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  8月31日(火)
きのう一昨日と2日間、妻と富山に出かけました。かつてお世話になった友人たちに会いに行くのが目的でした。
はじめに訪問したのは、その昔組合でとてもお世話になった方。組合活動のイロハから教えてもらった恩人です。現在は奥さんが施設に入所し午前午後の2回通って身の回りの世話をしているという老老介護の身、足腰が弱くなったと言いつつも弁舌だけは昔と変わらないようで、安心しました。
その後は、職場が同じで、公私ともにお世話になった教員仲間のお二人といっしょに食事。そのうちのお一人は20年ぶりの再会でした。そのうちの1人は現在は富山県の「憲法9条ファンクラブ」の事務局長、富山県教育研究所の事務局長をしており、もう1人は「富山大空襲を語り継ぐ会」や「朗読劇」の活動をしている方で、どちらも昔からの魅力を失わないで旺盛に活動を続けている人たち。積もる話しにあっという間に時間が過ぎていきました。

その「憲法9条ファンクラブ」のニュースとウエブ上で、この9月9日9時9分に「平和の鐘」をつくという取り組みが紹介されていました。何カ所かでとりくまれるようですが、そのうち富山市内では「大法寺」が舞台となります。
実はこの大法寺、私が幼い頃から高校生まで住んでいた町内にあり、中学1〜2年の頃には悪ガキたちが草野球をするグランドになっていました。狭い境内でやっていたものですから、ガラスなどを割ったりしてずいぶん迷惑をかけていましたが、お寺さんは野球を禁止することもなく実に寛容でした。
小学生の頃は、境内にある墓場や梵鐘が遊び場で、とくにこの墓場に生えている「スイバ(スカンポ)」が太くておいしいのでよくとって食べていました。
この境内にある梵鐘が「富山大空襲で焼夷弾直撃を受け、数センチにわたって欠けた部分がある」ということや、「戦時中は名鐘として供出を免れ、空襲でも寺がほぼ全焼する中で焼け残った」などということは当時は知るよしもありませんでした。しかし、同じ町内ではときどき「焼夷弾」が地面から顔を出しているのをよく見かけ、掘り出したりしていました。よく事故が起こらなかったものです。

その後は娘の嫁ぎ先にちょっと寄ってお土産を置き、次いで妹夫妻のお宅におじゃまをしました。
富山は長野以上に暑く、夜になっても気温がさがらない。そんな中でも近くの畑を借りていろんな作物を作っているようで、そのあたりは私たちと大変よく似ていますから、勢い畑仕事のことと健康が話題に。彼の方はねっとオークションに加えて最近リサイクルで掘り出し物を見つけることに夢中で、面白い健康器具を安く手に入れて満足そうでした。
よく見たら、同じ品なのにもっと安いものがあったというので、次の日には、リサイクルショップに連れて行ってもらって同じものを買ってしまいました。ついでに外のベランダ用の椅子もゲット。

2日目は、そのリサイクルショップに行った後、私の中学の同級生で、長野で家を新築する際に電気配線の設計をやってもらったKさんと昼食をともにしました。今では中学の同期生で交流があるのは彼くらいです。(ちなみに、うたごえの梅原司平も中学の同期生)
彼は私が惚れるくらい「いい男」で、今では孫に囲まれて「じいちゃん稼業」が板についてきたらしい。お互い健康でいようと話しながら帰途につきました。



  8月28日(土)
夕方庭に水を撒き終わってしばらくしたら、雷が鳴り始めたと思ったらいきなり降り出して、それからしばらくは横殴りの猛烈なゲリラ豪雨に見舞われました。縁側にあったものは、慌てて取り込んだもの以外はすべて水浸し。仕事に出かけようとしていた矢先だったのですが、出るに出られずしばらく様子を見ることにしました。
30分くらいで少しおさまってきたので大町に。大町の大通りもところどころ冠水して車の走行も危ないほど。暑さの次はゲリラ豪雨というのではたまったものではありません。
仕事から帰る頃には道もすでに乾いて、何事もなかったように静か。外では満月を過ぎた月の光の中で虫たちが鳴いています。

今日はどうしたわけか高1の生徒たちがかなり休んで、来たのはたった2人。彼らは提出用の問題をやりたいというので、私は質問に時々答える程度で拍子抜けの3時間。結局持って行った「ブルー・セーター」を読み進んでおりました。

失敗の連続にもかかわらず、そこから教訓を引き出して次の課題にたちむかっていくジャクリーンの姿勢と能力には驚嘆するばかりです。読んでいるのはちょうど真ん中くらいで、ちょうど彼女がルワンダの虐殺事件の報を聞いて愕然としつつも、そうしたことが起こらないためのたたかいに気力を振り絞って向かっていくところ。
先進国による「援助」がなぜほとんど効果をあげず、それどころか失敗に終わるのかをくりかえし書いています。私がいまいろんな機会に考えざるをえなくなっている町のさまざまな問題にも示唆を与えてくれて実に刺激的です。



