれていた程度にしか理解していませんでしたから、あまりにも配慮を欠いた発言だったわけです。それっきり、この言葉は頭の片隅に追いやられてほとんど忘れてしまっていました。

ところが、です。今月16日に自民党三原じゅん子参議院議員の質問中でこの言葉を聞くとは・・・。まあ、詳しいことは新聞などでいろいろと書かれているし、YouTubeでもアップされているので、ここであらためて経緯を繰り返すことは差し控えますが、いやはや驚いた。
もっとも、これに続いて「次世代の党愛知」がフェイスブックで【八紘一宇を名古屋の平和スローガンにする提案】なる一文と写真をかかげているのがまた話題になっているよう。

八紘一宇の、八の意味を中国や東南アジアなど他国も含んだもので考えると海外侵略のイメージが強まります。
しかし八を名古屋に置き換えてみたらいかがでしょうか。名古屋という大きな一つの家をまとめていくのが、名古屋市の政治家の役割ではないでしょうか。
『平成の名古屋の八紘一宇』は、名古屋市民が心を一つにして、右も左も地域政党も一致団結して名古屋市政をより良くしていくための新スローガンに用いることで「八紘一宇」という文字を復権させようではないでしょうか。
侵略政策のスローガンではなく、名古屋の平和のための新しいスローガンとして、八紘一宇を見直してみませんか。


といった具合。何なんですかねえ、この人たちは。

三原氏の場合、ご本人のブログをのぞいてみると「簡単に言えば、『ひとつの家族のように仲良く暮らして行ける国にしていこうではないか』ということなのですが・・・」と無邪気というかノー天気というか、別に歴史的な背景なんてカンケイない、その意味通りに受け取った、とでも言いたげな書き方をしているのですから始末が悪い。昭和13年の「建国」を引き合いに出しながらもなおです。
この方の生い立ちなどを見れば、それほど深い意味を考えることなく、ただカッコいい言葉として引き合いに出したのではないかとつい思ってしまいますが、だとすれば間違いなく議員失格でしょう。知っていたとすればなおのこと議員辞職ものですが。
私は、彼女がこの言葉を使ったという以上に、この言葉を使わせるに至った環境、人脈などの背景こそが問われなければならないと思いますね。稲田朋美、小池百合子、高市早苗・・・などといった右翼議員との接点が相当深くあるはずだからです。むしろ、そうした右翼的、戦前復古的な雰囲気がいとも軽くこうした言葉を言わせているとさえ思ってしまいます。

では、この言葉が、過去にどんな文脈で使われていたのでしょうか。いくつかの書物を引き出してきて調べてみました。

まず最初は、何回か過去に引き合いに出しましたが、昭和19年に書かれた徳富蘇峰の「必勝国民読本」です。

かかる明白なる事実の前(アジアがアングロサクソンの包囲・侵略を受け、アジア諸民族がこぞって「日本をその指導者と仰ぎ来たった情勢」)には、日本も今は自ら指導者たる途を探るよりほかには道はなかった。・・・したがって今日の日本は一億日本国民を背負って立つばかりでなく、十億アジアの同胞を背負って立つところの、有史以来未だかつてなき一大責任を負うこととなった。これはもとより我が肇国の国是たる八紘為宇の大精神を実現する所以にして、日本歴史の行程から見ればこれまた自然の発展と言わねばならぬ。(「勝利者の悲哀」毎日ワンズ」59ページ)

次は昭和12年、内閣として初めてこの語を使ったという(Wikipedia)文部省作成パンフレット「八紘一宇の精神」からの引用です。

この道(注:八紘一宇にもとづく道)は、実に肇国以来、一系連綿たる天皇の天津日嗣の大御業であり、又我々臣民が一新を捧げて皇運を扶翼奉る究極の目標である。・・・
我々はこの大道に和集し、「八紘一宇」の御旗を奉納して、我が大君の為、世界平和の為、不撓不屈、千辛萬苦をも甘しとして時局の険路を突破せねばならぬ。


全文は、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができます。先の徳富蘇峰の文章が政府発表のこうした文書に依拠していることは火を見るより明らかですね。

太平洋戦争に突入した開戦の日から、特高課員が新聞社に常駐するようになるとともに、情報局から「大本営の許可したるもの以外は一切掲載禁止」「我軍に不利なる事項は一般に掲載を禁ず。ただし、戦場の実相を認識せしめ、敵愾心高揚に資すべきものは許可す」という示達が出されます。そしてその具体的な指針として、多数の項目が指示されるのですが、その1つに次のようなものがあります。

<一般世論の指導方針として>
@今回の対米英戦争は帝国の生存と権威の確保のため、まことにやむをえず起ち上がった戦争であることを強調すること。
A敵国の利己的世界制覇の野望が、戦争勃発の真因であるというように立論すること。
B世界新秩序は「八紘一宇」の理想に立ち、万邦おのおのそのところをえさせる目的を強調すること。(以下略)
(前坂俊之「太平洋戦争と新聞」講談社学術文庫387〜388)

