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  5月21日(日)
先日の新聞に、入試センターがこれまでの大学入試センター試験(いわゆるセンター試験)にかわる「大学入学共通テスト(仮称)」のモデル例が載っていました。入試センターのホームページには、発表全文が紹介されているとも書いてあったので、ちょっと拾い読み。
数学だけですが、解いてみた感じでは「考える力」「記述力」といった前評判からはほど遠く、ちょっとガッカリするような内容かなと。
大量の答案を処理しなければならないのですから、記述といってもそれほど複雑なものを書かせるわけにはいかない。ほぼパターンが決まっているような記述にならざるを得ないという面を考えればやむを得ないのかもしれませんが、作問はいよいよ難しくなるし、一方でこれをどれだけの時間でやらせるのかとなれば、結局は短時間でいかに効率よく処理できるのかを見るだけになってしまうのではないかという疑問がわいてきます。
マークシート方式のセンター試験よりも、実生活上のさまざまな問題を取り上げて考察することを重視する共通テストのあり方は好感を持てる一方で、「考える力」が要求されるといっても作問によってはかなり偏った能力しか測れないという危惧の念もある。どんな形であれ、もう少しゆとりをもって考える時間があれば、かなり改善されるはずだと私は思うのですが。
私がいま世話している一人の子は共通テスト一期生となりますから、これからいっしょにあれこれ対応を考えていかなければならないというわけ。そうはいっても、常にプレゼンをするつもりで記述できるように普段から心がけておけば何も問題はないのです。
現在が考える力を失わせているから「考える力」を見るようにするというのは短絡的で、むしろ「受験学力」という特殊な「能力」を図ることだけに特化し、かつ大学の優劣と学歴を重視する今日の仕組みのほうこそ問題にしなければならないのは自明のことです。この共通テストは果たしてその厚い壁に切り込めるのでしょうか。

先日来、高校生の諸君と、数学Vのガウス平面のさまざまな問題に取り組んできましたが、ド・モアブルの定理あたりは複素数の驚異的な力を感じるところですが、図形への応用となるととたんに極めて抽象的な理解力が要求されるので、多分生徒には対辺困難を覚えるところじゃないのでしょうか。果たしてこのような特殊な分野に精通する必要があるのかどうか。行列が高校から消えたことが今更ながら不思議で仕方がない。
「複素数平面」の単元が消えたり復活したりしているのはどうもそこらに原因がある。ていねいにガウス平面のもつ威力を解きほぐしていくのならいいのですが、少ない知識を使って多くのことを要求するのですから、問題はクイズのようになってしまいます。これでは本当に数学のおもしろさを体験することはできないと思うのは私だけなのでしょうか。



  5月20日(土)
昨日、今日と快晴で真夏並みの暑さ。今日明日は町のウオーキング行事があり、バラ園の脇もコースになっていて何組かの家族が通っていきました。
相変わらず毎日重労働の日々が続いています。今日の午前中もバラ園でチップ敷きやその他の整備作業。人手が少ないので勢い出る機会も増えてしまいます。ただ余りの暑さにちょっとバテぎみ、今日は午後から作業はお休みです。

昨日、共謀罪法案の衆議院法務委員会での強行採決があった日、ちょうど大町では法案の廃案を求める大北地域統一行動が行われました。
私と妻と、数名の有志は軽トラで大町市内を走り回って主として共謀罪反対をアピール。スタンディングと連帯した行動を行いました。
役場前に7台の軽トラと運転手が集まって幟旗をたて飾り付けを行って大町まで行き、約1時間走ってこの日は終わり。
スタンディングの交差点を中心に3台ずつ右回り左回りにぐるぐる回りました。約70人ほど参加していましたかね。国会前はもちろん、全県でもあちこちで集会やスタンディングでのアピールが行われたようでした。




行動が終わってから畑に行き、日が暮れるまでカボチャやオクラなどの苗植えの作業。土が乾燥しているので、たっぷり放水してきました。とはいえ、今日の日照りですぐにカラカラになるのでしょうね。
この暑さでイチゴが赤くなり始めました。数日前からちょっとずつは収穫できたのですが、昨日はようやくちょっとまとまって採れましたよ。これから約2週間がピーク。鳥に食べられないうちに収穫しないと・・・。






  5月17日(水)
超過密ダイヤの毎日でした。とくに昨日と今日は朝8時からほぼ終日動き回っていました。バラ祭りまではこんな状態では身体が持たないかも。というのは冗談で、腰は別として身体を動かしていた方が充実感は大きいのです。
昨日、今日はシルバー・センターから派遣された方3名が来てくれて、園内の草取りにあたってくれました。私は園の責任者としておつきあいというわけです。
朝8時作業開始というのですから驚き。おばさま軍団は8時から17時までみっちりと草取りに励んでくれるので、こちらとしては大助かり。おかげで園内は見違えるようにきれいになりました。
私の仕事は、通路に木材チップを敷くこと。先日購入したちょっと粗めのチップを何度も何度も運んで薄く敷いていくのです。木の色がちょっと明るすぎてケバい感じになってしまいましたが、時間が経てば落ち着くだろうと思います。今日午前中での終わらず、明日に持ち越し。






今日の午後からは、バラ祭りの看板、掲示物その他の事前準備。役場、観光協会によって協力を依頼してきました。その後は、さらに19日の共謀罪などに反対するスタンディング・アピール行動の準備。まあ忙しい時期とはいえ、やることが山積みで、何か抜けそうでコワい。
明日はバラ園の作業日、役員会。できるだけみなさんに出て貰えるように手配しなければなりません。

夕方息子から妻にメールがあって、身体に異常が見つかったという連絡。詳しいことはまだよく分からないのですが、こんなときは離れていると心配ですね。大きな問題がなければいいのですが。



  5月14日(日)
公民館問題についての信濃毎日新聞、朝日新聞の記事が出たことで、県内でもこの問題が広く知られることになりました。
現在、池田町および池田町教育委員会は私たちの再質問について回答を準備している最中であり、まもなく文書が出されるでしょうから、それを受けての取り扱いは今後実行委員会で検討することになります。
ここでは、その回答を前に、法律的な面を中心に現在までの論点を整理しておきたいと思います。あくまで個人的な考えであって、実行委員会としての公の見解ではありませんのでご注意下さい。

新聞記事でも指摘しているとおり、最大の争点は「社会教育法」の解釈を巡る問題です。
公民館の使用許可が取り消された理由として「社会教育法第23条に抵触する」という点が挙げられている以上、この問題は避けて通ることはできません。
信濃毎日新聞は、公民館側が使用許可を取り消した理由として「『政治的中立』を守るためだと(教委が)主張」していると書いています。朝日新聞も同様で教委側が「公民館の(政治的)中立性が保てないと判断した」(教育長)としていることを紹介しています。
これは、従前からの教育長答弁の通りです。

そこで、あらためて、社会教育法と憲法、および政治的中立性の問題について、主として教育委員会の主張・考えをその発言に基づいて跡づけて考えてみることにします。

1.教育委員会の社会教育法の解釈は現在まで全く変わっていない。

まず、教育委員会の基本的な態度は、12月5日、つどい実行委員会が教育委員会を訪れて抗議文を手渡した際に典型的に示されています。現在までそれは変わっていません。
抗議の席の終わりごろ、実行委員会から「確認書のようなやり方を今後も続けるつもりなのか」と問われて教育長が返答した部分です。

