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  11月29日(金)
今日は1日外に出ずじまい。昨夜は撮りだめしたドラマなどを見ていたためにちょっと夜更かしして、今日の午前中はほとんど布団の中。午後から家の片付けをしながら、芋の「始末」をしていました。
サツマイモを収穫したはよかったけれど、一人ではそう食べられるものではありません。外に置いておいても日が経つと腐るものが結構出てくるので、とにかく早く何とかしなければなりません。そこで、干し芋用の芋は蒸して外に干し、ベニアズマなどはとりあえず大学芋とポテトチップスに。
以前より少し長く同じ姿勢で立っていられるようになったので、何とか格好をつけることができました。

ここ最近、何人かの友人からいろんな果物のもらい物があり、我が家で収穫したものを含めて並べてみたら写真のようになってしまいました。


リンゴは、Mさんがオーナーになっている木になったもの。みかんは親戚から届いたと言ってSさんが今日持ってきてくれたもの。木からもいだそのままの状態で葉がついています。
左下の小豆色のへんな物体は「パッションフルーツ」。最近になってようやく色づき始め、熟して実が落ちたものを拾ってきました。酸っぱいけれど何とか食べられます。
落花生はすでに紹介したとおり。また、キウイフルーツは借りている畑で今年なったもの。余りに茂りすぎているので木を切ってしまうと地主が言うのですが、何とか残してもらおうと思っています。
バラはもちろん我がバラ園の花。まだ結構花をつけているので、ときどきは切り花用に持ち帰ることができます。
そんなこんなで豊穣の晩秋〜初冬。一人ではとても食べ切れない。いま我が家に来れば、食べ放題ですよ!!沖縄ののりこさん、早く帰ってきてちょうだい。



  11月28日(木)
一昨日の「被災地支援ネットワーク」の役員会で、「女川買い物ツアー」のまとめを行い、会計と報告集の案を承認するとともに、今後、支援活動を継続するとともに、アンテナを張って予想される大きな災害に機動的に対応することを確認しました。

報告集、感想文集は以下の通りです。

女川買い物ツアーの報告集(PDF 33MB)

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さて、今日は本年度最後のバラの会の作業日。早朝から大峰高原に行って「枯れ葉集め」をしました。
1000bの山はさすがに600bの平地とは異なって、チラチラ雪が降る寒い日、コナラ、カエデ、ケヤキ、サクラなどの木の下や側溝にうずたかく積もった落ち葉を集めて軽トラに積み込み、バラ園の一隅に作った堆肥囲いまで運搬しました。




バラ園では女性の皆さんがすでに朝から作業中。ちょうどそこへ市民タイムスの記者が「サークル紹介」の取材で訪れたために、一時作業を中断して全員集合写真を撮ってもらいました。この記事を読んだ町民のみなさんが我が会に沢山参加してくれるとうれしいですね。

その後は全員で、いよいよ恒例の牛糞まみれの堆肥作り。落ち葉を入れ、米ぬかを入れ、牛糞を詰め込み、それを攪拌して・・・・その繰り返し。コンパネで仕切った堆肥場はほどなく一杯になりました。
みんな昨年、一昨年と経験しているので慣れた手つきでどんどん作業ははかどりました。いい堆肥になってくれることを願って作業終了。




すべての作業を終えて、今日はスペシャルサービスでおにぎりと豚汁で軽食。いつものように賑やかにおしゃべりを楽しみました。
今年は、先週までのお礼の施肥と今日の堆肥作りですべての予定を終了。みんなで来年もきれいに咲いてくれるよう願いました。このあと来年は1月末の総会と、3月の剪定作業で今年度の作業は終わり、4月からまた新年度の作業を始めることになります。みなさん、お疲れ様でした。







  11月26日(火)
昨日、沖縄選出の自民党国会議員が自民党本部の要請に応じて、普天間基地の県内移設を容認する立場に衣替えしたのだそうです。少し前からその動きがあり、琉球新報では逐次報じられていました。
しかし、「公約」というのはそんな軽いものなんでしょうか。そうはいっても、本家本元の自民党本部自体が、選挙の時はTPP断固反対、5品目死守と言っていたのに、いつのまにかその旗を降ろし、交渉で「主導的役割を果たす」とまで言い始めたのだから、親を見習ったのかもしれませんね。
ところで、琉球新報のこの記事はどうでしょう。
同紙はこうした自民県連の一連の動きに対して痛烈な批判の社説を掲げていました。

有権者との約束を守る。こんな初歩的なことすら妨害する政党とはいったい何か。公約など反古(ほご)にしても構わないという姿勢を、これほど露骨に示して恥じない自民党本部には、政党を名乗る資格も民主主義を語る資格もない。
民主党政権は公約をあっさり翻した。同党支持の県内での現状を見れば、その影響は明らかだ。「苦渋の決断」などという美辞麗句は通用しない、と知るべきだ。
自民党県連と県関係国会議員には自覚してほしい。あなた方は歴史法廷に立っている。琉球・沖縄の歴史に照らして恥じない姿勢を、毅然(きぜん)として示してほしい。


新聞でここまで書ける社説をこれまで見たことがない。ジャーナリストの良心と沖縄の誇りにかけて、このように言い切ったのは見事というほかありません。

沖縄近海の尖閣諸島をめぐって中国が防空識別圏を設定したというニュースが昨日からマスメディアを賑わせています。秘密保護法案など吹っ飛ぶほどです。昨日9時のNHKはどんな扱いをするのかと見ていたら、第一に「強風」、第2に「中国」、第3に「ゆるキャラ」。何ですかこれは。国会では衆院通過をねらう自民党の思惑で緊迫しているというのにです。
この中国のやり方は、私の見る限り経済的にも自信をつけ国際的な地位が大きく浮上したもとで現れている大国主義、覇権主義の一種です。
自らの行為が日本の支配層を喜ばせ、利する結果になっているのに、なぜこのような時期にこのような対応をするのか。明らかに相手を挑発してそのリアクションを利用しつつ、国内の矛盾をそらす。極めて危険で稚拙な行為と言わなければならないでしょう。
こうした相手の出方に軍事力を背景に相手を押さえ込もうという安倍政権のやり方こそ、その挑発にまんまと載せられてしまう最低のやり方です。
冷静に、道理を尽くして対処し、尖閣問題を外交の場で交渉し続けることが大切だし、国際世論に訴えることはこの際とくに重要な観点。
安倍政権は、まってましたとばかりに国家安全保障会議(日本版NSC)創設関連法案を明日の本会議で可決成立させ、その勢いで秘密保護法案を成立させようとしているのです。事態は深刻どころではありませんね。要するに、中国の利敵行為にも励まされて国民は「戦争をしたい」面々の誘導に載せられていくというわけです。

