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  4月30日(火) 
夜半からかなり強い雨。4月中旬までと違って、ここしばらくは定期的に雨が降ってくれるので嬉しい。
ただ、数日前の霜で芽が出たばかりの夏野菜の苗が全滅。カボチャ、ヘチマ、オクラ、インゲン、スイカなどの葉が凍傷になり、カボチャなどは翌日には茶色くなって枯れてしまった。幸い種はたくさん予備がとってあったので、昨日仕方なく全部種の植え替えをしました。見通しが甘かった。
こうしたことも含めて、私は相変わらず畑仕事で結構身体を酷使。とはいえ、これだけ畑仕事をしていても、毎日腰痛対策背筋運動を続けているせいか、何となく腰の痛みが少なくなった気がしてホッとしています。今月中旬にはMRI検査が待っているので、果たして何らかの変化があるのかどうか。

天皇の退位、新天皇の即位をめぐって、テレビなどは連日過熱気味の報道。どこを切っても一色のこの過熱報道には違和感しかありません。
29日の 信濃毎日新聞「象徴考第9部ねじれる天皇像」には、内田樹さんの「天皇は存在するだけで象徴の機能を果たせるというような、従来の天皇制の理解を刷新した」という評価を紹介していました。さらに「死者と苦しむ者の傍らに寄り添う”鎮魂”と”慰藉”の旅」が天皇の「象徴」として果たすべき具体的行為だとして、陛下は天皇のあり方の新たな解釈に踏み込んだ。私は支持する立場だ」という見方も。新聞で書かれた限りでは私は「そうじゃないだろ」ということしかいえない。

現天皇が日本国憲法の象徴としての天皇の「望ましいあり方」を「日々模索し」、それをいかに果たすべきかを考え続けてきたという立場は「お気持ち」などで広く知られています。とりわけ生前退位をにじませたメッセージにはそれが端的に表れていたと思われました。
しかし天皇個人が人間天皇として「人々とともにある存在」であろうと願えば願うほど、「象徴存在から象徴行為の主体」へ踏み出そうとすればするほど、その深い思いとはうらはらに矛盾が深まっている、その矛盾が吹き出しているのがこの代替わりなのでないかと私には思えてなりません。その矛盾とは何か。
第1は、現在の政権によって最大限に政治利用されているということ。新元号の発表をまるで自分が決めたかのように会見する安倍首相、代替わりの皇室行事(宗教的儀式)をまるで国家行事ででもあるかのようにショーアップするこの政権。世界に例のない元号を持つ国「ニッポンすごい」の演出。
第2は、メディアが改元や一連の皇室行事などの報道とともに、いかに現天皇皇后が「国民に寄り添い平安を願ってきたか」をこれでもかと言うほどに垂れ流していること。これらが節度をもって行われなければ、天皇の「ありがたきおおみごころ(大御心)」や天皇の神聖性、神権的国体論まであと一歩。放置すれば、2013年4月28日の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」での「天皇陛下万歳」があらゆるところで現出するとさえ思わされます。
メディアによるこうした報道は、他社との差別化を図るべく過熱せざるを得ない。一色であるが故に、あらゆる異論を排除し、国民を誘導、思考停止に誘っていく。
したがって第3は、憲法に規定する象徴とは何かを考えることも許さず、いまメディアが描き出す「象徴像」が天皇の姿なのだという観念を植え付けることによって、政権とメディアが一体となって国民の意識を「天皇を頂く国」へと導いていく。
政治利用が極右・国体論者の天皇像「復権」と車の両輪のように進行しているのですから、天皇がどれほど素晴らしい人格と見識の持ち主であるかに関係なく、むしろそうであればあるほど、それからかけ離れた存在へと天皇も私たちの側も気がつかないうちに導かれていく危険性をはらんでいる。私のいう矛盾とはそのような意味です。



  4月24日(水) 
一週間が過ぎるのはアッという間。この間、池田町では町議選があったものの、定数の立候補で結局と同じく無投票。盛り上がりに欠ける結果となり残念でした。

田んぼに水が入り、夜にはカエルの大合唱。夕方からパラパラ程度ですが雨模様になったこともあって、昨日とはまるで違った音量です。まさしく「待ってました」とばかりの鳴き声。


