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  2月25日(月) その2
産経新聞主張、世界日報の記事を見ると、先に書いた「沖縄は絶対国防圏にあらず」という「本土」側目線、沖縄捨て石論で徹底していることがわかります。その論理はもうめちゃくちゃ。たとえば産経主張はこうです。

投票結果について、いろいろな分析が行われるだろうが、今回の県民投票はその内容にかかわらず、民主主義をはき違えたものであるというほかない。
国政選挙などの民主的な手続きでつくられた内閣(政府)にとって国の平和と国民の安全を守ることは最大の責務だ。外交・安全保障政策は政府の専管事項であり、米軍基地をどこに設けるかは、政府以外には決められない。


おやおや、産経の主張の筆者は、安倍政権は「民主的」に選ばれた政権であり、安全保障政策は国の専権事項だから国民は文句を言わず素直に従えというのです。「知事はこれ以上、移設工事を妨げたり、不毛な訴訟合戦に入ったりすべきではない。普天間飛行場周辺の県民の安全確保と、国民を守る安全保障政策を尊重し、移設容認に転じるべきである」・・・一体何様のつもりなんですかね。自分が政府の一員ででもあるかのように平然と振る舞う、この異様な姿。
玉城知事の言うように、沖縄県民は「安全保障のために基地が必要だというならば、国民全体でそれを負うことが必要だ。沖縄だけに負担を押しつけることがあっていいのか」と常々疑問に思ってきたのです。米軍の植民地下にあると言っても過言ではない状態だからこそ、普天間の無条件返還をアメリカに要求すべきだし新たな辺野古の基地も当然いらないと県民は主張するのです。沖縄には嘉手納基地を始め他の基地がいやになるほど存在するのだし、米軍自体が海兵隊が沖縄にいる必然性を認めていないのですから。
産経には沖縄の現状も辺野古の基地がどんな基地になるのかも全く眼中になく、これほど屈辱的な安保体制、地位協定の現状も全く目に入らない。恐るべき対米従属目線だという他ありません。
そして、県民が求め実施された県民投票を「民主主義をはき違えた」と主張するほどにその対米従属体質は腐敗の度を増している。政権の旗振りからさらに一歩進んで極右プロパガンダの最前線部隊を任じ始めていると私には思えます。

辺野古基地は仮にこのまま勧めるとしても、残念ながら永久に完成しない。そして普天間は永久に返ってこない。アメリカは作ってもらえる基地は当然のように最大限に利用しようとし、普天間もさまざまな理屈をつけて返そうとはしないでしょう。
軟弱地盤による設計変更→県が認めない→法廷闘争、設計変更できたとして、海面下90メートルの地盤改良のための工事船が国内に存在しない→国外から調達?建造?、パイルコンパクション工法による7万7千本もの柱に使う想像を超えた砂をどこでどう調達し運んでくるのか。
大浦湾だけではなく、沖縄全域だけでもなく、他の地域の環境を壊し、外来種を持ち込むことによって自然破壊も進めることになるでしょう。
他にも活断層問題、建造物の高度問題、環境汚染問題など問題は山積みです。アメリカがまともな感覚の持ち主なら、こんな危ないところに基地など造ってほしくないと言っても全然おかしくないんですけどね。
途方もない国費と時間を使って作るものは戦争のための基地。日本の基地ではありません。海外への殴り込み部隊であるアメリカの海兵隊のための基地なのです。
産経新聞の記者などは、中国が攻めてくる、中国に支配されるという妄想で一杯なんじゃないかしらと思いますね。隣国と仲良くする、話し合いで物事を解決する自信のなさが、結局は武力でしか解決できないという方向に向かう。日本だけじゃ中国に対応できないから、アメリカにいてもらおう。沖縄は黙ってその犠牲になるのだという身勝手な論理。こんな主張を垂れ流しておいて、事情が変われば(たとえばアメリカが態度を変えれば)すぐにそれにすり寄っていくのでしょうか。



  2月25日(月)
一夜明けた沖縄では、県民投票の原動力となった若者たちをはじめ投票成功に奮闘してきた多くの市民たちが喜びに沸いていることでしょう。連日の昼夜をわかたぬ健闘に心から拍手を送ります。
我が家では、沖縄の放送局がネット中継で配信した玉城知事の記者会見を見てようやく布団に潜り込みました。

朝7時のNHKはどんな報道の仕方をするのかと見ていましたら、他人事のような伝えぶり。まるで共産党・社民党と自民党の対立のようにえがき、さらに有権者比しか割合を示さず、いかにも反対票が少なかったかのように描く・・・これは悪質です。ハンパな「事実」は真実を伝えない。県民の怒りや悲しみの底にあるのは、単に辺野古に新基地が造られていることへの批判ではありません。
作家の辺見庸さんと目取真俊さんの対談「沖縄と国家」(角川新書)の中に、辺見さんと目取真さんの次のようなやりとりがあります。

辺見:(目取真さんの「沖縄『戦後』ゼロ年」には)「現在でも最終的に守るべき『絶対国防圏』があり、沖縄はその中に入っていないでしょう」という箇所がある。・・・この極東の弧状列島をいま、「皇土」という人間はいないけれども、沖縄に対するまなざしの中には、かつての皇土防衛的な意識が消えずにある。皇土防衛のための前縁。つまり沖縄は要石というけれども、昭和天皇はじめ朝野に「捨て石」の見方があった。すごく変わったように言うけれども、いまでも根本的には変わっていないと僕は思う。

目取真:オスプレイにしてもそうだし、先島諸島で自衛隊が強化されていますけれども、あれは中国への軍事的対抗な訳です。仮にいま、日中間で軍事紛争が生じて武力衝突が起こった場合、・・・紛争がさらに拡大すれば沖縄島までは戦場にしてもいいという考え方が、政府・防衛省にはあると私は思っています。日本政府だけじゃなく、沖縄まではしょうがないかな、という意識が日本人の中には潜在的に広くあると思いますよ。


県民投票はヤマトゥの問題なのだという認識をどれだけの「本土」人が持っているだろうか。沖縄県民から、あなたたちはどのように考えているのですか、この沖縄の苦しみをどのように解決しようと思っているのですか・・・そのような問いを突きつけられていると感じる人はどれだけいるのだろう。
「いっしょに考えてほしい」という玉城知事の言葉にはまさにそのような思いが隠されていたと私には思えます。
言葉を変えれば「これはあなたたちの問題なのですよ」ということです。「あのときと同じ歴史を繰り返すのですか」と問われているのです。

琉球新報社説は次のように指摘する。

特定の基地建設を巡り、民主主義で定められた制度によって県民が自ら意思表示をしたのは初めてだ。2月24日は沖縄の歴史の中で特筆すべき日になった。法的拘束力がないにもかかわらず、有権者の過半数が投票し、43万人を超える人々が新基地建設にノーを突き付けた。この事実を政府が無視することは断じて許されない.。
県民投票をせざるを得ないところまで沖縄を追い込んだのは、米国追従の姿勢を崩さず、知事選の結果さえ顧みない安倍政権だ。その背後には、沖縄に基地を置くのは当たり前だと思い込んでいたり、あるいは無関心であったりする、多くの国民の存在がある。県民投票を機に、基地問題を自分の事として考える人が全国で増えたのなら、投票の意義はさらに高まる。


