家の周りにはノカンゾウの花がいま盛りです。よくテレビなどでみる高原のニッコウキスゲに似ていなくもない。
母の命日に摘んできて飾った記憶がよみがえる花、素朴な美しさを持った野の花です。
インターネットで何かを表現しようとすれば基本的に匿名。防衛上そうすべきことはあるし、正当な理由がある場合も多い。しかし、ブログでの書き込みであれ、2チャンネルであれ、匿名であることを隠れ蓑に誹謗中傷をはじめ、低劣で読むに耐えないものがあまりに多すぎます。
それも許容しながら今日の「ネット文化」が発展してきたという見方もあるのでしょうが、今日ではつっこんだ再検討が必要となっていると思われます。
たとえば大津での男子生徒自殺に関連して「いじめたとされる少年や学校関係者らを実名で糾弾するインターネット上の書き込みが止まらない」(
asahi.com)という記事を見てみましょう。
全く無関係の人が標的にされたり、病院の運営にも支障が出るなどの事態にひろがっていると聞けば、もはや「言論の自由」などと言っておられないのかもしれません。もちろんこれは「言論の自由」の問題ではなく、ネット文化の成熟度、メディア・リテラシーの問題だと私は思うのですが。
もし実名で抗議をするか、または文書で届けるか、ネット投稿するとなれば、おそらく対応は全く別のものになるでしょう。匿名となれば何でもありなのが現実の姿です。私はここにこそ現代の日本における「いじめ」問題に直結する、人々の心の闇が表出しているのだと思わないわけにはいきません。
このところ、主にテレビなどの関心は、学校・教育委員会がいじめの共犯者ででもあったかのような描き方で、隠蔽体質、対処能力の欠如だけを突出させて報道しています。
このように現在の「教育委員会=学校制度」のもとで、どれほど学校の対応が拙劣で生徒・保護の立場を欠いている述べ立てようが、ことの本質に一向に近づきはしません
なぜなら、このいじめ問題は社会のいわば病巣なのであり、極めて深い病理にもとづいているからです。だから、少なくとものような点を検討する必要があります。
第1は、「隠蔽」「保身」などとかきたてられる学校現場の無残な現状です。
東京、大阪といわず全国的に、絶対的な教育委員会体制を背景に重層的な管理体制が強化される学校現場のもとで、教師がお互いに助け合い、相談しあってものごとに対処しようとする気風はとっくの昔に消え去っています。(あくまで一般論であり、中には学校、教育委員会ぐるみで真剣に対応しているところがあることを否定しているのではありません)
若い教師たちの力量を左右するのは学校での集団的実践でも、他校の教師たちを含めた自主的な研修でもなく、上からの一方的な「研修」とレポート、数値目標と成果です。
報告書を提出したり事務に追われたりする時間がここ2、30年で飛躍的に増え、ゆとりを失い精神的な切迫感にさいなまれているのです。子どもたちの荒れた現状がそれに追い討ちをかけている。
同時に教育条件を整備し、教職員の悩みや意見を受け止めて真剣に対処すべき教育委員会が現場の実状を知らず、危機管理能力を欠いてしまっているのです。
今、確実に教師が壊れ始めています。それも全国一斉に小・中・高を問わず”教師崩壊”が始まっているのです。これはもう、”教育破綻”といってもいいです。 「教育破綻が日本を滅ぼす」(尾木直樹 ベスト新書)
第2は、学力至上主義、競争至上主義の形をかえた復活・強化の問題です。
尾木さんは同書の「競争主義に追い込まれる子ども」のなかで、ユニセフが2007年に発表したある調査を紹介しています。
それは、「孤独を感じる」と答えた15歳の子どもの国際比較です。ほとんどの国では数%なのに、日本だけが突出して約30%のダントツ1位。
まわりから認められず、孤立し、不安にさいなまれている日本の子どもたちの姿が浮かんでくるようです。
また、尾木さんは、2006年に厚生労働省の研究班が発表した「中学生の4人に1人が『うつ状態』」という恐るべきデータにも言及しつつ次のように書いています。