清沢冽「暗黒日記」第2巻253ページには、敗戦の一年前7月の記事として、林春雄帝大名誉教授の一文(新聞記事)が「日本民族礼賛」として記録されています。

かくして(日本は)自然科学、人文科学において先進とみらるべき各国の文化の粋を吸収し、日本的に同化し、それらが本元では堕落退亡しても日本において発達大成せしめやがて世界を日本文化を以て一宇たらしむるものであろう。・・・
民族の力はあくまで個々の力の総合結集でなければならない。この意味に於いて民族の各構成員が同一目標に向かって強調一致邁進する民族精神が重要な要素となるのである。・・・日本はこの点に関しては皇室を上にいただき、義は君臣、情は父子の強固なる団結力と八紘一宇の聖業達成の大目標とが厳存して万邦無比である。


さて、国会では三原議員の発言がどのように扱われるのか興味津々です。



  3月18日(水)
昨日は一日庭の手入れ。秋に植えたネギがそこそこ大きくなりつつあるんだけれど、雑草に覆われてそのうちネギだか草だかわからなくなる、というより雑草にネギが負けてしまう時期が遠からず来るので、いったん全部掘り起こしてネギの植え替えを行いました。約200本。松本一本ネギと下仁田ネギの2種類のはずが、苗のうちはどれがどれだか区別つかなくなって大体のころで仕分けをしただけ。ネギは強力な生命力があるので、5月頃にはうんと大きく育っていることでしょう。

仕事がないってのは何とも魅力的です。行きたいと思い立てば即実行できるんですもんね。今日は2人とも予定がなかったので(カミさんは普段とても忙しい)、昨日の料理番組の影響もあって、魚を仕入れに黒部・魚津まで遠出をしたのでした。
黒部には漁協が運営する「魚の駅」(とれたて館、できたて館)というのがあって、漁師さんたちが魚を売っています。また魚津にも「海の駅蜃気楼」があって、ここでも魚津港で上がった魚を売っています。
魚津では魚の種類がイマイチだったので昼食だけにし、行きに様子見で立ち寄った黒部の「魚の駅」でめぼしいものを選びました。
店にはかなり大きめのハマチ(富山ではフクラギという)が並んでいたので、「いつとれたの?鮮度は?」と聞くと、シャキシャキした漁師さんとおぼしき男性が即座に首を横に振って「よくない。とれたのは昨日だけど、これは刺し網。海の中で死んでいる」「じゃ、いつまで生きていたのかもわからないってことですか?」「そう、だから安い。やめたほうがいい」といささかこっちが拍子抜けするような率直さで返答が返ってきました。
「じゃお勧めは?」「クルマダイかな?これはいいよ」。見ると平たい体型で腹の真ん中にでっかい●の模様がついている。(実はクルマダイは赤い魚で斑点はなく、この魚、「マトウダイ」というらしいことをあとからネットで調べました。富山ではクルマダイと言うのかも)
近くには大きなスズキも箱に入って長野に行きたそうな顔をしていたのですが、漁師さんに言わせると「これは痩せている。卵を抱えているし・・・だから安い」と商売する気があるのかどうかわならないような真っ正直なお返事。
というわけで、結局旬のホタルイカ、浜であがったホウボウ、ナマコ、それにクルマダイを買って終わり。帰りがけに入善の「大阪屋」に寄って、イワシとハマチの刺身を追加して、ようやく満足して帰途につきました。よって今日・明日はお魚三昧。約10年の仕事を終えたお祝いですかね。

糸魚川では梅の花がちらほら咲き始めていて、今日の陽気でさらに開花が加速しそうな気配。しかし、山をのぼるにつれて雪が次第に多くなり白馬周辺はまだ雪が50センチ〜1メートルほども積もっていました。すっかり雪が融けるには4月一杯かかるのではないかとさえ思えました。
夜にはいって、池田は本格的な雨。異様に暖かい。もっとも来週にはまた朝晩零下3〜5度の日が続くと予想されているので、つかの間の陽気なのでしょうか。



  3月16日(月)
バヌアツといえば、地図上でオーストラリアの北端から真東にひいた直線とニュージーランドの北端から北にひいた直線とが交わるあたり。日本からははるかに遠い南半球の小さな島国です。
そのバヌアツが巨大なサイクロンに襲われて、全人口約26万人の半分にあたる13万人に被害が及んでいるらしいというニュースが昨日から今日にかけて報じられています。その被害も首都の被害の大きさからの推計で、電気・通信など寸断されているため被害の大きさははっきりとは把握されていないとも。
日本からは2000万円相当の緊急支援を送るというニュースが流れていましたが、食糧・水などの当面必要な物資・医療チームなどを送ることが何より急がれなければならないでしょう。

私達の生活で、過去・現在・未来に何らかの関係があることについては関心の度合いが大きいのは当たり前のことですが、直接関係のないことにはたいていの場合一過性の関心に終わってしまいがちです。過去の戦争しかり、東北や長野北部の災害しかり。
しかし、あるとき思いがけないきっかけで、そうした問題が自分とのかかわりを持って心のなかに居座ることがあります。そのきっかけを介在しもたらしてくれるものこそが人と人とのネットワークなのだと最近強く思うのです。それは家族であったり、親戚であったり、古い友人であったり、地域の人々であったり、さまざまです。

