bottom

azumino.jpg


  7月29日(土)
稲田さんがお辞めになるときにぶら下がり記者に心境を聞かれ「空です。空」とおっしゃいました。普通なら神妙に反省の弁をのべるところでしょうが「空」とはまた何と空疎なコトバ。深遠な意味なんてあるはずもなく、要するに「カラッポ」ということじゃないでしょうかね。このコトバに彼女の本質が凝縮しているような気がしました。
だいたい弁護士資格を持つ人物が、公職選挙法について知らないはずはない。これもまた知識だけはもっていても何ら身についた生きた知識になっていない典型でしょうし、教育勅語が価値観の軸に据えられているようなお方が日本国憲法の体系を土台に仕事をしなければならない弁護士がつとまるなんてとうてい思われません。
戦前回帰の心情を共有するという「うれしい」人物を発掘した安倍さん、「招来の首相候補」とまで思い定めたものの、その末路は哀れでしたね。
稲田さん、実は沖縄では何度も怒りを呼ぶ発言をしていました。6月15日の参議院で「移設先の沖縄県名護市辺野古の新基地が建設されても、それ以外の七つの返還条件が満たされない場合は普天間は返還されない」と答弁、辺野古の新基地建設では「漁業権は消滅した」とこれまた弁護士らしからぬ発言、結局これが県の訴訟提起へと繋がることになりました。
昨年9月13日には、東村高江でのヘリパッド建設に自衛隊機で重機を運ぶという大臣命令を出したことがあり問題になりました。その日の記者会見で陸自投入の根拠を問われ「防衛省設置法4条19号だ」と主張するも、記者から自衛隊法6省違反ではないかと詰め寄られ、逆ギレした稲田さん。詳しく報道されていましたね。

さて、その沖縄では7月24日に新基地建設工事の差し止め訴訟を那覇地裁に提訴。岩礁破砕許可を得ないのは違法だとしての訴えですから、極めて限定的であるとはいえ、あらゆる手段で阻止するとした翁長知事の公約に従った措置です。判決がでるまで工事を止めることを求める仮処分も申請しているのですが、沖縄防衛局は全く無視。これまでのK9護岸に加えて、9月にはK1護岸、N5護岸の建設工事に着手することが分かっています。連日辺野古で座り込みや海上での抗議行動が行われていますが、これからが勝負どころ。
全国で安倍内閣を追い詰めるたたかいを展開することが、沖縄のたたかいと連動し、励まし、基地建設を断念させることにつながりますね。いまこそ大きなチャンスです。



  7月27日(木)
我が家の南側の縁側にいつもつくっているゴーヤーのカーテンがようやく完成。今年は植えた本数が少なかったのでどうなることかと心配していましたが、ここしばらくの雨で急速にツルが伸びて、一面のグリーンになりました。
といっても、ゴーヤーの実そのものは例年にくらべて非常に少ない。毎朝雌花を見つけては強制受粉をしているのですが、3、4個見つかればいい方。これからのツルの伸びに期待するしかありませんね。


今日は朝方ちょっと晴れ間が出たので、バラ園の作業に出向きました。数人参加していて約1時間ほど草取りや花殻摘みをしていたのですが、そのうち細かい雨が降り出し次第に強くなって、10時過ぎには今日の作業は中止。残念でした。
雨は心配だったものの、今日は「こどもじゅく」に野菜を届ける日なので畑に向かって沢山実っているトマトを収穫。重くて持てないほどありましたよ。一部は今週末に妻が富山に出掛けるので、娘のところに持って行くことになっており、それでも「こどもじゅく」には沢山届けることができそうなので、よかった。
キュウリの終わる頃に収穫できたらと思って植えた地這キュウリが大変なことになっていました。狭いところに集中して植えたので、ものすごい混みようで、その茂みの中に数十本の食べ頃のキュウリが。これまたバケツに一杯収穫できて、「こどもじゅく」へのいいお土産ができました。ただ次の「じゅく」が8月3日なので、それまでに出来すぎてしまいそう。
というわけで、最近の我が家の食卓は、とにかくキュウリ、トマト、レタス、タマネギばっかり。まあ、近隣のお宅でも似たようなものですかね。

さて、お昼のワイドショーを見ていると、加計疑惑報道 や稲田問題とともに、「このハゲー!」を経て自民党議員の不倫報道や政務活動費の不正使い込みなど話題に事欠かない。今井議員のニュースを見ながら妻は「沖縄の恥だ」と一言。
新幹線の中での手のつなぎ方を「恋人つなぎ」というのを聞いて、「我々が腕を組んであんな風に手をつないだら『介護つなぎ』と言われるんだろうね」と2人で話しておりましたよ。ガックリ。



  7月26日(水)
私の住む滝沢地区では、大地震などの災害に備えて機能する自主防災会組織をつくることをめざし、今年度から活動を始めています。
これまでも組織はそれなりにあって、毎年防災訓練などを行ってきましたが、役員が自治会の役員と重なっているためにひんぱんに交代していたのです。
何年か前から被災地の経験などをふまえ、実効的な組織にしていくべきだという気運が高まって昨年度一年間議論が行われ、ようやく恒常的な組織が発足することとなりました。
今日はその2回目の役員会。実は私も年度替わりの会議で役員の一員に選出「ほとんど指名?」され、三役の下の総務、企画、訓練、安全対策の各班のうち、企画班の責任者ということになってしまいました。
私の仕事は一体何なのか?何を企画するのか、わからないまま臨んだ役員会でしたので、ともかくゼロからの出発。前回の役員会の話合いを踏まえて、いくつかの仕事を行って会議に臨みました。
畑仕事の合間にその作業を行っていたので、日記に向かう時間がほとんどとれないという羽目に(言い訳)。

地域の防災という問題を考えると、実に様々な課題があることに気付かされます。おそらく日本中のかなりの地域では日頃の「訓練」などは行われていても、本当に実効性のある対策はとられていないというのが実状でしょうね。
だいたい都会では隣に住んでいる人すら知らないというくらい「地域」性は壊れてしまっていますから。従って都会には都会なりの対策の立て方があるし、地方では地方なりの対策があってしかるべきです。また、大地震と言った場合に、海の近くではまず津波対策ということになります。その際の基本は「つなみてんでんこ」。避難してからどうするかが地域の課題であるのに対して、私の住む平地・中山間地混合の地方では、山崩れや古い家屋の倒壊、農地の破壊という問題が大きい。
また、日頃の避難訓練や救助訓練でも、参加者は非常に少ないことからわかるように、本当に重要な課題として意識されているとは言いがたい実状があります。
私自身にとって、こうしたゼロからの出発はかえって好都合。認識の弱い人たちの気持ちもわかるし、何をしなければならないかも現実的に考えることができます。
というわけで、滝沢地区防災会は、公的な機関の指標に捕らわれず、自らの頭で考えて最も効果的な防災対策を編み出そうと足を踏み出したわけなのです。

私が考えるに、大地震に襲われたとき、まず何をするかです。続いて、どうやって避難するのか、また隣近所に倒壊家屋などがあったときにどう救助するのかが最も重要です。つまり初動にカギがあるということ。
避難所でどう生活を確保するのかはその次の問題となります。
そして、実はもっと重要なことは、落ち着いて初動に移れる状態を日頃から作っておくという問題。
今日の会議では、来月の下旬に全町いっせいの防災訓練があり、それにむけてよりくわしく方向付けをしていくことになりました。

