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  7月29日(日)    
午後から長野市大岡でひらかれた聖山音楽祭に妻と出かけました。聖山は初めての訪問。車で狭い山道を延々と走って、ようやく探し当てた会場が大岡文化会館。
長野には、山奥の集落が無数にあって、こんなところにもと思う場所に集落や農地があるんですね。人々の暮らしには、本当に想像もつかないものがあるのだろうと思ってしまいます。
さて、その聖山音楽祭、実行委員長が池田町の中村光夫さん。しばらく前にお話を伺った限りでは、何度も何度も現地に足を運んだり、音楽家や舞踊家と連絡を取り合ったりして、超多忙な毎日だったとか。その思いは、彼の綴った「聖山音楽祭の目指すもの」にくわしいのでここでは書きません。
舞台は、聖山の頂近くにある2本のブナの木をテーマに、様々なジャンルの音楽家、舞踊家などが集まって自然の恵みと平和を願うという趣向で進められました。
初日は子どもたちの参加もあって、ずいぶん盛り上がったようでしたが、今日は比較的年齢の高い方が中心で人数も少なくちょっと残念でした。しかし、山村の一角でこうした音楽祭がいろいろな困難を乗り越えて実現されたことはすばらしいことです。

夕方、途中で一休みして家に着いたとたん大粒の雨が降り出し、雷も鳴って集中豪雨に近い荒れた天気に。ネコのハルちゃんは、すたこら戸棚の隅やベッドの下に避難して声も出ない様子。
各地に大雨警報や注意報がでていましたから、池田だけではなかったようです。こんな降り方は困りますが、ともかく雨が降ってくれることはうれしいこと。しばらく畑に水やりをしなくて済みますから。そのかわり雑草がよみがえる。


  7月28日(土)    
暑い日が続いています。世の中オリンピック一色ですが、私と妻ときたら、依然として畑と格闘中なのです。朝は早くからバラ園と畑の水まき。消防車並のポンプを持って行ってホースで散水するのです。このホースときたら穴だらけであちこちから水漏れがあって、散水が終わる頃には全身びしょ濡れ。穴をふさがなければとそのときは思うのですが・・・。
家に帰ったらもう7時近く。オリンピック開会式の聖火入場のあたりからだけ見ていました。最後の締めはポール。やっぱりイギリスなんだなあ。

いつも思うんですが、「金、金、金」ばっかり強調される日本のチーム。そりゃ勝負だから勝てばいいに決まっていますけど、金だけに価値があるといわんばかりの報道に、日本国民一同洗脳されていません?相手チーム、相手個人のすばらしいプレーや演技を存分に味わえるいい機会なのにです。
赤旗日曜版の記事によると、ロンドン五輪組織委員会コー会長の話として、ロンドンが「300の地域社会で200の言語が話されている」というほどの多文化融合の都市であることが紹介されています。
近代オリンピック発祥の地としての英国の長い歴史が、それらの人々に受け継がれ、建物に、文化財に刻まれているのですね。
もちろん、こうした多言語、多文化は「大英帝国」の歴史と裏腹の関係ですけれど。すべての種目で男女の競技が行われるというのも、負の遺産を克服し新しい時代につなげようとする意気込みの表れとも思えます。

ところで、「オリンピックって何だっけ」と聞かれると、そういえば子どもの頃に古代オリンピックはギリシャで開かれ、その後クーベルタン男爵によって・・・なんて聞いたことがあったっけ、というくらいのお粗末な知識しかないのに我ながら愕然とします。普段あまりそんなこと考えませんものね。

オリンピックには毎年のように改訂される○○年版という「オリンピック憲章」というものがあります(初めて少しだけ読んでみた!・・・とほほ)。過去にいろんな政治がらみでいささか汚点が点いてしまった感がありますが、この憲章の前文に続いて「オリンピズムの根本原理」というのが記されています。
その第1項、第2項および第4項(第1,第4項は一部分)には次のように書かれているのです。

第1項 オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均整のとれた総体としての人間を目指すものである。(以下略)
第2項 オリンピズムの目標は、スポーツを人間の調和のとれた発達に役立てることにある。その目的は、人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。
第4項 スポーツを行うことは人権の1つである。各個人はスポーツを行う機械を与えられなければならない。(以下略)


報道機関がオリンピックを伝えるとき、やっぱり原点となるべきこの憲章について、一通りの知識、歴史などをきっちりと踏まえ広くアピールするべきではないかと、この頃のテレビを見ていて思うのでした。

夏期講習、農作業、オリンピック・・・ちょっとちぐはぐな夏になりそうな予感。


  7月27日(金)    
今朝3時頃、妻がトイレに起きてカチカチやっているので目が覚め、枕元の明かりをつけようとしたけれど点かない。停電??そんな馬鹿なと思いながら、いろいろ調べてみたけれどどこも異常がない。結局そのままでまた寝てしまいました。
朝よく見てみると、何とブレーカー(メインではない)が落ちていたのでした。夜中になぜ?思い当たる節もなく、狐につままれたようでした。中電に連絡して一度見てもらった方がいいですね。

昨日からの続きのLinuxの話題です。どうしてもATOKが入れたくて、昨日日記を書いてからまたパソコンに向かい、デスクトップ環境を変えることにしました。Ubuntu Magazineという雑誌には詳しく説明が書かれているので、参考にしながらUnityではなくGnome classicに(ただしGnome2はメインテナンスが終了)。これは以前110.04で使っていた環境ですから、実にシンプルで私好み。しかもATOKもインストールできたので、もう言うことはありません。
ただATOKのインストールには多少手間取りました。それというのも、いちいちコマンドラインでソフトを導入しなければならないので、一字間違うともうだめ。さらにこの雑誌に書かれている説明に誤字があり、それを発見するのにちょっと手間取ってしまいました。
Windowsでも7になってもついXPライクなデスクトップにしてしまいます。家庭て゛デスクトップ機として使うだけなのでUbuntuもできるだけシンプルな方がいい。下の画像をみると、ね、何にもないでしょ。





  7月26日(木)    
いよいよ夏期講習がはじまります。8月中旬、お盆過ぎまで断続的に夕方から夜までの仕事になります。今年度で仕事も終わり(塾の都合)になりそうなので、高校生たちが目的の大学に合格できるように、精一杯力を尽くすことにしましょう。

連日暑い日が続いていますね。今日はまた全国的に猛暑日だったらしい。
池田町も例に漏れず暑いことは暑いのですが、実はまだクーラーを使っていないのです。部屋の中は日中でも28,29度止まりなので、何とか我慢できます。そのかわり、扇風機、送風機を外において、空気を送り込んでいます。夜ともなると、実に涼しく去年までやたらクーラーをかけまくっていたのが嘘のようです。
おかげで、電気代は売電と使用料金の差額が数千円もでてラッキー。電気を節約しようという意識はまるでなく、ただ、電気代を節約したいだけ。これまでのところ、何とかなっています。これからはなんと言っても節約人生ですからね。

最近Ubuntu12.10がリリースされたので、しばらくインストールにかかり切りでした。
なぜたかがインストールで悪戦苦闘していたのかというと、これまたやっかいな事情があったのです。
1つは、12.04のインストールディスクからどうしてもインストールできなかったために、11.10からバージョンアップしなければならず大変時間がかかってしまった。
2つは、これまでUbuntu用に使っていたマシンのグラフィックボードがあまりにも高性能でドライバがない。そのために画面の解像度がディスプレイに合わず扁平な画像や文字に甘んじなければならなかった。
第3は、12.04にATOKX3を入れようとしてもうまくいかない。
そんなこんなで、行ったり来たりインストールし直したり原因を調べたりとやたら時間がかかっていたのでした。というわけで、ただいま最終的に11.10から12.04に3度目のアップグレードを実行中です。

まず、OSをDVDからインストールできないというのは、ネットの情報によるとマザーボードやグラフィックボードとの相性の問題(サポートされていない)があるというのです。うまくいかなくて相当に悩んだけれど、結局そんなことかいなという馬鹿馬鹿しい話でした。結局とりあえずDVDからの直接のインストールはあきらめて、まず11.10を導入。
第2は、グラフィックボードの問題は、古いXPマシンのボードと入れ替えてみたところ見事認識。モニタもちゃんと読み込んでくれました。これまでいろいろ調べてみたことが嘘のようです。XPマシンの方も、ドライバを入れ直したら問題なく動いています。
第3のATOKの問題。日本語入力はどうしても普段使い慣れているATOKでないとイライラするので、何とか入れようとしましたが、Ubuntuのデスクトップ環境Unityではほとんど使えないというのがネットでの情報。ある手順を入手してやってみましたが、結局だめ。AppleのOSXを意識したのかどうなのかわかりませんが、このUnityはどうも私にはなじめなく使いづらい感じがしています。
デスクトップ環境としては、Unity以外にいくつかあって、たとえばGNOME ShellではATOKはちゃんと導入できるということなので、一度ためしてみるかなと思っています。それ以外では、現在のところ問題なし。
ネットでのラジオが聴けること、画像編集のgimp、イラストレーターの代わりのinkscape、ブラウザ、メールソフト、その他いくつかのソフトを入れればあとはWindowsやMac同様に使えます。ただ、ホームページの更新だけは新しいマシンでやらないといけません。今後の課題はUbuntu上で更新できるようにすること、動画を見たり編集したりできるようにすること。
さらに、現在はでかいデスクトップ機を使い、電気を無駄遣いしているので、将来はそこそこ動く古いノートパソコンにLinuxを入れてそれだけで間に合わせること。そうすれば、新しいソフトを買うこともないし、老後のネット環境としては言うことなし。10年越しの夢に一歩近づきました!!