私は相変わらず毎日畑仕事に精を出して、今日も雨がポツポツ落ちる中、最後の畝作りに集中。明日まで、少しはまとまった雨が期待できそうなので「スナップエンドウ」の苗を植えました。
庭のポット植えした種のうち、キュウリ、カボチャ、オクラの芽がチラホラ見え始めましたから、まもなく他の野菜も芽が出てくることでしょう。連休明け頃には畑に定植できるように伸びてほしいものです。

桜がピークを過ぎ、花桃や桃の花の季節。わが家でも今年は毛虫にやられることもなく、桃の花が満開です。まもなく木々の新芽が一斉に吹き出して、連休頃には淡い緑とさまざまな色の花が競演することになるでしょう。最も美しく躍動的な季節の始まりです。






いつもは寝てばかりいる飼い猫のハルちゃん、今日は割と外にいることが多く、昼過ぎに久しぶりに大きなネズミを加えていそいそと入ってきた。「はい、こちらで食べなさい」と新聞紙を広げてやると、取られると勘違いしたのか、またくわえたまま外に出て行った。外の倉庫の前で、しばらく遊んでいたかと思うと、まもなく興味を失ってネズミをほったらかしにしてどこかに行ってしまった。
人間の年齢でいうと80歳に近いハルちゃん。もうネズミをとる元気も俊敏さもなくなっていたかと思っていたら何の何の。今日は「あっぱれ」と褒めてあげよう。猫はこれでなくっちゃね。
下は獲物を前にポーズをとるハルちゃん。こうしてみると、まだ子ども子どもして見えますが「後期高齢者」ですからね。この分だとまだまだ長生きしそうだなあ。







  4月18日(木) 
午前中はバラ園へ。バラの芽吹きが例年より遅いような感じでちょっと気がかりです。
昨日に続いていいお天気に恵まれて北アルプスがきれいな午前中、今日は9人が参加して草や泥のたまった水場の整備や除草に汗を流しました。

私は午後からも畑に出て、夕方5時過ぎまでネギや昨日種をまいた畝に水をやったり、土を運んだり結構重労働で帰ったらくたくた。昨日畝作りの作業には区切りをつけたものの、毎日晴れて乾燥するので、まだ水路に水が来ないあとしばらくは家から重いタンクを運ばなければならず大変です。
ポットへの種まきは先日ほとんど終わったので、このあとはトマトやキュウリ、ゴーヤ、ヘチマ、インゲンなどの棚作り。畑仕事は休みなしに果てしなく続く感じです。
明日の午前は午前で、チョロギを植えた元キュウリ・ハウスの周りの除草。これは除草剤を撒いて一気に退治です。ハウスの鉄骨が邪魔なので一つ一つ取っていると果てしがない。 今日のBS TBS報道1930は面白かった。まず賃金が20年前より下がっているのは日本だけというショッキングな(そんなことは過去何度もデータで示されていましたが・・)グラフを示しながら、結論として「日本経済を立て直すには『賃金』をあげるしか道はない」ということを、さまざまな角度から議論していました。
ゲストは、元ゴールドマン・サックス アナリストで小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソンさん、里山資本主義の著作などで知られる日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介さん。
アトキンソンさんは数年前に社長になったときには4割(6割だったかな??)が非正規だったがすべて正規雇用に変え、賃金も上げ続けていると述べていましたから、ほとんどが実践に裏付けられた発言。
日本の現状として、今や中国の下請けになっている企業すら出ているという話も。
下は今年3月19日の日経の報道。下の図と同じ(データはもう少し多い)表を今日の議論の中で示していましたっけ。


しばらく前、安倍首相は自分が賃金を上げたような口ぶりで「賃金上昇」を誇っていましたけれど、実際は全く逆。名目か実質化も明らかにせず、あたかも日本の水準が高いかのような幻想を与える罪深さは例えようもない。
日経や今日の報道で紹介されていたデータだけではなく、昨年度全労連が発表した資料でもこの国の賃金水準の低さは際立っています。
今日の二人の論者の話を聞いていて、これって共産党がかねてから主張している全国一律再沈制度の確立と大幅な引き上げ、大企業の優遇税制の是正、内部留保の活用などで大幅な賃上げを図り内需を拡大するという経済政策とほとんど変わらない。
日本の経済界の中からこの種の議論が出てこないのが不思議で仕方がありませんでしたが、今日の議論は共産党の政策に道理と実行可能性があることを裏付けていたし、経営者や経済学者の中からも少しずつこうした議論が表にでてきたのかなという思いがしました。