実は、この問題を考える上で、2年前に起こった白馬・小谷村を中心とする震度6弱(一部6強)の大地震の経験が貴重なものであることをあらためて痛感しました。マスコミなどで「白馬の奇跡」などと持ち上げられていますが、普段からの備えと近隣住民の助け合いが実を結んだだけだということ。もちろん、簡単なことではありませんが・・・。
白馬の集落で出来たことが池田で出来ないはずはありませんね。私自身、役員によるタイムリーな企画と粘り強い働きかけがあれば、多少時間はかかっても必ず「やっておいてよかった」という組織作りと対策が可能だろうと楽観しています。何しろ、いま始まった新自主防災会の役員任期は4年もあるんですから。
今後公開してもよい資料などは役員会の了解を得てこの場でまとめていこうと考えています。



  7月21日(金)
暑い暑いと言っているうちにもう7月も下旬。昨日はバラの会の作業を休んで、松本の病院でMRIの検査。診察はなく画像を撮っただけで診察は25日ということになります。ときどき我慢できないほどの痛みに襲われることもあるので、さてどうしたものか。
今日はまた2ヶ月ほどまえに受けた町の検診の結果説明。「中性脂肪が増えてますね」という話の他は、ほとんど問題なしでした。夏は毎日のように汗だくで農作業やバラの会の作業をやっていますから、腰の痛みを除けば体重は減るし筋力はアップしているし体調に問題はありません。

今日は、夕方から畑に行き、ポンプで放水。たっぷり水を撒いて来ました。この暑さですからほとんど焼け石に水状態ですが、少しでも地中に水分を入れておかないと作物もひからびてしまいます。
放水のあと、明日の「こどもじゅく」のためにトマトを大量に収穫、インゲンもバケツ一杯くらい収穫しましたよ。
仲間たちが、それなりにタマネギやジャガイモなどを届けてくれているので、多分子ども達は持ちきれないほどの野菜を抱えて帰ることになるのかも。何とか野菜応援プロジェクトが長続きするといいですね。

今日の午前中は、この時期恒例のブルーベリー狩り。大町の農家に出向いて熱い日差しの中、ひたすら取りまくりました。今年は剪定をしなかったので粒が小さいという話を聞いていたのですが、それでも粒の大きい木もたくさんあったので、妻と二人で約5キロ収穫。さっそくマンゴーを届けてくれた沖縄などの友人に送りました。


安曇野では直売所に出掛けると野菜だけではなくブルーベリーやスイカが並んでいますが、沖縄はマンゴーの季節。きっと直売所はマンゴーであふれているのでしょうね。



  7月18日(火)
本日は妻の誕生日。子ども達からもお祝いのメールが入っていました。今晩はどこかで外食をと思ったのですが、思い直して自宅でゆっくりと「お祝い」。本人はさほど嬉しそうではありませんが、ま、ごちそうを食べるチャンスと考えて過ごすことにしますか。
そりゃ、この年になれば誕生日だからどうというほどのこともなしですからね。それでも、何とか無事にここまで生きてきたことを喜び合う1つの機会ではあります。

奇しくも今日は聖路加国際病院の名誉院長、日野原重明さんの命日になってしまいました。100歳を過ぎても現役、まさしくPPK(ピンピンコロリ)を地で行く大往生でした。
東京新聞には日野原さんの生前の言葉がいくつか紹介されていました。

2009年、東京大空襲・戦災資料センターの「語り継ぐつどい」で・・・
今も忘れられない、ひどい戦争だった。地獄だった。子どもたちには『非戦』の世界をつくってほしい。

2015年7月、安保関連法案に反対する医療関係者の集会へのメッセージ・・・
人のいのちの重要性は医師が一番よく知っている。医師こそ平和の最前線に立って、行動すべきだと考えています。

2014年の著書「十代のきみたちへ」に関連しての東京新聞の記事・・・
私は戦争体験から憲法に関心を持ちました。かつて日本は戦争で間違ったことをした。だからこそ、憲法を守ることが命を守るためにどれほど大切かを、まず子どもたちに分かってほしいんです。

自らは徴兵検査の結果招集されず、聖路加国際病院で内科医として働いていたとき、東京大空襲で負傷した何百人もの都民を救えなかった経験から、先の発言が生まれています。戦場ではないにしても戦争の悲惨さを身を以て体験、いのちの尊さを訴え続けた日野原さんの遺志は、確実に受け継がれています。
ご冥福をお祈りします。合掌。



  7月17日(月)
一昨日と今日の午前中はバラ園の除草作業。今度の木曜日はMRIの予約日になっていて手入れ作業に出られないため、出来るだけのことをやっておこうというので臨時に作業を行っているのです。
木曜日だけの作業では除草が追いつかず、全体の整備も滞りがちになります。しかも作業に出る人数がこの頃はうんと少なくなっており、ちょっとネジの巻き直しを求められてもいるのです。事情はいろいろあるにせよ、なかなか難しい局面にさしかかっています。
その後は、畑へ。いまトマトとインゲンがピークを迎えていて、取りに行かないとすぐに赤くなったり大きくなったり・・・とにかく一斉に収穫時期を迎えてしまうので、その点夏野菜ってのはこっちの思惑通りにはいかないので大変です。










  7月15日(土)
「それは理想だ。現実をみろ」「何を青臭いことを言っている。大人になれ」「レッテル貼りばかりせずに建設的な議論を」・・・世の中の不正義に異議を申し立てようとしたときに、そのようなことを誰かに言われたことってありません?憲法9条、問題、原発、辺野古新基地などすべての問題について、そんな言い方がよく現れます。
しかし、よくそのような「批判」の根源をたどってみると、きちんと発言を分析し理をつくして何故にそれが「理想」にすぎないのか、なぜ現実を見なければならないのかを言うのではなくて、現状追認、現状肯定のためであることがほとんどであることに気がつきます。批判封じの実に都合のよい言い方だからです。
たとえば、辺野古新基地の建設も、「権力には所詮勝てないのだし、北朝鮮・中国の動きを見れば建設もやむを得ないのではないか」とか、「自衛隊は実際に存在するのだから自衛隊の実態にふさわしく憲法9条を変えることが必要である」とか。

最近では、「『「残業代ゼロ』制度(高度プロフェッショナル制度)の創設を柱とする労働基準法改正案」をめぐる連合の対応がそれにあたるでしょうか。
神津会長の記者会見でのコメントがニュースで流れていましたが、残業代ゼロの本質を労働者の健康管理にすり替えて、「法案がそのまま成立するのは耐えられない。できる限り是正するのが連合としての責任ある立場だ」というのですから、内部からも「裏切り」と言われるのも無理はない。安倍首相はさっそくこれに飛びついて法案を修正する意向を示して、労働者側の合意を取り付けたとばかり喜んでいるのです。
かつて労働組合運動に関わっていたとき、「可能性から出発するのではなく、実現性から議論を交わすことが大事だ」とか、「現実をよく分析し彼我の力関係や矛盾点を把握しよう」とかと話し合ったことがありました。「現実路線」とはそれとは全く違います。対峙する勢力への拝跪があり、忖度があり、結局敗北主義なのですね。
神津会長は「やむにやまれずという思いだ。あんな制度はいらないとの考え方は変わらない」と弁明したといいます。連合の出自から言えば「変節」でも「裏切り」でもないと私には思えますが、それでも方針として残業代ゼロ法案に反対してきた経過から言えば、労働者の期待を裏切るものであることは間違いありません。
神津会長の共産党嫌いはつとに有名です。「年明け解散・総選挙の匂いがプンプンしてきたが、理念も政策も水と油の共産党と共闘したら、国民から見放されます」と言ってはみたものの、新潟知事選でも東京都議選でも見放されたのは民進党であったという事実をどう説明するんですかね。それこそ現実をよく見てものを言ってほしいものです。「連合の役割は終わった」という日刊スポーツの指摘に素直に耳を傾けた方がよろしいのでは。