  7月23日(月)    
家の周りにはノカンゾウの花がいま盛りです。よくテレビなどでみる高原のニッコウキスゲに似ていなくもない。
母の命日に摘んできて飾った記憶がよみがえる花、素朴な美しさを持った野の花です。


インターネットで何かを表現しようとすれば基本的に匿名。防衛上そうすべきことはあるし、正当な理由がある場合も多い。しかし、ブログでの書き込みであれ、2チャンネルであれ、匿名であることを隠れ蓑に誹謗中傷をはじめ、低劣で読むに耐えないものがあまりに多すぎます。
それも許容しながら今日の「ネット文化」が発展してきたという見方もあるのでしょうが、今日ではつっこんだ再検討が必要となっていると思われます。

たとえば大津での男子生徒自殺に関連して「いじめたとされる少年や学校関係者らを実名で糾弾するインターネット上の書き込みが止まらない」(asahi.com)という記事を見てみましょう。
全く無関係の人が標的にされたり、病院の運営にも支障が出るなどの事態にひろがっていると聞けば、もはや「言論の自由」などと言っておられないのかもしれません。もちろんこれは「言論の自由」の問題ではなく、ネット文化の成熟度、メディア・リテラシーの問題だと私は思うのですが。
もし実名で抗議をするか、または文書で届けるか、ネット投稿するとなれば、おそらく対応は全く別のものになるでしょう。匿名となれば何でもありなのが現実の姿です。私はここにこそ現代の日本における「いじめ」問題に直結する、人々の心の闇が表出しているのだと思わないわけにはいきません。

このところ、主にテレビなどの関心は、学校・教育委員会がいじめの共犯者ででもあったかのような描き方で、隠蔽体質、対処能力の欠如だけを突出させて報道しています。
このように現在の「教育委員会=学校制度」のもとで、どれほど学校の対応が拙劣で生徒・保護の立場を欠いている述べ立てようが、ことの本質に一向に近づきはしません
なぜなら、このいじめ問題は社会のいわば病巣なのであり、極めて深い病理にもとづいているからです。だから、少なくとものような点を検討する必要があります。

第1は、「隠蔽」「保身」などとかきたてられる学校現場の無残な現状です。
東京、大阪といわず全国的に、絶対的な教育委員会体制を背景に重層的な管理体制が強化される学校現場のもとで、教師がお互いに助け合い、相談しあってものごとに対処しようとする気風はとっくの昔に消え去っています。(あくまで一般論であり、中には学校、教育委員会ぐるみで真剣に対応しているところがあることを否定しているのではありません)
若い教師たちの力量を左右するのは学校での集団的実践でも、他校の教師たちを含めた自主的な研修でもなく、上からの一方的な「研修」とレポート、数値目標と成果です。
報告書を提出したり事務に追われたりする時間がここ2、30年で飛躍的に増え、ゆとりを失い精神的な切迫感にさいなまれているのです。子どもたちの荒れた現状がそれに追い討ちをかけている。
同時に教育条件を整備し、教職員の悩みや意見を受け止めて真剣に対処すべき教育委員会が現場の実状を知らず、危機管理能力を欠いてしまっているのです。

今、確実に教師が壊れ始めています。それも全国一斉に小・中・高を問わず”教師崩壊”が始まっているのです。これはもう、”教育破綻”といってもいいです。
                 「教育破綻が日本を滅ぼす」(尾木直樹 ベスト新書)

第2は、学力至上主義、競争至上主義の形をかえた復活・強化の問題です。
尾木さんは同書の「競争主義に追い込まれる子ども」のなかで、ユニセフが2007年に発表したある調査を紹介しています。
それは、「孤独を感じる」と答えた15歳の子どもの国際比較です。ほとんどの国では数%なのに、日本だけが突出して約30%のダントツ1位。
まわりから認められず、孤立し、不安にさいなまれている日本の子どもたちの姿が浮かんでくるようです。


また、尾木さんは、2006年に厚生労働省の研究班が発表した「中学生の4人に1人が『うつ状態』」という恐るべきデータにも言及しつつ次のように書いています。

1998年6月、国連の子どもの権利委員会は日本の教育制度があまりにも競争至上主義的なために、子ども達がストレスから人格的に"障害”を引き起こすことが懸念されると「勧告」されていたのです。しかし、日本政府は「勧告」を深刻に受け止めることもなく、学力向上を目指して、つめこみ教育へと再び路線転換したのです。

子どもたちの心に映し出されたこの世の闇をより深くし、子どもたちを追い詰めているのが今日の教育の現状ではないのでしょうか。ここに目をむけないでどうやっていじめをなくそうというのか。
こうしてみると、大阪で進行している教育基本条例などは権力による教師への「集団的いじめ」以外の何ものでもないと私には思えます。

第3は、子どもをめぐる家庭、地域、あそび、環境がどうなっているかという問題。幼少のころからの人間的なつながりを希薄にするゲーム、ケイタイまみれの実態、労働環境の劣悪化にともなう親・子どもの貧困のひろがり、いじめの土壌とも言えるいのちの軽視と差別の横行(使い捨て労働、生活保護バッシングから沖縄差別まで、あげればきりがない)。子どもの「いじめ」は社会的な病理の反映としての側面をこれほど色濃くしている時代はありません。

こうした実態をつかむには、同時に、教育学、社会学、心理学、経済学の到達点、最新の知見を含めた深い分析・研究が不可欠です。
たとえば、子どもたちの人間関係を知るために、単に希薄化しているとだけとらえるのではなく、次のような指摘にも耳を傾ける必要があるでしょう。

現在のいじめには、日常的にその行為が繰り広げられていくまさにその過程において、他人との違いに対する感受性が研ぎ澄まされていくという独特のメカニズムが見られる。・・・
現代の若者たちは、自分の対人レーダーがまちがいなく作動しているかどうか、つねに確認しあいながら人間関係を営んでいる。周囲の人間と衝突することは、彼らにとってきわめて異常な事態であり、相手から反感をかわないようにつねに心がけることが、学校での日々を生き抜く知恵として強く要求されている。その様子は、大人たちの目には人間関係が希薄化していると写るかもしれないが、見方を変えれば、かつてよりもはるかに高度で繊細な気配りを伴った人間関係(=「優しい関係」)を営んでいるともいえる。

                    土井隆義著 「友達地獄」 ちくま新書 

ただ、筆者が「おわりに」で「社会構造上の疎外という伝統的な分析枠組によって語るべき課題が、わが国にも増えてきたことは重々承知している」と述べているとおり、こうした「優しい関係」が何故に現代の主流となり、どのような経済的、政治的背景を持っているか、とくに「貧困」とのかかわりで深められなければならないことです。

第4は、国際的な教育の水準と到達点にいかに学ぶかという視点です。
デンマークやフィンランドの福祉・教育へのとりくみに注目されることはあっても、どう学ぶのかという視点は全くないがしろにされています。社会の土台のありかたからして異なっていますから、安易に真似ることなどは不必要で、この国にはこの国なりのやり方がなければならないことは当然ですが。
阿部彩さんは「子どもの貧困」(岩波新書)で、子どもの貧困が家族のなかで「世代間連鎖」の状態にあることを示しています。そして、その背景には日本独特の「逆転現象」があることも指摘しているのです。次の資料がそれです。

この資料について阿部さんは、「先進諸国における子どもの貧困率を『市場所得』(就労や金融資産による所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保険料給付を足した『可処分所得』で見たものである。これらを『再分配前所得/再分配後所得』とすると、よりわかりやすいかもしれない」と書き、さらに「これを見ると、18ヶ国中、日本は唯一、再分配後の貧困率のほうが、再分配前所得の貧困率より高いことがわかる。つまり、社会保障制度や税制度によって、子どもの貧困率は悪化しているのだ!」(「貧困率」の定義については省略)と喝破しています。

私が言いたいのは、ことさらに子ども、親と学校、教育委員会間の対立をあおり、管理を厳しくするのではなく、社会全体が「いじめ」に表れている子どもの心のSOSを聞き取り、教育らしい教育へと歩むために、全力を傾注すべきだということです。
問題の所在や対処について何年も前から指摘されながら、この後におよんでなお教師にだけ責任をおしつけ、管理強化へと突き進むのだとすれば、より深い形、残忍・残酷な形で子どもの「反乱」は繰り返されることになるでしょう。



  7月21日(土)    
「オスプレイの陸揚げを防衛省が山口県と岩国市に伝達」というニュースを読むと、アメリカの「しもべ」「使い走り」となり、言われるがままに無条件で従う思考停止外交の行き着く先を見せつけられた気がします。
まともな感覚を持つならば、安保条約を認める立場であったとしても、装備の重要な変更ですから、当然事前協議の議題に乗せ外交交渉を通して日本側の態度をきっぱりと告げるのが独立国の立場というもの。まして、地元も全国知事会も反対の意志を示しているのに、「日本政府に条約上の権限はない」(6/29森本防衛相)、「配備は米国政府としての基本的な方針で、それをどうこうしろという話ではない」(7/16野田首相)というわけですから、一刻も早く辞めてもらう以外に選択肢はありません。

