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  4月30日(月)    
ゴールデンウイークに入り、我が家では息子夫婦と孫が昨日から来ています。昨日は藤岡でのバスの事故の影響で一般道を走らざるを得なかったということでしたが、無事到着。
その頃私たち夫婦は、スイス村サンモリッツで開かれた共産党志位委員長の演説会に参加、志位さんの訴える消費税なし、原発なしの社会の展望に確信を深めてきました。
というわけで、どちらもほぼ同じ頃に池田町の我が家に到着、孫も来年からは小学校という年になったし、飼い猫のハルちゃんもすっかり慣れて、比較的落ち着いた夕べをすごすことができました。

今日は午前中から午後2時過ぎまで全員で畑にでかけて草取りや耕耘機での今年の畑作りに汗を流しました。ちょっとぐずついた天気でしたが、何とか持ってくれてようやく畑も1/3ほどの準備状況。まだまだタネをまいたり苗を植えるために準備することがあります。精を出して仕事をしたので、結構疲れて息子家族は一眠り。
まわりでは木々がすっかり薄緑に覆われはじめ、田植えの準備作業が急ピッチですすんでいます。そうこうしているうちにあっという間に大型連休も過ぎていくのでしょう。
下の写真は、畑で撮ったもの。例によって合成写真です。どこが合成かわかりますか?(答:私が撮ったみんなの写真に、同じ場所で撮った自分を付け加えました・・・!)


話題がまたがらりと変わりますが、雑誌「世界」の5月号に、日本数学会が昨年4月〜7月に実施した「大学生数学基本調査」についてのレポートが掲載されていて興味深く読みました。
この「調査」は、「最近の大学生の数学の学力がおそろしく低下しているのではないか、それはなぜなのか、どうしたらいいのか」という問題意識のもとに日本数学会、教育委員会が問題を作成、レベルも系統も異なる48大学、5946人に実施したテストのことで、当時新聞などでもとりあげられたことがあったようですね(知らなかった)。
どんなテストが行われたのか、その結果はどうであったのかは、以下の報告で知ることができます。

テストの内容
テストのこたえ
テストの結果
提言

このテストで、正答率を最も左右する因子は、「入学した大学の偏差値」と「受験した大学入試の形式(マークセンスか記述式かなど)」であって、これは学部の系統より強く、通塾経験があるかどうかはほとんど関係がないという結果だったということが述べられていました。要するに、偏差値が上がると正答率は極端に高くなり、これはどの問題でも同じ、結果としてこの問題は数学力以上に「学力」を測るものになったと書かれていました。
私も問題を見てみましたが、ちょっと迷うのは論証の問題ぐらいで、あとは基礎的な問題ばかり。どちらかというと中学もしくは高校1年生で学ぶことばかりです。
たとえば、「偶数+奇数=奇数」の論証は中2レベルの問題で記号を用いて書くことは「ふつう」の中学生なら誰でもできるもの。2次関数の特徴を言う問題では、「上に凸」で頂点の座標は何々で、y軸との交点またはx軸との関係はどうだという程度はこれまた普通の高1程度の力があれば簡単に答えられる。
しかし前者では、偏差値の高い大学生でも正答率は8割、偏差値が60以下くらいになると正答率は10数%〜40%程度、偏差値50程度の私立では10%台になるという状況です。2次関数でもほとんど同様の傾向。いやいや、数学を教える立場の者としては、ビックリするくらいの結果(もちろん「ひどい」という意味)です。

ここで、この調査の当事者でもあったレポートの筆者は次のように書いています。

「偏差値が高いほど正答率が高いのは当たり前」だと思われるかもしれない。しかし、それは、この調査で問われた内容が学力とイコールだと仮定したときに導かれる結論である。・・・・本調査の内容は、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。・・・その正答率が入学しうる大学の偏差値に直結し、しかも全体の正答率が低いレベルに留まったということは、初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があると言わざるを得ない。

このテストからはいろいろ注目すべきことが引き出されています。
1つは「小学校から数学が不得意だったことが遠因となって、大学受験時に数学を受験せず、それが深刻な誤答につながるという流れが示唆される」という点。
2つ目は、記述式で受験していない、あるいは高校の早い時期からマークシート型の学習に傾斜しているという点、
3つめに、小学校・中学校でのドリルや業者テストが結果(数値)だけを追い、「本来、子どもが持つ誤概念を早期にスクリーニングし、それを修正するためにテストが機能を果たさなくなっているという点。
この点に関しては、たとえば作図のような問題は、ひょっとしたら学校でも教えられていないのではないかと考え出題したと書かれていました。
4つめに、「国語が得意であると思っている」ことと正答率の間には有意な負の相関が見られたということ。

最後の点については私も意外な気がしましたが、筆者も「本来論理的な読解や表現を学ぶはずの国語において、主観的な印象と客観的な性質の区別や、条件文の正確な読解に困難を覚える学生が「国語が相対的に得意」だと思い続けてしまったのは何故であろうか」「すべての科目の基礎としての国語力と、実際に教えられている国語科の内容とは果たして合致しているのだろうか」と疑問を投げかけています。

そして最後に筆者は、この問題に対処する際の注意点を次のように述べています。

今日の教育が「すでにひとつの『産業』であり、『システム』である以上、それに関わるプレーヤー(サービス提供者・消費者)は自らの効用が最大化するようにゲーム理論的に行動する」「この行動パターンを経済学的に分析することなく、教育理念や理想、あるいは単なる思いつきのみにドライブされて『空想主義的』な教育改革を行えば、間違いなく失敗する

さて、このテストを行った当事者である日本数学会は、「1990年代の終わり頃、すでに@読解・表現など国語力A抽象的・論理思考力、B 知識に対する意欲や忍耐力といった、ごく基本的な能が学生の間で低下しつあるという現実が浮き彫りにされていた」ことを指摘し、それが2000年代に入ってさらに深刻さを増し、ついに大学で高校の補習を行わざるを得ないような状況になったと述べています。
そうした事態を受けて行った今回のテストの結果からは、「論理を正確に解釈する能力に問題がある」「論理を整理された形で記述する力が不足」が浮き彫りにされたとその特徴を明らかにし、今後の対応として、高校までは「論理の通った文章を書くこと」、大学入試では「できる限り記述式」にして大学1,2年では思考整理と論理的記述を体得させることを提言しています。

