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  8月30日(金)    
ここずっと家の庭の手入れを怠っていたために、草は生え放題、夏野菜は枯れひどい状態になっていました。今日から2,3日ちょっと時間ができたので、ようやく手入れを開始。暑い中を午前中奮闘、疲れてちょっと昼寝して、さて改めてと作業をはじめたら雨が降ってきた。
被害が出るほどの豪雨になっている九州、北陸。海温が30度を超えサンゴの白化が加速している沖縄、雨が降らずにダムの水位が上がらない首都圏。高齢の方が「こんな経験をしたことがない」と思わず口にするような事態が多すぎませんか。このままいけば、さらに思いがけない災害が襲ってくるのでは無いかと心配です。

昨日はいつものバラ園の手入れ日。なかなか10人を超えられませんが、それでも毎回せっせと通って草取りや花がら摘みをやっているおかげで、それなりにガーデンらしい形を保っています。
集まってくる人は、作業した後のおしゃべり会が何よりの楽しみなのかも。漬け物やお菓子、果物などいろんなものを持ち寄って、作業している時間より長いティータイム。これが長続きする秘訣かもしれませんね。






  8月28日(水)    
昨日は町の社会資本総合整備計画策定をめぐる委員会がありました。それにむけてあれこれ準備をしたりしていて結構忙しく、夕べは早めに寝てしまったら今朝は5時前に目が覚めてしまった。夕方から仕事をする生活に慣れた私は、午後からはたいてい昼寝。そうしないと夜の授業で頭が動かないことになって困るのです。
ま、それはともかく、朝夕はずいぶん涼しくなりました。夜には虫の音がうるさいほどになり、山もくっきりと浮かび上がるようになりました。稲の穂も少し色づいて頭を垂れ、収穫の近さを知らせています。

このところ話題となっているのが、松江市の教育長による「はだしのゲン」の閲覧制限要請の問題。教育委員会によって軌道修正されたとはいえ、重大な問題を投げかけています。
私の手許には、その漫画全10巻が積んであります。奥付によると1975年初版で83年第34刷とありますから、子どもたちが小学生の頃に読んでもらおうと買ったもので、確かにでっかい名前がまだ本の後ろに貼り付けてあります(7巻目だけは紛失してあとから補充)。私自身も当時何回か読んだことがありますし、数年前には実写版が放映され何度か観た覚えがあります。


今日の信濃毎日新聞社説では、教育長の権限強化という安倍政権の政治介入の危険性を、松江市教育委員会の「閲覧制限要請」問題を例にあげて批判しています。
この経過はすでによく知られているとおりですが、信濃毎日の記述によって整理すると次のようになります。

松江市のひとりの男性が「ゲン」の歴史認識を問題にして学校の図書館からの撤去を求める陳情を市議会に出したというのが発端で、市議会が不採択にしたものの、一部の議員から「過激な文章や画が多い」との声が出たことに事務局が反応。教育委員の会議にかけずに、当時の教育長の判断で公聴会に閲覧制限を要請した。

ある週刊誌によると、この男性は「歴史認識を問題にしたのに、表現の問題とされた」とその意図がねじまげられたことに不快感を表しているとのことですが、どっちもどっち。
橋下大阪市長は「メディアが騒いで、教委が決定した事項をひっくりかえし、教委の独立性を完全に脅かし」たと報道機関に責任転嫁、教育行政を首長のもとに置こうとする意図を隠しません。
もともと、この「ゲン」は中沢さんの実体験にもとづいて、アシスタントを一切使わず自分で描いたものですから迫力が違います。
軍国主義下の日本で、どれだけの人権無視、暴力、非合理な強制があったか数知れません。それをそのまま描けば「歴史認識に問題がある」となる。これは松江市のひとりの男性だけの特異な例ではありません。東京、大阪をはじめあちこちで起きている教育委員会による教科書採択への干渉がそれを物語っています。権力に不都合な記述はすべて国民の目から消し去ろうとする。侵略戦争を否定し、「自尊自衛」と美化し、やむをえなかったと合理化する。国際的に通用するはずもない「特異な歴史認識」こそが否定され克服されなければならないのに、この国ではまるで真逆のことが堂々とまかり通っていく。
要はそれで利益を得る方々、それでないと困る方々がいらっしゃるということです。言論ならば言論で克服すればよい。しかし、その「特異な歴史認識」にとどまらず、集団的自衛権の容認、憲法9条の改変とつながっていけば、単に認識の問題にとどまらないことになります。
それを隠すのが「表現に問題がある」とか「過激だ」「自虐的だ」という言い方。多分ろくに全てのストーリーを読みこむことなく、都合のよいところを取り出してそのように言うのでしょう。子どもたちの方がよほど鋭く本質を見抜いてくれています。それだからこそ世界各国にも翻訳されてベストセラーであり続けているのです。
軍国主義下の日本で、どれほど庶民が辛酸をなめさせられたのか、苦しめられたのか、そのことを子どもたちの世代に語り継いでいかなくてどうして世界の国々なら信用されるのでしょうか。



  8月22日(木)    
暑い中、恒例のバラ園の整備作業を行いました。お盆をはさんで2週間ぶりだったこともあって、バラが植えてあるところといわず周りといわず草だらけ。おまけにバラにはカナブンが黒山のようについていて近づくと逃げ回るし大変でした。これから少しずつ時間をかけて整備するしかありません。
バラはまだ結構花をもっていて、咲いたあとの花がらをしっかり摘めば11月頃まで花を楽しめますから、とにかく手をかけてやることです。
9時頃から作業をはじめても11時頃にはもう暑くてみんなフウフウ。我が畑でとれたスイカを水場で冷やして食べました。甘さは控えめでも水分はたっぷり。喜んで食べてもらえたので持ってきたかいがありました。


帰りがけに畑によったら、ここも草だらけ。その中でスイカがまだごろごろ。もうすっかり茎の部分が枯れてゴロンとしていたので、収穫して帰りました。果たして味はどうなのか。
マクワウリもツルが枯れかけているのがあり、これも収穫。まだ20〜30個ゴロゴロしています。また、冬瓜も大小あわせて15個ほどが転がって、白くなっていました。これはもう少し経たないと冬まで保存できないので、あと1〜2週間はそのままにしておきます。
いずれにしても、もうちょっとしのぎやすくならないと仕事になりませんね。






  8月21日(水)    
今日の新聞でも報道されていましたが、エジプトで博物館の収蔵品がことごとく略奪されたというニュースを聞くにつけ、人々の心が荒んでいったときにどこまで浅ましくなるのかを如実に示しているように思われます。そのとき、思い起こすべきなのは、たとえ侵略された側の人々であっても、その品位を失うことなく「人間らしさ」を発揮できた人たちがいたと知ることは、とても勇気を与えられることです。

前にも紹介したことのある「A Constiracy of Decency」をゆっくりと読み直しています。このままでは1年以上かかるかもしれませんね・・・。
エミー・ワーナーさんによるこの本には、ナチス・ドイツに占領されたデンマークの人たちがどのように振る舞ったのかを証言に基づいて詳しく掘り起こし、多数のユダヤ人を隣国スウェーデンに逃がした経過がつぶさにレポートされています。
実は、この本には、「Prologue」として日本語版にはない全体の簡潔な要約がつけられており、1つの手引きを与えています。その中に次のような記述をみつけてあらためて驚かされました。
デンマークの名もなき無数の市民たちがユダヤ人を隣国にただ逃がしただけではありません。当然、それまで隣人として生活を営んでいた家や財産、ペットたちもそのままにして、着の身着のままで逃れざるを得なかったのですから、戦争が終わって帰国した際にいままで通りの生活ができるのかどうかそれは心配だったでしょう。日本ならば「火事場どろぼう」のような事態も想像されるところです。

Toward the end of May the Danish Jews began to return from Sweden. Most found their belongings intact, just as they had left them eighteen mouths earlier. Their homes and apartments had been cleaned and painted, their pets and gardens had been cared for, and their neighbors greeted them with flowers and "Velkommen til Denmard!"

8ヶ月経って帰ってきてみると、家やアパートはきれいに掃除され塗り直され、庭は手入れされペットまで世話が行き届いていたというのです。そして、近所の人たちは花束を贈りながら「ようこそデンマークへ」と心から歓迎してくれたのでした。
この本の第8章では、さまざまな証言によって、デンマーク中で類似した行為が普通のことのように行われていたことを明らかにしています。
そして、第10章では、ナチスによるホロコースト下にもかかわらず、何ゆえにデンマークの人たちがこのような行為をなしえたのかに迫ろうとしています。

Regardless of their nationality, social class, level of education, or religious and political persuasion, they shared one important characteristic. They defined their humanity by their ability to behave compassionately. They did not consider their actions heroic--they simply thought it was the decent thing to do.