今日は日本共産党創立95周年。しんぶん赤旗では、いろんな人が期待をのべていました。
作家の中沢けいさん、「日本共産党はここ数年、すごく変わったと思います・・・変わらないのは党名。ちょっと頑固な人が多いのかしら。頑固に立憲主義を守るのが共産党だとみなさん分かっています」だそう。結局党名が変わらないのがいいのか悪いのか??
同志社大学大学院教授の浜矩子さんは「共産党には今後、ますます知性鋭く、舌鋒すさまじく迫って安倍政権を打ちのめしてほしい」とのべ、「安倍政権の体質と好対照なものを共産党は示しています。知的レベルの高さ、厳密性、議会がどういう場かをきちんと理解できている姿勢ーー政治の品位を保つ品質管理責任者としての役割を」と期待を大っぴらにのべていましたよ。
かつて私自身、政党助成金を一貫して受け取らない姿勢を貫いていることだけでも共産党を支持するに値すると書いたことがありましたが、いまでもその気持ちに変わりありません。「身を切る改革」などと豪語しながら政党助成金については一言も言えない政党もあるほどですから、共産党の実践力は際立っています。
ただ、志位=小池ラインのあとをどうするのか、ちょっと心配。宮本、不破、上田、金子・・・きら星のように優れた指導者を輩出したこの党は、ほぼ例外なく実践と理論を統一した人物ばかりでした。今後も、知性と人間味にあふれ、同時に国際的にも他党の追随を許さない実力を備えた人材を育て鍛えていってほしいものですね。



  7月14日(金)
10時近くから午後2時頃まで畑で除草と耕耘。妻はニンジン、トウモロコシ畑の草取り。私はすでにニンニク、タマネギなどを収穫したあとの畑に肥料をやって耕耘機で整地。肥料を土に馴染ませたあと、次の作物を植える準備にとりかかります。
曇りがちだったものの暑さは相変わらず。1日作業をしようと思っていたけれど、さすがにそれは無理。かえってからぐったりとしてしばらくお昼寝。
妻はなかなか元気で、今日町中で「ビアガーデン」が開かれるというので、うきうき。一緒に飲めるお友だちを一生懸命探していました。幸い、同じ思いでいた方がいたようで、いそいそと出掛けていきました。いまごろもりあがっているのでしょうね。私はアッシー君です。

今朝ニュースを見ていたら、富山の有名企業「不二越」の本間博夫会長が会見で「富山で生まれた人は極力採らない」と発言したことを大きく報道していてびっくり。なんじゃそれは?と思ってよく聞いていると、「偏見かも分からないが、閉鎖的な考え方が強い」のがその理由で、「富山で生まれて幼稚園、小学校、中学校、高校、不二越。これは駄目です」「富山で生まれ地方の大学に行ったとしても、私は極力採らない」のだそうです。地元紙も大きく報道
この会長、どれほど開放的で視野の広いお方か知りませんけれど、よほど狭量な富山出身者と何か特別なことがあったのでしょうか。
不二越といえば、戦後ベアリングでは他の追随を許さないほど有名な会社で、私が子どもの頃から富山を代表する企業でした。つまり富山の人々に支えられて成長してきた会社なのですよ。
ホームページでは、その後「分け隔てなく、人物本位で採用している」などと書き、会長発言について「報道ではわれわれの真意が伝わっていないため」と弁明したらしい。だが、真意も何も、発言の通りでしょう。思わず出てしまった”ホンマ”の気持ち。
私が見る限り富山は昔から上昇志向が強く、都会(東京)に憧れを持ち、新しいものずき。それはともかく、日本のどの地域にいようが、目を外に向けていれば閉鎖性を打ち破ることは可能ですよね。
閉鎖性をもし感じたならば、それは企業の責任であると自覚し、企業のトップが率先して世界に目を広げ、開放的な人間関係、ものづくりでの進取の気風を社内全体に広げるべきでしょう。責任を他に転嫁するのはよろしくありませんね。ホンマさん。
富山出身者として一言申し上げました。



  7月13日(木)
ひろこさま
お手紙拝読いたしました。いつもながら心こもる文面にあなたの優しい人柄を感じてうれしくなりました。
さて、今日は母の祥月命日でした。簡単にお参りをする程度にしかなりませんでしたが、最後に残った叔母の葬儀を経て、改めて藤村の血をわけた女性たちの生き方を考えています。全くあなたのお手紙にしたためられた通りですね。
母は私が中学・高校生のころによく言っていたものです。いつ戦争が終わるとも知れず、夫が生きて帰れられるかどうかもわからない疎開生活の中で、お腹を痛めた我が子だけは守らなければならない、私が味わった辛い思いをさせたくない・・・・。
1歳ちょっとで里子に出され血のつながりのない祖父母(私からみての祖父母)のもとで養育され、さらには尋常小学校しか出ていない見ず知らずの父を養子にして結婚を決められたのですから、どれほど苦労の多い生活を強いられたか想像もできません。何しろ、祖父母は全く私たち兄弟の面倒はみない主義でしたから、物心ついた頃には他人の家に預けられていたことしか覚えていないのですよ。
それでも父母は愚痴1つこぼさず、子ども達に当たったりすることもなく、惜しみない愛情を注いでくれたのでした。いまにして思えば本当に不思議な父であり、母だったと思います。
「藤村家の姉妹は表にあらわれる景色は少し違ってはいたけれども、姉妹みな共に艱難辛苦に負けてはいない。しなやかな強さでそれぞれが自分らしく生き抜きました。そしてその誠実さと底抜けの優しさを私たちに与え続けてくれたのだと感じています。確かな藤村家の血でしょう」・・・あなたはそう書いていましたね。私も全く同感です。
ただ、私の母の場合は、小学校の教師という立場からさまざまな人々の中で泳ぐすべとしての「処世術」を気にし、体面を殊の外重んじるところがあって、ときどきは私と衝突もしたことがありました。ただ、それも「自分のようにはなってほしくない」という思いの裏返しだったのだろうと今は思っています。劣等感を持ち前の勝ち気で補い、子どもに期待するという気持ちが人一倍強かったからなのでしょうね。
そんな面はあったのにしても、私はやはり母と母方の一族の影響を最も強く受けていると思っています。弟は全く逆で完全に父方の方とばかりつきあいがあったのですから、これまた不思議なことです。

さて、久しぶりのあなたからのお便りを読みながら、つい高校生から大学生のころに毎月のように交わしていた手紙のことを思い出します。わが奥さんに「文通してたんだよ」と言ったら「ええっ、いとこなのに」とびっくりした様子。ま、あなたの旦那様も知らない頃の話ですからね。とにかく長い長い手紙をよくもまあ飽きずに書いておりました。お互い。
その結果、私がヒロシであなたの旦那もヒロシで、あなたがヒロコという何とも言えない巡り合わせ。神様の思し召しってやつですかね。
仙台から富山に帰る途中何度も南区のお住まいに寄せてもらいほとんど夜通し語り合ったこともなつかしい思い出。何を話したかはさっぱり思い出せませんが、きっとあなたが大学で貧民街のボランティアサークルに関わることになったことや、世の中の矛盾についてあれこれ議論していたのでしょうね。
たくさんのいとこたちと知り合いにもなれました。その結果、いとこ会をやろうという話になって、30人もあつまってしまいました。すごいことです。
私にとって、高校生の頃からどんなことでも包み隠さず話すことができる、その意味では友達以上の友達でしたから、それが現在までこのように続いていることが本当に嬉しいのです。あなたは、社交的な性格だけれど堅実で人一倍気配りが出来る人、千鶴伯母さんだったからこそこれほど健やかに心豊かに成長したんだろうな、と心底思いますよ。
ま、私の奥さんがみたら、初めは何を書いているんだと目玉が飛び出るほどびっくりするかもしれませんね。いいじゃありませんか、奥さんは奥さんで私の最も大事な人なのですから。おおらかに聞いていてくれるでしょう。