このバヌアツという国は、いまから7,8年ほど前以前であれば、おそらく単なる小さな小さな地理的知識の1つでしかなかったでしょう。それを変えてくれたのが私の妹の長女(つまり私の姪)であったのです。
当時彼女は海外青年協力隊の一員としてバヌアツに赴任。ときどきメールをくれて現地の様子を知らせてくれていました。私はこれはぜひ他の方々にもぜひ知ってほしい内容だと思い、彼女に依頼して「バヌアツ便り」という何回かの連載をこのサイトに掲載したのでした(2005年1月から2005年3月)。
その後何回かのサイトの再構築によって、いつの間にかそのまとめはリンク切れになってしまっていましたし、その記録フォルダを探すのが一苦労でしたが、サイクロン被害のニュースを聞いてあらためてリンクを復活することができました。
バヌアツという国はどんな国で、人々がどんな生活をしているのか、それらの記録から少しでもくみ取ってもらえれば、当時現地で奮闘していた姪(現在は結婚して家族とともに上海に)もきっと喜ぶことでしょう。

まきのバヌアツ便り(2005年)

午後から今年初めて畑に行き、強風で飛ばされたマルチを回収したり、ネギを植え替えたり、秋に積んであった枯れ草を片付けたりして汗を流しました。いよいよ畑作業の開始です。
畑にはまだ相当にネギが残っているので、どっさり収穫し、少し伸びてきたほうれん草などの青菜を収穫。さらにあちこちで芽を出し始めた「ナズナ」のを沢山採りました。今日の夕食は野菜ばっかりになる予感です。
今年は寒さが厳しかった分、3月に入って日中は暖かい日が続いているようで、あちこちで田圃の手入れをしている人たちの姿が見られました。
これまで借りていた畑は、持ち主の都合で返却しなければならないので、片付けたところから整地。ただ、まだタマネギやイチゴ、ニンニクなどが残っているので全部返すのは7月頃になる予定です。
一生懸命に堆肥などを入れて耕してきたところだけに、ちょっと残念な気もしますが、少し離れたところに代替地を用意してくれているので、とりあえず今年はそちらを借りて多少野菜を植えるつもりでいます。
これからの私の仕事は、バラ園と畑の作業が中心で、もっぱら農業にいそしむことになりそう。
今日少し外に出ていただけで腰が痛くなってしまったので、冬の間に落ちた体力を回復し、たまった脂肪をそぎ落として筋力をつけることも心がけなければなりません。金はないけれど、時間はたっぷりありますから、ウオーキングや筋トレで過去の生活を精算することにしますか。



  3月14日(土)
松本市渚2丁目にある田川公民館、1時30分。最初にやってきた子は今年中学に進学する男子と女子。すぐに連取ノートを広げて何かやりはじめました。続いて3,4年生と思われる小学生、中学生などが約10名三々五々集まってきて、スタッフ10名とあわせてかなり広い部屋は一杯に。
学年もやっていることもバラバラですが、控えているスタッフが適宜質問に答えたり、やっていることを見守ったりして約1時間が経過。
ボランティアのスタッフは、大学生、もと教員、世話役の女性たちといろいろで、どちらかと言えば高齢の男性元教員が多い印象でした。
学習時間のあとは、今年中学・高校を卒業するメンバーのお祝い会。1人1人にプレゼントを渡したあと思い思いにスピーチを行いました。スタッフの用意した軽食を囲みながらのお祝い会は、ちょっとぎこちなさを残しながらも、心のこもったなごやかなものとなりました。
今年信州大学などに合格を果たした高校生を持つ1人の母親が、自分も苦学して学んだこと、我が子がこのようなグループの中でいろいろ教えてもらって進学できたことが何よりうれしいと述べていたのが印象に残りました。
私自身は何しろ初めての参加ですから初めは様子見でしたが、溶け込むにはそれほど時間はかからず、何人かの子たちとそれなりに会話を交わしたり、数学・理科をいっしょにやったりすることができました。これからも続けて関わって行けそうな実感を掴むことができてよかった。
会を主催している方の話では、必ずしも自分から進んで通ってくる子ばかりではなく、複雑な家庭事情を背負っている子もいるので「子守」的にならざるを得ない面があること、学習のすすみ具合も学習態度もまちまちで、柔軟に対応していかなければならないということでした。そのために、スタッフ会議が大事になるという話もしてくれました。
たった2時間程度の見学でしたが、教えるより学ぶことの方が多いことになるだろうこと、気負わず、子ども達と目線を合わせて楽しくやっていく必要があることなどを感じとりました。

異学年が何人ものスタッフに囲まれて学んだりあそんだりしている様子は、今から50年前、仙台のある地域で学生達が行っていた「子ども会」の様子を思い起こさせるものでした。地域に足を運んでいろんなことを企画し実践した教育学部を中心とする学生たち、真剣に将来の教育のことを語り合った日々・・・今日は、そうした若き日を思い出させるに十分な2時間でした。
大学では、数学を教えるとはどのようなことなのか、数学教育の課題は何なのかを理論と実践とを統一させて追求した遠山啓さん(数学教育協議会)から学んだことも大きく、それがまた高校やその後の塾での実践に生きた力を与え、自分なりの方法を編み出していく力ともなったのでした。
私がこの会で今日感じたのは、この「子ども塾」に通う子ども達に接するには、私のこれまでたくわえたり学んだりしたことすべてを注いでも全く足りないだろうこと、謙虚な気持ちで新しく学ばなければいけないことが沢山でてくるだろうということでした。
親の経済状態や家庭環境の困難さを子ども達はそれなりに感じ取りながら、それでもこうした場所を求めて通ってくるわけですから、何とかしてそれに応えなければなりませんね。

