東日本大震災のときもそうでしたが、刻々映し出される被害をテレビで見ている自分に実に違和感を感じてしまいます。テレビを切れば、普段通りの日常にもどるわけで、「経験したことのない大地震」と「何事もなく過ごしている私」の落差の大きさがその違和感の理由なのか。
いつどのような災害が降りかかるかわからないとはいえ、大抵は我が事としては絶対にとらえられないことでしょう。ですから、突然の災害に見舞われたときの恐怖は想像を絶するものがあるはず。まして突然命を失った方々の無念は計り知れません。ただただ亡くなられた方のご冥福をお祈りするばかりです。
福岡の大地震のニュースを見ながら、やはり「地震はこのようにして起こる」と思わないわけにはいきませんでした。どこでも過去最大規模の地震が起こりうるということです。すでに全国で活断層と判断されている場所では当然その可能性はあるわけですし、東南海沖や首都圏の近海での地震も警告されている通りです。
折しも地元自治会では「自主防災組織」の機能強化にむけての検討がすすめられています。実効ある組織となるように十分住民同士で話し合いを深めることが必要ですね。
沖縄には梅雨前線とおぼしき停滞前線がかかっていました。本土よりも1ヶ月ほども梅雨の早い沖縄ですが、それにしてもちょっと早いような気もします。
しかし、ここ池田でも、例年なら5月連休明けにようやく木々に薄緑が見え始めるのに、もうすでに東側の山では緑っぽくなってきていますから、3週間ほども季節が早まっているように見えます。
さて、その沖縄では、辺野古新基地建設をめぐる代執行訴訟の和解条項を受けて、国と県との話し合いや国地方係争処理委員会での審理が続けられています(話し合いや審理自体は東京で)。
気になるのは、国との協議(作業部会)の中で、「政府は米軍北部訓練場の一部返還に伴うヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の移設について、工事現場への進入路をふさいでいるテントなどの撤去に協力するよう要請した。県は文書での行政指導に応じる方針を伝えた」と報道されている点です。
辺野古大浦湾に敷設されたフロートの撤去は当然としても、それにあわせてヘリパッド建設に強く反対している住民の抗議の意思表示を「行政指導」でやめさせるというのは理に合いません。
もともと翁長知事は辺野古新基地建設には明確に反対の意志を示し行動してはきましたが、東村高江のヘリパッド建設については明確な意思表示をしてはきませんでした。
現在高江では、政府が指摘するとおり工事現場への入り口はテントが張られて昼夜警戒態勢をとっています。それはなぜなのか。
もともとヤンバルと呼ばれる沖縄北部は米軍の広大な演習地が設けられていました。1995年に起こった米兵による少女暴行事件への沖縄県民の怒り(8万5千人の県民総決起大会など)に恐れ・不安を感じた日米両政府は、同年11月にSACO(沖縄に関する特別移動行動委員会)を設置します。その狙いは、沖縄にある米軍基地の「整理統合」および在日米軍基地の「地位協定の運用の改善」にありました。そして翌年1996年12月、いわゆる
SACO合意が発表されたのです。
それをまとめたものが次の一覧表です(沖縄基地対策課の資料・・・拡大版がリンク)。
これを見ればわかるように、まず普天間基地については5〜7年以内(つまり遅くとも2002年ごろまで)に日本に返還し、1500メートルの滑走路をもつ代替海上施設を追求すること、第2に、北部訓練場については面積の約半分を返還し、その代わりヘリコプター着陸帯を残余の同訓練地内に移設する、などというものでした。要するにすべてに「代替施設」の条件付きだったのです。
話はこの北部訓練場に限りますが、返還地域にあった7箇所のヘリパッドが移設される場所が明らかになって高江区の住民は驚きます。その予定地6箇所が高江地区をぐるりと取り囲むように計画されていたからです。(下の地図は沖縄タイムスによります)
高江区民はその直後にすぐにヘリパッド建設に反対する区民総決起大会を開き、また翌1997年には区民総会で反対決議を全会一致で決議しました。