話は少し変わりますが、苦労という点では、私の奥さんの家族と奥さんの方が幾倍も苦労をしているのは間違いない。それだから、ともいえますが、私は沖縄の母が大好きです。藤村家の女性たちと同様に、戦中から戦後の時代を「自分が抱えた辛さも哀しみもすべてを受け止めながら」生き抜いた一人の女性なのですから。
一人一人の生き方から、学ぶことは本当にたくさんあります。私たちが、子どもたちから逆にそのように受け止めてもらえるのだろうかと心配になりますね。あまりにもわがままに生きてきてしまいましたから。あなたも同じことを言っていましたっけ。
お便りを読みながら、あらためて私たちがさらに次の世代に何を託すのか、死ぬまでに何ができるのか、考えたいと思わされています。
長くなってしまいました。
またお便りしますね。おやすみなさい。

追伸:4年前に施設に入った叔母様のもとを訪問したときにカメラの録画機能を使ってうつした動画を紹介しますね。先に亡くなられた夫君と結婚したのは夫の社会奉仕だったと冗談めかして話し、そのあと私が学生時代に松任の叔母の家を訪れた際に私を押し売りと間違ったときのことを思い出して話しているシーンです。

施設で話す生前の叔母(mp4)



  7月12日(水)
オリバー・ストーン監督映画の「スノーデン」には、もし日本がアメリカの同盟国でなくなった日には、アメリカによって日本の国内のコンピュータにしかけられたマルウエアが発動し、パネルに映し出された日本列島の光が次々と消えていく衝撃のシーンがあります。
オリバーストーン監督に、 新潮社フォーサイトの内木場副編集長がインタビューして、あの画面は本当か?と質問しているのですね。
質問は次の通り。

――スノーデンはNSA在職中の2009年、在日米軍の横田基地で勤務していた。映画では、日本の通信網を支配し、送電網やダム、交通機関などインフラ施設をコントロールする『スリーパー・プログラム』を仕掛けていたという本人の告白場面がある。日本列島の南から順に街全体の灯が消えていき、すべて真っ暗になる映像に、『日本が同盟国でなくなる日が来たら、"消灯"』というスノーデンの台詞......。これはどこまで真実なのか。

これに対してオリバーストーン監督は次のように答えています。

僕は、彼が語ったことはすべて真実だと考えている。NSAは当初、すべてを監視したいと日本政府に申し入れたが、日本政府は拒絶したという。しかしそれでもかまわず盗聴・監視し、民間の様々なネットワークにプログラムを仕込んでいた、と彼は語っていた。
ただ、原子力発電施設に関しては彼の口からは何も聞いていないが、僕自身は、恐らく別のやり方で何かをしているのだと思っている。・・・・
日本を含めアメリカの同盟国と言われる国々は、僕は現実には同盟国ではなく「アメリカに人質を取られた国」だと思っている。日本ももし同盟関係から離れることになると、スノーデンが語ったような「脅し」を受ける事態になるのだという、極めてセンシティブな状況、問題であるということを日本の皆さんにもよく考えてほしい。


要するにアメリカはそこまでやれる実力を持っているのだということを示したいのでしょう。もし仮にもそのような事態を起こったとしたら、これはアメリカの国際的孤立と敗北の決定的瞬間を迎えるわけですから、そんなことが軽々しくできるわけがない。問題は、アメリカの情報機関が極秘裏に諜報と謀略に血道をあげているという事実が暴露されたということです。
スノーデンは「英雄か犯罪者か」という設定が一時マスメディアを賑わせましたね。この映画を見れば、そのような設定自体が無意味であることがわかります。彼はもともと傷つきやすい普通の青年だったのです。だが、彼は組織内部の実態を見聞きするにつけ、その仕事であらゆる人々の情報を集める仕事に従事するにつけ、その恐ろしさと非人間性に疑問を持ち、足を前へ踏み出そうとした。彼にはその知力と勇気があったのです。
もちろん、誰でもスノーデンになれるわけではありませんね。むしろ任務でありそれが国益なのだと言い聞かせて盗聴や個人情報を集めることに従事している方がよほど多いのです。また、それを責めることはできません。
彼がコンピュータの技術を誰よりも身につけ、内部事情に精通した才能豊かな青年であったこと、付き合っていた女性が豊かな愛情の持ち主であり信頼しあうにたる人物であったこと、イギリスのメディアや彼を守ろうとした人々の連携した活動が分厚く構成されていたことなど、内部告発にいたるにはそれだけの要因が重なっていたのでした。
歴史がこうした勇気ある人間を生み出すことは避けられません。それには、当然ながらそれを支持する、これまた分厚い支援や共感の輪が存在します。ナチスの追跡からユダヤ人を守ったデンマークの人々も、あたりまえのこととして逃亡の手助けを実行しましたね。
当たり前のことが通らない時代だからこそ、当たり前のことが貴重になる。いつでもその感覚を失わないように人々の連帯やつながりを大切にしていかなければならないと思うのです。
折しも、共謀罪法が発効しました。いつのまにかこの法律が普通のこととして認識されるような時代にしてはならない。一刻も早く戦争法と同様、国会の多数で廃棄しなければならないと改めて思わされています。

さて、明日は母の10回忌。もう10年になります。母、その妹、その姉とみんな命日は7月に集中しているのですね。今日は一番上の姉の娘(いとこ)から丁寧な便りがありました。これについてはまたいずれ書くことにしましょう。
午前中はバラの会の仕事、午後一番で役場にでかけ公民館問題での協議、その後は松本での「こどもじゅく」と終日いそがしい。



  7月11日(火)
過去に持っていたもので倉庫に入れてあったものとか、雑誌その他細々した雑貨とかが増えてきて収拾がつかなくなったために、何年か前から少しずつ整理し不要なものは棄てるようにしてきました。本もハンパな量ではないので、もう読まないと思われるものは処分。
ところが最近、ある本を探していたのにどうしても出てこない。処分したはずはないのに・・・いや、もう読まないからと棄てたのかな・・・などと思っても埒が明かない。
やむなく、ネットで古本を探すことに相成りました。

その書名は「新しい幾何学の発見」(リワノワ著 東京図書)といいます。
著者のリワノワさんにはこの本以外に「リーマンとアインシュタインの世界」という本があって、1991年の復刊本を読もうとしていたら、その中に「新しい幾何学の発見」についての記述が出てきたので、改めて読み直そうと思ったのです。
中身は、カルル・フリードリッヒ・ガウス、ヤーノス・ボヤイ、ニコライ・ロバチェフスキーという非ユークリッド幾何学の創始者たちの物語であり、新しい学問の発見にまつわる「科学と人間にまつわる葛藤のドラマ」(訳者)です。
この本、1961年の初版でいまではもちろん絶版。多分学生時代に読んで以来数学への憧れをかき立てたものだったので忘れがたい本の一冊だったのです。のちにこの本は「ロバチェフスキーの世界」として再刊されているようなのですが、中身はいっしょ。
まずアマゾンで探してみましたが、旧名では該当なし。再刊本は中古で何冊かアップされていたものの、何と5,980円、9,980円、14,901円と信じられない価格設定。あんまりです。
半分諦めかけて、「日本の古本屋」で古書検索をかけてみたところ、どうでしょう。初版本で700円〜800円で何冊も出ているではありませんか。「ロバチェフスキーの世界」でも2000円でしたよ。
というわけで無事入手することが出来た次第。