デンマークの人たちは、いっしょに住む人々の「国籍や社会的地位、教育の程度、宗教や政治的信条などに関係なく、ひとつの大事な特性を共有していた」とワーナーさんは書いています。
compassionatelyというのは深い思いやり、同情を意味します。デンマークの人たちは、人間らしさというのは、思いやりをもった行いをできるのかどうかだととらえていた。だから、自分たちの行いはべつに英雄的な行為でもなんでもなく、ただ人間として品位ある行いをしたにすぎないと考えていた、というのです。
一人二人の行いであれば、それはどこにでもあることでしょう。そうではなく、デンマーク中でこれが見られたとすれば、いったいそれはどのようにしてもたらされたものなのでしょう。

第1章では、デンマークが深夜突然ドイツ軍が侵入するところから話がはじまります。当時、デンマークはドイツと不可侵条約を結んでいました。それを破って侵略してきたのです。市民は寝静まっていて起きてみたらまわりはドイツ兵だらけだったというわけです。
デンマークはその日の早朝にドイツの降伏要求をすぐに受け入れ、国王は全軍に戦闘停止を命じます。朝、部分的に起きた戦闘で、デンマーク軍の死者13名、負傷者23名、戦闘機1機撃墜というだけで、ほとんど無抵抗でドイツ軍の支配下に落ちたのでした。
その後、ドイツは「デンマーク王国の存続、陸海軍の維持、国民の自由の尊重、デンマーク国家の独立を保障する」と確約をしますが、それが偽りであることはまもなく明らかになります。そして国中で悪名高いユダヤ人狩りへと事態は急展開していきます。
そのとき、デンマークの人たちの中で何が起こったのか。・・・
というわけで、現在第1章の始めのデンマークの人たちのユニークなレジスタンス活動について読んでいる最中。いずれまた感想を記すことにします。



  8月20日(火)    
メインマシンの故障の原因はやっぱりグラフィック・ボードの不具合だったようで、やむなく中程度のボードを新規に購入して付け替えたところ無事復元しました。グラフィック関連の故障はほとんどないので、メインマシンでこんな故障が起こると困ってしまいます。ときどきブルー・メッセージが出るので、他にも不具合の原因があるのかもしれません。

今日は朝から晩まで、パソコンに向かって町の計画素案に対する修正案を図面に落としていました。中村さんの原案をもとに、部屋の間取りや公園の平面図を描く作業ですから、なかなか根気がいります。
それでも、完成してみると、なかなかよくできた図面になりました。まだ二人の原案の段階ですが、ともかくご覧いただきましょう。そして、町の素案を含めて大いに議論を起こしてほしいのです。この町の行く末を考えたときに、一体いまどうすることが最もふさわしいのか。

交流センター平面図
アップルランド跡地利用図

町の素案では、アップルランド跡地に公民館、図書館などを合わせて交流センターとして建てることになっています。私たちの案は、現在地で現図書館と接続して一体の施設とした交流センターを建設するというもの。
ちょっと見では、場所がアップルランド跡地か現在地かの違いだけに見えます。また、アップルランド跡地に建設する場合は商業エリアにつくる買い物の場と相乗効果が期待できるように思われます。
ところが、アップルランド跡地に建設する場合は、次のような問題に遭遇することになります。

第1は、建物で占める図書館の面積です。修正案は既存の施設も利用するので、圧倒的に広い面積となり、しかも閲覧室を交流センター内につくるために、利用しやすい環境が得られることです。
町の素案では、1階、2階合わせて600uですから、1階をフルに閲覧室にするとしても、学習室や休憩室、書庫、児童図書を確保することは極めて難しいことになります。
町の素案(土地利用イメージ図)による面積
 交流センター図書館
1階1,1303001,430
2階200300500
1,3306001,930

修正案による面積
 交流センター図書館
1階5005601,060
2階750230980
1,2507902,040
修正案で、1階の交流センターが500uとなっているのは、1階に330uの図書館の閲覧室を入れるため。 従って、図書館閲覧室を含めた交流センターの新規建築総面積は1,580uとなる。このため素案の総面積より100u程度広くなる。

松川村「すずの音ホール」
 すずの音ホール図書館
1階1,435.25702,005.2
2階831.59 831.59
2,266.795702836.79

第2は、吹き抜けのホールを作るとすれば、1階1,130uのうち400u〜500uはホールに取られるので、残りは630〜530u。2階の200と合わせて900u程度で会議室やその他の部屋を用意することになります。修正案とほぼ同じ面積ですから、「交流センター」と銘打って、子どもの遊びのスペースや広いギャラリー、コミュニティ広場など、過去の策定委員会で提案されたような設備を入れることはほとんどできなくなることに注意しなければなりません。
修正案では、その点は割り切って基本は公民館機能を充実することとしました。子どもの遊びは図書館の機能と一体として2階に確保、ギャラリーは1階玄関ロビーと一体にしてとり、比較的ゆとりのある作りにしてあります。素案で特徴を出したいとすれば、総面積を広くするか、廊下などを狭くしゆとりをなくするか、または修正案と同じように、2階に講堂を作る他はありません。
要するに、これだけの建築面積でいろいろなことを盛り込もうとしても土台無理だということ。この際、できるだけいいものにしたいというのなら、建築費用は1〜2億円さらに増えることを覚悟しなければならないことになるでしょう。

第3は、既存の施設をどうするのかという問題。
素案は、現図書館を資料館にするとしているために、当然、資料館、浅原記念館を管理する要員(学芸員)とかなりの管理費が必要なります。現在の浅原記念館を見ても分かるように、この種の施設に人を呼び込むことは現在の池田町の力量ではまず無理でしょう。結局無駄な施設を放置する可能性が極めて高い。素案はこの点について何も触れていません。見通しも述べているわけではありません。単に必要性だけから出発することは厳に戒めなければならないのです。
その点、修正案は、現在の図書館を利用するわけだし、同時に浅原記念館も交流センターと一体運営するように配置をしますから、管理上も全く問題が生じません。
なお、現在の教育会館に保管されている民俗資料は、一定部分を図書館に保管、残りは福祉会館の一室を利用して保管することが可能です。

第4に、環境の問題。素案のようにアップルランド跡地で周りに駐車場をつくるとすれば、結局すべてコンクリートで埋め尽くされ、緑地帯はほとんどとれないことになります。アップルランド跡地に交流センターを作る場合には避けて通れない問題です。
修正案では、教育会館跡を駐車場とすることで30台程度のスペースを確保できるので、よほどのことがないかぎり現在の役場前の駐車スペースを利用することで当座を乗り切ることができます。
将来役場の移転が現実の問題となったときには、広い駐車場が確保されるでしょうし、場合によっては新図書館および創造館にかわる文化ホールを交流センターに隣接して建てることも可能となるでしょう。

続いて、アップルランド跡地の利用について。
修正案では、公民館現在地にそのまま建て替えることを提案し、アップルランド跡地には商業施設に隣接して町民が憩え、子ども達も安心して楽しく遊べる公園をつくることを提案しています。
策定委員会では「公園にするにはもったいない」という意見がありました。町の真ん中にある広い公園の役割を、その程度に見ているのであれば、交流センターすら必要はないといえるのかもしれません。おそらく、町なかにあるこの種の公園を体験したこともなければ、まして作ったこともない。町民が折に触れて望みながら実現しなかった希望を1つの形にしたものが、私たちの提案する親水公園なのです。桜やカエデ、四季の花々を愛でることができる場所はそうあるものではありません。また、こどもたちが水と遊ぶ場所も同様です。もっと広々としたところがあればそれに越したことはないでしょうが、基本となる形さえ作れば将来にわたって広げることも可能になるかもしれません。
町民に真に親しまれ、利用される公園にすることは決して不可能ではありません。これは池田町の文化にかかわる問題なのです。
そして、この公園を基点に町なかの修景、空き店舗の活用などをすすめることができるようになるでしょう。これは町なかの課題解決の突破口ともなる可能性を秘めているのです。

最後に、結局ここに収束せざるを得ない重大な問題。財政問題です。
結論からいえば、アップルランド跡地に図書館を加えた交流センターを建設する限り、予算は町の素案で納まる保証はどこにもなく、むしろ際限なくふくれあがっていく可能性があるということです。おそらく議論を交わせば交わすほどそうなるでしょう。
この問題だけに焦点をあてて、どうするかを考えれば必然的にそうならざるを得ません。なぜなら、「せっかく建て替えるのだから」です。
修正案の立場は、将来につけを残さないことはいうまでもなく、自制的に予算を使い、同時に将来にわたって計画的に第2次、第3次の計画へと高めていく展望を示していることです。
役場の皆さんはもちろんですが、これをお読みの方々に是非ともお願いです。よりよい選択ができるように、どうか多面的に建設的に議論を深めていただきたいと切に希望いたします。



  8月17日(土)    
15日には母の7回忌の法事、16日にはお昼ごろ子どもたちの家族がそれぞれ帰路につき、その夜は女川町の高野さんを囲んで被災地支援のメンバーによる歓迎会。そして今日午前中は松本に泊まった高野さんを迎えに行って、お昼過ぎまで私と妻とで個人的なおつきあい。我が家でしばらく歓談したあと、穂高温泉に出かけてゆっくり汗を流し、蕎麦をたべて、松本まで送って・・・結構いそがしく過ぎていったここ数日でした。
午後からは、多少のゆとりがあるはずで、日記の更新をするはずだったのに、例のパソコンの不調で修復(不可能)とサブマシンで仕事ができるようにいろいろ操作をしていたら結局何にもできずに終わってしまった。
明日はまた、午前中から仕事、夜は町づくり懇談会の役員会とこれまた時間をとられて、20日から4,5日ようやく時間がとれそうです。