沖縄タイムス社説は、別の角度から県民の自覚と運動への視点について次のように言及する。

今回、署名活動を中心になって担ったのは、さまざまな立場の市民である。とりわけ対話を求める若い人たちの取り組みは、幅広い層の共感を呼んだ。昨年9月の県知事選で玉城知事を誕生させた「新しい政治」を求めるうねりは県民投票に引き継がれていたのである。
・・・
衆参で3分の2を超える議席にあぐらをかいて、上から目線で工事を強行することは許されない。政府は、埋め立て工事を強行することで「もう後戻りはできない」というあきらめの空気を広げようとしたが、県民感情を逆なでしただけで、期待していたほどの効果は生まなかった。
沖縄戦後史への深い理解なくして辺野古問題の解決策を見いだすことはできない。


アメリカにもロシアにも中国にも足下を見透かされコケにされている安倍政権に、沖縄問題はおろか、「北方領土」も、尖閣・竹島問題も外交で解決する能力は完全にゼロ。この政権を支持するみなさんは、アベに何を期待するというのでしょうか。



  2月24日(日)
今日は午前中バラの会の総会。これまでの取り組みを振り返り新年度の活動について、いろいろな角度から熱心に議論を交わしました。
1つの問題は、メンバーの固定化や高齢化にともなって、今後の活動をどう持続させるかという問題。どの組織でも直面している問題だけに、解決の道筋は簡単にはみつかりませんが、会のメンバーの気持ちをまとめると、10年の土地借用期間が終わるからと簡単にバラの会の活動を収束させるのではなく、どうしたら存続させることができるのかをまず考えていこうということでした。
私たちのバラの会は町民が自主的に集まって行政の力は基本的には借りることなく8年間続けてきた組織。町民の自発的な組織としては貴重な経験を沢山積んでいますから、早々に活動を終わらせるわけにはいきません。ただ、その組織の代表としては、代表なりの苦労やグチもあるので、そこは率直に話をして活動の中で解決していくほかはありません。メンバーのバラの会に対する熱い気持ちは少しも衰えていないことをこうした会合を通していつも思い知らされては励まされているのです。






午後からは、予定通りバラの剪定作業第1弾。午後からの作業には用事もあって参加者は少なかったものの、数名でほぼ半分ほどの剪定を終えることができました。汗ばむほどの陽気で、どんどん季節が早まっているのが実感させられます。バラの開花はいったいどうなることやら。

沖縄県民投票(投票資格者数115万3591人)が締め切りとなり、まもなく開票が始まります。沖縄タイムス、琉球新報、共同通信の3社による出口調査では、辺野古埋め立て反対が有権者の1/4(288,400票)を上回ることは確実で、「(知事選で玉城候補が獲得した)過去最多の39万6632票を超える可能性がある」(asahi.digital)とのこと。(下は琉球新報号外)
7時半現在で51%(期日前含む)の投票率になっていますから、最終的には投票率55%、有権者の7割(約42万人)が埋め立て反対に票を投じたのではないかというのが開票前の私の予想。さらに投票率が上がり、反対票も増えて有権者の半数に近い反対票となることを期待を込めて待っているところです。

*    *     *


午後11時55分、開票率100%。投票率52.48% 有権者115万3591人
埋め立て反対 434,273 72.15%
埋め立て賛成 114,933 19.10%
どちらでもない 52,682 8.75%
有効投票総数 60万1888人(52.18%)
(注)比率は私が計算した数値で有効投票者数比です。最終投票者数がまだわからないので・・・

沖縄県民の辺野古新基地反対の意志は強固かつ圧倒的です。



  2月22日(金)
北海道での地震、毎月勤労統計調査方法変更への官邸の関与疑惑、池江璃花子選手の白血病や堀ちえみさんの舌ガン公表など、ニュースには事欠かない毎日ですが、私といえば昨日から友人のパソコンの修理で今日の午後までかかりきり。
ここでは政治問題はちょっと脇に置いて、堀さんの舌ガンのことにちょっとだけ触れておきたい。というのも、私が中学から大学にかけて思いを寄せていた女性が40代半ばで亡くなった。その病名が舌ガンだったのでした。
その人のお母さんとは母と同じ女子師範だったこともあり、中学時代からよく家に寄っては話をしていましたから、そのお母さんの苦しみはよくわかりました。
亡くなったことを知った頃は、私は現在の妻と暮らしており、その消息は年賀状ぐらいでほとんど知ることはできませんでした。だから亡くなったことを友人から知らされて呆然とするだけ。
友人たちとお悔やみに行ったときに、お母さんは亡くなる直前の辛すぎる闘病生活についてほんの少しだけ教えてくれました。堀さんの告白をテレビで見るにつけて、そのときのことがよみがえってくるのです。
早期発見と現在の医療水準とがあれば助かった命だったのではないかと思うのですが、これもまた彼女の運命だったのか。そんなことを言ってみたところで詮無きことですけど。
彼女のことを思い出すにつけ、堀さんや池江選手が1日でも早く良くなってほしいと願わずにいられません。

さて、友人のパソコン、FUJITSUのモニターと一体になったもので、最近動きが遅く、いつまでも終了しない。エクスプローラーが突然終了し再起動をくりかえす・・・とまあ、よくあるパターン。
システムかアプリの不具合、HDDの不良ブロックの発生、アイコンなどの破損ファイル、その他いろんな原因が考えられ、復元ポイントなど姑息な手段を使わず、これはシステムの再インストールしかないと判断。念のため修復ディスク、再インストール用のディスクを作成し、さらにデータを全部避難したうえで、昨日から再インストールに取りかかったのです。
OSはというと、まもなくサポートが終了するWindows7、購入時はsp1ではなく発売されたばかりの7であることと、Fijitsuは「サービス」でいろんなソフトがごちゃごちゃついてくるので、更新とサービスソフトの削除などで、猛烈に時間がかかる。サービスパック1を完全に入れ終わる(更新する)のに、昨夜10時頃から朝4時頃までかかる(徹夜したのはパソコンだけ)という前近代的な仕様。マイクロソフトは一体何を考えてこんなアップデートの仕方をするんですかね。
ネット上には故障やエラー、不具合に対処するさまざまな情報があふれていますから、それなりに参考にはなりますが、普段パソコンの中身を見たこともOSを入れ替えた経験も無い場合は、ネット情報に何が書いてあるのかわらないケースがほとんどでしょう。興味があって、自分でやろうと思っても大変な時間が必要になる。スマホで済ませるのなら、その方がよほど便利と考えても不思議ではありませんね。

奮闘したかいあって、デスクトップはきれいさっぱり、先日メモリを増設したこともあって、何とか依頼者の期待に応えるような状態で引き渡すことができました。そのうち、鹿肉やイノシシ肉が届くのではないかと期待しています。