私たちの住んでいる(と思っている)この空間はユークリッド空間といいます。要するにまっすぐな直線、まっ平らな平面を含む空間のことです。
この空間での幾何学を公理(ユークリッド原論では「公準」)的に構成したのは紀元前の数学者ユークリッド。彼は、この空間の幾何学を5つの公理(定義)と5つの公準を自明の真であることがらとして、これらを議論の出発点としすべての幾何学を建築したのでした。
5つの公準とはつぎのようなものです。

1.任意の一点から他の一点に対して直線を引くこと
2.有限の直線を連続的にまっすぐ延長すること
3.任意の中心と半径で円を描くこと
4.すべての直角は互いに等しいこと
5.直線が2直線と交わるとき、同じ側の内角の和が2直角より小さい場合、その2直線が限りなく延長されたとき、内角の和が2直角より小さい側で交わる。


最後の5番目を「第5公準」といい、「直線外の一点を通るこの直線の平行線はただ一本に限る」と言い替えることができます。これだけは、1〜4と異なって異様に長く複雑な形をしていますね。古来それが大問題でした。
ユークリッド自身もそれ以後の数学者も、この第5公準は「定理」(他の公準から導かれる性質)ではないかと考え、証明しようとしたのですがダメ。その後千数百年にわたって誰もこの問題に決着をつけることはできなかったのでした。
ロバチェフスキーは、「この第5公準が証明出来ないものであるとすれば、平面上において直線外の一点を通り、与えられた直線に決して交わらない直線が、1本だけではなく2本でも10本でも一般に無限に多く存在する、と仮定しても構わない」と発想を切り替えたのです。事実ロバチェフスキーはユークリッドの第5公準を否定して、オルタナティブな独自の世界へ足を踏み入れ、ユークリッドと同様に何ら矛盾のない幾何学を構成していったのです。

現在では「時間が力や質量に密接に関連し、空間の構造も、従ってその幾何学もそれらに依存している」(ロバチェフスキー)ということはいわば常識になっています。つまり私たちの周りの空間は実際には非ユークリッド的なのだということ。こうした宇宙の科学の進歩に先立って、すでに数学の世界でそれらを先取りした数学者たちがいたという事実は知っていてよいことです。
数式をあやつってそれらを極める必要なんてありません。その要となることがらをつかめばいいんですね。これらの人たちは問題の本質をどうつかみ、どのように新しい学問を構築していったのかを知ること、リワノワさんは実に見事にその役割を果たしてくれています。

非ユークリッド時空のごくごく特殊な空間がユークリッド空間なのである。
そこではさすがに第5公準が成り立っているけれど、それは画用紙をせいいっぱい広げた人工空間だと思ったほうがいい。
地球にジオイド地球を想定してわれわれはやっと地球を球体とか楕円球に見立てているように、ユークリッド空間はパソコンの原則平面に描いた"設計"上の空間なのである。
そのように考えないかぎり幾何学は証明できない。サッケーリもボヤイもガウスもロバチェフスキーも、そのことを確信した。
17歳の少年はまずこのことを知ってから大人になるべきだ。
                             <松岡正剛の千夜千冊




  7月10日(月)
今日もめちゃくちゃ暑い日。午前中畑の水遣りに行ってきましたがどれほど効果があったのか。たくさん水をかけてはきたのですが。
午後からはさすがに外にでる気になれず、夕方5時頃から収穫したタマネギとニンニクの保存作業をして今日は終わり。

九州北部の水害・土砂災害のひどさを見るにつけ、痛ましさに言葉もでません。何かできることはないのかと、いつものことながら悩みます。
被災地支援ネットは全国的な大災害に始動することは当然なのですが、とくに基準を設けているわけではありません。ですから、誰かが言い出しっぺになり、目標が明確に定まればみんなで協力するという、いわば柔構造の組織。義援金だけの支援ということになれば、別の組織でも可能なのですから特別に何か手立てを講ずる必要性は低い・・・あれこれ考えているうちに日が経っていきます。近ければ、当然ボランティアの組織も視野に入れるべきなのでしょうが、何しろ遠すぎる。
突然の災害に命を奪われた人たちの無念を思えば、生きている私たちは何だってできると思うのですが。まず政府、行政が緊急かつ適切な対応をとることが先決。そのうえで、私たちに何ができるのかを考えていくべきでしょう。

さて、読売新聞が内閣支持率急降下を報じて話題となっていますね。内閣支持率36%(前回49%)、不支持率52%(前回41%)。
NHKの世論調査でも支持率35%、不支持率48%、NNNでは支持率31.9%、全体として女性の支持率は20%台というのですから、もう安倍さん終わりですね。
これは安倍とりまきの低劣さということは当然としても、より愚劣なのは安倍首相自身であって、これまでは他に変わる人物がいないと思っていた人たちも、その本質に気がつき始めたということなのでしょう。
東京都議選でこれだけ自民党に鉄槌が下されたという勢いもある。つまり安倍自民に変わる勢力が見えたと思うときは、当然ながらそちらになびく。容易には安倍自民には戻らない。
菅官房長官の人を食ったような記者会見などは、お昼のテレビをみている女性のみなさんには耐えがたい屈辱と映るでしょう。次から次へととんでもないことをしでかしてくれるお友だちの姿を見ていれば、嫌でも彼らの実像が見えてくる。
自民・公明はあの手この手を使って支持率の回復を目論むことでしょうが、今度は自民党だけではなく与党である公明党もその一翼を担っている勢力として指弾されることになる。国政となれば公明党にはもはや逃げ場はありません。
安保法制、共謀罪などですでに安倍自民と同罪なのですから、連中のまやかしをどこまで広く明らかにできるのか、具体的事実を通して鮮明にしていかなければなりませんね。

**********************************

以前ちょっと気になっていたものがありました。池澤夏樹さん個人編集の日本文学全集です。
先日本屋(いやいやDVDのツタヤ)に行ったついでに棚を見ていたら、たまたまそのうちの一巻「枕の草紙、方丈記、徒然草」があったので、衝動買いをしてしまった。本来このような全集ものは図書館で借りて読むというのが正解なのでしょうが・・・。
そのうちの方丈記は高橋源一郎さんの現代語訳。それもなかなかポップな訳で、短編ですからすぐに読んでしまいました。
方丈記といえば、高校生の頃に古文で有名な書き出しをちょっとだけ見た程度で、それ以来読んでみようなんてついぞ思わなかったんですけどね。
で、ここで書きたいのは、方丈記の感想ではありません。浅見和彦さんが「解題」の中で「日本で最初の災害文学と呼ばれるゆえん」と書いていらっしゃったとおり、鴨長明はこの「モバイルハウス・ダイヤリーズ」で竜巻、大飢饉、大地震などについて事細かに書き留めているのですね。
そのころ、恐ろしい災害が立て続けに起こっていた。その出来事は現代でも当然あり得るし、長明さんの描写もまたそのまま通用するということを書きたかった。もっとも3.11以後、方丈記についての感想はたくさんネット上でも現れて、似たようなことを書いていらっしゃるので別に新しいことでも何でもないんです。念のため。