「世界」のレポートでは、「解答時間をもてあまして携帯電話をいじりたがる学生が多くて困った」という、調査の実施にあたった教員の話が載っていました。「たった数分の時間を、答案を見直すのではなく、携帯につながっていないといられない学生の姿がそこに映る」・・・確かに。
日本の教育のあらゆる場面を通して、このテスト結果のもつ意味を問い、解決の道筋を真剣に模索していくべきだと思わされました。



  4月26日(木)    
1昨年の5月沖縄に行った折、妻の実家の家系図をみつけて、妻がさる王族の20代目の末裔にあたることを発見したと書いたことがありました。首里から逃れた王族だという言い伝えがあるらしいのですが、いまNHKで放送されているテンペストを見ていると、薩摩、清などとのはざまで翻弄される琉球王朝末期の人間群像が、とても興味深く親しみを持って見えてきます。
豪華な女性たちの衣装をみて、「沖縄の夏じゃすごく暑いのではないかな」と妻に聞くと、芭蕉布でつくられているのではという話。なるほどと納得した次第でした。
琉球王朝末期、アメリカ、フランスなどの脅威を前に独立を守ろうとする沖縄を舞台としているのは、これまでにない舞台設定だし、今日の沖縄の立ち位置を知る上でとても貴重な映像が多く意義深い。先日沖縄を訪れたみなさんも、きっと興味深く見ているのではないでしょうか。これからの展開が楽しみです。

昨日は高3生の授業でした。男子は全員野球部なので、塾に来るのは午後8時をまわっていることが多い。それでも必ずやってくるのは本当にすごいことです。
彼らの生活を見ていると、中学・高校での部活動のあり方については、大いに疑問を感じます。以前もこの問題について書いたことがありましたが、学校での教育活動としての位置づけがどれだけ真剣に議論されているのかということです。
運動部は試合に出場し、勝つことが一つの目標になりますから、勢い練習時間も多くなる。甚だしい場合は朝練と称して早朝から学校に行くことになる。授業を受けている時間は学習時間だから、それ以外は部活動と位置づけられてもやむを得ないとしても、結局家庭学習は限りなくゼロに近い。
私自身その昔、高校3年生で柔道部に入部し夏の昇段試験まで毎日部活動をやった口だから、その辛さはよくわかっているし、名古屋、富山、東京などの学校の部活動の実態もわかっているので、多様な形態があることもよくわかっている。
どこでも野球部は別格、他の運動部についても科学的な活動指導よりも、試合中心主義で学校教育の一環としての位置づけをしっかりしているところはほとんど皆無といっていい。それゆえ、日本では中学まではまだ国際比較でそれほど劣らなくても、高校、大学と行くにつれて外国との学力差は開いているのではないかと思わざるをえません。
他人とある問題について真剣に討論したり、自分の頭でしらべて判断するという能力では圧倒的な差が生まれる。外国との学力差を見る場合、テストの点数だけで判断しがちですが、今日生徒たちがどのような生活を送り、送らされているのかを総体として見ない限り正しい比較は出来ないのではないかとつい思ってしまいます。
目の前の高3生も、ついこの間までしっかり学んだはずなのに、恐るべき忘却率。これをどう回復し、入試レベルまでひきあげていくのか、なかなか頭の痛いところです。



  4月24日(火)    
昼過ぎ、以前被災地支援で布団類などを提供してくれた方が、車でいくつかの支援物資を運んで来てくれた。一つは製図用のトレース板、製図用具一式。あとは日用品の数々。
忘れずに品物を届けてくれる人がいるのですね。早く今年の活動をすすめなければならないのに、ちょっと一服状態。何とか動き出すようにしましょう。

塾で新しく受け持った新中3生と話していて、新しく発見することがあります。いまはまだわずか5名の生徒ですが、いずれも屈託無く明るい子ばかり。しかし、いざ数学を学び始めて見ると過去のいろいろな自己流や不勉強が露呈して、結構つまづきが多いことがわかります。

ここでちょっとだけ、授業の実況中継をしましょうか。はじめてですけど。

君たちの頭はとても素直でまっすぐです。一直線にのびていく性質を線形性っていう。リニア新幹線のあのリニアね。数学では、たとえば正比例 y=ax のグラフがまっすぐだってことは知ってる。このまっすぐさの裏には、a(x+y)=ax+ay という分配法則が隠れているんだね。
これはもう小学校以来、君たちのあたまにしみこんでいて離れない。どこまでもまっすぐ。ところが、この世の中では、まっすぐでないことが多い。多いって言うよりほとんどまっすぐじゃない。これは君たちも知ってる。たとえば勉強だって、1日2倍やったからって成績が2倍になるわけじゃない(「なるかも」という声)。
それじゃいま習ったばかりの (a+b)2=a2+2ab+b2 はどうでしょう。これだって仕組みを面積図できちんと理解したはずだけど、君たちはさっそく (x+3)2=x2+6x+6 とやりはじめている。まるで2乗が分配法則で配れるみたいに。実は、君たちの頭の中のまっすぐ回路につながってショートしたからこうなるのね(「12=2なんてやってしまった。自分でびっくりした」という声)。
来週修学旅行から帰ってきたら、もうすっかりこの公式をどこかに忘れているかもしれないなあ(「多分鹿に食べられている」という声、笑い)。 (a+b)2=a2+b2 なんてやるんだよ(「え〜〜、そんなこと・・・」という声)。いやいや、超有名校の高校生でもクラスの半分以上これやってるからね。もし、来週これをやったらどうするかなあ?(「鹿のせいです」という声、笑い)
今日のお話で大事なことは、公式には意味があると言うこと。教科書には必ず (a+b)2=a2+2ab+b2 と書いてあって、これをaと考え、これをbとすると・・・と書いてある。これは良くない書き方だと思うな。
だって実際には、2乗の公式は、(○+△)2=○2+2○△+△2 なんだ。○や△の中は何でもいい、aとbばっかりじゃないでしょ。ただ、○と△じゃ小学生っぽいから、ちょっとかっこよくa、bを使っているだけね。
「前たす後ろの2乗は、前の2乗たす2倍の前後ろ、たす後ろの2乗」ね。これです。これが大事。これを心の中でハリーポッターの呪文のように唱える(「ぜんぜん違うよ」という声、笑い)。
この仕組みがしっかりわかって、きちんとこれを使い切ると、頭にその回路ができる。この規則は「まっすぐ」ではないということがわかってくる。そうすると問題を見ただけで素早く暗算で計算できるようになるんだ。今日の最大のポイントはここ。
今日は、全員このことを学んだ。そして、仕組みの回路が頭に出来ればどれだけ速く正確に計算できるようになるかも実感したね。やってみて実際にものすごく速く計算できることがわかったでしょう。いいかい、この「計算の仕組みと頭の回路づくり」、高校生になっても大事だから、絶対に忘れないようにしよう。