沖縄県は8月5日のオスプレイ配備反対県民大会を前に、基地問題担当の又吉知事公室長を米ワシントンに派遣することを決定。本来政府がなすべきことを、沖縄県がやっている。
一方、来日中のカーター米国防副長官は、10月の本格運用をめざす方針を述べる一方で「(飛行性能などの)耐空性が再確認されるまで、オスプレイが日本で飛行することはない。日本政府とも合意している」(沖縄タイムス21日)と、批判をかわすのに精一杯です。しかし、陸揚げしてしまえば、「安全が確認された」という一方的な通告で、日本全土での超低空飛行を含めた訓練はやり放題。
今日の琉球新報は「強みとされる搭載能力の高さが原因で墜落する可能性があることが分かった」として、あらためてオスプレイの危険性に警鐘を鳴らしています。

さらに琉球新報は、国民無視、対米追従の野田政権の態度に業を煮やして次のように書いています。

政府は民意が分かっていないようだ。森本氏は19日も「(今の日程を)変えるべきでないし、変えたくない」と述べている。あきれるほどの鈍感さだ。米国の意向の前では何も考えられないと言わんばかりである。植民地国の閣僚と見まがう思考停止ぶりだ。
野田佳彦首相も「配備は米政府の方針で、どうしろ、こうしろという話ではない」と述べた。事実上の属国宣言だ。日本の空と陸の使い方を米国が決め、日本政府は異議を挟めないと言うに等しい。
国家主権を放棄し、国民の命を守れない政権はいらない。民意に背く政権は早く退場してほしい。


自民党政権もアメリカいいなり政治の張本人ですから批判できる立場ではありません。公明党も全く同様でしょう。
国会は政権党と野党との「ねじれ」が起こっているとよく言われますが、実は民自公談合政治と民意とが完全に乖離してしまっているのです。

民主党は、消費税を巡って小沢グループが抜け、このあとTPPでも原発でもオスプレイでも、個別課題ごとにゾロゾロ離脱していく可能性を強くしています。綱領もなく、確たる国づくりの方針もなく、すべては財界とアメリカの言うがまま。これで次の総選挙で自公政権が復権するようなら、もうはっきりとアメリカの一州宣言をしたらどうなんですかね!?そのときは沖縄だけは一国として独立ですけど。

原発の再稼働問題でも、民主党野田政権の思考停止ぶりは際立っています。今日のNHKスペシャル「メルトダウン連鎖」は圧巻でした。「東電福島第一原発の事故の原因がいまだに検証されていない」ことを現場作業員の証言から明らかにしたものでした。
なぜ2号機でSR弁が開かなかったのか。また最後の手段であるベントができなかったのか。東電が認めようとしない地震での機器損傷の問題や必要な物資が全く届かない物流の重大な問題などを含め、さまざまな角度からのできうる限りの検証をしようとしたもので、現場に密着して事実をありのままに見つめようとした姿勢はあっぱれです。
ただし、まだ検証が終わっていないという指摘はNHKだけではなく、専門家や一部の政党、市民活動家などからも鋭く提起されていることです。そうした指摘を背景に、原発再稼働に反対する安保闘争に匹敵する規模の国民運動がまきおこっている。このことにもっと目をむけるべきです。
メディアは、事故の原因だけでなく、事故のために福島の住民がどんな悲惨な事態に追い込まれているのか、なぜこれほど多くの国民が原発の再稼働に反対しているのか、などを事実に基づいて知らせるべきです。
NHKには今日の報道姿勢を貫くのであれば、そのことを強く求めたいと思います。



  7月20日(金)    
高校生たちが登山のために今日は仕事が休み。すこしずつ仕事の日数を減らしているので、だいぶ身体が楽になっています。それに反比例して収入がないために家計は苦しく・・・。

このところ沖縄から相次いで果物の王様(?)マンゴーがどっさり届きました。デザートとして大きな一個を二人でペロリ。いや〜ぜいたくぜいたく。この味覚はたまらないですねえ〜〜。


沖縄では、暑い夏はマンゴーやパイナップル、パッションフルーツなどトロピカルフルーツの季節です。とはいえ、7月、8月は本州太平洋側の方が沖縄よりも気温が高いのですから、冬はもちろん、夏にも沖縄に避暑に行こうかと妻と話しているほど。
今日は、午前中に富山で1時間100ミリの雨が降ったとか。午後になるとその雨雲が池田上空まで来たのか、ものすごい雨が小一時間降りました。それからいったん雨が上がり、夕方からまた断続的に降っています。
野菜やバラには恵みの雨ですが、こんな降り方だと土が跳ねて病気の原因になりますから、程度の問題。長野駅周辺でも激しい雨で、電車がすべて止まっているとか。気候変動がますます大きくなってきていると感じます。

気候変動といえば、いま米国は中西部の各州で干ばつが広がり、トウモロコシ、大豆に大きな被害がでていると先日報じられていました。
ロイターのウエブサイトによると、これは1956年以来の大干ばつで、北西部にも広がりをみせ、「米国本土の55%が中程度から極度の干ばつに見舞われ」ているというのです。さらに、同紙は「シカゴ商品取引所(CBOT)のトウモロコシ先物 は6月中旬以来54%急騰」「来年にかけて米国で牛肉・豚肉価格が上昇する可能性も指摘されている」と書いています。
下はトウモロコシのシカゴでの先物取引の出来高。


もともと穀物価格はずっと上昇基調にありました。ワールドウオッチ研究所のレポートによると、「中国、ロシア、中南米諸国の穀物需要の増大で世界の食糧備蓄量が減少していること」「さらに、バイオ燃料、特にエタノール製造のため、とうもろこしなど農産物を利用しようとする取り組みに注目が高まっていること」「さらに、輸送費上昇によりアメリカ産農産物の被援助国向け船舶輸送コストも増大し、食糧援助の価格を押し上げている」と説明しています。
これによって米国の食料援助は「過去2年間で農産物価格が35%上昇したのを受けて、2000年から2007年の間に50%以上落ち込み240万メートルトンに減少」したとも指摘。今回の干ばつによって、さらにこの傾向に拍車がかかることになります。

今回の大規模な干ばつは、TPPの危険性をより明確にしているといえます。なぜなら、米国の小麦、トウモロコシ、大豆、米などに依存する日本の体質がよりすすんで穀物自給率が13%(農水省試算)になったと仮定しましょう。もし、ある年に今年以上の大干ばつが米国を襲い、あるいは中国などの輸入が激増して需給関係にバランスの崩れが生じたとすれば、とたんに日本は飢餓地獄に突き落とされることになります。
「他国と競争できる強い農業」を育成するというのがTPP推進派の主張ですから、小規模農家の切り捨てと一部の大規模農家、企業的農業のみが支配する日本農業になりかねません。推進派には、有機・無農薬農業などというやりかたは眼中にありません。危機的な状況に陥ってから、他国の援助を求めてもどこも自国のことで精一杯でしょう。
これからの気候変動や世界の穀物市場の動向を見れば、TPPへの参加がいかに亡国の路線であるかが一目瞭然です。
米国の干ばつのニュースを見るにつけ、食料の自給率を高める方策こそが農業政策の土台にならなければなりません。



  7月19日(木)    
昨日18日は妻の○○歳の誕生日。ところが妻は終日予定があり、帰りは私より遅い午後11時頃とあって、一日早めに17日寿司屋でお祝い。昨日はお花を贈ってハルちゃんとともにお祝いしました。
妻は、「もうこの年になるとめでたくも何ともないね」とつぶやいていましたが、1年を無事に過ごせたのはそれだけでもうれしいこと。子どもたちからもお祝いが届いて、記念写真を撮りました。


さて、今日はお昼近くなってから、松本にでかけました。それというのも、松本のある企業の会長から「会って話をしたい」という申し出を先日受けており、今日会うことになったからでした。その方は、町政研究会が「町づくりビジョン」にもとづいて町民に議論をよびかけていることを新聞報道で知り、もっと話を聞きたいと新聞社を通して私に連絡をしてくれたのでした。

一緒にお昼をという先方の配慮もあって、そこへ合流したあるNPOの代表の方と3人で昼食をはさみながら約2時間ほど話し込んできました。
話の中身は、町づくりりビジョンを詳しく話すと言うより、それぞれがどのような思いで各方面で活動をしているのかが中心でした。また、松本、安曇野、池田、松川、大町などでネットワークを広げ、民間主導の町づくりの多様な活動をすすめていきたいというのがその方のこころざしでした。20年、30年後を見据えた展望を持った活動を進めるべきだという点を含め、お互い意見の重なるところがたくさんありました。
お二人とも相当な高齢ですが、気持ちは青年のようで話していても実にすがすがしい。気力十分です。松本には世界に目をむけて活動を広げている方々がいらっしゃるのですね。
これからもいろいろ情報交換をしていきたいと話し合ってお別れをしました。

帰ってから、畑に行って水まき。庭にはキュウリ、トマトなどが旬を迎え、畑では同じくトマト、ナスなどがどんどんとれています。これからはジャガイモ、トウモロコシ、カボチャなどがゴロゴロとれる時期ですから、我が家の食卓はほとんど野菜ばかり。野菜に不自由していらっしゃる方がいたら、ぜひご連絡を。