  2月20日(水) その2
一昨日普天間基地のある宜野湾市に帰郷している友人S氏(長野は現在仮住まい)から送られてきた新聞にS氏の所感が綴られた一枚の紙が同封されていました(沖縄県民投票での辺野古NOを呼びかけるチラシも)。
それによると、普天間基地に隣接する普天間第二小学校に新たに2基の避難所を造る計画が進行しているという。
「世界のどこに『防空壕が常設されている学校』があるだろうか。普天間第二小学校はまさに戦時下だ」と怒りを込めて書いていました。
宜野湾市議会も市長も、県民投票不参加を表明してきた5市の1つ。その理由が2択の投票では普天間の危険性除去が示されないというものでした。
今日の「しんぶん赤旗」によれば、「今年1月、米軍の外来機離発着回数が2017年4月からの調査以来最多になった」とのこと。「5年以内の運用停止」どころか基地被害がますます激しくなっているのです。
「普天間市が『危険性除去』を主張するのなら、そうした危険性の除去をやる気も無い政府任せにせず、防空壕よりも先に『よき隣人』を自称する普天間の司令官に直談判し学校周辺の飛行経路を完全に見直させることだ」「場合によっては集団訴訟という手もある」と友人S氏は強調、その気になりさえすれば小学校上空の飛行を止めることは十分可能だと主張していました。
本来政府がやるべきことなのですけど、この国の政府はトランプのノーベル賞には熱意はあっても、普天間基地の危険性除去(=普天間の廃止)にはまるでやる気がない。そもそも関心がないんでしょうね。
だからこそ辺野古新基地も普天間基地もいらない。ついでに安倍政権もいらない。県民投票ではその意思をを天下に示してほしいものです。
写真は名護共同センター宮城義弘さんのブログから。下のチラシは友人が送ってくれたものです。






  2月20日(水)
昨日夜9時近く、自主防災会の会議を終えて集落センターの外に出て空を見上げたら、雲間からほんのときどきお月様が見えました。集まった8人のうち「愛煙家」が3人ほどいて、月を見ながら”たむろ”している脇を「まだ吸ってるのかい、付き合ってられないわ」と嫌煙派。

家に戻ってしばらくしたら「ガタガタ」と強い揺れ。「近い」と身構えたらまもなく止んだのでホッとして情報を確認。富山との県境(北アルプスの地下)が震源地で、最大震度は3。報道では池田町は震度2でしたが、体感は多分3くらい。

家に帰って夜12時近くになると空はほとんど晴れ上がり、雨に洗われた空にはくっきりとスーパームーンが。妻といっしょに「いい月夜だねえ」と見とれておりました。
この頃あまりよく眠れないこともあって、朝目が覚めて外をみたら、ちょうどお月様が餓鬼岳に沈んでいく、まさにそのとき。このカメラじゃなあと思いながらもその証拠を残しておこうと撮ったのがこれ。ああ、いいカメラがほしい(腕の悪さをカメラのせいに)。




この頃、妻がしきりにぼやく。「ハルちゃん、私が行くと逃げていく。だっこさせてくれない、私を見る目がどことなく違う」「誰が餌を買ってきていると思っているの。もう買ってきてやらないから」。
「まあ、そう気にしないで。餌やりを続けていたら絶対そばにスリスリしてくるから。私には、拾ってもらったという恩義を感じているんだろうし、何しろその頃からの給食当番だったんだから」と慰めております。
私が「ハルちゃ〜〜ん」と名前を呼んでも反応しないのに「ゴハン」には敏感に反応し、午後4時過ぎになると「ゴハン」と鳴くようになったような気がする。
15年も生きていれば長生きなほうだろうけど、まだまだ長生きしそうだなあ。元気でいてほしい。そんな思いもこめて、地域の防災ニュースにはペットの避難についても一項目加えましたよ。





  2月19日(火)
予報通り午後から本格的な雨。こちらは比較的気温が暖かくなってはいますが、外には出たくない。
一方、沖縄は那覇で27度といいますから、もう夏日ですね。去年の今頃は、名護で電気ストーブをつけて暖をとっていましたから、それからみても今年はどうなっているのか。

伊波洋一さんの報告によれば、県民投票の期日前投票がはじまって、投票所を訪れる市民が知事選のときと比べて激増しているのだとか。うるま市で5.45倍、宜野湾市でも4.28倍。
名護市長選挙や宜野湾市長選挙で、辺野古隠しをしながら業界ぐるみで期日前投票を組織して市長をとったものの、県知事選挙ではこんどは県民の方が期日前投票に押しかけて辺野古反対を掲げた玉城知事を誕生させました。この期日前投票の勢いは、やりたい放題やられ続け、踏みつけられ愚弄され続けて怒り心頭に発する県民の怒りが爆発していると思えてしかたがありません。
故翁長知事もグソー(あの世)から、「グスーヨー、マキテーナイビランドー。チバラナヤーサイ」(皆さん、負けてはいけませんよ。頑張りましょうね)と呼びかけているに違いない。
さて、この県民投票について、「本土」の魑魅魍魎がツイッターなどでデマをまき散らしている。
高須克也氏といえば、テレビでの露出度も高い高須クリニック院長。仕事に専念すればいいと思うのですが、なぜかトランプとツイートを競っているのか、ネトウヨ宣伝に忙しい。県民投票で「埋め立て反対に○をつけよう」という投票用紙を模したチラシに「違反だろ?県知事は警視総監より偉いのか?」と書いた。玉城知事が県費でやっていると思い込んだらしい。
その直後には「これって、どこから金が出てるんですか?」と書いていますし、少し前には蓮舫議員を誹謗したフィフィの書き込みを受け売りしているし、要するにデマの拡散にこれつとめているという感じですね。
デマだと指摘されても、誤るわけでもなく、ただ嫌韓情報に流れていくこのお方。辺野古の海でグラスボートからサンゴを見て「かわいそう」と涙を落としたのは、あれは何だったんですかねえ。サンゴはかわいそうでも、沖縄県民についてはどうなんだろ。



  2月18日(月) その2
今日は、満月に近い大きな月が天空にかかり、北アルプスが白く浮き上がって幻想的。
玄関にはレモンの木が寒さをよけて入れてあるのですが、秋に何個か大きくなった実がようやく黄色くなってきました。冬のレモンなんて見たことありませんね。
一方で、たくさんの花が次々と咲いてきていはいるのですが、冬の花は儚い。ほとんどが実にならず落ちてしまいます。1つでも2つでも実をつけてくれるといいのですが・・。

アベが自分にノーベル平和賞をとノーベル委員会に書簡を送ったと内実をバラして、トクトクとホワイトハウスで演説するトランプ。悪い冗談か悪夢か。世界中の良識ある人々が目を白黒させ、次には笑い転げたんじゃないかしら。誰かさんは「絶望的な恥さらし」と書いていましたっけ。まったくどうしようもない。

沖縄では、辺野古埋め立ての賛否を問う県民投票が迫ってきました。琉球新報、沖縄タイムス、共同通信3社の世論調査では67・6%の県民が「反対」を選ぶと答えたことが報じられていました。賛成はわずか15.8%にすぎません。また同じ調査で投票に行くかどうかという問いには「94・0%が県民投票に『行く』と答えた」といいます。ものすごい率ですね。
自民党筋では、あまり宣伝戦をやると投票率が上がるから控えているという訳のわからない沈黙戦術をとっているようですから、彼らを再起不能に追い込むためにも圧倒的な反対票を集められるように、最後の奮闘を期待したいものです。

ところで、今日、友人から5日の琉球新報が送られてきました。先日電話した折に、県民投票の結果がわかったらそのニュースの載った各紙をぜひ届けてほしいと伝えておいたのですが、折に触れて送るようにするよという返事があり、その通りにしてくれたのです。