私たちの今までの考え方は公民館というのは、当然公民館の職員も守らなければならないし、借りていただく皆さんにもぜひルールを守ってほしいという解釈できたので、当然公民館長が政治的中立を乱すのはまずい、借りるみなさんも私たちは政治的な中立のなかで館をつかっていただきたいなと思っていましたので、今回チラシを見せていただいたときにその時点では少し偏りがあると感じたものですからそのような話をさせていただきました。

上記は交渉の席での発言ですが、文書ではどうか。次に12月16日の教育委員会の回答をみると、教育委員会の考えがよくわかります。
表現上は、あくまで「社会教育法第5条第1項第1号に抵触する」とだけこたえているかに見えます。その回答を見てみましょう。

社会教育法第23条の規定は、公民館の社会教育の施設としての目的及び性格を確保するためのものであり、特定の政党に有利又は不利な条件で利用させることや、特定の政党に偏っての利用とならないようにするためのものであって、公民館を政党、政治家に利用させることを一般的に禁止するものではありません。

実はこれは平成27年6月19日、民主党福田昭夫議員が「公民館を政党または政治家に貸し出す事に関する質問」に答えた安倍晋三首相の答弁書そのものです。
12月16日の池田町12月議会で服部議員の「公民館利用の基準は何か」との質問に答えて教育長は次のように答弁しています。

公民館は皆さんに使っていただきたいということが基本であります。ただし、社会教育法第23条第1項、2項にあります、この要件に該当しない限り全ての方に開放していきたいと、そんな考えであります。

さらに町長もこれを追認し、次のように述べていることが注目されます。

安倍首相の回答が紹介されました。こちらといたしましては、特定の政党、特に有利または不利な条件で利用させることや特定の政党に偏って利用させることは許されないがという前段があります。これが23条のところに匹敵するのかと思いますけれども、この部分に抵触するということで考えさせていただいたわけであります。

その後の実行委員会の質問にも同様の回答をしており、現在までその立場は全く変わっていません。
そこで、これらの教育委員会の立場と見解について、さらに詳しく見ていくことにします。

2.町・教育委員会の処分が憲法違反であるとの指摘に対して、態度表明を一貫して避けている。

町・教育委員会の回答の最大の特徴は憲法違反との指摘に、態度を表明することを一貫して避けていることです。
このことを最も明瞭に示しているのが、実行委員会の12月27日の質問状に対する回答です。実行委員会は、町民の政治的教養には、政治のあり方や選挙に関する学習・議論も含まれる。それらはすべて憲法第21条によって保障されている国民の権利だが、公民館はそれらを最大限に保障するなであるべきではないのか」と質問しました。これに対しての教育委員会の回答はおどろくべきものでした。

ご指摘の事項が公平、公正に行われるために社会教育法の規定があるものと認識しています。

最高法規である憲法で保障された集会・言論の自由にもとづく住民の活動が「公平・公正に行われるために社会教育法がある」というのですから、全く意味不明です。
自由法曹団の声明でも明らかな通り、今回の公民館使用許可取消処分の最大のポイントは、憲法第21条に明確に違反する行為であったという点です。これについて町と教育委員会は正面から答える責任を持っています。

3.教育委員会の社会教育法の解釈に関する見解は、文科省の通達でも、研究者の見解表明でもすでに破綻している。

教育委員会の見解の誤りを見る上で重要なのは、2017年7月17日付けで文科省生涯学習政策局長名で各都道府県教育委員会あてに出した通達です。これについては何度かここでも取り上げました。
この通達は、18才選挙権の導入にともなって公民館をどう使うのかについての全国で統一的な扱いをすすめるために文科省が出したもので、先の首相答弁よりも踏み込んだ見解となっています。

社会教育法の第23条第1項第2号の規定は、公民館の政治的中立性を確保するために設けられているものであり、公民館を政党や選挙の候補者等に利用させることを一般的に禁止するものではない。
例えば、特定の政党を支援する目的で事業を実施することや、特定の政党に、特別に有利な条件で提供したり、独占的に利用させたりするような運営を行うことは禁じられるが、事業等の目的・内容が特定の政党・選挙の候補者を支持するものでない限り、本規定の違反とはならず、差し支えない。


よく読めばわかるように、どちらも公民館の運営についての留意点です。わざわざ教育委員会が「回答」で自らの見解の正当性を裏付けるために持ちだした論拠も、それ自身によって否定されていることは明白です。

信濃毎日新聞は、4月25日付けの該当部分は次の通りです。

「住民活動を支えるという本来の仕事を公民館は忘れてはいけない」。そう強調する東京大学大学院教育研究科の牧野篤教授(社会教育学)は、今回の池田町公民館の対応は行き過ぎとみる。対外的に政治的中立性を担保する方法は他にいくらでもあるとし「さまざまな形で住民の政治意識を喚起することは公民館の大切な役割」と話している。

朝日新聞4月29日付けでは、元日本社会教育学会会長の佐藤一子・東京大学名誉教授の次の発言を紹介。

社会教育法23条は、公民館が自ら行う事業について規制したものである。他方利用者に関しては2015年の衆議院議員質問の政府答弁書でも、政党や政治家の公民館利用について「一般的に禁止するものではない」との回答がなされている。同法22条6項には「その施設を住民の集会その他の公共的利用に供すること」とあり、差別なく開かれた利用をうたっている。池田町は、なぜ許可した判断を撤回したのか、その根拠を示して説明すべきだ。

以上ですべて明白でしょう。文科省の見解でも、研究者の方々の見解でも、池田町の社会教育法の解釈は全く通用しない、拡大解釈とも呼べないものといわなければなりません。

4.政治的中立性は公民館運営者が守るべきことであり、利用する住民に押しつけることは憲法上許されない。

さて、最後に政治的中立性の問題です。冒頭の教育長の発言の通り、公民館利用にあたって利用者に政治的中立性を求めていることは極めて重大です。
「政治的中立性」とは、とりわけ教育行政にあたる職員が、不当な政治的圧力に屈することなく、また特定の政治的立場に立つことなく、公平・中立に行政にあたることが求められるという意味であって、それ以上でも以下でもありません。
利用する側の町民は異なる政治的考えを持っていることは当然であり、むしろ異なるからこそ議論しあうことを通してお互いを理解したり合意を形成したりすることができるのです。それは、町民の政治的教養を高める上で最も大切なことです。
「公民館利用にあたっては、利用者も政治的中立を守らなければならない」とすれば、公民館の門前で憲法を脱ぎ捨てて中に入らなければならないことになってしまいます。公民館を運営する側の最高責任者がこうした言動を公然と行って恥じないとすれば、これは町政としてもゆゆしき問題なのではないでしょうか。



  5月13日(土)
自公維で修正に値しないようなものを共謀罪の「修正案」として出したからと17日の国会通過を狙う。法相は答弁できずに刑事局長に答えさせるばかり。「テロ対策」「オリンピックのため」などとウソにウソをぬりかため、高学歴のお歴々が国会で法案をもてあそぶ。見苦しさを通り越して、恐ろしさでいっぱいになります。
これまでも「日本型ファシズム」への道を突き進んでいるという批判はあったが、私はこの共謀罪が間違いなく警察国家、監視国家を特徴とする「現代型ファシズム日本」への引き金になると見ています。
まず何よりも、この共謀罪は現行刑法を根幹から変容させるものであること。
これまではどんなに内心で犯罪を描いていたとしてもそれは「内心の自由」であって犯罪・処罰の対象とはされなかった。つまり犯罪の実行実行後の処罰が原則だったのです。しかし、この法案が通れば二人以上の計画(=合意)だけで「犯罪」が成立する。その「計画」が処罰対象であるかどうかは捜査機関の裁量にかかっているというわけですから、それを立証するためにネット、通信、その他あらゆる個人の情報が丸裸にされることになります。乱暴に内心に踏み込んでくることは明らか。