こうなれば、ブログ、ツイッター、フェイスブックその他あらゆる方法で、特定秘密保護法案反対の意思を伝えましょう。子ども達や孫の将来のために。この国の未来のために、です。

今日の琉球新報「社説」は、昨日に引き続いて自民議員の「裏切り」を強く糾弾しているのですが、そのなかで大変重要な指摘をしていて、思わずドキッとしました。
それは、沖縄選出議員の変節は当然本人が責任を負うべきものだけれど、自民党本部からの暴圧によって力ずくで屈服させた結果でもあるとして、「暴政は植民地扱いに等しく、許しがたい」「本土のために沖縄は犠牲になれというに等しい」と述べている点です。
このような強権的な対応を、沖縄以外の各道府県に対して果たしてするのだろうか。ここに沖縄を見る「目」がどれほど歪んでいるのかを垣間見ることができます。
過去には、「基地によってなりたっており、基地がなければ経済的になりゆかない」として米軍基地を正当化、あらゆる犠牲を県民に強いてきたのですが、現在ではこの論理は全く通じなくなっています。
そこで「中国・北朝鮮の脅威」を全面に押しだし、米軍基地が沖縄にあることが抑止力なのだという「本土」の論理、「ヤマト」の論理を押しつけようというわけです。これに屈したのが自民党5議員。だから、琉球新報は、次のように書くのです。

 国会議員たちは、沖縄を代弁するのでなく沖縄に犠牲を強要する側についてしまった。民意に背いただけでなく、沖縄戦の犠牲者たちへの歴史的背信でもある。

この5議員と自民党県連が県民の厳しい指弾・審判を受ける日は遠からず来る。
中央による沖縄蔑視はいまに始まったことではないけれど、これほど愚劣なやり方を見せつけられれば、私も覚悟を決めなければならないでしょう。
沖縄は妻とその家族、友人知人の住む土地です。私の息子や娘の血には半分沖縄の血が流れている。弥生人の末裔、ヤマトンチューの一人はあるけれど、いやそれだからこそ、私は政府自民党のやり方を許すわけにはいかないのです。



  11月25日(月)
東京のMNEMOさんが、今年の9月21日から連載長編物語「トーホグマン」を執筆していらっしゃいます。
第1章 その日、第2章 因縁、第3章 トーホグマンの誕生、第4章 壮大すぎる思惑、第5章 修行・・・と続く壮大なストーリーで、現在は第5章を執筆されている途上。

福島第一原発の施設管理者として働く根本一彦、猪狩修二の二人が主人公です。第1章では、一彦が見た夢(平将門を討った藤原秀郷が現れる)を修二に話すところから始まります。平将門が、かつて領地としていた千葉・茨城・福島の一帯が都の者たちの奢侈、贅沢のために蹂躙され、怒り心頭に発している・・・秀クがこのように夢の中で一彦に話すのです。そして「禍がすぐそこに迫っている」と原発の大事故を暗示する・・・。
戦慄すべき事態が起こる直前、再び現れた秀クが「備えよ」と言うとともに「お前は、抗い、諦めず、説を曲げず、そして助けるがためにこの世におるのじゃ」と宣告します。そしてまもなく起こる大地震と原発の制御不能。・・・

そのあと、二人は神仏の加護、導きを受けながら厳しい試練の日々にたちむかっていくのですが、なにしろ長い長い物語。ここではあらすじを紹介することが目的ではありませんから、イントロだけにしておきましょう。
この物語の中には、ちょっと見荒唐無稽ともいえる超現実の世界が幾重にも展開していきます。修二がトーホグマンに変身したり、原発の水素爆発でその能力を失ったり、「抗い、諦めず、説を曲げず、そして助ける」(これが全編を通じるテーマとなっている)ためにそれを回復する修行をするといったストーリー。
しかし、よく読めば、私たち人間の存在というものが、いまここにあるだけではなく、無数の人々によってつくられてきた長い歴史の延長上にあることに気づかされます。しかも、神仏とともにあった古代では、自然への畏敬や宇宙への憧憬、人と人との結びつきの豊かさという点で人間本来の姿をとどめている側面が現代よりはるかに強い。それらを浮き彫りにするためにも、この物語では古代と現代を結ぶキーマン(人間だけではない)を登場させているのです。
第4章まで読んで再び第1章に戻ると、意味がとてもよくわかってきます。「抗い、諦めず、説を曲げず、そして助ける」ためにたたかった過去の人々が、当然のように奢れる者から疎まれ、虐げられ、苦難の道に追いやられるのですが、その様は現代でもさほど変わっているとはいえません。だからこそ、いにしえの人々の知恵、力を現代に(私たち自身の中に)蘇らせ新しい地平に高めることが必要となるのです。

とはいえ、初めての方がこの物語を読もうと思えばMNEMOさんのブログで過去にさかのぼりず〜〜っと探しながら順に読んでいかなければなりません。これは正直しんどい。しかも1回1回が長いし、難解なところも出てくるので、若い皆さん(いや、若くなくても!)はとても辛いのではないかと思います。私自身もそうでしたから。
そこで、私が必殺技を繰り出して、簡単に読めるように致しました。ネット上でPDFファイルを読める環境であれば、直ちに最初から本を読むようにこの物語に接することができるのです。まあ、あまりもったいぶらずに言いますが、自分でちゃんと読みたかったのでそうしたというのが正直なところ。ヒマだったもんですから。
論より証拠、次をクリックし、リンク先をみてください。

トーホグマン

いかがですか。多少時間のあるときに、じっくりお読みになることをおすすめしますよ。
実は、読んでいて私にも読めない漢字がたくさんあったので、了解を得てルビをふることにしました。これなら若い皆さんも大丈夫でしょう。
ただし、古代の神々や地名などは読み方が一通りでないものがあります。間違いがあるかもしれませんし、私なりのアレンジなので、MNEMOさんからおしかりを受けるような編集をしているところもあると思われます。読みたい一心でこうしたということでお許しをいただくことにしましょう。

昨日、MNEMOさん若干の感想を書いてにEmailを差し上げたのです。そしたら、それがまるまる氏の11月24日付ブログで紹介されてしまった!もちろん私に断ってですが。
いやいや、そんなことならもう少しお化粧して書くんだった。恥ずかしいやらかっこわるいやら。ま、出たものはしかたがない。読み返してみると、意味が通じないところや打ち間違いがあって、いよいよ恥ずかしい。

