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  3月23日(日) 晴れ             沖縄戦のこと

仕事や家事の合間に読書も少しづつの進行ですが、今日は最近読んだ本の紹介をします。
昨年の暮れに帰省した際、平和記念館で夫が購入した「沖縄戦の真実と歪曲」という本を読ませてもらいました。著者は大城将保(まさやす)さん。私と同じ玉城村(現、南城市)の出身でした。
中学校での2年先輩くらいまでの人ならだいたいわかりますが、5歳も先輩となると入れ代わりになるのでわかりません。
著者の紹介をしますと、沖縄史料編集所の専門員として沖縄県史の編集にたずさわった後、県立博物館長を務めていらっしゃいます。また沖縄戦研究者として多数の著書があります。現在は沖縄大学にお勤めのようです。
この本の内容はプロローグに1972年の本土復帰までの経過が記されており、大変な思いで復帰に至ったことがよくわかりました。
第一部、教科書検定はなぜ「集団自決」記述を歪めるのか。大江・岩波「集団自決」訴訟の背景や、「住民虐殺」から「住民自決」の問題が証言をもとに事細かく記されています。これらは座間味村初め離島の島々でひどく行われていたようです。実際に軍命で指揮をとった人がそんな事実はなかったと訴えて争っているのです。
第二部、沖縄住民が体験した「軍隊と戦争」。私が一番知りたかった部分です。
戦争の体験談と言えば母から聞く程度で、母は父の仕事の関係で沖縄北部に住んでいたのでその地の体験しか聞いていません。一体玉城村の人たちはどんな風に戦争を生き延びたのかわかりませんでした。この本の中では、著者自身の体験談をもとに、家族や親戚はじめ村の人たちの証言も合わせて書かれています。
彼は百名という部落の出身ですので書かれている動きが手に取るようにわかるのです。懐かしい地名も出てきます。百名にも兵隊部隊が実際にいたという事実には驚きました。今まで聞いた事がなかったので、しかも住民を追い出して村の一番いい場所に陣取っていたようです。そこでのスパイ狩りの様子も記されています。糸数壕の話や村中の悲惨な様子が細かく書いてあります。
離島だけでなく、わが村の糸数壕や隣村の知念村でも住民虐殺事件があったようです。これは彼のいとこの証言で実際の名前まで挙がっています。理由はやっぱりスパイ容疑です。

「方言撲滅運動」と言うのが私達が小学校に入学した頃まであり、方言を使った人に「方言札」が首に掛けられ次から次へと回っていくのです。恐怖だったことが思い出されました。その頃は深い意味があることも知らずにいたのですが、戦時体制を強化する国民精神総動員運動の一環として行われていたことから始まって、戦後まで続いていたのです。また同時に頭にきたのは、「方言撲滅運動」と一緒に「風俗改良」と「改姓運動」もあり、沖縄芝居や紅型文化まで槍玉にあげられて廃止され、難しい名前の人は改姓させられたそうです。細かいことは書ききれないのが残念なくらい悲惨な戦争の様子がわかります。
戦争終了と同時に米軍が入り、復帰と同時に自衛隊が入り沖縄は大きく変っていきます。復帰後わが村の米軍が引き上げてその土地はゴルフ場になり、女流プロの登竜門になっているそうです。
今や沖縄は観光県として多くの観光客が訪れるようになっていますが観光業界では米軍基地の存在は触れたがらない傾向にあるといいます。しかし臭いものにフタをするのではなくむしろ「基地の島」の現状から日本の将来を見渡すような「考える旅」を勧めてもいいのではないでしょうか。
この本の著者が沖縄を語ったり紹介したりするときにいま心がけていることは、端的に沖縄の特徴を示して沖縄の全体像を浮かびあがらせる工夫だといいます。そして次の6つのポイントをあげてます。
@亜熱帯のサンゴ礁の離島県 A琉球王朝の時代 B琉球王朝文化の伝統 C沖縄戦の体験 D基地沖縄の戦後史 E横型共同体社会の生活。
今も多くの高校生が修学旅行に訪れています。彼らにぜひ沖縄のことをもっともっと話してほしいと願っています。
読み終わって一番驚いたのは著者の記憶力のいいことです。戦争のとき5歳だったのにどうしてこうも覚えているのか。私は5歳の記憶なんて何もない。兄も4歳だったがやっぱり戦争が記憶にあるといいます。戦争という恐ろしい体験が記憶させたのか。今度帰省したら直接お逢いして自分の部落の話も聞いて見たいと思っています。
高文研出版。ぜひご一読をお勧めします。