もちろんこの解説の前には、公式の意味を面積図をつかって説明しています。そのうえでのこのまとめです。彼らのつまづきを早く見つけて、それがなぜ起こるのか、どうすればそれを防げるのかを丁寧に解きほぐしていけば、彼ら、彼女らは初々しい頭でどんどん吸収してくれる。学校では、残念ながらそこまで丁寧にはできないのでしょうね。
前回初めて会った生意気そうな男の子が、今日は「遅れなかったですよね」と言って息を切らして階段を上がってきたり、なかなかうまく計算できなかった子が、間違いを丁寧に指摘して間違いなく出来るようになるのを見ているのは楽しい。久しぶりに、孫のような子たちのかわいい顔を見ていると、私もまた教え方を工夫して、成績アップにつながるやり方を見つけていかなければならないと思わされるのです。

あはは、数学を教えるのが本業だということ、何か忘れていましたね。それにしても、この塾いつになったら辞めさせてもらえるのかなあ〜〜。



  4月23日(月)    
女川の高野さんから、ファンクラブニュースの原稿(最終)が届きました。それによると、いま原発の町女川で「再稼働反対の署名活動」をやっているとのことです。
原発の町で「再稼働反対」を打ち出し、署名をしてもらうということがどのようなことか、ぜひ皆さんにも考えてほしいと思わされました。
「再稼働反対」を表面きって打ち出しているのは、もちろん高野さん、阿部さん2人の共産党議員だけです。添えられたメールには「昨日近隣の人たちの応援も得て50人で署名活動を行ったけれど、集まったのは300筆。いかに地道なとりくみかがわかるでしょう」と書いてありました。貴重な300筆です。地元で地を這うたたかいを続けている高野さんらには本当に頭がさがります。

だがしかし、つい先日も妻がつぶやいていたように「みんな基地問題は沖縄の問題だと思っている・・・」が問題なんですね。原発は福島の問題、あるいは立地している自治体の問題であり、基地問題は沖縄や岩国、横田の問題・・・遠く離れていればさして関係がないという意識。何を隠そう私にだって無いかと言われれば、ある。それを克服するのは「知る」ということであり、「見る」「考える」ということでしょう。
友人でロック・ミュージシャンのMNEMOさんは、ふるさとの福島が踏みにじられていくことに満身の憤りを表明しつつ、今日の私たちの意識のありように深い危惧を表明し続けています。

彼の4月18日のブログで、ある方のFace Bookの記事を引用しながら、ちょうど私がいま書いたと同じような趣旨のことに触れられていたのが目にとまりました。

「皆さん、原発が収束していないというのは事実。
そして福島の問題ではないことを、しっかりと共有しましょう。
ふくしまの問題と考えること自体が誤りだと、本当に痛感しています。


その通りですね。
日常に埋もれて感覚を摩滅させられ、それも稼ぎのためには仕方がないと思い込まされる。疲れた頭には橋下などの「切れのよい短いフレーズ」ならスッと入ってくる。それでは原発利益共同体の思うつぼではないでしょうか。

ところで、つい先日は、大阪市長、府知事がそろって大飯原発の再稼働をめぐって「安全性の確認が不十分ななかで、政府の対応は拙速で問題だ」と述べたばかり。報道では、100q圏の自治体と電力会社が安全協定を結ぶことや、安全基準を根本から見直すことを求めていると伝えられます。その限りで、彼らは世論の動向に敏感だといえるでしょう。あくまで「その限りで」です。
産経新聞あたりから「大阪市の橋下徹市長には、この夏予想される関西圏の電力不足の解消に課された責任を果たす覚悟があるのだろうか」などとかみつかれていますから、おもしろい。どこまで自説を貫けるのだろうか。見物です。

なぜこんなことを書くのかというと、彼の「国盗り」のストーリーでは、自民・民主に埋没せず、いかにパフォーマンスで世論をひきつけるかの一点にかかっているからです。彼の一見「正論風」の原発再稼働反対も、一皮むけば「格差拡大はダメ、競争はダメ、このような甘い言葉こそ本当に危険。他者に依存しすぎる日本の今のあしき流れを断ち、『自立する個人』『自立する地域』『自立する国家』をつくりたい」(維新八策原案)という超過激な新自由主義的政治の一過程にすぎない可能性が濃厚です。

大阪市・府の特別顧問堺屋太一氏が、橋下大阪市長のブレーンであることはつとに有名ですが、その堺屋氏が今年1月の府市統合会議で次のような構想をぶち上げたという。出典はこちら

(1)道頓堀に全長2キロのプールを作り、世界遠泳大会を開催。
(2)2015年に「大阪都発都記念博覧会」を開催し、巨大歩道橋を建設。
(3)御堂筋を美術デザインストリートに。
(4)大阪市か堺市に1万平方メートルの超大型ビジョンを作る。
(5)建設中に近鉄あべのタワーに「驚愕展望台」を設置。
(6)JR大阪駅大屋根下に「空中カフェ」を作る。
(7)うめきた2期地域に高層マンションと空中緑地。
(8)うめきた1期の「ナレッジ・キャピタル」を世界的名物に改善。
(9)南港に「エレクトロ・ゲームセンター」を設置。
(10)関西空港と舞洲を一体にして国際特区に。