もう一つ、今日の会での収穫は、大学時代の数学科の友人とほぼ50年ぶりの再開を果たしたこと。いや〜驚きましたね。一級下の学年でしたが、人数の少ない数学科の、しかも活動家仲間だということもあって、学生時代はいろんなことをいっしょにやっていたのでした。
卒業後は私が名古屋へ、彼は長野に就職し、何度か年賀状のやりとりはあったものの、一度も会うことなくそのうち年賀状も途絶えてしまっていたのでした。
それが偶然、しかも「お祝い会」で隣に座って、私が一言挨拶したのを聞いていた彼から「あれ、今の話からすると○○さんでは?」と聞いてきたのが再開のきっかけ。こんなこともあるんですね。
彼は現在塩尻に住み、まだ非常勤ながら高校で講師の仕事をしているのだとか。これから、交流を深めることができる人物と思いがけずに巡り会うことができました。
やっぱりひとつの終わりはひとつの新しいできごとを準備しているものなのですね。



  3月13日(金)
信濃大町は今日もまた大雪。仕事から帰る頃には道路は真っ白で、車の上には10センチほども雪が積もっていました。池田に入ると、冬型の例にならって雪はなし。
寝台特急トワイライト・エキスプレスやブルトレ北斗星が相次いで最終運行を行い、明日14日からは金沢までの北陸新幹線が走るというように、鉄道の歴史にも1つの区切りがつけられようとしています。
べつにこれに倣ったわけではありませんけれど、私もまた大町・松本での塾の仕事に今日を以て区切りをつけました。本当は池田町でのんびり畑仕事をしながら母の介護をするつもりだったのが、いつのまにか塾の仕事をするようになって、忙しいときは週6ということも。かれこれ10年近くも大町の学習塾にお世話になったことになります。
何事にも始まりがあれば終わりがあるものです。よく考えて見れば、1つの「こと」の終わりはすでに始まりから「こと」の中で準備されており、私の場合もまったくそのようにして終わったように思えます。もちろん、新しい始まりは、その終わりによって準備され、終わり方によって規定されもするともいえます。

東京には宇都宮健児さんや雨宮処凛さんらが呼びかけた「反貧困ネットワーク」という組織がありますが、長野にも同様の趣旨で結成された「反貧困ネットワーク信州」という団体があります。そのネットワークの構成団体の1つに松本で活躍する「反貧困セーフティネット・アルプス」というのがあって、活動の1つとして「無料こども塾」というのを行っているのです。
実は、今日その事務局の方に連絡をとり、さっそくボランティア登録をしたのでした。明日がその日らしく、ぜひ来てほしいと誘われてしまいました。
この「子ども塾」は経済的な困難から塾に行けなかったり学習の場を求めている小学生から高校生までを対象に月2回行っている学習と交流の場で、以前からそのボランティアを求めていたのです。私は、2.3年前に松本協立病院に通院しているとき、待合室のモニターでそのことを見て、いつか問い合わせてみようとずっと思っていたのですが、結局今日まで果たすことができなかったというわけです。
確かに被災地の方々への何らかの関わりは当然必要だし、池田ネットの皆さんとの話し合いも今後必要になってくるでしょう。友人のMさんなどは女川と深いつながりを築いて海産物をしょっちゅう購入しては売っていますから、可能な限りその輪を広げることがさしあたり大事なことです。
しかし、同時に支援が必要な人々は被災地だけにいるわけではないし、とりわけ今日の日本の貧困は「自己責任」で片付けられるほど単純な問題ではなく、誰もが「明日の我が身」としてとらえるべきことがらですよね。私自身も全くその通りです。そしてこの問題は当然ながら地域で共同して解決していくべき課題なのですから、私に何かが求められているならば提供することを惜しむべきではない。そう考えたという次第です。
実際出かけてみないと、どうなるのかはわかりませんけれど、月2回で一回2時間ですから、とくに負担になるわけでもないし、新しい人たちとの思いがけないつながりも生まれるでしょうから、ここしばらくはいっしょうけんめい関わってみるつもりです。
下は「子ども塾」のチラシです。
チラシ表
チラシ裏
これをご覧になって、お手伝いしてもいいという方がいらっしゃったらぜひいっしょにやりましょう。



  3月12日(木)
昨日、天皇の「お言葉」の中にあった[「みな」「一同」という表現についての感想を記しましたが、「一同」は「(参列者)一同とともに」ということであったと、ある方から指摘を受けました。文章に接して確認することをせず耳から入ってきた単語に短絡的に反応したための誤りです。謹んでお詫びし全文削除いたしました。
一部だけ修正しようと試みましたが、脈絡がなくなってしまうため、やむなくそのようにいたしました。お読みになったかたについてはそのようにご理解ください。
なお、昨日も記したことですが、私の現天皇に対しては過去にも書いたことがあるとおり、国民に寄り添う気持ちを誠実率直に表現される、その意味では全く尊敬に値する方だという思いを持っています。これは憲法上の天皇をどうするかという問題とは全く異なることですから誤解されませんように。