長明さんは、1180年に京の都を大きな竜巻が襲ったときの様子を書き留めた後、「それにしても、竜巻そのものは珍しものではないというのに、あまりに被害がひどすぎる。もしかしたら、これは、なにかの警告なのかもしれない。そんな風に思いたくなっても仕方ないような事件だった」(高橋訳)と書く。
大震災についても同様で、高橋さんはこの節を「アルマゲドン」としています。長明さんは大震災の様子を書き留めた後、この節の終わりに面白いことを書いているんですね。

すなはち人皆あぢきなきことを述べて、いさゝか心のにごりもうすらぐと見えしほどに、月日かさなり年越えしかば、後は言の葉にかけて、いひ出づる人だになし。

=震災の直後、人々は、少し変わったように見えた。目が覚めた、まったくどうしようもない社会だったんだ、といい合ったりしていた。おれたちは、欲に目がくらんでいたんじゃないか、とも。そう人も社会も、震災をきっかけにして変わるような気がしていた。
だが、何もかわらなかった。時がたつと、人々は、自分がしゃべっていたことをすっかり忘れてしまったのだ。(高橋訳)


貴族社会から武家社会に移り変わろうとする動乱の世の中で、結局モバイルハウスで一人暮らしをはじめた長明さん、突き放したような書き方をしてはいますが、結構これで世の中の動きに鋭く反応しているのですね。3.11のあとにこれを書いたんだよと言ってもちっともおかしくないくらいに新鮮です。いま、全国でしきりに起こっている自然災害を見たら長明さん何と書くのでしょうか。



  7月9日(日)
朝からめちゃくちゃ暑い1日。多分ずっと庭の手入れ(主に草取り)をしていたので、よけいにそう思われたのでしょう。流れる汗で外での作業が滞るほど。
畑の作業が一段落したので、今日から2,3日ようやく庭の手入れに手が届くようになりました。アブラナ科の野菜は小さいやっかいな虫にきれいに食べられ、無残な姿に。キュウリは大型のウリのようになり、ドクダミやスギナが生え放題。とにかく徹底的にやっつけないといけないので、勢い時間がかかってしまいます。雨が降ればまた元の木阿弥になりそうで、こんなたたかいが9月頃まで続きます。

この7日、国連で「核兵器禁止条約」が加盟国のおよそ2/3の賛成で採択されました。核兵器を非合法化するこの条約が採択された意義はどれほど強調してもしすぎることはないでしょう。
核保有国やアメリカの同盟国などが参加していないことをもって実効性に疑問を投げかけたり、核保有国との溝の拡大を懸念する向きがないわけではありません。
だが、これまで核保有国の身勝手な論理に振り回され、核廃絶を永遠の彼方に追いやろうという潮流に抗して、ようやく非核化を願う世界の大きな流れが1つにまとまって実現したものです。そこには核廃絶を願う日本と世界の「ヒバクシャ」の粘り強い働きかけがあり、各国のNGOなど市民レベルの運動の広がりがあり、国際条約をめざして奮闘してきた国々があったのです。
この国際条約が核保有国の「核抑止力論」などを縛り、核兵器を廃棄させる力を持つことは明らかです。しかし、それは当たり前のことですが、自動的にはそうならない。とりわけアメリカの核に「依存」することで、「安全保障」を確保するという逆立ちの日本こそ、まずそれを棄てて加盟し被爆国としての役割を果たすべきです。国内での政治の変革無しにはありえないことではあっても、声を上げ続けることがその大きな条件になるのです。
歴史は変えられる。このようにして私たちがつくっていくということを実感させる出来事ですね。

 


  7月8日(土)
グリーンファームからいただいたキャベツ8個、Yさんのキュウリ、それに私の畑で採れたトマトとインゲン、ナスなどを持って、今日の「こどもじゅく」に出掛けました。こどもじゅく応援野菜プロジェクトの初日、たまたま、別のルートでキャベツ、タマネギ、ジャガイモが届けられたので、今日は教室はまるで八百屋の店先のよう。
タマネギ、ジャガイモは保存しておけるので、とりあえずキャベツ、キュウリ、トマトなどを袋詰めにして帰りがけに一人一人に手渡しました。リュックが重くて大変そうでしたが、みんなお土産にたくさんの野菜を抱えて帰って行きましたよ。うんと野菜をたべて元気な子になってほしいものですね。

今日は、なぜか5時半頃に目が覚めてしまい、6時から前の道路脇の法面の草刈り、続いてバラ園に出掛けてやはり草刈り機を使って草刈り。朝食後に畑に行ってトマトやナス、キュウリ、インゲンを収穫して午後からの準備。松本から帰って、また畑に行って妻と作物の手入れを行い、なんだかんだと夕方まで野菜に囲まれた1日でした。
先日の雨で草が伸び放題。2日も降り続くと草の伸びが普通と違います。1日10センチくらい、3日も放置すると30センチくらい伸びるので、ホントに大変なことに。野菜も同様で、キュウリやズッキーニはお化けのようになるし、先日植えたニンジンなどは草なのか芽なのか分からない状態に。妻はせっせとニンジンをよりわけで草だけを取り除いておりました。
畑とバラ園優先の日課が続いたために、我が家の庭が今度は大変なことになってしまい、明日は少し見られるようにしないといけません。夏野菜の収穫の時期が始まって、毎日毎日がとにかく戦争状態です。

 


  7月7日(金)
昨日の昼過ぎに妻とともに池田を発って、今日正午から執り行われた叔母の葬儀に参列しました。
昨夜は北陸道美川インターのすぐそばのホテルに一泊し、余裕をもって松任の式場へ。叔母の長女は20年ほど前に亡くなっており、次女とその息子が中心に葬儀をとりしきり、参列したのはごく身内の者だけ。聞くと昨夜の通夜には近所の方々などもっと多くの参列者があったということでしたから、それに比べれば今日の式はほんとうにささやかなものでした。
北陸では、葬儀が終わってから斎場に移って火葬に付し、その間初七日の法要を行うという段取りになります。ところが信州では順番が違って火葬に付すのが先。こちらに来て母の葬儀を行うときに戸惑ったことを思い出します。

葬儀の際には、棺桶の中の死者のまわりに花を飾って最後のお別れをすることになります。今回も法要が終わって「お別れの儀」となり棺の蓋が開けられ「どうぞお花をたくさん飾ってさしあげてください」と言われ、近づいたらもうダメ。小さくなって目を閉じた叔母の顔はほんのしばらくしか見ることができませんでした。それ以上見ていると号泣しそうで、耳元に花を2,3輪そっと置いてすぐに離れてしまいました。
命日は7月5日、92歳でした。晩年は娘夫婦との諍いがあって不幸な境遇を堪え忍ばなければなりませんでしたから、見かけの快活さとはうらはらにどれほど悲しい思いを抱えていたかと思います。
それでも、兄弟姉妹の子たち(私のいとこたち)はみんな気にかけてくれていて、本当に大切に接してくれていましたから、その点は幸せでした。
横浜に住むいとこが丁寧で心こもる弔電を寄せてくれ、いとこの母(叔母の姉)が存命中は何度も電話をかけてくれたことを紹介してくれていました。