  3月21日(金) 晴れ        インターバル速歩とは

日中は部屋の中でも17度と暖かく気持のいい日和です。午前中は家の周りを散策してフキノトウを沢山とってきました。夕食に半分はフキ味噌、半分は天ぷら、香りが良くて美味しく春を感じました。
仕事が休みの時は気分的にも楽で、やりたいことも後回しになってしまいます。ゆっくり新聞を読んだり、本を読んだり夕方までのんびりしていまいました。

夕方から夫は仕事に出かけ、私は町の保健センターが主催している健康に関する講演会に出かけました。熟年体育大学リサーチセンターというところが普及を始めている「インターバル速歩」というもので、池田町では2年前から実施しているとのことでした。
聞いてみると講演会というより実践者の報告会と説明会でした。器具を購入して、好きな時間と場所で自分の歩行運動を行い、その速さと頻度が目に見えるグラフとして確認出来るというものでした。
トレーニングですからただ歩くのではなく一定の法則があり、体力測定によって個々の運動メニューが決まるのだそうです。毎日ではなくてもいいとのことで、半年間メニューをこなして、身体にどんな影響を与えているか身体計測や血液検査などと合わせて管理するというものです。
友人はすでに実施していて「確かに効果があるよ」と話していました。その話を聞いていたので今日の話を聞きに行くきっかけになったのです。
以前は器具はレンタルだったそうですが、永久に使うのでレンタルするより購入の方が安くなるからと購入方式に変ったそうです。器具はなくても今日教えてもらった歩き方で毎日実施すればいいけど、長続きはしないよ・・・とその方の話。ある程度金をかければ「もったいない」というので続くのだそうです。また、2週間ごとにデーターを送信する作業もあるのでさぼれない・・・などとも教えてくれました。
要は町の「メタボ」対策の一環です。4月からはいよいよ特定検診が開始されます。医療費を少しでも減らすために町も必死になっていろんな運動教室が開催されます。これからの高齢化社会をいかに健康的に過ごすかは本人次第です。町にあれこれ言われるのもしゃくですが、老化は足からと言われます。私も三日坊主ですので、少々考えてみようかという気持ちになりました。


  3月13日(木)〜16日(日)       二回目のボーリング全国大会参加

愛知県稲沢市へボーリングの全国大会に行ってきました。二日目だけ”どしゃ降り”の雨でしたが、後は好天気でした。名古屋はやっぱり暖かいですね、畑の作物を見ても明らかでした。
全国から選手が集まるので開会式は3時です。参加者は600人あまりでした。
私は、今回は昨年に続いて2回目の参加ですので気分的にも落ち着いていました。思い起こせば昨年は緊張の連続で周りを見渡す余裕もなかったですね。余程上位の人以外は大して変わりないことがわかっただけでも楽でした。
今年の長野県の代表は12人中10人がいつも投げている城山ボールの人だったので、慣れた人達で和気藹々と車に乗りあわせて現地まで行きました。今年はジュニア、中学生の女の子も参加しているので父親も付き添いでの参加です。選手同様仕事を休まなければいけないので大変です。4日間という長丁場ですので若い人は仕事が休めないと参加したがりません。


