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12月21日(木)快晴    元気で再会を誓う
久しぶりに晴れました。使ったシーツなどを洗濯して、取り入れは兄たちにお願いしてきました。今日はお別れです。
こんな事ならもっと早くに母に伝えて一緒にいる時間を多く持てば良かったと反省。
私は長野へ、妹は山形へ。名古屋と東京都行き先は違うけど出発時間がほぼ一緒だったので同じ頃に家を出ました。母は今日まで休みたいと言っていたが兄たちが連れに来たので仕方なく施設に戻りました。
四十九日は一応終えているけど、27日に家族だけで簡単な法事をするそうです。その時連れてきてもらえばいいと話をしたら納得した様子でした。
後のことは兄たちにお願いしてさよならしてきました。妹たちとも久々に話が出来て短時間でしたが買い物ついでに食事をしたり出来ました。こんなことでしか会えない状況はちょっと悲しいけど、反面姉妹の絆が強くなった気がしました。


私は毎年帰っているので心配はないけど、山形の妹は何年かに一度の位にしか帰らないのでこれからは少々考え直した方がいいかなと言っていました。
元気に再会することを誓って帰ってきました。残念ながら東京の妹は身体が不自由のため来られず、会えなかったのが残念でした。母はあと2年で百才、今度はお祝いでみんなで会えたらいいけど。


12月20日(水)晴れ   七日と四十九日の法要
葬儀が終わって鶴岡の妹と二人で実家に泊まりました。21日に帰るまでここに泊まるのです。
母は元気ですが、骨折後遺症でリハビリのため施設に入所しており、実家の夜は空状態です。3匹の猫たちが我が物顔で飛び回っています。昼は兄が来て農作業と猫の世話をして自宅がある浦添まで帰るのです。6日間の滞在期間猫たちと一緒に生活しました。


今日は最後の墓参りでした。葬儀の次の日の18日、19日、20日と3日間お墓通い。「なーちゃみ」(翌日見届ける)という行事だそうです(迷信でしょうが土葬の頃次の日に生き返った人がいたそうです)。そんな訳で代々今でも続いているのです。
今の時代こんなことはなくなっているはずだと兄は怒っていた。
しかし弟の嫁さんは信心深い人でそんな忠告は何処吹く風と耳に入らない。まあいいではないかと私たちも付き合いました。
事情が事情でたまたま葬儀が遅くなっただけで今日20日が初七日の法要です。私たちは明日帰るので法事は何とか間に合いました。正月を越すとまずいからと四十九日の法要も一緒にするとのこと。
今日が母に伝えるチャンス、誰がどう伝えるか?。兄夫婦も反応が怖くて言い出せないという。ちょうどその日は母の病院受診の日で帰宅したのは1時過ぎでした。
11時からのお坊さんのお経は間に合わなかったけど、昼食後に知らせました。妹がその役を買って出て真実をありのまま伝えました。
「こんな役にも立たない年寄りを残して若い者が何で早く行くんだ」と号泣。覚悟はしてたけどショックで倒れることはなくて一安心。少々気持ちが落ち着いた頃を見計らって弟の家に案内しました。
祭壇を見るやまたまた号泣。妹はそんな母の側でいろいろ元気づけているが、このような状態の時はどんな言葉も耳に入らない。妹に黙っていなさいと忠告。暫くして落ち着いた頃に従姉妹が来てくれたので、相手をしていてもらいました。
この辺の風習は以前は七日毎に四十九日まで毎週法事をしていたので、村の人も毎回お参りに来ていました。しかし近年はまとめて法事を行うようになったので、今日が七日と四十九日の法要だから村の人たちもほとんどの家がお参りに来て下さるのです。
本土の親戚だけで法要をするという事ではないのでちょっとした御膳を出すにも人数の見当がつきません。どんな風にやっているのかいつも不思議でした。




母をすぐに連れて帰ろうと思っていたら、部落のみんなが来るからここにいなくてはいけないと弔問に来た人に挨拶をしていました。物忘れがひどく、同じ事を何回となく繰り返すことがあるので認知症が始まったかと思っていたが、こんな時はまともに話しているのでまだしっかりしているんだと感心。
長男として客の相手をしなければいけない兄は一日中来客の相手をするのが苦手で帰ってしまいました。
弟は7人兄弟姉妹の末っ子で兄とは17も歳が離れているのでショックは大きかったようです。辛いのはよくわかるけど少しでも座ってくれたらいいのにとこっちも冷や冷やもの。
村の人たちが陰で言う事がわかるので。我が道を行く兄にこんな事を言っても通じません。死んでからいろいろやっても意味がない、生きているうちに大事にしなさいとの持論です。
これは解りますが田舎では人との付き合いもほどほどにした方がいいのでは?と思うが難しいですね。