その後数年は移設計画に表立った動きはありませんでしたが、2006年になって突然「ヘリパッド6箇所(1箇所減)の移設計画が決定した」と新聞で報道されたのです。それ以前にはどこにどのように建設されるのか、高江住民には一切知らされていませんでした。
さらに重大なことは、もともとヘリコプターの着陸帯として想定されていたものが、オスプレイに替えられるという話も「風聞」で伝えられてきました。
「高江住民はヘリパッド建設計画の中止を各関係機関に求めたものの納得のいく説明はされないまま、2007年7月には工事車両がやってきます。
高江区の住民に残された手段は建設予定地への侵入路近くでの「座り込み」を行うことと、「ヘリパッドいらない住民の会」を結成(2007年8月)してたたかいに立ち上がることでした。
これに対して、政府は2008年11月、座り込み住民が工事を妨げているという理由で、住民ら15名に対し通行妨害禁止の仮処分を那覇地裁に申し立てたのです。その準備書面では通行を妨げている車両番号も特定できなかったり、その場にいなかった8歳の子どもまで訴えるというずさんなものでした。(この間のやりとりは映画「標的の村」でくわしく取り上げられました)
現地のとりくみを応援するために弁護団が結成されて裁判のたたかいにたちあがります。1年にわたる異例の長い審理の結果、14名(子どもは取り下げられた)のうち12名は通行妨害は認められないとして却下。「住民の会」代表2名については「今後の工事を妨害する蓋然性が高い」として、通行妨害禁止の仮処分命令を下したのでした。
2009年12月には、住民・弁護団は仮処分の決定を不服として、那覇地裁に起訴命令を申し立てます。これに対して変わったばかりの民主党政権は2010年1月29日、仮処分決定について本訴訟を提起、何ら自公政権と変わらない姿勢を示したのでした。そしてその年の2月、国は高江住民対象の「説明会」を開催しますが、従来の説明を繰り返しただけ、オスプレイの飛行ルート、騒音、環境破壊などの住民の不安にはほとんど答えないままで終わり、その結果沖縄防衛局はヘリパッド建設予定地につながる進入路に仮設フェンス設置を強行したのです。
2012年に入って、従来のヘリに変わってオスプレイが配備され、直ちに高江にも飛来し訓練が開始されます。その後2014年3月には高江集落から最も近いN4地区のヘリパッド(2箇所)が完成してしまいました。そして、2015年1月には、北部演習場の返還もされないうちに米軍への
先行提供閣議決定されて、このオスプレイパッドを使っての
飛行訓練が常態化するに至ったのです。
環境省は沖縄「ヤンバル」の
「世界遺産」登録を目指すのだといいます。米軍演習地に隣接する部分が推薦区域とされている図を見ていると、一体政府は何を考えているのかとその頭の構造を疑ってしまいます。
それほどに豊かな自然に恵まれたところに米軍演習場があって生態系を脅かしているのなら、それを取り除くことが先決であるはず。まして、住宅地の上を我が物顔で飛び回るオスプレイの騒音被害は耐えがたいものです。それゆえ、日本の環境団体の代表はこぞってこの計画に反対する
声明を出したのです。
高江の現状について長々と書いてしまいました。これも、辺野古と並んで現在進行形の「新基地」建設計画の実態ですから、私自身もその経過について再度確認したかったからです。
そして、沖縄県が工事がすすむようにテントなどの撤去を行政指導するという、その態度に大きな疑問と憤りを感じたからでもあります。
辺野古代執行が強行されるなら翁長知事は自らテントで座り込むと語ったように、高江を訪問し住民を励ますべきであって、過去幾たびも理不尽な言動で翻弄されてきた高江集落の住民の苦渋の座り込みを排除すべきではありません。県は、行政指導よりも、国に対してオスプレイの配備をとりやめ、当然オスプレイを前提とした着陸帯の建設にも異議を唱えるべきだと私は思います。
もしこれから沖縄を訪問する予定がおありの方は、辺野古だけではなくヤンバル高江もぜひ訪問されることをお勧めします。