  8月26日(木)
数日来、草刈り機で畑や用水脇の法面の草を刈っていたために腰を痛めて、腰の曲がったお年寄りのような格好になってしまい、今日は作業中止。午前中は寝ていて、午後も本を読んだり音楽を聴いて過ごしていました。妻にベッタリと湿布を貼ってもらって、少しは良くなった感じ。明日も作業はお休みにするつもりです。
考えてみると、体を動かすのは決まった筋肉だけで、体の柔軟性や足腰の筋力は衰えっぱなし。屈伸をしてみるとよくわかります。上腕だけで草刈りをやっているものだから、勢い腰や下半身に負担がかかって、少しも筋力をつけることにはつながっていない。ますます衰えを感じる悪循環が続いているというわけです。
体力をどうつけるかについては、きちんと考えて実行していかないと、あと5年もすれば本当に歩けなくなってしまいそうです。

いま読んでいる本は何冊かあるのですが、みんなちょっと読んでは次にうつり、また読んでは別のものに・・・というように、気まぐれで収拾がつかない。まあ、そんなときもあるのでしょう。
さしあたり興味をもって読み進んでいるのは、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」(新潮文庫)と、ジャクリーン・ノボグラッツ著、北村陽子訳の「ブルー・セーター」(英治出版)
前者は、以前書いたことのあるフェルマーが書き残して証明されずに残った最後の定理にまつわるお話。数学の分野で人間が到達した最高の知性にちょっとでも触れるのは楽しいものです。授業でも使えそうな話題が結構収録されているし、本当に数学に興味をもつ生徒には格好の手引き書になる本です。
後者は、世界から貧困をなくし、よりよい場所にしていくことを目指し不屈に活動する女性起業家の奮戦記です。
この本のはしがきで著者が書いているとおり「本書は、1つの思考様式でものごとを決めつけたり、手軽な解決策を求めたりしない人たちのための本である。人がどのくらい稼ぐかよりも、人々がその不可欠の権利である自由と尊厳のある生活、そして基本的なサービスを得られるかどうかに関心を持つ人たちのための本である」・・・・じっくりと読みつつ、貧困の最前線での彼女の真摯な苦闘から多くを学ぶことができそうです。



  8月25日(水)
夕方から雷雨になり、本当に久しぶりに土や植物に生気がよみがえってきました。残念なことに一定の降雨はあったものの、それも短時間でやんでしまって、午後10時頃には満月がきれいに見えましたから、明日はまた暑い日になるのでしょうか。
塾の高校生(大町高校)たちはテスト期間中なので、ひたすら準備に集中。私はさほど出番がなく、やむなく大学入試問題を解きまくっておりました。

さて、話しはまるで変わりますが、先日、徳島県上勝町で進められている葉っぱビジネス「いろどり」の活動を紹介したDVDを見る機会がありました。
代表取締役 横石知二氏の話を柱に作られたこのDVDは、池田町よりはるかに小さい町で今まで見向きもされなかった「葉っぱ」が都会の料亭などで珍重され大きな価値が付加されていることに気づき、その供給をビジネスとして始めた経過や町民の変化を克明に追ったものです。
現場(料亭)にでかけ、どのようなものが求められており、何が商品となるのかを徹底的に調査することからはじめ、ITを駆使して納品から発送までを完全に管理しきる体制を確立していきます。葉っぱを供給するのは、お年寄りたち。大きな価値を生み出すことを知って動き始めたあとは、病気になる暇もないほど元気になり、たくさんの仲間たちと生き生きと活動をしている様を見るにつけても、ただ驚くほかありません。町の老人施設も閉鎖になるほど。今では全国からの視察が絶え間なく続いていることがホームページから伺えます。
こうしたビジネスは1つには農協の職員であった横石氏のような有能なコーディネーターの存在が不可欠であったこと、もうけることだけを目的にはしていないこと、地域住民とりわけ高齢者のエネルギーを汲み尽くしていること、など考え方とその手法には学ぶべきことが多くあります。ただ単に葉っぱを供給するだけの仕事ではないところが重要です。美しさ、形のよさ、新鮮さなどがとことん追求されると、それは植物の葉という領域を超えて、文化や芸術と結びつきを生み出します。ここが楽しく創造的なところです。