称して「大阪10大名物」というのだそうですが、気でも狂ったのかと思いますよ。バブル期での自民党も真っ青な提案。
要は使えるもの、世論に受けがいいものなら何でも利用する、ということではないでしょうかね。



  4月22日(日)    
首都圏や中京圏からたくさんのウオーキング客が訪れている昨日今日。桜の蕾はまだ固いし、あいにくの空模様で全く残念です。イベントの終わりまで何とか雨が落ちないで持ってほしいもの。
例年なら私も写真などで参加しているのですが、今年はあいにく参加できずに申し訳なく思っています。足の手術以来長距離が歩けなくなり、足手まといになるので、遠慮させて貰っているという次第。全くふがいない状態です。

今日の信濃毎日新聞では、主筆の中馬さんが怒っている。嘆いている。

サル芝居の政治といえばサルが怒るから、ここは上品に政治の演劇化といっておこう。・・・結論は出ているのに、国民の声を聞いてとか、閣内に検討会を立ち上げてとか、熱心に議論したふうを装う。その間に少しずつ本心を明かして当初の結論に導く。消費税問題がそうだったし、TPPもそうなるだろう。原発についてはさらに芸がこまかい。・・・

消費税を上げないと財政は破綻し日本は破滅するといった、まがまがしい説が流れている。政財界だけでなく一部メディアまでがそう言う。観客化し、お任せの有権者を揺さぶるには有効かもしれぬが、この説はあまりに粗雑だ。・・・今回、なぜ消費税の引き上げか。広く、手軽に徴収できるから・・・。なぜ所得税や相続税に本格的に触れないのか。超高所得層の反発が怖いから・・・。

私たちが収める税金は年40兆円。50兆円は借金だ。これでいいはずがない。だから私は増税も仕方ないと思う。それには条件がある。
@歳出を削れ。今年度国家予算には、例えば東京外郭環状道路に1兆2800億円など、自民党時代顔負けの公共事業がずらり並んでいた。
A税金は金持ちから取れ。日本では年に80兆円の相続財産が生じるが、対する税収は1兆2500億円にすぎない、と宮崎音弥さんが書いていた。
B木だけでなく森も見よ。・・・消費税が上がると消費は落ち込み経済の力も失せていく。


この論説の冒頭には中馬さんの次のような決意が書かれている。

いい世の中にしよう。この遺言(小宮山量平さん)を生かすため、新聞は政治を正す道を愚直に歩もうと思う。

拍手喝采したい中馬さんの重みのある言葉です。上向き、横並び、翼賛体制のマスメディアの中にあって、これだけの主張を堂々と書くのは勇気のいることです。しかし、社会の片隅で悪戦苦闘している人々にとって、心に届くのはこうした「あたりまえ」のスジの通った論説です。それくらい、この国の政治はゆがみ、腐敗し、あちこちで悪臭を放っているではないですか。
最初の「サルが怒るから・・」の文章中、「原発については更に芸がこまかい」のあとに続けて「沖縄の普天間基地問題についてはもはや芸の域を超えている」とでも書いてくれたら、もっとうれしかったのに・・・。

さて、この中馬さんの態度にならって我が町を見るとどうなるか。
松澤周三氏が立候補の意向を示して以来、先の議会で出馬を表明した現町長もまたあちこちを回り始め、新聞報道によれば近く政策などのチラシを配布することになっているとのこと。
私自身は松澤周三氏とはまず「サポートセンター」でお世話になり、続いて「被災地支援ネットワーク」で物資の収集にあたったり、現地女川町に2度出向いたりして期間は短いものの親しくしていただいた間柄です。その誠実な人柄と明晰な頭脳は、まさに町長候補として余人をもって代え難いものがあると私は心底思っています。
ところが聞くところによると、現町長は自らが町政を担当するのに適任だという理由として、「まだやり残したことがある」と言っているらしい。これは当然だろうから問題はない(もちろん「実績」と称するものについて詳細な検討が必要だが今は保留)。ところが、です。相手陣営を批判するのに、こともあろうに、事実に反することを言いふらしていらっしゃるご様子。これは見逃すわけにはいきません。この点についてのみ、触れておきましょう。

一つは「松澤の後ろには共産党がいる。松澤は偏った考え方の人物だ」というもの。どうやら私などが念頭にあるらしい。おやおや、そのように言えば怖がって引いてしまう人がいるとでも思っていらっしゃるのでしょうか。どのような人たちが松澤氏を推薦しているかもご存じなく、もはやお蔵入りの「反共攻撃」的手法で相手陣営を貶めるというのは、情けないというより、品性を疑ってしまいます。
松澤氏を推薦する人たちは大変幅広い層であるし、彼の考え方の中心になっている「支え合いと居場所づくり」という主張も住民の共感を得られるものばかり。
「共産党」といえば町民の支持が離反すると思う現職陣営の「作戦」は早晩打ち破られることになるでしょう。松澤さんの真っ直ぐさに我と我が身を照らし出せば、少しは恥ずかしくなるのかしらん?
もしどうしても共産党を引き合いに出したいのなら、この党に支持されない大政党の政治の体たらくを見てから言いなさい。共産党に支持されないって、そういう意味です

二つは、あの「サポートセンター」問題。松澤氏が「コーディネーターとして町に700万円を不当にも要求し、容れられないと見ると辞表を出した」という事実無根のいいがかりです。これこそ「白を黒といいくるめる」典型です。
これを聞いた町民はびっくりして「ボランティアでやるサポートセンターにどうしてそんな高額な金を要求するだいね」となる。
私は、サポートセンターの公募委員として審議に加わっていたときからつぶさに経過を紹介してきました。その記録はすべて残されていますから、事実関係を調べようと思えば誰でも知ることができます。まず、資料を見れば、事実は明白です。
ひょっとして役場の職員のみなさんもこの経過を正確にはご存知ないのではないか。もしそうだとすれば、由々しきことです。町長の妄言に惑わされないように、私は資料や公募委員全員の証言を通して事実をしっかりつかんでほしいと要望しておきましょう。参考までに要点を書いておきます。