夕方まで母が代わりを務めて来客が少なくなった頃を見て連れてきました。今日一日ですが、私と妹の3人で久しぶりに遅くまで話し込んでしまいました。母専用の椅子は今は猫が独占しているので、猫は困った表情でうろうろしています。いつまでも母が動かないのでとうとうしびれを切らして母の膝に上って来ました。あまり人に抱っこされない猫ですので私たちもびっくり。妹は「敏也が甘えて来ているのかも」と変なことを言い出す始末。つい笑ってしまいました。
寝る頃には気持ちも大分落ち着いて寝てくれました。「案ずるより生むが易し」とはこのことでした。






12月17日(日)曇りのち晴れ    葬儀の日
朝はまだ降っていた雨も上がりだんだん天気になってきた。10時に葬儀場行きのバスが出るというので早めに弟の家に行く。
葬儀場の祭壇飾りはこちらとあまり変わらないが、花盛りが多く果物などは少なかった。ビックリしたけどその花も葬儀参列者には配られなかった。
親族席が男女別になっているのも違和感の一つでした。香典返しにも葬儀の挨拶状もついていません。何もかもすんでいる地域との差が大きく戸惑うばかり。
当初、葬儀の時刻が2時から2時半となっていたので、参列者も一緒に葬儀をするものだと思い、知っている人には終了後お骨が出る前に皆さんに挨拶をしようと思っていました。
ところがこちらも全く裏切られました。聞いていなかったので知らなかったのですが、1時半から2時までが親族の葬儀で一旦喪主の挨拶で終了。2時から一般参列者の葬儀になり、再度喪主の挨拶があり、焼香に移ります。焼香が終わったら元の椅子に戻ることなくそのまま外に出て解散になったようだ。あまりの違いに知人に挨拶もしないまま終わってしまった。
葬式花は忌み嫌われ、みんなもらっていかないとのこと。祭壇にあった花はお墓と自宅に運ばれました。


親族の人が見送る形でお墓に行く人だけがバスに乗りお墓へと向かった。
ご存じの方も多いかと思いますが、沖縄の墓は「亀甲墓」と言って亀の甲羅に似ている大きな家のような墓。個人の墓ではなく「門中墓」という一門の墓です。
前に入っていた人のお骨は午前中に家族が来て、土に返すと言う意味で壺から出され他のお骨の上に開けるそうです。こんな事が代々続いてきてお墓は維持されて来ているのです。
次の人が死んだら弟のお骨は壺からあけられるのです。今回は6年間亡くなった方がなかったが、いつ誰が亡くなるかわからないので家族は長期旅行も出来ないそうです。
大きい墓ですから戦争中はこの中に住民が避難していたという。これで墓がからになり弟が入るわけです。
納骨の際は門中の代表が来てバールで墓の入り口を開けたりするのを手伝って下さいました。墓の入り口が開いたら納骨するわけですが、身内が中に入るのが当たり前だから息子が骨を持って中に入りました。その際後ろを向いたらいけないとかいろんな難しい言い伝えがあるようです。
納骨が済んでこれで終わりかと思ったら、海の見える場所に全員で異動して、「アミチラカー」という行事に移りました。意味はよくわかりませんが、死者が旅立ちやすい環境を整える行事だそうです。
お供え物を並べて海に向かって合掌。それからお払い。父の葬儀にはこんな事はしなかったので初めての経験でした。代表の方がおっしゃるには昔からやっている行事だそうで父親の時もやっていたそうです。(私たちが参加しなかっただけ)。
重箱に詰めて来たこのときのお供え物は残してはいけないので、みんなで食べ切ることだそうえす。お昼も食べそびれていたのでこんな時に悪いけど美味しく頂きました。鶴岡の妹も慌てて来たので食事をする時間がなかったとみんなで美味しく食べました。このときの葬儀案内も新聞に掲載しなかったので参列者は少ないだろうと思っていたら結構来ていたので口込み情報網があることも知りました。






所変わればと言うほど違いが多くびっくりだらけの一日でした。このときのちなみに母には伝えてなく参加しませんでした。でもいつかは伝えなければいけませんね。法事の時にでも言わなければ。


12月16日(土)晴れのち雨    葬儀のため沖縄へ
こんな形で再度沖縄へ出かけるなんて思いもよらなかった。知らせを受けてから3日、飛行機の関係で今日になってしまって、初めは葬儀には間に合わないだろうと覚悟をしていました。
その3日の間に事情がわかってきて葬儀が17日になったとの連絡が有りました。
事故の理由は聞いていても又聞きでは信用することは出来なくて帰ってから詳しく聞くことにして急ぎ向かいました。
名古屋からの飛行機で沖縄に着いたのは5時半でした。雨が降っていて飛行機の中で沖縄の気温は18度と放送。外はやっぱり寒い。鞄の中からコートを出して着る。
沖縄にいる妹に迎えに来てもらった。午前中は天気で布団も干したとのこと。
急ぎ弟の家に向かう。そこには鹿児島から午前中に戻ってきたという弟の変わり果てた姿、向こうで火葬してきたお骨がありました。
家の中は葬儀場並みの幕が張ってあり、沢山の花が祭壇を飾ってありました。


