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  12月31日(火)
いよいよ大晦日。いつのまにかという感じです。
いつもなら年が明けてから年賀状を印刷したり書いたりしているのですが、今年はちょっとだけ早めに昨日出し終えました。それというのも、今年は3ヶ月ほど前に入手したカラーレーザープリンタが威力を発揮してくれたからです。

最近のプリンター市場は異常なほど安値推移で、私が衝動買いしたNECのMultiWriter5600Cなどは数千円の捨て値状態。ところが、です。エプソンでもキャノンでも同様ですが、インクジェットでもレーザーでもインクやトナーが異常に高い。しかも、インクタンクがだんだん小さくなっていく!!要するに消耗品でどんどん稼ごうという魂胆です。
安くデバイスを買わせて高く元を取る、いやはや考えることは正直あくどい。それにつられて買う方も買う方ですけど・・・。ただ、確かにプリンターの性能は上がっているのですから、技術者のみなさんの努力は正当に評価しているつもりですよ。会社でも技術畑と営業畑とで結構問題が生じているのではないかと私は推測しているのですが。

今日は、夕方には息子の家族がやってくるので、私は朝から大掃除とおせち作りの予定です。幸い外は冷蔵庫いや冷凍庫なので、ノラネコに取られないようにして置いておけば完璧(ハルちゃんはめったに家のものを”無断で”食べたりしない)。
正月三が日は、のんびり読書かパソコン(ハード)でもさわって過ごそうかと思っています。なにしろ年末から片付け始めたがらくたがあちこちに山積したままになっているのです。

もちろん、自らの行く末をよく考える起点にしたいという思いも強い。昨日の琉球新報「年末回顧 県民は屈服しない 尊厳と覚悟問われた一年」の末尾の次の一文を心に刻んで今年を終えたいと思っています。

沖縄の尊厳と覚悟が問われた一年だった。「屈辱」は味わったが、この経験を生かし、沖縄の民意はより「屈強」になるだろう。「不屈」を誓い、新年を迎えよう。

一年間長々とつまらぬことを書き連ねたブログにお付き合いくださってありがとうございました。みなさま、どうぞ良いお年をお迎えくださいますように。



  12月30日(月)
朝からよく晴れた穏やかな1日になっています。早朝はさすがにマイナス5度くらいでしたが、日が昇るとウラウラと温かい日射しが差し込んで、ハルちゃんは、出窓でひなたぼっこをしながらウツラウツラ。気持ちよさそうです。私もネコになりたい・・・。


午前中はお正月の買い物にでかけ、いろいろと買い込んできました。店内は朝から沢山の買い物客でいっぱい。こんなのを見ていると、いよいよ1年が終わるのだなと思ってしまいます。
この年になってしまうと、1年が過ぎようが新しい年を迎えようがそれほどの感慨はないのですが、このままいつまでも同じように過ごしてよいのかどうか、自分自身の一生にどのように区切りをつけ新しい峰に向かうのか、真剣に考えなければいけないということは今まで以上に強く思わされています。父の亡くなった年を越えつつあるってこともありますし。

最近の話題はほとんど沖縄のことばかりですが、いま注目しなければいつするのかというほどの重大な問題が次々とこの地で起こっているからです。

安倍内閣になってから、次の言い回しが目立つようになりました。
「理解していただけるまで丁寧に説明する」
たとえば辺野古米軍基地建設でもそうだったし、最近の靖国神社参拝後の記者会見でも同じ。
私は、このコトバの使い方を断じて認めることができません。傲岸不遜、厚顔無恥にも程があります。
「中国、韓国の人たちの気持ちを傷つける気は毛頭無い。リーダーとして戦場で散った英霊に手を合わせることは世界共通のリーダーの姿勢。理解をしてもらう努力を重ねていく。謙虚に礼儀正しく誠意をもって対話をする」ですって??実に俗受けする言い回し、計算され尽くした言い方です。よって、たとえばYahooの意識調査では8割が首相の靖国参拝を「妥当」と見なしているというわけです。
しかし、だまされちゃいけません。「丁寧」なコトバで歴史を巧妙に偽造し、中国・韓国の反応が過剰だとの印象をことさらに印象づける話し方。実はそうかもしれないと思わせてしまう心理的誘導。そりゃ向こうもプロ集団がついていますからね。

ところが、ですね、沖縄では知事の「埋め立て申請承認」に対して不支持が61% 公約違反72%という調査結果になったそうですよ。琉球新報の報道です。
それはそうでしょう。沖縄県民は身をもってアメリカと「本土」政府がしてきたことを知っているのですから。
同じことが中国・韓国の人たちについても言えるのです。当時の日本軍と天皇制国家が行った残虐行為を身をもって知っているのですから、それに対する反省も深刻な謝罪もないばかりか、あの戦争を賛美し行為を正当化する政府に反応しない方がおかしいでしょう。
圧倒的多数が「理解できない」と主張しても「理解してもらうまで説明する」とは一体何をすることなのでしょうか。私にはこうした理解不可能なコトバ、行為が、学校での教育をいかに阻害し、子どもたちに悪影響を与えているのかを恐れます。教師が生徒をぶん殴っておいて「理解できるまで説明する」などと言うのでしょうか。それとも安倍政権のように「札束」で生徒と保護者の頬をもう一度はたくのでしょうかね。

28日のThe NewYork Timesは「In Textbook Fight, Japan Leaders Seek to Recast History」と題し、育鵬社版教科書を採択するよう圧力を加える安倍政権に抵抗を続ける沖縄竹富島を詳細に報道。「保守的な安倍内閣は、より公然とした国粋主義的政策を実行し始めた」「当初は超保守的な政策よりも経済に焦点を絞っていた安倍首相にとって、歴史問題は政治的な危険性に満ちているかもしれない」と伝えていました。
ことほどさように、日本政府は諸外国から物笑いになり、相手にもされず、孤立の道をひた走る。そんな泥船に乗せられいっしょに連れて行かれるのはまっぴらごめんです。



  12月29日(日)
昨日朝から今日夕方まで妻とともに富山に出かけていました。富山県9条ファンクラブ事務局長をしている友人宅を訪問し情報交換をしたあと、妹夫婦宅へ。しばらくそれぞれの近況を報告し合い、夕食をごちそうになって、8時過ぎに娘の嫁ぎ先へ向かいました。
今朝は早くから二人とも髪を整えてもらって、昼頃帰途についたという次第です。忙しいときにもかかわらず突然訪問して申し訳ありませんでした。いつもながらの「腕の確かさ」、おかげでさっぱりと新年を迎えることができます。
富山は朝から数センチの積雪。水分の多い「富山の雪」で、なかなかに懐かしかった。


しかし、糸魚川から小谷にさしかかる頃には、道の両側は結構な積雪で、除雪車が出動していました。道も一部凍結してガタガタ。
28日ということもあったからか車の数はそれほどでもなかったので、比較的楽に運転もできたし、何事もなく池田に戻ってくることができました。大町から池田に入ると雪は全くなし。富山や新潟の雪がウソのようでした。
今晩は富山で買ってきた魚(ブリ、アオリイカ、すり身、その他)で夕食です。魚を買いに寄った富山のスーパーは正月のための食材を買う人たちで大混雑。私たちも、沢山の魚を前についつい買い込んでしまいました。しばらく魚漬けです!!