明日は「普天間は5年以内に運用停止」の約束の日にあたります。安倍が仲井眞と密談の末に埋め立て承認を取り付けた「条件」の1つが「普天間基地の5年以内の運用停止」であり、辺野古移設とはリンクしない最優先の課題として華々しく打ち出されていたことが思い出されます。「これで言い正月が迎えられる」というセリフとともに。
しかし、事実は全く逆で、普天間は現在改築工事が行われ、嘉手納と連動した戦闘機、輸送機がひっきりなしに飛来して夜間騒音はむしろ増えていると報道されています。
宜野湾市では「県民投票を成功させ、普天間基地の5年以内運用停止を求める総決起大会」が開かれたと北上田氏のブログにありました。
5年以内の停止の約束を政府が一方的に破ったのだから、ゲート封鎖などの行動提起があってもよかったという北上田さん。県民投票の直前なので、そちらに力を注ぐということなのでしょうけど、普天間問題は辺野古と切り離してもっともっと攻めていかないとダメですね。
北上田さんは「島田善次さんが、『宜野湾市は、明日以降、普天間基地への水道などのライフラインを全て切るべきだ』と訴えられ、大きな拍手が沸上がった」ことを紹介していました。宜野湾市長はどう考えているのでしょうかね。(写真は北上田さんのブログから)


琉球新報は社説で次のように書き、抗議の意志を示しています。

政府の強行ぶりを見ていると、もはや危険性除去は眼中になく、新基地建設が目的化している感がある。安倍首相は約束をほごにした責任を認め、謝罪すべきだ。新基地を断念し、即時運用停止にかじを切るのが先決だ。

さらに、下は3月4日号の週刊プレイボーイの記事。題して「2.24沖縄県民投票 民意を殺そうとするのは誰だ?? 」真面目に沖縄を取材すればこうなるという見本のような優れたレポートです。
その1
その2

例によって、怪文書、デマ文書がどこからともなく出回る構図、相変わらずです。たたかいが熾烈になってくると、辺野古推進派は破れかぶれなんですが、どうしてこうもデマはレベルが低いのでしょう。ま、低いからデマなのか。その見本がこれ。沖縄タイムス紙の記事と見比べてみるとそのレベルの低さがよくわかる。





  2月18日(月)
このところずっと引きこもりで、今日は久しぶりに春めいた晴天につられて庭に出てみたら、霜柱で荒れに荒れてゴテゴテになった土の脇には何ともうオオイヌフグリやビオラの花が咲き、さらに脇の道路の法面には大きなフキノトウまで。やはり草花は季節を敏感に感じとっているのでしょうか。






ハルちゃんが夜私の脇に潜り込んで寝ているのが影響するのか、ときどき妙な夢を見て早く目が覚めてしまうことがあります。
今朝の夢は、なぜかいま被災地支援に取り組んだらどんなことが出来るのだろうと考えながら、沢山の支援物資に埋もれてもがいている自分の姿をもう一人の自分が見ているという、現在の私の体調を反映しているともいえる何とも情けないものでした。

起き出して、あれは何だったんだろうなと考えながら、ひとまず3.11以降の私の日記を読み直し、さらに「支援活動レポート集」を引っ張り出して、一通り目を通したのでした。
当時支援活動のイロハも知らなかった私でしたが、過去のいろいろな実践の引き出しから取り出すことができる教訓はいろいろあったおかげで、初期には思いもしないほどの規模の活動を展開することができた。その力はいったいどこから湧いてきたのか、いまそれが果たして出来るのか・・・思いは駆け巡り、しばしスーパームーンを待つ青い空を見上げておりました。
ずいぶんいろんなことをやってきたなあ。今から思えば信じられないほどのエネルギーを発揮して、駆けずり回っていたし。あれは本当に私だったのか・・・。

何よりも、志を同じくする仲間の存在。それに尽きます。私の好きな言葉でいえば「心意気」なんですね。
今なら、ゼロからスタートしなければならなかった2011年とは全く違ったネットワークと経験があります。全く同じとは言えないにしろ、必ず何かをすることができるという当時の気分を久しぶりに味わうことができました。
ブログをたどれば、当時の毎日を記憶から引き出してくることができる。無数の記録が残されている。
しかし、よくよく考えてみれば、何もない平時のときに何ができるかを想定することは大変難しいことです。当時のような非常時だからこそ、気分も高揚し頭の回転も平時の10倍くらいになり、無理なスケジュールも難なく処理していくことができたのでしょう。だから、今何ができるかを事細かく考えることより、普段から人々のネットワークを大事にすることが大事なのだと思わされます。

こうした支援活動に特定の主義主張を持ち込むなというのはよく言われることです。しかし私は、主義・主張、信条などどうでもよいなどとは全く思いません。むしろ、各人がそれぞれの信念をもって取り組むことが必要なのだと思うのです。
歴史は庶民がつくるという信念、弱い者が連帯して束になって助け合うというのは、権力の発想からは出てこない。儲けをあげたり利権にあずかろうとするためには分断しておくことが第一になるからです。
助け合う中で生まれてくる考え方の相違、取り組みの行き違いなどは、とにかく話し合いで解決するという徹底した話し合いルールさえあれば、何とかなるものです。
主義・主張は捨てるのではありません。各人のそれはそれとして尊重しつつ、一致点で団結する。これが主義・主張、思想・信条を超えて結集するという意味です。

私がここ15年ほど池田町に来て関わってきた問題ではすべてそうしたことが問われてきました。果たして私なりに成長できたのか、いまこんな低調な気分になっているということは、まだ緒に就いたばかりではないのか。
今週末には、バラ愛好会の総会を行います。私が主催してきたこのバラの会もまもなく10年。気持ちだけでは運営することはできませんから、現実の課題をよく踏まえて、よくよくみんなの考えを出し合い、よりよい方向を見つけ出さなければなりません。



  2月16日(土)
昨日は自主防災会の会議。私が責任を負っている企画班のメンバーにあつまってもらい、これまでの経過を確認しながら今後の活動について打ち合わせをしました。
いざ災害が発生たときのことを考えれば、何をどのようにどれだけのことをやらなければならないか、気が遠くなるような内容ばかりですが、いのちを守るためならそうも言っておられない。協力しながら少しずつ解決していくほかありません。

昼は少し日差しが春の気配を届けてはくれているものの、まだ外で何かをする気分になれない。とはいえ、何かに熱中していなければ気分も下がってしまうので、去年の数学V入試問題に挑戦しつつ、同時進行でついこのまえWindows10を入れたばかりのコンピュータのSSDをはずして(というより脇において)別のHDDをとりつけ、どうしても気になっていた最新の安定版Ubuntu18.04を入れておりました。
メインマシンでisoファイルをダウンロードし、DVDに書き込んでから、500GのHDDの方に導入。
Windows10ならばソフトでLinuxの仮想環境(Virtual Box)をつくってそれにUbuntuを入れ込むという方法もあるようですが、何しろSSDの方は120GBしかないのとCPUも古くて非力なので心もとない。そこで、SSDとHDDを交互に使い分けることとしたのです。
ついこのまえバックアップした音楽ファイルや写真なども全部移し替えたら、容量も大変なことになってしまいました。
私がまだ現役で使っているGatewayのノートには2012年の12月にUbuntu12.0を入れたよう(忘れていた)でそんな記事を残していましたね。2009年の記録には、8.04を入れたという記事も残っていました。そんなこともあったっけ。
Gatewayのノートは現在は14.04。古いんでそれ以上のバージョンでは内蔵の無線ランが認識されません(何度かバージョンアップに挑戦したがダメだった)。したがって、新しいバージョンのubuntuを試そうと思えば、できるだけ新しいデスクトップ機が必要ということになるのです。