佐々木雅行さんの名著「創造都市への挑戦」(岩波書店)の最終章の終わりには、いろんな町づくりの現場をふまえ「多様で個性的な、産業と文化の『創造の場』をどうつくるか」を考察した節があります。
その中で氏は、産業と文化の『創造の場』の第1の要素は「芸術家と企業や市民を結びつけるコーディネーターの存在」であり、そのコーディネーターは「非営利のNPOや第三セクターで活動することがふさわしい」と書いています。そして「人と人とをつなぐネットワークの結び目にこそ、『創造の場』が生まれるものだが、インターネットを活用したネットワークの結び目に位置する組織も、非営利で誰にも開かれた社会性を持つことが重要だ」とつづけています。
それゆえ、第2の要素は、「人間的信頼関係を基礎にしたネットワークの結び目の機能であり、開かれた自由な非営利組織によって担われたネットワークは草の根からの住民参加を実現して、地域の民主主義をつよめることになる」
第3の要素は、「グローバルな異文化との交流や伝統工芸や芸能と現代のハイテクや芸術との出会いをおしすすめる機能であろう」と筆をすすめ、最後に「本来、地域のすべての住民が、老人であれ、子どもであれ、障がい者であれ、失業者であれ、自由に自己の精神的肉体的能力を発揮する機会を保障することが『創造の場』の重要な条件となる。つまり、『誰もが創造的に生き、仕事ができる地域』こそ創造的地域と呼べよう」と締めくくっています。
このあと佐々木さんは、「創造的な地域の条件とは何か」について考察をすすめ、それを6点にまとめています。これらはいずれも上勝町で実践されていることそのものであり、池田町の町づくりにも当然当てはまる重要な視点だと思われます。箇条書きに紹介しておくとおおよそ次のようなことになります。
1.労働者、職人が自己の能力を発揮してフレキシブルな生産を展開することによってグローバル・リストラの荒波に抵抗しうる自己革新能力に富んだ地域経済システムを備えること。
とくに、地域の資源や文化・芸能、さらには技能やノウハウに基づいて新企業を創造し、地域の産業関連を強め、地域住民自らが学習しながら企画し、経営する「内発的発展」をめざすこと。
2.科学と芸術の創造性を支える大学・専門学校・研究機関や劇場・図書館などの文化施設が整備され、また中小企業・職人企業の権利を擁護し、新規創業を容易にし、創造的活動を支援する各種協同組合や非営利セクターが充実していること。
3.産業発展が地域住民の『生活の質』を改善し、充実した社会サービスを提供することによって、環境、福祉医療、芸術などの領域で新らしい産業の発達に刺激を与えるような産業活力と生活文化、すなわち生産と消費のバランスのとれた発展をしている地域であること。
4.生産と消費が展開される空間を規定する計画権限を持ち、自然環境と伝統的街並みが保全され、地域住民の創造力と感性を高める景観の美しさを備えた地域であること。
5.地域住民の多様で創造的な活動を保障する住民参加のシステム、つまり、狭域自治と、地域の広域環境管理を担当する広域行政のシステムを備えた地域であること。
6.創造的自治体行政を支える財政自主権と政策形成能力の高い自治体職員を擁する地域であること・・・・こうした条件を実現することで、地方圏の人口規模の小さな農村や小都市においても、多様な『創造の場』をつくりだすことが可能であると思われる。


もちろんこれらは一気にできるわけでも、どこでもできるというものではないでしょう。しかし、こうした方向で試行錯誤や先進的な実験に果敢に取り組んでいる地域が多数生まれていることは、「条件」はどの地域にもあるということをしめしています。要は、そこにむかって第一歩をどのように踏み出すかにかかっているのではないでしょうか。



  8月24日(火)
高文研から出されている本に「新採教師はなぜ追いつめられたのか」(久富善之・佐藤博編)というのがあります。その帯には「念願の教職についてわずか半年、3人の新採教師が自ら命を絶った。なにが彼女らを追いつめたのか」とあります。
家族や本人の日記が明らかにする痛々しいまでの教育現場のありよう。児童・生徒、保護者、教職員の狭間で悩み、苦しみ、ついには自らの命を絶つという最悪の結末から決して目を背けてはいけないし、それは大都市の特別な学校の出来事として傍観をきめつけることもできない、まさにすぐ近くで起こっている現実なのだというとらえ方が必要です。
まず、この3人は一様に新採で小学校低学年の担任を持たされます。想像していた「可愛い子どもたち」像はすぐに崩れ、収拾のつかないほどの勝手な振る舞いを繰り返す子どもたちにまず追われまくります。家庭の中での子どもしか知らない保護者は学校での実態についてはわからず、厳しいクレームの嵐となって教師を襲う。本来サポートするべき学校の中では、まるで本人の能力と自己責任とばかり、いっそう新採教師を追い詰めます。一年間の仮採用期間という圧力がさらに追い打ちをかけゆとりを奪います。
Uさんは友人に送ったメールに次のように綴っています。
「クラスにADHDであろう子がいて、他の子を叩いたり蹴ったり噛んだり・・・(中略)。同じ学年の先生方はいい人≠セけど、基本的に助けてくれない。その子の前担任は、私に「おまえが悪い。おまえの授業が下手だからAが爆発する」とか「給料もらっているんだろ、アルバイトじゃないんだぞ、しっかり働け」という。私は最善を尽くしている」
「子どものことは大変だし苦労するけど、悩みじゃない。一部の先生の言葉や態度に傷つく。苦しめられる・・・(中略)。希望や夢を抱けない。それでも何とかやってきたけど、トラブルが起こったときなど、私を支えてほしいのに、教頭にも責められる。むなしい。つらい」
後半のメールを送った3日後に彼女は自殺してしまったのでした。
この本によれば、うつ病などの精神疾患によって休職する教員は年間で4995名(2007年文科省)、15年連続で過去最多を更新したとあります。そのうえに、全国で70〜100名の教員の自殺者が続いているといいます。ひところ「根腐れ」という言葉で形容されたことがありましたけれど、現在ここの状況は日本の教育そのものが骨の髄から病んでいるという証なのではないでしょうか。
東京のある小学校教師は次のようにも書いています。
「朝、どんなことが起きているかというと、先生たちはもう6時台に学校に来ている。7時半にはほとんどの方が来て仕事をしています。やってもやっても残っていく仕事がいっぱいあって、一番最後に残るのが教材研究なんです。で、明日何をすべきかというわからないというので、若い人は夜10時まで残っている。そういう中で、自殺に追い込まれるという悲劇が続いていると思うんです」

