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  10月28日(月)
朝早く起きて車を見ると寒い朝いつものように見られるように露でびっしょりでした。車を動かそうとしてワイパーを動かしたらジャリジャリと音が・・。何と凍っていた!!
寒気の南下と放射冷却とで、おそらく2,3度まで気温が下がっていたのでしょう。いよいよ朝は真冬、昼は秋の気温差の極端に大きな季節に入ってきました。

さて、今日は被災地支援の役員会を行い、バスツアーの最終確認をしました。参加者は総勢30人。1日の早朝に出発して翌日の夜に帰着する計画です。
現地では、被災地の様子をガイドの案内で見聞したり、津波で亡くなった方への献花、商工会への義援金の手交、仮設住宅の方々と交流などのイベントを行ったり、最後には海産物をたっぷり買ったりと行動は盛りだくさんです。
現地では、我が先輩の高野さんご夫妻があれこれ世話をしてくれるので助かります。参加者の1/3は他市町村の方(松本、安曇野、松川、生坂)。参加者の平均年齢が高いことやバスの中での時間が長いので、とにかく無理をせずに無事帰ってくることが大事ですね。

次の資料は、今回のツアーのために作った旅行の「しおり」です。

しおり表
しおり裏



  10月27日(日)
今日はJA、安曇病院などが主催する池田町の農業祭、病院祭の日。被災地支援ネットも「サンマ販売」で一役買うことになりました。農業祭で「サンマ」というのも変ですが、何でもありの祭りですからよしとしましょう。
農業祭には、さすがにたくさんの町民(他市町村からも)が押し寄せて大変な賑わいでした。
そのサンマ、いつもの女川町「岡清」で注文した獲れたて新鮮サンマ300本。スーパーなどで見るものとは輝きが違います。メンバーたちの呼び込みもあって、午前中の2時間で完売。
私は側にいたことはいたのですが、長く立っていられないので以前のようにねじり鉢巻きというわけにいかず、後ろでおとなしく座っているか写真を撮っているかのいずれか。終わってからは片付けも手伝わずに帰ってきてしまいました。スタッフのみなさん、お疲れ様でした。

しばらく観察していた感じでは、富山などとはどうも様子が違う。中には、「焼いたサンマはないのですか」と聞く女性の方もいて戸惑いました。何本か炭火焼きにして出すには出していましたが、それはあくまで客寄せ用で、今年は焼きサンマを売るのは無しにしていたのです。なんと言っても食べる直前に焼いて食べるのがおいしいですから。
しかも、女川直送サンマは刺身にできます。焼いたのを買ったんじゃ、おいしさも半減ですしね。とはいえ、そんなことも言えず、ただ見守るだけでした。

今回は仕入れ価格が1本100円、送料込みで120円ちょっとを120円で販売したので出血大サービス。日頃の町民からの被災地支援への協力に感謝して販売するという趣旨でした。
お天気にも恵まれて無事終わってよかった。あとは女川行きを準備万端整えることだけです。











  10月26日(土)
「ユダヤ人を救え」(A Conspiracy of Decency)の第4章、第5章から。
第4章は「エーレ海を越えての逃亡」。デンマークからエーレ海を越えてスウェーデンにユダヤ人たちを逃す、デンマークの人々のさまざまなエピソードで綴られています。

ワシントンD.C.のホロコースト記念博物館には実際の救助船が展示されているんだそうですね。写真で見ると本当にちっぽけなボートです。
当時、ここに展示されているような小さい船やもっと大型の船で実際に海を渡ったのは300隻。実に7220人のユダヤ人と680人の非ユダヤ人が運ばれたのです。その数はデンマークのユダヤ人の90%以上にのぼったと記されています。

著者のエミー・E・ワーナーさんはデンマークの人々がとったこの救出劇について次のように書いています。

全く突然に起こったこの種の集団逃亡が成功したのは、ひとえにそれが多くの善意の人々の自発的な行動だったからというに尽きる。

逃亡を助けるといっても、実際には燃料費、食事代その他莫大なお金がかかります。スエーデンに逃れる費用を持たないユダヤ人達のために、二人の学生と一人の中学校教師が獅子奮迅の働きをします。
お金をつくり、隠れ家を提供し、船まで案内し・・・と救助は次第に組織的になり、大がかりになっていきます。そして、レジスタンスのメンバー、警察官、漁船の船員、議員、医師、牧師たちが夜ひそかに船にユダヤ人を乗せてスウェーデンに向けて出港するのを助けるのです。
次は当時7歳だったエミリエ・ロイの回想です。

She sat in the dark in the hold, breathing the stink of fish. The boat that carried her large family left at noon. They heard the voice of a Danish policeman on board who called, "Have a good trip!" Then he turned and was gone. ・・・・ Then they saw a light in the distance. It had been three years since Emilie had seen a light at night--half her young life she had known only blackouts in Denmark. A boat with a blue and yellow flag was coming to meet them. "Welcome to Sweden," said the crew as they entered the harbor of Helsingborg. "I never heard more beautiful words," said Emilie.

彼女(エミリエ)は暗闇の中で船倉内に座り、魚の臭いを嗅いでいた。彼女の大家族を運ぶ船は、正午に出発した。彼らは、乗船してきて「よい旅を!」と叫ぶデンマーク人警官の声を聞いた。それから、その警官は身を翻して船を降りた。・・・ そのうちに、遠くに明かりが見えた。エミリエは3年ぶりに夜の明かりを見たーーまだ幼いのに、生きてきた半分の間彼女はデンマークで灯火管制しか経験していなかったのだ。青と黄色の旗を立てた船が彼らを迎えにやってきた。ヘルシンボリ港に入ると、「ようこそスウェーデンへ」とその船の乗組員たちに言われた。「あれほど美しい言葉を聞いたことがありませんでした」とエミリエは語った。


14歳のベント・メルキョアもまた同様の感想を述べています。

私は、恐怖と苦難の時間を経た後、スウェーデンの漁師たちが「スウェーデンにようこそ!」と言って出迎えてくれた瞬間を決して忘れることはありません。

その父親もまた、次のように書いています。

彼ら(スウェーデン人)は我々を上陸させ、自分たちの家に招いてくれ、我々が故郷から送り出されたときに受けた助力にも劣らない思いやりと親切心を示してくれた。

それまで見て見ぬふりをしているかのようだったドイツ軍に替わってゲシュタポが派遣されてくるようになります。逮捕者が出るようになり小さい漁船ではユダヤ人を運ぶことができなくなったデンマークの人たちは、今度は大型の船で運ぶか、またはより巧妙な方法を編み出していくのです。
一方で、ドイツ海軍の警備艇の艇長の中には、次のような行動を取った人がいたことを,、ウルリク・プレスナーという人がその手記で紹介しています。

On a dark and rough night, my neighbor sailed with lights out and the fish-hold full of Danish Jews. He was caught in the searchlight of a German Navy patrol boat which ordered him to stop and kept him covered. The German captain shouted: "What are you carrying?" And Ole shouted back, "Fish." The captain then jumped ont the deck, leaving his crew to cover him, and demanded that the hatches to the fish-holds be removed. He stared a long time at several dozen frightened people looking up him. Finally, he turned and said to Ole, in a loud voice that could be heard by his own crew as well: "Ah, fish!" Then he returned to his boat and sailed into the night.