MNEMOさんはご自身の誕生日にあたる8月30日のブログで次のように書いていらっしゃる。

トーホグ人の末裔たちは、あの震災と原発事故を契機に、
なにかしらglobalなことを発信しようではないか。
西欧の文明が辿り着いたところにある一種の「野蛮」を逆に悟らせてあげよう。
なんてね。

Deafening Daphne(MNEMOさんのバンド)が制作しようとしている『Tohogman=トーホグマン』の
歌世界に彼らの想像力と創造力を加味していただければ鬼に金棒だ。


この物語への抱負が語られているのですが、その心意気が憎いですね。
お読みになればわかると思うのですが、「あなたは一体何者?」と言いたくなるような知性と感性、博識、良識、想像力・・・とにかくすさまじい。何しろ渾身の一作であることは間違いありません。

なお、筆者の熱い想いにほだされて、我がトップページにリンクをつくりました。連載終了ころまでいつでも読めるようにしておきます。また、適当なところで既載分をPDF化するつもりです。このページをお読みの皆さん、知人友人にリンク先の拡散をお願いします。

http://www.moo-azumino.com/tohogman.html

ですよ。なお、オリジナルの本文はもちろんこちら。お忘れなく。



  11月24日(日)
NHK、読売、産経などを除いて、全国紙、地方紙は「秘密保護法案」に対して、総じて反対の報道、論評を続けています。言論界がこぞってこの法案に危惧の念を表明し、廃案を主張するのはあまりにも当然です。
今日の信濃毎日では、主筆の中馬さんがこの法案を「数十年に一度」あるかないかの重要法案であり、こんなに軽々しくあつかっていいのかと述べ、「治安維持法」の成立とその後の改変を引き合いにこの法案の大きな危険性について指摘していました。
数日前の同紙では与野党の修正協議について、みんな、維新などの野党が「保守色を強める」などと書いていましたが、保守色どころではないでしょう。共産党、社民党を除けば翼賛政党ばかりなのですから、はっきりとそう書くべきでしょう。
同紙はそれなりに法案の問題点をはっきりさせ、反対の立場は崩してはいませんが、問題なのは、たとえば先日東京日比谷公園で開かれた一万人超の集会については極めてお粗末なあつかい。中日新聞などとくらべると雲泥の差です。これは以前から同紙の持っている弱点。
それに比して、今日の琉球新報は社説で、今年6月に南アフリカ、ツワネで発表された「ツワネ原則」に照らして、この法案は全くの「欠陥法」だと断じて次のように書いています。

秘密法案はこうした国際潮流に逆行する時代錯誤の代物だ。成立を許せば、国際社会に日本の民主主義と人権意識の稚拙さをさらすことになる。国益にもかなわない。
政府は秘密法案を白紙撤回し、国際社会の一員としてツワネ原則を土台に一から出直すべきだ。


すべての報道機関がこれくらいの迫力と覚悟をもって、法案の廃案を迫ってほしいものです。
この秘密保護法案とは何か。日本弁護士連合会は、ホームページで次のように簡潔にまとめています。

秘密保護法の内容は、
・「その漏えいが我が国の安全保障に著しく支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの」を行政機関が「特定秘密」に指定する。
・秘密を扱う人、その周辺の人々を政府が調査・管理する「適性評価制度」を導入する。
・「特定秘密」を漏らした人、それを知ろうとした人を厳しく処罰する。
などが柱になります。

また同会は、10月3日に会長声明を発表、法案をまとめる非民主的な手法から、内容の危険性までを包括的に指摘して法案の撤回を求めていました。
西山太吉さんは雑誌「世界」11月号で、「安倍内閣が恐れているのは、中国漁船衝突事件の映像のたぐいではなく、日米同盟運用の赤裸々な実態が漏洩することなのである」とのべ、すでにイラク戦争時に明らかになった自衛隊の米軍補完部隊としての戦闘参加の実態を例に示しています。
西山さんは、かつてオバマ大統領に広島訪問の遺志があると伝えられたとき、日本の外務省事務次官が「それは核抑止力のイメージを落とすことになるのでやめてほしい」とアメリカに要請した事実をあげ、さらに同事務次官は、鳩山内閣が普天間基地の移設先を国外、最低でも県外へと提案したとき、アメリカがそれを絶対に容認せず、従来通り方針を変えるなと進言したことを紹介して、このような事実が漏れることが政府・外務省にとってショックなのだと書いています。
そして、おもしろいのは「さきの事実も、日本国内から漏れたのではなく、すべて米国サイドのものだった」とも。
自民党は、そんな声はどこ吹く風、とにかくこの国会で成立させようとひた走っているのです。石破さんもあの顔で「今国会でどうしても成立させたい」と力説していらっしゃいました。

もしこの法案が成立したならば、この国はいよいよアメリカと一体化し同盟国などというカッコいい表の顔の裏に、骨がらみ絡み取られた従属国・被支配国としての顔がのぞき、アメリカが仕組む戦争戦略に深く組み込まれ、近い将来海外へ出て戦うことになる姿が透けて見えます。その際、国内のどこかが大震災よりももっと手ひどい被害を受けてもおかしくない。アメリカは自国に被害が及びさえしなければ、痛くもかゆくもないのです。

私には、沖縄戦で方言を話す地元住民をスパイだとして処刑した日本軍のあの姿がどうしても重なってしまいます。悪い法律は悪い方にしか傾かない。権力の思惑を越えて、一人歩きし増幅し、そして、住民同士の監視、密告、異質な人間の排除(抹殺)へとすすんでいく。
・・・・と書いている私も、サイトは閉鎖され、逮捕・投獄される日は遠くないのかも。

知る権利を封殺するその先は、政府・官僚による恣意的な運用での国民敵視政策しかありません。こんな「戦前の治安維持法」にも匹敵する「秘密保護法案」を葬り去る世論をいよいよ大きくしなければなりません。
私としてはとりあえず、電子政府の総合窓口イーガブでつぎのメッセージを内閣府、内閣官房に送っておきました。