叔母の死に接して、1つの時代が終わったことを実感します。戦争の時期に青年期あるいは幼年期を過ごし、戦後の動乱期を必死でくぐり抜けて家族を育て支えた、私たちの父母の時代です。おだやかな死に顔が同じ月に亡くなった母の顔と重なり、「本当に懸命に生きぬいてきましたね、あとは安らかに」という言葉以外に何も出てきませんでした。
受け継ぐべきものは何か、忘れてはいけないものは何か。あと何年か、10何年か、私たちが叔母の姿になるまでに引き受けなければならないものを、これからも考え続いていくことにしましょう。
MNEMOさんがわざわざブログの一ページをさいて、追悼の言葉を寄せてくださいました。ありがとうございました。
母は8年間の介護の後に亡くなりましたから、それなりに受け入れることができました。しかし、叔母は認知症気味であったとはいえ、しばらく前まで昔のことも思い出しては快活に話してくれていたのです。そんな叔母の死にいきなり直面するというのはなかなかに辛いものがあります。
私の中にも「藤村」(母の実家=藤がつきますよ。幼女に出されていまの名前となった)の血が、つまりあの愛嬌一杯の心根がちょっとは流れているのかなと思いつつ、追想のひとときを過ごすことにしましょう。




懐かしい写真第2弾、いとこのみなさまも多分ご覧になっていない貴重なお宝写真をここに紹介しておきますね(2年ほど前に従妹が送ってきてくれました)。
上は、私の母(右)と先日亡くなった叔母(左)のツーショット。実家の裏庭で撮ったものと思われます。何しろ母は”ゲタ”ですし。
その下は次男鉄夫が入営の際の記念写真(拡大写真をリンク)。これも松任下柏野の実家での写真。右下が叔母(14,5歳?)、右上が母(20歳くらい?)です。二人とも若くて初々しい。あとはだいたいわかるのですが確定できません。右下で叔母が手をかけている蓄音機、戦後子どもの頃に土蔵にまだありました。よく覚えていますよ!懐かしい。





 


  7月5日(水)
今朝、白山市(旧松任市)の施設に入って晩年を過ごしていた叔母が亡くなったという知らせがありました。
この叔母は母の妹で兄弟姉妹の一番末っ子。上はもうすべてこの世を去って最後に残った一人でした。この訃報は本当に寂しい。いまから4年前の2013年7月に施設に尋ねていって会ったのが最後になってしまいました。
若い頃から天真爛漫、ひょうきんで明るく、母方の兄弟姉妹では私の一番のお気に入りの叔母で小さい頃からよく遊びに行っていたのです。母と姿形がよく似ていることもあって、私には格別の思いがありました。何よりそのひょうきんさが何とも愛らしく、晩年になっても全くそれは変わっていませんでした。
学生時代、花屋をしていた叔母のもとに遊びに出掛けて押し売りと間違われたエビソードは以前にも書いたことがありましたが、それを話す2013年の様子はいまも動画で残してあります。最後まで覚えていてくれましたね。
どのように葬儀が行われるのかはわかりませんが、時間が許せばぜひ白山市まで出掛けてお別れを言ってきたいと思っているところです。
写真下は、順に@2003年に安曇野に来てくれたときのもの、AB2009年に白山市の自宅を訪問したときのもの。Cは2013年に施設を訪問したときのもの。

@

A

B

C


 


  7月4日(火)
朝から大雨警報や竜巻注意報が出るほどの荒天で、とにかく1日中雨が降り続き夜に入ってようやく少し小降りになってきた様子です。

都議選で圧勝した都民ファーストが、本当に「都民第1」の政策を実現できるのか、そもそも「東京大改革」と豪語するその政策の中身は何なのか、選挙戦を通してあまり知られていないのではないのか。築地移転問題や情報公開といったある意味見てくれのアピールを中心としてしか報道されていなかったので、勢い都民はムードで何となく新鮮な・・・いや、というより安倍自民に飽き飽きしてこっちの受け皿がよさそうだと判断したというのが大きいのではないのか。

私としては、都民ファーストの代表に就任したという野田 数(のだ かずさ)という人物がまず気になる。
Wikiによれば、その「来歴」はかなり怪しい。あっちこっちの渡り歩きは小池百合子氏とどっちもどっちということだが、その政策・主張には驚きを隠せない。
「『東京維新の会』時代の2012年10月には日本国憲法無効論に基づく大日本帝国憲法復活請願を東京都議会に提出し」その中で「国民を主人とし天皇を家来とする不敬不遜の極み」「国民主権という傲慢な思想を直ちに放棄」すべきことを主張したというのですからびっくり桃の木・・・ギョギョギョ!??石原慎太郎東京都知事(当時)の主導による、東京都の尖閣諸島購入に賛成し、国による購入には反対したとも書かれていた。
この憲法観は右派の中でもごく特殊な憲法への態度であって、橋下市長(当時)でさえ「大日本帝国憲法復活なんてマニアの中だけの話」と批判していたというのです。とはいえ、小池さんも2000年に似たようなことを主張していたのですから同じ穴のムジナか。彼を党首に据えるにはそれなりの理由があるのですね。
「最近まで日本会議系の『日本教育再生機構』という団体の常任理事だったこともある」(SNSI中田安彦氏)し、すでに日刊ゲンダイが一年前に「小池知事が抜擢 特別秘書は“帝国憲法復活”主張する超右翼」という事実をすっぱ抜いていた。「都庁職員の間では、超ウルトラ右翼として名前が知れ渡っている」のだそうで、小池さん「とんでもない”爆弾”」を抱えたとまで書いていましたよ。こんな記事もありましたし・・・相当深刻です。
市民メディア放送局は「都民ファーストは、自民党よりもさらに危険な勢力」と、投票日前から警鐘を鳴らし続けていたのです。それを覆い隠していたのは大手メディアだと。
現在は当然ながらウルトラ右翼的主張は封印しているのかもしれませんが、こうした党首の来歴は都民ファーストの「理念」と果たして整合性がとれるもんなのですかねえ。

続いて、その「政策・綱領」をみてみましょう。
だいたいなぜ「政策・綱領」なんですかねえ。ふつう「綱領・政策」ですよ。
「綱領」はサイトの下の方に小さいリンクが張られ、たどってみると何だか一遍の「詩」のような「散文」のような文章が。短いその文章を読むと、実に無内容であることがすぐにわかる。要するに中学生でもかけるようなものだということです。言い替えれば、難しい文章では都民はわかんないだろうから、このくらいでという意図がみえみえ。コトバだけは何だか新鮮味があるかも・・という思わせぶりなのです。地域政党であり、いわか仕立てであることを割り引くとしてもあまりにお粗末。憲法を暮らしに生かすという視点もなければ、平和で安全な世の中をめざすという憲法9条の視点もありません。
基本政策の表紙では、まだ小池氏が代表で載っており、彼女が好きな横文字「セーフシティ」だとか「ダイバーシティ」だとかが並んでいます。
議会改革という問題では、どの地方議会でも見られるような腐敗・怠慢などの現象に異議をとなえていますから、この点は都民の批判に耳を傾けなければならない姿勢が感じ取られるところです。しかし、果たして実効ある対策を打ち出せるのかどうか。
後半には、377の政策項目が並んでいます。民進、共産党の主張とも重なるものが結構あります。ところが、これまでの都政に関する分析と財源政策がない。東京は全国で唯一地方交付税不交付団体ですから、自主財源は豊か。ある意味でやりたいことがやれる側面を持っている反面、よほど目を光らせないとお金の流れは容易につかめないのです。
議員たちは都の財政についてどれほどの知識があり、どれほどの政策提言能力があるのかとなれば、全くおぼつかないでしょうから、都知事と一体である以上与党議員がいくら質問してもすべて都知事の言うなりになってしまいます。そんなことは目に見えている。
都民ファーストの議員にとって、都知事の政策は自らの手柄になるのですか。地方議会においてはそれはもう議員としての役割放棄を宣言しているようなもの。まず補正予算と豊洲移転問題でそれが鋭く試されることになるでしょう。お手並み拝見です。