政府・与党は、この共謀罪について、いくつものウソを重ねています。冒頭にも述べた「テロ対策」だというのがその1つ。
関連して政府が国連の「組織犯罪防止条約」を締結するための条件整備だとしている点もウソの上塗り。
この点は先日指摘しましたね。国連のTOC条約起草委員会でこの条約について「テロリズムは対象とすべきではない」としつこく主張したのが日本政府交渉団だったという「お笑い」に近いような事実がそれを端的に物語っています。東京新聞が「共謀罪の源流」として詳しく報道しています。これは意外と知られていない。

第2は、「オリンピック」を口実にしている点。
政府は民進党議員からの質問趣意書で、オリンピックに向けて「本条約を締結し、国際社会と協調してテロを含む組織犯罪と戦うことは重要な課題であり、テロを含む組織犯罪に対処するための万全の態勢を整えることは、開催国の当然の責務であると考えている」と、あたかも現行法では取り締まれないかのように描いています。が、これは全くのウソ。
「条約締結⇒オリンピックの開催」という図式を国民の前にぶら下げることで、共謀罪を成立させようという意図はあまりに露骨ですが、一皮むけば中身はボロボロ。
2013年のIOC総会で安倍首相自身「(東京は)二〇年を迎えても世界有数の安全な都市」と公言して誘致に成功したことなどとっくに忘れているらしい。もっともテロとは全く別の次元で「世界一危険な都市」(地震、津波、洪水などの自然災害など)とも見做されていることは記憶しておいてもいい。
一転、オリンピックがテロを呼び込むかもしれないから共謀罪が必要なのだといいはじめたわけで、そうだとすればオリンピックとは極めて危険なイベントであり、また、国民が関係のない政治集会やデモをしてもオリンピックを妨げているとして警察がいつでも検挙できることを示すものですね。

第3は、「一般国民は対象とはならない」というウソ。
共謀罪の構成要件について、盛山法務副大臣の衆院法務委員会での答弁の変遷が面白い。
4月21日、「(通常の社会生活を送っている方々が)対象にならないことにはならないが、ボリュームとしては大変限られる」
4月28日、「通常の社会生活を送っている方々は捜査の対象にならない」。
共謀罪での処罰には「合意」に加えて「準備行為」が必要だと政府は主張する。ところが、準備行為に当たるかどうかは内心を調べる必要が必然的に生まれ、人権侵害につながることは明らかです。組織犯罪の定義がまるであいまいなのですから、どのような組織でも警察がテロ等を計画する組織犯罪と認定すれば共謀罪が成立する危険性は依然として残る。例の「花見と下見」の違いについての金田法相の愚劣な答弁がこの法案がどれほどもものかを示しています。
277の共謀罪関連法がどのようなものか、実はあまり知られていないのではないか。テロに関係する者ばかりだろうと思い込まされ、だから、一般人には関係がないと思わされてしまう。
法務省組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律案をご覧あれ、ここにはQ&A、要項、法律案、理由、新旧対照条文が掲載されていますので、ほぼ総ての内容を見ることができます。なお、犯罪リストは次の一覧参照
最も懸念されるのは沖縄での基地反対闘争への適用。自動車道路に座り込んだりすれば「自動車道における自動車往来危険」罪の共謀罪。チラシを作るのにネット上から写真やイラストを流用したりすれば「著作権法」の共謀罪、基地前で集会を行ってダンプなどの進入を妨げれば、「組織的な威力業務妨害」罪の共謀罪、などといった調子でどれだけでも恣意的に拡大適用されることになります。共謀者はいずれも共謀正犯で一網打尽。基地を作ったり米軍の言うなりに基地を提供したい政府には誠に都合のいい法律でしょう。
改憲に反対するために、国会前で大規模集会を行うことについても、さまざまな口実でいくらでも犯罪を作りあげることができるようになります。何しろ実行に移す前の段階で二人以上で「心に描くだけ」で犯罪になるのですから。
これは政府に対しての抗議行動だけにとどまりません。対象法の範囲の広さをみれば、市民の誰もが対象になり得るというところが恐ろしいのです。

さて、下村博文自民党幹事長代行が、12日夜のBSフジ番組で来年の通常国会に自民党改憲案を出し改憲の発議を行うという見通しを示したと報道されましたね。もちろん安倍の指示です。共謀罪法案はそのためのものであることがますます明瞭になってきたと私には思えます。過去のさまざまな治安立法とこれを組み合わせれば、ほとんど平時の治安立法は完成。あとは改憲を行い「緊急事態条項」を活用して戦時立法を内閣の一存でつくってしまえば、思うとおりの戦争体制のできあがり。あれよあれよという間の出来事になるでしょう。”現在”が正念場であることは間違いない。



  5月12日(金)
今日も午前中から畑へ。いつの間にか結構広い畑が作物でいっぱいになったために、すぐ隣のあいている畑を少しだけ借りることにしました。地主さんが、使ってもいいよと声を掛けてくれたのです。
そうはいっても、去年まで黒豆を植えていたところで、荒れ地に近い。草も生え放題。そこで、今日は草刈りに出掛けたという次第。何だか最近草刈り機で刈ってばかりという気がします。
30分も同じ姿勢で機械を扱っていると、我慢できないほど腰が痛くなる。しばらく休むとよくなるので、休み休みです。
作物を植えるまでには、耕耘、石灰まき、施肥、さらに耕耘、畝作りと体力を使う仕事ばかり。空いている畑と言っても田んぼ一枚分(一反)の1/4くらいありますから、相当なもの。とりあえず、土の状態を見てから何をどう植えるか考えようと思っています。初年度はサツマイモ、ネギ、スイカ、カボチャくらいかなと。落花生を植えたいのだけれど、これはやわらかい土でないと落ちた花にうまく実がつかない。何をどこに植えるかは本当に計画的にやらないといけないんですね。

実は昨日整形外科の診察日でした。かなり畑仕事やバラ園での力仕事をしているので、腰に無理がかかっているらしい。6月27日に専門医のいる病院に紹介状を書いてもらって診断を仰ぐことにしました。
私としては、手術をして今よりよくなるのであればしてほしいと伝え、紹介状を書いてもらったのです。7月から8月にかけてひょっとしたらしばらく「また」入院生活を送ることになるかもしれません。ま、慣れっこだし。

あと1週間後、19日には「5.19大北市民行動」を予定しています。これは、最近著しい安倍内閣の暴走を何としても止めようと全国的に取り組まれている行動の一環として、大町駅入り口の交差点で大北地域から有志が集まってスタンディング行動をやろうというものです。
スタンディングだけでは面白くないので、池田町恒例の軽トラ部隊も出て、辺りをぐるぐるとまわり宣伝効果を高めようと準備中。今回は、バレードではなくてただ走り回るだけですので、車両も10台程度。それでも、旗を立てポスターを貼り付けて走ればそれなりに見栄えもするのではないかと思います。農繁期ですから、なかなか参加者を募るのも難しい面がありますが、精一杯の抗議行動にしたいものです。



  5月10日(水)
昨夜から久しぶりの本格的な雨で、バラ園のバラも畑の作物もホッと一息ついたことでしょう。関東でも10日ぶりくらいの雨だと言っていました。地中深くまで雨がしみ通ると、作物は見違えるように伸びていきます。
朝方には一旦晴れ間が出てきたので、午前中ほんの1時間ほど畑に行って豆類やオクラの苗を植えてきました。レタスがかなり葉を巻いていてあと数日すれば収穫できるかもしれません。大量に植えてあるラッキョウがかなり大きくなり先日からちょっと早めに収穫しては「島ラッキョウ」風に茎を少し付けたまま生で味噌をつけて食べています。半分は本土のラッキョウ、後半分は島ラッキョウです。後者は昨年妻が沖縄で仕入れてきたものです。