サポートセンターを設置するにあたり、@庁内で「プロジェクトチーム」がつくられ、一定の予算面も考慮して計画が作成された。Aコーディネーターに松澤さんが起用され、公募委員10名が「運営協議会」のメンバーとして委嘱され、実質4回の審議が行われた。それには担当主管の教育長も加わっていた。B協議は、町の決めた流れにそって進められ、いかに町民の主体的活動を活発にするかをめぐって真剣な議論が交わされた。「サポートセンター」の必要性、それを担うスタッフの問題、予算の問題などが話し合われ、中心となる職員の人件費や備品、消耗品を含めて500万円程度は初期投資として必要であろうという結論になった。また、公募委員も無償のボランティアスタッフとしてサポートセンターを支える必要があると話し合っていた。C公募委員はすべて無償。手弁当での参加であった。D第5回目になって、町長が出席。「予算ゼロでやろうとしていたのに、予算要求とは寝耳に水。予算先にありきのやり方は承伏できない」といいだし、議論はそこでストップ。当初の役場内での申し合わせにも反し、白紙に戻すと主張する町長に、協議会委員は議論の前提が崩れたとして辞表を提出。E町長は、あらためて「サポートセンター」担当職員を専任して、当初からの主張である「結婚相談」などを手がける事業をすすめはじめた。

全経過を通して明らかになったことは、担当部署の方針や庁内での一連の協議内容、それ以後の協議会の報告をろくに聞きもせず、はじめから自分の思い通りにことが進んでいるとばかり思い込み、いざフタをあけてみたらまるで違った議論になっていた、ということではないですか。町長としての方針の欠如、庁内での連絡・組織体制の杜撰さを露呈しただけのことです。はじめからゼロ予算だとことわって、議論をスタートしていれば何の問題もなかったのです。
ところで、サポートセンターを「ゼロ予算」でやれるものなら町長さん、あなたが実際にやってみればよろしい。落選したら所長に任命してあげましょう。事務所無し、スタッフはコーディネーターを含めすべて無給のボランティア。すべて手弁当で素晴らしい町民活動の拠点を築いてみればよろしい。今だって職員予算として200万円くらい計上しているんじゃありません?
ま、辞表を出したおかげで、何のかかわりもなく、松澤氏をも含め大震災の被災地支援活動でめざましい活動をやれたのです。サポートセンターがあれば、町と住民団体が協力して、もっとすごい活動ができただろうとはその後の語りぐさになっていることです。

再び中馬さんの嘆きにもどりましょう。ここに紹介したいくつかは、何ともお粗末なことばかり。
ただし、念をおしておきますが、町長のすべてを否定しているのは決してありません。事実、若者向け住宅建設とか、町民活動への資金援助とか、それなりに成果を上げていらっしゃる。そうであるなら、正々堂々と政策で相手陣営と向かい合って下さいと申し上げたい。それこそが松澤さんの望むところではないでしょうか。そこからしか論戦ははじまらないと私は考えています。



  4月17日(火)    
今日は嬉しいメールを3通受け取りました。1人は町長選出馬予定の松澤周三さん、あと1人は一昨日松本での「よんよんコンサート」で講演された渡辺健二さんです。そして最後は、宮城県女川町の高野さん。
前のお二人はこちらからご挨拶をしたことに対する返事、高野さんは原稿依頼に対すしてのお返事でしたが、3人とも本当に丁寧で誠実に返信を書いて下さいました。人柄がにじみ出るような文面で感激でした。
断りもなく引用することはできず残念ですが、その誠実に人々の心をくみ取ろうとするお人柄だけでも是非とも皆さんに伝えておきたいと思ったことでした。

渡辺さんには、かつて菊里高校で教えていたときの思い出を書き、音楽課程の生徒たちがのびのびと、しかも集中してよく学んでくれたことに感激したと書き送りました。これに対して、私のホームページも読んだ上で、自治体に住む住民一人ひとりの自治への参加が積み重なって、国政もまともになっていくとエールを送ってくれたり、昔とくらべても今の教育のあり方が間違っているのではないかと指摘されたりで、本当にびっくり。
それはそうと、奥様は同級生だったのですか。お名前はよく覚えていますよ。もしまたこのページを読まれることがあったら、奥様にどうかよろしくお伝え下さい。健二さんは私のことはあの高野さんと同じで「・・・??」だったようですが、奥様の方がかすかにであれ覚えておいて下さって、これは大感激です。今度海老名に寄ったときには是非ともお土産を持ってお宅に寄りたいものです。その節はどうぞよろしくお願いいたします。

さて今日は久しぶりにバラ園にでかけ、パンジーなどの花を植える場所を耕耘機で耕し、一部マルチをして一汗かいてきました。これからいよいよバラ園の管理も忙しくなってくる季節。3月に植えた新しいバラの苗も新芽をふくらませており、6月にはもうすっかり大きく茎を育てて美しい花を咲かせてくれることでしょう。
先日の木戸(町内)の常会でも、何人かが「バラ園はどうですか」と声をかけてくれました。直接手伝えずとも、見えないところで心を寄せてくれる人も大勢いることに勇気をもらって、精一杯頑張ることにしましょう。
まだ桜の蕾は固いものの、ようやく梅が満開を迎え始めました。我が家のレンギョウや水仙も満開。季節は春。







  4月15日(日)    
妻は昨日午前中に無事退院。昨日今日と家の中でのんびり過ごしていました。病院で窮屈な生活を強いられていただけに、やはり家はいいものですよね。ただ、検査の結果は2週間後にわかるというので、執行猶予中のような感じです。目視ではまだ腸に少し傷が残っている程度のようなので、まもなく平常に戻るでしょう。