第5章は、スウェーデンに渡ったユダヤ人たちの運命について詳しくレポートした部分。これも当時子どもだったユダヤ人たちが語る感動的なエピソードであふれています。
何より、それまでドイツ寄りの政策をとっていた政府が、ドイツ軍のスターリングラードでの敗北のあと急速に外交方針を転換させ、デンマークのユダヤ人の受け入れを海外の報道機関に正式に明言するに至ったことが大きい。その背景にはドイツ軍が占領地で行っていたユダヤ人迫害への強い民衆の抗議の声がありました。
ひとたび受け入れを認めたスウェーデン政府とスウェーデンの人々の態度にはいささかの迷いもない。心から避難民を受け入れ歓待するのです。
スウェーデン海軍は、ドイツ軍艦を領海に入れないようにという政府の命令を受け、さらに漁師達には避難民を誘導するために燃料を支給し、さらに自治体に対して上陸場所を確保すること、自由な航行を保障することなどを相次いで指示する・・・というように。
さらに、大人の避難民には、住む場所と仕事の場が提供され、多くの子どもたちのためには、教育がゆきとどくように手厚い保護の手がさしのべられます。

詳しく紹介する余裕はないので、ある人の感想でそれを締めくくることにします。

我々が接触したあらゆる人々が、きわめて親切で喜んで手を貸してくれました・・・。スウェーデン人は非常に人道主義的な態度でした。彼らの社会的背景とは関係なくそうでした。

前に、紹介したときも触れたことですが、デンマーク、スウェーデン両国の人々がユダヤ人に示した品位ある行動は決して特殊な何人かの人々の行動ではなく、全国どこでも見られた光景だったこと。そして、「ただ、なすべき事をした」というだけの行動だったこと。そして、このことが、戦争が終わりユダヤ人たちがデンマークの自分の家に帰っていったときに、今度はデンマークで信じられないような光景が繰り広げられることにつながっていきます。

ようやく180ページ中、100ページまできました。私としては驚異的。続きは、またいずれ紹介することにいたします。



  10月25日(金)
朝から断続的に雨が降り続いています。沖縄ではまだ風が相当に強いようですが雨はあがったとのこと。幸い台風が南寄りを通るために、伊豆大島、小笠原諸島を除いては風の被害はそれほどはなさそう。明日午後になれば急速に天候が回復していくだろうと予測されていますが、前のような土砂災害だけはごめんですね。

今日は富山の友人から旬の魚が送られてきました。お礼の電話をしたら、「魚屋を除いていたら、長野に行きたいと言っている魚がいた」ので送ったということ。ありがたいことです。
その1つは大きなハマチ。さっそく昼に刺身にして半身をぺろり。後は味噌漬けにしておきました。頭や骨は味噌汁の出汁に。
さらに大きなアオリイカとアジも。アオリイカは夜刺身にして半分食べ、あとはあしたにとっておきましたよ。刺身の切れ端はハルちゃんのごちそうに。アオリイカはモッチリとしてすこぶる美味。
富山はこれから魚が美味しい季節です。11月に入ったら、一度富山に「軽トラ」を駆って買い出しに行こうと計画しています。買ってきてほしい方はご一報くださいね。

足の手術から1ヶ月が経ちましたが、症状は全く思わしくなく、下腿下部の痛みと、神経が刺激されて起こるのだろう腰の痛みが強く、10分もまっすぐ経っていられない状態です。医者に言わせると、どんどん運動してよいということですが、運動するどころではなく、いましばらく我慢の毎日。先日の診察のときには痛み止めをもらって服用しています。
よって、できるだけ外出をさけ、本を読むか寝るかの日々。まあ、永久にこの状態と言うことはありえないので、あとしばらくの辛抱と思って、基を紛らわせるようにしています。



  10月22日(火)
10月26日から岩波ホールで映画「ハンナ・アーレント」が上映されます。この映画は、アイヒマン裁判に対する彼女の主張とそれへの大きな反響(非難、攻撃など)に焦点をあてたものです。
ハンナ・アーレントはナチスの犯罪の重要な役割を果たしたアイヒマンのイスラエル法廷での裁判を傍聴し、「イェルサレムのアイヒマン=悪の陳腐さについての報告」を書き上げます。これが彼女に対する強烈な非難、攻撃の嵐を巻き起こし、やがて「地獄に落ちろ ナチのクソ女」などと悪罵を投げつけられることに。

折しも今日のしんぶん赤旗文化面に、同志社大学名誉教授の望田幸夫さんが、この映画に寄せる一文を書いてくれていました。まだ映画をみていない私にも、実に興味深い指摘をしていたので、いくつか紹介してみたいと思うのです。

アイヒマン裁判をもとに彼女が主張したことは何だったのか。望田さんは煎じ詰めれば次の2つだといいます。
第1は、アイヒマンに対する評価。

彼女は、アイヒマンを悪魔的なユダヤ人殺戮者としてよりも、ただただ「上からの命令」や法律に従った平凡な人間、どこにでもいる普通人と評し、まさにその中に「悪の陳腐さ」を見たのである。

映画予告編では、このことを彼女自身の口で「本当の悪は平凡な人間が行う悪です。私はこれを「悪の凡庸さ」と名付けました」と語らせています。
当時の世界的な世論の動向やユダヤ人社会では、アイヒマンは極悪非道の殺人鬼の典型という評価が主流だったわけですから至極当然といえる反響だったことでしょう。
しかし、彼女の態度はそれとは極めて異なっていた。この点に関する限り、昨日コメントした小田実さんの「玉砕」を書いた立ち位置にも極めて似通ったところがあります。
悪を実行するのははじめから狂気に満ちた人間がやるのではない。「ふつうの人間」「どこにでもいる人間」だという見方です。むしろそうだからこそ戦争という渦のなかで人間としての本性を失い機械の一部として思考を停止させ、いかようにも狂気に巻き込まれていく。狂気の実行者となりうるのだということ。悪の典型の罪悪は見破りやすい。犯罪として直ちに終わらせることができる。しかし、「ふつう」である以上は、だれもがそうなりうる可能性をもっているわけだから、どこまでいっても「ふつう」の延長としかみなされない。それこそが狂気の正体なのだ。
だとすれば、戦前の軍国主義の時代においても、批判的精神を失わず、命さえ顧みずに戦争反対を貫いた少数の人々がいたこと。それこそ非人間とみなされ嫌悪され、憎悪された人々だったのではありませんか。あらためてそれらの人々に光を当てる必要があるのではないのか。それらの人々もまた特殊の人ではなく「ふつうの人たち」であったはずです。