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話は変わりますが、今朝の沖縄各紙は、仲井真知事による「埋め立て申請承認」について、厳しい批判・糾弾の論陣を張っていました。大手新聞各社の政治部長らが26日の夜(安倍首相が靖国参拝を強行した日)安倍首相と東京赤坂のホテルで2時間以上にわたって会食をした(28日赤旗報道)というのですから、大新聞の堕落ぶりとの違いが余りにも際だっています。

琉球新報は、「即刻辞任し信を問え 民意に背く歴史的汚点」との見出しをかかげ、知事の発言・態度を「詭弁」「猿芝居」と断定。さらに、沖縄の「悲惨な歴史を忘却し、軍事偏重の安全保障政策に無批判なまま、沖縄の軍事要塞化を是認したに等しい妄言」と指摘して、「再び『捨て石』になる道を知事が容認することは許されない」と強調していました。昨日の「特別評論」ともあわせて読むとき、沖縄県民の深い失望と憤りが胸に迫ります。
沖縄タイムスもまた「辞職し県民に信を問え」と題する社説を掲げ、知事が選挙公約を「かなぐり捨てた」ことを「裏切り行為」と断定、あまりにも露骨な安倍政権への迎合を厳しく指弾していました。

昨日の記者会見を見ていたら、「公約違反ではないのか」と聞いたことに「それは質問ですか、批判ですか」と声を荒げて開き直る見苦しい対応。
記者会見を聞いていた限りでは、普天間基地の5年以内の運用停止・県外移設と辺野古埋め立て申請の承認とは両立しうるのだというのですから驚きです。普天間を停止して県外に持って行けば、辺野古に基地を建設する理由がありません。それを「環境に適合しているから」(実はそんなことは全くないのですが)単なる法律的な手続きとして承認しただけだと主張することは、全く理に合わないことです。

ここにきて、多くの沖縄県民は仲井真知事の本性をはっきりと悟ったのではないのでしょうか。
選挙時「県外移設」と言ったことに惑わされ投票した有権者も、今回ばかりは「裏切り」と感じたはず。もっとも私にすれば、そんなことははじめからわかっていたことなのですけれど。
札束をちらつかされ、権力で恫喝され、それにひれ伏して、知事とは何をなすべきなのかを忘れ去る。「申請を受ければそれに応えるだけだ」うそぶいて恥じないこの知事は、この一事で県民から見放され、その命脈も尽きたというべきでしょう。
県議会での知事不信任の動きもあるとか。当然です。

普天間基地周辺で騒音に悩まされ、危険と隣り合わせの住民からすれば知事の判断は「ありがたい」と受け止められるかもしれません。辺野古での新基地建設でうるおう方々が存在することも事実です。
だが、ちょっと考えるだけで、それは「虚構」であることにすぐに気づきます。米軍は普天間を10〜15年手放すつもりはないのです。新基地とは、海外からすれば侵略の拠点であるわけですから、沖縄にさらに大きな危険の震源地をつくることにもなるということです。
目先の「利益」に目がくらみ、結局は破綻への道を転落する歴史的事象をいくつ私たちは見てきたのでしょう。フクシマはその典型的な事例ではなかったのでしょうか。だからこそ沖縄県民も、県内各紙も、口をそろえてその危険性を指摘し警鐘を鳴らしつづけてきたのです。
歴史から学ばない者は、自分の行為を客観視できず、同じ過ちを繰り返してもその自覚すらない。むしろ逆に開き直り自己の行為を合理化し正当化するものです。今回の仲井真知事の記者会見を聞きながら、そのことを痛感したものでした。



  12月26日(木)
「沖縄県知事 辺野古埋め立て承認へ」という記事が今日の朝刊各紙に掲載されました。安部政権はほくそ笑み靖国神社参拝に弾みをつけ、一方の沖縄県民は怒りで火の玉となる。
辺野古埋め立ても靖国神社参拝も日頃の私たちの生活には関係がない。ないどころか普段考えることもない。だが、数年後の自分の生活に跳ね返ってくるとしたら。いま想像も出来ないような痛苦もしくは恐るべき悲劇として。
仲井真知事は、政府から示された「負担軽減策」について「いろいろ驚く立派な内容をご提示いただき、140万県民を代表して感謝する」「いい正月になる」と語ったといわれています。惚けたのか、とぼけているのか、本心からそう思っているのかはわかりませんが、今日の琉球新報の社説が書いている通り、この発言自体「驚くべき」ものです。
なぜなら、政府の示した「負担軽減策」なるものは、沖縄に住んでいない私からみても「負担軽減」になるはずもない空約束ばかりだからです。 たとえば、普天間基地の5年以内の運用停止について、「作業チームを防衛省内につくる」というだけ。運用停止すると約束したわけではありません。政府にしてみれば、「運用停止を検討したが、極東情勢など諸般の事情があるので、5年以内は難しい」と5年後に言えばそれですむのです。
また、「オスプレイの半分は本土で訓練する」というのはどうか。仲井真さんは、すべてのオスプレイが本土の様々なコースで超低空飛行を行う計画がすでに発表ずみであることをお忘れか。琉球新報が「噴飯もの」と書いたのは全くもって正しい。
これらのどこをとれば「驚くべき立派な内容」になるのでしょう。自分の公約、沖縄県民への責任をすべて投げ捨て、アメリカと自民党の軍門に降ったということを示すだけではないでしょうか。
仲井真さんは、「驚くべき」変節を「立派に」遂げられて正月を迎えられるのですから、それはそれでいいでしょう。ただし「いい正月」になるのかどうか。
おそらくこの方は、沖縄の歴史に黒いシミを残した人物として記され、しかし、いずれ歴史の屑籠の中で忘れられる運命にある。
裏切りとは、代償の大きいものです。そのことをご本人が知るのもそう遠い将来とも思えません。そのとき、「あれはは仕方がなかった」などと言えないのは当然です。
仲井真知事は、県民に対して重い責任を負っているという自覚はもはや見られなくなってしまいました。よって知事としては完全に失格。最大の公約を翻したのだから、潔くお辞めになるのが正しい。
沖縄県民はもはやこの軽薄な知事を信用もしないし相手にもしない。それどころか、県民の怒りはいっそう強く燃え上がるでしょう。
同時に、今回の知事の判断は1つの通過点に過ぎません。かくなる上は名護市長選挙で稲嶺現市長の再選を勝ち取って、地元自治体で決して新基地を許さないとりでを作ることが大事です。
沖縄県民はこれまで、権力と金の力で屈服させたかのように見えるさまざまな局面で非暴力を貫き「不屈」に戦い続けてきたのです。必ずその底力が発揮されるでしょう。
琉球新報 号外