二人チーム戦6ゲーム、3人チーム戦6ゲーム、6人チーム戦6ゲームと3日間で投げるのです。長丁場ですのである程度体力も必要になります。
ジュニアの女の子はか細い体格のせいか、二日間終了時点でエネルギー切れが生じて大変でした。見ているお父さんもはらはらしていました。今年が大きな大会への初参加ですので、まだまだこれからです。3日目は元気になりいつものように投げていましたが、勉強になったと言っていました。
他に高校生も二人いましたが、他の県はそれ以上に若手の育成に力を入れているので長野県はやっぱり弱いですね。長野県はチームワークで面でも毎回あまり良くないので普段の力を発揮しにくいのです。今年はその点では問題はなかったのですが、やっぱり全国の壁は厚いです。ホームグランドで何べんもパーフェクトを出した人でも全国では打てないのです。
上には上があり、今年は男子決勝にはベテラン勢が多く残っていました。女子は若手が力を発揮していました。静岡県はナショナルチームに入っているという選手が二人もいてさすがに強い。男性ファンが多く、わざわざ応援に来た人もいました。「長野の男子よりも強いよ」なんて皮肉を言う人もいました。
自分はどうだったかと言えば、まあまあ自分のボーリングが出来たような気がします。6人チーム戦では少々タイミングがつかめず終わり頃にようやく調子が出て来て残念でした。しかし昨年よりは良かったので少しは面目が立ちました。
城山でトップボーラーの一人が「今度こそ全国には行かないぞと思いながらまた行きたくなるので困ったもんだ」とボヤイテいました。
朝早くから夜遅くまで、ホテルとボーリング場の往復でしたが、終了後の夕食では名古屋の美味しいものも沢山食べてきたし楽しい大会でした。


  3月6日(木) 晴れ      夫婦で芝居見学

3月に入って晴れの天気が続いています。安曇野は黄砂の影響もなく、山が毎日綺麗です。
毎週木曜日は隣村のプールに通っているのですが、この村から見える山は、近すぎて壁のようになっています。やっぱりうちの高さの地点から見るほうが一番いいと自負しています。


プールで運動のあとは、温泉ではありませんが風呂が楽しみです。池田町にはプールはないので松川村か安曇野市のプールを貸してもらっている状態で、開館前の時間を使用させてもらっています。
私達が帰る頃に村のお年寄りが来ます。毎日のように来ているそうで顔馴染みになりました。「痛いところを治すのならプールで真剣にならないとだめだよ」と釘をさされてしまいました。その方がたはいつも3〜4人で連れ立ってプールに入るので感心しています。見習いたいです。

夕方は演劇の例会です。サークルの一人が都合悪くなったので夫に誘いが来ました。夫は演劇を見るのがあまり好きではない(?)ので「行かないだろう」と勝手に決めていましたが、「休みだし、行こうか」との返事。一緒に芝居を見に行くなんて何年ぶりだろう、嬉しくなりました。
会員手帳は本人以外の利用は公には認められていませんが、会員拡大の理由で使うには暗黙の了解がされています。夫は仕事が夜ですので会員にはなれませんが、今までいろんな活動に協力してくれたご褒美です。
少し早めに家を出て食事をしてから会場に向かいました。大北地区で文化会館といえば大町まで出かけなければいけません。
今日の芝居は劇団朋友「明日の幸福」です。出演は渡辺美佐子、長山藍子、竹脇無我、児玉泰次。知名度の高いこともあり、いつもより多くの方が鑑賞していたようでした。私達の席も前の方でかぶりつき状態で見ていました。
竹脇無我さんについては、欝病の治療で長いこと芸能界から姿を隠していたので、復帰したと聞いた時には少々心配でした。欝から脱した特有の痩せた状態でしたが、なんとか判事役をやっていました。やっぱり以前の方が好きですね。渡辺美佐子さんも病み上がりと聞きましたがお元気そうで安心しました。
劇の内容は、経済団体の理事を務める当主夫婦、長男夫婦、孫夫婦と三世代同居の大家族。その松崎家は3人の女中、運転手を雇う大金持ち。すべて金で解決し、見栄で固められた生活。三世代の夫婦の生き方、考え方から本当の自由とは何かを考えさせられました。家宝の埴輪をめぐって起きる騒動が滑稽でした。最後に、大奥様がついに爆発。切れる場面は少し弱かったね。因習やワンマンな亭主に対する不満や怒りをもっと強くぶつけても良かった。明日の幸福とは、新婚だけが明日に幸福があるのではない。でも笑えて楽しい芝居でした。
最後に劇団が新稽古場に引っ越したのでカンパの訴えがありました。カンパと引き換えに劇団特製の「白い文庫本」とありましたが、ただのメモ帳でした。
今回初めて幹事ではなく普通の会員として鑑賞しました。ロビー交流会にも参加しないで帰ってきました。楽と言えば楽ですがなんだか寂しい気もしました。