ずいぶん前のことですが、エシャロットという名で若採り生ラッキョウが売られていたことがありました。ところがフランス・イタリア料理で使われる小型タマネギをフランスではエシャロット(アメリカではシャロット)というために、ラッキョウの方はエシャレット(商品名)と言うようになったのだとか。
もともとこっちは「根ラッキョウ」と呼んでいたらしいのですが、エシャレットと名前を付けた方が格段に売れ行きがよいので、根ラッキョウとは言わなくなったのだとか。沖縄では今でも「島ラッキョウ」ですもんね。呼び方などカンケイナイとばかりに、ゴーヤー、ナーベラー(ヘチマ)、パパイヤ、フーチバー(よもぎ)などと共に大人気の野菜なのです。
こっちではラッキョウはラッキョウ漬けにするもんだという固定観念があり、エシャレットはどことなく上品でラッキョウとは別物という意識がありません?
島ラッキョウは本土のものより小ぶりで匂いも強い。若採りなのでまだ細くてシャリシャリした歯ごたえがあります。生のまま軽く塩を振って浅漬けにして食べたり、そのまま味噌をつけて食べたり、天ぷらにしたり。これは実に美味しい。多分(!)飲んべえにはたまらないでしょうね。「沖縄の居酒屋では、ピリッとくる食感がビールや泡盛に格別に合う定番のおつまみ」なのだそうですよ。参考までにレシピはこちら

「うんちく」はこのくらいにして、今日はバラ祭りの案内状の印刷。これから報道機関を含めあちこちに案内を出さなければなりませんからね。忙しくなります。




  5月8日(月)
午前中は割ときれいに晴れていたのに、午後からどことなくまた黄色っぽい。まだ黄砂が覆っているのでしょうね。
朝は、キュウリの苗を買いに行き(これは庭に植えるもの)、畑に出掛けてトマトの苗を縛り、ホウレンソウの後を耕し、1時間ほどで帰ってきました。いや〜〜暑い日になっています。
午後2時頃にはもう西日のじりじりとした暑さ。まだ家の中は涼しいので助かっています。太陽光発電も温水器もこの時期が最も効率がよいようです。






さて、世の中は連休が終わり、落ち着きを取り戻したのでしょうか。フランスでは欧州統合に肯定的な若いリーダーが選出される一方で、日本では「極右」とも呼ばれるルペン候補が約34%の得票率。よくこれだけ支持してくれたと述べていました。
イスラム圏からの増え続ける移民や欧州連合ゆえの緊縮財政とそれによる格差の広がりなど欧州ならではの問題も多くありますから、ルペンが支持を広げる基盤は依然として存在します。マクロン氏がどのような舵取りをするのか注目されるところです。

先日は、敗戦直後の支配層に根深く残っていた国体護持のイデオロギーが憲法をめぐって否定されていった様を見ましたが、教育の分野でも全く同様のことが起こっていました。今日はそのことを少し振り返ってみたい。それは先日来報道されている自民党の「家庭教育支援法案」に直結しているからです。

よく知られているように、敗戦直後から占領軍は教育に関しても次々と重要指令を出します。
@極端な国家主義的、軍国主義的な思想の普及を禁止ことを柱とする教育の内容、教育者、教科目、教材などの取り扱いに関する「日本教育制度に関する管理政策」(10月)、
A宗教を国家から分離する「国家神道・神社神道に対する政府の保証・支援・保全・館監督ならびに弘布の廃止に関する指令」(12月)、
B「終身・日本歴史および地理停止に関する指令」(12月)
の3つです。
翌46年3月にはアメリカ教育使節団が来日し、月末に「報告書」をマッカーサーに提出。これがその後の日本の教育の基本方針になるのです。
その内容は、「日本の現実からかけ離れ学校現場の矛盾に目を閉ざしたもの」(船山謙次「戦後教育論争史」)であったとはいえ、「個人の価値と尊厳の承認」を基本とする意味で、一定の進歩的な内容を含んでいるものでした。これが日本国憲法の成立過程に後押しされて教育基本法の成立へと繋がっていきます。
だが、当時の支配者はどのように考えていたか。先の船山さんの書物によれば、戦時中興亜院にあって大陸で活躍し、当時文部省の要職にあった某氏(氏名不詳)が敗戦からわずか10日後、朝日新聞紙上に次のように主張していたことが紹介されています。

まず、われわれはしっかりした国体護持という筋金を持った教育計画を樹立せねばならぬ。五年でも十年でもある期限をつけてそれに邁進するのである。七十余年前のあの学制頒布の雄大な考え方をもって進むのである。目に見える学校教育に対してアメリカは相当の干渉を加えることは明らかであるから、わが国の今後の方針は学校教育と並行させて、社会教育を発達させねばならない。

45年9月には文部省自身が「新日本建設の基本方針」を発表し次のように述べていました。(以下はすべてカタカナ文ですがひらがな文に直しています)

大詔奉体と同時に従来の教育方針に検討を加え新事態に即応する教育方針の確立につき鋭意努力中・・・・今後の教育は益々国体の護持に努むると共に・・・

占領軍からの指示によって「天皇神格の否定」の詔勅が出されたときにも、文部省は次のような訓令を出すのです。これは、現在の自民党の「家庭教育支援法案」を考えるときに極めて興味深い内容を含んでいます。戦前・戦中と全くその思考パターンが寸分違わないことに今更ながら驚くばかりです。言葉をかえれば、これほどに国体護持=天皇制イデオロギーが支配者の隅々まで深く浸透していたということでしょう。

古来家を愛するの心と国を愛するの心とは、我が国民道徳の特徴たりし所なりと雖も、今後は更に之を拡充して人類愛にまで完成せしむる所なかるべからず。若し夫れ我が国に於ける純正なる君民の関係は、徒らに架空なる神話伝説、偏狭なる民族優越感によりて成るものにあらず、此の際寧ろかかる誤まれる観念の一洗こそ、万世渝(かわ=中身がぬけて変わる)らざる君臣一如の真姿を顕現する所以なることを御垂示せられたるに至っては、衷心恐懼(きょうく=恐れかしこまる)に耐えず、洪大なる聖慮に感じて忠誠を效(いた=全力を尽くす)さんとするの念愈々切なるものあり。

支配層の日本国憲法の制定に対する考え方と教育のあり方に関する考え方とは全く同じであり、占領軍によってその国家主義的で非民主的な考え方が否定されたこと、まさしくそれへの怨念が今日改憲をねらう支配層やその実働部隊の「日本会議」などの思考の底流にあるということです。
これらがどのように第1次安倍内閣での教育基本法の改定につながり、さらには自民党の家庭教育支援法案にかかわっていくのか、これはまたあらためて考えてみることにしましょう。



  5月7日(日)
遅まきながら入党申し込みをしようと思ったら、どうやらツイッターのアカウントがないとダメらしい。ええっ?いよいよどこかの政党に加入するんですかあ?とツッコミが入りそうですね。そぉ〜なんですよ。「肉球新党 ネコの生活が第一」にです。もちろんハルちゃんといっしょにですよ。