  4月16日(火) 
低気圧が去って、朝から快晴の素晴らしい天気。周りの桜がようやく花を咲かせ始めました。庭の水仙も満開です。下の写真は夕方日没前の西日に照らされた山桜と水仙。




天気がいいと、朝早くには裏山や田んぼの木立の間からウグイスの鳴き声が聞こえてきます。ずいぶん沢山の鳥がいるようで、あちこちから鳴き声が。「ホーホケキョケキョ」「ケキョ」などと練習不足のヤツがいるかと思えば、ちゃんとスタンダードの鳴き声を披露するのもいる。
下は、我が家の庭で朝録音したもの。雰囲気だけでも伝わるかな。JavaScriptのaudioを使っているので多分再生できると思うのですが・・・。


パリのノートルダム大聖堂の火災のニュースが世界中を駆け巡りました。火の勢いはすさまじくあっという間に十文字の屋根はほとんど焼け落ちてしまった。世界的な文化財ですからその損失の大きさは計り知れませんね。
私がこの寺院のことを知ったのは、多分映画「ノートルダムのせむし男」(1956年フランス)を見たときだったんでしょうか。
この古い映画をいつ見たのか、なぜ観たのか思い出せない。劇場公開が1957年(昭和32年)ですから中学生の頃だったのか、とにかく「容貌怪異のカジモド」が狂気のようにつきまくる大寺院の鐘の映像だけがやけに鮮明に脳裏に刻まれている。それだけで、ストーリーなどは当然ながら全く記憶に残っていないのは、この映画を観る年齢ではなかったと言うことだったのか。訳がわからなかったことだけは覚えているんだけどなあ。
1988年に教職員の旅行でフランスに行った折に、確かここに立ち寄っているのですね。ルーブルだけはしっかり覚えているのに、これまた記憶があいまい。下のような真後ろから見た写真は残っているのにです。ステンドグラスの写真もあったから大聖堂の中にも入ってたんだなあ。情けない。


それはともかく、火災対策もしっかりしていたはずの文化財が、これほど簡単に燃え尽きるなんて誰も想像していなかったでしょう。他の文化財の防災対策のためにも原因の究明をしっかりとやってほしいものです。



  4月14日(日) 
相変わらず風の強い日が続いて、農作業をしていても肥料が自分にかかったり苗が飛ばされたりと全く迷惑千万。
午前中は友人がめずらしくご夫婦で庭のネギの苗を取りに来てくれて(大量にあるので一部差し上げた)、いっしょに苗を掘り起こしたり雑談に花を咲かせたりと、ひとときを楽しく過ごしました。


ハルちゃんは、その間レンギョウの木の下で大きな石を枕に昼寝。春の訪れ(とくに花の咲き具合)が昨年より2週間以上遅く、スイセンがようやく満開。裏の山桜はまだしばらくかかりそうです。




それでも、昨日今日と松本に通ってわかったのですが、わずか20キロ南では桜が満開で、松本城や開智学校の付近はきれいな桜並木。夜は花見客で大混雑だそうです。
犀川の河川敷の木々も黄緑色が霞のように広がり始めましたから、あと2,3週間もすればすっかり新緑に覆われることになるのでしょうか。

書く順序が逆になりましたが、今朝早く我が家の近くで「野蒜」をひとつかみ採ってきて、酢味噌で食べましたよ。実にうまかった。
早春はフキノトウ、それからほどなくナズナ、そしてノカンゾウやノビルと春の野草が食卓を飾ってくれるのは何とも嬉しいことです。


「ニンニクはむかしヒルと言っていたらしいね。野のヒルだからノビルってなったんだって」とネット情報を知ったぶりで妻に言ったら、「沖縄ではいまでもニンニクをヒルって言うわよ」とそんなこと小さい頃から知っていたという顔。こっちが逆に「ふ〜〜ん」とうならされてしまった。
ノビル、ニンニク、ニラ、ネギ、ラッキョウを仏教では 五葷(ごくん)といい、「欲情や怒りの心をおこすとしてこれを禁じた」(日本国語大辞典)というのですから、こりゃ大変だ!!ノビル以外はぜ〜〜んぶ畑で栽培中だし、今日はノビルを食したし・・・気をつけよう。