  12月23日(月)
昨日の琉球新報の記事はどうでしょうい。あいた口がふさがらないとはこのことです。
この研究者というお方は、何様のつもりなのでしょう。そしてもっと重要なのは、「日本政府高官も私の提言に感謝し、普天間問題の行き詰まりを解決するために活用することを望んでいた」としたくだり。アメリカもアメリカなら日本政府も同様の沖縄蔑視の目線でしかありません。
政府はアメリカに対して普天間基地の早期返還と地位協定の見直しを検討するのだという。地位協定の見直しなど「あり得ない」というのがアメリカの一貫した立場ですから、政府のこの態度は、単にそのようなポーズをとってみせるだけ。この記事の一件を見ても、アメリカ政府中枢の本性がよくわかるというものです。

「基地があるから経済がなりたっている」「沖縄振興策のおかげで経済がよくなっている」「基地は中国北朝鮮への抑止力として必要」などというのがこれまでの基地押しつけの国民ウケする理由。しかし、ことここに至ってカネで沖縄を懐柔しようという政府の策がいかに悲惨な結果をもたらすか、沖縄県民は肌身で知り尽くしているのです。沖縄県民のたたかいは、アメリカと日本政府の思惑をはるかに超えてすすんでいます。紆余曲折はあったとしても、彼らの野望を打ち破る日が必ずくるでしょう。



  12月21日(土)
今朝は一面の雪。2〜3センチも積もっているのか、なかなかいい風情です。青空が広がり、割と温かいのですぐに解けてしまうでしょう。




沖縄でも気温が20度を下回って17、8度ともなるとやはり寒いようで、行ったことがあるのかないのか「北海道みたい」という人も。
その沖縄で、辺野古の埋め立て申請の可否判断を知事が25日にも行うという緊迫した事態に。今日の琉球新報では「知事は『(埋め立て申請の)承認か不承認かはまだ決めていない。いずれの場合も想定してスケジュールをつくってほしい』と求め、事務方に対して『承認』と『不承認』の両方を想定して準備するよう指示した」と報道されていました。
両方というのは、政府に予断を与えないための策なのか、それとも承認への布石なのか、今の段階ではわかりませんが、いずれにしても常軌を逸した政府・自民党の強圧に抗して不承認とすることは仲井真知事にとっては相当に厳しいことでしょう。
とくに先に知事が首相と会って「5年以内の普天間基地の運用停止」を求めたことが、辺野古への基地建設容認の条件ではないのかという憶測が広がっています。
しかし、知事公約は「普天間基地の県外移設」、どんな条件もつけていません。12月議会でも「公約は変わらない」と答弁しているのですから、それを貫いてもらわなければなりません。
最も大事なことは、沖縄県内だけでなく、全国で辺野古に新基地を作らせないという世論を大きく高めることです。
普天間基地が危険だから辺野古へ移すというのは表向きの理由。辺野古につくるのは、最新の設備を備えV字滑走路と広大な面積を持つ新基地。基地機能の飛躍的な強化なのだということです。辺野古への「移設」が問題になるとき、この点は全く見落とされています。
さらに大事なことは、現在ある米軍基地はあの戦争のあとアメリカが沖縄県民から強奪して作ったものですが、もし辺野古への基地を認めればそれはアメリカのためにこの国が初めて自ら土地を差し出すことになるという点。自然を破壊し海に取り返しのつかない被害を与え、周辺の環境に甚大な影響を及ぼす新基地、他国への侵略の前線基地を日本政府が自ら県民の財産をとりあげてつくるということです。
今日の琉球新報は、辺野古への新基地建設にむけた「埋め立て申請書に記された護岸の長さや弾薬搭載区域の規模が、これまで県に示していた計画よりも拡大し、軍港並みの機能になっている」ことを示し、この基地がとんでもない代物であることを暴露しています。
ウチナンチューの闘いが、本土の側の無関心と政府の差別政策によって苦境に立たされてきたという認識が沖縄では抜きがたく存在します。
元沖縄県知事の太田昌秀紙は沖縄タイムスの取材の中で「政府を含め、沖縄以外の本土の人たちをどう見ているか」との質問に次のように応えています。

一般の日本人は、政府が辺野古と言っていることにただ賛同している。基地被害で沖縄で何が起きても痛くもかゆくもないから。
私たちが訴えても圧倒的多数が本気に取り組んでくれなければ問題は解決しない。
だが、民主主義、多数決原理の名において沖縄が絶えず差別される構造が出来上がっている。構造的差別だ。


こうした不信感を払拭するためにも、本土の側から沖縄県民への連帯と、辺野古基地を許さない声を大きく沖縄県知事に伝える必要があります。
折しも、いま県庁前では座り込みや要請行動が行われています。これをお読みのみなさま、どうぞ重大な状況にある辺野古への新基地建設問題に関心を寄せられ、「辺野古埋め立て」を不承認とするよう沖縄県知事への働きかけをお願いします。

意見の取り扱い方は、沖縄県知事公室のページに載っています。
知事公室のEメールアドレスは次の通りです。
kouhou@pref.okinawa.lg.jp

私は、次の文面のメールを知事公室経由で仲井真知事に送りました。

沖縄県知事 仲井真弘多 様

日頃のご公務に心より敬意を表します。

ぶしつけながら、辺野古埋め立て申請に関して一筆申し上げます。
私は、長野県池田町に住む者ですが、沖縄県の置かれている状況に
深く関心を寄せ、新基地を辺野古に作らせてはならないと考えて
まいりました。
私は、辺野古への新基地建設は沖縄県の負担軽減にならないばかりか、
日本全土の米軍・自衛隊基地と連動して、日本をアメリカの戦略に
いっそう深くくみこむものと考えております。
これはオスプレイの低空飛行訓練が沖縄を基地としつつ、日本全土で
傍若無人に行われる一事をみても明らかです。
辺野古の海は沖縄県でも有数の自然環境を残す場所であり、本土や
世界から訪れる観光客にとって、沖縄を満喫できる大切な場所です。
新基地建設はかけがえのない環境、生態系を破壊するのみならず、
それを戦争のための土地に変え、アメリカに差し出すということに
他なりません。
県民の圧倒的多数が、辺野古への新基地建設に反対しています。
今年1月には「オスプレイの配備反対および普天間基地の閉鎖と県内移設断念」
を求め、すべての自治体首長・議会議長による痛切な「建白書」が
政府に提出されました。
こうした沖縄の方々および心ある本土の人々の総意をお汲み取りいただき、
政府に対して辺野古埋め立て申請を許可されないよう要請するものです。