第2は、ドイツ系ユダヤ人である彼女がこの本のなかで、戦時中ナチスに協力的であったユダヤ人団体指導者たちがいたことを明確に指摘したこと。
このために、「同胞への愛はないのか」「被害者600万同胞への冒涜」などという罵倒を受けることになるのです。

こうした非難と悪罵のなかに立ったアーレントが、大学の教室に押しかけた聴衆にむかって、自分がなぜ、あえてこのような論陣を張ったのか、切々と、かつ情熱を込めて説き聞かせる。映像のなかの聴衆と映画の観客が、あたかも一体となったごとく感動のなかにつつまれる。見事なシーンである。思想と思想家を映像化するとは、このようなことであったのかと改めて教えられた。

自民党棚田朋美議員が、南京での「百人切り」をめぐって書いた本の中で、「百人切りをしたとされる当事者の方に直接お会いすると、いずれも礼儀正しく思慮深い紳士だった。このような方が、百人切りなどを行うわけがない」という趣旨のことを書いていました。南京で虐殺事件を起こした兵士たちは誰もがはじめから鬼畜であったはずがありません。日本に戻ればよい父、兄、弟、隣人であったはずです。そのことに棚田議員は思い及ぶこともなければ、考えることだにしないことでしょう。
「物事と人間の本質を考え抜く孤高の思想家の姿」(望田さん)を通して、あの戦争とそのもとでの人間のありかたを問い直して見ることが必要ではないのでしょうか。

さて、今後の全国での上映予定はどうなっているのでしょう。東京まで見に行くことにするかどうか・・・悩ましい。まあ、ひとりだから、どこに出かけてもいいっか。



  10月21日(月)
いまから70年前の今日1943年(昭和18年)10月21日、出陣学徒壮行会が東京の明治神宮外苑競技場で盛大に行われました。「東條英機首相、岡部長景文相らの出席のもと関東地方の入隊学生を中心に7万人が集まった」(Wikipedia)とされています。
この年の5月には、アリューシャン列島アッツ島の「玉砕」があり、その後、マキン、タワラ、クエジェリンなどで次々と「玉砕」、そして「特攻」攻撃が開始されます。
私の父は、そのときすでに海軍通信兵として空母に乗り組んで東南アジア方面に何度も行き来していました。若さからいえば、学生達とそれほどの違いはなかったのでしょう。しかし、戦後父からは戦争にかかわる出来事は何一つ語ることがありませんでした。かたくなと言っていいほどです。だから、私の幼少期には、あの戦争についての問題意識はゼロ。全くの白紙だったのでした。
語れなかった事情がおそらくあったのだろうと思うのですが、今となってはむしろ先入観のない白紙の状態にしておいてくれたことに感謝さえしているのです。

小田実さんは「私の『玉砕』へのかかわり、思い」の中で、特攻隊員の遺書を分類し、次の5つにわけています。
1.「天皇陛下万歳」「七生報国」など「国民倫理」表出の遺書。
あるにはあったが、意外と少なかった、と小田さんは書いています。
2.「わざわざ長い旅をして会いにきてくださったお母さんを見、涙が出そうで」という肉親に対する別れのことばや思いの吐露。
3.「人生の総決算・何も言うことなし」という人生観、死生観の表明。
4.「小鳥の声が楽しそう/俺も今度は取りになるよ」に代表される即物的感情・心境の表出。
5.少ないながら、「完全なる飛行機にて出撃致し度い」という批判、「私ハ明確ニ言ヘバ、自由主義ニ憧レテイマシタ・・・」(上原良司)という反体制的遺書まで。
「しかし、こう分類したところでむなしい。遺書は結局同じ1つのこと、『おれは今、なぜ、何のために死ななければならないのか』と言っているのではないか・・・」小田さんはこのように感じ取っています。
父が生きていれば、海の上でいつ沈められるかわからない恐怖と闘いながら、一体何を考えていたのか語るときもあったのだろうかと、つい思ってしまいます。しかし、父の死後同じ戦艦に乗っていた方から、父がお金にするために「ネズミを飼っていた」とか、爆撃されて沈んで行く船で「天皇陛下万歳」なんて叫ぶのは一人もいない。みんな『おかあさん』だったぞ」と聞かされて、ただ任務を果たすことのみに没頭しそのほかの事は考えることを停止していたのではないかと推測するのです。

現在でも、学徒出陣兵士や特攻兵士について、祖国日本を守るために命を投げ出して戦おうとした若者と描き、その死を美化し英霊とみなす根深い「国民感情」がありますが、小田さんは、特攻攻撃の変遷をたどりながら、すでにその作戦が開始されたそのときから「大東亜共栄圏」の理想は全くの夢物語と化し、「祖国防衛戦争」の様相を呈してきていた、と書いています。そして、次のように続けているのです。

しかし、その危機に瀕し、今や若者たちが自分の生命を賭して護るべき対象としてある祖国日本とは何か。若者たちは、今、初めてその根本的疑問に具体的に正面きって答えなければならないところに来ていた。・・・
大きく言って、「天皇陛下のために戦って死ぬ」は「祖国日本のために戦って死ぬ」に変わり、さらに「両親、息子、兄弟、姉妹、友人、知人・・・のために戦って死ぬ」に変わっていった。・・・これは「自分自身のために戦って死ぬ」ことではないか。


小田さんは、海外で「特攻攻撃」「玉砕」を「気の狂った日本人」「酒の勢いで突っ込んでくる」と見る傾向があることを指摘して、実際はそうではなく「ふつうの人間、兵士の問題」なのであり、「誰にとっても、いつ何時でも起こる問題」だと書いています。

その「誰」は「玉砕」にあっても「特攻」にあっても、狂ってはいなかった。狂っていたのは戦争そのものだった。そして、人間が殺し、殺されることを当然とする戦争は元来が狂っているものだが、戦争の狂気は戦争が続き、拡大強化されていくにつれて余計にすすみ、ついには極限にまで達する。「玉砕」「特攻」は、その極限の人間の狂気の例だったに違いない。