Ubuntuの進化はなかなかのもので、いろんなソフトも劇的にすすんでいます。ただ、MacやWindows機と同等に使えるかというと、まだそうもいかない。しばらくは共存していくしかないでしょうね。
というわけで、性懲りも無くアホな趣味に時間を浪費している私でした。





  2月14日(木)
「ときめき」もなく、寒くて引きこもっているうちにあっという間に日が流れていきます。
今朝は早くには細かいさらさらした雪が舞い道路は薄く化粧したようでしたが、日が高くなると大きなフワフワ雪に変わりました。積もるほどではありません。気温があがると上空で雪の結晶がくっつきやすくなり大きな固まりになって落ちてくるのでしょうね。
MNEMOさんに言わせると「いいなあ」ということになりますが、こっちは半端ない寒さで外には出たくない!でも、窓からフワフワ舞い落ちる雪を眺めているのは悪くないですね。

沖縄ではいま桜の季節。ひまわりやコスモスが満開。去年の今頃は私も現地でヤンバルを回ったり、辺野古に通ったりしていたことを思い出します。
下は去年の2月27日、本部(もとぶ)から名護に帰る途中に見かけて驚いたコスモス畑。ついこの間ネットでもどこかで咲いている写真が紹介されていましたよ。


いよいよ今日、辺野古新基地建設の可否を問う県民投票が告示されました。キャンプ・シュワブのゲート前では200人あまりが参加して「県民投票出発式辺野古集会」が開かれたと琉球新報取材班(下の写真)が伝えていました。


新聞で紹介されていた通り、圧倒的な反対投票で安倍の狙いを挫くことが大切。踏みつけられ続けてきた沖縄の基地反対の意思の強さを示すだけではなく、基地をつくることが米軍の戦略上の障害にしかならないことをアメリカ政府に思い知らせる意味でも今回の投票の意義は極めて大きい。
いま沖縄に行っている友人は、自民・公明は「自主投票」で静かで、ステルス作戦をしているのではないかとあまりの静けさを訝る。昨日は辺野古から途中途中スタンディングで投票を呼びかけながら那覇まで帰ってきたそうで、10日くらいの運動期間でどれくらい投票率を上げて反対票を掘り起こせるかが勝負、なかなか予断を許さない状況になっているので、最後まで頑張らなければと語っていました。

菅官房長官が記者会見で東京新聞記者の辺野古埋め立て土砂に関する質問を規制したことについて、菅が「正確な事実に基づかない質問が累次にわたって繰り返されていることを指す意味で表現した」と釈明したと報じられていました。こうも平気でデタラメがいえるかと唖然とします。
「事実」の一つは、埋め立て土砂の赤土混入問題。現地ではほとんど明らかな、限りなく「事実」に近い事柄ですが、100%の事実とするには厳密な調査が必要です。ところがその調査を防衛局が妨害・拒否しているのですから、事実もクソもないのです。だからこそ質問する。都合の悪いことはどんな口実をつけてでも蓋をするという彼らのやり方に風穴を開けなければなりません。
ところが、こうしたことが重なるとどうしても報道の側で自主規制してしまう。記者会見で東京新聞の記者が妨害されていることに誰一人抗議したり声を上げたりということがなかったのではありませんか。
大浦湾に軟弱地盤があることはすでに防衛局のボーリング調査で以前から分かっていた。ところが防衛局はこれを隠し続けてきた。ここでも事実が明かされることを恐れ、それが明るみにでるとあり得ない言い訳をして取り繕う。事実とは彼らにとって都合の良いことだけを指します。ウソでも曲げてでもそういう。安倍政権の得意技ですね。
いま北上田さんらが防衛局を相手取って「軟弱地盤問題土質調査データ不開示決定取消訴訟」に取り組んでいます。
彼によると「防衛局は2014年、2015年の海上ボーリング調査以降のデータを、2018年12月18日になって初めて業者から受け取った」のだそう。あり得ない話ですね。なぜあり得ないかは北上田さんがご自身のブログで兼ねてからくわしく書いています。
安倍政権が「事実」というときは、必ず事実を隠したいとき、ほんとうのことを明かされたくないときだと思えばよろしい。菅などが、カエルの面に何とかのような顔で記者会見するときはまずそう疑った方がよろしい。

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ついこの間紹介した真藤順丈さんの「宝島」のあと、1週間ほどかけて霜多正次さん(故人)の「あけもどろ」を読んでおりました。
霜多さんは沖縄今帰仁の出身の文学者。この小説で共産党の多喜二・百合子賞を受賞したほか、それに先立つ1956年からの連載『沖縄島』で毎日出版文化賞を受賞しています。
実はこの本、妻がまだ20代、私たちが結婚する前に買って読んでいたらしいのですが、それいらいずっと本棚に眠っていた。本の表紙裏にはでかい字で旧姓が署名してありました。
この本の舞台はまだアメリカ占領統治下の沖縄、ちょうど教公二法が立法院で強行可決されようとした時期で、若い教師たちやその当時教職員会に結集していた校長、それにその家族たちの行動やそれにかかわる悩みが、くどいほどの議論を通して語られています。いわばフツーの沖縄の人々の生活と苦悩を描いた小説。
一体自分たちのアイデンティティはどこにあるのか、本土から差別を受け、アメリカからも支配され、本土復帰に希望をつなぎつつも行き場のない屈折した当時の人々の心の内が赤裸々に会話に織り込まれています。
圧巻は立法院前を埋め尽くした全県の教師・労働者達のたたかい。教公二法阻止闘争の実像が行動ばかりではなく人々の心理に至るまで詳細に描き込まれ、たとえばWikiにあるように「教職員は警察官に襲い掛かり」だとか「この暴動は」という表現がいかに不適切で雑な表現であるかがよくわかります。
ウチナーグチはほとんど出てこないので、その点は極めて読みやすい。真藤さんのようにエンタメ小説ではないので、ワクワクドキドキ感はありませんけれど、沖縄の人たちが何を考えどう行動してきたのかをたどる上では本当に貴重です。現在の議論と重なるところが多く、沖縄の人よりも「本土」の人に読んで考えてほしい内容満載です。Amazon中古で300円台で入手できるので関心のある方はぜひどうそ。

MNEMOさんの小説「蹉跌集め第5部」の現在までの連載をPDF版で収録しています。
なお、以前からお願いしているように、これらはすべてPDFファイルですので、スマホで読むには不適切。できればタブレットまたはPCで”ゆっくり”お読みください。
過去の小説などを読みたい方はこちら。
MNEMO氏小説

蹉跌集めの第1部からお読みになりたい方、現在の第5部をお読みになりたい方は、下のリンクをたどってください。
蹉跌集め(全)
蹉跌集め 第5部 No.1 (10.4MB)
蹉跌集め 第5部 No.2 (6.6MB)



  2月9日(土)
朝から大きなフワフワとした雪が舞っています。南岸低気圧の影響で首都圏でも積雪が予想されるのだとか。気温がそれほど低くないので道路の雪はすぐに融けて交通にはそれほど支障はなさそうです。とにかく早く暖かい季節になってほしい。


今日は朝からなんだか頭が痛く、昼頃までグズグズしていました。夕方仕事はじめなので体調を整えて臨まないといけません。体調に直結する室内の気温をどう保つのかが、このところの悩みの種です。

