その頃私たち夫婦は、スイス村サンモリッツで開かれた共産党志位委員長の演説会に参加、志位さんの訴える消費税なし、原発なしの社会の展望に確信を深めてきました。
というわけで、どちらもほぼ同じ頃に池田町の我が家に到着、孫も来年からは小学校という年になったし、飼い猫のハルちゃんもすっかり慣れて、比較的落ち着いた夕べをすごすことができました。
今日は午前中から午後2時過ぎまで全員で畑にでかけて草取りや耕耘機での今年の畑作りに汗を流しました。ちょっとぐずついた天気でしたが、何とか持ってくれてようやく畑も1/3ほどの準備状況。まだまだタネをまいたり苗を植えるために準備することがあります。精を出して仕事をしたので、結構疲れて息子家族は一眠り。
まわりでは木々がすっかり薄緑に覆われはじめ、田植えの準備作業が急ピッチですすんでいます。そうこうしているうちにあっという間に大型連休も過ぎていくのでしょう。
下の写真は、畑で撮ったもの。例によって合成写真です。どこが合成かわかりますか?(答:私が撮ったみんなの写真に、同じ場所で撮った自分を付け加えました・・・!)
話題がまたがらりと変わりますが、雑誌「世界」の5月号に、日本数学会が昨年4月〜7月に実施した「大学生数学基本調査」についてのレポートが掲載されていて興味深く読みました。
この「調査」は、「最近の大学生の数学の学力がおそろしく低下しているのではないか、それはなぜなのか、どうしたらいいのか」という問題意識のもとに日本数学会、教育委員会が問題を作成、レベルも系統も異なる48大学、5946人に実施したテストのことで、当時新聞などでもとりあげられたことがあったようですね(知らなかった)。
どんなテストが行われたのか、その結果はどうであったのかは、以下の報告で知ることができます。
テストの内容
テストのこたえ
テストの結果
提言
このテストで、正答率を最も左右する因子は、「入学した大学の偏差値」と「受験した大学入試の形式(マークセンスか記述式かなど)」であって、これは学部の系統より強く、通塾経験があるかどうかはほとんど関係がないという結果だったということが述べられていました。要するに、偏差値が上がると正答率は極端に高くなり、これはどの問題でも同じ、結果としてこの問題は数学力以上に「学力」を測るものになったと書かれていました。
私も問題を見てみましたが、ちょっと迷うのは論証の問題ぐらいで、あとは基礎的な問題ばかり。どちらかというと中学もしくは高校1年生で学ぶことばかりです。
たとえば、「偶数+奇数=奇数」の論証は中2レベルの問題で記号を用いて書くことは「ふつう」の中学生なら誰でもできるもの。2次関数の特徴を言う問題では、「上に凸」で頂点の座標は何々で、y軸との交点またはx軸との関係はどうだという程度はこれまた普通の高1程度の力があれば簡単に答えられる。
しかし前者では、偏差値の高い大学生でも正答率は8割、偏差値が60以下くらいになると正答率は10数%〜40%程度、偏差値50程度の私立では10%台になるという状況です。2次関数でもほとんど同様の傾向。いやいや、数学を教える立場の者としては、ビックリするくらいの結果(もちろん「ひどい」という意味)です。
ここで、この調査の当事者でもあったレポートの筆者は次のように書いています。
「偏差値が高いほど正答率が高いのは当たり前」だと思われるかもしれない。しかし、それは、この調査で問われた内容が学力とイコールだと仮定したときに導かれる結論である。・・・・本調査の内容は、どの子も等しくできなければ、それ以降の学びが困難になる等、彼ら自身が困ることがらばかりである。・・・その正答率が入学しうる大学の偏差値に直結し、しかも全体の正答率が低いレベルに留まったということは、初等・中等教育の設計に何らかの欠陥があると言わざるを得ない。
このテストからはいろいろ注目すべきことが引き出されています。
1つは「小学校から数学が不得意だったことが遠因となって、大学受験時に数学を受験せず、それが深刻な誤答につながるという流れが示唆される」という点。
2つ目は、記述式で受験していない、あるいは高校の早い時期からマークシート型の学習に傾斜しているという点、
3つめに、小学校・中学校でのドリルや業者テストが結果(数値)だけを追い、「本来、子どもが持つ誤概念を早期にスクリーニングし、それを修正するためにテストが機能を果たさなくなっているという点。
この点に関しては、たとえば作図のような問題は、ひょっとしたら学校でも教えられていないのではないかと考え出題したと書かれていました。
4つめに、「国語が得意であると思っている」ことと正答率の間には有意な負の相関が見られたということ。
最後の点については私も意外な気がしましたが、筆者も「本来論理的な読解や表現を学ぶはずの国語において、主観的な印象と客観的な性質の区別や、条件文の正確な読解に困難を覚える学生が「国語が相対的に得意」だと思い続けてしまったのは何故であろうか」「すべての科目の基礎としての国語力と、実際に教えられている国語科の内容とは果たして合致しているのだろうか」と疑問を投げかけています。
そして最後に筆者は、この問題に対処する際の注意点を次のように述べています。
今日の教育が「すでにひとつの『産業』であり、『システム』である以上、それに関わるプレーヤー(サービス提供者・消費者)は自らの効用が最大化するようにゲーム理論的に行動する」「この行動パターンを経済学的に分析することなく、教育理念や理想、あるいは単なる思いつきのみにドライブされて『空想主義的』な教育改革を行えば、間違いなく失敗する
さて、このテストを行った当事者である日本数学会は、「1990年代の終わり頃、すでに@読解・表現など国語力A抽象的・論理思考力、B 知識に対する意欲や忍耐力といった、ごく基本的な能が学生の間で低下しつあるという現実が浮き彫りにされていた」ことを指摘し、それが2000年代に入ってさらに深刻さを増し、ついに大学で高校の補習を行わざるを得ないような状況になったと述べています。
そうした事態を受けて行った今回のテストの結果からは、「論理を正確に解釈する能力に問題がある」「論理を整理された形で記述する力が不足」が浮き彫りにされたとその特徴を明らかにし、今後の対応として、高校までは「論理の通った文章を書くこと」、大学入試では「できる限り記述式」にして大学1,2年では思考整理と論理的記述を体得させることを提言しています。
「世界」のレポートでは、「解答時間をもてあまして携帯電話をいじりたがる学生が多くて困った」という、調査の実施にあたった教員の話が載っていました。「たった数分の時間を、答案を見直すのではなく、携帯につながっていないといられない学生の姿がそこに映る」・・・確かに。
日本の教育のあらゆる場面を通して、このテスト結果のもつ意味を問い、解決の道筋を真剣に模索していくべきだと思わされました。