そうした問題意識のもとに小田さんが書いた小説が「玉砕」(1988年)。ドナルド・キーンさんに教えられて、この本を、この年にして初めて手に取ることができました。

普通の人間を組織としての狂気に導くのが戦争だとすれば、その戦争を導くのも普通の人間。しかし、同時に権力の頂点にいるものたち、戦争で利益を上げたいものたちなど「普通でない人間」です。そのメカニズムはすでにあの戦争を通して分かっている。アメリカの戦争を通してわかっているのです。
このこともまた、現在進行中の「戦争への道」と照らして、より深く自らのものとしなければならないと思わされます。



  10月19(土)
伊豆大島での大規模な土砂災害の惨状をテレビ・新聞で見るにつけても、ただ見ているだけで何もできなもどかしさを感じてしまいます。一瞬の山の崩壊によって命を奪われる残酷さは津波の被災と何ら変わらない。
「被災地支援」という名前をつけている私たちのネットワークの趣旨からすれば、どんな大規模災害でも対象になり得るわけですが、この種の災害が多発している現状からは、何かするとしてもせいぜい少しばかりの義援金を送る程度にしかなりません。その点でも何とももどかしい。

メディア上では「自治体がなぜ避難勧告を出さなかったのか」を執拗に問い詰めていました。「町町長は「認識の甘さ」を自己批判しておりましたが、おそらくその決断をするかしないかの判断は紙一重なのです。どんな災害でもそうですが、緊張感のある対応が何より求められるわけで、他の自治体にとっては苦い苦い教訓になってしまいました。
この種の災害が起こると、必ず「自治体の対応」が問題になります。それはある意味当たり前のことですが、一方で一握りの中央官庁の高級官僚と自治体の公務員を一緒くたにして「給料が高い、人数が多い」という批判が後を絶ちません。
多くの場合、全く根拠のない公務員攻撃ですが、大きな災害に見舞われた場合問われるのはやはり日頃からの「自治体のありかた」なのだと私には思えます。つまり、災害を未然に防ぐ防災意識の徹底、役場以内での危機管理体制の構築と普段の訓練、防災対策予算の適切な配分、食糧・毛布・飲料水などの備蓄、ハザードマップをはじめとした具体的な状況の把握などがどれほどきちんとしているのかによって、災害への対処は大きく変わってくるということです。

今日は、妻から沖縄のシークヮーサー、島バナナ、ミカン、シャカトゥなどが届きました。大量にあるので、お隣さんにお裾分け。明日からはジュースにでもして飲むことにしますかね。


足の痛みが全く改善しないので、動きが相当に制限されています。沖縄の母は妻に「ちゃんとご飯食べるように言いなさい」と言っているらしいけれど、食事はちゃんと作って食べていますからご安心あれ。ただ、買い物をできるだけしないで、あるものを利用しようとするとメニューが貧弱になってしまいます。野菜も少なくなっているので、今日は里芋を掘って畑のネギといっしょに味噌汁にでもしようかと。痛む足を引きずりつつ庭先で里芋を掘っていたら、ハルちゃん何を思ったのか珍しく枯れ木の上に駆け上ってあたりを見まわしていました。






  10月17(木)
太平洋上では、台風27号が発生したと報じていました。あの小さい塊が台風に発達したのでしょうか。また日本に向かっているといいますから、全く油断できません。
26号の通過にともなう寒気の流入で、北アルプスは軒並み冠雪。冬山のようになってしまいました。青空が広がって、外は10℃以下の寒さです。そこかしこに露が降りてびしょびしょです。


午前中、定例のバラの会の作業を行いました。今日は、バラ園の南側のほとんど何も植えていない土地(春には菜の花やヒナゲシを植えていた)を重機で天地返しして、石を取り除く作業。いつもなかなか出られないメンバーにも声をかけた結果、10人以上が集まって結構作業を進めることができました。重機を動かしてくれたのは顧問のEさん。彼は午後からも耕してくれて、これで来年にむけてずいぶん作業がすすめられるようになりました。
バラ園の手入れに来てくれる人は多い少ないはあっても、毎週継続的にやっているために、それなりに整備がゆきとどき、いまもたくさんのバラが咲いています。ぜひ時間をみつけて立ち寄ってほしいものです。




さて、女川への買い物ツアーの募集はほぼ予定通り30人(役員を入れて30数名)に達し、支援の新米も200キロ近く集まって、予定通り実行できる目途が立ちました。参加者とご家族のみなさん、お米を寄せていただいた方々に心から感謝申し上げます。
被災地の状況や被災者のみなさんの生活をしっかり見聞きできる旅行となるように、役員もしっかり準備を整えたいと気持ちを引き締めています。
今回の旅行では、ローカル紙の記者の方も同行取材してくれるし、ビデオの専門家や写真愛好家も参加しますから、きっといろいろな角度から被災地の現状を報告できるようになるでしょう。



  10月15(火)
女川買い物バスツアー受付第1日目。朝10時から午後5時まで、昼頃からあいにくの雨模様となって残念でしたが、定員30人中20名まで募集することができました。支援のお米(新米)も130キロを超え、米どころならではの心意気を感じました。
明日も今日と同様に10時から5時まで受け付け。ただ、台風最接近で午前中はおそらく大荒れの天気でしょうから、今日のようにはいかないかもしれません。すでにお米を届けたいという方から電話ももらっており、休むわけにはいきません。一つ一つの活動を積み上げて、何とか今回の支援活動を成功させたいものです。




さて、接近中の大型台風、中心気圧を低く保ったまま関東地方に接近。明日早朝上陸の恐れもあるということですから、最大限の注意が必要ですね。
広域の衛星画像を見ると、この26号が発生するときはフィリピン東にまとまった雲の塊があって、台風に発達する予感がありました。現在は小さい塊は見られるもののまだしばらくは大丈夫そう。それにしても、日本列島を沖縄から北海道まで包み込むほどデカい台風が発生するというのは、はやはり太平洋の海水温上昇のためでしょうか。
これからどのような自然現象が発生するのか予知できないような地球環境になっていることだけは確かです。
下の写真は今日友人が送ってくれた手水鉢の中のカエル。