現在、私が勤めている塾に来ている中2、中3から高校生の姿は、こうした現場の実情からは想像できないほど「よい子」たちです。そうした子が塾に来ているという面もあるし、同時に彼ら・彼女らの学校での姿とはまた異なった一面を示しているのでしょう。
学校現場がどうなっているのか、授業が果たしてきちんと成立しているのか、教師たちの働く環境はどうなっているのか、私自身も生徒たちを通していま情報収集をしているところ。
「授業が成立していないってことないかい」・・この前中2の子たちにちょっと聞いたところでは、「あるある」と言いつつ、いやはやミソクソに言われる教師がいましたから、くだんの教師も針のむしろなのでしょうね。教師たちが連帯し心を通い合わせて学校づくりをすすめる以外にないと思わされたことでした。



  8月23日(月)
午前中は離れの畑に行って草刈り。ちょっと見ない間にすぐに背丈が伸びて作物を覆うほどになってしまいます。食用の作物は暑さで枯れ枯れなのに、長い年月をかけて生き残った雑草は生命力旺盛。乾燥などどこ吹く風で生い茂っています。1時頃まで外に出ていましたが、暑さにへとへとになってシャワーを浴びた後、ごろり。
今月から、日曜日と月曜日が休みになったので、気持ちは楽。

夕方、池田町サポートセンター準備室にでかけました。推進委員になってほしいという要請があったので、くわしい話しを聞きに行ったのです。
遅れて私と同じく要請されたEさんも。かなり長時間池田町での町民活動のありかた、行政側からのそれへの関わり方とサポートの仕方などについて意見交換をしました。
その中で明らかになってきたことは、ともかく町民主体のさまざまな自主的な取り組みやボランティア活動のセンターを立ち上げることにはそれなりに意味があること、行政の側からこのセンターに求めるものと住民の側からセンターに求めるものとの間にはかなりの開きがあることなどです。
だとすれば、この町民活動をサポートする「センター」の役割とは一体何なのか、まずその立ち位置を明確にしておかなければならないでしょう。
自治の主体である町民が自らの手で町づくりを支えようとする意識を深め、活発な住民活動があちこちで行われることをめざすのであれば、早急な結果を求めるのではなく、いま現在そうした活動に携わっている人たちの意見に耳をかたむけ、どのようなことがセンターに求められるのかをまとめていく作業が不可欠です。
ばらばらに孤立して関連性なくすすめられ、高齢化やリーダー不足に悩む団体を応援し、行政との橋渡しをし、かつ住民自身の手でそうした困難を乗り越えるための活動交流と町民への啓蒙といった地道な仕事を少しずつ手がけることが必要です。
はっきりしていることは、知恵と予算。サポートセンターが自由に措置できる少なくとも数百万円の「住民活動推進予算」をつけるべきでしょうし、これは個々の団体が具体的な事業を円滑に進めるための補助的な予算ではなく、あくまで住民活動をサポートするための手立てとして講じられるべきものです。
また、人的なサポート体制も必要です。金や人は出さないが成果だけ出せというのでは、この活動はすぐに立ち枯れてしまうでしょう。これは「日本で最も美しい村」連合加盟に関わる「ワークショップ」でも全く同じことです。
理念も政策もなく、ただ何かをやったという実績づくりのために、サポートセンターに丸投げして成果を出させようとしているのであれば、それは早晩破綻せざるをえません。そんな組織に誰も加わっていっしょうけんめいやろうとは思わないでしょう。そうではなく、行政は様々な取り組みをつなぐ土台となる池田町のビジョンをはっきりと示し、それに沿って町民活動を活発にすすめるという手順にならなければなりません。おそらく、これからサポート事業が本格的にはじまったときに、いよいよ目に見える形で矛盾が顕在化するのではないでしょうか。
私としては、あくまで住みよい町を町民自身の手で進めたいというただその一点で、今回の要請には前向きに対応するつもりでいます。