話は変わりますが、2020年度からの教育課程の改定にむけ、小学校からの英語会話だとか、プログラミング教育だとかがとかく話題になっています。私の直感的な感想ですが、教育現場の当惑と混乱は相当なものがあるのではないかと思いますね。
面白い話があります。ちょっと受け売りですが、改定にむけての中教審の答申の中に、「現代的な諸課題に対応するとして次のような能力を育むとされていると書かれていました。項目全部を列挙してみましょうね。

1. 健康・安全・食に関する力
2. 主権者として求められる力
3. 新たな価値を生み出す豊かな創造性
4. グローバル化の中で多様性を尊重するとともに、現在まで受け継がれてきた我が国固有の領土や歴史について理解し、伝統や文化を尊重しつつ、多様な他者と協働しながら目標に向かって挑戦する力
5. 地域や社会における産業の役割を理解し地域創生等に生かす力
6. 自然環境や資源の有限性等の中で持続可能な社会をつくる力
7. 豊かなスポーツライフを実現する力


政権の政策決定者が考えそうなことだなと思いながら見ていました。「主権者として求められる力」ってなんでしょうね。「自然環境や資源の有限性等の中で持続可能な社会をつくる力」ね、なるほどなるほど。
いま沖縄で起こっている辺野古新基地をめぐる建設強行や、5市市長の県民投票拒絶問題(今は世論に負けて参加するようになりましたが)などはこれらに照らして、大人としての見本になるのでしょうか。私などは、主権者としての力とは、まさに権力がかさにかかって「アメリカのために基地をつくってあげる」政策に徹底して抗うことじゃないかと思うのですが、こんなことを学校で考えさせたら即クビじゃないんですか。
さらに驚くのは「現在まで受け継がれてきた我が国固有の領土や歴史について理解」って何なんですかね。このところの「北方領土」に関する安倍政権の軟弱地盤のような態度は、どんな見本になるのでしょうか。笑っちゃいます。
ことほど左様に、まるでちぐはぐした、現実から遠くかけ離れた指導要領で、果たしてどんな子どもたちを育てようというのでしょう。教師たちの困惑・混乱が目に見えるようです。
教育委員会すら、現実のさまざまな問題に直面したときにもはや指針を失い結局は政権に忖度する以外にないことになるのではありませんか。
日本国憲法を軸に据えて、それに基づいて作られた旧教育基本の精神を受けついで、どんな社会を目指すのかを地域から考え実践を積み上げていくことが大事ではないのでしょうか。

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さらに話は飛びますが、最近2,3台のパソコンのOSを入れ替えていて、Officeスイートをどうするのか、必ず直面する問題です。Office2007はすでにサポート期間が終了し、個人で使うOffice2019(Word Excel Outlook)で32,184円。PowerPointまで含めると37,584円(2代台まで)ですから、私のようなほとんど使わない者には高すぎる。さりとて、ときどきいろいろなやりとりでは必要になりますから、対策をどうするのか。
以前から開発が進められてきたオープンソースのOfficeスイートが結構高い水準に到達。普通に使う分には保存もMS Office形式で出来ますから、全く問題はなし。
というわけで、サブマシンのWindows10にはこれ(Libre Office6.2.0)を入れて十分使いこなせるようにソフトになれるようにすることにしましたよ。

ついでに、AI最強KGS8段クラスの囲碁ソフト「Leela」も導入。10歳の仲邑すみれちゃんのプロ入りが最近話題になったばかりで、子ども達にももっと囲碁にふれてほしいと思うのですが、手軽にこんなソフトがあるのは実は今日まで知らなかった。
今まではやはり高いお金を払ってソフトを買っていましたが、これからはこっちかな。ベルギーの個人開発者によるもので、日本語化はされていませんが、対局するにはほとんど問題なし。しかも強い!!私など6子「置かせていただいて」勝てるかどうか。これもフリーソフトですから、世界中のOpenSource開発者のみなさんの力は驚異的なレベルに来ていますね。
子どもたちのプログラミング技術とかというまえに、こうした世界がどのように作られてきたのか、その背景には何があるのか、そうしたことまでしっかり理解できるような教育プログラムこそが必要なのではないかと、私は思うのですが。



  2月7日(木) その2
新聞もテレビも沖縄辺野古新基地のことは最近ではほとんど報道しない。しかし、今日現地新聞(琉球新報、沖縄タイムス)が報道した「軟弱地盤」問題は、全国紙でトップで報道してもおかしくないほどの重大問題です。


これまでの軟弱地盤は水深30メートルに加えて40メートル、つまり水面から70メートルまでと言われていたけれど、防衛省のその後のボーリング調査などで、水面から90メートルまでの箇所が見つかったというのです(琉球新報、沖縄タイムス)。下は琉球朝日放送による北上田氏へのインタビューの際の画像。このときはまだ水深70メートルとされていました。


琉球新報には、「水深90メートルまでの地盤改良工事は知る限り例がない。国内にある作業船では難しいのではないか」との専門家の指摘が載っており、さらに北上田氏のブログでは鎌尾日大准教授(地盤工学)のこんな談話も紹介していました。

水深90mにも及ぶ軟弱地盤を改良する工事は聞いたことがない。そもそも当初言われていた70mの地盤改良工事の事例も聞いたことがなかった。90mとなると、工事の難度も非常に高くなり、地盤改良が可能かどうかを想像することもできない。そもそも国内には最大で70m程度に対応する作業船しかない。70mまでの地盤改良が限界だ。

軟弱地盤があることは防衛省も1年以上前から認識していましが、データは隠し続けたまま作業をつづけ、今年に入って公式に認めざるを得ず、その改良工事のために杭を6万本も打ち込む(当初2万本と言っていた)予定だと報道されたばかり。その舌の根も乾かないうちにこの無様さです。

実は、まだ真剣には調査されていない更に大きな問題があります。なぜこのような軟弱地盤がこの部分にあるかという本質的な問題で、これらにはまだ全くと言っていいほどメスが入れられていないのです。
大浦湾に伸びる活断層とのかかわりを十分に検討すべきなのに、政府はまるで活断層が存在しないと見なして一顧だにしない。今回の軟弱地盤の深さから見ても、活断層の存在を無視するというのはとんでもないことなのです。前にこの問題についてはかなり詳しく書いたことがありましたから、覚えておいでの方もいるのでは。
こちらは2017年9月24日のしんぶん赤旗の記事。写真も同じ。


「信州と沖縄を結ぶ会」のニュースで紹介された土木技術者・奧間政則さんの記事で奧間さんは次のように書いていました。

去年(2017年)の2月から4月にかけて防衛局が行ったポセイドンという多目的作業船の調査を、私が独自で船舶のGPS情報を収集して分析した結果、ケーソン護岸の沖を集中して調査していたことがわかりました。そのデータを活用して匿名の地理学者が提供してくれた断層の想定ラインの情報から、ケーソン護岸直下の地盤に大きな問題があると確信して各メディアに提供したところ、赤旗の記者が琉球大学名誉教授の地質学者加藤先生につながり、活断層の問題が浮上し、去年の暮れに赤旗が1面トップで「辺野古に活断層か」という見出しの記事を出しました。また、防衛局の報告書に「長島と中干瀬との間で、基盤中の断層によると考えられる北西から南東方向に伸びる落ち込みが確認されています」と記されています。国会で赤嶺議員や糸数議員が活断層について追及しても、政府は閣議決定で活断層の存在を否定しています。

