足の痛みが長く続いて、そのために出不精がますます出不精になり、家で「くっちゃね」の生活がずっと続いておりました。
まだ足のすね下方にしびれが残ってはいるものの痛みはかなり改善され、連動した腰の痛みもほとんどなくなってきました。薬が少しずつ効いてきたのかもしれません。よかったよかった。
ただ、私としてはもうひとつ懸念材料があって、年明けに治療をしなければならないことになりそう。これでほぼ身体の分解掃除(オーバーホール)はほぼ完了です。あとは少しずつ身体を動かし、メタボの解消に力点を移さないといけません。先日も保健指導員からしっかり「指導」されてきましたから。
さて、しばらく囲碁から遠ざかっていましたが、宣伝文句についつられて「天頂の囲碁5」を買ってしまいました。最近はほとんどソフトを購入することがなくなっていたので、しばらくぶりです。
最初から3まではずっとバージョンアップしてきてはいたのですが、忙しさに紛れてついこのソフトと対局するのを怠っていたのです。
久しぶりに対局してみると、いや強いこと!公称アマ5段というのですから歯が立たないのは当然として、こっちが4子も置かされているのではもはや屈辱以外の何ものでもありません。
そんなことはお構いなく「天頂」さんは非情に我が石を殺しに来る。まあ私としてはこのくらい強い相手なら、打つ楽しみも確かなものになるというものです。
二十四世本因坊秀芳(石田芳夫さん)の推薦の言葉によれば「独創性が高く、常識にこだわらない碁を打ちます。また、弱い石をためらわず捨ててくるところも強さを感じます。アマ六段クラスと言っても良いと思います」とのこと。
となれば、ひそかにこのソフトで練習を重ね、誰かと対局するときには「いや〜腕を上げたね」と言われるようにしますかね。「天頂」さん、今後ともなにとぞよろしくお願いします。
*******************************ところで、MNEMOさんの「トーホグマン」の「電子書籍」版を作成していて、MNEMOさんの「感覚」と私の「感覚」とでちょっとした(あるいは大きな)相違に遭遇してしまいました。
それは会話文の最後の句点(。)をつけるかどうかという問題です。原文はそのままに編集するのがあたりまえだし、その立場を厳守するなら句点は当然そのままつけるべきなのです。
実は、そこで本当に悩んでしまいました。私の考えは、最後の句点は邪魔でしかない、会話のリズムを阻害する、「コトバ」以外は最小限とすべきというものだったからです。最近の小説を見れば分かるように、会話文の最後に句点をつけたものはまずありません。
悩んだ末に、MNEMOさんに相談することにしました。返事は次のようなものでした。
句点については、私は今回ちょっとした美意識上で用いています。しかし大きな拘りはありません。
先生の思われるようにしていただいて構いません。
結局、このお返事に気をよくして、現在の姿になっているというわけです。
しかし、考えて見ると、他人の文章にたとえ句読点であっても一定の改ざんを施すというのは僭越極まりないことです。本来許されるはずもないことなのです。
実は、「美意識」と言われて、元に戻そうかなあ・・・と何度も思い直しつつ、でもなあ・・・いざ書籍の形式で編集していると、テンポ、機能を重視したいなあ、その方がよほど会話が生き生きするのになあ・・・私のこだわり、習慣が頭をもたげてくるのです。今なおその繰り返しで、内心まだたたかっている最中です。
もし、MNEMOさんのこの物語が、今後出版されるということになるなら、MNEMOさんが判断され、原文通りにされるでしょうから、今は単に「勝手な私的編集」としてご容赦を願うことにしましょう。
考えて見ると、簡単なようで難しいこの句点のつけかた。多分、学校でつかう教科書はすべて「・・・・。」となっているはずです。たとえば、いま私が高校生と一緒に読んで感想文を書いてもらっている三省堂の「高校生のための批評入門」では、会話の終わりには必ず句点がつけられています。一方、単行本で出版されている小説(要するに商業出版物)などでは「・・・」となっています。どうしてこんなことになるのか。
この際と思って、いろいろ調べてみると、日本語の表記法に関して昭和21年(私が生まれた年ですぞ!)に当時の文部省教科書局調査課国語調査室で作成した
「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」が統一の基準になっているようです。従って、それ以後の公用文書、教科書などはこれに従って表記が統一されているというわけです。
これに対して、商業出版の編集現場では、「閉じカッコの終わりの括弧はそれ自体文末を示すことが明らかなため、文末の句点は省略する」という動きが昭和20年代からすでに出始め、今ではこの慣行が主流となっているということもわかりました。
「ライトノベル作法研究所」の主宰者の方のホームページでは、同様の質問を<国立国語研究所>にしたところ、次のような返答があったことを紹介しています。
最近の小説は会話文が多くなり、規定の表記法で句点を用いた文章を書いてしまうと、テンポが悪くなる上、ダイナミックに表現する事が困難になる。
親しい友人や恋人に手紙を書く際にも、堅苦しい表記法を用いれば思いを伝えにくくなるし、表記法の押し付けになりかねず失礼に当たる。
句点に囚われず、表現しやすい文章を心掛けて欲しい。
結局、どちらにするかは好みということになってしまうように見えますね。結論として、役所やビジネスなどでの公式文書でない限りは、会話文の流れ、テンポ、リズムその他を考え、最も適切なスタイルをとればよいということになるのでしょう。
英文での会話では、
引用符「“ ”」あるいは「‘ ’」を用いて、その中の文末には必ずカンマ「,」またはピリオド「.」がつきます。
池田で知り合い10年近く前に亡くなった大久保さんから引き取った蔵書のうち、Lady Chatterley's Loverでは‘ ’、The Hunt for Red Octoberでは“ ”という調子。
‘You'll regret it,’she said.
‘I shan'nt,’cried Connie, flushed red. ‘He's quite the exception. I really love him. He's lovely as a lover.’ ( Lady Chatterley's Lover PENGUIN BOOKS p.249 )
ただし、この本を引用したのは興味本位ではなく、Richard HoggartがIntroductionで書いているごとく、次の一節に同意するからです。
Lady Chatterley's Lover is not a dirty book. It is clean and serious and beautiful.
MNEMOさんは「美意識」という観点から句読点の付け方に配慮されている、と先ほど紹介しました。だとすれば、それに対してあれこれ注文をつけたりするのは失礼というもの。
ささいなことに見える句点の付け方について、いろいろと学ばせてもらったことに感謝しつつ、今回は「私的編集」として、先ほど述べたことに従って私なりの編集をしていくことに致します。