  8月22日(日)
数年前に家の前の道ばたにたくさん植えられていた菊を全滅させ、今またコスモスを枯らそうとしていた寄生植物がネットでようやくわかった。アメリカ原産の寄生植物「アメリカネナシカヅラ(根無葛)」というものでした。






この正体は、つる性の1年草で寄生植物。発芽時には根があるけれど、ツルを伸ばして宿主にたどり着くと根がなくなり、黄色い触手を縦横に伸ばして植物を覆い尽くしてしまいます。対象植物にぐるぐる巻き付いた茎の部分から突起が出て、草の茎に入り込んで水分、栄養を残らず吸い取ってしまいます。ものすごい繁殖力で、すぐに花をつけて種を落とすし、ツルが茎に食い込んでいるので、取り除くには植物ごと全部取り払わないといけません。
私が見た限りでは、この一帯のしかも一部分だけなので、他の場所に移らない何か原因があるのかしらと思います。それに、カンカン照りが続くと出てくるので、ひょっとしたら水に弱いのかもしれません。とりあえず、全部取り除いて日干しにしてあります。
全国的にも広がっていて、希少植物を枯らしてしまう被害がでているようです。きれいな写真付きでたくさんの実例が紹介されているのでそのうちの2つだけ紹介しておきます。

アクシバの雑記帳
アメリカネナシカヅラ

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お昼ごろ、クラフトパークで開催中の「てるてる坊主アート展」に。
暑いながらも晴天に恵まれて、今年は過去最高の出品点数ということも相まって、結構な賑わいを見せていました。家族連れで来た子どもたちもいろんな作品をみて大喜び。
様々なイベントもタイアップして行われ、また出店もかなりあって、池田町に定着した催しになってきたことがうかがわれました。準備作業やコーディネートに携わった観光協会、町の観光推進本部、ボランティアのみなさんの苦労がようやく報われたのではないでしょうか。本当にお疲れ様でした。
私は例年この季節は塾の夏期講習中で何も手伝いもできず、ただ見て回ることぐらいしかできませんでしたけど・・・。










続いて夜は松川村「すずのねホール」で開かれた「松野迅バイオリンコンサート」に出かけました。彼の演奏の合間のおしゃべりは天才的で、演奏だけではなく人々を引きつける話術の魅力を教えてくれる人。
平和を願う「松川村9条の会」の趣旨にしっかり答えて、平和の尊さを自らの演奏旅行の中でのさまざまな逸話を通して語るところはさすが。笑いを誘うすべも心得て、心地よい演奏会を楽しむことができました。
ストラディバリウスの響きはふくよかで厚みのある美しい音色。それでも伴奏のピアノがあって、バイオリンの音色がいっそう引き立つものですね。中川真由美さんのピアノも堪能できましたよ。



  8月19日(木)
夏期講習がようやく終了。たてものがプレハブなので、炎天下では冷房もほとんど効果なく大変。後半の一時期は曇りや雨が多かったので助かりましたが、16,17日にはまた晴れてさすがに参りました。朝9時から夕方6時までの仕事(休みは昼の1時間だけ)は、普段やりなれていないので疲れることこのうえなし。昨日から普段の夜3時間だけになって、ようやくホッとしました。
今年は、西日本を中心に昨年よりもさらに暑いようで、熱中症による死者がでるなんて異常事態です。都会から来た人は、長野は気候が違う、涼しさが違うと口々にいいます。日中の暑さはあまり変わらないのかもしれませんが、それでも日陰にいればそれほどでもないし、朝晩の涼しさは都会とは桁違いですので、都会に住む人で田舎に移住したいと思う人がこれからさらに増えるのかもしれませんね。都会への人口集中を是正するいい機会、もっとバランスの取れた国づくりの方向を目指すべきだということを自然が教えてくれているのでしょう。
世界的に見ても小麦の産地が軒並み高温で穀物生産に支障が起こり、価格の上昇を引き起こしていますから、米の産地である日本でも、このままいけば必ず大きな問題が生じます。穀物は安いものを外国から輸入すればよいという主張がすでに崩れ去っているのに、ミソもクソもいっしょに貿易の「自由化」が国際的な流れだという。それが米や主な農産物には適用できないことに気がついて、大問題になったときには一体誰が責任を取るのでしょうか。国の借金でも全く同じ構造です。
「あのときは仕方がなかった」と言うのは歴代の権力者。尻ぬぐいをさせられるのはいつも庶民。米の問題でも借金でも、地球温暖化問題でも結局は同じなんですね。