今年失敗したのは、野菜での被災地支援のネットワークを作らなかったこと。被災地で、不自由な暮らしをしている人たち、子どもたちに安心して食べられる新鮮な野菜をたくさん送ることができたはずなのに・・・。
今からでも遅くないですかね。宮城県と福島県を中心にネットワークを組んで、こちらで余った野菜を集荷して送れないものでしょうか。
ただで送るのではなく、現地でうんと安く売ってもらい、その利益を被災地支援の様々な活動に生かしてもらうというとりくみです。送料もその中から出してもらう。そうすれば、こちらは、規格外で出荷できないような野菜をタダで提供してもらい、朝あつめてその日のうちに送る。
相当なエネルギーがいるし、夏・秋限定ですけれど、新しい取り組みとしてこれから持続的にやれる活動のスタイルになるでしょう。早急に相談してみましょうかね。

夜は、昨日開かれた日本共産党の創立90周年記念講演会の録画をネットで聞いていました。とりあえず、まず不破さんの講演から。
現在の日本の政党の中で、国際・国内情勢を踏まえてこれだけ体系的、総括的に語れる人がいるでしょうか。というより、他党の政治家と質が違いすぎますね。
池田町の町長選では、誰彼となく「共産党」のレッテル貼りが横行。共産党と言えば恐ろしいもの、異端のものという時代錯誤の風評が流されました。考えてみれば、それも大きな意味では共産党封じ込めの一翼を担いでいるわけで、事実と道理で打ち破っていく以外にはありません。なぜこれがこれほど根強いのか、根深いのかをも、不破さんは語っていました。
1930年生まれですから82歳。語り口は相当に年を感じさせるものの、その内容は明晰そのもの。日本共産党が切り開いてきた理論・実践面の到達点をふまえ、現在は「科学的社会主義のルネッサンスと言ってもよい時代」だという評価には強い共感を覚えました。
とくに、最新の研究を踏まえてのスターリン批判は驚くべき内容。これだけでも聞く価値があります。また、若い世代の人たちに、政治家の中に、これほど高いこころざしとビジョンと理論を持って日本を改革しようとしている人がいることを知ってもらいたいものです。
解体過程にある民主党の無様な姿を見るにつけ、それでも民自公を中心とした翼賛体制づくりにしがみつく野田政権の末期的姿を見るにつけ、政党とは何なのか。どうあるべきなのかを不破さんは明確に示してくれていると私には思えました。
これは共産党の外にいる私自身の率直な感想です。みなさんも是非虚心に耳をかたむけられることをおすすめします。

党創立記念講演 不破社研所長 日本共産党の90年をふりかえる




  7月17日(火)    
原発に反対する大規模な集会が首都東京で行われたことに、やはりというべきか、大メディアはきわめて冷淡です。
信濃毎日新聞を見ていましたら、これも社会面の片隅でほんのちょっと。メディアの中でも、それなりにジャーナリズムの何かを踏まえているはず(?)だった、信濃毎日新聞のこの態度にはいささか疑問符がともり始めています。
ちなみに、読売新聞、朝日新聞は信濃毎日とほとんど同じ。毎日は一面左下と社会面。中日新聞は一面トップ大見出しで報道。
10万人集会についていえば、信濃毎日ならば地方紙であるからと逃げることもできる。しかし、です。一紙だけとっている人からみれば、全国紙と同等のニュースが必要な場合はいくらでもあるのです。また、17万人の後ろには、私のように集会には参加していないが応援している人たちが無数にいるのです。
それとも、どこかの町で囁かれたように、これらの後ろには特定の政党もしくは労働組合がいて糸を引いているとでもいうのでしょうか??
いま社会の中心部で起こっていることに対する報道姿勢は、政治的感覚、社会的価値判断の問題ではないのでしょうか。そしてそれは市民(読者)との関係、距離感をどのように見ているかの問題でもあります。

ここにおもしろい論評があります。7月14日の琉球新報の「<メディア時評・官邸デモの価値判断>市民の声どう報ずるか 新聞が示す客観的『事実』」という記事です。「反原発」というテーマで起こっている行動が、報道する側から見て「社会的価値の高い」と判断されるのかどうか、という問題意識から書かれたものです。
従来の政党や労働組合などの組織する集会がどれほど人を集めようが「社会的価値は低い」から報道しない、というのがこれまでの一般的な報道側の立場であったというのは横に置くことにしましょう。
琉球新報は、官邸前で行われている金曜日の集会・デモの在京新聞社各社(読売、東京、朝日、毎日)の扱いを「社会的価値」という立場で検証しているのです。
「(メディアにとって)扱いの価値判断はさまざまであることが好ましい」と書きつつも、読売のように「社会的なニュース(新しい出来事という意味での『ニュース』)価値がある官邸デモを、事実上『伝えない』という選択肢は、あまりに市民との距離を作りすぎる判断ではないか」とも書くのです。これに続けて書かれている一文は、さすがに琉球新報だと思わされます。10万人集会についていえば、なおさらこの報道者としての価値観が問われていると私は思います。

政治や社会制度に対する市民レベルの疑問や変化を求める声を、メディアが一方的に無視することを続けた場合、そのメディアを市民の知る権利の代行者として社会的に容認しうるのかといった、大きな命題にも関わってくる。

私が信濃毎日新聞の編集に違和感を覚え始めたのは、九州を襲った豪雨災害で大変な被害が出て20名近くが亡くなったあのとき、さすがに朝日や毎日は一面トップで扱っていましたが、信濃毎日は社会面で一地方の出来事として扱っただけでした。これも「ローカルニュースだから社会面で」ということなのでしょうか。
いつどこでどのような災害が起きるかわからない気象変動の激しいこの頃ですから、この豪雨災害からくみ取るべき教訓は山のようにあるし、被災した人たちへの救援の方策も提起しなけばならない。それが社会の公器たる新聞の役目ではないのでしょうか。

その信濃毎日新聞は、今日一面トップで「オスプレイ『安全立証なし』」という記事を載せていました。アメリカの専門家の話としてリードに書かれていたのは次のような一文です。

(オスプレイは)近くを飛ぶ他機によって生じる乱気流の影響で墜落する危険がある上、激しい飛行時の安全性は立証されていないとして(米軍事専門家が)警告していたことが16日分かった。

おやおや、ようやく知ったのですか。だったら「他紙ではすでに報道されていたが、我が社でも独自に取材した結果ようやく確認した」と書くべきです。しんぶん赤旗はすでに6月3日の主張で次のように書いていたのをよもやご存じなかったわけではあるまい。

オスプレイは飛行中にエンジンが停止したさい機体の降下による空気の流れで回転翼を回し、浮力を得て安全に着陸する「オートローテーション機能」がありません。そのため、米国防総省内の研究機関でオスプレイの首席分析官を務めたレックス・リボロ氏は、市街地上空でエンジンが停止すれば、コントロールを失い、どこにでも墜落する危険があるとくりかえし警告しています。

6月24日にも同様の指摘をしながらさらに詳しく欠陥を解明、7月8日には米国防総省の内部文書でも、欠陥が明記され、これは「米軍最大の醜聞」だと元海兵隊幹部がのべていることをスクープ、次のように書いています。

米海兵隊の垂直離着陸機MV22オスプレイが2000年に墜落して19人が死亡した事故を受けて、米国防総省の「国防分析研究所」(IDA)が03年12月にまとめた内部文書に、同機はエンジン停止時でも安全に着陸できる「オートローテーション(自動回転)能力」が「欠如している」と明記していることが分かりました。

16日に知ったのは信濃毎日新聞であって、あたかも16日に事実が明らかになったように書くのはいかがなものでしょうか。
国民が最も知りたいこと、解明を求められることに敏感であり、ジャーナリストとしての揺るぎない態度でそれを報道し続けることが求められているのに、大手紙はもとより、ローカル紙もどんどん後退しているように私には思えます。信濃毎日社の弁明があれば聞いてみたいものです。



  7月16日(月)    
まるで台風が日本海を通過してフェーン現象になったかのような炎天。西日のあたる部屋の室温は30度、東側が28度。窓をあけていると熱風が吹き込んできてゆであがりそうです。ネコも暑いのか比較的冷たい木の床に転がっています。


妻は今日東京で開かれる「3.16さよなら原発10万人集会」に参加するため町内の有志たちとともに早朝出かけていきました。私は夕方から仕事があるので、一人留守番。
おそらく気が遠くなるくらい暑くて長い一日だろうから、熱中症にならないように気をつけ無事ミッションを果たしてきてほしいものです。

YouTubeでは山本太郎さんが空からレポートした映像などがアップされています。主催者発表で17万人というすさまじい数の参加者です。会場の代々木公園を埋め尽くし、周りの広場や道路にあふれた無数の人々




金曜日ごとに官邸周辺で取り組まれてきた大飯原発再稼働反対の集会、行進も日を追ってふくれあがり、10万人を超える日も。しかし、大手メディアの反応はまるで鈍感そのもの、扱っても社会面で、小さく小さく見せようとしている魂胆がありありですから。
現実に東京で起こっていることと、報道の落差の大きさ。これはすなわち日本のメディアと原発利益共同体との距離をそのまま反映しているのでしょう。

asahi.com
TBS News
FNN News


さて、今日はもう一つ、町長選がらみの話なのですが、とんでもない話を聞きました。信頼できるスジからの情報とだけ言っておきましょう。
それは、「被災地支援ネットワークが町民から義援金を集めながら、会計報告もしていないし義援金を運営費として流用しているのではないか」という「うわさ」が流れているというのです。
聞き流せばそれで済む程の低レベルの話ではあるのですが、ほんの一部とはいえこの池田町民の中に、「為にする」悲しい人々がいることも事実として明らかにしておかなければならないし、放置すれば今後のネットワークの活動にも障害をもたらすでしょうから、この際事実を明らかにしておきましょう。