15日の7回忌は法事といっても、お寺さんも読経もなし。そのかわり、みんなでバラを一輪ずつ遺影に献花しておまいり、そのあと私が母の思い出をちょっと語っておしまいとしました。
そのあとは近くのセレモニーセンターにでかけて会食。かなり奮発したために食事が豪華過ぎてみんな悲鳴をあげる始末に。




さて、一段落した15日の夕方から空模様があやしくなり、そのうち猛烈な暴風雨に。これまで経験したことのないような雨の降り方で、1時間に100ミリくらいの強烈な雨と風。恐怖すら感じるほどでした。
明けて16日午前中、天気も幸い回復したので、みんなで畑にいって持ち帰る野菜を収穫することにしました。畑は案の定背の高いトウモロコシなどは倒れ荒れた状態になってはいましたが、作物そのものには影響はなく、たくさんの野菜を手にしてみんな満足そう。


女川の高野さんが、奥さんが原村でのイベントに参加するのを機会に滅多にとれない休暇をとっていっしょに安曇野に来るというので、一週間ほど前からご本人と打ち合わせをしたり、こちらでも準備をしてきたのでした。
支援メンバーも忙しい中を集まってくれて久しぶりの再会を喜び合い、現地の様子を聞いたり、それぞれの近況を報告し合いました。時間がないので、くわしいことがかけなくて残念。






  8月14日(水)    
相変わらず暑い日が続いています。昨日は息子夫婦が「里帰り」、夜ベランダで食事をしながら池田町の花火大会を楽しみました。


<孫もすっかり大きくなって頼もしいのはいいとして、視力が落ちて眼鏡をかけるようになってしまったという。おそらくゲームのやり過ぎですね。トマトが大好きだといってミニトマトをひとりで全部食べてしまった。遠くに離れている孫のことですから、できることは見守ることだけ。元気に育ってくれることを願うだけです。

さて、我がメインマシンがついにダウン。たぶんハード(グラフィックボード)の故障のような気がします。分解して調べてみなければいけませんが、とりあえずWindows8のサブマシンでしばらく更新を続けることにします。直らなければ、こっちがメインマシンになってしまいそう。パソコンの故障は突然ですから本当に困ります。



  8月11日(日)    
昨日から時間がある限り世界陸上を見ています。昨夜は女子マラソンの途中から見始め、はらはらしながら最終盤の福士加代子選手の奮闘ぶりを応援していました。競技場に入ってからゴールインするまでのあの晴れ晴れとした顔、ゴールしたあとのはしゃぎぶり、あれは42キロ余を走った後の様子とはとても思えない。対応の軽さとは対照的にすごみすら感じさせられましたね。

今日のMNEMOさんのブログに「この『風』という字、私はとても好きです」という一文があって、ちょっとびっくり。それというのも、昨日ずっとこの字が大書されたTシャツを着ていたからです。偶然と言えば偶然ですが、不思議な縁を感じました。
Tシャツ背中の「風」は、実は「おわら風の盆」の風のことで、表には「風人」と書かれています。先週富山に行ったときに買ったもので、今回富山に出かけたときに着ていったのでした。
ちなみに、妻に「沖縄では海人と書いてウミンチュというけど、風人はどういうのかな」と聞くと「多分カジンチュかな」と言っておりました。

MNEMOさんのブログには「三筆・空海の『風信帖』の一文字目で、その字が目に焼き付いています」と書かれていて、さらに驚かされました。流麗な字をお書きになるMNEMOさんですから驚くことではないのですが、実は風信帖は高校時代の聖典のひとつであり、私が改まったときに書く「風」の字は風信帖第1文字目に大いに影響を受けたものだったからなのです。
普通「風」の1画目は、カタカナのノの字のように払ってしまうのですが、私は習慣的にきっちり止めてしまう。そして2画目でぎりぎりと絞り込む。
ただ風信帖の3行目にある頂戴の「頂」だけは、なぜこんな形なのか不思議で仕方がなかった。ひょっとして隣の饅頭に気を取られてよそ見をして書いたのではないかと不埒なことを考えたりしたものでした。
風信帖は、我が高校生の頃に中田大雪先生から手ほどきをうけた際の1つのお手本で、それ以後もときどきこれが載った本を取り出しては眺めていたもの。意味はわからなくても字の形は何ともいえませんでした。そんな私の思い出をくすぐる記述をブログに見つけたものですから、なつかしくてついつまらないことを書いてしまいました。

多分、今日も熱波に襲われるのではないかと予測して、朝早く畑に行って野菜を収穫してきました。そのあとはお隣さんを呼んで恒例の朝市。
いつものトマト、キュウリ、ナス、オクラとならんで、今日はスイカ、マクワウリをとってきました。大量収穫です。





  8月9日(金)    
長崎原爆忌。

社会資本総合整備計画の第7回策定委員会が開かれ、これまでにない4時間という長い議論を終えました。内容にはいろいろ問題は残してはいますが、過去のこの種の会議から見れば格段にすすんだ話し合いだったと思われます。
私たちの修正案、もうひとりの委員からの修正案があったために、問題がより鮮明になり活発な議論が促されたのだろうと思われます。しかし、まだ全体としては議論不足の感は否めず、次回8月27日に今日の続きを行うことになりました。


今日はこの問題についてはこれ以上書くことができません。というのも親戚に不幸があって明日早朝から富山に出かけなければならないからです。ただいまその準備中。
妻は午後9時過ぎに長崎から帰宅してすぐの富山行き。早めに寝て、明日は朝5時半の出発です。



  8月8日(木)    
夕方6時過ぎ、外回りの掃除をしていたら朝からずっといなかったツバメがまた戻ってきました。1日どこに行っていたのか。折り重なって巣の中にいました。忘れないでくるんですね。
ふと下をみたら、パッションフルーツに大きな花が咲いていました。エキゾチックでなかなかのものです。これからどんどん咲きそうです。


さて、今日の午後の「緊急地震速報」あせりましたね。無線放送で「大地震」という速報が入ったために玄関で構えていたけれど、いつまでたってもピクリともしない。
「誤報」だとわかったのはまもなく、夜には気象庁による「お詫び」が流され、ホッと一安心でした。なぜこんな間違いが起きたのか解明を急がないといけません。ただ、「悪い冗談」とだけにしないで、この誤報のあと人々がどう行動したのかなどを追跡調査して今後に活かすことが必要でしょう。

さて、このあとは頭を切り換えて「社総交モード」になります。


  8月7日(水)    
歴史の裂け目から希有な人物が現れる、そのことを実感させたのが今日のTBS報道ドラマ「生きろ〜戦場に残した伝言」でした。あの戦争中のヤマトにもこれだけの気骨とヒューマニズムにあふれた人物がいたことを知ることは百倍も勇気を与えられることです。
県知事としてなすべきことは県民のいのちを守ることだという、その信念をどんな局面でも曲げない。沖縄の「命ドゥ宝」の言い伝えを聞き、その気持ちをいっそう強くしたのだということを数々の証言から浮かび上がらせていました。
彼の姿が浮き彫りになればなるほど、県民を道連れに「お国=天皇のために」沖縄県民に言いしれぬ痛苦と犠牲を与えた陸軍の姿もまた照らし出されてきます。
「こんな戦争は2度と起こしてはならない」。それは地上戦で犠牲になった沖縄県民の願いであるとともに、原爆で命を落とした人々、大空襲で焼かれた人々の声なき声ではないのでしょうか。
”戦争に繋がる一切の企みを拒否すること”が、それに応えるただ1つの道です。
島田叡知事が最後に向かい消息を絶ったとされる玉城村(現南城市)は妻の郷里です。今も捜索が続けられているというのは初めて聞くことでした。里帰りした際には、いっしょに当時の県職員を慰霊した「島守之塔」や彼の足跡を残す場所に足を運んでみたいと思わされました。

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真夏の太陽がじりじり照りつけていま。池田町は日射しの下では暑くて何もする気になれません。
玄関先のツバメたちはと思って見上げると、巣はすでにもぬけの殻。巣立ちしてしまったのでしょう。一昨日の朝は、近くの物干しや屋根に飛び移って飛行練習をして終わるとまた巣に戻っていたので、巣立ちまでもう少しあるかと思っていたのにです。写真で「くちばしの黄色い」やつが雛鳥です。
断りもなしに巣をつくりあいさつもなく巣立っていく。残されたものは玄関先のツバメのフン。これじゃあんまりではありませんか。
しかし人間様も、どんなに軒下を汚されようが雛を見上げてはニコニコして辛抱強い。それに甘えてツバメたちははるか昔からこの生活をつづけてきたんですねえ。
※一日中どこかで遊んできたらしく、夕方には巣に戻っていました。たくさんの仲間と飛び回ったり、あちこちにとまったりして、我が家の庭はさながら保育園の様相です、