さて、お盆には息子が、16、17日には娘夫婦と孫たちが訪問してくれました。いまでは長野が「実家」ということになるわけですね。私は夏期講習中でろくに相手もできませんでしたが、元気な姿を見せてくれるのはうれしいものです。
16日の夜には庭先でバーベキュー。娘夫婦は炭火をおこすのに一苦労、結局私におはちが回ってきました。
17日には孫たちは「ホースランド安曇野」で乗馬体験をしたらしい。娘からかっこよく乗馬している孫たちの写真を送ってきましたので転載。








  8月11日(水)
講座3日目。ゆうべ早めに寝たのに、夜中に身体が熱くて起き出して手足を水で冷やし、ペットボトルの冷たい水を飲んで身体の中を冷やし、再び床につきました。飲み過ぎたせいでそれから3回ほどトイレに起きる始末。私にとって夏は寝苦しい毎日です。それでも身体を休める時間が長ければ昼の仕事も何とかこなせます。今日も10時には寝ないと・・・。

さて、今日は塾のオーナーが近くのクロヨン・ロイヤルホテルでの昼食会に、夏期講習中の生徒たちとともに私たち教師も招待してくれました。ここは以前塾のオーナー(ピアノ教師)がピアノの発表会を行ったところで、聞きに来たことがあります。山の中のなかなかおしゃれなホテルです。
中高生がぞろぞろと入っていくのは何となく場違いな感じでしたけれど、生徒たちはごちそうになるので、そんなことはどこ吹く風。さすがに高校生は、普段よりもちょっとだけキチンとしてきていました。
このホテルでは時期時期にランチメニューを発表して、知り合いの塾のオーナーにも是非来てほしいというお誘いがあったのでした。全員分を奮発してくれたオーナーさんには感謝。おかげでおいしいカレーライスとデザートをたべて満足。またよろしくお願いします。


このホテルには、池田町から産直で有機野菜を納入しているということは前から知っていましたが、実際に出ていたサラダメニューを見ると、普通のレタスなどと並んで面白い緑のトマト(ヨーロッパ産)が並んでいました。形、色は何となくトマトらしくありませんけれど、味はなかなかよろしい。今度生産者に会って、苗を譲ってもらうことにしましょう。



  8月10日(火)
朝はいいお天気で、朝日が出そろった稲穂を照らしていました。これまでの日差しよりは幾分和らいだようです。昼頃からは雲も出てきて、これは台風の影響ですかね。




夕方から久しぶりの降雨。台風の影響でまとまった雨が降りました。野菜や花たちもようやくホッと一息というところでしょうか。
畑ではトウモロコシが旬。しかし、ネットを張ったにもかかわらず、毎日3,4本ずつ突かれたり囓られたりしているので、これはカラスの仕業なのか。枝からちぎって下に落としてあるところを見ると、カラスとは思われないのですが。
採り頃のトウモロコシは今日かなり収穫して、息子の家族に送ることにしました。ゆでたてはなかなかおいしい。我が家では、ゆでて冷凍にしておき、必要なときにサラダやカレーにまぜて食べます。これから収穫できるものはコーンスープに。これもまたうまい。
これまで取ったトマトがバケツ一杯くらいあるので、これはトマトジュースに。店で売っているジュースとは比較にならないくらいおいしいので、これもグー。
とはいえ、だんだん夏野菜も終わりに近づいてくるので、ちょっと寂しい気もします。当分はオクラやモロヘイヤが収穫できるので、野菜には困りませんが・・・。これから作るものは、秋に収穫できる野菜類ということになるのでしょうか。講座が終わってからゆっくり考えて畑を耕すことにします。



  8月9日(月)
今日から17日まで朝から夕方までの夏期講習。午前中は高3・高2,午後は中3生の授業です。しっかり寝たつもりなのに、後半はほんのわずかだけれど意識が朦朧となってしまった。今日こそはしっかり寝ておかないといけません。