早く話を変えなければ。今日は私の父の命日。妻が昨日お花やお供え物を買ってきておいてくれたので、こんな時にしか開けない仏壇の前でしばし手を合わせておりました。





  4月11日(木) 
バラの会定例の作業日ですが、雪のためお休み。昨日に引き続いてゆっくりできます。今日も温泉に行きたいな。
昨日は午後から妻と穂高温泉郷の1つに出かけました。雪のために多分客も少ないだろうなと予想して行ったのですが当たり。前半は一人いましたが、あとは広い湯船を独り占め。妻も同じだと言っていました。20分ほどでゆっくり独り占めできる温泉があるなんてちょっと贅沢ですね。

昨日はブラックホールの写真撮影に始めて成功したニュースが世界を駆け巡りました。すごい快挙ですね。
国立天文台のサイトを見ると今回の撮影をめぐるさまざまな情報が紹介され、興奮が伝わってきます。記者会見の様子をはじめ、興味深く見ることができましたよ。

さて、関東・東北・甲信地域で結構な雪を降らせた低気圧が去って、今日は少し日差しが戻ってきました。
春の雪とはいえ何センチかの積雪になったので、庭のネギの苗は潰されスイセンもうなだれてしまい、後遺症があちこちに残っています。


日差しさえあれば明日にも消えてしまいそうな雪ですが、日陰の雪はそうもいかずなかなか消えてくれない。農作業ができないので、早く全部消えてしまってほしいものです。

昨年度の入試問題の傾向を知りたくて、今年に入ってから数研出版の「入試問題集」に挑戦し始めたまではよかったのですが、結論からいうと大変。
それなりに名の通った理系大学ともなると、相当にマニアックな問題を出してくるので中には全く歯の立たないものもある。
中にはとてもよく考えられていて、思考力・構想力・着眼力を試すのによい問題もあるので、なかなかいい頭の体操にはなりますけれど。
昨日からずっと考え続けていて解けない問題が一つ。非常にシンプルで、何を求めているのかははっきりしているのに、見通しが立たない。これは悔しいですね。
過去の知識や経験を総動員するわけですから、しばらく放置しておくことも大事。たとえば食事をしている途中とか風呂に入って湯船に使っているとき、あるいは布団に入ってさて寝ようというときにふと思いがけない解法が浮かぶことがある。そんなもんなんでしょうね。
3日考えてだめならギブアップ。これが高校時代からの私のやり方でした。今は頭も相当に老化しているので、若いときのようにはいかない。1日考えてもだめなら永久にだめ。悔しいけれど頭の限界だから仕方がないと諦めるしかありません。

しかし、こうした問題を解くというのは学問の方法とは実際にはほとんど関係がない。だいたい科学というのは答えがわからないわけで、こうではないかなとあれこれ推理し仮説をたてそれを論証・実証していく過程だからです。
昨日発表されたブラックホールの実写映像だって、「あるらしい」から「実在する」までの間というのは、長い長い理論的な検討やコンピュータのプログラミングを含む観測の悪銭苦闘の連続だったはずですから。
高校数学の大きな問題の一つは、数学というのは答えが一つに決まっているものを、どうやってそれを見つけるのかというそれだけになっているということです。
確かに、これまで発見されたさまざまな重要定理を学び、自然界と社会を貫く法則を辿っていくことは大切だし、過程から結論を導く論証の力を磨くという科学の方法を訓練するのにも有効であることは間違いない。
また数学は自然界や社会の現象を理解したり解明したりする道具の役割を持っているので、既知の数学の定理・理論をしっかりと身に着けていることは必要不可欠でしょう。だからこそ、単にパズルを解くだけのようなものに終わらせてほしくない。
新しく変わるカリキュラムがどのような教育を目指すのかはまだ定かではありませんけれど、こうした問題意識が背景の一つになっていることは言うまでもありません。
私が物心ついた頃から、いやいや戦前から日本の「受験数学」のあり方は基本的に変わっていないのです。大学ではまだ「カタカナ」や旧字体で書かれたテキストがあったし、演習書で使われていた問題はいまでも十分通用するのですから(なつかしさの方が先に立つ)。
過去の蓄積は重要であるとしても、それをどうやって現代の科学にふさわしいものに変革するのか。高校・大学の先生方の頭を変えることは大変難しい。おそらく試行錯誤の続く長い長い過程になるのではないかという予感がします。