蛇足ながら、沖縄は私の妻の郷里であることを申し添えます。


以下 住所、氏名




  12月18日(水)
昨夜のNHK午後7時のニュースで、安倍内閣が「国家安全保障戦略」と「防衛計画の大綱」を閣議決定したと伝えていました。
NHKの報道の仕方は政府の発表通りを伝えるもので、まさしく政府広報部の面目躍如。中国・北朝鮮の脅威をあおり、防衛強化に努めるのは当然という「評論家」の論評も忘れません。翼賛体制が徐々に作られていく恐ろしさを感じます。

今朝の新聞各紙の論調では、読売新聞の我が意を得たりというようなはしゃぎぶりなのが目を引きます。社説も題して「日本守り抜く体制を構築せよ」、いやいや勇ましい。

「わが国の平和と安全の確保へ、包括的かつ体系的な指針を初めて定めた意義は大きい」
「国益を守る道筋を描いたことは、画期的だといえる」
「日本単独で攻撃するのではなく、日米同盟を補完するにはどんな能力を持つのが効果的か、しっかり議論を深めることが肝要」
「集団的自衛権あの憲法解釈の見直しも、残された課題」


この論評を読んでの感想は?と聞かれれば、「ヨミウリ」としか言いようがありません。こうなったら「黄泉売り」とでも名称変更したらいかが?

一方、信濃毎日新聞は「平和国家をゆるがす」として、最大限の警戒を呼びかけています。

「戦後の平和国家としての歩みや国民生活に関わる重大な政策変更だ。十分な議論なく、強引に進めることは許されない」「他国を攻撃できる武力を持てば、一線を踏み越える。見過ごすことはできない」「(「我が国と郷土を愛する心を養う」との明記について)国民が一定の義務を担わされたり、愛国心を強制されたりすることにもなりかねない」

朝日新聞も、「実態は日本の安保政策の大転換」、集団的自衛権の行使容認で「戦後の平和主義は足下から崩れる」と厳しく批判しています。しかし、それにしては一面で報じてはいても、猪瀬知事問題の脇に置かれているのはどうして??

沖縄で妻が手に入れてきてくれた本の一冊に、前泊博盛さんの「日米地位協定入門」というのがあります。半分ほど読み進みましたが、そこまででも「憲法よりも実は重大」という日米地位協定の仕組みが克明に記されていて背筋が凍るほどです。
これを読むと、日米安保と同時にとりかわされた(押しつけられた)この協定によって、日本がアメリカのいいなりにならざるを得ない仕組みが縦横に張り巡らされていること、安倍内閣がいまやろうとしている集団的自衛権の行使自体が、アメリカがかねてから望んできた戦略の一環だということ、米軍基地は決して「日本を守る」ためにあるのではなく、アメリカの世界戦略{戦争政策}の遂行のためにあるのだということがよくわかります。
それゆえ、安倍内閣の今回の「戦略」に対して、キャロライン・ケネディ大使は「日本の安保政策の進展を支持する」と本国の考えを忠実に伝えているというわけです。彼女の「日本を思う」心からでは決してありません。

安倍内閣の政策を放置すれば、新型武器・装備の拡大と武器輸出三原則の見直しによる軍需産業の肥大化、原発の再稼働・新増設による核兵器製造能力の保持、「愛国心」強要による教育現場、自治体、地域の「国策」への従属などがいよいよすすむことになります。

今日の「しんぶん赤旗」一面トップの見出しは「『戦争する国』へ大転換」。まさしくその通りです。
同じ一面におもしろい世論調査結果(図:右下)がのっていました。秘密保護法成立後のメディアの調査で、「北海道、福島、沖縄」で内閣不支持が支持を上回るという報道です。沖縄では圧倒的に不支持率が高い。当然です。北海道は米軍基地としてあちこちの土地をとりあげられ、最近ではTPPで先行き真っ暗な状態。福島、沖縄はいわずもがなです。

今日の琉球新報は「国家安保戦略 戦争する国への岐路 事実上の改憲に歯止めを」と題する社説で、次のように書いています。

不戦を誓い平和国家として歩んできた日本が、軍備を軸に国威発揚を優先した戦争ができる国に転換しかねない。歴史的分岐点となることは間違いない。・・・
「集団的自衛権の行使容認」を前提にしながら、軍備増強に傾斜する国の姿が鮮明になり、事実上の憲法改悪が進行している。・・・
「力には力で」という好戦的な国防観が覆い、外交努力は二の次になっている。東アジアの軍拡競争を激化し、沖縄の基地負担が温存される不安がかき立てられる。・・・
「国を守る」という主張が先走り、歯止めをかけられない状況は、戦前の状況に近づいている。  戦後の日本は武力を土台にした国威よりも不戦、平和を最優先の価値とし、68年間戦争をしていないからこそ、「国際社会の名誉ある地位」を得てきた。平和国家をかなぐり捨てるなら、名誉ある地位は到底得られないだろう。


「事実上の憲法改悪」という指摘を多くの国民はどうとらえるのでしょう。大メディアが政治への監視機能を失い、国民がそうしたメディアにいつの間にか頭の中を書き替えられていくとすれば、北朝鮮をわらってばかりはいられないのではと思ってしまいます。
「凡庸の悪」への方向ではなく「自分で考え、表明する」ことの大切さを今痛感します。



  12月16日(月)
昨夜はこれまでにないほどの猛烈な風が吹き、怖いほどでした。それも早朝にはおさまって気温もやや高め、朝はきれいに晴れ上がって北アルプスは完全に真冬の佇まいです。朝日に真っ白な山肌がまぶしい。こんな風に山が見えるのは久しぶりです。


共同通信社によると、普天間基地の名護辺野古への移設に関して日本政府が沖縄県に提出した埋め立て申請に対して、アメリカ政府高官が「無条件で承認されるべきだ」との見解を示したとのこと。今朝の信濃毎日もこの記事を一面トップで扱い、「知事判断にくぎをさしたもの」との見方を示していました。
このアメリカ「高官」なる人物の言い方は戦後一貫して強権的に無理無法を沖縄に押しつけてきたやり方そのものですから、それを骨身に染みて理解している沖縄県民はまさしく「怒り心頭に発す」の心境でしょう。
信濃毎日は、仲井真知事が「承認の前提として日米地位協定の一部見直しや辺野古の施設完成まで普天間駐留部隊を日本の本土で受け入れることを要求する可能性がある」かもしれないとの見方が出ているとも書いていました。
条件付き承認などが沖縄県民の容認するところではないことは百も承知のはず。しかし、自民党・公明党などに支持されて当選した仲井真知事のこと、自民県連が辺野古移設容認に舵を切ったことから「考え得る最大の条件をつけた」などとして「苦渋の決断」をしたと言いかねない状況が広がっていることも事実です。
仮に知事が「条件付き容認」などという姑息な懐柔策に出ようと、「the point of no return」を越えてしまった沖縄県民は、いかなる犠牲押しつけ政策をもはね返して、平和で豊かな沖縄を取り戻すたたかいを広げていくことでしょう。