私は今日午前中は、もらったDELLのデスクトップ・パソコンのカスタマイズをして過ごし、昼からは芸大副学長渡辺健二さんのピアノの講演会に松本まで出かけました。
演奏が中心かと想像していたら、まるで違って、ピアノの構造や練習の仕方についての専門的な講義。親しみやすいわかりやすい説明で、いちいち納得して飽きることがありませんでした。さすがに長年ピアノ演奏で腕を磨き、後年は後輩指導に力を入れてきただけあって、プロの指導者というのはこんなものなのだと思わされました。
この催しが開かれたのは松本のあがたの森文化会館というところ。日本ピアノ調律師協会が開いた「よんよんコンサート」というのが今日の演奏・講演の名前。初めて昭和初期に建てられたようなレトロな建物の講堂で約200人くらいが集まっての講演会でした。「よんよん」というのは、ピアノのA音が国際的に440MHzと決められているところからきたという話。
渡辺さんは、同じフロアでビデオで手元を写したり、ご自身パソコンでプロジェクターを操ったりしながら、あっちへ行ったりこっちへ来たり。ピアノの歴史を、構造からくわしく話してくれたし、練習の仕方も腕の使い方も原理的なことから話してくれて、ピアノはほとんどシロウトの私でもよくわかりましたよ。
私の目的は、どちらかというと、あの「健ちゃん」がどんな先生になっているのか、懐かしさの余り出かけていったわけで、全ての講演が終わって片付けに入っている彼の前に行き、かつて若い頃菊里高校で数学を教えたことがあると告げたのでした。畏れ多くも畏くも芸大副学長の前でですよ。

健ちゃん:「ああ、そうでしたか。高2なら数学Aでしたね」
私:「あのクラスは男の子1人、あとは全部女の子でしたよ」
健ちゃん:「そうそう、今から考えると良い時代でしたね。菊里では同窓会をやるとか言っていましたよ」
私:「その菊里でのことですが、高2か高3の発表会の舞台で何かピアノコンチェルトをお弾きになったのを覚えています」
健ちゃん:「文化祭じゃなかったですかね。確かグリークの・・・」
私:「健ちゃんは女の子のあこがれの的でしたよ。でも昔と全然変わっていないですねえ。何しろ童顔だし・・・」
健ちゃん:「みんなからそう言われます」
私:(名刺入れに入っていた「被災地支援ネットワーク」名刺を差し出し)「これしか持っていないので・・」
健ちゃん:(渡辺さんも名刺をくれて)「東北の方はこれからもっと支援が必要になりますね」
私:「そうです、これから東北の子どもたちへの支援を考えているところです」
健ちゃん:「それはいいことです。たいへんでしょうが、頑張って下さい」
私:「先生のいっそうのご活躍を期待しています。また機会があれば演奏をお聴かせ下さい」

とまあ、こんな具合。念願を果たして、カタクラモールに寄り、ごちそうを買って家路についたのでした。



  4月13日(金)    
周期的に天気が変わり、ときどき雨風が強くなることがありますが、今朝のようにすっきりと晴れることが多くなりました。
昨日などは汗ばむほどの陽気。しかし、5月連休頃までは霜が降りることがあるので、一直線に春爛漫ということにはならないでしょうね。病院に行くために松本に向かうと、川原の樹木が淡い緑に包まれていました。庭先のレンギョウもまもなく黄色に染まるようだし、ハマナスの新芽も大きくふくらみ、水仙の花も開きそうですから、確実に花と新緑の季節が近づいています。

入院中の妻は、今日大腸検査を受け、異常がなければ明日にも退院の見込みです。昨日は2gも腸の洗浄剤を飲まなければいけないといって、顔をしかめていました。この際、徹底的に検査をして、健康になって退院してきてほしいもの。私は毎日見舞いかたがた、連絡と運搬係です。

さて、このところ完成をめざしてずっと推敲し、校正に校正を重ねていた「町政ビジョン2012」(ビジョンと基本政策、財政白書の2部構成、72ページ)の見本ができあがりました。製本完成は20日頃です。
おかげでパソコンの画面を見ると目の焦点が合わない。もともと左右の視力が異なり、しかも乱視があるのでメガネが全然合わなくなってしまいました。少し画面から離れて緑の草花でも見ていないとダメですね。


何度見直しても、誤字やら記述の間違いやらが出てきて閉口しました。多分、見落としがまだいくつもあることでしょう。もうこれ以上見るのがいやというほど見ましたから、あとは正誤表で勘弁してもらうことにしましょう。

今日のローカル紙2紙が、6月の町長選挙で松澤周三氏の出馬について報道をしていました。彼は被災地支援ネットワークのメンバーでもあって人となりはよく知っていますから、現町長への対抗馬としてこれ以上ふさわしい人材はいないでしょう。正式に出馬表明が行われ、政策が発表されれば、全力をあげて当選のために奮闘することになりそうです。
ここで誤解のないようにきちんと説明しておきますが、「町政研究会」の政策とビジョンは、松澤氏の出馬とは一切関係がありません。タイミングが重なったことで無用な詮索をされませんように。松澤さんも私たちも迷惑です。
もともとこの会は2年半前に有志数名ではじめた研究会であり、資料を蓄積し、1年半ほど前から財政白書とは別に町政全般にわたる政策について検討を深めてきたものです。
勝山現町長であれ、松澤陣営であれ、この提言に耳を傾け受け入れるところは受け入れ、批判するところは批判し、建設的に意見交換しながらさらによいものに高めていってほしいというのが私たちの基本的スタンス。「研究報告」であると同時に、町民の中での「議論の素材」という性格をもっているものです。
すでに数日前に各新聞社には連絡を入れて、26日に記者会見してこの研究報告を発表することにしており、5月末には町内の関心ある人々に集まってもらって「町政ビジョンを語る会」(仮称)のような催しを開くことにしています。
要は、もっと町政のいろんなことに関心を寄せ、町の未来、これからの町づくりのビジョン、方針を語り合うことが大事なんです。その一助になればいい、ただそれだけの気持ちを持って、ようやく出版にこぎ着けることができました。
東京近郊などの大きな市ではかなり前から住民の白書運動は活発でしたが、1万人程度の小さい町としては全国初めての試みかもしれません。全国の小さな自治体での運動にも刺激になるといいですね。
冊子の印刷には約15万円かかります(印刷・製本費のみ)から、赤字を出さないように一冊1000円で購入してもらうことにしています。ぜひご協力を。限定200部の印刷です。



