ゼロ・トレランス(不寛容)というコトバをご存じだろうか。これは今から20年前にアメリカで始まった教育方針の1つで、当時学級崩壊、犯罪の多発に手を焼いた学校現場、政府が編み出したもの。
「校内での行動に関する詳細な罰則を定めておき、これに違反した場合は速やかに例外なく罰を与えることで生徒自身の持つ責任を自覚させ、改善が見られない場合はオルタナティブスクール(問題児を集める教育施設)への転校や退学処分を科す」(Wikipedeia)、すなわち逸脱行為には厳罰で臨み、生徒を有無を言わさず従わせるという教育方針です。「1994年にアメリカ連邦議会が各州に同方式の法案化を義務付け1997年にビル・クリントンが全米に導入を呼びかけ一気に広まった」(同)のだそうです。
なぜこのようなことを書いたかというと、先日の「しんぶん赤旗」の「子ども教育相談」のコーナーに、愛知県の小学校でこれに関連する事態が広がっていると書かれていたからです。
保護者からの相談は「教師たちが○○しろ!と怒鳴り散らしている。担任がすごく厳しいと子どもが言う、学校で何が起こっているのでしょうか」というものでした。
これに対して回答者は、学校現場で広がっている現状について驚くべき事実を指摘していたのです。
第1次安倍内閣のとき、教育現場に「ゼロ・トレランス」という方針が持ち込まれ、生徒指導の1つの柱になっています。「規範意識の醸成」や「毅然とした対応」という言葉で子どもたちに懲戒や出席停止という厳罰主義で臨むというものです。
問題を抱えた生徒に対し、問答無用でだまらせる、決められたやり方に沿って行動させることが現場で横行しています。
教職員の管理体制強化は折に触れて聞いたり調べたりしたことがありましたが、教育方針としてこんなことが起こっていたなんて全く知りませんでした。
これは言い換えれると「軍隊方式」ということですよね。上官の命令は絶対であり、それに背くことは許されない。規律を破ることは、学校という組織を乱し破壊することにつながるのだから、ささいなことでも見逃すわけにはいかない、というように。
いろいろ調べてみると、日本では2000年代の初頭からすでに文科省で導入にむけて研究が始められていることもわかりました。
もっとも、アメリカでこのゼロ・トレランスが導入されるには、割れ窓理論などというそれらしい理屈がつけられていたようです。ところが日本では、第1次安倍内閣による「教育基本法」改悪のま柱の1つである「規範意識」の植え付けと呼応する形で容易に取り入れられたと思われます。
一方の教育現場でも「いじめ、暴力、不登校」などで「荒れる」学校の対策として受け入れられる素地は準備されていたと見ることができます。
しかも、この方式は上意下達体制ですから、学校での管理体制の強化と極めて親和力がある。
さらにもうひとつ、この考え方自体もとをただせば製造業での品質管理からきたもの。PDCAサイクルだって全く同じです。そこでは、生徒は良品・不良品の区別をつけられ管理されるる商品なのであって、人格の全面的な発達を保障させる対象としての人間ではありません。
ところが、実際にこの方針を正面から掲げて実践している高校があるのですね。そのホームページの「ゼロトレランス方式の生徒指導」には、次のような記述がありました。
学芸館では、責任教育の一環として、権利と義務、自由と責任を真に理解するために、独自のゼロトレランス方式を生徒指導に導入しています。生徒と保護者の意見を参考に作り上げたもので、生徒自らが自らを律するものです。たとえば校則を細分化し、違反した生徒には段階的に指導を行ない、自覚を促します。また、定期的に全生徒が高校生活全般 を自己評価し、努力した生徒を表彰しています。生徒は、快適で楽しく充実した生活を送るために、果たさなければならない「義務」と「責任」を理解し、目覚ましい成果を挙げています。
なるほど、どんな方法にも表向き「成功」例はあるものです。
ところで、この学校の教育目標が「清明、正直、誠実を中心とする日本人精神を継承し、健康な身体と健全な精神を備え、世界に通用する知性と教養を持った人材の育成を目指します」であり、学園の信条6箇条として「礼儀を身につけ、感謝と協力を実践する学園」「郷土を愛し、愛国の心を大切にする学園」を掲げているのですから、私学の方針としては何となくわかるような気がします。安倍さん大喜びの学園ですね。
「ある私学でこの方式で成功しているから」などと、この方針を合理化できないことは言うまでもありません。目の前の事象の複雑さ、困難さを教職員集団の努力で解決するのではなく、「ゼロ・トレランス」などという横文字で解決しようなどというのは本末転倒というだけではなく、全く教育の条理に反するものではないのでしょうか。