  3月3日(月) 晴れ     ひな祭り

昼過ぎから洋裁教室に出掛けました。天気のいい日の寒暖の差は激しいです。昼は暖かいので庭の雪ももうほとんどありません。
雪が解けたらフキノトウが沢山顔を出していました。寒いので蕾はまだ固いのですが、暖かくなったら一気に開くのでしょう。近くでは水仙も芽を出して春の準備をしています。
夕方近く,帰る頃にはもう寒くなり、教室のある山形の方は小雨が降りだしました。途中リハビリに寄って来たので少々遅い帰宅になったので夫が夕食の準備をしていました。
3月3日はひなまつり、そして娘の夫の誕生日でもあります。プレゼントは何も出来ませんでしたが、メールでお祝いの言葉を送りました。
娘の嫁ぎ先では毎年ひな祭りと一緒にお祝いをしています。今年は店が定休日になり出掛けるので、昨日のうちにお祝いをすませたそうです。何年か前にちょうどひな祭りの際にお邪魔したのですが、段飾りの大きいお雛様を飾ってありました。出したり仕舞ったりするのが大変だとのことでした。よく「しまい遅れると嫁に行くのが遅くなる」なんて言うのでみなさんすぐにしまうのでしょうか。
うちでも子ども達が小さい頃は簡単なひな祭りをしていました。お雛様はひな壇飾りではなく、ガラスのケース入りの簡単なものでした。しかし、一旦出すと忙しさにかまけていつまでも放置していました。暢気で「迷信」はあまり気にしなしていませんでしたね。
それでも、娘もまあまあ人並みに結婚は出来ました(笑)。そんな苦労があるので今年は内裏さまだけにしたのでしょうか。略式雛の前で二人とも可愛く写っていますね。ついついアップしたくなります。
息子の初孫も女の子、どうしているか連絡したところ2月から風邪からいろんなウイルスが感染して大変だったようです。ヘルペスもひどく泣いた写真が届きました。ノロウイルス感染で下痢がひどくてお雛さまも出来なかったようです。元気になったらまた紹介します。