3.11直後の女川で、2匹のネコと出会いました。痩せて痛ましい姿が目に浮かびます。人間ばかりか、多くの動物も犠牲になりました。命ながらえても人間よりもっと苛酷な生活を余儀なくされたかもしれません。
その後池田でも津波と原発によって命断たれた動物たちの写真集が展示され、テレビでも紹介されて、牛や馬などの家畜を含め、被害の実相がかなり知られるようになりました。
この党の運動は、それらを契機にしています。ただ、自己紹介にもあるとおり、特別組織だった形をもっているわけではありません。それぞれがそれぞれの思いで、工夫を凝らして平和で安心できる暮らしを求める運動にゆるやかに関わるというもの。それゆえに、動物を飼ったことがある人ならだれでも共感でき参加できる形だと私は思うのです。
ハルちゃんならきっと賛同してくれるに違いないと確信して、さて申し込みは?と探したけれど、ツイッター!!私にはアカウントがないので(今のところ取る予定はなし)、やむなく隠れ党員ということで我慢。最近サイトの更新が滞っているみたいなので、ちょっと心配ですが、焦らず慌てずだから、ま、それもありかと。
私の思いはおふざけでもおちゃらけでもありません。至ってまじめに、人々の心とペットたちに寄り添う運動として賛同するものです。「ネコの生活が第一」となるとちょっと抵抗はありますが、我が家はハルちゃんファーストでまわっているようなものなので、よしとしよう。




  5月7日(日)
今朝は朝から北アルプスが何となく黄色くぼけて見えます。黄砂の影響でしょうか。

私が組合の役員をしていた1980年代の終わり頃、アメリカの巡航ミサイル「トマホーク」が配備されはじめました。その頃は、このトマホークがどのように敵基地をめざし低空で飛ぶかというような技術的な話を中心に、その性能故に今後の局地戦争のあり方をも変える可能性があるという話題で持ちきりだったことを思い出します。
政府がこの巡航ミサイルの導入を「敵基地攻撃能力」を保有するために本格検討するのだという。巡航ミサイルは核搭載型と通常型があるわけで、そのうち核保有も「敵基地攻撃能力」の1つとして持とうとするのでしょう。通常型では核攻撃には無力ですから、核攻撃には核攻撃でという筋書きにならざるを得ません。
もはや政府・自民党は日本国憲法の存在はもう全く視野に入ってはいないことがはっきりしましたね。

昨日のNHKスペシャルは改憲・護憲の世論調査の動向について追跡し、何人かの若者のインタビューを流していました。2000年代に入っても若い世代の「改憲」支持が増えていることを伝えていましたが、結局のところ具体的にこの憲法のどこが悪いという話ではありません。それよりも、日本会議などの改憲勢力の余りにも時代錯誤の改憲論と若い世代の憲法の受け止め方に落差がありすぎて、議論にもならないことが浮き彫りになっていました。
だが、そこが怖いところで、北朝鮮・中国の軍事的脅威を煽ることで9条改憲をすべきだという点に収束させていく世論操作の巧妙さから目をそらしてはならないでしょう。容易に若い世代も取り込めるからです。

改憲勢力が主張する「押しつけ憲法論」を打ち破るには、「いやあれは押しつけではない」とか「一部には押しつけの面があるが」とかという表面的な反論ではどうにもならない。押しつけられたことは間違いないのですから。
むしろ、なぜ、どのように押しつけられたのかをはっきりさせればいいのだと私は想います。そうすれば、大日本帝国憲法が今日の日本に唯一ふさわしい憲法なのだと主張する靖国派、財界人、日本会議などの人たちを除いて、断じて彼らの議論に与することはできないはずです。
難しい学術書でそのことを検討するのもいいのでしょうが、ここは半藤一利さんの「昭和史」(平凡社)に分かりやすい解説がありますから、ちょっとのぞいてみましょう。
「オレは半藤で反動じゃないよ」などとい言いながら授業形式の語り下ろしで説明をしていくのですが、その中身は生々しくて考えさせられる話が一杯出てきます。
かつてもこのことを書いたことがありましたけれど、敗戦直後の日本政府も議会もいかにして「国体護持」を図るかしか頭になく、当時の世界標準(先進資本主義国、社会主義国)の平和・民主主義・人権についての理解が皆無だったことがそもそもの根っこにあるということです。いかに敗戦前20年ほどの間に国民を「洗脳」し尽くした「皇国史観」が根深かかったかわかるというものです。
半藤さんは、次のように書きます。

いいですか、戦争に負けて半月もたってもまだ(東久邇宮首相が記者会見で)「天皇に絶対帰一し奉り」だとか「臣子」だなんて言っているんですから、時代遅れも甚だしいうえ、国民を全然信用していないと言いますか、政府の言う通り動くものと見ていることがよくわかります。だからこそ「一億総懺悔」などという言葉が出てくるのです。国民にいったいどれほどの責任があったのか、戦争をはじめてから敗けるまで、国民に大責任などなかったと思いますよ。・・・あくまで政府と軍部とマスコミの指導によると言っていいと思うのです。

続けて、1945年12月22日、憲法改正を議論する松本委員会総会でのおもしろいやりとりが紹介されていますから、ちょっとだけ引用しておきましょう。

<美濃部達吉>
国称の大日本帝国だが、敗戦国が”大”というのは適当ではないようだ。”帝国”も語感があまりよろしくない。ただの”日本国”にしてはどうだろうか。で、第1条の「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」を「日本国は君主制とし万世一系の天皇を君主とす」とすることを提案する。また、第4条の「天皇は国の元首にして・・・」の”元首にして”を削ってはどんなものか
<宮澤俊義東大教授>
そこまではっきりさせるならば、第1条に「統治は臣民の輔翼によりて行なう」と付け加えて、民主主義を表明するのがよいと思われます。
<河村又介九州大教授>
いや、臣民という言葉には封建的な響きが感じられます。国民としたほうがよろしいのではないですか。
<美濃部達吉>
臣民は臣民でいいじゃないですか。御詔勅には「汝臣民」とある。これを変えるということは、国体を変革することにもつながりかねない。
<野村淳治東大名誉教授>
臣民が当然だと私も思いますな。イギリスでの国王に対するサブジェクト、すなわち臣民となっています。国民にあたる言葉となればシティズンでしょうが、シティズンは共和国民でありますしね。
<美濃部達吉>
そうそう、それに宮澤君の言う「輔翼」も納得ができん。「輔翼」と「協賛」はどう違うのか、全然はっきりしないではないか。


半藤さんは、これらについて呆れながらこうおっしゃっています。

最後の段階になって、こういうことを議論してるんですねえ。これでは日本人の手による憲法ができるはずはないんですよね。

業をにやしたマッカーサーの気持ちが分かるような気がしますね。日本会議の主張や自民党改憲草案を当時のマッカーサーが聞いたら何と言う?ーーー

マッサーカー!?