弟の屋敷は高台になっているので海がよく見え、夕方には近隣村の光が綺麗です。特にそこに大学が出来てからはネオンが綺麗で賑やかな景色が見えます。甥っ子が小さいころ一緒に庭でバーべキューをした事が昨日のように思い出され涙があふれました。
2年前に母のお祝いの際顔を見て以来会っていないのでせめて顔を見たかった。
12日に喜んで職場の慰安旅行に出かけて行ったと言う。お酒のせいで階段から落ちたとのこと。打ち所が悪く命取りになったようだ。知らせを受けて嫁さんと息子が迎えに行ってきた。目は開けなかったが身体は温かかったとのこと。家族の同意を得て14日に死亡を確認したという。
今年大学に入学した息子や嫁さんもまさかこんな姿で帰るなんて思ってもいなかったでしょう。一緒に来た妹が知らせを受ける二日前に夢に出て来たと言う。長いこと会っていないから出てきたと思ったと。
死んでしまったらみんな「会っておけばよかった」なんて後悔ばかり。この妹も私たちが里帰りしても会いにも来ないので反省したらしい。
山形県鶴岡市に住んでいる妹は明日の葬儀に何とか間に合わせてくると言う。遠くに住んでいると親の死に目にも会えないこともある。やっぱり日頃から交流して悔いのないようにしなければ。眠れない日になった。


12月13日(水)晴れ    悲しい知らせ
今日は午前中にシニア大学時代の同期生が交通事故で入院しているので、同じ班の人と見舞いに行く約束をしていました。
出かける準備をしているとき、夫が「敏哉が亡くなったんだって」と言う。「え、なに?」と言うと「メールが来ている」という。
こんな大事なことをメールで送るのもおかしいと思ったので電話で確認すると、鹿児島に旅行中の出来事で事情がよくわからないとのことでした。
それにしてもなんということだ。すぐに鶴岡の妹に連絡。お互いいろいろ予定が入っており葬儀に行くか迷いました。金の事のあるし。
夫が「行きなさい」と言ってくれたので決心がつきました。 落ち着きませんが兎に角見舞いに行ってきました。上の空で運転も危ないので「しっかりしろ」と自分に言い聞かせて何とか行ってきました。とっさに頭に浮かんだのは母のことでした。
97才の母が一番可愛いがってきた末っ子の弟の死を聞いたら、どんなことになるか心配になりました。母に言うか言わないかは兄に任せることにしました。弟59年の人生、兄弟姉妹誰が思ったことでしょうか。
飛行機の手続きなど夫にお願いして任せました。行っている期間中に関わっているいろいろの行事などの申し送りなどを急ぎました。沖縄から帰ってまだ1ヶ月も立っていないのになんと言うことでしょう。


12月12日(火)晴れ  年末ですね〜
沖縄に行ったりしていたので今日は久しぶりの大北の会議。11月に沖縄で行われる予定だった全国高齢者大会が台風で中止になり残念な思いでした。
前々から台風が予想されていたので心配にはなっていたのですが、予報通りになり二日ほど前に中止の報がはいって来たのでした。
長野の参加者の残念がる顔が浮かんできて、台風までも沖縄の味方にはなってくれませんでした。みんなは忘れていましたが私はそのために沖縄に行ったので忘れることは出来ません。
大北からの参加予定者は2名でした。少額でしたが金額の補助があったので会計の私としては中止になった大会費をそのままにするわけにもいかず、参加予定者の方に援助金を返してほしいと申し上げました。その人はやっぱり忘れていたので「なんだやっぱり返すのか」とこれもまた残念そうでした。集める私もごめんね〜と。
年末の会議ともなると来年のことの取り決めが中心でした。新年会の事、その余興のこと。本当にアッという間の一年でした。

昨日は松本のボウリングクラブの投げ納めでした。前半の相手は初回に当たった男性。前回は3対1で負け、2回も負けては悔しいから何とか頑張ろうという思いで臨みました。
しかし1ゲーム目は1ピン差で負け。やっぱり負けかなと諦めかけたところ相手に連続ミスが続きました。チャンスだと頑張り今度は3対1で勝ちました。よかった。
後半は対戦相手が欠場だったので自分との戦いでした。スクラッチで140点に満たないと負けですので、対戦相手よりも本当に緊張します。何とかクリアして上々でした。
来年からは対戦相手制ではなく自分との戦いでポイント制になるとのこと。クラブ員は女性はだんだん退部して現在は2名になってしまって寂しいですね。ポイント制の方がいいのではと思います。
長年会長を務めた方が80才を過ぎて体調を壊し会長を引退しました。歳には勝てないのか思うと寂しいですね。いつも感ずることですが、現役ボウラーにうち70代から80代というのは男性ばかり。どうして女性はいないのか不思議です。男性の方が丈夫なのか?。
私も女性のボウラーでは年長者な入りました。若い方がクラブ長になり世代交代ですが、負けないよ〜。