さて、今日も朝から午後2時頃までバラ園での作業に従事。新しいバラを植え、日曜に行った剪定の続きをしました。今日は人数が少なかったので思うように進まず、まだ20〜30本ほど剪定出来なかったバラが残りました。これは土日で片付けるつもり。
帰ってから、バラ園顧問のEさんにいただいた接木用の台木に「アンネのバラ」を接ぐ作業にかれこれ2時間ほど。なまった身体には寒空での長時間の作業は結構応えましたよ。

先日読み始めた「ナチスの時代」(岩波新書A19)の書き出しに次の一節がありました。

運命に追いつめられると、人間は責任を転嫁できる象徴をさがしがちなものである。1918年のドイツの崩壊によってひどい目にあい、しかも軍事的敗北と旧秩序の失敗を現実として、定められた運命として、うけいれたがらぬ連中にとっては、ワイマル共和国こそはまさにそのような象徴であった。彼らにとっては、あらゆる現実の・・・あるいは架空の・・・悪の原因は、共和国にあるということになり、そこからして、共和国は単にひとつの中間空位期にすぎず、旧秩序への復帰の道が開かれるためには、これを克服しなければならないという考えが生まれてきたのである。
この考えに強い刺激をあたえたのが戦闘的な国粋主義であり、傷つけられた国民的自負心はこれをふりかざすことによって、敗戦と革命とに対応したのであった。この国粋主義にとっては、共和国はドイツの力と偉大さの復活をさまたげる憎むべき邪魔物になった。・・・


米占領軍によって起草された日本国憲法と、大衆的な武装をともなう蜂起を背景に実現したワイマル憲法という根本的な違いは無視できないにしろ、表面的には「1918年」を「1945年」と読み替え、「(ワイマル)共和国」を「憲法9条を持つ日本」と読み替えてみると、不思議と敗戦から今日にいたる70年のこの国の姿とうり二つであるように思えるのは偶然なのでしょうか。ちょっと不思議な気持ちになったものでした。
「戦後レジームからの脱却」を旗印として成立した安倍政権にとって、この70年は明治憲法下の日本と自民党改憲草案が具現する国家との「中間空位期」(ドイツでは14年)にしか過ぎないのではないか。「旧秩序」への道へと国民が導かれる過程では
1933年1月30日、ヒトラーがドイツ国総理に任命されて以来、「実際に起こった政治的出来事と、宣伝によって公衆に知らされる姿とは、2つの相異なる現実となった」と筆者は記しています。
この本の翻訳者である内山敏さんが「まえがき」で、「1933ー1945年のドイツの歴史は、われわれ日本人にとって実に大きな教訓に富んでいる」と述べているとおり、ドイツとの差異は十分に考慮しつつも、歴史として何を学ぶかさらに問い続けなければならないと思わされています。


  3月11日(水)
昨日午後から大地域に大雪警報が発令されてびっくり仰天。いつ降るかと構えていたのに一向に降る気配がありません。
昨夜は仕事だったので6時過ぎに大町に出かけたころはまだ雪はなし。ところが仕事をしている最中午後7時から10時の間に15センチほども雪が積もってこれまた仰天。仕事帰りは久々に4WDで注意深く帰るはめになってしまいました。
ところが池田に入ると全く雪がない。さすがにちょっと高い我が家周辺ではちらほら積もっていましたがたいしたことはなし。
今日は高校入試の日なので大町の生徒たちは天気が気が気ではなかったでしょうね。実力を出し切ってくれることを期待しましょう。

今朝は早くから妻が車で北陸に出かけていきました。よりによって最悪の条件です。割と早い時間に無事衝いたという報告があったので一安心でした。

さて、「あの日」から4年を経た今年の3.11。テレビは終日現地の模様や被災者の暮らしなどを伝えており、ついあれこれ見てしまい遅い時間になってしまいました。現地の模様を見ればみるほど言葉がでてきません。忘れたわけではないけれど、「あのとき」とは全く違って何にも出来ず、またしようという意識をかなり欠いてしまっている自分の存在を顧みて、結局言葉が引っ込んでしまうのです。

すすんでいるのは復興ではない。復興事業だけだ。それも、大規模公共事業だけ。・・・そんな批判があちこちで吹き出しています。問題は、政治にあることは明らか。ある人はこの国の統治システムに見られる「フィードバックの欠如」と指摘していましたが、そもそも住民が主人公ではないこの国の政治において、フィードバックのしようがありません。
住民が元通りの生活(仕事、地域の結びつき、庭の手入れ・・・)を望むかたわらで、防潮堤を延々とつくり、除染をし、原発は再稼働へまっしぐら・・・気がついたら4年経っていた。おそらく来年の3月11日も同じような、いやもっと深刻な矛盾の中で迎えるのではないでしょうか。



  3月9日(月)
雨の日が多いこのごろ。今日も午後からかなり強い雨模様になっています。低気圧が発達してまたまた強力な爆弾低気圧になりつつあるようで、明日は雪?