秘密保護法案の廃案を求めます。
この法案では、政府による秘密の指定を際限なく広げ、しかも何が秘密なのかさえ国民に知らされません。
その結果、政府に都合のわるい情報は隠され、それを知ろうとしたり、あやまって知ってしまった場合でさえ刑罰が科されるという戦前の治安維持法にも匹敵する悪法です。
これは日本国憲法の表現、出版、言論の自由に反するだけではなく、先に国際的に確認されたツワネ原則に反し情報公開の流れに逆行する稀代の悪法といわなければなりません。
法案に対して世論の過半数は否定的であり、放送・出版などの各界から強い批判が集中し、法廃案を求める声が上がっていることに耳を傾けるべきでしょう。
暗黒政治に道をひらき、かつ国際的に嘲笑の対象となるようなこの法案を直ちにとりさげるか、廃案とすることをあらためて求めるものです。




  11月21日(木)
高校生のみなさんは期末テストのシーズン。部活などで、普段なかなか集中できなかった学習もこの時期だけは別。テスト前に悠々としているのは、特別にできる生徒か、すでにあきらめてしまっているかのどちらか。何を隠そう、昔々の私も直前徹夜組で、焦りまくっておりましたね。

昔々といえば、42年前の今日、私と妻は名古屋千種区の理容会館で、当世はやりの「会費制結婚式」を挙げたのでした。
今日、沖縄の妻に「ところで、ふたりの結婚記念日って、今日だったけ?23日だったっけ?」と聞いたものです。「今日でしょ!23日は富山に行った日」と言われてしまいました。今日だったような、違うような・・・そんな程度だったので、妻も呆れているのでは?
「バラの花でも贈ろうかと思ったけど、恥ずかしいからやめた」と情けない返事で照れ隠しした私でした。42年の途中、大変な苦労をかけてしまった妻ですが、いまこうしてこんな会話をしていられるのは幸せと言えるのかもしれません。
もう帰ってこないのでは・・・と「うわさ」されていた<かもしれない>わが妻も、5日に那覇港をフェリーで発って7日早朝に大阪南港に到着することに決まりました。前日は新大阪まで迎えに行く予定です。
南城市の実家では、家の修繕をしたり片付けたり、昔の知人がずいぶん沖縄に戻っているとかで旧交を温めたりと忙しい毎日を送っている様子でした。母も「いろいろやってくれているので、ずいぶん助かっているんだよ」と話していました。「近くそちらで済むことになるかもしれないから」というと「楽しみにしている」と元気な声が返ってきました。90歳を過ぎているとはとても思えない矍鑠(かくしゃく)とした話しぶり。見習いたいものです。
「結婚記念日」で思い出すのは、結婚式当日は沖縄から兄や親戚が来て、家(アパート)ではみんなで酒盛り二人は付き合いきれずに逃げ出して夜遅くボーリングに出かけたのでした。そのときだけ195の高スコアを出したのでよく覚えているのです。
新婚旅行などははじめから考えておらず、結局その直後に東京に「沖縄返還闘争」での集会とデモに行ったのが旅行といえば旅行だったのでした。
あれから40年。歯がない毛がない先がない・・・古亭主の顔見ただけで不整脈・・・どこかで聞いたセリフが耳に響いてきます・・・トホホ。



  11月18日(月)
足の痛みが腰に来て、30分も立っていると鈍痛が広がってかなり厳しい状態。これがずっと続いているので困りものです。医者からは新しい薬を処方してもらって飲んではいるのですが、一向に改善しないのでちょっとイライラ。あまりよくならないようなら、整形外科の窓口に行かないといけないのかも。
身体のうちで、どこか痛いというのはやはり苦しいものです。とりわけ腰は全身のカナメですからあらゆる動作を左右します。かつて、ぎっくり腰で2週間全く動けず、その後も医者にいくのに、1100メートル20分という超スローで歩いた(這うような感じ)経験があります。どんな痛みでも自己修復の力がありますから、いずれは快復するのでしょうが、その過程では精神的にも大きな影響を与えます。
とはいえ、今回は座っているか寝ていればさほどの影響はないので、せいぜい腹筋を鍛えたりマッサージをして何とかリハビリに励んでいるところです。

さて、ここ3日ほどかけて取りかかっていた女川支援の報告集のあらましができました。まだ感想を出していない人の分や、団長の巻頭言などはこれからですが、校正をしていただくために、原案を承知で以下のリンクからダウンロードできるように致しました。
これは、参加者だけでなくお米を届けてくださった方、義援金をいただいた方、女川行きをサポートしてくださった方、その他関心のある池田町内外の皆さんに読んでいただくために作成するものですので、さまざまな意見を取り入れてより良い者に仕上げていきたいと考えています。

女川買い物ツアー報告集(案)

かなり容量の大きいファイル(約30メガバイト)ですのでご注意ください。



  11月16日(土)
半月前から数日前にかけて、畑に植えていた落花生を収穫しました。これを口に入れるようにするまでが結構大変です。
本来なら株を掘り起こしてしばらくそのままハゼ掛け米のように稲架に掛けて乾燥させるのですが、このところの天候不順で乾燥する保証が全くない。そこでやむなく殻を一つずつ畑ではずして家に持ち帰り水洗い。そのあと天日もしくは家の中で乾燥させるのです。それから殻を割って中身を取り出し、さらに数日乾燥させてから油で揚げる・・・これでようやく口に入る状態になります。
収穫した落花生の煎り方についてネット上ではいろんな情報が紹介されていますが、私の油で揚げる方法は簡単で市販のバターピーナッツに勝るとも劣らない味と食感。以前紹介したことがありましたね。これは若い頃中華料理店で生カシューナッツを揚げて料理に使ったり、そのまま出したりというやり方をパクっただけのことです。

今日は、10日ほど前から殻を割って乾燥させていた実を油で揚げてみました。乾燥状態がいまいちなので、温度は低めで少し長く上げることにして170度で約2分。今のところ上々のできのようです。すぐに油を切って食塩を振り、冷めるのを待ってようやく試食。なかなか美味い!!まだ数日前から殻を割り始めた実が大量にあるので、あとは一週間後くらいしてから第2弾を揚げる予定です。
こんなのを一人でポリポリやっていたらカロリーオーバーで大変なことになってしまいますね。お好きな方はご一報を。お裾分けしますよ。まぎれもない国産ピーナッツですから。