  12月15日(日)
足の痛みが長く続いて、そのために出不精がますます出不精になり、家で「くっちゃね」の生活がずっと続いておりました。
まだ足のすね下方にしびれが残ってはいるものの痛みはかなり改善され、連動した腰の痛みもほとんどなくなってきました。薬が少しずつ効いてきたのかもしれません。よかったよかった。
ただ、私としてはもうひとつ懸念材料があって、年明けに治療をしなければならないことになりそう。これでほぼ身体の分解掃除(オーバーホール)はほぼ完了です。あとは少しずつ身体を動かし、メタボの解消に力点を移さないといけません。先日も保健指導員からしっかり「指導」されてきましたから。

さて、しばらく囲碁から遠ざかっていましたが、宣伝文句についつられて「天頂の囲碁5」を買ってしまいました。最近はほとんどソフトを購入することがなくなっていたので、しばらくぶりです。
最初から3まではずっとバージョンアップしてきてはいたのですが、忙しさに紛れてついこのソフトと対局するのを怠っていたのです。
久しぶりに対局してみると、いや強いこと!公称アマ5段というのですから歯が立たないのは当然として、こっちが4子も置かされているのではもはや屈辱以外の何ものでもありません。
そんなことはお構いなく「天頂」さんは非情に我が石を殺しに来る。まあ私としてはこのくらい強い相手なら、打つ楽しみも確かなものになるというものです。
二十四世本因坊秀芳(石田芳夫さん)の推薦の言葉によれば「独創性が高く、常識にこだわらない碁を打ちます。また、弱い石をためらわず捨ててくるところも強さを感じます。アマ六段クラスと言っても良いと思います」とのこと。
となれば、ひそかにこのソフトで練習を重ね、誰かと対局するときには「いや〜腕を上げたね」と言われるようにしますかね。「天頂」さん、今後ともなにとぞよろしくお願いします。

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ところで、MNEMOさんの「トーホグマン」の「電子書籍」版を作成していて、MNEMOさんの「感覚」と私の「感覚」とでちょっとした(あるいは大きな)相違に遭遇してしまいました。
それは会話文の最後の句点(。)をつけるかどうかという問題です。原文はそのままに編集するのがあたりまえだし、その立場を厳守するなら句点は当然そのままつけるべきなのです。
実は、そこで本当に悩んでしまいました。私の考えは、最後の句点は邪魔でしかない、会話のリズムを阻害する、「コトバ」以外は最小限とすべきというものだったからです。最近の小説を見れば分かるように、会話文の最後に句点をつけたものはまずありません。
悩んだ末に、MNEMOさんに相談することにしました。返事は次のようなものでした。

句点については、私は今回ちょっとした美意識上で用いています。しかし大きな拘りはありません。
先生の思われるようにしていただいて構いません。


結局、このお返事に気をよくして、現在の姿になっているというわけです。
しかし、考えて見ると、他人の文章にたとえ句読点であっても一定の改ざんを施すというのは僭越極まりないことです。本来許されるはずもないことなのです。
実は、「美意識」と言われて、元に戻そうかなあ・・・と何度も思い直しつつ、でもなあ・・・いざ書籍の形式で編集していると、テンポ、機能を重視したいなあ、その方がよほど会話が生き生きするのになあ・・・私のこだわり、習慣が頭をもたげてくるのです。今なおその繰り返しで、内心まだたたかっている最中です。
もし、MNEMOさんのこの物語が、今後出版されるということになるなら、MNEMOさんが判断され、原文通りにされるでしょうから、今は単に「勝手な私的編集」としてご容赦を願うことにしましょう。

考えて見ると、簡単なようで難しいこの句点のつけかた。多分、学校でつかう教科書はすべて「・・・・。」となっているはずです。たとえば、いま私が高校生と一緒に読んで感想文を書いてもらっている三省堂の「高校生のための批評入門」では、会話の終わりには必ず句点がつけられています。一方、単行本で出版されている小説(要するに商業出版物)などでは「・・・」となっています。どうしてこんなことになるのか。
この際と思って、いろいろ調べてみると、日本語の表記法に関して昭和21年(私が生まれた年ですぞ!)に当時の文部省教科書局調査課国語調査室で作成した「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」が統一の基準になっているようです。従って、それ以後の公用文書、教科書などはこれに従って表記が統一されているというわけです。
これに対して、商業出版の編集現場では、「閉じカッコの終わりの括弧はそれ自体文末を示すことが明らかなため、文末の句点は省略する」という動きが昭和20年代からすでに出始め、今ではこの慣行が主流となっているということもわかりました。
「ライトノベル作法研究所」の主宰者の方のホームページでは、同様の質問を<国立国語研究所>にしたところ、次のような返答があったことを紹介しています。

最近の小説は会話文が多くなり、規定の表記法で句点を用いた文章を書いてしまうと、テンポが悪くなる上、ダイナミックに表現する事が困難になる。
親しい友人や恋人に手紙を書く際にも、堅苦しい表記法を用いれば思いを伝えにくくなるし、表記法の押し付けになりかねず失礼に当たる。
句点に囚われず、表現しやすい文章を心掛けて欲しい。


結局、どちらにするかは好みということになってしまうように見えますね。結論として、役所やビジネスなどでの公式文書でない限りは、会話文の流れ、テンポ、リズムその他を考え、最も適切なスタイルをとればよいということになるのでしょう。
英文での会話では、引用符「“ ”」あるいは「‘ ’」を用いて、その中の文末には必ずカンマ「,」またはピリオド「.」がつきます。
池田で知り合い10年近く前に亡くなった大久保さんから引き取った蔵書のうち、Lady Chatterley's Loverでは‘ ’、The Hunt for Red Octoberでは“ ”という調子。

‘You'll regret it,’she said.
‘I shan'nt,’cried Connie, flushed red. ‘He's quite the exception. I really love him. He's lovely as a lover.’
 ( Lady Chatterley's Lover PENGUIN BOOKS p.249 )

ただし、この本を引用したのは興味本位ではなく、Richard HoggartがIntroductionで書いているごとく、次の一節に同意するからです。

Lady Chatterley's Lover is not a dirty book. It is clean and serious and beautiful.