昨日は朝ちょっと小雨模様でしたが、会員15人ほどが集まって予定通りバラ園の剪定と接ぎ木講習会を行いました。
バラたちは少しずつ芽が動き出しているので、剪定にはちょっと遅いくらいなのですが、今年は寒さがかなり厳しかったので例年より一週間ほどおそい剪定作業になりました。
ただ、雨が落ちていると剪定にはいい結果をもたらさない(切り口から雑菌が入る)ので、接ぎ木講習を先に。
昨年はじめて接ぎ木講習をしたものの、一年経つとすっかり忘れてしまっているので、もう一度基礎から教えてもらいました。ポイントはよく切れるナイフを使うこと、形成層をきっちり合わせる・・・ということなのですが、言われるようにはなかなかいかない。実習中に手を切って病院にいくメンバーがでるハプニングがあってちょっとヒヤッとしました。大事に至らなくてよかった。
そうこうするうちに雨も完全にあがったので、バラ園の半分ほどの剪定を終わって、残りは今週の木曜日に行うことに。いよいよ今年のバラ園の作業が開始です。

以下は昨日の模様。カメラを忘れて、携帯で撮ったために画像解像度が落ちて見づらくなってしまいました。














  3月5日(木)
ここ数日のMNEMOさんの社会風刺がおもしろい。彼の真骨頂ですね。シャルリー・エブドによる予言者ムハンマドに対する風刺画のような見当違いの「風刺」とは大違い。私のように直球しか投げられないのともぜ〜んぜん違う。やっぱりチクリとやるにはこうでなくっちゃね。

沖縄では3月4日はその読みによって「サンシンの日」。キャンプシュワブ前ではこの日サンシンの演奏会が開かれることになっており、テントの下で音合わせが行われていました。そこへ機動隊員がやってきて強制的にテントを撤去し始めたのでした。それでも18人のサンシン奏者は、小雨降る中毅然として演奏を続行。今日の沖縄タイムスはその模様を「不屈の三線、辺野古に響く」と題して詳しく伝えています。読みながら涙が流れそうです。(写真は沖縄タイムスによる)

琉球舞踊「かぎやで風(ふう)」(「かじゃで風」とも言う)は、祝いの曲・舞・唄であって、舞はゆったりとして優雅。歌詞も「今日の喜びは何にたとえるか。蕾んでいる花の露(と)出会ったごとく」という内容ですから、テント前での演奏にはちょっと?とシロウトはクビをひねります。しかし「三線の日」は文字通りサンシンを弾き、踊ることができるお祝いの日。県内のあちこちでこの「かぎやで風」が舞台を飾ります。沖縄県民の何という心意気でしょうか。



下は首里城祭でのかじゃで風。


3日付けの琉球新報社説は、辺野古新基地の護岸の長さが、アセスメント段階の200メートルから、埋め立て申請の段階になって突然271.8メートルに変更されたことを伝えていました。
同紙は、それがアメリカの強襲揚陸艦着岸に必要な長さであること、日本政府が「軍港機能を持たせるつもりはない」と言明していることに完全に矛盾すること、もしこれが事実なら新基地は普天間基地の代替などというなまやさしいものではなくて「空海一体の一大軍事拠点ということになり、説明は根本から崩れる」ことを怒りを込めて告発していました。怒りというよりもう腹の底からの叫びです。

基地をめぐる日本政府の隠蔽(いんぺい)がまた一つ暴かれた。
・・・日本政府は、護岸の長さを延長して申請した際、県民への説明なしに提出していた。強襲揚陸艦の接岸が可能ではないかと問われても、「軍港機能を持たせるつもりはない」と述べていた。ところが今回、小数点以下の数字まで一致すると分かったのだ。これでもなお、しらを切るつもりだろうか。
それにしても政府の隠蔽体質は目に余る。1996年には垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの新基地配備を米国が通告したが、日本の官僚が隠蔽を求めたことが分かっている。米公文書でそれが判明した後もしらを切り続け、15年後にようやく明らかにした。強襲揚陸艦も似た展開になることは想像に難くない。
 あまりに不誠実だ。こんなことがまかり通るなら民主主義国とはいえない。
暗黒国家のごとき新基地建設はもはや人道にすら反する。


こんなだまし討ち、欺瞞を許しておいて良いのか。口を開けば「沖縄の負担軽減」と言うその裏で国民には黙ってこんなことを平気でやる安倍政権を何にたとえたらいいのでしょうか。
今日の「しんぶん赤旗」も一面トップで米軍公開文書を証拠にあげ、護岸が「揚陸艦接岸基準と一致」していることを報道(Web版はこちら)。
政府が2015年度予算に「強襲揚陸艦の取得のための調査費用が計上」(防衛省概算要求の概要8〜9ページ)されていることから推測すれば、政府が近いうちにアメリカ軍を補完する強襲揚陸艦を持ち佐世保、辺野古を日米共同使用の基地にするという構想を持っても不思議ではないでしょう。何しろ安倍首相、自衛隊に海兵隊を創設したくてしかたないのですから。

日米一体化した軍事機能の強化(軍拡路線)と同時に安倍内閣が進めようとしているのは、自衛隊を地球の裏側にでも自由に派兵出来る法整備。
今日の信濃毎日は2面で「公明、恒久法容認へ」という記事を載せていました。

公明党は4日、新たな安全保障法制をめぐり、他国軍の後方支援などのため自衛隊の海外派遣を随時可能とする恒久法制定を容認する方向で調整に入った。国会の事前承認など、これまで求めてきた派遣要件の厳格化に自民党の一定の理解が得られる見通しとなったことを踏まえ、政府与党として足並みをそろえる必要があると判断した。
これにより海外派遣に関する法制は、国連平和維持活動(PKO)協力法改正、周辺事態法改正と共に3本立てで進める方向が固まった。


もはや底なしで自民党と一体化する公明党という政党の本質が誰の目にもはっきり見えるような出来事です。
その記事のすぐ下には公明党の雑誌の宣伝が載せられていて「平和」という文字が躍っているのが何とも皮肉。「戦争で平和を守ろう」とでも言うのでしょう。

さてこれをお読みのみなさん、後世の歴史家に次のように書かれることを潔しとしますか?