  4月10日(水) 
夕べ10時頃にはまだ星が少し見えて朧月夜状態だったのに、今朝7時には積雪1センチ。予報通りでした。みぞれ交じりのジャバジャバした雪。しかしそれからも止む気配はなく午前10時ごろには3センチほどにもなり、まだ降り続いています。なごり雪というにはあまりに風情のない降り方です。
いつもなら何回かはドカッと降る雪もなく、このまま暖かくなるのかと思ったら、3月から4月にかけてずっと低温状態が続いて作物の生育にも結構影響が出ているようです。種苗屋さんは、今年はネギの苗の生育が悪く出荷が遅れていると言っていましたっけ。




昨日も午前・午後と畑。いつも隣のキュウリハウスのEさんご夫婦といっしょになります。90歳前後のお二人ですが、昨日でハウスのビニールを張り終え、これから中のネット張りなどの作業に。
「キュウリの継ぎ木って何を使うんですか」「カボチャだいね。カボチャは何年おんなじところに植えてもいいっていうからね」「継いだ苗は高いでしょ?」「昔はみんな自分でやったもんだがね。1000本も継いだことがあっただいね」「今度教えてくださいね」
昨年春の風で一部壊れてビニールを張れなくなったハウスの一棟を今年から借りて、わが「チョロギ同好会」がチョロギ栽培に乗り出し小遣い稼ぎをもくろんでいることはしばらく前にも紹介しました。
その話をするとEさん、「キュウリができなくなったら全部ここでやったらいいよ」と言う。地主のNさんも、ぜひ使ってほしいと言っているので、これは生産組合を作って本格的に生産に乗り出さないといけなくなりそう。身体がいくつあっても足りなくなりそうですね。
昨日は、ネギの植え付けをほぼ終えて、チョロギの残りの球根をすべて自分の畑に植え付け、インゲンなどを植える畝を耕して、午後3時頃終了。帰ってお風呂に入ったら疲れがどっとでてしばらく何もできなかった。Eさんご夫妻にならって、90まで元気で農作業ができるといいのですが。この腰の状態じゃ早々にくたばってしまいそう。

息子から孫が中学校の入学式の写真が送られてきました。孫たちが中学生・高校生・浪人生になる時期になるのですね。「そろそろ後期高齢者になるんだねえ」と妻にいうと「自分がそんな年になるなんて考えられない」という。ときどきダッコを迫るハルちゃんだって、人間の年にするともう御年80歳。80歳が70半ばにダッコされている図なんて見ちゃいられないなあ。



  4月8日(月) 
夕方から本格的な雨。しばらく降っていなかったのでまさに恵みの雨です。
毎日畑に出て葉物や夏野菜の植え付けの準備に大忙しです。何しろ畑を広くしたのでその分作業量は昨年の倍。とくにネギを植えるために穴掘りをし続けたので手の甲に変調を来してしまったほど。
おかげで、この雨でネギは明日植え付けを終え、あとは作物の場所を決めて植える段取りを整えるだけ。
今日も午前中は一人で、午後からは妻と二人で草取りに汗を流しました。午前中は穏やかなよい日和だったのに、午後から風が急に強くなり3時過ぎには引き上げざるをえなくなりました。
このあとの作業の中心は育苗。ポットに昨年採った種を植えて芽出しをし、5月連休明け辺りから畑に植え込むことになります。
昨年のブログを見ていたら、花の咲くのがちょっと遅いようですね。去年は4月初めにもうスイセンが満開、裏の山桜も咲いていたのに、今年はスイセンがようやく花をつけ始め、レンギョウも5分咲きくらい。ちょっと寒い日が続いたのが影響しているのでしょうか。まもなく春の植物たちが一斉に花開く時期になります。

一斉地方選挙の前半戦が終わりました。私の住む北安曇郡区は無投票。今日の信濃毎日の見出しでは「自民23改選前超へ」とありました。
長野県の共産党は前回当選者8人から公認5、推薦1(党籍を持つ野党共闘)に後退。投票率の低下に歯止めがかからず、全体として「保守」化が進んでいるという印象を受けます。
長野県での1つの特徴は、岡谷・下諏訪選挙区(定数2)で共産党毛利栄子候補がトップ当選。自民党の現職一人が落選しました。また、須坂・上高井郡区(定数2)では野党統一候補の小林君男候補が公明支持を受けた自民党候補を押さえてトップ当選。たとえ候補者が共産党籍を持っていたとしても、野党統一の力がどのようなものかをはっきり示したということです。
そこには、当然ながら候補者の魅力、政策の魅力がなければなりません。ただ「統一」すれば勝てるというものではない。それは、大阪の府知事・市長選挙でも明白です。
私が前から主張しているように、地方自治体の議員選挙というのは、日頃の有権者の中での献身的な活動、目に見える成果をともに生み出していく不断の努力の節目なのです。ろくに質問もせず、議会報告もしない議員が再選されることはいくらでもあり得ることですが、いずれその化けの皮が剥がれる時期は必ず来る。
池田町はこのあと町議会選挙が控えています。前回と同じく無投票になるのかどうかが焦点になっていると言いますが、「無投票にだけはさせたくない」という気分が一部にあることは歓迎するとしても、ただ選挙になったからよかったという単純なものではなく、この池田町をどうするのか、どうしたいのかかみ合った政策論争が展開できる選挙にすべきです。