この記事の他の部分では「専門家の調査で活断層であることが証明されれば、徳島県の実例を参考に辺野古でも活断層の上には建物を建ててはいけないという条例を制定することができ、辺野古の工事は完全にできなくなります」と書かれています。

建設不可能なところにこれ以上税金を投入するような馬鹿げた行為は即刻中止すべきです。それをまだ強行しようとしている政府は、もはや政策レベルの工事続行判断ではなく、野放図・無規律で見通しもない全くの財政無駄遣い局面に入りつつあると言っても過言ではありません。



  2月7日(木) 
1945年8月2日、米軍による空襲で富山市街のほとんど全域が焼失した。「地方都市への空襲としては最も被害が大きかった」といわれている、いわゆる富山大空襲です(死者2737人、負傷者7900人、焼失家屋24914戸(市街地の99.5%))。写真はWikiより。
私自身はもちろんその時には疎開先の母の胎内にいましたから、知るよしもありませんが、当時の写真などは昔からずいぶんたくさん公開されていて惨状をよく見聞きしていました。


ところが、4,5歳の頃からのたどたどしい記憶をたどっても、空襲の爪痕は全くというほど見当たらないのです。一家が生活していたのは市内中心部で、おそらく最も消失率が高かったところでしょうが、小学校に上がる前にはすでに市内全域が整備され、木造のそれなりの家屋が立ち並んでいましたから。
ただ唯一空襲の爪痕があったとすれば、それは土中にところどころ埋まっていた焼夷弾だったでしょう。子どもの頃は六角形のそれが何であるのか全くわからず掘り出しては遊んでいた記憶があります。
父は復員してきたあと郵便局員となり、母は教師として市内の小学校で勤めており、私と弟は小学校の近くの民家に託児されて、母の帰りを待つことに。私の記憶の断片が残っているのはその頃からです。
戦争になる前に母は女子師範学校に入学(写真)、そこで音楽の教師をめざすのです。ところが家にはピアノもいかなる楽器もなく、今にして思えば全く無茶な選択ですが、母の言うには誰よりも早く学校に行ってピアノを練習したのだとか。人一倍努力と苦労を重ねて教師にはなったものの、養女という立場と全く音楽的ではない環境との狭間で、苦悩やコンプレックスとで人知れず悩んできたのではないかと思うのです。
父は小学校しか出ていませんから、学歴と技能に関しては「自分にできなかったことを息子に」という思いは極めて大きなものがあったはず。
「自分は字が下手でどんなに惨めな思いをしたか」が、私を小学1年から書道塾に通わせる動機に。私も今と同じで「真面目で朴訥」な少年でしたから、親の言われるがままに週1回通い続け、小学3年からはさらにグレードアップして書道の大家の家に通うことに。
中学に入ると、今度は英・数の塾(個人塾)を見つけてきて通えというわけです。これも、真面目に通い、大雪の日も腰ほどもある雪をかき分けて3キロほどの道を歩いた思い出が残っています。
しかし、考えてみれば、塾といっても今のように系列化されたり画一化されたものではなく、おおらかそのもの。母も、塾は見つけるけれど、強制したり無理矢理やらせることは決してありませんでした。
父もまた同様で、子ども向けの文学全集などを買ってきてそろえておいてはあるけれど、読めとは決して言わない。その姿勢は示し合わせたように徹底していました。

これも過去に書いたことがありましたが、高校に入って数学を教えてもらっていた先生は、風貌が写真で見る芥川龍之介似の痩せ型で精悍な、まさに数学のために生まれてきたような人。来る者は拒まずという個人塾でしたが、結局誰も入塾せず、最後まで私一人でずいぶん乱暴なやり方をやっていました。たとえば、テスト問題は先生が出すのではなく、自分で入試問題から何題かを選んで、自分で解いてそれをみてもらうというように。
先生には大学初年度くらいのレベルまで教えようという気持ちがあったようで、教えるときは進むテンポは極めて速く、高校2年時でほとんど高校の内容は終わってしまっていた。数学の面白さを教えてくれたのは、学校の教師ではなく、その芥川似の予備校教師だったのです。いまだに感謝しているのです。
一方英語の方はというと、母はずいぶん苦労して教えてくれる人を捜し回っていたようでしたが、どこも長続きせず結局最後は一人でやることに。なにしろ学問的な興味をそそるような教え方をする人がいなかった。
中学もおおらかそのもので、教師たちもまあ多彩というか玉石混淆というか、変な教師も含めて多士済々。子どもたちの教師を見る目もずいぶん鍛えられましたっけ。

ことほど左様に、中学までは全く母に依存した自立心のない子どもだった私が、変わり始めるのは高校2年ぐらいから。父や母は、勉強をする環境を作ることには熱心でしたが、どうしろという指示は一切せず、勉強するのもしないのも私の気の向くまま。結局それが高校での自立の芽生えにつながっていくことになるのでしょうね。
高校時代は、学校=予備校という感じで序列主義が徹底し、成績も100番くらいまですべて張り出し、進学のための補習授業も指名されるという徹底ぶり。息が詰まるような学校生活でしたから、高校にはまるで思い出は残っていない。性格はどんどん内向的になっていったように思います。

さて、なぜこんなことを書き始めたか。自分自身の子どもの頃を振り返って、私自身の性格を形作ってきたのは何なのか、人が一人前になるためにどんなことが必要なのかを考えたいと思ったからです。
まず何よりも子どもにとって大切なのは、自分を見てくれる「おおらかさ」「寛容さ」でしょうかね。
確かに、その中には甘えを助長する要素もないわけではありませんでしたけれど(それが後の挫折につながる)、今日の家庭や学校に欠けているのはそれではないかと思うのです。あくまで自分たちが決めたことを自分たちで実行するように仕向け、それができる環境をつくる、失敗してももう一度やればいいのだという気持ちにさせる雰囲気を大切にする。
それは、やはり密接な地域社会、豊かな人間関係の中でしかできないことです。人間と人間の平らな結びつきを通してしか、切磋琢磨も批判も慰めも励ましも力にはなりえない。
私の中には、そうした子どものころの鮮烈な記憶や体験が、まだ生き生きと息づいていると感じるのです。



  2月6日(水) 
数学の教材づくりにここ2,3日没頭していたら、もう2月もずいぶんすすんでしまいました。「こどもじゅく」はインフルエンザ蔓延の影響で2月中旬までお休み。そのためか、毎日がどことなくしまりのないものになっています。気をつけなければ。

私が東京から長野に移ったのは、まだ50代の終わりでした。それからもう15年になるのですね。まだ1年、2年と思っていたのがウソのようです。
何をしていたのかは、このブログでかなり詳細に記していますので、いまさらどうこう言うこともないのですが、15年はやはり1つの区切りです。
というのも、私の生活の区切りが5年、10年、15年なんですね。大学が5年、名古屋で5年、富山で20年、東京で15年、そして長野で15年といった調子。
人生の終わりに向けて、さてこのあと私自身に何ができるのか。当面、バラの会の代表の仕事はあるし、「こどもじゅく」のそれなりの役割も果たさなければならないし、地域の防災の仕事もおろそかにはできない。首をつっこんでいる仕事を考えると、あと5年はこの状態が続くのだろうと覚悟をきめないといけません。
問題は、漫然と同じ繰り返しでいいのかどうかということ。長野に来た当時の私ではありませんから、体力も当然落ちている。何しろ身体が言うことを聞いてくれませんからね。
昨日・今日と被災地支援で一緒に活動したMさんと話す機会があって、彼から「もし、3.11のような大きな災害があったら前のように活動できるか」と聞かれて、考え込んでしまいましたものね。「そりゃ災害の規模や場所にもよるだろうけれど、まず無理だろうね」というのが精一杯。「その気持ちはもちろんあるけどね」と言ったら彼も「それは同じだよ」と。
区切りを区切りにするために、実は何が足りないのか、私にはよくわかっているのです。政治的なことを書きながら、それに対応する行動がともなっていないこと、それに尽きるということです。
私だけではなく、仲間たちもみんな同じように年を重ねているのですから、10年前と同じには行動できない。それでも、できないなりに何ができるのかを考えることが、おそらくこの1年の最も大きな課題になるのでしょうか。