 


  7月3日(月)
東京都議選から一夜明ければ、自民党幹部の面々は青菜に塩。当然の報いでしょう。それでも言う言葉は「深刻に受け止め、深く反省」「身を引き締め、謙虚に、丁寧に、やるべきことはしっかりと前に」とおっしゃる。
「国民の批判に謙虚に対応する」として国会の閉会中審査に応じる方向で町政に入ったと伝えられるのは、謙虚に受け止めたからではなく、これ以上拒否すれば議席がなくなるという恐怖感からじゃないんですか。

この都議選は、安倍自民党政権の国政私物化・強権手法に対して国民の怒りが爆発した選挙と位置づけられます。あまりにも国民を見下していたのです。それでは、本当に「謙虚に反省」しているのかといえば、ぜ〜んぜんそんなことはありません。謙虚に反省するならまず稲田をクビにしなくちゃ。
おそらくこれほどに自民党が惨敗するなんて、どの世論調査も予測していなかったのですから、結果を見て腰を抜かしたのではないでしょうかね。私にすればまだ23議席もあることの方がおかしいといいたい。

都民ファーストは選挙予測でも自民党を上回るだろうと言われていたので驚くほどのこともありませんでしたが、それより私は「予想に反して」善戦健闘し議席の上積みまで果たした共産党に拍手を送りたい。
ブレずに都政の根本問題への解決方向を提起し、アベの悪政と対決する姿勢を明確にしたのですから、都民の共産党への信頼感と期待感にはたいへん大きなものがあります。

公明党は自民と一緒では一蓮托生、転落する危険があるとばかり自民を切り捨て都民ファーストに乗り換えて、ちゃっかり議席を獲得したのですから、さすが公明党。都政と国政は違うのだとおっしゃっていますが、国政でも自民党がもはや持ちこたえられないほどになったら、あっさり切り捨てて有利な方に鞍替えするのでしょうね。
さて、都民ファースト。これまでは一元代表制だったがこれからは二元代表制に戻すと言いながら、都知事が先頭に議員を生み出してきたことをどう考えるのでしょうかね。代表を辞任して都政に専念するというけれど、小池新党としての都民ファーストの本質は変わらない。都民ファーストはどうやってチェック機能を果たすのでしょうか。
新議員の中にはまじめに都政を都民のものにすると考えて選挙運動をたたかってきた方も多いのだと信じたい。だが、まったく政党の形をなしていないのですから、かつて生まれたいくつかの新党のように一時的なブームの危険性がなきにしもあらず。
安倍政権を支持するという人の多くが「他にリーダーがいないから」というように、信頼できるリーダーがいると思えば当然そちらを選択する。今回の選挙結果はそうした意思の表れです。
しかし、期待して選んだはずの都民ファーストの政策が、都民の要求に背をむけ内部矛盾を深めれば一挙に熱が冷めるということだって大いにあり得る。都知事の一つ一つの政策と活動を検証し、評価していくことがこれまで以上に必要になるでしょうね。その意味では共産党の役割もまたこれまで以上に大事になってくると思われます。

*******************************

今日は朝から塩尻まででかけて、長野県長寿社会開発センターの助成金を受けるためのプレゼンテーションに参加してきました。
昨年度から、バラの会の事業充実のために助成金を申請し認可されてきたもので、今年はその第2年度。申請をする毎にプレゼンをしなくちゃいけないのです。
塩尻会場(昨日は長野会場)には7団体が集まって、それぞれパワーポイントや掲示を使って審査委員に説明。バラの会はそのトップバッターで、私が説明しM副代表が質問に答えて、何とか無事終わりました。ふ〜。




 


  7月1日(土)
昨日からまとまった雨。今日も1日中ときおり激しく降っています。
飼い猫のハルちゃんは、2,3日前からずっとうずくまったきりで、どうも調子がおかしい。少し前に匂い袋が破裂して医者通いしたときの様子に似ているのですが、もう片方が破裂した様子はありません。しかし、お尻の辺りを痛そうにしているのでひょっとしたら化膿している可能性が・・・。午後からまた医者につれて行かなければならないかなと思っている次第。
ネコは、痛みがあってもただひたすら耐えてうずくまっているだけなので、飼い主が気付いて手当をしてやらなければなりません。妻は、ため息交じりで「やっぱり年なのかねえ・・・」と我が身に引き寄せて見ている様子。そりゃまあ、13近く生きていれば、人間では70近いのですから、いろいろ故障も起こってくると言うもの。ハルちゃんは比較的元気にずっと過ごしてきたので、こうなるとやはり心配です。何とか早く元気になってほしい。

さて、午後からかかりつけの動物病院につれていきました。診察の結果は予想通りもう片方の肛門腺(匂い袋)が化膿して、後しばらくすれば破裂する恐れがあったという見立て。
針をさして膿を出し化膿止めの抗生剤を注射して様子をみることにしました。ずいぶん膿が出ました。我慢強いハルちゃんとはいえ、相当に痛かったようで結構暴れて押さえるのが大変。抜け毛のために毛だらけになってしまいました。
それにしてもネコは我慢強い。症状を訴えるわけでもなく、ただ耐えているだけですからね。多分2,3日もすれば症状も改善に向かうのではないかと思われます。とりあえず原因がわかり手当もしたので一安心です。

*************************

7月2日の赤旗日曜版で、オピニオン・リーダーズの一翼をになう(と私が目する)内田樹、白井聰のお二人がそろって編集部のインタビューに応じ、安倍政治のひどさの根源について語っていました。
内田さんは、安倍政権について、対米自立のために打つ手が何もなくなり、対米従属マシン機能だけは作動していて、「国家目的の喪失という深い虚無感が政治の劣化をもたらしている」とのべ、度しがたいネポティズム(縁故主義・身内重用主義)体質を形成していると分析。
白井さんも、キーワードは国家権力の「私物化」であるとし、それをもたらしている安倍晋三の本質は「コンプレックス」と「特権意識」だと書いていました。
コンプレックスとは名門政治家に生まれたが、父や祖父の優秀さにはるかに及ばない劣等感。それを何とか支えるのが、生まれながらに支配階級でありその立場にいるのが当たり前だという意識が肥大化し、祖父の遺志を継ぐのが自分の使命だと妄想していると分析し、「こんなに知性が低くても重責にとどまれるのはまさに彼の特権」だと喝破しています。そう言われれば、安倍一派はみんな右にならえになっていますよね。特権意識だけは強烈ですから。
共産党に対しては、内田さんはちょっとひねくれていて、「自民党の極右化のせいで共産党がいま最も国民政党らしくみえるよね」といいつつ、安倍政権の暴走を抑止してきた役割を高く評価していると書いていました。白井さんはもっと”素直”に、共産党の都議選での前進で野党共闘を推進し安倍政権を追い詰めてほしいと期待をのべていました。
お二人の発言はもちろん励みになりますが、問題は庶民の怒りをどのように都議選に反映するのかです。前回の都議選から日本共産党の躍進がはじまりまったことを思い出します。その勢いが衆議院選挙にもつながり、「共産党を除く」などという自民と野党の野合などが全く過去のものとなりました。その勢いを是非ともこの都議選につなげてほしいものです。




top