沖縄では衆議院の3区補選で、野党統一候補(玉城知事の後継)である屋良朝博氏と自公候補島尻安伊子氏の一騎打ちになっています。
もちろん辺野古基地の是非が焦点の1つとして問われていることは言うまでもありません。しかし、自民党・公明党は名護市長選挙でやったように、「基地問題」には一切触れず沖縄振興策のみを焦点に押し出して有権者の目をそらす作戦に出る可能性が高い。
島尻氏は2016年の参議院選挙で伊波洋一氏に敗れたことで記憶に新しい人ですけれど、過去にはいろいろと変遷(変節?)がある。2012年に安倍内閣の内閣府大臣政務官に起用されるや、それまでの辺野古基地県外移設の主張から「容認」に転換。2015年には辺野古反対運動につい「責任のない市民運動だと思っている。私たちは政治として対峙する」(Wiki)とまで踏み込んだ。
「辺野古基地建設」容認の立場は「苦渋の選択」と言うのはこのお方の過去の言動から見ればいかにも方便。安倍首相の全幅の信頼を受けて、その先兵になろうとする意図が明白。21日の投開票日には、是非とも落選の報を聞きたいものです。



  4月3日(水) 
比較的よいお天気になって日差しも暖かく感じられるようになったものの、何しろ風が冷たい。畑に行こうと思ったけれど、結局あきらめて庭仕事に精を出しました。いつも後回しになってしまうので、こんなときにやっておかないと。
庭の西側には昨年ランナーが出たイチゴが結構沢山根を張っていたので、草取りをしっかりやっておきました。わすれな草も沢山あちこちに芽をだしていたので、まとめて移植。大きく育ってくれるようにと、ともに肥料をやっておきました。
そのあと、縁側でタバコをふかしていたら、子どものタヌキが1匹ひょっこり顔を見せ、南側の庭に降りてきた。そのときは私には気がついていなかったのでしょう。私を認めてびっくりしたようにあわてて逃げていき、東側の空き地の方からしばらくじっとこちらの様子をうかがっていました。夜行性と言われているにもかかわらず、しばらく後にもまた近くを徘徊していましたから、きっと腹をすかせて餌を求めて降りてきたのでしょう。じっとこちらを見ているたぬき顔はハルちゃんとよく似ていましたっけ。

新元号が決まってから、「令」の意味や「国書」に典拠したことを巡って、いろんな意見が飛び交っていますね。
安倍首相は「万葉集」からとったことが殊の外自慢であるらしく、「『令和』というのは、いままで中国の漢籍を典拠としたものと違ってですね、自然のひとつの情景が目に浮かびますね。厳しい寒さを越えて花を咲かせた梅の花の状況。それがいままでと違う。」と説明した。
産経のインタビューには「国書の中でも万葉集が選ばれたことは、日本文学の素晴らしさを世界に発信していく上でよかった」」とも答えています。
万葉集のどこのどの部分からとったということまで聞けば、ある程度の情景は浮かぶかもしれませんけれど、「令和」と聞いただけで「自然のひとつの情景が目に浮か」ぶわけもないし、日本文学が大陸の強い影響のもとに独自の発達を遂げたことを否定できるわけもない。
安倍首相が言いたかったことは、日本古来の梅を愛でる素晴らしい風習と情景に拠っており、中国の古典から元号をとったのとは違うのだ、ということのようです。しかし、実際にはまるで見当外れだったようですね。
岩波文庫ツイッターが1日にすかさず、「令和」が現れる万葉集の記述が中国の古典『文選』の句にあると指摘しました。
単に「文選」に拠っているだけではなく、著者の思いがどうだったのかも加味すれば、大変面白いことになるぞと書いているのがLITERA編集部の小杉みすずさん。
大友旅人が漢文でしたためた梅32首の序文の書き方も王義之「蘭亭序」をまねたものだと安倍さん知っていたのかしら。(ちなみに若い頃書道塾で蘭亭序を臨書させられて苦しんだ・・・)
これに類する批判はネット上にあふれていますので、これ以上書くことは控えましょう。