今日は午後から松川村で開かれた「東北支援者の集い」に参加しました。主催者は、県庁内のボランティア組織の「県庁高嶺倶楽部」、松川村の「縄文の丘中山そば振興会」、マッチングサイトを運営する「3.11HELP.com」の3者。私にも声がかかって、個人として参加してきたのです。
主催団体の代表から、それぞれとりくみの紹介があったあと、中山そば振興会のメンバーが午前中に打ってくれたそばを食べながら、参加者が個人や団体の活動を紹介し、交流を深めました。
「県庁高嶺倶楽部」の一員である北安曇地方事務所副所長の割田さんは、県庁内でボランティア組織をつくって過去何回も岩手県陸前高田市や福島県南相馬市を訪れてがれきの片付けや農家の手伝い、わかめの種はさみなどを手伝った経験を話しましたし、おそろいのTシャツを着た「中山そば振興会」のメンバーは、南三陸町でそばを打って振る舞った経験を話し、今後も同様の支援を続けたいと話していました。
また、松川村の北細野地区の石井区長は震災直後から南三陸町に物資を運んで支援してきた経験を話し、いまもわかめなどを購入して商業振興のお手伝いをしていると、区としての取り組みを紹介していました。
私にも、今回の買い物ツアーの経験などを話してくれという依頼があったので、チラシと大糸タイムスの記事をもとに、3.11以来の活動についてあらまし話をしました。
池田町では、中心になっているのは私たちのグループ「被災地支援ネット」ですが、身近に結構沢山の団体や個人がいまも熱心に東北支援を続けているわけで、そのことを知るだけでも今日は収穫があったと思われました。
会合では、その後の交流会で「できるだけお金をかけない支援のあり方を追及していくこと」「これを機会に近隣市町村の団体・個人でネットワークをつくり、情報を交換しながら持続的な支援活動を続けていくこと」などの話がでて、活動の輪をひろげるきっかけにもなった会合でした。





  11月15日(金)
日替わりで天気がくるくる変わって、今日は朝から雨。きのうはあんなに上天気だったのに・・・。
昨日の午前中はバラ園の定例作業日。朝霜が降り、辺り一面濃霧の中、朝9時頃から三々五々集まった会員たち。その心意気は貴重です。
10時過ぎには、松本のある方がバラを持って訪問。「自宅で育てていた鉢植えのバラを事情があって手放さなければならなくなった」というので、定例の作業日の14日に持ってきてもらえるようにお願いしていたのです。
見ると、丁寧に鉢植えされ、手入れされた名前付きの立派な株。しばらくそのままにしておいて、春先に園に移すことにしました。
北アルプスがくっきりと見える最高の1日。結局参加者は,作業をそこそこにしてたき火をし焼き芋をつくって、あとはおしゃべり会。寒い日はこれに限りますね。






日が改まって今日。朝から家の掃除にとりかかり、やり始めたらとたんに足から腰にかけて鈍痛。座ったり、寝たりしている分には全く感じないのに、立つとまだだめなんですねえ。それでもやりはじめた仕事、腰痛ベルトを巻いて、何とかやり終えました。少しずつ片付けて、あと2,3日後にはすっきりさせようと努力中です。
その後、夕方からは先日の女川買い物ツアーの報告集の作成にとりかかりました。アンケートは車中で集めており、感想文も半数以上から寄せられているので、早めに作成してしまわないといけません。
こうした支援活動では、「やりっ放し」は次につながりません。会計報告もきちんとし、何をしたのか、何を得たのかを総括しておかないと、日が経てば忘れますからね。そのときにまとめたものは必ず後日役に立ちます。・・・・と自分に言い聞かせて、後しばらくはパソコンに向かう日が続きます。




  11月12日(火)
前々から予定していた計画に従って、今日は富山へ。目的は娘の嫁ぎ先に新米を届けること、ついでに散髪をしてもらうこと。そして魚を仕入れること、以上3つでした。
予定通り目的を達してさきほど午後9時ちょっと前に池田に戻りました。もちろん、我が愛車の軽トラでの長旅!!思ったより楽でした。

朝はこの冬一番の冷え込みとかで、北アルプスは山裾まで真っ白。里にも少し雪が降ったようで、あじさいの葉が白くなっていました。
道中の雪が気になりはしましたが、昨日冬タイヤに入れ替えておいたので大丈夫だろうと、いつもの白馬、糸魚川のコースででかけることにしました。




白馬まではまことに順調。しかし、白馬市街を越えたところで、突然の渋滞・・・と思ったら全く動かない。あちこちで工事をやっているので、はじめは交互通行くらいに思って待っていたのに動く気配がありません。ジリジリしながらラジオをつけたら偶然道路情報が入って、「白馬でトレラーの横転事故があり上下線とも普通になっている」というのです。これじゃ動かないはず。
富山に行くのをやめるか、それとも別のルートをとるか・・・迷ったあげく、車に聞いてみたら「ここまで来たのだから、長野まわりで行こう」と言うので、それに従うことにしました。我が愛車、高速を走りたかったのですかね。軽トラが高速を走っているのは、あんまり様になりませんけど。
結局、白馬から長野に出て、そこから高速に入り、上越を経由して北陸道に。いやはや、いつもの2倍の時間がかかってしまいました。
軽トラですから、だいたい90〜100キロでの走行。みんな追い抜いていくのは当然として、それでも遅い車がいて計4台を追い越しました。100キロでも安定して走っているので、さすが富士重工。エンジンの掃除をしたような感じでした。

娘の嫁ぎ先の理容店に行く前に、大阪屋に寄って朝取りの魚をしこたま買い込みました。出かける前に、お隣さんから注文を受けていた「ヤリイカ」(これは愛媛産しかなかった)、「アジ」(これは氷見産)、それに私の好物「アオリイカ」「ハマチ」「カマス」「サスの昆布締め」(いずれも地のもの)。クーラー・ボックスにサービスの氷といっしょに詰め込んで、”やっぱり富山の魚はいい”とうれしくなったのでした。
その後は、連れ合いのお父上に、これ以上ないくらい丁寧に髪の手入れをしていただいて、気持ちよさに思わず途中意識不明に。これだけでも富山にでかけたかいがあったというものです。感謝感謝。
その後は、しばらく近況を話し合って、すぐに帰途につきました。時間があれば、娘や孫たちの顔を見たかったのですが。明日の朝は病院へ行く日なので、今日中に帰らなければならなかったのです。

富山から糸魚川にかけてはかなりの雨。まさしく北陸の冬そのものです。糸魚川から白馬までは、南下する大型トラックに前後それぞれ20台近くはさまれて身動きできず。
夜7時、8時ころには、ものすごい数のトラックが大部隊を組んで(実は先頭が遅いと、後続のトラックが数珠つなぎになるだけ)松本あるいは長野にむけて走っています。だから、朝のように一台でもスリップして横転したりすれば、それでこの道路は終わり。
小谷あたりからは小雪が舞っていましたが、まだ積もるほどではなかったので、帰りは比較的順調で、朝日インターから大町までノンストップで走行できました。
池田は薄雲から月明かりが漏れていました。北アルプスのあっちとこっちでは何という違いなんでしょうね。
家に着いてから、さっそくハマチの刺身と、すでに作ってあった煮物(里芋、人参、蒟蒻、蒲鉾、豚肉などの田舎煮・・・もちろん自作)で遅い夕食。ハルちゃんもハマチの刺身をわけてもらって、食べたらさっそく寝てしまいました。
・・・・というわけで、ほとんど車を運転して過ぎてしまった1日。ずっと座っていたので、足腰にはそれほど負担にならず、よかった。