  5月6日(土)
毎日夜8時から9時頃にかけて、ものすごい大音量でのカエルの合唱。そのすごさは実際に聞かないとわからないかもしれませんが、とにかくハンパじゃない。
ものの本によると、これはオスがメスを呼ぶ求愛の声。鳴き声でメスに自分の位置を知らせるのだといいますが、こんな夜中にまわり中で鳴かれたんじゃ、誰が誰だかわからないでしょうに。えっ?だからいっそう大きな声で鳴くんだろうって?
メスにすれば相手はよりどりみどりじゃないかと思ってしまうんだけど・・・。いつまでも鳴き声がおさまらないのは求愛が成就していないからなのか、えり好みしているからなのか。全くはた迷惑だよね。ま、早くうまくいくように願いましょう。早くしないとアオダイショウが目を覚まして襲ってくるからね。

「ヒトラー最後の12日間」を改めて見直しました。正視出来ないほどのシーンがいくつも出てきます。ただ、地下要塞に籠もるヒトラーを中心にしているため、反体制派や障害者などの殺害や生体実験、ユダヤ人のジェノサイドの実態などはほとんど出てきません。
この映画は2004年ドイツ、オーストリア、イタリア3国の共同制作。ヒトラーの個人秘書トラウドゥル・フンプス(結婚後T・ユング)の証言と回想録がもとになった映画です。
ブルーノ・ガンツ扮するヒトラーの迫真の演技と地下壕での一部のシーンが、その後いろんな吹き替えでパロディとして多用されことは有名ですね。
今日この映画について書き始めたのは、映画そのものを批評するためではなく、映画の終わりに年老いたT・ユングが述懐するシーンがあって、その言葉を紹介したかったからです。
T・ユングは、地下壕でヒトラーが自殺したあと、脱出に成功してかろうじて生き延びることになるのですが、この映画ではインタビューに応じて次のように答える場面が収録されているのです。

ニュルンベルク裁判で恐ろしい話は聞きました。600万人のユダヤ人や人種の違う人々が無残に殺されたと。
これらの事実は大変ショックでした。でも私はそれを自分と結びつけられず安心していたのです。”自分には関係がない”、”私は何も知らなかった”そう考えていました。
でもある日、犠牲者の銘板を見たのです。ゾフィー・ショル、彼女の人生が記されていました。私と同じ年に生まれ、私が総統秘書になった年に処刑されたと。 そのとき私は気付きました。若かったというのは言い訳にならない。目を見開いていれば気付けたのだと。


(注)ゾフィー・ショルは白バラ抵抗運動の主要メンバーの一人。映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」(2005年ドイツ映画)は、国家反逆罪により21歳で処刑されたゾフィー・ショルの最後の日々を描いています。今から7、8年くらい前に観た(DVD)ことがありましたっけ。

安倍政権が日々ふりまいている無数のウソ・歪曲・開き直りなどを見るにつけ、若い世代の方々に是非この言葉の意味を映画からくみ取ってほしいものだと思ったことでした。



  5月5日(金)
午後から伊藤真弁護士の講演会に行く予定で、午前中ちょっと時間があったので、昨日の続きの草刈りをやっていました。
ところがほどなく腰が言うことを聞かなくなって左足に力が入らず危うく水路に落ちそうになった。やむなく1時間ほどで切り上げてしまいました。同じ姿勢で草刈り機を操作しているのがいけないのでしょう。何とも情けない。

子どもの日。今日の信濃毎日は「地域で次世代を育てる」とタイトルをつけて、松本での「無料塾」のとりくみを紹介していました。
記事は、子ども塾に通うようになり今春高校進学を果たした一人の子とその親を取材し、子どもの居場所があることの意義を伝えています。学校とは違い、ゆるやかにつながり、しかし親しみを込めて接することのできる場所というのは本当に貴重だと思います。
私がこの塾に関わり始めてからもう3年ほどになりますか。松本駅に近い病院の一室を借りて、安定的な運営ができるようになって次第に人数が増え始め、この半年ほどで急激に生徒が来るようになりました。それだけ、こうした場を求めている親と子がいるということでしょう。
子どもの貧困を拡大し、教育に困難を作り出し、教師を過労死ラインを超えて働かせる教育行政のひずみを正し、本来学校教育の場で丁寧なフォローが出来る体制が必要なのに、そこから放り出された子どもたちはどこへ行けばいいのか。
食を中心にこどもの居場所をつくる「こども食堂」の取り組みは飛躍的に増えていますが、学びを中心としたこうした「無料塾」はまだまだ緒に就いたばかり。私自身どこまで関われるのかわかりませんが、精一杯やるだけですね。

午後1時半からの伊藤真弁護士の憲法講座、これも超満員の聴衆で憲法への関心の高さを示すものでした。ただ、やはり中高年集会の様相、若い人たちがもっと関心を寄せるためにどうしたらいいのか、若者たちと研究しないといけませんね。
伊藤さんの講演は、憲法問題の多岐にわたっていましたが、私なりに最重要点は何だったかといえば、やはり憲法と法律の違い。つまり憲法は国民が国を縛るものであるのに対して、法律は国が国民を縛るものであること。
たとえば、憲法第21条の集会・言論、表現の自由は国民の権利として国がこれを保障する義務を負うのに対して、社会教育法はこの憲法に基づいて国民(もちろん公民館運営者も利用者も)が守るべきものであること。それゆえ、行政による社会教育法の恣意的な運用があれば、憲法に照らして国民の権利としてこれを改めさせ(自らの首を絞める行為だ!)正しい運用を求めるために声をあげる必要があるということです。
伊藤さんの話の中に、私が現在メモを取りながら読んでいるヒトラーの「我が闘争」の話が多く出てきました。ドイツのワイマール憲法が授権法によって停止させられていく過程から多くのことを学ぶことができるという指摘は、私もまた痛感していることなので、頷きながら聞いておりました。
このことについてはまたいずれ書く機会があるでしょうから、今日はこの程度で。





  5月4日(木)
午前中は9時頃からバラ園で草刈りの作業。草刈り機を使って周囲をぐるっと刈り込んで汗だく。さすがに連休中ということもあって、参加者は4人。おしゃべりも早々に切り上げました。

妻はゲートボールにでかけて帰ってこないので、昼食を済ませてからまた家の前の土手の草刈り。数日前からずっと刈っているのですが、面積が広いので1週間ほどかかります。
その後は畑にでかけて、今日こそのトマトの苗植え。支柱をたて、水をやって約30本植えました。トマトが大好きなのと、トマト・ピューレにして保存できるので、どっさり植え込みました。余れば子ども塾に持って行けばいいのだし。
今日植えたのは大玉ばかり。ミニトマトは現在芽出し中で、たくさん芽を出しているので、それを植えればいいかと考えて購入はしていません。ただしどんなミニなのかは出来てみないとわからない。
苗を植えた後は、ゴーヤとヘチマの棚を作りネットをかけました。キュウリ、インゲンなどの支柱も立てて、あとは苗が育つのを待つだけです。
イチゴの花がそろそろ終わり、小さな実をつけている株も。あと2〜3週間ほどしたら採れ始めるのかな。去年は5月11日が初物でしたけれど、今年は相当に遅い。5月25日から5月一杯がピークというところでしょうか。これも沢山取れたらイチゴジャムです。

農業はゆっくりゆっくり流れる時間とのおつきあいなのだと、つくづく思いますね。種や苗を植えたら、それから早くても1ヶ月後、遅い場合は年を越して8〜9ヶ月後なんですから。
だから保存方法をよく考え、旬でない時期にも、作物がとれない冬の季節も、途切れなく食べられるように古来工夫してきたのですね。我が家はまだまだ初心者の域をでません。
夏野菜というのは採れ始めると、ものすごい量の収穫物になるので本当に工夫しないといけません。とくにキュウリ。今年は「古漬け」に挑戦してみましょうか。

核戦争、そこまで行かなくても重大な武力紛争がひとたび起これば、都会での日常生活が破壊されるのは当然として、多くの地域でこうした田園の営みは崩れ去る。これは日本のような外国に食糧を頼り切っている国ではストレートに人々の死を意味する。
安倍さんも、自民党の閣僚のみなさんも、「生きる」ための営みという初歩的なことがぜ〜〜んぜんわかっていないんじゃないかなあ。