今、時間をみてやっていることは、議会を開かず専決処分を連発している鹿児島県阿久根市の竹原市長のブログをずっと読むこと。
先日、テレビの報道特集でこの市の異常事態についてやっていたので興味を持って見ていたのですが、何故に議会を開かず専決処分に頼らざるをえないのか、全く説明ができていなかったので、これは本人に聞く他はないだろうと思い、メモ(コピペ)をとりつつブログ全部を最初から読み始めていたのです。
奇っ怪な市長の仕事ぶりを批判することは容易です。しかし、不信任決議をつきつけられ一度は失職した市長が再選されるからには、そこに何かがあるはずだろう。そうした事情を知らずに知ったかぶりに批判することは差し控えなければならない、そう考えてつらつら読んでいたのです。
いやはや、面白い。彼の描写でしか議会や市職員の様子はわかりませんが、その限りでは、彼の行動もわからないわけではない。事実誤認やB級記事にとびつくところはご愛敬として、彼の内面は議員生活の中で次第に増殖してきた「無能な議員の排除と役場の丸ごと改造という信念」のもとに長年考えてきたことを実行に移しているのだろうなと思わされました。思いつきに見えるけれど決してそうではない。その手法は、当然ながら非合法に近く無茶苦茶だけれど、その行動を支える背景には当然理由があるし、それに喝采を送る市民も大勢いるということです。マスメディアは奇態な行動を面白おかしく報道していればニュースの価値があるのだろうけれど、問題の根本はそんなところにはありません。
ただ私に言わせれば、彼の根底には人間不信と組織否定の衝動があります。組織者にはなり得ない人物です。壊すことはできても作ることができない。自分でもその二律背反を吐露しながら、それでも自分がやらなければとの思いでひた走っているのですから、悲しい人物だと思います。
ただ、市長になる前、PTA会長として生徒の前でした挨拶には出色のものがありますし、正論を吐いている部分も相当あるのです。副市長に迎えられた元警察官仙波敏郎氏がテレビで竹原氏の人物評について語っていた中にもそうした言及がありました。市政とは何か、議会とは何かを先鋭な形で考えさせてくれます。
さて、阿久根議会はどんなバトルを繰り広げるのか。市長はどう対応するのか。市民の中でもリコールの動きがあることを特番は伝えていましたから、ますます目が離せません。



  8月8日(日)
夕べ8時頃に寝たら、さすがに朝までは寝られず、2時頃に目が覚めてしまった。それから新聞の切り抜きなどをして過ごし、朝は早々に知事選の投票に。
是非とも松本さんに当選してほしいのだけれど、ちまたの情報では後二人の接戦とか。選挙も風評(マスコミなどが流す)によって相当に影響されますから、新聞などは一度全く事前の調査などをやめて客観的な報道に徹してみたらどうですかね。

今朝は、曇りのお天気で早い時間にはちょっとパラパラ雨が落ちていましたが、あとは薄曇り。投票してきてからは、隣の空き家の草を草刈り機できれいにし、ついでに裏の畑の草刈り。汗をかいて一休みです。
夏野菜もそろそろ入れ替わりの時期で、キュウリ、トマト、ナスがほぼ終わり頃になってきて、カボチャ、オクラ、ゴーヤなどが主力になってきました。
ところで、このオクラ、一本だけやけにずんぐりむっくりのものがあると思って取ってみたら、何と八角形。なぜ5角形のオクラに一本だけまじっているのかさっぱりわからない。種の中に何かの弾みで混じったのかどうか。実だけではなく、葉も形が違う。
写真1枚目の右が普通の5角形のオクラ、左の太いやつが八角形オクラ。その下の写真は八角形オクラの葉。葉もずんぐりむっくり。一番下が5角形のオクラの葉です。






ネットでいろいろ調べてみると、オクラもいろんな種類があるようで、八角形もあるのだそうです。
八角形は「クレムソン・スパインレス」といい、オクラの中ではごく少数派。欧米では丸型が主流で女性の指にたとえて「レディースフィンガー」とも言うらしい。そういえば、沖縄のオクラはやけにでかかった。日本では5角形が主流で市場の9割をしめるそうです。
このオクラの形の5とか8とかという数字は「やはり」というべきか、フィボナッチ数列にあらわれる数。オクラにも自然の摂理が貫かれているということでしょうか。
ともあれ、オクラは食物繊維、ビタミン、ミネラルなどを豊富に含んでいますからモロヘイヤとともに超優良夏野菜。たくさん食べて元気になりましょう。



  8月6日(金)
数日前のぐずついた空模様のあとは、一転夏空が広がって、これまでの暑さとは異なった本格的な真夏の太陽が照りつけています。しかし、不思議なことに太陽光発電の発電量は5月か6月の方が多い。これはどうしたことなのでしょうか。故障なのか、それとも気温と発電機に注ぐ太陽の光のエネルギーとは違うのか、よくわかりません。とにかく暑い。
昨日から中学2年生の夏期講習が始まって、プレハブの中に入ったら冷房はしてあっても35度。部屋の上半分は暑く、下はそれほどでもないという最悪の状態。午後2時から午後7時までの5時間ぶっ続けという講習なので、私も生徒も大変です。
余りの暑さに耐えかねて、氷菓子を買いに走ったことでした。それでようやく一息。

今日もまたまもなく講習にでかけます。めずらしく西の北アルプス側に大きな積乱雲がでていました。こんなことは滅多にないことなのに、どうしたことなのでしょうか。そういえば、午後遅くから雨マークがでていましたから、一雨くるのですかね。