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テレビをつければ我が子を虐待したあげく末に死に至らしめた事件のことや、国会報道では毎月勤労統計の不正問題でもちきりです。
とくに子を持つ親を震撼させている心愛ちゃんの虐待死亡事件では、さすがにメディアも突っ込んだ報道を始めています。
今日のニュースでは、子どもの虐待事件の相談件数は2000年初頭にくらべて数十倍に増えているというデータが紹介されていました。
幼い子どもへの虐待事件は本当にあってはならないことで、身も心も凍りつくような出来事。ほんとうに辛く悲しくいたたまれない気持ちで一杯になります。
この子の親の非人間性はもちろん、本来子どもを救いたかったはずのまわりの大人の不見識を見聞きするにつけ、この国に住む人々にしのびよる人間らしさの喪失の実情を知らされた思いがします。それはむしろ本人がそうとは決して思わない形で侵食してきている。人間としてのありようの根幹が崩されてきているのだと感じます。

親の非情さを避難するのは簡単です。だが、なぜこうも同じような事件が繰り返されるのか、また増えている増加が著しいと指摘されるのか、その分析はまことにお粗末で、現場で悪戦苦闘する人たちをよそに政府の対策はお寒い限り。児童相談施設そのものも、職員の数も足りなくて、ようやく少し増やすと決めたらしい。
しかし、こうした事件がおこるたびにメディアはセンセーショナルに報道しますけれど、実は子どもの問題だけではなく高齢者に対する虐待でも、保育の問題でも障害者をめぐる社会的対応でも同じ構造で深刻な状態が進行していることには決して触れてはくれない。

メディアで紹介されたデータによると、児童虐待の相談件数が2000年を境に増え始め、2010年を前後して急激に増えてきたといいます。これは何を意味するのか。
これは、短絡的な評価になるのかもしれませんが、私には現在40代あたりの親が成長期を過ごした時期はちょうど携帯・スマホ時代に突入していく時代と重なっていると見えます。
つまり、個々人が生身のままで社会と関わってきた時代からネットやSNSを通して間接的に、あるいはバーチャルな空間に依存して他者とつながりをもつという時代です。
そこでは地域社会はすべて除かれ、孤立した狭い屈折した空間だけに生きる存在になっている。そして、それすらそれが当たり前としか認識できない虚構の世界です。
若者達が就職する企業社会は、利益の追求にグローバル化でいっそう拍車をかけられ、人間としてはバラバラにされた上に低賃金・長時間労働で締め付けられる。
一昔前よりはるかに質的に低下した労働環境では、豊かな人間関係を築くなどいうことはほとんど不可能でしょうし、地域社会に関わることもまずあり得ない。現在進行している事態のいい実例が、学校現場です。
その意味では男も女も(とくに男が)壊れていく社会的条件は見事に完熟しているのではないでしょうか。

労働者の賃金に関する国の基幹統計の不正という問題を見ても一皮むけば、同じ図柄が見えてきます。
戦後生まれの政治家や国家公務員のみなさんの現在の無残な状況を見るにつけ、まさに、この国の教育の壊れ方に比例して問題が起こっている。学校に上意下達の管理体制を持ち込み、競争主義をあおり、結局「優秀」な上位層と圧倒的多数の落ちこぼしをつくる学校体制(いまなお小中、中高一貫校、普通科壊しなどが進んでいる)を強化することで、企業にとって即戦力になる人材(=資材)を安上がりにつくる・・・
政治家や官僚のみなさんには、こうした教育を体現した生き証人がたくさんいらっしゃるのではないのでしょうか。
教育の根腐れもまたほとんど完了形です。だからこそ矛盾も極限状態にまで膨らんでいるということです。それゆえ、安倍首相をはじめとする政権側の政治家のみなさんは「自己責任」を強調し自助努力を強要する。彼らの自己責任は徹頭徹尾排除されている。

だとすれば、これらを変えるには根本からたたき直す以外に道はないではありませんか。
軍事費を半分にして、教育と社会保障にまわしたらどんなことができるか。企業への優遇税制を改め、金持ちから相応の税金を徴収したらどんなことができるか。それが主張できない政治家もメディアももはや無用の存在です。
これほどの政治の腐敗・劣化に怒りを感じないとすれば、それはどんなことをされても甘んじて受けるということです。 政治のしくみ、経済のしくみがわからないようにされ、誰が政治をやっても同じことだと思わされ、政治不信が煽られ、結局投票すら行かない。そんな状態が作り出されている。権力者の思う壺だし、戦争の一歩手前の状態です。
ただ、私が思うに、ですね、その前に大災害によってこの国は壊滅するのかもしれない。そんな予感すらするのですが・・・。
もちろん私はそんな事態の進行を手をこまねいて見ているわけではありません。どうしたらいいのか。一番の答えは「地域から束になって政権を撃つ」ーーその仕組みを一刻も早くつくることだと思います。沖縄のみなさんが教えてくれているように、勝つまであきらめない。



  2月3日(日) 
この3日ほど、妻のパソコンをWindows10にするためにかかりきりになっていました。
というのも、購入したWindows10がDVD-ROMで提供されていたこと、妻のパソコンが3世代前くらいの古いものだったこと、そしてハードディスクドライブが2つついていたために、インストールで混乱がおき、結局10回ほどやり直すはめに。結局妻も古いマシンに入れることをあきらめ、私のサブマシンを提供する結果になってしまいました。
DVD-ROMからの読み込みが遅く、1回1回のインストールが1時間以上かかるのですからたまりません。マイクロソフトのインストールは複雑で、初心者向きではありませんね。
もうちょっと落ち着いて、いろんな条件を考慮してやればうまくできたのでしょう。
この古いCore2Duoマシンに、ゼロからスタートしてクリーンインストールに成功したのは、今日の朝食前で都合11回目くらいかな。これを私のサブマシン(緊急用)にしちゃいました。
ソフトは極力入れず、OfficeソフトはOpen SourceのLibre Officeで代用。これにはLibreOffice Mathという数式記述ソフトがついているので、試してみようと思っています。ただ、見たところ数式はほとんど打ち込みなので時間がかかること請け合い。なれた人なら別ですけど、私にはちょっと不向きでしょうね。暇つぶしにはいいかも。

OSのインストールで時間を潰すのは久しぶり。東京時代は膨大な時間を使っていましたが、最近はほとんどファイトもなくなって、いまあるものを使うだけになっていました。
インストールの作業は、マシンの構造やデバイスの特徴なども知っていないといけないので、忘れていたことも思い出さなければならないし、新しい知識も格段に増えます。その分、貴重な時間がどんどん無くなっていく。できればこんなこともうやりたくないもんだ。




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