「あべぴょん」がオリンピック招致プレゼンでしゃべったと同じようなトーンで、所信表明演説をやっていました。プレゼンでは「汚染水は完全にブロックされている」と宣言して国際的ひんしゅくを買いましたが、国内のマスメディアは東京決定を高く持ち上げて寄ってたかってかき消してしまいました。
安倍首相の妄言はそれからも続々。10月9日には、水銀汚染の防止を目指す「水俣条約」採択会議の開会記念式典に寄せたビデオメッセージの中で「水銀による被害とその克服を経たわれわれだからこそ、世界から水銀の被害をなくすため、先頭に立って力を尽くす責任が日本にはある」として「日本は水銀による被害を克服した」と延べてこれまた被害関係社から猛反発を受けました。克服なんぞされていないことは明々白々の事実なのにです。この厚顔無恥は救いようがありません。
TPPについて所信表明演説では「年内妥結に向けて、攻めるべきは攻め、守るべきは守り、アジア・太平洋の新たな経済秩序づくりに貢献する」とおっしゃっていました。
西川TPP対策委員長がこの6日に、コメや牛肉・豚肉など農産物の「重要5品目」について、「(重要品目から)抜けるか抜けないかの検討はしないといけない」と述べたことも当然織り込み済みでしょう。これほど国民を愚弄した発言もありませんね。
鈴木宣弘東大大学院教授によれば、「日本中が限界集落になってしまいます。まさに”限界列島”です」ということ。ウソも百回言えば・・・というのを地で行く安倍ぴょん。顔がやっぱり誰かにますます似てきましたね。



  10月14(月)
今朝早く妻から「無事家に着いた」という連絡がありました。台風接近でフェリーを早く本土に戻さなければならないのでスピードを上げて予定より1時間ほど早く着いたとのこと。若い頃は船で本土に来たことがあったらしいのですが、自分の車を持っての船旅は初めて。無事到着して何よりでした。

私の方は、昨日は被災地支援のための印刷用紙を買いに行ったついでに若干の買い物をして、さっそく好きなものを作って食べておりました。メニュー?まずゴーヤとベーコンを炒めて卵でくるんだ卵焼き。続いてブリのあら(半額)と大根でブリ大根。あとは大根の残りでおでん。
難点は、一旦作るとだいたい3食くらいは同じメニューになることです。しばらくは冷蔵庫にあるものと畑に残っている野菜などを使って生き延びることにします。そういえば、店にスケソウダラが並んでいたなあ。まだ並んでいたら、あしたあたりはタラ汁を作ってみよう。
妻がいっしょの時はほとんど全部やってくれるので上げ膳据え膳ですが、これから2ヶ月は節約しつつ自分ですべて解決しなければなりません。とはいえ、ほとんど苦にならないので、妻も「私がいない方が好きなものを食べられていいでしょ」という感じでしょうか。しかし、このあとどうなることか。

さて、明日から二日間は、池田町ハーブセンター前で女川に買い物に行く「バスツアー」の参加者募集活動があります。どのくらい集まってくれるのか心配ですが、もしわ〜〜と集まって収拾がつかなくなったらどうしようとあらぬ心配もしつつ、明日の準備をしていました。
私の仕事は参加者に配る「しおり」「重要事項」の作成・印刷。昨日買ってきた用紙を使って昼頃から印刷にかかり、1時間くらいですべて終えました。あとは明日を待つばかり。

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昨日の赤旗日刊紙一面にドナルド・キーンさんの発言が紹介されていました。
日本国籍を取得してもはや”お客さん”ではないのだから、「これまで遠慮して言わなかったことも愛する日本のために言うことにした」というのです。
コロンビア大学2年生のときに「源氏物語」の英訳本に出会ったのが日本文学を知ったきっかけ。その後、「戦争は人間のあらゆる行為の中で一番醜いものだと信じて戦争から逃避するように『源氏物語』の世界に入り込んだ」と彼は書いています。
しかし日米開戦のあと、ある体験をすることになります。それは、海軍の翻訳・通訳の仕事でハワイに派遣されたときのこと、押収した日本兵の日記や手紙に接する機会があったのです。それまで狂信的だと思っていた日本人が、家族を思い祖国を懐かしむ。自分と同じじゃないか・・・真剣に考えさせられたというのです。
それをきっかけに、特攻のパイロットはどんな本を読み、何を考えて米韓につっこんだのか。捕虜になることを恥と思うのはどのような洗脳されてなのか?・・・考えあぐねた結果、小田実さんの「玉砕」に巡りあって解決することができた。それを海外に伝えたくて必死で英訳したと彼は綴っています。
アメリカが戦後ベトナム、アフガン、イラクで大勢の戦死者を出しているのに、日本では戦死者は一人もいない。こう書いて、彼は次のように続けます。

それは、多くの犠牲の上にできた「日本国憲法」に軍隊を持たず、外国との交戦権を認めない、平和主義をうたう「第9条」があったからです。大切にしたい財産です。私は91歳になり、戦争を知る友人もだんだん少なくなりました。戦争がいかに恐ろしいものか、愚かな行為かを語らなければいけないと考えています。

キーンさんは、このあと後半で日本の狂言の世界との出会い、歌舞伎・文楽の研究のことを紹介し、橋下大阪市長の文楽「退屈」発言について厳しく抗議したことを紹介しています。”遠慮しないで言う第1弾”だそうです。
そして最後に、新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」が開設されたことを紹介しつつ、「福島原発の悲劇から学んで、原発再稼働は絶対にやるべきではないと主張したい」と結んでいます。

キーンさんの人柄などはテレビで見て多少は知ってはいても、造形の深い日本文学についての本や、自伝などについてはついぞ関心を持って見てこなかった私としては、これらの発言にただ恥じ入るばかり。日本の良さを深いところで見つめ、率直に問題のありかを指摘してくれるこのような方の存在は、とても大きなものがあります。爪の垢を煎じて飲ませてもらわないといけませんね。

ところで我が友MNEMOさんが面白い情報を開示してくれました。名前から見た私のご先祖はネット上で調べたところ「富山藩の家老」ではないかというのです。
自分自身はてっきり、砺波の村はずれでちんまりと農業をやっていた汗まみれ土まみれの方々の末裔だと本気で思っておりましたから。これには驚きましたよ。先祖が「家老」の家柄だったなんてついぞ聞いたこともありませんでしたねえ。ご先祖をたどってホントにそうなら、加賀藩百万石の支藩として相当に苦労をしながら10万石藩主を補佐していたのではないかと推察します。
もっとも、さらにさかのぼればきっと朝鮮半島にさかのぼりますから、名前なんてどうでもいいんですよね。弥生人の末裔である私と縄文人の末裔である妻とが出会ったというところがみそ。過去・現在の抑圧・非抑圧の歴史(今日の沖縄差別問題を含めて)を完全に精算・克服しまっとうな社会をつくることが私のささやかな使命であると改めて感じている次第です。