12月5日(火)〜6日(水)   ボーリングクラブ忘年会
年間3ヶ月ずつ4シリーズで行っているこのこクラブ。10月からのシリーズは沖縄行きがあって大会に参加できませんでしたが、会計をしている手前、忘年会には参加せざるを得ません。
この日、年金者の年末歌声もあったようですが、会議に出ていないと進行がよくわかっていなくてそっちの方は全くタッチせずでした。
久々にみんなと一緒にボーリングを済ませそのまま大町温泉郷へ。温泉郷の方はやっぱり積雪が多く大変でした。年末特別サービス期間中で客は満員。温泉に入って美味しいものを食べて至福の一時を過ごしました。
クラブも老齢化でだんだん人数が減っていますが、長老の81才の方を目標にぼちぼちやっていこうとみんなで気持ちを新たにしました。
他の人から見たら「クラブ結成15年」、今年16年に突入っしたと言うのに「ちっともうまくなっていないクラブ」という印象だと思います。そのようなクラブに入ったのだから「ものずき」だと思われていますが、歳をとるとこんなクラブがあっているかも。

ここ2〜3日天気が良く毎日畑を耕したりしていたので骨休みでした。一人だけ楽しい思いをして申し訳ない気持ちでしたが、今度はゆっくり二人で行きましょう。


12月2日(土)晴れ   石除去作業は大変
師走になりました。師も走る月、一年の締めくくりと新しい年への準備で慌ただしい。
テレビではやれ流行語大賞とかいろいろ賑やかです。それと今最大のニュースは天皇の退位、新天皇の即位問題。昭和から平成、2019年には新しい元号が決まります。新しい年はどうなるのでしょうか。
相撲界でも暴力問題で一人だけが責任を取らされる形で引退。なんだか納得がいかない。古い体質がまかり通っていると噂される相撲界。黙っていては改革出来ない。ものを言わなければいけないと人ごとながら腹立たしい気持ちです。

沖縄から帰ってきて2週間、積もっていた忙しさが一気に吹き出し大忙しでした。やっと一段落して昨日からは畑仕事に精を出しています。私が一ヶ月もいない間に野菜の収穫は夫が一人でやって大変だったでしょう。
「しんぶん赤旗」に「我が家の菜園自慢」というページがあり大根、白菜、キャベツ、ジャガイモなどなど取れたよという自慢が載っています。それは家庭菜園だったり、縁側でのプランター栽培だったり少ないスペースでの野菜つくり。しかし、うちは同じような野菜の他に豆類(小豆、大豆の黒豆、ミニ黒豆ピーナッツ等々)も種類が多く収穫には時間がかかるものばかり。自慢している場合ではありません。
家の中には沢山の野菜が山と積まれて食べても追っつかない状態です。毎日毎日、夫は一人生活の続きで野菜料理を作ってくれています。すぐに食べられるってやっぱりいいですね。
今畑の状態はタマネギは植え付けが終了、ニンニク、ラッキョウは芽がでている状態です。ほうれん草や大根は小さいながらも元気でいるので必要な時に取って食べています。野沢菜も小さいながらも沢山あるので近日中に漬け物にしたいと思っています。
畑仕事は夫が少しずつ進めていたスコップで掘って石取りをする作業の続き。大小の石がごろごろ出てくるのでその除去作業にはなかなか時間がかかり大変です。
来春の植え付けの準備です。近くを夫婦が散歩していたので、ゆっくり散歩でもしたいね〜羨ましいな。こっちは夫婦で畑仕事、それでいいじゃないかと言うことになりました。トホホ。
来年は友人が進めている「チョロギ」なるものを植えなくてはいけないので、肥料をやり耕耘機でならして寝かせておきます。畑から出た石を運ぶのも重労働。毎日これを続けていれば痩せるよと言われていますがちょっとね?

今日の「しんぶん赤旗」で「F35B嘉手納に最大26機 日米合意なし 沖縄を植民地扱い」という見出しが目につきました。米海兵隊がF35を沖縄に配備し沖縄本島周辺の広域で訓練する計画があることがわかったと言います。
年末から新たな問題が出て、これまでに輪を掛けて慌ただしくなっています。こんな状態で新たな年も気分も新たにと言うわけには行きません。腹が立つことばかりです。
来年は地方選挙の年。沖縄では年明け早々に名護市長選、11月には県知事選と正念場の年です。夢も希望もある年にしなくては。




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