朝からパラパラ雨が落ちるあいにくの空模様だったけれど、ナウキャストの画像からしばらくそれほどひどくはならないだろうと判断してバラ園へ。先週はさすがに私一人でしたが、今日は5名が来てくれました。
雨模様の中で枝を切ると病気のもとなので「花がら摘み」は行わず、もっぱら草刈り機で園内の伸び放題の草を刈ることに集中。園内は小石でガラガラなので、おかげで歯はボロボロになってしまいました。
今年は夜の気温が低いせいか、バラがまだずいぶん沢山咲いて最盛期と変わらないような勢い。晴れた日に手入れをちゃんとすれば素晴らしく美しいバラ園になるのではないかと思われました。
本体の雨雲が接近しているのを知っていたので、作業は約1時間ほどで終了し、あとは5人で作業時間と同じくらいおしゃべりタイム。
そのときです。コーヒーを店から運んできたロッジの主が「あれなに?」と怪訝そうな声。ほとんど同時に私もその物体に気がついていました。何一頭のカモシカがバラ園に侵入しているではありませんか。
見ていると、沢山の花を咲かせている白いバラの花を美味しそうにムシャムシャ。10数メートルほど先でお茶会をしているのにも関係なし。
「特別天然記念物だし、このまましばらく食べさせておいてやろう」と私。「いや〜びっくりした。初めて見た。ここまで来るんだねえ」とMさん。「そ〜なの、前にも来たことがあるのよ」とYさん。その後、写真を撮ろうとしたMさんが近づくと、さっと身を翻してどこかに行ってしまいました。
あとでYさんに「Yさん、カモシカのような足だねえ」とからかうと「そうなの、私もそう思っていたの」とうれしそう。「ところで、カモシカってシカの仲間じゃなくてウシの仲間なんだって」とつぶやくと「・・・」。これってセクハラかな?
上がおしゃべりの場から撮ったもの。下は一部を拡大したものですが、画素数の少ない携帯のため相変わらずボケボケ。写真だと何だかウマみたいに見えますね。
さて、東京在住の友人MNEMOさんが昨日の「こどもじゅく」の記事に寄せて、長野に移住してからの私のさまざまなボランティア活動を総括的にこれ以上ないほど高く評価してくださいました。嬉しいのは当たり前ですが、一方で穴があったら、というより自分で穴を掘って入りたいほど恥ずかしい。(よってリンクはつけません)
私は、他人から私の活動の原動力について聞かれたときに、きまって「過去の悪行の罪滅ぼしです」と言うことにしています。罪滅ぼしなら何よりも連れ合いにしなければなりませんけれど、身内なら毎日の生活で認め合えばそれでよろしい・・とまあ、勝手に判断して。
私は一時期、身を粉にして、身を捨てて他人のために尽くすことが自分自身の幸せにつながると信じ込んで、それこそ家庭を顧みずに活動していたことがありました。
その反動からか、自分の幸せなしに他人の幸せなど考えられないとの衝動に駆られ、脇道に迷い込んだのでした。東京時代とは実にそのような時期だったのです。
そこで知り合ったMNEMOさんのような優れた友人に恵まれ、仕事とパソコンに集中した私は、母親の介護をしつつ、ある意味新しいパワーを手に入れてもう一度「よりよい生活」を求めて安曇野での生活に旅立つことになるのです。(転んでもただでは起きない、ですかね)
その際に、息子・娘の後押しが大きな励ましになりました。家族の再発見と自分自身の生き方の再起動です。そして、他人のためにすべてをなげうつような前時代的な悲壮なやり方でも、マイホーム的で非政治的なあり方でもなく、「お互いさま」の連帯に裏付けられた生き方へと改めて自分を「仕向け」ていったのでした。
だから、もしどうしてそんなに熱心にボランティア活動に専念できるのかと聞かれれば、「もし自分がそのような境遇だったらそうしてほしいと願うだろう人間的な対応」をできるだけ心がけたいというのが現在の私の心境だと答えましょうか。
私は縁の下の力持ちが似合っている、そう常に思い続けてきました。誰かのために役立つのなら、私がいままで蓄積してきた精神的財産をいくらでもつぎ込んでもよい。たとえば、子どもたちの知的成長に少しでも役立つならいくらでも提供する、それが現在の私の立ち位置なのです。
自らすすんで社会的弱者になろうと思う人はいない。まさしく「社会的」に作り出されてきた社会的存在なのです。「政治的」に作り出されてきたという側面が最も大きい。だとすれば、社会的に政治的に変革するしか解決の方法はありません。
幸いなことに、この国では極めて正確な綱領と力量を備えた政党である日本共産党が厳然としてある。党員ではなくても、その活動の一翼をになうことは当然できるし、むしろ私のような人間がその活動の一端に連なることができれば、活動の幅を広げることに貢献できるのではないかと思っているのです。
現在の私には、MNEMOさんだけではなく、安曇野に来て、あるいは沖縄で得たさまざまな友人がいる。大事にしなければと、あらためて思わされているところです。