アジア・太平洋戦争から70年を経た2015年、日本の歴史は大きな転換点を迎えていた。前年2014年の12月に第2次安倍内閣は他党の選挙準備が整わないのを見越して抜き打ち解散に打って出、自民・公明の合計で475議席中325議席という圧倒的多数の議席を占めた。
すでに前年、秘密保護法を国会で通過させ、さらに翌年2015年に周辺事態法などの国内法を恒常的に海外派兵できるように改正した安倍内閣は、いよいよ宿願である憲法第9条の改正に着手しはじめた。
この当時、国内の政党配置は保守が圧倒的に優勢を占め、民主党・維新の党なども事実上自民党の補完勢力としての役割しか果たし得ず、とくに民主党は政権時の反国民的な政策の数々によってすでに政権政党としての役割を終えていた。社会民主党は消滅寸前、この選挙で躍進した共産党の議席と合わせてもわずか23議席に過ぎず、国会では事実上翼賛議会ともいえる様相を呈していた。
その一方で国民的なレベルでは、憲法改正、消費税増税、海外派兵、原発再稼働などへの抵抗感は根強く、3.11大震災への対応の遅れとも相まって、一旦政権政党の失政が表面化すれば政府の瓦解もありえる状況が広がっていた。
当然、安倍政権はこのことを熟知しており、機密保護法をてこに警察組織、自治体などを通して国民監視の機能を強化、「草の根保守」の掘り起こしをすすめて国民の批判を封じる対策に着手しはじめた。
憲法改正、自衛隊の海外派兵、軍拡に格好の口実を与えたのは、中国の年間10%を超える軍備拡張路線であり、尖閣諸島周辺での挑発的な行為であった。また北朝鮮によるミサイルの発射などの瀬戸際政策もその口実となったことは論を待たない。
安倍政権の憲法改正への具体的な動きは2015年秋の大キャンペーン「憲法を国民のものに」によって始まり、「環境権、プライバシー権などを盛り込む」とする耳障りのよい一部改正によって容易に国民投票をクリアしたのである。
その間にも、自衛隊の海外派兵は広がり、アメリカと軍事行動をすすめた派遣先の中東では日本人人質事件が多発。2016年秋にはついに「自衛隊の国防軍への改組、第9条の改訂(第2項の削除)」を含む抜本的な憲法改正を発議。
国内では10万人規模の集会やデモが開かれたが、当時すでに政権政党に屈服していた全国紙はほとんどそれを報道せず、むしろそうした国民運動を敵視するようになっていた。
1960年安保改定反対運動には総評などの労働組合ナショナルセンターが一定の役割を果たしたが、その後の労働組合の組織率の低下、派遣労働の常態化など労働形態の変化を受けて労働者の分断がすすみ、勤労者層での政治的な活動は全くといっていいほど影を潜めていた。長年にわたる政府・財界によるの労働者対策は、単に低賃金・長時間労働の固定化というに留まらず、政治的な骨抜きという意味でも大きな成功を収めていたといえよう。
学生層もまた、1070年代以降の教育「改革」によって、政治的な無関心層がほとんどを占め、身の回りの問題にしか関心をしめさないようになっていた。18才への選挙権という唐突な政策も選挙への棄権者の増大に拍車をかけただけであった。むしろ若者の保守化がすすみ、ナショナリズムに共感を示す層も無視できなくなりつつあったのである。
これもまた安倍政権による能力主義的な競争原理をもととした教育、および「愛国心教育」の大きな成果であったといえる。
沖縄県は、辺野古の新基地建設をきっかけとして、米軍・自衛隊の出撃基地としての性格を一層強め、アジアの緊張の震源地の1つとなった。当然これに対する中国の反発は大きかった。沖縄県民は再び戦争の舞台に引きずり出される不安・恐怖におびえる日々を迎えることとなったのである。
安倍内閣は国内での周到な世論誘導、オリンピックへの関心そらしなどを通してついに2017年秋、国民投票に於いて憲法改正を果たしたのである。



  3月4日(水)
不破哲三さんの「スターリン秘史2」が刊行されました。
2ヶ月前の第1巻では、レーニン亡き後スターリンがいかにして権謀術策を駆使し、暴力的に権力を奪取して大テロルにのめり込んでいったかが、ディミトロフ日記を縦糸にして書かれていました。
この第2巻では、ついにナチス・ヒトラーとの同盟にまでいきつく様がさまざまな資料を通して解明されていました。
不破さんには1980年代のスターリン批判の書「スターリンと大国主義」がありました。この本は、それ以後明らかになった旧ソ連の資料などを縦横に取り込んで、スターリン問題と旧ソ連の大国主義・覇権主義批判の書となっています。国際的にも極めて価値の高いものとなっているのではないでしょうか。