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よく若い世代に「夢を持て」という言い方をしますね。私は基本的にこれが嫌い。否定はしませんけれど、夢って本来寝て見るもの。私なら「理想を掲げよ」と言いたいですね。
ところで、コメディアンの松元ヒロさんが自ら憲法になりきった一人芝居をやり始めてから20年になるといいます。この芝居をみた永六輔さん(故人)に絶賛され絵本にもなったのだとか。
この一人芝居の脚本は1997年、早稲田大学の水島朝穂教授らとともに作りあげたもの。これを見た作家の井上ひさしさん(故人)は「憲法が名文だと確信した」と楽屋に駆け込んできたのだそうです。
この方はコントグループ「ザ・ニュースペーパー」の結成に参加、後に独立したのだと履歴に書かれていた。「ザ・ニュースペーパー」はたまにテレビで見たことがあったけど、モノマネになり切らない場合が多くてあまり関心を持てなかった。しかし、2013年の「さよなら原発集会」に出演した「小泉純一郎」は出色。

話が飛んでしまいまいしたね。元に戻します。
朝日新聞(5/4ウエブ版)で作詞家・作家のなかにし礼さんも次のように語っていました。

戦争をしないことをうたう日本国憲法は世界一です。特に前文は人類の進化の到達点だといってもいい。世界に誇れる芸術作品ですよ。日本語として美しくないからダメだと批判する人もいますが、私が芸術だというのは、日本人の琴線に触れる叙情詩だといっているわけではないのです。憲法は詩でも小説でもない。世界に通用させるべき美しい理念をうたい、感動を与えることができるから芸術だということです。

憲法前文は誰かに読んでもらうのではなく、自分の声で読んでみることが大切なんじゃないでしょうか。先入観を持たずに読むこと、ですね。

ここに、ブログとしてははじめての日本国憲法前文の全文を掲げました。私たち日本国民は「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓」ったんです!!あの戦争から間もないのに、アメリカの草案があったとはいえ、よくここまでの奇跡的な「芸術作品」を作りあげたものだと感動します。ちなみに、マッカーサー草案もみておきましょう。違いがよくわかります。
憲法遵守義務を持つ内閣総理大臣がぬけぬけと改憲を口にするこの国の異常を、日本国憲法自身が痛烈に断罪していますね。

日本国憲法前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。



  5月3日(水)
朝早くから妻とその友人、それに私と3人で長野若里市民文化ホールでひらかれた憲法集会に参加しました。やはり映画を見たかったし・・・。
午前10時30分から、三上智恵さん監督作品の「標的の島 風かたか」。「標的の村」「戦場ぬ止み」につづく映画第3弾で、今回は宮古・八重山などでの自衛隊配備に揺れる、辺野古・高江で続けられる基地反対のたたかいの実相を、沖縄県民の視点で描いた映画です。
午後からは、その映画監督の三上さんの講演。超満員のホールは、立ち見が出来、さらに外にも入れない人が数十人いたとか。




三上さんがこの映画と講演のなかでとりわけ強調していたのは、「先島戦争」「宮古島要塞化計画」「『エア・シー・バトル』構想」のこと。ほとんどの人は「先島戦争」という言葉を聞くのは初めてじゃないかなあ。
2年前に、防衛相が宮古島と石垣島にそれぞれ800人、600人の自衛隊ミサイル部隊を配備すると発表したのですが、この「先島戦争」とはかいつまんで言うと、琉球弧を防衛線とするアメリカの軍事戦略にそって、米軍の補完部隊として自衛隊ミサイル部隊を配置し、軍事衝突が起こっても地域限定戦争にとどめようとするものです。
彼女は次のように指摘する。

もし中国が琉球弧防衛線を破ろうとして先島諸島を攻撃すれば、アメリカはまず撤退する。撤退した上でオーストラリア軍とともに奪還作戦をとるだろう。現在日米で行われている『離島奪還作戦』とはそのためのものだ。・・・

日本の人々は、もし中国が攻撃してくるようなことがあれば、米軍は直ぐに応戦してくれるものと信じている。しかし、実際はまるで違う。宮古や石垣島が沖縄本島の捨て石にされるに過ぎない。


実際、中国は「環球時報」で「日本の新型地対艦ミサイルが配備される宮古島は、必ず中国の戦略的照準対象になる」「この島(宮古島)の軍事基地は開戦時に最初に抜き取るべき『クギ』になる」と書き、アメリカのあるシンクタンク(ランド研究所)は「(尖閣をめぐる紛争で)中国が日本と軍事衝突したら、日本列島は5日で陥落する」というシミュレーションを出したと伝えられるのです。
先島諸島にミサイル部隊を置くということは中国の目と鼻の先に武器を置くことですから、中国にとっては看過できないと考えるのは当然でしょう。
この映画で三上さんは、沖縄の人たちの中に「自衛隊は抑止力になる」とか「地域経済の活性化に役立つ」などとして自衛隊配備に賛成する人々が多数いることも忘れない。しかし、米軍戦略の実態をどこまで理解してそう言っているのかと疑問をなげかける。
先のシミュレーションについて報じた渡瀬さんは次のように書いています。

今回の机上演習で特に注目に値することは、日本が中国のミサイル攻撃によって成す術もなく多大な被害を出して敗北すること、そして米国は甚大な被害が生じる日中開戦に引き込まれることを極めて懸念していること、です。

三上さんは、自らのブログで次のように書く。

なぜ宮古島が、石垣島が、意味もなくリスクを負い、真っ先に攻撃対象にされる恐怖と今後永遠に向き合い続けなければならないのか。攻撃される理由をわざわざ提供するようなミサイル配備は、日本の安全を守るどころか、わざわざ導火線を設置するようなものだ。開戦に直結する導火線を、我々の税金で作るというのか。沖縄関係防衛費概算要求は1780億円(26%増)。狂気の沙汰である。

さて、映画では辺野古新基地建設反対のたたかいの先頭に立つ山城博治島袋文子さんらの姿を克明に追っています。なぜそうしたかについて彼女は、ネット上で山城さんは過激派テロ組織の頭目のように描かれており、5ヶ月にのぼる勾留の間に多くの活動家が「共謀」したとして逮捕されていることがあるのだと、悔しそうに話しました。そして、でっち上げられた人物像ではなく実際の生身の姿を多くの人に届けなければならないことを痛感したからだと語ってくれました。
映画をまだごらんになっていない方は、今後の情報に是非ご注意を。三上さんのブログで撮影に関わるエピソートやさまざまな情報を伝えてくれていますので、ぜひお読みになって下さい。
正直にいえば、三上智恵さんは、私には”ついて行けない”ほど感情が豊かで鋭い感性の持ち主。それゆえ、第1回作品以来ずっとフォローしている次第なのです。

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安倍首相、いよいよ正体むき出し。東京都内の改憲派の会合にビデオメッセージで、「2020年を、新しい憲法が施行される年にしたい」と表明したという。戦争放棄などを定めた9条に自衛隊の存在を明記する文言を追加するよう提案したとも報じられました。(ご丁寧に「産経」がまたまた全文を紹介してくれています)
このまえの安倍首相の話には具体的なことが一切含まれていませんでしたが、今回はかなり具体的に改憲内容に踏み込んできましたね。
「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」のだそうです。また、教育についても大学までの教育費無償化とは言いませんでしたが、「高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものとしなければならない」と自民党の大学までの無償化に含みを持たせました。
自分の手で改憲をというのは彼の悲願ですから、別に驚くほどのこともありませんが、彼が足下でつづく閣僚たちの不祥事に苛立ち、身内(家内)からもトンデモ話が出てきて焦っていることは間違いない。