  10月13(日)
妻は今頃フェリーの上で、鹿児島の南東あたりにいるのではないでしょうか。ともかく昨夜無事出港して現在沖縄に向かっています。
私は、昨夜無事池田町に帰り着き、疲れてすぐに寝てしまいました。帰ってみると、ネコのハルちゃんが居間で静かに座って待っていました。床に広げてあった新聞の上には、ネズミの頭が。しつけに忠実に新聞紙の上で捕まえてきたネズミを食していたのでしょう。それに満足したのか、「フン、帰ったのか。遅かったじゃないか」という目で私を見ていました。

昨日家を出たのが午前8時半。明科駅の前のお店に軽トラを預けて、そのあと安曇野インターから長野道へ。
中央道から東名、名神高速道に入り、豊中IC手前まで。そこまでは順調だったのです。そこでナビも参考にしてとやったのがいけなかったのか、事前準備が足りなかったのか。
ともかくあっちへ行ったりこっちに来たりと、大変危なっかしい運転をしながら、それでも「奇跡的」に午後4時ほぼ予定通りフェリー乗り場に到着しました。
私は、到着するまもなくフェリー乗り場の前で待っていたタクシーに乗って地下鉄乗り場までいそぎ、新大阪に。連休ということもあってか、大阪での宿を見つけることができず、その日のうちに帰る切符を手配してしまっていたからです。
あと30分も遅れていれば、どこかで野宿しなければならないような際どいタイミングでようやく列車に間に合って、何とか池田まで帰り着いたという次第でした。
その後の妻からの連絡では、フェリーへの乗船が大幅に遅れて、45分くらい遅れで出港したとのことでした。
車と列車だけの旅でしたから、それほど足には負担にならず、今朝は疲れは全く残っていません。あとは、フェリーが無事那覇についてくれることを願うだけ。
フェリーが那覇に着くのは、明朝早くらしいから、次の台風が来る前でよかった。

明けて今朝池田は快晴。蓮華岳から白馬三山にかけての北アルプスの山頂にはすでに白いものが。外に出るとものすごく寒い。昨日までのあの暑さは何だったのかと思うほどの寒気です。家の中は20度ほどですが、外は多分10度くらいになっているのでしょう。短い秋がようやく始まったという感じです。



  10月8日(火)
今日から妻は沖縄行きの予定だったのに、台風の影響でフェリーが沖縄から到着せず欠航。昨日連絡を受けて妻は相当にへこんでいました。それも当然で、大阪まで送っていく予定にしていた私の帰りの切符を変更したり、沖縄に連絡したり、いろいろ手続きをしなければならなくなったからです。
結局12日に仕切り直し。私も12日に日帰りで大阪まで行ってくることになりました。
私にとっては、延期になったのはある意味よかったのです。体調は一進一退。左足のふくらはぎのあたりに痺れ、感覚の麻痺が残って、内出血もあるので、ほとんど家から出られない生活を送っています。外出したのは、一昨日カメラを買いに出かけたのと、昨日焼き肉を食べに出たことくらい。
1ヶ月は、血流促進のためのきついストッキングをはいていなければならないので、これがまた何とも辛い。まあ、我慢我慢の日々です。

今日は1日、数学の問題とにらめっこ。先日も少し触れたように数学VCは理系(理・工・医)進学者の必修科目ですが、現座の塾の生徒ではまず選択者がいない。勢い入試問題に触れることがほとんどなくなって久しいのです。
というわけで、久しぶりにのめり込んでいると、まず他のことは考えられなくなります。何だか別世界にいるみたいですね。受験生か、それを教える教師くらいしか共通の話題にはなり得ないので、大変特殊な世界です。しかも、「受験数学」というのは、大学で学ぶ代数や解析、統計学などとは相当にかけ離れた内容と雰囲気を持っているので、ますます近寄りがたい。というわけで、この話題はこのくらいに。

昨日今日と、信濃毎日新聞は、交渉団がTPP交渉で「重要5項目」についての関税撤廃の可能性について検討を始めたことを大きく伝えていました。さもありなん。べつに驚くほどのことでもありません。いつもの自民党のやり方ですから。
かつて私は、米その他の農産物についてはせいぜい10年ぐらいの時間差で関税撤廃するのではないかと書いたことがありましたが、似たような展開になってきています。政府はハナから「死守」できるなどとは考えていない。どのようにでも解釈できるやりかたを見いだそうとするでしょうから、「重要5項目が守れないなら撤退せよ」という農業団体の要求自体、自民党にとっては現在のところ痛くもかゆくもないものです。本当にTPPを阻止したいのなら、本気で安倍内閣の倒閣をよびかけなければならないでしょう。安倍内閣は本気でこの国「かたち」を変えようとしてきているのですから。だが消費税1つとっても、とてもそんな状況ではない。
しかし、TPPをめぐる事の深刻さは消費税どころの問題ではない、「いのち」にかかわる重大な問題をかならず引き起こすからです。
ひとことで言えば食糧主権の破壊ということになるでしょうが、要するに「生きていく糧」をすべて海外(とくにアメリカ)にお任せしますということです。保険や医療などを含めて、最終的にはアメリカ発多国籍企業の利益にすべて従属する経済構造を国民すべてに覆い被せるということです。
サトウキビを中心とした農業に依存している沖縄では、ひとたまりもない。沖縄ではサトウキビを他の作物に転作できるかといえば、そんなに簡単ではありません。まず灌漑用水の設備が全くありませんから、水を大量に使う農業は困難を極めることになるでしょう。
本土でも、仮に20年、30年という猶予期間をおくとしても、その間に後継者はいなくなり、TPPの前に水田農業は荒廃し、土地は企業の餌食にされることになる。TPPがそれに追い打ちをかけるという仕組みです。それらに対する国民の批判を封殺しようとするのが、「秘密保護法」。
自国の人々の「いのち」にかかわる農業、医療、社会保障の根幹を掘り崩していく国にどんな未来があるというのでしょう。肌寒い限りです。

話が極めて雑になっています。データ抜きで断定するのは何とも気分が悪いのですが、このところの体調不良に免じて許して下さいませ。



  10月5日(土)
退院から一週間ほど経ちましたが、太い血管を除去しているために、座ったり寝たりした状態から立ち上がるときにまだ強い疼痛があります。しかも、しばらく立ったままでいると下腿が腫れて靴下などで圧迫している部分がへこんで元に戻るのに時間がかかるという調子。
さらに、足の付け根にあった皮下出血が何故か日ごとに下に降りて、いまは大腿部の真ん中ぐらいにきています。妻に言わせると、ずっと下までおりてくるのだそう。どうしてそんなことになるのかと聞いても、返事をしてくれません。
おまけに脇腹の10センチ程度の傷は見事に太いミミズ腫れになっていて、昔の侍の刀傷もかくありなんというくらい。慢心(!)創痍と我が身を諌めて、1日おとなしく勉学生になっておりました。

飼い猫のハルちゃんは、このところまた野生に目覚めたのか、毎日ネズミを獲ってきてムシャムシャ。そんなに美味いのかねえ。ただし、頭とある臓器だけは食べないで必ず残しています。毎日与えているエサも好みが変わるらしく、全く缶詰を食べないときがあったり、ぺろりと食べるときがあったりで、なかなかむずかしい。
人間でいえば、もう40〜50歳に相当するのでしょうが、相変わらず子どものような鳴き声。去勢したから「オネエ」になってしまったのか??