実際は、事実関係を明らかにするも何も、すべてこれ以上ないほど明瞭に活動の報告は行ってきているのです。支援の呼びかけ同様、新聞折り込みを使って全世帯向けに詳細な報告を各行動ごとに行い、過日の「レポート集」では、さらにくわしい総括文書もつけて公表(希望者に無料配布)しているのですよ。しかも、こうした報告などの費用も身銭を切っての運営費からの支出です。義援金には一切手をつけていません。(最下段のデータ参照)

私が事務局長を引き受けてから心がけたことは次の3つでした。
第1は、相談ずくでの民主的な会の運営。ニュースなども発行して誰にでもわかるように運営をすること。
第2は、明朗な財政運営。活動費はメンバーや有志から集めできるだけ節約すること。一般の義援金はすべて被災地支援の費用とし、運営費と厳格に区別すること。
第3は、活動のあとは必ず総括し、町民に対してきちんと報告すること。
これらはネットワークの活動に参加した人なら誰でも(ボランティアを含め)知っていることです。
ローカル紙の記者さえ、「活動を終えてからこれほどまでに詳細に活動の報告をしている団体は見たことがない」と思わず口にしたほどでした。

だとすれば、「会計報告をしていない」というデマはいったい何を意味するのか。
まず報告を読んでいませんね。おそらく被災地支援の活動にかかわったこともないのでしょう。
直接私に確かめる必要もありません。ちょっと調べようとすればわかることですが、調べてもいない。要するに思い込みと憶測だけで、決めつけをやっている。これは悪質です。
もし、こうしたことを意図的に流しているのだとすれば、募金に応じてくれた人たちや懸命に被災地支援にとりくんだ人たちに対する明らかな侮辱です。誹謗・中傷だけではなく、ネットワークの活動に対する妨害行為といわなければなりません。懸命に取り組んできた私としては絶対に許しがたいことです。
それにしても、この町ってこんなこと多すぎません?どうかしてますね。

第1次女川町支援活動報告 2011年6月新聞折り込み  表面  裏面
第2次女川町支援活動報告 2011年11月新聞折り込み  表面  裏面
女川支援活動参加者レポート  資料編(全活動のまとめ)



  7月15日(日)    
14日に政府が開いた、エネルギー政策に関する国民からの初の「意見聴取会」のニュースが流れていました。何とも違和感のある3択の選択肢。2030年の原発比率を0、15、20〜25%とすることについて、どれを選ぶかというもの。
2030年といえば、今から17、8年後のこと。それを1ヶ月の間で国民的議論をして方向を決めるのだというのですから、ほとんど信じられないようなやりかたです。
原発再稼働がなければ経済は停滞し、企業は海外に流出し、生活がひどくなるという「脅し」に似た論調が主として財界から流され、世論が誘導される。昨日の報道では0%が3割5分、15%が4割程度とできる限り早く脱原発を進めるべきだという世論調査結果が紹介されていました。その限りでは、「世論」はそうやすやすとは政府・財界の誘導に乗ってはいません。
まず何をさておいても福島の被災地のみなさんの声を聞くことでしょう。原発はどのように日本に持ち込まれ、どのように疲弊した農山村に持ち込まれたか、そしてどのような利権の構図がつくられたのか、そうしたことを検証せずにクイズの3択問題よろしく「どれがいいでしょう」というわけにはいかない。
一番の問題は、原発が稼働しなかったら日本経済は停滞し、結局国民が生活困難に陥る。企業も日本ではやっていけないという「言い分」です。3つの選択肢を並べることで、真ん中に誘導しようとしているのではないかという「うがった」見方も出ていると聞いたことがあります。これでまともな議論ができるのか。全く疑問です。




  7月14日(土)    
暑さになれないせいか、日中身体に熱感があり、だるくて気力も減退。今日も午前中から昼過ぎまで畑で草取りをしてきましたが、その後やっぱり調子がいまいちでした。夕方からは何とか回復してきたようですが、これも雨が続いて湿度が高いからでしょうか。夏は身体に熱がこもりやすく、手足を冷やさないと夜もなかなか寝付かれないという症状に悩まされています。冬は逆に便利なんですけどね。

さて、12日の続きで、「住民と自治8月号」での「シンポジウム」についての感想です。
シンポジウムで、北海道黒松内町長の若見さんは、過去23年間かけて町がとりくんできたいくつかの注目すべき事例(自然林でのフットパス、放置牛舎を改造した公設民営のチーズ工場、北限のブナ原生林の保護など)を紹介していました。簡単にそれらにふれたあと、平成9年度に町で作成した「環境基本計画」を、現在は「生き物の視点」で検証中だとのこと。土地利用、植生図、希少植物の調査、農林業の状況などの調査を含む検証作業だそうで、それらは今後20年間を見据えた基本計画に生かされるとのこと。
すでに15年も前からこうした問題意識のもとに、生物多様性を守る取り組みを開始していることはおそらく全国でも例がないのではないでしょうか。その先見の明に目を見開かれる思いがします。

若見さんの次の発言に注目です。

森と環境と地域経済を結びつける新たな仕組み作りが大事。50年後、100年後を見据えた土地利用構想図。できるだけ天然林を残して増やし、農業のあり方を変えて、生き物ができるだけ豊かにつながるような利用の仕方をしようということ。

これは極めて重要な指摘だと思います。それは何故か。
この指摘には、生物多様性がこれからの地球環境、人間の生存にとって死活的に重要であるという視点が深く組み込まれているからです。 若見さんは、次のようにも述べています。

今(世界で)、1日に14種類の遺伝子、生物が失われている。・・・黒松内町では最近2年がかりで「生物多様性地域戦略」をつくり2011年度から実施しようとした。(ただし、3.11で中断)

美しい町とか、環境保全とかという言葉はあっても、必ずしも「生物多様性」に着目している自治体は少ないはずです。
たとえば、我が町ではどうか。水田の稲にはラジコンヘリで農薬を散布。「美しい町」を演出するために、花を植えたり清掃したりすることぐらいしかやっていない。
一例として、となりの集落で行われている「ほたる祭り」を見てみましょう。この地域ではかなり前から特別の水路を用意してホタルを飼育しています。毎年6月末から7月にかけてホタルが飛ぶ頃に「ホタル祭り」を行って大勢の見物客を集めています。
その取り組み自体はたいへんなエネルギーがいるし、ホタルを守ろうとする地域の意気込みは敬服に値します。地域おこしの1つの取り組みとしては成功している中に入るでしょう。
しかし、町全体、地域全体の問題としては大きな課題が潜んでいるように私には思えます。
一時的には人工的に飼育され守られることがあってもいいのですが、それだけで終わっていいのかどうかということです。つまり、ホタルは生物多様性を形成する象徴的な1つにすぎないのです。地域全体としてホタルが生息できる環境をつくろうとしているのかどうか、ホタル生育の陰で他の生物の生存はどうなっているのか。どう守られているのか・・・こうしたことが問題とされなければならないからです。
ホタルが(ホタルだからというべきか)狭い一地域で人間が守らなければ生存できない環境になってしまっていること。コンクリートで固められ、急速で大量の水が流れる農業用水、農薬の使用によって多様な生物が生存できなくなっている稲作や野菜栽培のありかた。ホタルを守るということはそうした環境全体、生物多様性全体へと意識を高めていくべき課題と深く結びついているということです。生物の多様性の消滅が人間の生存そのものを脅かすことであることに気がつかなければならないのです。

ちょっと話は飛びますが、我が町政研究会での議論では、「自然生態系を守る」ことを政策の1つの軸にしてきました。この中身は「生物多様性を守る」ということとほとんど同義なのですが、その点の押し出しが不十分だったような気がします。なぜなら環境保全だけに力点が置かれ黒松内町のように、学生と生き物調査をするとか、音声の排水の水生植物による浄化とかというとりくみとしては捉えていなかったからです。
「生物多様性」という視点からは、さまざまな実践が生まれる可能性があります。たとえば、池田町の動植物の分布と実態、植物の植生の調査、森林保全の実情と森林資源の実態把握など。町民と行政が協力してできる分野も多岐にわたります。エネルギー資源という点でもこれは重要な基礎資料となるでしょう。

全国的には、国際的な水準に近づこうと努力し、海外にも積極的に職員や地域住民を派遣している小さな自治体があるということを知り、励まされると同時に、その理念、思想性の高さに敬服しました。そうした自治体から大いに学ぶべきです。



  7月13日(金)    
13日の金曜日は母の命日。妻とふたりでささやかにお参りをしました。まさこさん、お花ありがとうね。
妻は「お経をあげなくていいの?」といいますが、私の知っている浄土真宗「正信偈(しょうしんげ)」はほんの数行だけ。これではお経にもなりません。
昔の人はお坊さんのお経に会わせてみんなこの「正信偈」を唱えたものでしたから、子ども心にも「すごい」と思わされましたね。しかし今となってはこのお経もCDでBGMがわり。仏教も全く葬式仏教といわれるのも無理はありません。
この「正信偈」は親鸞上人の教え通り、「あらゆる人は釈迦如来のお言葉を信ずるべきである。信ずるものは平等に救われる」「世間で善人だ、悪人だと言われる一切の人々は信ずることによって、お釈迦様から広大な智慧を得た者、泥沼に美しく咲く白蓮華とほめたたえられる」という趣旨のお経です。
ただし、最後に次のような一節がある。