  11月9日(土)
今日の午前中は気持ちのよい快晴。山々の頂はすっかり雪化粧をして、冬が山から下りてくるような感じがします。明日の午後からかなり強い寒気が南下してくるようで、一気に冬に突入するのではないかと心配です。


少しずつ足も快方に向かっているようで、午後からしばらく畑で芋掘りと落花生の取り入れをしました。
イモは干し芋用の白い種類で、株によってずいぶん大きさに違いがありました。こいつは、ふかしてから干さなければならないので、手間暇がかかります。これまでは妻がすべてやっていたので、たいへん。間に合うかどうか。
落花生は、本当は株のまま10日ほど干してから収穫、さらに乾燥させて殻を割るのですが、今年は殻の部分だけを収穫して、洗って土を落としてから干すことにしました。これも手間暇がかかります。
畑ではまだまだたくさんやることがあるので、根比べみたいなものです。


さて、地元紙の信濃毎日新聞は連日「秘密保護法案」の危険性を指摘し、反対するキャンペーンを繰り広げています。ジャーナリズムの一翼をになう新聞としては当然の姿勢ですが、全国紙はどうか。
朝日新聞は10月26日に「特定秘密保護 この法案に反対する」との社説をかかげ、「社会を萎縮させ、市民の自由をむしばむ」ものとして反対を鮮明に。
毎日は11月8日、「秘密保護法案を問う・審議入り 重ねて廃案を求める」と題する社説を掲げて「憲法の基本原理である国民主権や基本的人権を侵害する恐れがある」と警告しています。
読売はこれまで同様、全く異質の立場。「日本版NSCを機能させるには同盟国や友好国と重要情報を共有することが欠かせない。漏えいの恐れがある国に、機密は提供されにくい。「特定秘密保護法」は、米国などとの信頼関係を強める上で大きな意義がある」(11月8日社説)とのべて、安保戦略上不可欠という立場を鮮明にしています。もっとも「知る権利への配慮を」と付け足し程度に述べてはいますが。

安倍内閣が、とくに教育の分野で権力統制を強めていること(教育長への権限集中化、道徳の教科化などへの傾斜)や、放送・出版など言論の分野で権力統制(NHK経営委員人事)を強めていることを見ればわかるように、その射程距離内には憲法第9条の改正が入っています。教育を支配することと、国民の目耳をふさぎ言論統制を行うことは、権力者が戦争を準備する際に必ず通過する作業です。
これまでやりたくてもできなかったことが、先の総選挙で思いがけず自民党が圧倒的多数を占めたことによって、濡れ手で粟の状態になってしまった。だが、安倍さんが読み違えていることがあります。それは国民の過半数どころか3割にも満たない支持を、圧倒的多数の国民が支持しているかのような幻想を抱いてしまったこと。
国民の側から言えば、「秘密保護法案」のような実質的改憲の法律案を出してくる奢りたかぶった自民党を絶対に許さない世論を目に見える形で示さなければならないでしょう。「幻想」であることを1日も早く思い知らさなければならない。
このようなことをブログやホームページで主張する人間は、監視や削除の対象とされかねない。特定の情報にかかわる批評をしたときには、罰せられるかもしれません。
後世の歴史書に、「2014年x月x日、国会は『機密保護法案』を可決、これによって言論界はいっせいに自主規制をはじめ、憲法改正への地ならしがすすめられた。国民や言論界の一部には根強い反対があったが、全国的な運動とはならず、自民党はこれによって長期政権への地歩を築く結果となった」などと書かれてはたまりません。



  11月8日(金)
飼い猫のハルちゃんをつれて、午前中穂高まで出かけました。相変わらず鳴き通し。注射や薬の注入のときに、昨日はおとなしかったのに今日は痛がって大暴れ。押さえつけて何とか治療を済ませました。
「だいぶ肉が盛り上がってきていますから、昨日よりよくなっていますよ」と、獣医さん。「どのくらいかかりますかねえ」と聞くと、ちょっと考えて「1週間でしょうね。ただ、舐めないといいんですがね」と答えてくれました。
帰ってから、「明日もまた行くんだからね」と言い含めておきましたが、どこ吹く風。家に帰ってしまえば自分の天下です。さっそく傷口を自分で舐めておりました。

今日の大糸タイムスに、先日の女川買い物ツアーについての記事が掲載されていました。同行取材した同紙記者の秋吉真理子さんによるもので、2日にわたって掲載となる異例の大きさ。これだけあれば、一行が何をしてきたか、女川はどうだったのかがかなり詳細にわかります。


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つい最近、高文研出版社から「新沖縄修学旅行」というガイドブックが発売されました。これは高校生などの修学旅行生のための沖縄案内で、@沖縄戦、A基地の島沖縄、B亜熱帯・沖縄の自然、C琉球・沖縄の歴史、D沖縄の暮らしと文化の5本の柱で、沖縄をトータルに理解できるように工夫されたコンパクトな案内書なのです。
@「沖縄戦ー沖縄に刻まれた戦争」を読んでみると、史実に基づいて沖縄戦の実相がまとめられ、同時にどこにどのような史跡(ガマなど)や建物があるのかを案内しています。
いわゆる「集団自決」についてもたくさんの証言が集められ、その凄惨な実態が浮かび上がっていますが、この本は「何がそのような生き地獄をもたらしたか」について次のように書いています。

ゆがんだ教育と、真実からの目隠しは、国民を殺す。これが沖縄戦が教える最大の教訓の1つである。

今日から審議入りしたという「秘密保護法案」を考える意味で、この教訓は過去のものでは決してないと私は強く思います。
これから沖縄を訪れるすべての人にとって、事前学習に極めて有用なガイドブックになっていますから、ぜひ一度てにとってみて下さい。



  11月7日(木)
飼い猫のハルちゃんが、2,3日前から元気がなく、一昨日から昨日にかけてずっと寝たきり。食べ物ものどを通らず、外にも出ず、ただ黙ってうずくまっているだけでした。抱いてしっぽの方を触ると、ニャーと言うのでどこか痛いのかとも思っていましたが、べつにどこといって悪いところもなさそう。ついしばらく前までは、こんな格好で無防備に寝ていたのですから。