日本中の本屋さんで「万葉集」に関する本がバカ売れなのだと今日テレビで紹介していましたっけ。そのこと自体は決して悪いことじゃありません。私なんかは高校時代に教科書で習って、斎藤茂吉の万葉秀歌を少しかじった程度ですから、機会があれば見てみたいという気もしないではない。しかし、令和に便乗して買うほどの気分にはとてもなれないですね。
自宅に万葉集に関した本があったはずだがと思って斎藤茂吉本を探したがどこかに埋もれてしまったらしく出てこない。そのかわり中西進さんの「万葉の秀歌」が出てきた。自分で買った覚えがないので、多分これは故大久保さんからもらったものじゃないかな?これまであることすら気がつかなかったから、びっくりした。
パラパラとめくっていたら、次のような一節がありました。

いうまでもなく梅は外来の植物で、当時の貴族たちからそのエキゾチックな香りを愛され好んで邸宅に植えられたものであった。そもそも「うめ」(または「むめ」)という大和ことば自体が漢字音の「め」から日本語化したものだから、今日いうところの外来語のような響きをもったことばであった。・・・・のみならず、それを観賞するために重要官人たちが一堂に会したのだから、この催しは異常なものだったと考えてよいだろう。1本の木を中心に歌宴が催されたということは「万葉集」中、ほかに例がない。(上、131〜132ページ)

安倍首相は、春先に梅の花を愛でるのが日本古来の伝統であるかのように思っていらっしゃるのでしょうが、梅もまた中国からの伝来植物。薬用植物として日本にもたらされたのは今から1500年程前だと言われています(諸説あるが、中国あるいは朝鮮からの流入は一致)。
安倍首相が「ニッポンすごい」を強調すればするほど、足下から砂が四方八方に崩れ落ちていくようです。
それにしてもどうしてこうも「日本古来の伝統」にこだわるのか、頭の構造がよくわからない。遡れば遡るほど大陸にどんどん近づくのにね。それがいやだから、雲の上の神様に近づきたいのかな。



  4月2日(火) 
次期天皇となる現皇太子浩宮徳仁親王はその名に、何と私の名前と妻の名前を一字ずつ備えていらっしゃる。ご誕生の頃から私は「ひろしのみや」と呼んでそれなりに親しみを感じてはいましたが、妻の名もいっしょとなればなおさらです。
現政権下での天皇となれば、家族のことを含め言うに言われぬ苦労も現れるはずですから、それらに対してはしなやかに相対して憲法にふさわしい天皇像を示してほしいと願わずにいられません。

新元号、万葉集がその出典で政治的意味合いは全く含まないと言われていますが、果たしてそうなのか。
安倍首相は談話で「悠久の歴史と薫り高き文化、四季折々の美しい自然。こうした日本の国柄を、しっかりと次の時代へと引き継いでいく」と述べました。どの口でそれを言うかと本当に腹立たしくむなしい。沖縄大浦湾をはじめ基地被害を受ける沖縄の自然はこれには含まれない。福島の放射能汚染地域はこれには含まれない。
安倍首相(およびそれを支持する右派)にとって「和」とは「積極的平和主義」すなわち「『平和』のための戦争政策」を意味します。国防力=軍拡こそ自国の『平和』を保持する保証だという考え方。これに「令」をつけるのだから安倍首相にとっては願ってもない元号ということになるのではありませんか。
天皇を「制度」として政治的に利用することしか考えていない安倍政権、その意図を無批判に振りまくメディア、この構図に一体誰が徹底的に抗うことができるのか。退位、即位の様々な儀式をこれ見よがしに垂れ流すこの期間こそ試されるのではないのでしょうか。

4月に入ってちょっと暖かくなるかと思っていたら、昨日は午後から大粒の雪が降ってきた。朝にはうっすらと雪が積もり、寒いこと。
昨日も午前中は畑でネギの畝作り(穴掘り)をして、昼過ぎ寒くなって帰ってきましたが、今日も引き続き作業です。




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