自民党が突如改憲の1つの項目に大学までの教育費無償化を言い出した背景には、維新を取り込み、何としても改憲を成し遂げたい苛立ちがあるのでしょう。中学まででさえ、表向きの無償化とは裏腹に多額のお金がなければ子どもを通わせることができない状況を改善できもしないし、子どもの貧困を放置し広げてきた政権に、大学までの無償化を語る資格も、その財源を作り出せるはずもありません。
民主党政権が高校授業料無償化を行おうとしたときに、「無責任なばらまき」「果たしてこの政策に年間4000億円もの税金を投入するだけの効果があるのか」と批判していたことはすっかり忘れてしまっているようです。
その財源は?と聞かれて「教育国債」民進党が先?)まで繰り出して無償化が可能なのだという幻想を振りまいている。
ともかく、日程まで示して改憲への最後のコースを走り始めた安倍改憲勢力。憲法記念日の今日は、日本の歴史の分岐点に位置する日になりました。



  5月2日(火)
朝から田植えの機械の音。夜になればカエルの大合唱。昼はツバメ飛翔とさえずり。芝桜、チューリップ、若葉の淡い緑・・・5月初めならではの田舎の風情です。


今日は朝から夕方まで畑で農作業。いつも苗を買うお店に行ったら、もうネギの苗がでていた。「えっ?早いんじゃないですか」と聞いたら、「そんなことありませんよ。でも今年は苗が不作で入荷が少ないんですよ。今度いつ入るかわからない。見つけたときが買い時です」ですって。お店の売り方かとも一瞬思いましたが、ウソをいう人ではありませんので、気候のせいでそうなのかなと。
いつもの通り松本一本ネギ100本、下仁田ネギ100本を買ってきて、今日の午前中に植えてしまいました。ネギは今年秋から来年春まで食べられるので、大切な食材です。
午後からは、トマトの苗を大量に買い込んで、植える場所を整備。ただ明日もまだ霜注意報が出ているので、植えるのは連休明け。それでも、トマトやキュウリ、ゴーヤ、ヘチマなど高く伸びたりツルになったりするものは支柱やネットが要るので、その準備もしなければなりません。
なんだかんだと、傷む腰をかばいながら休み休み作業をしていました。
今年は植えた種の芽が出てこない。夜もそれなりの温度にならないとダメなのかもしれません。気長に待っているしかありませんね。

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5月1日に改憲をめざす超党派の「新憲法制定議員同盟」が東京都内である集会を開きました。「平成29年度新しい憲法を制定する推進大会」です。その模様はニュースでも流され、これに出席した安倍首相が改憲への強い意欲を示したと報じられました。司会者は安倍総理にご出席いただいたと紹介したが、本人は自民党総裁として出席したと断ったのだが、腹は首相として出たということでしょう。
産経新聞(Web版)はその全文を紹介するくらい熱の入れよう。ところが安倍首相が実際に述べたものとは微妙に違っています。多分、原稿をあらかじめ入手しそれを掲載したものと思われます。
その挨拶の模様はすでにYouTubeで見ることができますが、次に私が実際に聞き取ったものを載せておきますので、参考にしてください。

安倍首相挨拶全文

さて、この挨拶を聞かれたみなさんはどうお思いでしょうか。安倍が並々ならぬ決意を述べたことは間違いないし、この集会には民進党、維新の党などの野党の議員も参加しているのですから、得意満面、意気揚々と話しているのも頷けるというものです。
ところが、奇妙なことに、彼は改憲の中身については何一つ語っていないのです。自民党が野党時代に作った「自民党改憲草案」を党の公式文書だとしつつも、そのまま憲法審査会にかけるつもりはないなどとも語っています。
改憲の内容を隠して改憲を呼号しているのは以前からですが、この期に及んでもなお全くそれに触れないのはどうしたことか。これこそがまさしく自民党のマヌーバー戦術だと私は考えています。とにかく改憲ありきの雰囲気をつくってしまおう、中身はもう少し機が熟してからというわけです。

何のための共謀罪なのか。いよいよその狙いが見えてきました。
共謀罪を先行させ、異論を出せない状況を作りあげてから改憲にとりかかる。そのときに示されるのは、やはり自民党改憲草案です。これではあまりに露骨だから、これを引っ込めるかわりに緊急事態条項と家族条項を押し出してくるという策略。日本会議の描く戦略です。
共謀罪はテロ対策ではありません。国会を取り巻くデモや各地での反対集会、抗議行動を萎縮させ恫喝するための道具にすぎない。改憲こそがその先にあるものだとみておかなければならないでしょう。
その意味では、決して彼らの動きを侮ってはいけない。一気呵成にやってくる可能性が高いのです。事実、3月4日に開かれた自民党議員を中心とする保守系の議員連盟「創生『日本』」の会合で安倍首相は檄を飛ばしていますし、その際の首相の認識について、衛藤補佐官が次のように語っていたことが産経ニュースで紹介されていましたから。

衛藤氏によると、首相は昨年7月の参院選の結果、いわゆる「改憲勢力」が衆参両院で憲法改正の国会発議に必要な3分の2を超えたことを踏まえ、「やっと発議できるようになったのだから、自民党が議論をリードしていかなければならない」と語り、改憲に向けた環境整備を早期に進めるべきだとの認識を示したという。

だとすれば、私たちの改憲阻止のたたかいも当然急がなければなりません。もちろん、これまでとは質的に異なるものへと高めなければならないことは当然です。戦後の政治的枠組みをめぐる決戦のときが迫っていることを予感させます。



  5月1日(月)
午前中は雨か?11時過ぎにはかなり強い雨になり、メーデー集会が心配です。これまでは雨にたたられたことはありませんでしたが、今年は運が悪かったようですね。何とか午後から晴れてくれるように願いましょう。
メーデーで思い出すのは、私がまだ20代だったころのこと。24才か、25才の頃だったでしょうか。初めての職場(名古屋)で、仕事は午後からだったために午前の集会には参加の動員がかかった。職場の仲間といっしょに集会場へ向かうとき、道ばたに「ハナミズキ」がたくさん咲いていたのが、空の青さとともに妙に目に焼き付いているのです。「晴れた5月の青空に・・・」というメーデー歌も心うきうきする気持ちで聞いていた。
就職時の賃金は3万円程度でしたが、70年代初めから半ばにかけてうなぎ登りに上がっていった。みるみる10万円台になり、差額調整であとで支払われる賃金も相当に大きなものがありました。今から見ればまるで夢のような話です。
自動的にそうなったわけではなく、高度成長政策のおこぼれという側面と、労働運動のそれなりの高揚があってのこと。組合でも賃金理論の勉強も相当に力を入れて行っていましたから、大企業組織労働者や官公労以外はほとんど未組織の派遣労働者という今日では考えられないような時代でした。
働く人々にとって困難な時代だとはいえ、たとえばめちゃくちゃなロックアウト解雇を行った日本IBMに対して裁判闘争をたたかい職場復帰を勝ち取った全労連傘下の日本IBM支部組合員11名の姿は希望を与えてくれます。メーデーにふさわしい朗報ですね。

安保法制の新任務として自衛隊護衛艦が米軍艦船を防護するといいます。アメリカの軍事的圧力に同調し北朝鮮の挑発を利用してどんどん前のめりになる安倍政権の危険性をはっきりと示したものといえるでしょう。
それが唯一の選択肢としてしか描けないマスメディアも、そうした空気を助長していますから世論調査をやっても内閣支持率は下がらない。安倍内閣のモラル崩壊も何のその、米韓防護も過半数が容認というわけです。その「結果」に誰がどのように責任をとるのでしょうかね。「あのときはそうするしかなかった」と言うのでしょうか。そうではないと言い続けるべきです。




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