弥陀仏本願念仏
邪見僑慢悪衆生
信楽受持甚以難
難中之難無過斯

阿弥陀仏の本願による念仏の法(教え)は
誤ったよこしまな考えをもち、おごりたかぶる人々には
信じることは、はなはだむずかしい
難の中の難で、これ以上に過ぎるむずかしいことはない
                
(株)とどろきホームページより

私などは「信じることは、はなはだむずかしい」部類ですから、お経のありがたみもわかりませんが、母がときどき口ずさんでいたお経ですから、せめて命日の時くらい唱えてあげたいとも思うのです。

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雨もあがった昼前、ラズベリーを収穫しようとして庭先に出たら、ある昆虫が目にとまった。見たこともないカミキリムシです。
写真を撮り、さっそくwebで調べてみたら「ルリボシカミキリ」というのだそうです。全身ビロード状の細かい毛に覆われ、鮮やかなブルーに黒いまだら模様が何とも美しい。珍客ですね。


日本の固有種で「瑠璃星天牛」と書くこの昆虫は海外ではRosalia batesiというそうですが、いかにも「美しい乙女」の名Rosaliaにふさわしい色合い。素敵なものに出会った気がしてちょっとうれしかった。



  7月12日(木)    
早朝から熊本をおそった豪雨災害が大変な被害をもたらしています。まさしく「これまで経験したことのないような大雨」で、テレビでは昨年東北沿岸を襲った津波と見まごうばかりの映像をこれでもかと映し出していました。
昨年も「ゲリラ豪雨」という降り方が流行語になるほどの集中豪雨災害があったのに、今年はそれを上回るような雨。どこでどんな雨になるのか予測できないのも、最近の気候変動によるものなのでしょうか。
昨日はまた、7月3日に房総半島先端部の地下100キロ近くで起こった地震が「元禄型関東地震」と関連があるのかどうか、前兆の可能性があるのかどうかについて詳しく報道していました。「地震の深さから見てその可能性は低い」というのが結論でしたが、ただ比較的浅い深度で起こるM7.9〜8.2の「元禄型関東地震」はいつ起きてもおかしくないとされており、絶対に油断できないとも。
長野県北部でもつい最近強い揺れがあったばかりです。東日本大震災から1年半もたつと、被災地やすぐ近くに住んでいない限り、ほとんど考えることすらしなくなっているのが現状ではないでしょうか。昨年から今年初めにかけて一生懸命に取り組んできた池田町での被災地支援の活動も、全く停滞してしまっています。こんなときこそ「警戒せよ」です。
豪雨災害も、大地震も、いつどこでどのように起きるかわからない。わからないから対策のしようがないではなく、いつ起こっても生存できるだけの最低限の備えを家庭でも地域でもしておかなければならないのです。

今日届いた「住民と自治8月号」(自治体問題研究所)は、第17回全国小さくても輝く自治体フォーラムの様子を特集していました。その中で紹介されている、資生堂名誉会長の福原義春さんの記念講演と、北海道の黒松内町、訓子府町、西興部村の首長を含む5名(+コーディネーター)のシンポジウムは、とても教訓的だし、これからの小さい自治体の歩むべき方向を示唆しており、大いに参考になりました。

福原さんはまず「文化」を広い意味でとらえ「文化とは、人間が古来より持っていた、よりよく生きようとする思いの産物」「芸術文化をも含む人間の生き方に関するもの」ととらえ、地域の人間力としての「文化力」の創出を目指すべきだといいます。
文化は、究極的には一人ひとりの文化力の総体であるから、上から外からの文化政策だけではなく、地域に暮らす人々から「わき上がってくる」「内から輝く」生活の中の文化の活性化が必要であると強調します。そして「固有の価値あるいは創造を、個人の絆を連鎖した『場』の力でどう作り出すか。集落や地域レベルでどのような力強い独自のものを作り出せるかが大事」「文化資本は、文化をはぐくむ人間性と時間をかけて育まれた『場』の力ぬきには成立し得ない」と結論づけるのです。
「地域に暮らす人たちが満足し、地域を愛して幸せになれば、そのような内から輝く自治体の魅力に引かれてほかの地域から人々がやってくる。その結果として、ほかの地域の人も住んでみたいと思わせることが自治体の本当の町づくりではないか。これが自治体運営の王道だ」・・・全くその通りです。
まだまだ紹介したい記述はあるのですが、これだけでも我が町のさまざまな「イベント」や「町づくり」の施策を振り返ってみると見えてくるものがあります。
よく「地域おこし」「地域づくり」という言葉を使い、池田町であれば「美しい村連合への加盟」「北アルプス展望のみち」などを利用したいろんなイベントを企画します。地域でも同様です。福原さんの視点からは、時間をかけて「場」を形成しているのか、地域の人々が満足し内から輝くような内実をつくりだしているのか、が最大のポイントとなるのです。外から来てくれる人をいかに増やすか、お金をいかに落としてくれるのか、それが最大の地域おこしの最大の狙いだとすれば、「店の在庫を売り切ったらおしまいの『骨董屋の棚ざらえ』にすぎない」という福原さんの痛烈な言葉を対置するだけで十分でしょう。「自分たちが豊かになること、自分たちの喜びとなるものを創造することにつとめるべきだ」と語りかける福原さんの言葉を具体的な事例に引き寄せて今一度深く考えてみたいと思わされました。



  7月10日(火)    
雑誌「ニュートン77月号」が目に入り購入したのが約2,3週間前でした。テーマは「素粒子の世界」。東大の宇宙研究機構長である村山斉さんが監修し、読者の参加による編集という念の入れようから、期待に違わずきわめてビジュアルであると同時に深い内容の解説特集になっていました。
素粒子物理学最前線として特集されているのはもちろん「発見間近か!?」(発売時)というヒッグス粒子の話題です。私がこれを読んで程なく「ヒッグス粒子発見(99.99%)」のニュースが世界中を駆け巡ったのでした。
「われわれは発見した。ヒッグス粒子とみられる新たな粒子を観測した」と欧州原子核研究機構(CERN)のロルフ・ホイヤー所長。ニュースでは理論の提唱者であるピーター・ヒッグス氏が「生きている間にこんなうれしいニュースに接するとは思ってもみなかった」と話している様子が映し出されていました。
ヒッグス粒子の存在が予言されたのは1964年ということですから、私がちょうど大学に入学した年!もともと数学は好きでも物理は大の音痴だった私は、ほとんどこうした物理現象には関心を持つことなく今の今まで過ごしてきたのでした。
私が自然現象に向かわざるを得なくなったのは、数年前から中学生に理科を教えなければならなくなってから。そんなこんなで、勢い物理や生物、地学の発見などに目が向くようになったのでした。そうこうしているうちに目の当たりにした世紀の大発見。詳細はほとんど理解できない(「ニュートン」の解説程度なら何とか・・・)私でも、心ときめく話題です。
若い頃、私は原子が陽子や中性子で作られ、それらが素粒子から構成されているとすれば、その構造はどこまでいくのか、素粒子に構造はないのか、だとすればそれば何故なのか。ただまだ発見されていないだけではないのか・・・階層構造は無限ではないだろう。しかし、次の階層がないということが証明されない限り、可能性は残る・・・などと考えたものでした。しかしそれも「標準理論」の完成でどうやら終止符を打つらしい。漠然とですが、人間の知の力のすごさを久々に知らされた話題ではありました。



  7月9日(月)    
忙しい日々がようやく一段落です。昨日は「バラ祭り」の最終日。天候にも恵まれて約200人くらいが訪れてくれました。
初日と2日目は午後から雨にたたられたものの、それぞれ100人くらいが来てくれ、何とか形になりました。こうしたイベントのいいところは様々な人との出会い。バラ好きの人たちばかりですから、いきおい話題はガーデン造りや選定の仕方、自分が育てているバラの話などに。中には一人で400本のバラを育てているという松本の方もいてびっくりしました。
あとは現在のバラ園を管理することと、造成中の畑をテーマを持った花畑にすること。農地法の縛りがあるため、これからの趣旨は遊休農地を有効に活用して景観形成に役立てることと、花やハーブの試験農場にすることに力点が移ります。全体として自分たちも町民も憩える空間を演出することにつながればいいと思っています。
我が家のすぐ近くで開催されていた「ホタル祭り」も7日で終了。今日片付けが行われていました。イベントを開催するのは楽しいものの、それを担うスタッフの苦労は尋常ではありません。私も結構疲れがたまって、何となくボーッとしています。




考えてみると、3月あたりから6月末までは「町政研究会」や町長選挙の新人候補支援で多忙を極め、直後は「町づくりフォーラム」、つづいて「バラまつり」と、我ながらよくまあ忙しく働いてきたと思います。昨年は、被災地支援の活動で同じように無我夢中で突っ走ってきたのでした。今年もまたなんだか似たような展開でした。
これからは、ちょっと落ち着いた生活になるのでしょう。どうやら今年で塾の仕事も終わりになりそうだし、関わってきた活動も少しずつ整理をしているので、これからの自分の生活を今一度見直す時期に入ってきているのかなと思っています。