さて、昨日は午前11時頃家を発って一路金沢へ。岐路高岡に寄って今朝午前1時頃池田に戻ってきました。最近どうにも目がショボショボして目やにがでたり開けていられなくなる症状がひどくなったので、いとこの眼科医に診てもらおうと思い立って出かけたのでした。
池田はぐずついた空模様でしたが、北陸路に入る頃にはすっかり晴れて今日のような夏空。ほとんど車の中でしたから暑さは感じませんでしたが、一旦車から降りると汗がにじみ出てきます。

診察の結果は、アレルギーによる炎症だろうということ。
網膜を調べたり、白内障の検査をしたり、眼圧をはかったり・・・至れり尽くせり。
「はい目を大きく開けて」と言われても、もともと小さいので、「これ以上開きません」と言うしかないのが悲しい。妻の目と入れ替えたい。
以下はそれ以後の会話です。

「アレルギーって何に対する反応ですか」
「ハウスダストとか、ダニとか、花粉とか・・・いろいろあるんでね」
「我が家はハウスダスト一杯ってことになりますかね」
「いやいや、加齢するとそういったものに対する抵抗力が弱くなるんだな」
「年取ったってことですね。直るんでしょうか」
「いや、一生直らないね」
「そりゃ冷たい言い方ですね」
「根本的に直すことができないって意味だけどね。体質を変えること、細かいホコリまで取ることができる掃除機を使うことなどで軽減することはできるだろうけど」
「はあ、ただ目がかゆいときはいままで水で洗うと楽になったんですけど、それでもいいですかねえ。ホウ酸水で洗うと聞いたこともあったけど」
「それは戦争中。いまはゴキブリ退治に使う」
「えええっ?そうなんですか」
「真水はちゃんと殺菌されているからいいんだ。いい目薬を出しておくから」
「あ、ありがとうございます」


ってなわけで、無知をさらしただけで、わかったようなわからないような・・・ただ、帰ってからハウスダストとダニ退治に全力をあげようと決意させられた次第でした。ホウ酸については薬局で同じような体験をした話がでていて苦笑。
従兄弟のKさんには、いつも突然出かけては迷惑をかけているので誠に申し訳ない思いでした。奥さんに会えなかったのが残念。

その後は、8号線を東にすすんで高岡へ。私の姪(妹夫婦の娘)の一人が二人の男の子を連れて帰省し、そこへアメリカ人の彼も合流していたのです。
姪の家族が赴任先に戻る日程とぶつかったために池田で行う母の7回忌には来られず、それではこちらからとちょっとだけ顔を見に行ったのです。
子どもも今はやんちゃ盛り。今日はちょっとハイテンションだということで、ジジ・ババはうれしい悲鳴を上げている様子。姪も相変わらず活動的で元気そのもの。久しぶりの再会を果たすことができました。




おかげで今日は昼頃まで意識不明。妻から電話があったようでしたが、受話器を取る前に切れてしまった。
ぐっすり休んで、午後からようやく活動再開です。今日の予定は、これまでたまったがらくたを片付け、ハウスダスト退治をすること。暑いので、すべてスローモーション。

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夕方に入って、弟(個人)の連れ合いのお父さんが亡くなったという知らせが妻から伝えられました。
つい先日お見舞いに行って、「畑が待っているからまだがんばらなければ」と言っていたばかりだったのに、残念です。妻が帰るのを待って10日の朝早くに 高岡で行われる葬儀に参列します。



  8月6日(火)    
広島原爆忌。
妻は世界大会に出席するため朝早く出発します。私は車で松本まで見送り。

今朝深夜のテレビで米軍ヘリの墜落を報道している際、ツイッター(テロップによる紹介)で「古い米軍機よりオスプレイの方が安全だ」などと沖縄県民を逆なでするような意見が書き込まれているのを見ました。
「本土」では事実が知らされず、そう受け止められても不思議ではない「世論」が醸成されています。それこそがヤマトンチューの、アメリカにとっても政府にとっても無害かつ歓迎すべき意見ということになるでしょう。

昨年11月の毎日新聞web版には、「特集ワイド:脈打つ沖縄「独立論」 小学校のすぐ隣…オスプレイの列 無視される抗議、日本に見切りを」という記事が掲載されていました。
無視され続ける沖縄県民の声に対して、次のような読者の声が増えるようになったというのです。

・ヤマトンチューは割りばし使い(沖縄のことわざで、本土の人は使い捨てにするのが常だから長くは付き合えないとの意味)
・沖縄人を人間扱いしていない
・日本をあてにすべきではない


沖縄独立研究所の主宰者である比嘉康文さんの「日本人になろう、なろうとして崖を登るが、途中でいつも谷底へ突き落とされる。それが沖縄の歴史です」という言葉も紹介されていました。
尖閣諸島は日本固有の領土だとわめく日本の支配的な人々が、沖縄を「本土」並みには見ていないのですから笑止千万ですね。

琉球新報8月4日付の社説では、オスプレイの追加配備に関する激しい論調で「この国は民主国家か 人道に反する危険強要」とアメリカと政府の対応を批判していました。
先ほど紹介した「新型だから安全」というのがいかに現実離れした神話であり、かつダブルスタンダードの対応であるかを論証しているのです。その論拠としてあげられているのはつぎのようなもの。

@2009年に米海兵隊は、被害が甚大なクラスAの損害額の評価基準を「100万ドル以上」から「200万ドル以上」に引き上げ、その結果、従来の評価基準なら3.98となるオスプレイの事故率が1.93と低くなった。
Aオスプレイは開発段階で30人が死亡し、昨年4月にモロッコ、6月には米フロリダ州で墜落事故を起こして計9人が死傷。海兵隊のオスプレイに限っても2006年以降30件以上事故が起きた。
B2010年のアフガニスタンでの墜落事故に関して、事故調査の責任者が「機体に問題があった」との報告を作成したが、空軍上層部の圧力で「人為ミス」に書き換えさせられた。
C米国防分析研究所の主任分析官(2009年まで17年間)レックス・リボロ氏が、「ヘリモードでエンジンが停止した場合に通常のヘリならオートローテーション機能(自動回転機能)で着陸できるが、オスプレイには同機能が欠如して「どこにでも墜落する」と証言。
D米ニューメキシコ州で予定された米空軍のオスプレイの低空飛行訓練は、住民の反対で延期され訓練内容が見直された。
Eハワイの二つの空港でのオスプレイの着陸訓練が、住民の反対で撤回された。


アメリカによる日本の支配・差別、日本政府・本土による沖縄の支配・差別、この構造を断ち切るカギはどこにあるのか。
沖縄のひとびとは、その実態と取るべき道を日々肌身でつかんでいます。その声に耳を傾け実像に迫り、正しい道を選択しなければならないと強く思わされるのです。

日米は民主主義を踏み外した安保政策から脱却すべきだ。オスプレイ、普天間飛行場を沖縄から撤去させるときだ。(上記社説)

沖縄を福島に、オスプレイ・安保を原発に置き換えればそのまま成り立つ主張ではありませんか。



  8月5日(月)    
玄関真上の巣にいるツバメの雛が大きくなって、何かしきりにおしゃべりをしています。あと一週間もすれば巣立ちなのでしょうか。
朝から晩までエサを食べ通しだから、みんなメタボになって巣からはみ出しています。


遅めの朝食をとりながらテレ朝「モーニングバード」を見ていたら、中国上海で連日40度越えの猛烈な熱波に襲われているというニュースを流していました。落とした卵が卵焼きになったという冗談とも本当とも分からない話も。
それはともかく、問題はそのあと。キャスターをやっている名前の知らないアナウンサーと石原気象予報士が「上海まで張り出している太平洋高気圧が今週末から日本を覆う。この暑さがまもなく日本にやってくる」と言い切ったのです。
おいおい、いま現在その太平洋高気圧は奄美から沖縄本島、与那国島、ついでに尖閣諸島もど真ん中にしてすっぽり覆っているんじゃなんですか。沖縄は日本じゃないのかい??え、石原さんよ。
「全国のみなさん、ただいまこの圧倒的な太平洋高気圧は、日本最南の沖縄県全域を覆いつくし、こともあろうに我が国固有の領土である尖閣諸島も完全に支配下においております。まもなく本土にも押し寄せてくることが予想されます。卵焼きは太陽熱を利用しましょう」ぐらい「予報」したらどうなのさ。
多分、日本=本土という意識なんでしょうね。それで何も問題を感じていない。誰も指摘しませんでしたから。オスプレイだってそんな程度の意識でしょ。

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夕方、沖縄で米軍ヘリが墜落したというニュースが流れたのが午後5時過ぎ。琉球新報、沖縄タイムス社は速報で、次のように報じていました。