畑は水を撒いても撒いてもカラカラ状態で、この状態がまだ続くと作物に被害がでるのは間違いないですね。
道ばたに植えてあるコスモスや菊に、またもや黄色い触手を持つ気味の悪い植物がからみついて増殖中。すべての植物から栄養を取って枯らしてしまうので始末が悪いのです。以前、沿道の菊をすべて枯らしてしまったヤツです。あんまり暑いとこんなものが出てくる。
暑さだけではなく、動物が野菜を狙ってやってきます。昨日は多分タヌキでしょうか、トウモロコシが3本食いちぎられていた。「明日取る」と言わなかったから、被害は3本ですんだのかな。木を倒して実をきれいに食べてありましよた。
慌てて今日ネットを買いにいって、まわりに張り巡らしました。ネットを張ったのはいいけれど、出入り口を作るのを忘れてしまった。動物も入れなければ人間も入れない。収穫の時まで放っておけばいいから、ま、いっか。

広島原爆忌。



  8月2日(月)
すでに8月。夏期講習が迫っていて、ここ2,3日はその準備でほとんど終日を過ごしています。例年ならテキストがあって、それを使えばいいのですが、今年は高校3年生が多く、しかも進路がそれぞれ異なっているために最大公約数をとると、どうしても市販のものを使うことができない。勢い自分で作成しなければならなくなった、というわけです。
数学TA、UBの全範囲にわたって問題を選択して編集し、すべてに解答をつけるという作業なので、べらぼうに時間がかかる。一度作業に入るとなかなか中断できないし、他のことが考えられなくなるので、ともかく早く講座が終わってほしい。これからお盆過ぎまで、畑仕事も、世の中のことを考えるのも一時お休みです。

さて、数日前に一度雨がふったあとはすっきりせず、じめじめと暑い日が続いています。畑の作物は今が最盛期で、毎日野菜のオンパレード。今年はとくにトマトをたくさん作り、それがうまくいったので毎日キュウリとトマト責めにあっています。あまりに多く取れたので、大きな一箱を娘に送りました。これは喜んでもらえるでしょう。
これから取れるものはオクラ、カボチャ、トウモロコシ、モロヘイヤ、ゴーヤ、それにジャガイモ、サツマイモ。現在最盛期を過ぎつつあるキュウリ、トマトもまだ当分持ちそうです。

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「世界」8月号に西垣通(とおる)さんが「グーグルは創造者か破壊者か」と題して一文を寄せています。その中の指摘は重要。

グーグルがIT業界の覇者となろうと、いかに巨万の富を積み上げようと、できないものはできない。だから我々は高速検索技術の恩恵に浴すればよいのだと高をくくることもできる。しかしながら、である。そこには恐ろしい落とし穴が口を開いている
なぜなら、たとえ機会が人間のように思考することは不可能だとしても、われわれ人間のほうから自らすすんで機械的存在にかぎりなく近づいていくことは可能だからだ。
中略
メガマシン社会は独裁国家よりなお恐ろしい。独裁者の邪悪さは誰もが知っており、困難はあってもやがては打倒することができる。だが、メガマシンの支配のもとで、われわれの思考力は衰え、判断力そのものが鈍化して、正邪の識別さえ覚束なくなってしまう。複雑な大問題を多面的に深く考えるより、単純なスローガンに熱狂し、刹那的な快楽と興奮を求め、支配権力にとって好都合な消費行動をくりかえす。従順でちっぽけな機械的要素部品に、人間は格下げされてしまうのである。そこには形式上、「ネット民主主義」の看板が掲げられているかもしれない。だがその実態は・・・」


西垣さんは、この指摘の中で経営学者ニコラス・G・カーの警告を引用しています。インターネットに関する思考のコペルニクス的転回。

インターネットの能力、範囲および有用性の拡大がもたらした最も革命的な結果は、コンピュータが人間のように考え始めることではなく、我々がコンピュータのように考えることなのだ。リンクを重ねるたびに、我々の頭脳は「ここ(HERE)≠ナみつけたものでこれを行え(DO THIS)=Aその結果、我々の意識は希薄になり、鈍化していくだろう。我々が作っている人口知能が、我々自身の知能になるかもしれないのだ」(ニコラス・G・カー『クラウド化する世界』村上彩訳、翔泳社275ページ)

若者(だけではありませんけど・・・)の携帯依存症は、その1つの兆候なのかもしれませんね。携帯(すでに完全なコンピュータです)が人間に近づくのではなく、人間が自ら携帯に近づいている。
試しにどんな使い方をしているのかを聞いてみるとよろしい。「電話」機能の最も重要であったはずの「『声』を用いて通話する」という操作をどれだけしているのか。
若い世代の場合は携帯に使われている(近づいている)ことに無頓着、無自覚であるがゆえに、ますますその現象は加速され、グーグルをめぐる問題である「思考の断片化と画一化、イメージの損傷、ジャーナリズムの衰退、ネット情報独占、プライバシーの侵害・・・」といった状況に限りなく接近していく。



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