動物の病気というのは本当に困ります。なにしろじっと我慢して(?)いるだけで、どこが痛いとか具合が悪いとかと訴えるわけでもない。それだけに愛おしくもあり、可哀想でもあり・・・。
ところが、昨日の午後から少し元気になって、外にちょっとだけ出るようになりました。風邪でも引いたのかなと思っていたところ、今日になって原因がわかりました。
外から家に戻ってきたネコの後ろ姿をふと見ていたら、お尻のあたりが禿げている。近くで見ると、肛門の脇に3センチほどの禿げができていて、その中心部に傷口が見え、さらにそのちかくに小さい傷が2カ所。これは痛そう。結構深い穴があいていたのです。全く気がつきませんでした。
これは大変と思い、午後から「洗濯袋」に入れてすぐに動物病院へ急行。
医者の話を聞くと、「匂い袋が破裂したか、噛まれたかのどちらかでしょうね」と言う。「最近は喧嘩したりはしていないからほかのネコに噛まれるということは考えにくいですね。匂い袋が破裂っておっしゃいましたが、ネコに匂い袋なんてあったんですか」・・・そう聞くと、「あるんですよ。ときどき、管が詰まって破裂するという症状が出る場合があるんです」という返事が返ってきた。
ネコの場合は、ざらざらした舌で自分で舐めるので、余計に傷を深くすることがあるとも。膿が出てしまったので、痛みも引いて元気になったのではないかという話でした。
結局、薬を傷口に入れて、さらに注射を打って、3日間通院することになりました。ネコの健康保険ってなかったんでしたっけ。
ネットで調べると、同じような症例がでていました。ネコによっては、臭いの強烈な例があるとも。我が家のハルちゃんは、動物臭は全くなく、匂い袋があるということすらわからない無臭ネコ。
ただ、車が大嫌い。乗せると鳴き声が尋常ではありません。暴れたりはしないおとなしいネコですが、どこかへ連れて行かれると思うのでしょうね、いつもとは違った低い声で泣き続けます。なだめすかしながら、声をかけながら車を運転するのもなかなか大変でした。
夕方になって、たくさん缶詰をたべていましたから、すぐによくなることでしょう。



  11月4日(月)
早起きして5時過ぎにテレビを見ていたら、黒木瞳が九州の豪華列車「七つ星in九州」を訪れてその紹介をしている番組がありました。豪華すぎる客室内を紹介する際に流れていたのがRussell Watsonが歌う「Nella Fantasia」。世界中で愛されている曲だから、多分どこかで聞いたことがあるはずですね。
しかし、私自身はすごい違和感を感じつつ、ああ、これが日本人の感性なのかなあと思ってしまったのです。
もともとは、Ennio Morriconeの曲で映画「ミッション」で使われていたもの。Sarah Brightmanがアルバム「Eden」で初めて歌詞をつけて歌いましたから、私が聞いたのはずいぶん昔のことになります。
当時は歌詞のことなど気にも留めていなかったのですが、この曲の歌詞を見てから何故にSarah がEnnio Morriconeを頼み倒して歌詞をつけた(いきさつはOne night in Edenのコンサートで彼女自身が語っています)のかが分かるような気がして、単に曲だけを聴いて分かった気になるのを厳に戒めなければならないと思わされたことでした。
ちなみに、「Eden」には「私を泣かせてください。この過酷な運命に、そして自由を求めて止まない私を!」と切々と歌う「Lascia」が収録されています。この頃の彼女の初々しいこと。

ネッラ・ファンタジア

心の中で、僕は正しい世界を思い描いてみる
誰もが平和に正直に暮らせる世界を
僕は、常に自由な心を夢見る
空の雲のように自由な
人間味に溢れた心を

心の中で、僕は明るい世界を思い描いてみる
夜でさえもそれほど暗くない
僕は、常に自由な心を夢見る
空の雲のように自由な

僕の心の中には、友達のように
街から街へ吹きぬける暖かいそよ風がある
僕は、常に自由な心を夢見る
空の雲のように自由な
人間味に溢れた心を

(引用 http://eagleai.exblog.jp/9725376/)

豪華列車に戻ると、この番組を作った人は「日本の『ものづくり』の粋を集め、『夢』をのせた列車には幸せな感覚を呼び覚ます曲を」と思ったかどうか。おそらくはその曲調だけで選んだのかもしれませんね。CMなどのBGMで使われる曲には多分にその傾向があるのはやむを得ないのかもしれませんけれど。

震災直後から被災地を訪れ、へんぴなところで身を寄せ集めて被災者が暮らす仮設住宅をつぶさに見てきた私としては、日本の技術の粋を集める場所が違うのではないかと思ってしまいます。ネッラ・ファンタジアの歌詞の意味するところは、現在の問題にこと寄せて言えば、「今は劣悪な場所に縛られているが心は羽ばたいている!平和で正直に暮らせる世の中を想像している!ということじゃないのか。エンニオ・モリコーネが「宣教師」の苦悩に寄り添って作ったこの曲は被災地に最もふさわしい、Lasciaも同じ・・・へそ曲がりな私はつい思ってしまうのです。この曲、「リラクゼーション」に分類されちゃたまらん。



  11月3日(日)
今朝は7時30分から集会所の掃除当番。夕べは夜10時頃家に戻ったので朝起きる自信がなく、沖縄からモーニングコールをしてもらうことに。
それから朝食をとるまもなく、ハルちゃんを世話してもらったお隣さんとそのまたお隣にお土産を持って行き、上がっていけというので結局1時間ほども話し込んで、あっという間に10時頃。
さらに、バラの会のメンバーにお土産を届けてまた1時間ほど。気がついたらまもなくお昼になっていました。
家に帰ると、郵便局の配達員が家の前で不在配達票を書いているところ。妻からバナナやら肉やらが届いたのでした。ちょうど間に合ってよかった。
それから朝昼兼用のお食事。昨日買ってきた「牛タン・カレー」で昼を済ませ、ちょっとくつろいでいたら、急に眠気に襲われて、ちょっとお昼寝と思ったらもう午後3時。午後からちょっと疲れが出て、あれこれぐずぐずしていたらあっという間に夕方。
、昨日買ったホタテ、ムール貝のバター炒めを作り、お隣さんが気遣って持ってきてくれたシチューとあわせてゆっくり夕食。さらにお風呂に入ってテレビを見ていたら、またまた夜9時をまわって、1日の終わり。何ともしまりのない1日になってしまいました。