琉球新報号外
沖縄タイムス号外

報道では米空軍所属のHH60救難ヘリで、火災の消火活動にあたっていた最中の出来事だということ。キャンプハンセンの基地内での事故だったために民間には被害がなく不幸中の幸いでした。それにしても近くの住民は恐怖心に駆られたのではないでしょうか。
どんな機種であろうが事故は起こるのです。欠陥機オスプレイならなおさらです。こちらは人口密集地の普天間基地ですから、一旦事故が発生すれば多数の命が危険にさらされる。今回の事故で、沖縄県民の意識はいっそう全基地閉鎖・撤去に傾かざるを得ないでしょう。安倍内閣はどんなコメントを出すのか。

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さて、またまたしつこく昨日のつづきです。テーマは「町の上位計画との整合性」。シリーズでやりますかね。

(2)総合計画およびマスタープランは「町なか活性化」の方向を明確に示している。

総合計画では、まちなかの課題を明らかにしつつ、今後の方向について次のように述べています。

区画整理等による面的な整備も視野に入れながら、公共施設が集積する利便性や歴史・文化の蓄積を活かしたまちなかの魅力と賑わいを取り戻すこと。

そして、これをうけた基本目標では次のように理念を示しているのです。

4次総合計画の基本理念「北アルプスと田園に抱かれた自然と住環境を大切にする町」の理念を継承し、ユニバーサルデザインの視点に立った地域整備を推進します

同じ基本目標の中で、公園についても次のように方針を定めています。 。

中心市街地においては池田町都市計画マスタープランに基づき、子どもや高齢者等がくつろげる公園整備を検討します。

平成18年作成の「池田町マスタープラン」では、第1地域[まちなかゾーン]活性化の方向を次のように定めています。

基本方針:〜若い世代が集い、地域に根ざした商業で賑わいを呼ぶまちなか再生〜
将来:生活の利便性と池田の歴史と文化の味わいをゆったり歩いて楽しめる魅力をあわせ持つまちなかへの再生を目指します。


これは私が都合の良い部分を取り出しているわけではなく、実際にマスタープランでは「まちなか再生」の1つの姿として次のようなイメージ図を掲げているのです(もっとも、やや空想に近いところもありますが・・・)。しかも、その説明では「長期的な市街地整備の構想を現段階から持ちながら、地域の意向をききながら必要な調査等を実施し、徐々に計画立案、合意形成へと進めていく考えです」と述べていることに注目しましょう。


この当時はまだアップルランドが撤退することは想定してしていなかったとしても、商業で活性化をはかることと、町並みを保全し池田町の文化や史跡、自然環境を活かしたまちづくりを目指していたことは明白です。
だとすれば、アップルランド跡地に交流センター、駐車場をつくることがこの計画とどのように整合性を持つのかが当然問われることになります。
1つのモデルだから状況の変更は当然あり得ると言ってしまえばそれまでです。しかし、当時町民からかなりの数の意見を収集し、長期にわたって検討を深めた結果としての計画ですから、重視すべきことは当然のことでしょう。
つまり、この計画に盛られたさまざまな取り組みを行うためには、それだけの整合性のある長期計画と財源、町民の知恵と力が必要になります。果たして町の素案のような大規模な計画をいま行って、ここに盛られた計画を10年、20年先に実行できるのかどうか。

中村さんと私の修正案は、このマスタープランの考え方に極めて近いものといえます。

私たちの修正案の考え方は次のようなものです(詳細は後日お知らせします)。

@町なかの10年、20年先を見通し、よりよい生活空間と環境を作り出す第1歩とする。
A今次計画は町なか整備の第1弾として位置づけ、今後長期にわたって計画的に整備をすすめる。
Bそのため、今次計画による事業は無理のない最小限のものとし、後の世代に財政的な負担を負わせないものとする。国の交付金は利用するが、町の新規起債は行わない。
Cアップルランド跡地は商業エリアと公園エリアとする。商業エリアには買い物場を、公園エリアには一定の広さを持つ公園と駐車場をつくる。
どちらも計画の立案から実行までプロジェクトを立ち上げ、町民参加を貫く。
D現公民館跡地に交流センターを建設、既存の図書館と連結して一体運営する。ワークショップなどによる住民参加でこれらの計画立案、実行にあたる。
E既存の類似施設のあり方について今後早急に検討を深め、方向付ける。


いかがでしょうか。

念のために申し上げますが、この考え方はあくまで策定委員会で議論する際の1つの試案なのです。修正案としてのまとまりには自信を持っていますが、絶対に正しいものだとはさらさら考えていません。
当然のことですが、さらに修正を加えたり、場合によっては別の考え方に変更することを否定するものではありません。もちろんその際には可能な限りいろいろな角度から(たとえば、その根拠や町の将来像とのかかわり、財源などについて)意見をたたかわせる必要があります。
この修正案の提出によって策定委員会でも、町民の方々の中でも積極的・建設的な議論、話し合いが行われることこそ私たちの願うことなのです。



  8月4日(日) 午後    
妻は明後日から長崎で開かれる原水爆禁止世界大会に5日間お出かけです。今日は二人ともややのんびりと過ごしています。
昼に見たNHKアーカイブス「アンダルシアの虹」が秀逸でした。

さて、午前中の考察に続いて、町が素案を提出している社会資本総合整備計画についてさらに検討してみることにします。

いつもこんなことを考えているわけではないので、念のため。考えるときは一気にやらないとね。暑いので昼はパソコンに向かい、夕方は畑仕事です!!

今回のテーマは「町の総合計画との整合性」です。
池田町は、今回の計画に多少とも関わる総合計画として、次の4つの計画を策定してきました。
平成18年1月 池田町都市計画マスタープラン
平成19年3月 池田町まちづくり推進プラン
平成21年4月 第5次総合計画
平成23年4月 池田町土地利用計画
この中で、今回の計画の上位計画とされているのは、池田町都市計画マスタープランおよび池田町第5次総合計画です。

私自身、この計画の検討委員(公募)の一人であり、賛成反対は別として原案作成にかかわっているので、その立場からも町の素案とのかかわりを問題にせざるを得ません。
もともと、この第5次総合計画は、極めて短い時間に主として町内団体の長などからなる委員で検討されたものでした。
とくに、町民の意見を聞く機会は全くなかったこと、わずか6回(当初5回の予定)の審議で、町の素案に対して意見を述べるだけにとどまったこと、町民憲章の項目に当てはめるという抽象的な枠組みでしか議論できなかったこと、総論部分のみを検討し具体的な計画はその後町がすべておこなったことなど大きな弱点を持っていました。
しかし、議会を経て町の計画として策定された以上は公式の町の施策原則です。そして、町が上位計画のもとで社総交の素案を立案したとしている以上は、この総合計画に沿って今回の計画を見てみることが必要となることは当然でしょう。
そこで、池田町第5次総合計画に依拠しながら、今回の計画との整合性について考えてみたいと思います。

(1)総合計画(H21-H30)は、将来人口、財政などで極めて厳しい見方をしている。

@人口動態
人口が1万700人前後だった計画立案時点で、計画は「このまま推移すれば10年後には1万人となり高齢化率も一層高まる」と予測しています。また「将来指標」でも、同様の指摘をしつつ、ここ10年ほどは出生数60〜70人、死亡者数130〜140人で推移、自然減が続いていることを明らかにしています。しかし、転出より転入が多いためそれが緩和されていることも明らかにしています。その上で、「できるだけ早期に11,000人到達を目指します」としているのです。
その対策として掲げられている対策は「安心して出産し子育てができる質の高い支援および快適な住宅環境の整備と産業振興策」です。最後には「人口対策の特効薬は、魅力的なまちづくりを進めることです」と結んでいます。
次は、総務省の「決算カード」からひろった池田町の人口の推移です。また下の表は松川村の人口推移との比較です。




人口動態および年齢構成は将来の財政収支、産業の担い手、福祉・医療の政策に大きく影響しますから、町も当然重視をし人口増への対策を掲げているのですが、実際には減少には歯止めはかからずむしろ加速しているとさえいえるのです。
そして極めつけが、かつても紹介した「30年後には7000人台」という予測です。
これから町が立案・実施する事業においては、このような人口の推移を視野に入れながら、どのような町になるのか、またするのかをしっかり考えていくというのが大前提になるのではないでしょうか。
その意味で、今回の町の素案には、町のグランドデザインという立場からの言及に乏しく、単に老朽化した公民館を交流センターとして建て替えれば賑わいが生まれるという図式でしか見ていないのではないかと思われて仕方がありません。

A財政健全化
この点でも、「総合計画」は「施策の大綱」のトップに「健全な行財政運営」を掲げ、次のように書いています。

このまま地方債の借り入れを減少していけば平成 22 年度以降、公債費の償還は大幅に減額となります。しかし歳入において、一般財源の約 85%を占める地方交付税と町税が今後 10 年間で大幅に減額することが予想されます。
歳出においても池田町松川村学校給食センターや特別養護老人ホーム高瀬荘及び穂高クリーンセンターの建替えや最終処分場の建設費等の負担金や国保、後期高齢者医療、下水道、介護保険広域連合負担金等の繰出金、また公共施設の大規模改修等が財政を硬直化させ、投資的経費を捻出することが厳しくなってきます。
財政調整基金は当面3億円を基本とし、公共施設の改修事業や新規事業に備えて新たに目的基金を設置し、計画的な資金運用に心がけながら、事業の選択と集中を図って夢ある事業執行のための財源確保に努めます。