さて、妻が沖縄に出かける日が近づいてきました。8日の夕方大阪のフェリー乗り場から車とともに1日半かけて那覇まで。
台風23号は、現在本島と宮古島の間を通過中で、8日には中国大陸へと遠ざかるのですが、新たな台風24号が発生して沖縄に接近中なので気が気ではありません。8日には通過してしまう予報ですから、船旅には影響が少ないだろうと思われるのですが、波は結構荒いかもしれません。欠航にでもなったら計画がすべて狂ってしまいますから、何とか無事出港してほしいものです。
8日朝には、私も車に同乗して長野から大阪まで行き、無事フェリーに乗り込むのを見届けてから、大阪で一泊してまた長野に戻ってくる予定にしています。
妻の今回の沖縄行きは約2ヶ月。母がかなりの高齢にもかかわらず一人で暮らしているので、今後のことをいろいろ相談したり、家の造作を検討したりするため、里帰りの期間を長くしたのです。
若い頃本土に来てから1年に一度帰れるかどうかだったので、おそらく今回がはじめての長いいっしょの生活。しっかり親孝行してきなさいね。



  10月4日(金)
1日、神奈川県横浜市の踏切でうずくまった老人を助けようとして自らの命を落とした田奈津恵さん(40)の行為に衝撃を受けなかった人はいなかったでしょう。「助けなきゃ」という一途な思いで放ったひと言が今も私の胸に突き刺さっています。
これまでも彼女は困った人がいれば見て見ぬふりは出来ず、必ず手をさしのべてきたことや、「あの子の信念でやったことだから仕方ないと思います」と母親の春子さんが深い悲しみの中で語ったことがニュースなどで伝えられていました。
「信念」というのはどんな意味なのか。困った人がいたら助けることは「あたりまえ」なのであり、彼女の生き方そのものだということでしょう。MNEMOさんが、深い衝撃と感銘の中で、これ以上無いほどの追悼のコメントを書いていらっしゃいますので、ぜひごらんになってほしいと思います。

ネット上での読むに堪えないコメントについてはMNEMOさん同様、汚物の垂れ流しとしか思えない。ただ、マスコミ上でくりかえし聞かれる「あなたならどうしたか」「あなたは動けるか!?」式の問いかけに対しては、私は「わからない」としか返答できません。
どのように思おうが、彼女は自分の行為としてそのように振る舞い、結果として命を落とした。目の前にある事実はそのことです。そのような人がいたという厳然とした事実。その行為の持つ重みは「あなたならどうするか」という次元をはるかに超えてしまっているのではないでしょうか。
だれもがそうできることでないことは自明のこと。ほとんどの人には決してまねのできないこと、それでも敢えてそうした人がいたこと。たとえそうできなくてもいい。そうできた人がいたことを心にとどめること。彼女が自らの死をもって私に教えてくれたのは、そのことです。

これは、想像するばかりですが、3.11の津波の中で、家族や目の前でおぼれかかっている人を助けるために、結局自分の命を落とした人が数えられないほどいたのではないでしょうか。津波が迫っていることを知りながら、家族を救い出したいと家に引き返して、そのまま津波にのまれた話は1つや2つではないのです。集落の人々に避難を最後までよびかけ、そのまま帰らぬ人になった方もいましたね。
そうできるかどうか、するかしないかは、やはり普段の何気ない生活のなかで心と体に刻まれた人としてのあり方の結果なのだと私には思えてなりません。



  10月3日(木)
中学生、高校生たちはちょうどテストのシーズン。終わったところもあれば、いままさに最中のところも。昨夜は高1から高3までの生徒7名が一部屋に集まってテスト対策とテストの反省をしていました。こんな日、私は概して暇になるのですが、昨夜はさすがにいろんな質問に対応しなければならず忙しかった。
デカい身体をしているのに豆みたいな図をかく子や、どれほど言っても解答(文章)にならない子、少しずつ芽が出てきている子・・・こうした一人一人にあった個別対応をしなければならないのはいささか大変ですが、こうした面倒見こそこの塾のウリですから、そこは譲れないところ。

さて、昨日の午後からは第10回策定委員会が開かれました。ずっと座っているのはきつかったのですが、やむを得ません。3時間半、次第に重たくなる足をだましだまし座っておりました。

今朝の信濃毎日は昨日の結果について次のように報じていました。


黄色での傍線は私によるもの。記事には誤り、または一面化があります。
事実は、@町民説明会にむけて「交流センター建設はアップルランド跡地が望ましい」という意見が多数意見であることを確認した。一本化は行ってはいない。A交流センターの規模を交流センター、図書館合わせて2000u程度としたいという町からの提案はあったが、これはあくまで大枠であり、ホールをどうするかも含め次期ワークショップの議論に委ねる。B昨日の議論では、道路についても町の素案に同意する意見が多数であった。

実はこのような報道記事があらわれるにはそれなりの根拠があります。それは、毎回の議事をまとめ、何を決めたのかを確認し、正確に記録していく手続きがないことによるものです。事実、何がきまったのかを判断するのに迷って、意見を求めてくる報道機関もあるくらいですから。
たとえば、前々回の投票は、町民説明会への方針を決めるために、策定委員の意向を知るためのものだというものが、今回ではいつのまにか、アップルランド跡地に建設することを多数決で決めたというように解釈を変えていくというように。もちろんそうしたいという力学が働かなければそうはなりませんけれど。

私自身は、修正案を含めた複数案を町民に示し、アンケート、パブリックコメントなどを行って十分意見聴取したうえで策定委員会としてまとめていくという手続きを踏むのであれば、アップルランド跡地に交流センターを建てようが、規模がどれほどふくらもうがそれは町民の選択肢だと理解します。
しかし、「時間がない」「策定委委員会に原案策定の権限が委ねられている」ということを理由に町民への情報公開、資料提供、意見聴取、意見交換などの手続きを省いて、多数決で物事を押し切っていくのであれば、私は最後まで今次計画には反対し続け、町民に審議のあり方の不合理性を訴え続けて行かざる得ないでしょう。
事実、先日も紹介したように、町の素案を示さずに修正案だけを羅列するという支離滅裂なやり方をやっているのです。そしてまた、ご丁寧にそれを擁護する発言もある。
アップルランド跡地に交流センターを設置するという論拠が、商業施設といっしょであれば人の流れを作り出すことができる「だろう」、公園は費用対効果で「問題がある」という程度にすぎません。修正案の論拠をきちんと検証したうえでやはりアップルランド跡地がよいというわけではないのです。