  3月2日(日) 晴れ     猫騒動

春3月と言えどまだまだ寒さの方が優先します。しかし昨日、今日と天気がいいので日中は暖かく春の日よりでした。しかし夕方になると相変わらず寒くなります。
夫は受験生の追い込みで日曜日も予定が入って早々に出かけました。
今日は町内の新年交流会の予定が入っており、これには私が出ることになりました。場所は徒歩15分くらいの公民会ですので山を見ながら歩いて行きました。
こちらに引っ越してきてから1年半がたちました。この会合に出るのも2回目です。まだ名前と顔が一致しませんが、少しは知り合いも出来ました。58所帯あるそうですが、一家から2名の参加も含めて約半分位の世帯から参加者がありました。
以前は大勢の人数だったので温泉に出掛けていたのですが、年々参加者が減り現在の公民館になったそうです。大事な会議の際、欠席者の罰金制度が導入に至った経緯がわかる様な気がしました。
昨年は確かカラオケがありましたが、今年は常会長さんの計らいで会話重視ということになり、食べながら飲みながらの交流会でした。
自己紹介は家庭の近況等を報告するのですが、話好きの人、芸を披露する人、愉快な人が多くいました。最近県外から来たという人もあり、「信州がこんなに寒いとは想像以上でした」と話していました。「寒さに耐えての頑張りが長寿県に繋がっているのでは」と感想を述べていました。それほどに今年は寒い日が多いのです。
私は昨年母が死去した際にお世話になったお礼と、猫のハルちゃんのことをお願いしました。(詳しくは下記)
役員をしている中に素人落語をしている人がいるので本日のゲストとして披露がありました。七五三掛(しめかけ)に関する創作落語で、みんなを楽しませてくれました。
生まれてこの方ずっとこの地に住んでいるという長老が、七五三掛も変ったもんだとしみじみ話されたことが印象的でした。昔は畑仕事だけで楽しみはなかったが、今は落語や歌も聞けるし長生きしてよかったと。またボチボチ新築もあるし、まだ少しは賑やかになるのではないでしょうか。

さて、この2,3日我が家では飼い猫のひと騒動がありました。
2月1日(金曜日)の夜のこと、うちの飼い猫ハルちゃんは私が仕事から帰るのを待って一緒に家の中に入りました。しかし、それからの行動が全くわからなくなってしまったのです。
その日は、いつものように二階に上がって寝ているのかと思って気にもしていませんでした。寝る場所が沢山あり、たまに何処にいるのかさえわからないこともあります。しかし、何処にいても夜は必ずといっていいほど私達のベッドに来て布団にもぐったり、または寝ている足もとの布団の上で寝るのです。
ところがその日は一度も来ませんでした。次の朝も顔を見せなかったけれど、夕べも来なかったし朝早くに何処か遊びにでも行ったのかなという程度に思っていました。ところが、土曜日の夜になっても帰らないのでいよいよ心配になり、ひょっとして交通事故にでもあったのではないかと心配になり、夫と懐中電灯を持って近くを探しに行きました。
うちの猫は臆病であまり遠くへは行かないので、家の後ろの車道付近を探したのですが、事故の気配らしいものは見つかりませんでした。見つからなくてほっとしました。まだ元気に帰ってくる期待が持てたからです。
その内いつものようにホイと帰って来るだろうと期待しながらも、一晩中気が気でなりませんでした。何度も帰ってきたような気配がしたのですが気のせいでした。子どもみたいにこんなにも心配するとは自分でも思わないほど、気が気ではありませんでした。まる二日も帰ってこないなんてことはこれまで一度もありませんでしたから。
夫は意外に冷静で「大丈夫だよ」と言いながらも内心は私以上に心配で眠れなかったようです。朝も早くから起きて近辺を再度見に出かけていましたから。
町内の方に、見つけたら連絡してくれるようにお願いをしょうということになり、先に書いた新年会ではそのことをお願いしたのです。
猫を長年飼っている方が、「2〜3日なら心配ない、猫は時々長くて一週間もいなくなることがある」「心配ないよ」と太鼓判を押して下さいました。その言葉を聞いて少しは安心しました。
そして、新年会も終わろうとしていた昼過ぎ、夫から連絡が入り、「ハルちゃん帰ったよ」と。夫が仕事から帰宅したら何食わぬ顔で、家の中から出てきたとのこと。「このバカ猫、心配かけて。すみませんの一言も言いなさい」と言いたくなりました。4年近くも飼っているのに、猫のことがよくわかっていなかったのですね。帰ったらいつものように電気絨毯の上で安心しきって寝ています。
いたら世話がやけるし、いなかったら心配だし。大事な大事なハルちゃん、「猫はかすがい」になっています。






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