この現状認識と、今回の計画との整合性はどうか。
町長は「4割もの交付金が使えるので、これまでの懸案を解決できる」とのべ、財政指標も2期目に入って好転し、貯金も17億円までふやしたことを実績としてあげて、それゆえ「財政にはゆとりがある」という認識を示していました。
しかし、これは「総合計画」の認識とはかなり隔たりがあります。人口の減少と高齢化が予想を超えて進んでいることを考慮に入れれば、財政問題は長期的な展望にたって、早急に債務を減らし必要な施策に重点配分できるようにしなければならないのです。
次の表を見れば分かるとおり、町税は、個人町民税、法人税ともに減少傾向が続き、さらに固定資産税もなだらかな減少が続いています。この傾向は今後、商店街の衰退、高齢化の進行などとともにいっそうすすむことが予想されます。従って、財源を確保するためには格別の努力が急務となっています。


町の素案では、総額15億9千万円のうち、一般財源からの支出を9億5400万円と見込み、うち新規借金に4億1000万円を予定しています。
今日の町の財政事情、今後の支出への影響などを考えれば、あらたな起債は極力さけ、長期的展望にたって最も効果的で必要な事業にしぼることが必要であるといえます。

この続きはまた。

本日の収穫はこのほか、ジャガイモを漬け物ポリタンクに山盛り一杯、トウモロコシ10本。もちろん食べきれないので、妻は子どもたちに送るのだと言っておりました。楽しみに。
なお、モロヘイヤがご入り用の方はご連絡を(収穫に来ていただきます)。





  8月4日(日) 午前   
井上さとし参議院議員からのメルマガが届いていました。初登院の模様を撮った写真についてのコメントが面白い。
まず議事堂の正面階段というのは初登院のこの日しか通れないんですって。知らなかった。
共産党議員8人が階段を上る姿を新聞の一面に載せるのは前から決まっていたらしいのですが、問題は順番。結局新人3人をはさんで横一列に並んだのだが、「いい写真が撮れてこれが正解」とありました。確かに!

私は引き続き参院国会対策委員長を担い、常任委員会は再び外交防衛を担当することになりました。さっそく、麻生ナチス礼賛発言、集団的自衛権行使、オスプレイ、辺野古新基地、京都のXバンドレーダーなど重大な動きがあります。決意新たに奮闘します。

と結ばれていました。期待しています!

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今月9日には、池田町社会資本総合整備計画を審議する「第7回策定委員会」がひらかれます。
この会議は、新年度に入って3回目。前回は町の素案で「地域交流センター」(公民館、図書館、ホールなどの複合施設)建設予定地とされているアップルランド跡地や道路、公民館、図書館を見学、その後町の計画についての質疑を若干行って終わりました。従って今回は、午後1時から5時までの4時間の予定で本格的に議論が行われる重要な会議となります。
この会議には、策定委員である中村さんと私との連名で町の素案に対する修正案を提出してあります。この修正案はすでに事務局を通して策定委員全員に配布されているため、次回はその意味でも議論が深められることが期待されるのです。

町は昨年度の案を一部修正し、今年度に入って次のような修正素案を発表し、それを原案にたかめるためにメンバーを大幅に替えた策定委員会が再発足したのでした。

<名称>
池田町社会資本総合整備計画
<事業費>
総額 15億9000万円
 うち国の交付金 6億3600万円
 町の一般財源9億5400万円(基金取り崩し5億円、町債4億1000万円)
<事業の概要>
@アップルランド跡地および周辺をコミュニティエリアとし、東(県道側)から順に商業等活用エリア、公共施設エリア、公園エリアとする。
商業エリアは社総交と切り離して町単独事業として行い、買い物の場の創出のために別途プロジェクトを立ち上げ検討する。
公共施設エリアには地域交流センターを建設する。周囲には約200台の駐車スペースをとる。
公園エリアは遊具公園とする。A道路計画は役場、安曇病院、総合体育館、遊具公園、アップルランド跡地を結ぶ道路、それに接続する道路、およびアップルランド跡地横の道路のみとする。(前年度の素案から大幅に縮小)
B総合体育館耐震化事業
C公民館跡地ミニ公園化
以上が基幹事業です。これに付属した提案事業として、弓道場移転新築、イベントスペース・駐車場整備、街路灯再整備事業など8項目の事業が計画されています。

この中で、商業エリアの創設は昨年度からの私たちの運動の中で、町も認めざるを得なくなったもので、今後どうするかは重要な問題ですが、その土台が据えられた意味では大きな前進です。
また、新年度1年かけて町民にも十分説明をしつつ、公募委員を含めた策定委員会で原案を作成するとしたことも評価できます。もちろんそれで十分かどうかの問題は残りますが。
さらに、昨年度の事業総額は18億3600万円、一般財源からの支出が11億円(6億円の借金)でしたから、規模を一定程度縮小した点も私たちの要望にそれなりに応えた内容といえます。

問題は、何故にいま多額の費用をつかってこうした大規模な事業を行うのかということです。本当に必要なのかどうかを含めて町づくりの中でこの計画の持つ意味を問われなければなりません。策定委員会でも当然このことがしっかり議論されなければならないでしょう。
今日はこのことにしぼって考えてみたいと思います。

(1)池田町の将来にとって何が必要かを考えるべきである。
池田町はかつては養蚕業が盛んな町で、米作りと相まってかなりの繁栄を誇ってきました。しかし、養蚕業の衰退とともに山間部の人口は平野部や他市町村へ流出、平野部では米作りを中心とした農業の他、一定の中小企業、商業のみで、とくに目立った特徴のない町になってしまいました。
町中心部はとくに商店の閉鎖が相次ぎ、高齢化がすすみ、空き屋、空き店舗、空白地、荒れ地が目立つ一体となり、東山山麓、新しく作られた住宅地以外とは対照的に空洞化が目立っています。町を南北に走る県道も、大型トラックが狭い道路を走ることの多いいわば通過のための道路になっているのです。
最近行われた人口シミュレーションによれば、池田町は現在の1万人から今後30年で約3千人減少し、7千人に。高齢化も一段とすすむことが推定されています。
このような農村部、人口減少地域で最も必要とされていることは、地域のコミュニティー機能をいかに保ちよりよいものに高めるか、隣近所のつながりをどのようにつなぎ止め人間的な社会を保持するかということでしょう。同時に、その土地にあった産業を活性化して、将来につなげることも忘れてはなりません。
つまり、地域で地産地消の消費構造を保ち、生きがいをもって働くことができ、かつ住民がしっかりとしたつながりを実感できる、そうした社会構造を再生していくことが求められるのです。
さらに言い換えれば、いま町民にとって必要なことは、20年、30年先に町がどうなるのかを見通し、超高齢化社会に対応できる政策だということです。
従って第1に、町民が安心して暮らせるために福祉・医療関係の財源をしっかり確保できるかどうか。第2に、農業と商業の振興への対策を本気で取り組めるかどうか、第3に、子どもたちの将来のために子育てと教育の環境をどのように保障するかがカギになると私は思うのです。
そうしてみると、今後の財政出動は抑制的でなければならず、重点配分しなければならない分野は公共事業以外にあるということです。町なか再生とは、そうした全体の施策の中に位置づけられて初めて意味をもつのです。

(2)池田町の公民館活動の総括なしに建て替えはありえない。
町の素案では、あたかも「複合施設」として公民館を建て替えれば、自動的に人の流れができるとしている。真意はそうではないのかもしれませんが、現在の公民館活動についての問題点や課題が示されていない以上、そうとらえざるを得ません。
公民館活動とは、社会教育活動としてとらえられることが多いのですが、それだけではないのです。これまでの池田町の公民館活動を見る限り、公的な活動計画があってそれに合った活動をすることが中心となっている。もちろん公民館が住民の自主的な活動の1つのより所となっていることは十分認めながら、結局高齢化のために尻つぼみになったり低調になっている事実も無視できません。実際、年間の公民館の利用者は1万人から1万2千人で次第に減少、しかも同じ人口の松川村の約3分の1です。
町民の中には、あまり利用されもしない施設に多額のカネを使う必要はないという冷めた見方もないわけではありません。
従って、公民館を建て替える必要性と交流センター建設でなければならない理由を明確に示すことが大切です。これは、単に施設をどうするかの問題ではありません。池田町の住民が気軽に集え、さまざまな自主的な活動や自治活動の支えになるような場をどこにどのように作り出すのかという極めて根源的な内容をもった問題なのです。
その場がどれだけ町民に開かれているか、どれだけ自主的な活動に包容力をもっているか、町民の自主性に依拠しているかなどさまざまな観点から総括し、方向付けを行って行かなければなりません。
ハコモノとしての交流センターではなく町民の社会教育の場、自主的な活動の保障・育成の場、学習・交流の場としての交流センターであれば、必然的にそのあり方は決定づけられるはずです。
その意味で、私と中村さんとの共同提案になる修正案では、公民館の建て替えは必要であり、かつ既存の施設を流用することは不可能であるし適切ではないと判断し、現在地で無理のない規模で公民館を建て替える方向を打ち出しました。
これによって図書館は大きくなり、学習・教養の場は大幅に増えることになります。青少年の学習の場としても生まれ変わることでしょう。さらに、規模はそれほど大きくなくても、仕様に工夫をこらすことによって使い勝手がよく、明るい雰囲気の場にすることは十分可能です。



