夜半からかなり強い雨。4月中旬までと違って、ここしばらくは定期的に雨が降ってくれるので嬉しい。
ただ、数日前の霜で芽が出たばかりの夏野菜の苗が全滅。カボチャ、ヘチマ、オクラ、インゲン、スイカなどの葉が凍傷になり、カボチャなどは翌日には茶色くなって枯れてしまった。幸い種はたくさん予備がとってあったので、昨日仕方なく全部種の植え替えをしました。見通しが甘かった。
こうしたことも含めて、私は相変わらず畑仕事で結構身体を酷使。とはいえ、これだけ畑仕事をしていても、毎日腰痛対策背筋運動を続けているせいか、何となく腰の痛みが少なくなった気がしてホッとしています。今月中旬にはMRI検査が待っているので、果たして何らかの変化があるのかどうか。
天皇の退位、新天皇の即位をめぐって、テレビなどは連日過熱気味の報道。どこを切っても一色のこの過熱報道には違和感しかありません。
29日の
信濃毎日新聞「象徴考第9部ねじれる天皇像」には、内田樹さんの「天皇は存在するだけで象徴の機能を果たせるというような、従来の天皇制の理解を刷新した」という評価を紹介していました。さらに「死者と苦しむ者の傍らに寄り添う”鎮魂”と”慰藉”の旅」が天皇の「象徴」として果たすべき具体的行為だとして、陛下は天皇のあり方の新たな解釈に踏み込んだ。私は支持する立場だ」という見方も。新聞で書かれた限りでは私は「そうじゃないだろ」ということしかいえない。
現天皇が日本国憲法の象徴としての天皇の「望ましいあり方」を「日々模索し」、それをいかに果たすべきかを考え続けてきたという立場は「お気持ち」などで広く知られています。とりわけ生前退位をにじませたメッセージにはそれが端的に表れていたと思われました。
しかし天皇個人が人間天皇として「人々とともにある存在」であろうと願えば願うほど、「象徴存在から象徴行為の主体」へ踏み出そうとすればするほど、その深い思いとはうらはらに矛盾が深まっている、その矛盾が吹き出しているのがこの代替わりなのでないかと私には思えてなりません。その矛盾とは何か。
第1は、現在の政権によって最大限に政治利用されているということ。新元号の発表をまるで自分が決めたかのように会見する安倍首相、代替わりの皇室行事(宗教的儀式)をまるで国家行事ででもあるかのようにショーアップするこの政権。世界に例のない元号を持つ国「ニッポンすごい」の演出。
第2は、メディアが改元や一連の皇室行事などの報道とともに、いかに現天皇皇后が「国民に寄り添い平安を願ってきたか」をこれでもかと言うほどに垂れ流していること。これらが節度をもって行われなければ、天皇の「ありがたきおおみごころ(大御心)」や天皇の神聖性、神権的国体論まであと一歩。放置すれば、2013年4月28日の「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」での「天皇陛下万歳」があらゆるところで現出するとさえ思わされます。
メディアによるこうした報道は、他社との差別化を図るべく過熱せざるを得ない。一色であるが故に、あらゆる異論を排除し、国民を誘導、思考停止に誘っていく。
したがって第3は、憲法に規定する象徴とは何かを考えることも許さず、いまメディアが描き出す「象徴像」が天皇の姿なのだという観念を植え付けることによって、政権とメディアが一体となって国民の意識を「天皇を頂く国」へと導いていく。
政治利用が極右・国体論者の天皇像「復権」と車の両輪のように進行しているのですから、天皇がどれほど素晴らしい人格と見識の持ち主であるかに関係なく、むしろそうであればあるほど、それからかけ離れた存在へと天皇も私たちの側も気がつかないうちに導かれていく危険性をはらんでいる。私のいう矛盾とはそのような意味です。