MNEMOさんは「美意識」という観点から句読点の付け方に配慮されている、と先ほど紹介しました。だとすれば、それに対してあれこれ注文をつけたりするのは失礼というもの。
ささいなことに見える句点の付け方について、いろいろと学ばせてもらったことに感謝しつつ、今回は「私的編集」として、先ほど述べたことに従って私なりの編集をしていくことに致します。



  12月14日(土)
これまでずっとやらなければと思いつつ果たせなかった仕事を午後から夜にかけてやっていました。それは、過去の女川支援活動の経過を資料をもとに集大成することです。
折しもネットの仲間から、今度の買い物ツアーの資料をPDFで欲しいと言われたことがきっかけでした。ついでだと思って3.11直後からの主な資料を引っ張り出してPDF化してまとめる仕事にとりかかったのです。
それぞれの取り組みで作った資料は膨大な量にのぼります。それら全文を収録することは当然無理としても、主なものは資料として残してきたし、総括文書やまとめの報告集は欠かさず作ってきたので、あとは根気の問題。とはいえ、相当にしんどい仕事になってしまいました。
大事な資料ではあっても、個人の住所・電話番号などを載せた資料もあるので、それらはカット。役員メンバーの電話番号などは公にしているので、差し支えのないものだけに限って収録しました。本当は写真などをもっと紹介したかったのですが、時間の関係で今日はできませんでした。それでも、これだけの資料があれば、今後の活動に必ず生かせるはずです。
私のホームページのトップページに「女川支援活動」のコーナーをつくり、そこに一括してまとめました。関心のある方はご覧ください。

もうひとつ、同じような作業を昨日遅くまでやっていて、相当に目が疲れてしまいました。というのも、MNEMOさんの「トーホグマン」の編集に相当ミスがあって、それを直していたのです。MNEMOさんのこの長編にかける気迫に圧倒されつつ、多彩な学識にも魅了されながら、何とか沢山の人に読んでもらいたいという願いだけで、ようやくほぼ彼のペースに追いつくことができました。
もちろん、MNEMOさんのブログで物語をたどるというのが当然のことだし、この物語にかける気持ちは本文のみならずブログの行間を通しても伝わってくるのですから、私の仕事はあくまで補助的なものです。
ようやく章ごとに分けることができて、フォーマットもかたまったので、あとは私自身もしばらく作業を中断してオリジナルで物語の展開を楽しむこととしましょう。



  12月13日(金)
秘密保護法の次は「共謀罪」ですか。テロ、薬物・銃器取引、密入国に限って組織犯罪処罰法の改正を行うというのですが、住民のデモも場合によってはテロになりうるとすれば、さて、デモの計画を「共謀」しただけで処罰されることになりはしないか。
一旦動き出せば、機密保護法と連動して「国家機密を聞き出そうと共謀した」という名目でいくらでも処罰されうる余地が生まれますね。沖縄で普天間基地のオスプレイを監視するため基地内を覗いたり、米軍兵士に接触したりすれば、テロの事前準備とされることもあるかもしれない。
共産党や関連団体などの活動が公安警察の絶えざる監視のもとにあることは衆知の事実ですが、これらの法律と連動すれば、「戦争反対」を国家に対する犯罪とする弾圧立法に化けることもありうるわけで、巧妙なでっち上げで共産党非合法化ということもいずれ射程距離に入ってくるのかもしれない。「そんなバカな」という人を掌に乗せて、この国の政治は間違いなく「戦時体制」へと加速し始めていると私には思えます。
沖縄を見るといいでしょう。政府・自民党のなりふりかまわぬ介入で、自民党の県連が辺野古容認に変わりました。2月の市長選での公約で「国外・県外移設、無条件閉鎖撤去」と言っていた浦添市長がこの10日には理由も述べずに名護市辺野古移設を事実上容認する意向へと態度を変えましたね。政治の力学は永田町、霞ヶ関を中心とした中央だけで閉じるのではありません。むしろ、普段目には見えないところでさまざまな利害関係、人間関係を利用して巧妙に仕組まれていくものだと今更ながら驚きを禁じ得ません。
自助を土台にして、雇用の流動化、福祉・医療の切り捨て、増税の押しつけ、国家財政の大企業への奉仕を続ければ続けるほど、国民の間には深い矛盾が蓄積されます。こうして、経済的に新自由主義、弱肉強食の政策を取るとすれば、求心力を何かに求めなければならない。
その1つが国家主義の強調です。とりわけ、教育の分野で教科内容の統制と自治体の首長・教育長への権限集中による学校現場への管理強化制がすすんでいくのでしょう。息もできないような状態がつくられつつある。
マスメディアは、確かに特定機密保護法についてはかなり危機感を持って危険性を指摘し続けてきました。しかし、問題はそこにだけあるわけではありません。全体として国民の目・耳・口をふさぎ、行動をしばり、自らに都合の良い社会体制を作ろうとするさまざまな動きすべてに監視の目を光らせる必要があることを肝に銘ずべきです。

折しも、北朝鮮では金正恩の叔父とされる張成沢(チャン・ソンテク)氏を死刑にしたニュースが衝撃を与えました。独裁政権の常で、自らに都合のわるい勢力はいかなる理由をつけようが粛正し純化をはかる。これは今にはじまったことでありません。
北朝鮮でもすべての人々が洗脳されているわけでもないわけですから、おそらく今回の出来事が国内の矛盾を一層深め、破綻への道を早めていくのではないかと私は思います。
日本の支配層にとっては、北朝鮮がどうなるかには関心はなく、むしろアメリカとの軍事一体化を進めるために利用するだけ利用することに全力をあげるでしょう。すぐ近くに何をするかわからない国があるというのは不気味ですからね。全く都合のいいときに都合のいいことが起こるものです(もちろん権力側にとって)。
事実、時期中期防に来年からの五年間でオスプレイを含む大量の兵器を導入することを決めたと報じられていました。

2014年度からの5年間でオスプレイ17機を導入すると明記し、離島防衛強化のため無人偵察機3機、水陸両用車52機の新規購入も明示した。
他に大砲を備え戦車と比べて軽量で空輸ができる「機動戦闘車」を99両整備するほか、最新鋭ステルス戦闘機を28機購入。
中期防は初めて策定される外交・安全保障政策の包括的な指針や、新たな防衛大綱とともに閣議決定される。(12月13日琉球新報)


これって、中国・北朝鮮の脅威に備えるという名目のもとでの明らかな軍備増強、それも「質的な」強化じゃありませんか?
私たちは、この行き着く先が、「戦争できる国から戦争する国へ」という道であることを敏感にかぎ取り、どんな小さな現れにも抵抗し続けなければならないのではないでしょうか。



  12月11日(水)
毎日朝は零下5度近く。もう霜が降りてもビックリしなくなってしまいました。
外ではスズメの鳴き声がかまびすしい。主がいなくなったお隣の庭先の小さな木がスズメの止まり木になっているらしく、いつも鈴なりになって、ひっきりなしに何かおしゃべりをしているのです。それがまた止むことがない。カラスが来ようがおかまいなし。しかし、私がちょっとでも近づこうものなら蜘蛛の子ならぬスズメを散らすように逃げてしまいます。ものすごいスピードです。でもお互いぶつかることはありません。小魚の大群の泳ぎ方とおそらくはほとんど同じなのでしょうか。複雑系に関する本で、ある簡単な条件を入力するだけでこのような集団的な移動が実現出来るというのを読んだことがあります。またネット上でもある数学者による解説の映像が紹介されているのを見つけました。ここでも収録されていますが、鳥たちの大群の飛び方は本当に驚異的です。
下は「スズメのなる木」。いつもは木に花が咲いたようにとまっていてもっとすごいのです。