  8月3日(土)    
麻生暴言に対して、菅官房長官の(8/2)。
「議論の余地のある問題ではなく、国会で審議する性質のものではない。1日に本人が撤回したわけで、これで決着だと思っている」。
同日閣議や閣僚懇談会が開かれていたそうですが、その場でも「発言に関する麻生氏の説明や安倍晋三首相からの指示は特になかった」のだそう。
つまりは、「本人はナチを肯定したわけじゃないし、撤回したからべつにいいじゃない?」という程度ってことです。すなわち、自民党まるごと同罪。これじゃもうアメリカからも西欧諸国からもアジア諸国からももう相手にされませんね。
これほど深刻かつ重大な問題なのに、メディアは一過性のこと、終わったことと軽く見てるんじゃないのかな。だとすれば、これまた同罪。
自民党もマス・メディアも麻生さんだけが批判されているのではないってわかっていないんじゃかしら。
ネット上では、麻生さんの発言がとにかく支離滅裂で何をいっているのか分からないし受け取りようによっては反対にもなるから、荒立てて論評する程のこともない、などとする意見もみられます。とんでもないことです。
ファシズムはこのように準備される!です。

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沖縄普天間基地にオスプレイ2機が到着、琉球新報は号外を発行して速報していました。7月23日には基地ゲート前にフェンスが設置され、抗議活動を閉め出そうとしたにもかかわらず、沖縄各地からかけつけた市民達の抗議活動が続けられています。
基地の負担軽減といいつつ、結局はさらなる負担増を押しつける自民党政権に沖縄県民の怒りは激しさを増すだけ。

ところが、(どこの国でもそうですが)この国では「オスプレイ賛成」を掲げて公然と集会やデモをしている方々がいらっしゃる。言論は自由ですからその是非はともかくとして、私はまずその論拠を見てみたいのです。
中国新聞の報道では、岩国で「必要」という市議や市民の声として「中国や朝鮮半島の脅威への抑止力になる」「有事の際に必要だ」「安全面も問題ない。従来機に比べ性能の高いオスプレイは国防や災害時に役立つ」と書かれていました。
昨年8月には沖縄(県庁前)でも「配備賛成」の集会がひらかれており、次の3項目の決議が採択されています。YouTubeでも紹介されています。君が代からはじまる集会ですから、どのようなものかは推測ができるとうもの。

(1)老朽化したCH-46から新型輸送機MV-22オスプレイへの代替を進める米政府と米軍に積極的に協力し、尖閣諸島の防衛体制を強固なものとすること。
(2)与那国町、宮古島市、石垣市に自衛隊を配備すること。
(3)政府は集団的自衛権の行使を認めて日米同盟を強化するとともに、自衛隊を軍隊とし、自衛のための戦争を認める等、普通の国家並みの防衛体制を確立すること。将来的には憲法9条の改正も求める。


こちらはいわば「草の根」からの改憲活動の一環とみることができます。アメリカとともに、日本の防衛を強化するにはオスプレイが必要という立場です。
9月16日に岩国で開かれた「9.16 尖閣・沖縄を守れ!オスプレイ駐機配備賛成集会&デモ」の模様がYouTubeにアップされています。参加団体の顔ぶれとともに、その主張を知るには興味深い記録です。

結局、「中国の脅威に備え、場合によっては沖縄を侵略し中国の自治区にするかもしれない野望をくじくためには、米軍の存在は不可欠でありオスプレイの配備は歓迎すべきこと」だというもの。
単純といえば単純なのですが、実はこれが安倍内閣のまさに考えていること。安倍内閣としてここまで露骨にやると国民から総スカンを食らいますから、そこは慎重にやっているのでしょうが、自民党・財界のホンネ、言いたいことをやってくれる先兵としては歓迎しているところではないのでしょうか。
中国・北朝鮮脅威論、とりわけ放置すれば侵略されるという論を煎じ詰めれば、日本を「戦争できる国」にするほかはありません。当然日本国憲法第9条は邪魔でしかない。そのさいにアメリカとの「同盟」は自明の前提であって、TPPであろうがオスプレイであろうが、全く無批判に受け入れることになります。
そこには東北アジアでASEANにならった平和の枠組みをつくるという構想も、外交交渉で日本の地位を高めることも全く無視され、単に軍事的な強化によって「脅威」に対決するという「破滅の論理」しかないのです。

今日の信濃毎日には、安倍内閣が法制局長官に集団的自衛権容認派の小松一郎氏をあてる方針を決めたことが報じられ、その横には、阪田雅裕元法制局長官(小泉内閣時)の次のような発言が紹介されていました。

集団的自衛権の行使容認とは、戦争ができるようになるということだ。(第1次安倍政権時代に発足した政府の有識者会議が行使を認める必要があると結論づけた)米国を狙ったミサイルの迎撃や、公海上での米艦船防衛といったことに限られる話ではないのだ。・・・こんな重大な解釈を勝手に変えられるなら、憲法改正の必要すらなくなってしまう。憲法がうたう平和主義の看板を下ろすちうことで、国民にも覚悟が求められる。

集団的自衛権行使でごりごりにかたまった方々は別として、この国を何とかして守らなければと思う方々に対しては、この発言の意味をよ〜く考えてもらいたいものです。
そして私自身としても、この国で何が起こっているのか、このままいくとどうなるのかを具体的に一つ一つ明らかにする努力を続けなければならないと思わされます。

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1963年といえば、この年の4月に私が高校3年生になったとき。1月はまれに見る38豪雪。元日からテレビアニメ「鉄腕アトム」が放映され始ているんですよ。
6月に舟木一夫の「高校三年生」がヒット、同じく6月に黒部第四ダムが完成。8月にはアメリカでワシントン大行進が行われ、有名なキング牧師の演説「I Have a Dream」が行われています。
そしてこの年の11月、第30回総選挙。11月23日ケネディ大統領暗殺。翌23日には日米間衛星中継実験に成功とつづきます。力道山が刺されたのはこの年の暮れだったんですか。

なぜこんなことを書き始めたかというとですね、故ケネディ大統領の末娘のキャロライン・ケネディさんが駐日大使に内定したというニュースがあったからです。なぜオバマ政権は外交経験も未知数の女性に、この時期大使を任命するのか?どうやら私が高3の時に経験したことと無関係ではなさそうだからなのです。
1960年、43歳でアメリカ大統領に選出されたケネディは、日本においては特別の存在であり、「家族を大事にする若き大統領」というイメージが作られていました。
果敢にソ連と対峙しキューバ危機を乗り切った大統領。一方、ニュースや写真を通して見るうらやましいほどの家族思い。素敵なジャクリーヌ夫人。そうした彼の姿が、高度成長真っ最中の国民にとって1つの理想的な姿として写ったことは私だけではなかったはずです。
だから、彼が暗殺されたときのニュース映像は、一大衝撃であり、私自身にも深い悲しみと遺族への同情を引き起こしました。とりわけ多感な高3生の私には強烈だったですね。「何故このようにすばらしい大統領が暗殺されなければならないのか」・・・多分、日記にはそのように書いていたのでしょう。書いていたことしか覚えていませんが。
つまり、現在の国民で60歳以上の方であればかなり共通の体験をしているのではないかと思われるのです。それゆえにテレビでも当時の映像がくりかえし流されているのでしょう。

オバマ人事を決定づけたものは、日本人の心の奥深くにしまい込まれた故ケネディ追悼の心情、アメリカと日本の絆。外交手腕よりもそうした日本人の心情に訴える必要性を感じ取ったからではないのか。あたらずといえども遠からずかな。
そりゃもう、TPPで何としても日本をアメリカの土俵に載せなければならないし、基地問題1つとっても沖縄県民の根強い抵抗に遭っている。こうなったら理屈じゃない、日本人が一番弱い「心情」に訴える作戦だ!そんなことを考えたのかなあ。確かにメディアはすでにそれに乗っかってしまっていますから。

翌年、大学へ進学した私は教育系サークルに入るのですが、楽しい語らいと教育活動の中で先輩達から聞かされたことは、それまでの私の認識をすべて180度ひっくり返すものばかりでした。
情報シャワーの中で、私自身自らのアイデンティティが失われることに激しく抵抗しつつ、しかし納得せざるをえない友人達の言葉・・・私自身にとっても大変な時代が始まったのでした。
そうした中で18歳の私が出会い、考え方の根本から変更を迫った1つの歴史的文書が、1964年に発表された日本共産党の評論員論文「ケネディとアメリカ帝国主義」だったのです。こんな古いものを今もって保存している人はそういないでしょうね。
今読み返せば、おどろおどろしいコトバ使いと、もう使われなくなった用語などであふれてはいますが、論理の明晰さ、事象の認識の深さは少しも色あせてはいない。当時日本共産党は、ソ連からのさまざまな干渉や国内での路線をめぐる問題で、理論的なたたかいを重視し、長大な論文をつぎつぎと発表していました。いやはや結構しんどい時代だったんですね。
至るところに赤線を引いて、読んでいたのですねえ。なつかしくも、私の認識を変革するひとつのきっかけになった文書としていまも大事にしているのです。