  4月9日(月)    
一日が長くなりましたねえ。良い天気が続いて山がとてもきれいです。


妻が孫の小学校の入学式に出席するため富山に出かけていて、帰ったと思ったらその足で松本のボーリング場へ。いつもなら11時頃帰るのですが、突然電話があって気分が悪くなって救急車を呼んだというボーリング仲間からの連絡。びっくり仰天しました。
妻はそのまま松本の協立病院へ入院。どうやら旅行の途中でウイルスを仕込んできたらしい。検査の結果はいま全国で猛威をふるっているノロウイルスらしいということ。個室に入れられています。私が面会で入室するときもガウンやらマスクやら手袋やらでものものしい格好をしなければなりません。

3日ほどたって症状も改善し、今日から5分がゆだと言っていました。2日ほどはお腹が痛いので、我慢するだけで他のことは考えられなかったけれど、良くなってくると腰はいたいし退屈だし・・と贅沢なことを言っていました。おそらくあと2,3日で退院できるでしょう。私は別に何ともありません。

しばらく一人暮らしですが、今回はちゃんと自宅で食事をつくって食べていますよ。何しろ沖縄からどっさり野菜などを買ってきているし、お土産でもらったものもあるし。



  4月5日(木)    
3夜連続で放送されるTVドラマ「ブラックボード〜時代と戦った教師たち〜」。終戦直後の中学校を舞台にした今日の第1話は、櫻井翔が演じる戦前の教師の典型。彼は真剣に真面目に時代に対し生徒に対してきただけに敗戦を受け入れられず、自分の教えてきたこととの矛盾に耐えきれない。悩み抜き、どん底まで落ちていく彼を最後に救ったのは、同じように苦しみ苦悩する母であり、教え子たちだった。時代を真正面からみつめ、人間として生きる意味を問いただしていく一コマ一コマが胸を打つ。
登場人物たちの1人1人が個性的な演技を見せ、素晴らしい。また、時代背景をふまえ実際の町並みを忠実に再現していて、若い人にはこんな時代もあったのだということを知る意味でもぜひ見て欲しいドラマになっていました。

さて、今日の夜は町政研究会の例会。「町政ビジョンと財政白書」の最終調整を行いました。これはまもなく印刷物で発表することになります。
これはあくまで研究会としての政策提言であり、会として何らかの町政への政治的アクションを行うというものではありませんので念のため。とはいえ、町の将来のビジョンを積極的に語っていこうというものですから、町長選挙であれ、町議会選挙であれ、それぞれの候補者が批判的に検討し意見を述べ、あるいは受け入れて発展させてくれれば大変うれしい。
今日は、内容を検討したあと、製本、記者会見などの日程を相談。4月26日ごろを目途に発表しようということになりました。いよいよ作業も大詰めです。



  4月4日(水)    
昨夜から寒くなったと思ったら今朝はうっすらと雪。東北の日本海側では猛烈な吹雪、強風でトラックも横転というニュースがしきりに流れていました。沖縄とはえらい違い。暖房を入れっぱなしで、何とかしのいでいます。


妻の実家でとっている新聞は「琉球新報」。普段見慣れている全国紙や信濃毎日などとは編集の仕方も異なっていて、固めて数日分を読んでいるだけでもいろいろと考えさせられることが多かった。また旅行の後半、持って行った「世界4月号」を隅から隅まで読んで、これまたいろいろと刺激を受けました。

社説を中心に、沖縄の「こころ」をくみ取ってみることにしましょう。

3月26日。
前にも書きましたが、首里城地下の第32軍司令部あとの壕について、県が「住民虐殺」「慰安婦」など沖縄戦の本質を伝える記述を削除したままの説明板を設置した問題で、「戦争犠牲者を冒涜するな」という社説をかかげていました。下の写真は、その説明版(3月30日に撮影したものです)。

癒されぬ心の傷を抱えながら、「子々孫々へ真実を引き継がねば」との使命感で証言してきた戦争体験者への背信行為ではないか。
32軍は、米軍の本土攻略を遅らせるため戦争を引き延ばす「捨て石作戦」を練った場所だ。捨て石にされたことで、おびたただしい数の一般住民が犠牲となった。その意味で32軍壕は、沖縄戦の本質を考える極めて重要な場所だ。
そこに建つ説明板は単なる観光説明板ではない。史実と真摯に向き合う歴史教育の場でもある。



3月28日
辺野古のアセス評価書に対して沖縄県知事が404件の不備を指摘したことについて、「環境保全は不可能」という見出しの記事を掲げ、次のような社説を掲げていました。
下の写真は、記事を掲載する琉球新報。

この評価書が『科学』と呼ぶに値しないことは、誰の目にも明らかだ。国は手続きを即刻中止し、辺野古移設を断念すべきである。
野田佳彦首相はじめ閣僚は全員37ページに上る知事意見を熟読してほしい。読めば、国の評価書が世界に恥をさらす代物であることに気づくだろう。それに気づかぬなら、政権を担当する資格はない。
県民は、沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中していることや基地から派生する事件・事故によって生命や人権が脅かされている現状を『構造的差別』と捉えている。県民は、不平等や差別的扱いを甘受しない。知事意見で沖縄の意思は鮮明になった。今度は野田首相が辺野古断念を決断する番だ。



3月28日
高校の教科書で、ほとんどが「集団自決」での「軍命令、強制」を明記しなかったために、検定意見がなかった問題で、次のような社説を掲げていました。

昨年の中学教科書の検定結果では合格した7社全てが「集団自決」を記述したが、今回の高校教科書は2社3冊が触れておらず、全体的に後退した印象は否めない。住民がスパイ容疑で日本軍に虐殺された事案などを具体的に記述する社もあるだけに、沖縄戦記述の濃淡はむしろ強まったといえる。 ・・・
県議会事務局の試算では、基地が存在することによる損失利益は年間5千億円、米軍基地がすべて返還された場合の経済効果は現状の2.2倍に上る。那覇新都心など返還跡地の活況を見ても、基地が経済発展の阻害要因となっていることは、多くの県民にとって周知の事実だ。誤った固定観念で事実がゆがめられ、さらに基地押しつけの理由にされてはたまらない。