私が学生だった頃(1969年から70年代初頭)、大学はまさに政治的高揚期であって、私がすすんだ大学も例にもれず様々な政治的な流派がありました。当時のその大学では、「民青系」が圧倒的な組織力を持ち、おそらく全国的にも類を見ないだろうほどの民主的自治会運営を行っていました。もちろん第4インター系などの学生もいたにはいたけれど、全く力はなくただ機関誌などで民青系学生に「スターリニスト」というレッテル張りをしていただけでした。
当時同級生だったS(後に東大教授になり、最後はスキャンダルにまみれてなお開き直っていた)などのトロツキー主義者(トロツキーの言動の都合の良い部分だけを自分流に解釈したとしか思えない)の側から見れば、スターリンはまさしく抑圧者・弾圧者ですから、当時国際共産主義運動の「盟主」であったソ連共産党と日本共産とは彼らにとって同一の存在であり、私たちはすべてスターリニストだったというわけです。このあたりの事情はいずれまた書く機会があるでしょう。
ちょっと脇道にそれましたが、不破さんのこの本を読むと、ヒトラー以上の巨悪の根源となったスターリンが、いかに戦中・戦後の国際問題に深刻な否定的影響を与えていたかを明らかにしていて、いまなお歴史学的にも精算され尽くしてはいないことがよくわかります。
1980年代当時、同僚と「スターリンと大国主義」をめぐって話し合っていたときに「ようやくスターリン批判が完結した」とある人がふと漏らしていたのを思い出しますが、実はその作業は全く緒に就いたばかりで、まだまだ解明されなければならない問題がたくさんあることも知らされます。
この本でも痛感するのですが、不破さんの著作の特徴は難しい内容でも実に平易にわかりやすく書かれていること。それだけ自分の中で完璧に内容を消化し、問題点を深く解明し尽くし、かつ読む人の立場を考えて伝える言葉を選ぶことができるということです。恐るべき才能ですね。
日本共産党が、宮本、不破という理論と実践の両面を備えた優れた幹部に支えられてきたことの大きさを実感させられます。同時に、決して個人崇拝とか民主的運営の軽視とかに陥らず、庶民の目線を決して忘れないで活動を続けているのですから、この党のあり方は国際的な社会主義の運動としても、日本の政党のあるべき姿を考える上でも、特筆すべきことであると思われます。



  3月3日(火)
気温の変化の激しい毎日。朝晩はマイナス5〜8度なのに、日差しがあれば日中は10度を超えるような日も。凍り付いた地面からはフキノトウが幾つも芽を出して、先日は天ぷらにして早春の味に触れることができました。とにかく人間には及びもつかないすごい生命力です。

昨日の朝5時半頃、新聞を読んでいたら突然の停電。すぐに直るだろうと待っていても一向に通電する気配がない。まだ真っ暗なので、手探りで定位置の懐中電灯を探しましたが、微妙に位置がずれていたためになかなか手に触れません。ポケットからライターを取り出してようやく懐中電灯を見つけてブレーカーを見に行きましたが異常はないようでした。
しかたなく、結局30分ほど待っていると通電。やれやれと思ったのもつかの間、すぐまた停電してしまいました。今度は長い。こうなったら寝るしかないと思って布団に入りウトウトしていたらそのうち電気がきました。その間約1時間ちょっと。
今日の新聞でトップニュースにもなっていたとおり送電線の接触事故のようで、長野県の半分の世帯に影響があったということ。いや〜驚きました。電気が来なくなれば、主として電気に頼る生活を送っている我々としては手足を縛られてしまったようなもの。寒いし、何にも出来ません。
4年前の東日本大震災のときも雪が降っていたわけで、ライフラインをすべて破壊された現地ではどんなにひどかっただろうと思われたことでした。たった1時間ちょっとの停電でもこうなのですから。
お隣さんも「オール電化だから、いや〜焦った」とため息をついていました。報道では交通機関、病院などに大きな影響があったようで、本当にいつどのような事故がおこるかわからないご時世です。

2月28日から3月1日まで金沢にでかけ、無事ホームページの更新を終えました。ほとんど初心者的なつくりにしてあるので、本格的なものにしたい場合、またはスマホで見られるようにしたい場合は専門家の力を借りていいものに直してほしいと伝えてきました。
ホームページの更新と講習のあとは、いとこご夫妻に連れられて近くのお店へ昼食に。昔話にも話が弾んで2時間ほどがあっという間に過ぎました。
帰りは小谷の直前まで雨。白馬に入る頃には本格的な雪になり、大町・池田ではまたみぞれに変わるいやな天気でしたが、交通には問題はなく無事夕方自宅に戻ることができました。28日に泊めていただいたみっちゃんご夫妻、ちょっと立ち寄ってコーヒーをいただいた娘の嫁ぎ先のみなさん、そして歓待していただいたFujimuraさんご夫妻。大変お世話になりました。よくしていただいてありがとうございました。

このごろ、車で長距離を走る際に運転にはずいぶん慎重になったと感じます。ここ1年の間でも何度かヒヤッとした経験があるのでいきおい慎重にならざるを得ません。つい、あと何年車を運転していられるのだろう・・・などと考えてしまいます。




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