今回の町長選挙をめぐるとりくみでもそうだし、被災地支援の活動、その他もろもろの活動を振り返って、ある問題点が大きく横たわっていると私には思えます。それは、組織運営における責任の果たし方、あるいは責任の所在ということです。
被災地支援はとてもゆるやかなネットワーク組織です。選挙の活動もある意味ではそういえるかもしれません。それに比べると役場のようにきっちりとした組織形態を持っているものもある。しかし、そうした組織のあり方に関わらず、長、代表(あるいはコーディネーター)と実務担当者の果たすべき役割はきわめて大きく、そのあり方がその団体なり組織なりの性格や運営を決するといっても過言ではありません。
私が見る限り、組織運営に大きな疑問を抱かざるをえない場面がいくつもありました。能力の問題ではなく、ただ知識が不足しているだけだといった方が適切かもしれません。あまりそんなことは考えたことも指摘されたこともないというのが実情にあった見方かもしれません。
どこで方針を決め、誰がそれを遂行し、まとめを行って次につなげるのか。そこにはすべて実行力と責任がつきまといます。実行能力と責任能力とは組織の命といっても過言ではないでしょう。それが形式的だったり、曖昧だったりすればその組織にとっては命取りです。継続することは早晩不可能になるでしょう。
たとえば、無秩序にネットでつながって集まっているように見えた官邸前の反原発の集まりも、ちゃんと全体みて行動をよびかける中心はあるし、情勢分析をしながら指針を示している。決して自然発生的に「ただ集まって、ただ個人個人の意思を表明して」いるわけではありません。
いわゆる「市民主義」的な活動が最も現代にふさわしいとする流れからすれば、堅苦しい組織とか指導部とかという形態は敬遠されるのでしょうが、運動の継続、責任、発展という点からは、たとえどんなにゆるやかな組織形態でも譲ることのできない形というものがあるはずです。この2年間、私はずっとそのことを考え続けていました。
一人ひとりの能力、可能性、個性を最も発揮できるのは、最も民主的に運営されるきっちりした組織なのだというのが私の持論。目的によっては、べつの形態をとるのがふさわしい場合があるだろうことは否定しません。しかし、ある程度継続的な何らかの活動をめざすのであれば、それに見合う形がある。
「原発の再稼働に反対する」とか「オスプレイの配備に反対する」という一定の意見の表明では、自由で創意を凝らした多様な表現形態がある。しかし、目的を持って長期にわたる「運動」をすすめるには、しっかりした組織(これもさまざまな形態があるのは当然です)と民主的な運営体制が不可欠なのです。これを混同したり、軽んじたりするところから活動の困難さが生まれてきます。
人々はおそらく「自然発生的に」こうしたことは身につけていくのでしょうが、残念ながら「意識的に、自覚的に」活動を高めていくことが本当に大切な時にさしかかっていると私には思えます。橋下流の強権政治の流れが強まっているこの時代だから、なおのことその力が求められている。
「自己責任」の責任ではありません。話し合って決めたことなら、最後までやり遂げるという覚悟という意味での責任。仕事だからそれをやり遂げるというのは責任ではなく、あくまで業務を「こなしている」にすぎません。極端な場合は、命令=服従という関係にすぎません。
「責任」は民主的で徹底した討議・討論と切り離せません。民主主義の成熟度というのは、まさにそうした討議と責任という最も根底となる部分でいかに訓練の場を持っているかにかかっているのではないでしょうか。しきりにそのようなことを考えています。



  7月6日(金)    
久しぶりの塾での仕事がありました。これまでは選挙などの関係で水曜だけにしていたのですが、今月からはもとに戻って金曜日も授業。数は少ないとはいえ、それだけに一人一人に目配りができるので、結構忙しくポイントを説明しなければなりません。たまに高校生たちと接することができるのは新鮮なものです。

さて、7月3日には大糸タイムスが、今日は市民タイムスが「バラ祭り」の報道をしてくれたために、すでに早朝から数件の問い合わせがありました。昨日もひっきりなしに電話(主として場所の問い合わせ)があって、対応に追われました。
池田町の人たちよりも松本や安曇野市や大町からの方が多く、ずいぶん遠くからも来てくれてうれしい悲鳴。こじんまりとした小さいバラ園なのに・・・と少々申し訳ない思いをしながら対応しておりました。
昼前には、千曲市に住むTさんご夫妻も来てくれたし、塾のオーナーも立ち寄ってくれて賑やかでした。



私がバラ園に到着したのは午前9時頃。そのころにはすでに数名が訪問していて、話を聞くとずいぶん早くからも来ていたとのことでした。>
幸い午前中は雨も落ちず、ひっきりなしの訪問客がありスタッフは大忙し。
ところが、昼頃から雨が降り出して午後2時過ぎからは本格的な雨模様になったために、3時頃には早々と片づけをしなければならなくなりました。
明日はたぶんずっと雨。梅雨本番でのバラ祭りだけに、やむを得ない面はありますが、ちょっと残念です。
今日午前午後を通して訪れてくれた人は、たぶん100人くらいになるんじゃないでしょうか。今日は愛知からも問い合わせがありましたから、日曜日にはかなりの人出が予想されます。あと2日、何とか乗り切りたいものです。






ところで、バラ園を訪問してくれる人と話をしていると、いろんな話を聞くことができます。また、こちらがほとんど考えもしなかった質問が出てくることがある。
たとえば、「なぜバラの花なんですか?」という至極もっともな質問。
「バラはやっぱり花の中の花でしょう」とありふれた答えしかできない自分が情けない。そう聞かれると何故なのかなとあらためて考え込んでしまいます。ほとんどそんなことを考えずに、「バラ園」であることが当たり前みたいにやってきましたからね。
「春はあけぼの、花はバラ」というのがやっぱり一番近いのかな。「花とハーブの里」というキャッチコピーをしきりに使う町にしては、どこにも花らしい花はなく、どことなく寂れた印象がずっとこの町にはありました。それをどう克服できるか、いかに華やかな印象を持つ町にできるか、これは池田町に来てからずっと私の問題意識でもあったのです。
同時に、行政などでよく使われる「花いっぱい」運動には、どうしても違和感を感じてもいました。それは、「点を集めれば線になり、やがて花でいっぱいにできる」という発想では決して成功しないだろうという思いもあったからです。
いつからか私のこの運動に対する考えは、面から面へ、面から線へという方向に収束していきました。つまり一定の広がりを持ったインパクトのある取り組みを基点に、そこから広がりを作り出すことができるのではないかという考え方です。だとすれば、その基点はやはり最も注目度の高い花でなければなりません。
行政は先般、家庭での「一坪花運動」を提起し、苗を買うのに補助をしましたが、果たしてこれがどれだけ効果を持ったのでしょうか。「花いっぱい」というのは、「あいさつ運動」などと同じで、行政がかけ声をかければうまくいくなどというものではない。それは1つの町づくりの内実なのであり、理念と直結しているものであり、住民自治の1つの側面なのだという認識に裏打ちされていなければならないだろう。
面としての「バラ園」は、この町にとってはそれだけの意味を持っているのだというのが、現在の私の心境。もっとも、いつもはほとんどそんな「小難しい」ことは考えず、ただ黙々と花がら摘みや草取りをやっていますけどね。



  7月2日(月)    
雲間から満月が見えます。夜ともなるとすずしくて気持ちがいい。昼の作業で体に熱がこもっているので、外に出て冷やしています。
つばの小さい帽子をかぶって作業しているので、上から虫が落ちてきて首筋から背中に入りムズムズ。
夕方、鈴なりになったラズベリーや桑の実を取っていたら、またまた毛虫のようなものが頭に落ちてきて、気がついたら背中を這っていた。

今週末に「バラ祭り」を控えているので、一昨日も今日も朝から午後3時頃までガーデンの整備作業。昼ともなると真夏の日差しで、頭がクラクラしてきます。水分補給は欠かせないのですが、あまりお茶を飲むとかえって体がだるくなって動きたくなくなる。年だなあ〜〜と感じながら、それでもきれいな環境にしたいと連日がんばっております。
信濃毎日新聞の報道はやはりすごい。今日も朝から夕方まで何件も問い合わせ。松本とか豊科とかからもありました。とにかく不便なところにガーデンがあるので、説明するのが一苦労。そこで、地図を載せた案内をつくって、ハーブセンターやコンビニに置いてもらうことにしました。それが下のチラシです。観光協会でも案内をしてもらうことにしました。
新聞を見るといかにも大きなガーデンを想像してしまいますが、実はかわいらしい小さな庭に近い。作業をすれば、とてつもなく広く感じるのですが、遠くから見るといかにも狭く小さい。中野のバラ園などは決して想像されませんように。10数人による手作りのバラ園です。
下は、昨日撮ってもらったバラ園の全景写真。通路の色が濃いところは新しいチップを敷き終わったところです。明日には全部敷き終わる予定。下の写真の奥の工事中のところは、現在の敷地より広い新しい造成地。バラ園の拡張工事中です。




第1回バラ祭り案内(バラ園ニュース号外)[pdf]
第1回バラ祭り案内(バラ園ニュース号外)[jpg]