1日、2日と行った女川支援活動。無事終えて昨夜全員元気で池田に戻ってきました。
結論からいえば、よい天気に恵まれたことも手伝って、目的をすべて完全に達成し、満足度では多分120%の旅行になったのではないかと思えました。
これを可能にしたのは、第1に過去の活動経験の蓄積、第2に、役員の意欲的で周到な準備、第3に、受け入れ先の商工会、観光協会、高野さんをはじめとする現地の方々の好意。第4に、バス運転手による乗客に寄り添った見事な運転。第5に、宿泊地のホテルの快適さ。そして最後に参加者の意欲的な姿勢だったと思います。どれ1つ欠けてもうまくいかなかったことは間違いありません。
この旅行の詳しい報告は参加者の感想を含めて後日作成する予定にしているので、そのうちお知らせできるでしょうから今日は簡単に。

役員が役場前に集まったのはまだ夜も明けない真っ暗な11月1日の午前5時過ぎ。予定通り到着した大型バスにお米やリンゴなどの荷物を積み込み、三々五々集まってきた参加者を乗せて役場前を出発。停車地の2カ所でも遅刻者もなくバスは安曇野インターから高速道路に入り、女川に向けて順調にスタートを切りました。
高速に入ってすぐにバスの中で出発式。まず今回の目的である「見て、知って、買って励まそう女川」の意義をしっかり伝えました。
参加者の半分以上ははじめての女川。目的地に近づいた頃、3.11を記録したDVDで当時の様子をあらためて見直し、私たちのネットワークの活動を記録したDVDでこれまでどんなことをしてきたのかを確認しました。


石巻の市街地はかつての面影は全くなく、海の近くに行っても新しい家が建ったりがれきがきれいに片付けられて、ずいぶん前とは違った印象を受けました。

女川町に着いてまず訪問したのが「きぼうの鐘商店街」。いくつもの商店が仮設店舗に並んで入っている団地です。その片隅で、女川商工会の方から復興の状況を聞き、義援金を渡しました。
そのあとは、あちこちの商店でそれぞれお買い物。わりと時間があったので、もうずいぶんたくさん海産物などを買っている参加者もいました。






女川観光協会から派遣されたガイドさんがバスに添乗して、女川町をまわりながら被災した当時の様子や復興の様子をいろいろと伝えてくれました。自身の体験に裏付けられた彼女の実直な語りが参加者にはとても好評でした。
片付けがすすむ沿岸部には、まだ横倒しのビルが3つ残っていて、そのうちの1つ、元七十七銀行の建物の横にしつらえられた献花台前に行き、全員で黙祷。その後用意したお花を一人ずつ供えて犠牲者の冥福を祈りました。






その後は一旦宿泊地のホテル、エル・ファロに行き、食事。このホテルはトレーラーを利用して作ってあるのですが、実にオシャレでメルヘンチック。中も広く使い買ってのよい作りになっていて、参加者はビックリ。満足度の1つの要因がこのホテルの過ごしやすさにあったのは間違いない。食事もそれほど手を加えたものではなかったけれど満足できるもので、これも好感度アップにつながっていました。「また来たい」と語る女性の参加者が一人、二人ではありませんでしたから。






さて、食事の後は、野球場の3階建て仮設住宅の集会所へ。高野さんが準備してくれた交流会です。
40人、50人がゆったりと入れる広いスペースがあり、そこにはすでに椅子がならべてありました。私たちの待つところへ、自治会長、議会の副議長をはじめとして仮設住宅の住人12,3人が三々五々集まってくれました。
私が司会していたのですが、初めのうちはそれぞれ何が始まるのかという面持ちで重苦しい雰囲気があり、私もどうしたものか思案していたのですが、高野さんがいろいろと間を取り持ってくれ、私たちの気持ちが伝わったのか少しずつ打ち解けた雰囲気になってきました。
「当時のことを夢に見る」と語って涙ぐむ女性や「兄弟や親戚を何人も亡くした。まだ行方もわからない」という自治会長の話にしんみりとしつつも、このように交流してお互いに励まし合うことが大事だという話も出て次第にいろんな話が飛び交うようになりました。果ては「長野で特定健診の受診率が高いのは何故か」などと高野さんが質問する場面もあり、さらに自治会長からは5年後の女川の姿を是非見に来てほしいという希望も出て、終わったのは午後8時半。終わりに参加者から持ってきたお土産(お米、リンゴ、手作りの編み物など)を手渡し、喜んでもらうことができました。




あけて2日目の朝は、朝食後バスで昨日の仮設住宅に行き、参加者全員で手分けして全戸にお米の宅配。留守の家が多く半分ほどしか配れませんでしたので、あとは高野さんに後日届けてもらうことにしました。
下の写真(大きい写真がリンク)は、その仮設住宅前での集合写真。写真を撮ってくれたのは高野さんなのですが、写真にその彼が写っているのは何故でしょう。三脚、タイマーは使っていません。(みんな晴れ晴れとした、いい顔していますね!)
写真のあと、バスの中で高野さんから「3.11のときの女川原発の状況」をくわしく話してもらいました。高野さんの話は何度聞いても具体的でわかりやすく、参加者も真剣に聞き入っていました。




話は前後しますが、この日の朝早く散歩に出かけたり、写真を撮りに出かけた参加者も多くいました。下は参加者から寄せられた写真。




バスで高台に行き、そこから工事の進む女川を一望 し、地震・津波の爪痕に思いを馳せ、どんどん変わっていく町の様子を目に焼き付けました。




その後は、蒲鉾工場、マリンパル女川で買い物。これが、この旅行の大きな目的の1つであっただけに参加者の購買意欲は大きく、「財布がすっからかんになってしまった」という参加者も。別の参加者はたくさん土産を抱えて「帰ったらみんなに配るんだ」と楽しそう。
マリンパルまで来てくれた高野さんに見送られて、バスは帰路につきました。




終わってつくづく実感するのは、計画したときに感じていた内容よりも、はるかに中身の濃い充実した旅行になったこと。何人も、帰ったら周りの人に話したい、今度またいつか来たいねと語っていたことからもそれはうかがえました。みなさん、本当にお疲れ様でした。

そうそう、付け足しみたいになってしまいましたが、東北楽天初の日本一よかったですね。巨人を破ったというのが何より。若い時は別としてほとんど野球に関心を持っていない(ゲームが嫌いなのではない)私のような人間にとっても、なかなかうれしい出来事です。




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