妻が帰宅して、お土産やら日用品やら沢山の荷物の片付けも終わって、またいつもの生活が戻ってきました。食事の準備は妻が帰ってきた翌日までは私がやっていましたが、あとは妻にお任せ。「たまにやってね」と言われてもねえ。ま、気が向いたらやることにしましょうか。

最近話題の1つは、ユネスコが日本政府推薦による「和食=日本人の伝統的な食文化」を無形文化遺産に登録することを決めたというニュース。こうしたニュースに接するたびに複雑な気持ちになります。それは、「和食」がすぐれた食文化の「ひとつ」であることを認めることにはやぶさかではないとしても「日本人の伝統的な」という形容の句がつくと「???」となるということ。多分この「和食」には「オキナワ」は含まれないのだろうな・・・と。

妻に聞くと沖縄では昆布の消費量は多くても「出汁」として使われることはあまりなく、明治以降普及した「沖縄そば」も「豚出汁」が基本ですから、本土とは全く異なります。
繊細な特徴を持つ「和食」にこれらを入れて世界無形文化遺産としているわけではないはずです。それをあたかも「日本の和のこころ」などと大層に持ち上げるならば、無意識に沖縄を差別していることになると私は思わざるを得ないのです。
いっそ「ヤマト料理」とでも言うようにしたらどうか。「日本」には「ヤマト料理」と「琉球料理」とがあるのです。さらに少数民族のアイヌの食文化もあるだろう。ひょっとして地方には「和食」と異なる食文化が存在するかもしれないのです。
文化遺産に登録された「和食」について否定するつもりはないことは先にも述べたとおりですが、これを「日本」の特徴として「和のこころ」などと不用意・不作法に喧伝することには私は強く抵抗します。

折しも、「特定秘密保護法」が国会を通過したあと、安倍内閣の支持率が10%以上も下がって5割を切りました。
記者会見で安倍首相は「今後も国民の懸念を払拭すべく、丁寧に説明していく」と述べ、さらに新聞報道では支持率の低下についても「想定内」などと話したと伝えられていました。
私に言わせれば、支持率が低下したのは当たり前として、まだ40%台もあることの方が不思議でなりません。
この「丁寧に説明していく」というのが大変なくせ者。沖縄の普天間基地の「代替基地」として、最新鋭の設備を備えた新基地を辺野古に何がなんでも押しつけようというあの論法と同じ。「わかってもらえるまで『丁寧に』説明する」として、強権的に押しつけるやり方です。
「和食」にしても同じ構図ではないのでしょうか。「これは『日本の和の心』を代表する調理法なのだ、このようなすぐれた「文化」を理解できないのだろうか。理解できるまで『丁寧に』説明してあげよう」・・・もしこうした意識が意図的に作られていくとすれば、それは食文化の「侵略」に他ならないと私は思うのです。「意識的な差別より無意識の差別の方が恐ろしい」・・・どこかで言われたコトバです。やっぱり私はへそ曲がりですかねえ。

今日の信濃毎日新聞に、東京「岩波ホール」で上映されている「ハンナ・アーレント」が異例のヒットという紹介記事が載っていました。
この紹介記事では結びで次のように書いていたことが印象的でしたよ。

アーレントがアイヒマンの中に見た「凡庸な悪」は私たちの中にもある。アイヒマンと私たちは地続きであり、そこから逃れるには「思考する」しかない。アーレントの危機感はそのまま現代の日本に通じる。

以前「東京に見に行こうか」ともこの日記で書いたことがありましたが、新聞では「連日列が出来るほどの満員状態」とも紹介されていましたから行っても見られたかどうか。幸いにも1月31日松本市民芸術館で上映されるということなので、これは是非見に行くことにしましょう。
問い合わせると、スワンガーデンの平安堂でも前売り券を扱うということ。みなさん、是非見に行きましょう。



  12月8日(日)
ちょうどお昼時、池田に戻ってきました。妻は2ヶ月ぶりの我が家、開口一番「なつかしいわあ」と言っておりました。
昨日は慰労と結婚記念日をかねての温泉一泊で、昼神温泉で羽根を伸ばしてきました。沖縄では温泉もないだろうし、ゆっくりと風呂に浸かるということも出来なかっただろうから、ちょっと奮発したのでした。
寒い時期でしたが、関西や名古屋からの団体客を含め、たくさんの人で賑わっていたのでびっくり。寒いからこそ忘年会や慰労会をかねての旅行だったのでしょうか。
大阪では、昨日朝5時半に宿を出て南港フェリーターミナルへ。船がちょっと早く着いたというので、7時前には乗り場前で落ち合うことができました。
ところがそこからが大変。地図や航空写真で事前に十分高速道路の路線を調査研究していったはずなのに、いざ湾岸線に乗って豊中ジャンクションに向かおうとしたら、車がひしめいてしかもものすごいスピードで走っている。右路線、右路線と思って走っても、各ジャンクションでは瞬時に行き先を見極めて路線変更しなければならず、恐ろしいことこの上ない。大阪市内の途中までは順調にいっていたのに、どこをどう間違えたかこれまた一瞬の判断ミスで、結局また振り出しに戻ってきてしまったのでした。これじゃ大事故がいつ起こっても不思議ではありません。
怖くなって、途中から高速をおり、ナビに従って一般道から豊中に向かうことにしました。ナビも途中で分からなくなって黙りを決め込み、何度か行き先を入れ直して約2時間かけてようやく豊中インターへ。事故もなく名神に入れて本当にホッとしました。もう2度と大阪府内の高速には乗りたくない。

それからは順調。天気も良くゆっくり走って長野県に。恵那山トンネルを過ぎた直後の園原インターでおり、そこからちょっと迷いながらも無事温泉宿に到着しました。着いてみれば妻が春に花桃を見に仲間達といっしょに来た場所だったというので、「なあ〜んだ」というなじみの昼神温泉郷。私はそうとも知らず、妻には内緒で勝手にネットでさがして適当に申し込んでおいたので私もびっくり。なかなか賑わっている温泉郷の1つのような印象でした。





  12月6日(金)
日本国憲法が音を立てて崩れていくという印象を持った人は私だけではないでしょう。自民・公明の暴走が歯止めを失ってきています。
「審議は尽くされた。どこかで決断しなければならない」などという言い訳が通用するはずもない、恣意的にどうとでも秘密の指定が出来、しかも指定した当事者が「監視」するという危険きわまりない内容で、アメリカとは秘密の情報共有は行うが国民には永遠にその内容を教えない、むしろ知られないように国民を監視するという日米軍事同盟のための法案です。
今日もし参院本会議で「特定秘密保護法案」を強行可決するのであれば、自民党、公明党は日本を「ブラック国家」に導いた日として記憶されることになるでしょう。まさしく巨大与党による「日本型ファシズム」へのさらなる一歩といえます。こんなことを許していいわけがありません。