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岩国基地、沖縄普天間基地へのオスプレイ配備をめぐって、民主党政権は「丁寧に説明し理解してもらう」の一点張り。理解できないと言っているのに、この言い方って何なんでしょう。
数学の問題で生徒が「わからない」と言えば、そりゃ「丁寧に説明し理解してもらう」ことは当たり前でしょう。「わかるまで考えろ」と言うことだってある。危険きわまりない航空機を「丁寧に説明し理解してもらう」とは、相手が「うん」と言うまで言い続けるってことですか?結局「アメリカの調査では、機体に問題はなく安全」ということを信じろということなんでしょ?
だったら、横田基地でも、厚木基地でも首都圏に近いところに持っていったらどうなんでしょうかね。東京上空で低空飛行訓練を繰り返すってのもいいかもしれません。まずそこで2、3年安全だと言うことをしっかりと確かめ、国民に周知徹底してから首都圏、中部圏、近畿圏に常駐できるようにしたらいいではないでしょうか。
なぜと言われれば、当然でしょう。国民の命を守ることを至上命題とする日米政府とすれば、人口密度の高い首都圏(皇居もございます)をまず守らなければなりません。物資や人員を輸送するにも首都圏に近いことは何より重要なことです。近くに最新鋭の航空機があれば安心でもあるし。大阪都をめざす大阪市・府も同様でしょ。関空と言わず、伊丹空港を米軍との共同使用とし、オスプレイを配備しましょう。

沖縄県の仲井真知事がいつになく強烈なものいいで、記者会見に臨んでいました。「配備を強行したら、全基地即時閉鎖という動きに行かざるを得ない」
そりゃ、我慢にも限界があるということです。沖縄県民を愚弄するのもいい加減にしろということです。「おまえら、沖縄県民を人間として見ていないのだろう」ということです。
ただし、です。ここからが大事なんですが、どんなに口調が厳しかろうが、やはり人間はやっていることで判断しなければなりません。

沖縄県東村高江では、5年前から「ヘリパッドいらない住民の会」という組織がつくられ、座り込みなどの活動をねばりづよく続けています。(妻と私はここ2年続けて座り込みテントを訪問して、話を聞いたりカンパをしたりしてきました)
その共同代表の安次嶺現達さんは次のように語っているのです。以下は要旨です。(琉球新報7/2)

全県的なオスプレイ反対意思が示されながらも、県知事と東村長はオスプレイが飛来する高江のヘリパッド建設を容認している。意味が分からない。『オスプレイは駄目だ』と言っているのになぜ基地は造るのか。

そういうことです。アメリカと日本政府が、普天間基地だけに焦点をあてさせる一方で、現実には高江で何をやっているのか、しっかり見ておく必要があるのです。

やんばる東村 高江の現状
座り込み5周年集会 東村高江でも抗議の声(琉球朝日放送報道部)



  7月1日(日)    
梅雨空がもどって、今日から7月。
町長選挙の影響でもっと早く開催するはずだった「町づくりフォーラム」も「バラまつり」ものびのびになって、「町づくりフォーラム2012」はようやく今日ひらきます。
バラ園については、昨日信濃毎日が報道してくれたこともあって、問い合わせがちらほら。昨日作業をしていたら、現地を訪れてくれる人もいたり、観光協会からは写真を撮りに来てくれたりで、少しずつ認知度も上がってきているのかな。


ただ、場所が場所だけになかなかわかりにくい。「ロッジ赤い屋根」を目指してきていただければ何とかたどり着けます。遊休農地を利用しているので、初めから便利なところを想定してこのバラ園をつくったわけではありませんのでご容赦を。
念のため、地図をリンクしておきました。こちらです。

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ネットで原発問題を検索していたら、管理人が「民間企業勤務(情報技術系)で、米国から帰国後首都圏在住」というお方のブログに偶然ぶつかった。読書メモ、情報整理目的で書いているらしいのですが、その中に「反原発派が文学部系の虚業家ばかりなのは何故か」というのがありました。「反原発派が文学部系に多い」という断定にまず驚いて、その「考察」なるものを読んでみたのですが、さっぱり意味がわからない。
読むほどのことでもないのかもしれませんが、関心のある方はまず原文にあたってください。

この方の論旨は次のようなものです。

急進的な反原発派の顔ぶれの多くは、社会学者、芸能人、作家、マスコミ関係者、ジャーナリストなどの「文学部系」(あるいは虚業系)の職業についている。
一方、理工系、経済学部系、法学部系などの「実業系」には、急進的な反原発派は、ほとんどいない。それは、日本経済を実質的に支えていて、現実の社会・ビジネス・技術を知っているから即時全廃などという非現実的な考えには至らない。ごく一部、トンデモ系の理系の学者が、反原発を叫んでいるが、これは単に希少性を利用した売名行為にすぎない。


これらの例証として、2月に毎日新聞に掲載された反原発の意見広告を掲載した文化人などをあげています。そして、そのあげくが次の断定。

日本経済を支える上で、付加価値が高くない人(いなくてもかまわない人)が、反原発になるのだ。

おやおや、理数系、経済、法学系は付加価値が高いのですか。社会学者、芸能人、作家、マスコミ関係者、ジャーナリストなどが「文学部系」(虚業系)とする認識にもびっくりしてしまいますが・・・。思い込みというのはどうしようもないものですね。

続いて、この方は「なぜ文学部系が反原発に走るのか」を「論証」しています。
文学部系は、数理的にデータをあげて分析・論証する力もなく、ただ「感性」「好き嫌い」でものごとを判断するからだというのです。おまけに、「文学部系虚業家の特徴として、『実業系』(理工系、経済学系、法学系)に対する、反発・ヒガミが見え隠れする」とまでおっしゃる。
さらに、文学部系にとって反原発は「文学部系の存在価値を誇示するチャンス」「文学部的な議論を展開するには、都合の良いテーマで動機が不純」、「現実の経済・社会・技術のことを何も知らないまま、感覚と欲だけで動いている、恥ずかしい人達」だというのですから、言葉を失ってしまいます。
そして、「原発問題の正しい理解のために」として最後にあげている参考文献が、池田信夫「原発『危険神話』の崩壊」、藤沢数希「『反原発』の不都合な真実」・・・ああ、やっぱり。

データ、データと書かれるから、ちょっとおもしろいデータをお示ししましょう。言うまでもないことですが、私は「学歴」で人を判断しようとは思ってはいません。人を文学部系と非文学部系に分けて何かを判断しようとする愚かさを指摘するための単なる例証にすぎません。

まず今日の日本をこれほどまでにずたずたにしている政界、民主党の面々の一部です(敬称略)。

野田佳彦 早稲田大学政治経済学部
枝野幸男 東北大学法学部
前原誠司 京都大学法学部
岡田克也 東京大学法学部
菅直人 東京工業大学理学部
鳩山由紀夫 東京大学工学部

これらの人たちは実業家ではありませんが、出身は確かに法学か経済、理・工など。なるほど原発推進ですね。

政治家として対極の日本共産党はどうか。

不破哲三 東京大学理学部
志位和夫 東京大学工学部
市田忠義 立命館大学法学部
穀田恵二 立命館大学文学部
笠井亮 東京大学経済学部、農学部(中退)
吉井英勝 京都大学工学部

日本共産党は反原発を党是とする政党です。バランスがとれている。ところで、不破さん、志位さん、吉井さんなどはトンデモ理系なんでしょうかね。

このブロガーの言う実業系、技術系の人たちというのは企業の経営者であったり、ビジネスの「最先端で活躍する」人たちを言うのでしょうから、その経済的な基盤からして「反原発」とはなりえません。原発の「利益共同体」とはそのようなものなのです。こうした共同体に属さず、出身も米国ホーリー・ネームズ・カレッジからカリフォルニア大学バークレー校経済学部にすすんだ孫正義さんなどのような人はいち早く自然エネルギー財団を設立しメガソーラーにシフトしている。

私に言わせれば、上に掲げたようなデータですら無意味です。第一、虚業、実業などという分類自体すでに意味のない分け方ですし、文学部系が「付加価値」が低く、ただ「感性」「好き嫌い」でものごとを判断するなどという決めつけは全く根拠のない、悪趣味な思い込み、妄想にすぎません。よほどご自身の学歴や経歴に自信がおありなのでしょうか。まあ、ずっとそんなふうに見ていらっしゃったのでしょうね。
「文学部系」というなら、むしろ私は、生活実感を敏感にかぎ取ることができる人たち、被災地の人々に寄り添う人間力を持ち、他人への鋭く深い共感能力を備えている人たちだと言うでしょう。さらに言えば、このような能力に文系だ、理系だという分類自体意味を持ちません。
ある実業家が、経営を数値ではかり、正規労働者を非正規に置き換え企業成績を好転させたとして、その人の付加価値が高くなったというのでしょうか。この手の人たちこそ「いなくてもいい」部類に入るのではありません?ついでに、このブロガーの方も同様です。

反原発の主張を「感情論」「原理主義」だとし、「今回の原発事故で、低線量被曝による福島県民の健康に関しては何の心配もしていませんが、原発事故の処理にあたっている作業員の・・・」といいつつ原発の安全性を強調する藤沢氏。この種の人たちは、ふるさとを奪われ、家族のきずなをずたずたにされ、雇用を失い、途方に暮れる何千何万という人たちに対して、心を砕き、苦難に寄り添う「感性」だけはどうやら持ち合わせてはいらっしゃらないらしい。

文系・理系、人文・社会・自然などという出来合いのカテゴリーを取り払えば、私たちが学問において「論理」を発見・発明、または再解釈する行為は、思考による革新を行うという意味では同じなのです。
「知の論理」(東京大学出版会) 船曳健夫「論理に文系と理系のクラス分けはない」より




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