これが池田町のやり方だというのならば、もはや私には言うべき言葉がありません。

これまで6回の議論を経て、町民への説明責任という手続きの問題と並んで、気になるのは「お金」に対する感覚の問題です。これは自治体運営にあたる職員の側からも、町民の側からも同様の問題点が感じられるのです。
今回の計画で、町が提出している事業総額は約16億円。交流センターだけでも本体で数億円という途方もない金額をいま俎上に載せて議論しているのです。ところが委員会で議論を始めると、建物しかり道路しかり、まるで自分の采配でどうにでもなるかのような感覚に陥るのでしょうか、駒を動かすような話になってしまいます。これは極めて危険ですし、町民感覚から全くずれてしまっています。
私は作成委員会のなかで、繰り返し財政計画が重要であり、町の財源を考慮して身の丈の計画にすべきであることを訴えてきましたが、残念ながらそれは全くというほど議論にはならなかった。
この時点で私は予言しますが、事業費はおそらく消費税の値上げ分も含めて事業費は今の1.5倍ぐらいにふくれあがるんじゃないでしょうか。なぜなら理念と総枠で抑え身の丈の計画にしようという合意もできず、むしろ逆の話の方が中心になるのですから。
そんなバカなと思われる委員の方もいるかもしれません。では、こんなデータはどうでしょうか。まず図書館ですが、町の素案ではuあたり23.3万円になっており低すぎるということは前にも書きました。仮にこれを交流センターと同様uあたり30万円とすれば、これだけで4000万円の増額になります。また、交流センター・図書館の全体面積を2000uにすれば、現在の計画より70u増えますからこれでも2100万円の増額。建築費だけで6000万円の増加になるのです。この程度なら端金なんでしょうか。おそらくこのようなことに気がついたり問題意識を持ったりしているのは、町の幹部でもごくごく一部に過ぎないでしょうね。策定委員会では全く問題にもならないのでは?
これらの点でも、私は言うべき言葉をみつけることに大変苦慮しています。



  10月1日(火)
巷では、ネコも杓子も「やられたらやり返す。倍返しだ」の決めぜりふの半沢直樹現象で、少々食傷気味。とはいえ、何を隠そう、私と妻はシーズン1から欠かさず視聴しておりまして、大ファンだっただけに、ここで書くのはいささか気が引けていたのでした。
なにが良かったかといえば、そりゃもうすごい役者のオンパレードで、それぞれが持ち味を活かして全力投球していましたからね。
よく現代版「黄門様」という評価がありますが、これはちっと違うと思います。絶対的な権力を借りて、最後に「これが目に入らぬか」とはならない。主役はあくまで一介のサラリーマン。同期の仲間、苦労している中小企業の経営者たちと力を合わせて活路を見いだして、苦境を脱し「権力」を追い詰めていく。まあ、倍返しの結果はわかっているので、ハラハラドキドキはしながらも安心して見ていられるという意味では黄門様と似ていないでもありませんが・・・。
それでも、これでもかというパワハラ、中小企業いじめの実態としっかり結んで一話一話を描いているので、自分に引き寄せて「代理戦争」を期待しながら見ていられるのですね。
私としては歌舞伎役者のラブリンこと片岡愛之助の「オネエ」キャラがお気に入りで、毎回楽しみに見ておりました。本人は「声を大にして言います。僕は“おネエ”ではないんで。勘違いしている人も結構多いので」と釈明しているようですが、そこは歌舞伎役者の演技力のすさまじさ。興に乗って「やりすぎて、監督からもうちょっと抑えて」と言われたというエピソードも紹介されていましたっけ。「オネエ」で売り出している他のタレント(といえるのかどうか)に見せてやりたいほどの打ち込みようを感じて全く脱帽でした。
「倍返し」も「百倍返し」もサラリーマンのやるせない恨み辛みを一身に引き受けて戦い抜く半沢直樹だからこそ意味があるのであって、現実にはほとんど泣き寝入りせざるを得ないのが実情だし、「千倍返し」されて職場を失いかねません。それよりも、「団結」などという言葉すら死語になっているほどのバラバラ状態。言い返したり抵抗したりするなど考えもつかない人々が多数なのではないでしょうか。
仲間とともに上層部の不正・腐敗に挑むこのドラマには、どんな苦境でもあきらめず最後までたたかい抜くという気迫があふれていました。だからこそ多くのサラリーマンの奥底にある「人間らしさ」をよびさまし共感を広げることができたのでしょう。

とはいえ、「ブラック企業」など無理・無法がはびこる、あまりにもひどい今日の労働現場にあって、「やられたらやりかえす」とは、個人的な恨みや反発で何かをすることではなく、理性・共感をもとに多数の力をあわせることです。本来の意味での「倍返し」は労働組合や法律家などの力を結集し、組織として働く人々の権利を守り抜くことでしょう。
今日の「しんぶん赤旗」には、ワーキングプア(年収200万円以下)の労働者が7年連続で1000万人を超えたことが報道されていました。また、一面トップには、福島第一原発のずさんな管理体制のもとで働かされる下請け・孫請け労働者の過酷な実態が生々しくレポートされていました。
人々をバラバラにしておくほど支配層にとって都合のよいことはありません。だから、手を変え品を変えて労働者を分断しようとする。
いま原発、基地、消費税、TPP、ブラック企業などの問題で、日本の各地でさまざまな「連帯」「共同」の輪生まれています。しかしこれとてまだまだ萌芽的な状態。労働者の過酷な現状を変えるまでには至っていません。これらの力を、さらに強く大きくしていかねばと強く思わされます。

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さて、昨夜は「被災地支援池田町民ネットワーク」の役員会をおこないました。11月1、2日に行う「女川町交流・買い物ツアー」の企画・立案が主なテーマ。詰めの作業をして、町民向けのチラシ原案をほぼ作り上げました。


4日には印刷にかけ、7日には新聞折り込みで全戸配布を行い一般募集を行います。
また今月27日の池田町農業際でも女川直送の「サンマ」を販売することにしました。現地の鮮魚店に聞くと、大きいさんまはまだ高くて1本130円くらいだといいます。10月下旬には100円くらいになっていてほしいと願いつつ、300本の予約をしました。
刺身にできる油ののったおいしいサンマが食べられます。期待していてください!!




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