  8月2日(金)    
わたしゃ、やっぱり国語力がないんでしょうね。維新の会共同代表の橋下さんが、麻生さんの発言に関連して次のようにおっしゃったので、我と我が身を振り返りつつ、落ち込んでおります。(時事ドットコムより引用)

かなり行き過ぎた、ちょっと度のきついブラックジョークというところもあるのではないか」
「憲法改正論議を心してやらなければいけないというのが(発言の)趣旨だったのではないか」
「(前後の文脈から)ナチスドイツを正当化した発言では決してない。国語力があれば、すぐ分かる」


スポーツ報知には、これに加えて次のようにも書いてあった。

橋下氏は「表現に問題があれば(麻生氏が)修正されればいい」と前置きした上で、「憲法がある中でナチスドイツが生まれてきた経緯もある。『手口』という言葉をわざと使ったのも、改憲論議を心してやらないといけないという趣旨だったのでは」と分析した。
また、ナチス政権を例えに使うこと自体が国際社会では問題になるとの質問には「政治家がやろうとすると、こういう批判が起こる。エンターテインメントの世界ならいくらでもありますよ」と持論を展開した。

橋下閣下は「国語力」というコトバがお好きなようで、かつても「従軍慰安婦」発言で「大誤報をやられた」とぶち切れたとき、次のようにおっしゃった。

「日本人の国語力で全体の文脈、文章全体を見れば、(発言の真意は)理解する。メディアは一文だけを取る」

橋下さん、あなたにはそれだけの「国語力」があるのだから、ドイツに行ってこの「ブラックジョーク」やってごらんんさいな。きっと大ウケするんじゃないかなあ。
そのときはせめて次の一文を読んでから出かけてね。

全権委任法

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ニホンザルの一団が滝沢地区(私の住んでいる集落)に出没している、エサになるようなものは片付けるようにという無線放送。数年前に近くまで来ているという噂はあったけれど、この地でもいよいよサルとの共存時代の幕開けか?



  8月1日(木)    
麻生副総理の「ナチスに学べ」発言のニュースが日本だけではなく世界を駆け巡り、驚きと強い批判を巻き起こしています。
私がこの発言を知ったのは昨日の信濃毎日新聞の朝刊ででした。今日になって夜のニュースでも大きく取り上げられ、まさに「事件」の様相。今日になって「ナチスを例示した部分は撤回する」と発言するニュースも放映されていました。

麻生さんの29日の発言の全文を読んで「真意」をつかもうと私なりに努力してみました。朝日新聞の記事を参考に発言をまとめると次のようになります。

@ヒトラーは軍事力で政権をとったと思われているが全然違う。選挙で国民に選ばれ、民主主義によって議会で多数を握った。
A当時ヨーロッパでもっとも進んだワイマール憲法下にあって、ヒトラーがでてきた。憲法がよくてもそのようなことはあり得る。
B20代、30代は記憶のあるときから不況でいい思いなんて1つもしていないので、考え方は現実的で前向き。一番人口の多い50代、60代はバブルの時代でいい思いをしているからよくじゃべるが一番頼りない。
C自分たちは改憲草案を何十時間も時間をかけてつくった。しかも、静かにお互いの意見を聞きあいながら作り上げたという自負心がある。
D憲法の話も、喧噪の中でやってほしくない。
E靖国神社への参拝もメディアのせいで騒ぎになっているが、騒ぎにする方がおかしい。静かに、お国のために命を投げ出してくれた人に対して、敬意と感謝の念を払うべきだ。
E(憲法改正の話も靖国参拝も)静かにやろうや。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
わーわー騒がないで、みんないい憲法だと納得してあの憲法変わっている。(ワイマール憲法からナチス憲法へということか?)


今日になって麻生さんは次のように弁明した。

7月29日の国家基本問題研究所月例研究会における私のナチス政権に関する発言が、私の真意と異なり誤解を招いたことは遺憾である。
私は、憲法改正については、落ち着いて議論することが極めて重要であると考えている。この点を強調する趣旨で、同研究会においては、喧騒にまぎれて十分な国民的理解及び議論のないまま進んでしまった悪しき例として、ナチス政権下のワイマール憲法に係る経緯をあげたところである。私がナチス及びワイマール憲法に係る経緯について、極めて否定的にとらえていることは、私の発言全体から明らかである。ただし、この例示が、誤解を招く結果となったので、ナチス政権を例示としてあげたことは撤回したい。(原文通り)


29日の発言を文字通りとらえれば、「ヒトラーが政権を取ったのはあくまで選挙でであって、それも国民が気がつかないほど『静かに』いつのまにかナチス憲法に変わっていた。その『手口』に学ぼうではないか」ということになる。どこをどう読めば、「ナチスに関する経過を否定的にとらえ」「喧噪に紛れて落ち着いて議論することのないまますすんでしまった悪しき例」となるのでしょうか。私には全くわかりません。ナチスの手口を肯定的にとらえていることはあまりにも明らかではありませんか。
この弁明がまた滑稽です。「真意を誤解したのはあんたらだろう」といわんばかりの発言。弁明すればするほど自己撞着に陥っています。
結局、伝わってくるのは「冷静な議論」どころか「誰も気がつかないほどいつのまにか変わった」という「あの手口」に学べという麻生さんの「真意」だけ。違いますか。

ナチが政権を取るまでには、様々な激動の歴史があります。例えば、ナチが全権を掌握する前夜1932年の総選挙ではナチ党が196議席に対して共産党が100、社会民主党が121議席という現在の日本では考えられないような政党配置でした。
そしてヒトラーが首相に任命された1933年1月30日、共産党は労働組合と社会民主党とに対してゼネストを呼びかけます。しかし、そのときの社会民主党の回答は「ヒトラーは合法的に政権を得た。彼が合法性を犯すのを待たなければならないだろう」。
もちろんヒトラーが政権を握るには合法の仮面をつけながら、背後でSA(ナチス突撃隊)による暗殺、暴力、犯罪を使い、財界からの資金を得て巧妙なプロパガンダを仕組んだ策略がありました。また、社会民主党の「共産党よりもナチを選ぶ」という重大な問題も横たわっていたのです。そしてナチが政権を取るために(=議席を相対的に増やすために共産党を非合法化する)やったことがナチによる国会放火事件であり、これを共産党のしわざとして大弾圧を加え、ついにナチによる全権委任法の成立へとつながるのです。
ジルベール・バディア教授は「ヒトラー前夜」(新日本新書)の中で次のように書いています。

20数年後の今日、人命の価値と尊厳とがすみやかに低下した、この引き裂かれ、血にまみれていたドイツを想像することはむずかしい。またすべての新聞とラジオが共産党による破壊活動が切迫しているという作り話を報道し続けていた、当時の政治的雰囲気を再現することも困難であろう。

「現代文明史」のなかで、クルゼ氏は非常に示唆に富むグラフを掲げている。それは、ナチズムの発展(ナチ党の党員数と得票数)と、失業者の増加とを表す曲線が平行しているのを示している。すべての失業者がナチスになったのではない。しかし、失業の増大は、経済恐慌が激化しているしるしであり、何よりもまず、この恐慌の激化こそがナチズム発展の原因としてあげられよう。

ドイツの左翼勢力は、最後まで強力だったが、また、最後まで不統一であった。この分裂こそ、ナチズムに代わる共和主義の選択が実現され得なかった理由である。

ワイマール共和国は、あえなく滅亡した。最後の3年間に、その力は下降していった。建てられたものは、ひとつひとつむしばまれ、かじられていった。・・・野蛮なしかめ面の上に、合法性というマスクをかぶせ、ほかの人々が彼に開いてくれた道を一歩一歩進んでいったこと、それがヒトラーのすぐれた手腕であった。「否」(ナイン)は最初に言わなくてはならない言葉である。


さて、あらためて麻生さんの発言を見てみましょう。
「静かに、誰も気がつかないうちに」ナチス憲法が成立したというのも、喧噪の中で落ち着いて議論することのないまま憲法が変えられたこともデタラメであり、まるでドイツの歴史を知らない、学ぼうともしない許しがたい妄言です。
まして、日本国憲法の改憲草案を、我々はこんなに真剣に議論してつくったのだから粛々と認めたらどうかと言わんばかりの語り口は一体どこから出てくるのか。「手口に学ぶ」というコトバの醜悪さは、たとえようもない。
「真意が伝わらない」などといくら弁明したところで、橋下「従軍慰安婦」発言と同様、すでに発せられてしまったコトバ、人格をまとった「あからさま」なコトバなのです。もはや海外からも怒りと軽蔑のまなざしでしか見られない妄言であることは論を待ちません。
私もジルベール・バディア教授にならって次のように言いましょう。「否!」





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