1998年6月、国連の子どもの権利委員会は日本の教育制度があまりにも競争至上主義的なために、子ども達がストレスから人格的に"障害”を引き起こすことが懸念されると「勧告」されていたのです。しかし、日本政府は「勧告」を深刻に受け止めることもなく、学力向上を目指して、つめこみ教育へと再び路線転換したのです。子どもたちの心に映し出されたこの世の闇をより深くし、子どもたちを追い詰めているのが今日の教育の現状ではないのでしょうか。ここに目をむけないでどうやっていじめをなくそうというのか。
こうしてみると、大阪で進行している教育基本条例などは権力による教師への「集団的いじめ」以外の何ものでもないと私には思えます。
第3は、子どもをめぐる家庭、地域、あそび、環境がどうなっているかという問題。幼少のころからの人間的なつながりを希薄にするゲーム、ケイタイまみれの実態、労働環境の劣悪化にともなう親・子どもの貧困のひろがり、いじめの土壌とも言えるいのちの軽視と差別の横行(使い捨て労働、生活保護バッシングから沖縄差別まで、あげればきりがない)。子どもの「いじめ」は社会的な病理の反映としての側面をこれほど色濃くしている時代はありません。
こうした実態をつかむには、同時に、教育学、社会学、心理学、経済学の到達点、最新の知見を含めた深い分析・研究が不可欠です。
たとえば、子どもたちの人間関係を知るために、単に希薄化しているとだけとらえるのではなく、次のような指摘にも耳を傾ける必要があるでしょう。
現在のいじめには、日常的にその行為が繰り広げられていくまさにその過程において、他人との違いに対する感受性が研ぎ澄まされていくという独特のメカニズムが見られる。・・・
現代の若者たちは、自分の対人レーダーがまちがいなく作動しているかどうか、つねに確認しあいながら人間関係を営んでいる。周囲の人間と衝突することは、彼らにとってきわめて異常な事態であり、相手から反感をかわないようにつねに心がけることが、学校での日々を生き抜く知恵として強く要求されている。その様子は、大人たちの目には人間関係が希薄化していると写るかもしれないが、見方を変えれば、かつてよりもはるかに高度で繊細な気配りを伴った人間関係(=「優しい関係」)を営んでいるともいえる。 土井隆義著 「友達地獄」 ちくま新書
ただ、筆者が「おわりに」で「社会構造上の疎外という伝統的な分析枠組によって語るべき課題が、わが国にも増えてきたことは重々承知している」と述べているとおり、こうした「優しい関係」が何故に現代の主流となり、どのような経済的、政治的背景を持っているか、とくに「貧困」とのかかわりで深められなければならないことです。
第4は、国際的な教育の水準と到達点にいかに学ぶかという視点です。
デンマークやフィンランドの福祉・教育へのとりくみに注目されることはあっても、どう学ぶのかという視点は全くないがしろにされています。社会の土台のありかたからして異なっていますから、安易に真似ることなどは不必要で、この国にはこの国なりのやり方がなければならないことは当然ですが。
阿部彩さんは「子どもの貧困」(岩波新書)で、子どもの貧困が家族のなかで「世代間連鎖」の状態にあることを示しています。そして、その背景には日本独特の「逆転現象」があることも指摘しているのです。次の資料がそれです。
この資料について阿部さんは、「先進諸国における子どもの貧困率を『市場所得』(就労や金融資産による所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保険料給付を足した『可処分所得』で見たものである。これらを『再分配前所得/再分配後所得』とすると、よりわかりやすいかもしれない」と書き、さらに「これを見ると、18ヶ国中、日本は唯一、再分配後の貧困率のほうが、再分配前所得の貧困率より高いことがわかる。つまり、社会保障制度や税制度によって、子どもの貧困率は悪化しているのだ!」(「貧困率」の定義については省略)と喝破しています。
私が言いたいのは、ことさらに子ども、親と学校、教育委員会間の対立をあおり、管理を厳しくするのではなく、社会全体が「いじめ」に表れている子どもの心のSOSを聞き取り、教育らしい教育へと歩むために、全力を傾注すべきだということです。
問題の所在や対処について何年も前から指摘されながら、この後におよんでなお教師にだけ責任をおしつけ、管理強化へと突き進むのだとすれば、より深い形、残忍・残酷な形で子どもの「反乱」は繰り返されることになるでしょう。