これらの社説のすべてはごくごく当然の指摘でありスジが通っています。それゆえ、「ふつう」に考えれば誰でも納得できる内容です。
これが「日本政府」には通らない。沖縄への「構造的差別」という新報の指摘は全くその通りだと私も思います。
「日本における巨大メディアと権力との癒着、一体化は、行き着くところまでいった感があります」(「日本の巨大メディアを考える」)という志位共産党委員長の感想には、琉球新報と全国紙との比較からもまさにその通りという実感を持ちました。



  4月3日(火)    
昨夜無事沖縄から帰宅しました。はじめの4日間は5人の友人が一緒だったこともあって、いろいろ小さいトラブル続きの珍道中でしたが、何とか元気に帰還することができました。
一日帰りが遅かったら、今日のこの暴風雨。ひょっとしたら飛行機も列車も動かなかったり大幅に遅れたりしたのではないかと思われ、その前に帰られたのはラッキーでした。
現地では低気圧の通過で一日だけ荒れた日がありましたが、それ以外はカラッとした好天気。とくにはじめの4日間はすばらしい日の連続。「私は雨女なのに、負けた・・」という人もいるほどで、みなさん大感激でした。
ただ、私だけは沖縄に行く2日前から腸の具合が悪くなり現地でもはじめの3日間はほとんど食事もできず、みなさんに心配かけました。「ひょっとして私たちが同行したから気を遣って具合を悪くしたのでは・・・」などと気をもむ人もいましたが、気心の知れた人たちばかりで気を遣うようなことはありえず、それは全くあたっていませんよ。
それにしてもこれほどものをよく噛んで食べたことは人生でも初めてかもしれません。時間をかけてゆっくりゆっくり。そんな体験ができただけでもよかったのかも。

初日は那覇に着いてから8人乗りのレンタカーを借りるためにちょっと離れた店まで連れて行かれ結構時間がかかり、その後ホテルにチェックインして夕食会場に向かうまでにまた手間取り、もたもた。借りたレンタカーのキーが「インテリジェント・キー」などというシロモノだとはついぞ知らず、「抜けない、抜けない」と焦りまくり。店に電話してキー本体が別の場所に隠れていたのを知ったのは30分も経ってからでした。だいたい田舎で軽トラしか乗ったことのない私が最新式の車を運転するのだからそんなことになるのですよね。
その後、琉舞を見ながらの食事。あとは何事もなく初日が終わりました。




2日目は、昨年も案内してもらった妻の友人の座波さんがガイドをつとめてくれて、南部戦跡巡り。
ちょうど1日前の3月26日は沖縄戦で米軍が沖縄に上陸した日であり、慶良間諸島などで「集団自決(=強制集団死)」が起こった日。
この日はまずホテルから首里城を経て糸数壕(アブチラガマ)へ。予約が必要になっていることを知らずに行ってしまいましたが、幸い見学者がいなかったためにすぐに入れてもらうことができました。
中では電池を消して「真っ暗闇」の体験をしたり、座波さんから丁寧な説明を聞いたりしながら、当時の過酷なガマの中での生活を少しでも感じ取るようにしました。
ガマの奥には重症患者、入り口近くには住民が追いやられ、ほんの入り口には「慰安婦」たちが。軍による差別・非人間性がガマの中まで支配していたことがよくわかります。
その後は前川の民間防空壕を見た後、摩文仁に向かい平和の礎、韓国人慰霊塔、健児の塔、ひめゆりの塔、白梅の塔とめぐってホテルに戻りました。




3日目は基地巡り。まず嘉数高台に行き、住宅密集地にある普天間基地を遠望。
そこから嘉手納空軍基地がすぐ眼下に見渡せる「道の駅かでな」へ。ミサイル発射装置が故障した戦闘機に救急車両が群がっていた程度で、戦闘機や輸送機の離発着はなし。ただ、北朝鮮によるミサイル発射に備え、沖縄へのPAC3の配備がらみで、内部ではそうとうに緊張が高まっていたのではないかと想像されます。
その後は、辺野古の基地反対テントと東村高江のヘリパッド建設現場の団結小屋に行き、それぞれ説明を聞いたり署名をしたりして基地反対の決意をかためてきました。




4日目は本部半島にある沖縄美ら海水族館にでかけ、午前中ゆっくり見学。午後は那覇に戻って買い物。


続いて5日目は一行を那覇空港まで見送って、ようやく実家の母のもとに帰りました。そのころから私のお腹は大分良くなり平常食に。
母はそれなりに年を取ったなと感じるところはありましたが、それでも92才とは思われない元気さで安心しました。庭にはシークワーサーの木が以前より更に増えた感じで、たくさんの花を咲かせていました。




6日目の31日、2人で近くの久高島に行こうと出かけたまでは良かったのですが、港の近くに来たときに突然の豪雨。その後は風も強くなって最悪の天気に。結局その日の久高島行きはあきらめて、買い物などをして過ごしました。
最終日の4月1日は天気も回復したため、朝早くから久高島へ。神々の住む島と言われ、さまざまな神事が残っている伝説の島で、本島から高速船で20分くらいのところにあります。
カーフェリーも通っているのでタクシーでもあるのかと思ったら、交通手段は徒歩か自転車だけ。久しぶりに妻と自転車でほぼ島を一周してきました。とはいえ、祭事を行う場所と行っても小さい祭場か広場がある程度、神事が行われる場所は神聖な場につき立ち入り禁止、というわけで、どんなところかを見に行った程度に終わりました。
島へわたるほとんどの人は釣りが目的。今度はゆっくり2,3日かけて滞在し、釣りでもしようかなと思ってしまいました。
(下の写真のうち、1枚目のツーショットは別々に写したものを合成しました。なかなかのものでしょ)




そして昨日。乗り継ぎでそれぞれ相当な時間を費やしながら、夜9時近く無事池田に戻ってくることができました。

その他の写真などは、少しずつ紹介していくことにします。




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