しかしまた、同時に国民の側から、このあと安全保障基本法制定、武器輸出、自衛隊法改正、そして憲法改正へとつながる道に立って「こんなはずではなかった」「私はだまされていた」などと再び言ってはならないのです。
先日の信濃毎日のコラムだったか、伊丹万作さんの「戦争責任の問題」という一文をとりあげていましたが、私自身もいまもう一度この一文に戻る必要があると思わざるをえません。テレビも「特別番組」を組むわけでもなく、相変わらずの娯楽番組しか見当たらないご時世。本当にこれでいいのですか。

さて、今日は国会周辺、日比谷野音を中心にさまざまな法案反対、抗議行動が予定されているようです。私は残念ながら昼頃から大阪に妻を出迎えに行かなければならないので、大阪のどこかで抗議の意志を表明することにしましょう。

南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領が今朝未明(日本時間)に亡くなったという報道がありました。
人種・民族間の和解政策の一端については、映画「インビクタス/負けざる者たち」で描かれたし、その人となりは「マンデラの名もなき看守」でも描かれており、世界中から尊敬を集めている指導者でした。
世界の歴史に逆行するかのような現在の日本の状況を見るにつけ、ネルソン・マンデラの不屈のたたかいに学ぶところは本当に多いと思うのです。ご冥福を祈ります。



  12月3日(火)
石破さんの「テロ」発言にはちゃんと特定秘密保護法案の中に根拠があったのですね。条文をろくに読んでいなかったのを恥じ入りました。さすが自民党幹事長、石破さんに感謝しなくっちゃ。

特定秘密保護法案第五章第十二条2の一に「特定有害活動」と「テロリズム」の「定義」が書かれているのです。
この第五章というのは、特定秘密を扱う者への「適正評価」について規定した条項で、その際どんな調査を行うかを決めたものです。その中の条項に、このテロリズムがどう「定義」されているのか、私もしっかり目を通してみました。

テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう)

29日の毎日新聞社説は、この定義をめぐって、条文半ばに規定を「忍ばせている」ことやあまりにも規定があいまいであることを指摘し、「こんな乱暴な定義では特定秘密の対象が広がりかねない。参院の拙速審議は許されない」と強調していました。

上の「定義」を読めばわかるように、
政治上その他の主義主張に基づき、
@国家若しくは他人にこれを強要し、
A社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、
B重要な施設その他の物を破壊する

この3つが「テロ行為」に該当するっていうわけです。「又は」というのはそういう意味です。

しかし、ですね。毎日社説によると、国会審議での森雅子担当相の「解釈」は異なっている。「目的」が2つあって、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し」「又は社会に不安若しくは恐怖を与える」がともに「目的で」にかかるというのだそうです。
国語的にはそれはおかしい。「強要し」のあとに読点「、」がなければまだしも、こうはっきりと区切られていれば、普通は3つのうちのどれかというように読めてしまうでしょ??

私たちが通常使っている「テロ」に即していえば、「強要」するだけでテロというのは不自然で何らかの物理的な破壊活動と結びつくと考えますよね。だから、条文の書き方から離れて考えてみれば森さんの言うこともそれなりの理屈ではある。それは私も認めますよ。
残念ながら、どう転んでも条文上はそうはならない。ここが肝心なのです。
「それならなぜそうとわかるように書かないのか、こんな条文の書き方では恣意的な解釈の余地を残し、かついくらでも拡大解釈される」という毎日の主張にはたいへん重要な意味があるのです。

さらに、「ふつう」に読めば、「強要し」「殺傷し」「破壊する」という動詞はすべて「ための活動」にかかっていきます。
毎日が指摘しているように、「ための」となれば「準備段階も対象になる」んじゃないか・・・全くその通り。自民党いや「官僚」の方々、ひょっとしたら戦前の「軍機保護法」、「国防保安法」を参考に頭をひねったんですかねえ。

石破さんも、このこれらのことが十分頭のなかに入っているので、ついホンネを口走ってしまった・・・というわけでしょう。
確かに条文「解釈」上は石破さんの方が正しい。べつに人を殺傷しなくても「絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」ってね。声がデカい人、気をつけましょう。



  12月2日(月)
今朝は多分マイナス3度くらい。凍り付いた窓にお湯をかけてとかさなければならない季節になってしまいました。その分、夜空には満天の星。オリオンと北斗七星くらいしかわからない私にはただ美しいと見えるだけなのが悲しい。調べればいいのにね。

今日は先月末の石破幹事長の「(特定秘密保護法案反対デモの)絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」というブログでの発言がニュースで大きく取り上げられていました。今日のブログでは「本来あるべき民主主義とは相容れないものであるように思います」と「修正」されていましたが、その修正も29日の記載に抹消線を引いて、今日それを別の言葉に置き換えるといったたぐい。べつに反省しているわけでも、間違ったと思っているわけでもないことは明らかです。

石破さんのいうことを「素直に」受け取れば、「右であれ左であれ」ただ絶叫するだけのデモが支持をえられないことは明らかなことです。
しかし、こと秘密保護法案については、衆議院委員会での強行採決を経て、それに講義するとすれば当然声も大きくなるというものでしょう。国会周辺では、中に聞こえないようなしめやかなデモをやるわけにはいきませんね。
世論が大きく廃案にかたむき、弁護士、ジャーナリスト、文筆家、その他あらゆる階層の人たちが反対の声を上げ始めたときに、抗議の声を「テロ行為」としか見えない石破さんの意識構造は、あのいつもの「一般論で自分たちの暴走行動を弁護する」というやり方です。
自分たちの「民主主義に従わない」やり方には目をつぶり、市民の権利である示威行動に最大限の悪罵を投げつける手法こそ、特定秘密保護法案の狙っていることではないのでしょうか。
石破さんの沖縄や特定秘密保護法案についての考えを読んでいると、今日の信濃毎日が山田洋次監督へのインタビュー中の話として紹介している、旧ソ連圏のジョークも本当に思えてきます。

「最高指導者はバカだ」と話した人が逮捕された。
逮捕の理由について、「これは最高指導者に対する侮辱罪か」と尋ねると、
「国家機密を漏らした罪だ」と告げられる・・・。


昨日は、昼頃から3時過ぎまで「ゆうきの里池田」主催の「芋煮会」に参加しました。
今年の4月に発足した有機無農薬農業をめざすこの会のメンバーをはじめ、大勢の支援者らが集まり盛大でした。顔ぶれば実に多彩で、農業を専門にやっている人から、趣旨に賛同して家庭菜園の延長で有機農業に取り組む人、将来農業で生計を立てようと考えている若い人など。
この会では休耕田を借りて共同農園を始めており、無肥料無農薬でも300キロの黒豆が取れたとか。実績を積んで、作物をブランド化し、確たる基盤を築いてほしいものです。




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