今日もまだ朝から頭が重く鼻水が出てカゼの症状がおさまりません。午後から2時間ほど横になっていたらようやくすこしおさまったような気が。しかし、まだ気が抜けないので、暖かくして早く寝るに限りますね
夕方起きてから、ここ1ヶ月ほどかけて読んでいた北大名誉教授・井上勝生さんの「明治日本の植民地支配」(岩波現代全書)をようやく読み終えました。これについては2月15日に少し触れました。
前半は、北大で1995年に偶然見つかった6体の頭蓋骨のうち、一番上にあったものに書かれていた「東学党首魁」という墨書と書き付けを頼りに、その由来とそれを韓国に返還するまでの調査・研究の軌跡が詳細に綴られています。これは北大の調査委員会の「報告書」としてまとめられたものが下敷きになっています。
後半は「報告書」以後に10年以上日本、韓国の各地を訪ね歩き、資料を集め、明治日本の「植民学」の実態と、そのもとでのアイヌ民族への抑圧・圧政の姿、そして東学農民軍を殲滅させるために派遣された下級農民兵士たちの実状をつぶさに実証した部分です。
これらを読むと、日清戦争期の朝鮮侵略において解明されていない史実がいかに多く残されているのかを知ることができ、さらに歴史家の地をはう努力によって、当時の政府がどれほど朝鮮民族を蔑視し支配しようとしていたか、どれほど多くの人々を殺害したり苦難の道に追いやったりしたのかを知ることができます。その事実をなかったことにして公式の記録から抹消した当時の政府の姿もまた醜悪な形をなして浮かび上がることに気づかされます。
こうしたことを知ることは実は恐ろしく辛いことです。井上先生の言うように、勇気のいることです。
今では東学農民戦争を弾圧し、何万もの人々を殲滅したという事実は、おそらく多くの韓国の人々でさえ知らないことかもしれません。しかし、日本が祖国を踏みにじり圧政の限りを尽くしたという歴史的事実はいまなお朝鮮の人々の心から消えてはいません。加害者は歴史を容易に忘れるが、被害者は永久に胸に刻むものだからです。そのことを私たちは具体的事実で知らなければなりません。
歴史とはどのように調査され書き直されるものなのか、そこで明らかにされたことは私たちに何を投げかけるのか、この本は余すところなくそれを教えてくれるでしょう。
あとがきで、作者は次のように書きます。
歴史の負の遺産を調査する資料探索を「自虐」という人がいる。しかし、本書で記したように、東学農民軍殲滅作戦で、大本営が農民兵士に、抵抗に立ち上がった他国の膨大な農民を殺させた。そのことが、自国への「自虐」なのだと思わざるを得ない。
まさしくその通りです。現代に即して言えば、日本に関係のない戦争で自衛隊を海外に派遣し他国の人たちを殺傷したとする。そのことで自衛隊のみならず日本そのものが敵視されて何らかの攻撃をうけたとする。しなくてもよい、あるいはしてはならないことを他国に及ぼすことによって自国の人々を脅かす事態に至らしめるとすれば、それは支配者による自衛隊員と自国民への自虐的行為に他ならないのではないのか・・・という指摘です。「自虐的」という行為は、負の歴史を探索するものが負うべきものではなく、負の歴史を作る者が負うべきものだということです。
この本の中で、井上先生は明治期の「植民学」についてかなりのスペースをさいて紹介しています。
当時の植民政策やアイヌ政策の根拠地となったのが札幌農学校でした。1907年には東北帝国大学農科大学となり、1918年からは北海道帝国大学と昇格していくのですが、この各期間にわたって教官や卒業生たちが、政府の要職について、台湾、朝鮮、樺太、中国東北部での日本の植民地経営に深く関わっていくことになります。
この札幌農学校や東京帝国大学で植民学を講義した人物に新渡戸稲造がいます。彼の植民学の根幹には欧米と同じ「未開のアジアに対して文明を伝播する」という立場がありました。
むずかしい美文調の論文が残されていますが、井上先生の説明でそれを読み解けば、次のようになります。
朝鮮人は「有史前期」の民であり、朝鮮人は「民族的生活の期限を了しつつある」「死の風習」をもつ民である。朝鮮人民は「原始的人民」なのだが、その「野性的気魄もない」「歴史を持たない民」である。
政府の主流によってでっち上げられ、高名な学者によって理論づけられた朝鮮観が、それに続く侵略と植民地政策にどのように反映したかはもはや火を見るよりも明らかです。
こうした見方が日本の隅々に拡散され尾ひれを付けられアジア・太平洋戦争敗戦まで続いていくのです。だが、本当に私たちはその時点でこの考え方に終止符を打ったのか。決してそうではないはずです。今日まで在日朝鮮人に対する差別政策が延々と続けられてきたのだし、従軍『慰安婦』問題1つとっても全く克服している気配を感じない。
井上先生の労作は、あの時代の歴史を新しい視点で現代によみがえらせ、私たちに深く深く考えさせる材料を無数に提供してくれているのです。